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書簡  作者: いちはつ
20/25

エリカ

フェリクスからの短い便りが届く少し前から、イリスの耳には日常が崩れる音がかすかに聞こえていた。これまで全国を飛び回っていた父の出張先は、奇妙なほど西や南に偏るようになっていた。東からの行商人が減り、市場の顔ぶれにわずかながら変化が見えた。物流の変化はやがて街の人々の不安を呼び起こし、戦の噂まで流れるようになった。

東が不穏だということは確かだったが、その原因ははっきりしなかった。隣国の民間人を我国の軍が攻撃したとか、商人に偽装した隣国のスパイが侵入を図ったとか、あやしげな事実がまことしやかに其処彼処の酒場で論じられているようだった。婦人たちは水汲みの合間に言葉を交わし、夫の仕入れてきた情報に愚痴と尾ひれを付けて広めた。それらは街から直接、あるいは使用人たちの口を介して、イリスの耳に入ってきた。


フェリクスからの短い便りが来てから、イリスの日常はさらに崩れていった。どことなく浮足立った街の空気に年端の行かぬ娘をさらすことを恐れてか、これまでイリスの行動に特段の制約をしなかった父も、イリスの外出に口を出すようになった。父の様子にこれまで見たことのない苛立ちを感じたイリスは、文句を言うこともなくそれに従った。今のイリスの世界は、伯父のタウンハウスと、タウンハウスの庭と、それから時折訪れる知人の館だけに限られていた。

殿下やアガタ様の招きに応じて彼らのもとに訪れることは許されたが、王宮の空気にもそこはかとない違和感が滲み出ていた。あれほど親しかったフェリクスが姿を消したというのに、殿下がその名を出すことはなかった。むしろ、意図的にその話を避けているようだった。王宮でその名前を出すのはもはやヨウムのキュイだけであった。それを聞くと殿下は露骨なまでに声を上げて笑い、アガタ様は困ったように口をつぐんだ。やがて、キュイの姿を見ることすら減っていった。

それと同時にイリスの足は王宮から遠のきがちになっていった。殿下の周りに増えた人たちは、イリスにとって知人とはなり得なかった。かすかに緊張した王宮の空気も相俟って、以前のようなくつろげる雰囲気は消え去っていた。


フェリクスがいない。


その事実はイリスの心に、イリスの小さな世界に、予想外の動揺をもたらした。



ほどなくして、イリスは王都のタウンハウスからシルウァ伯爵領に再び居を移した。それが父の望みだった。

伯爵領には不穏な噂はそれほど流れていないようで、昔と変わらぬ平穏ぶりを見せていた。だが、イリスは昔のようにあちこちを探検して回ろうとはしなかった。父が何かを懼れており、イリスが領主館でおとなしくしていることを望んでいると、気づいていたからだ。イリスの世界は、この長閑な伯爵領に在っても、領主館とその庭に限られていた。


イリスは毎日を四阿で過ごした。フェリクスがリュートをかき鳴らした、あの場所だ。香り高い薬草園にほど近いその周りに、園丁とその子の手を借りながら、イリスは自分の庭を造った。海辺の植物、王宮のバラ、ヒースの茂み。行く先々で入手し、度重なる引っ越しの間にも大切に保管してきた種をまき、苗を増えた。

根付かない植物も多かったが、ヒースから持ち込んだエリカはよく育ち、風が吹くたびに美しいさざ波を立てた。その様はかつて眺めた波打ち際を思い起こさせたから、母なる海のように、自分の庭にもたくさんの生きものがいてほしいと思った。イリスは領主館の庭をあちこちと歩き回り、虫やトカゲを探しては自分の小さな庭に連れてきた。蝶を増やすために、花を植えた。図鑑でイモムシの食草を調べては、蝶の道にそれを植えた。植物が多少食べられても気にならないくらい、イリスにとって生きものが増えるのは喜びだった。外に出られなくても、ここには一つの世界があった。


長い時間をかけて、少しずつ、イリスは自分の見てきた世界を庭に描いていった。


世界を見せるという約束をした人たちのために。



イリスの願いに反して、友人たちとの距離は遠ざかっていった。今や唯一の文通相手となったアガタ様とのやり取りからも、以前のような気軽さは消えていた。その文面は徐々に形式的なものとなり、やがて定型の文句を書き連ねた手紙さえ、来ることは少なくなっていった。イリスは何度も筆を執っては思案し、何かを書こうとしてはやめた。不穏の原因を知らぬままに王都を離れてしまったイリスには、何なら書いても良くて何を書いてはいけないのかがわからなかったのだ。そしてまた、返事が来ていないのに、緊急性のない手紙を一方的に何通も出すのは無礼だとも知っていた。手紙が入れ違ってしまう可能性もあった。だからイリスは、郵便を運ぶ馬の鈴を待ちわびた。そしてその音が遠く響くたび、かすかに期待して、かすかに絶望した。



イリスは毎日を四阿で過ごした。部屋にこもるのが怖かったのだ。王都からの手紙をしまい込んだ引き出しに、イリスはフェリクスに見せびらかそうと刺した手巾を重ねていった。そしてそれらはいつのまにか引き出しを埋め尽くした。イリスは手紙を見たくなかった。それを見ると、言いようのない寂寥が自分の心を侵すからだ。イリスには自分の心がわからなかった。なぜこんなにも寂しいのかわからなかった。月に一度や二度のやり取りがなくなっただけで、なぜ自分の心に空隙が開くのかがわからなかった。変わりゆく自分の心に向かい合うのが怖くて、イリスは自分が知っている世界に身を潜めようとした。イリスはできる限りの時間を庭で過ごした。そこには、自分が今までに知ってきた理屈で理解できるものしかいなかったから。

イリスの甲斐甲斐しい世話のもとに、庭は育っていった。自分の小さな世界が育っていく姿は、寂寥に圧し潰されそうなイリスの心を慰めた。


従兄や下の従姉は、暇さえあれば相変わらずイリスとともに庭を駆け回り、くだらないいたずらをして遊んでくれた。上の従姉たちは駆け回りこそしなかったが、イリスをお茶に誘っては選りすぐりの菓子を振る舞い、明るいおしゃべりに花を咲かせた。そんな様子を伯父夫婦は楽しげに眺め、両親から離れて暮らすイリスが寂しくならぬよう心を砕いてくれた。そして領主館の使用人たちもイリスに親切にしてくれた。特に師匠と仰ぐ園丁は、イリスの庭づくりに何くれとなく力を貸してくれた。イリスは弟弟子たる園丁の子と、咲かせた花の数を競った。その競争はイリスの庭にたくさんの花と笑顔を咲かせた。イリスはいつも、優しい人たちに囲まれていた。

だからイリスは幸せだった。


シルウァ伯爵領の領主館には、広く美しい庭があった。薬草園からは香り高い風が吹き、キープの屋上から眺める宵の空は相変わらず真っ青だった。冬になれば眩い銀世界が広がり、やがて雪に溶け込む白梅の香りが春を知らせた。昔のように外を出歩くことはできなかったけれど、領主館の中だけでもたくさんの生きものがいて、新たな発見をすることができた。時には園丁親子が外から珍しい植物や動物を持ってきてくれることもあった。イリスの庭はたくさんの生きものであふれた。イリスはいつも、大好きなものたちに囲まれていた。

だからイリスは幸せだった。


小さな世界の中で、エリカの海が立てるさざなみを眺めながら、イリスは幸せな時を過ごした。


季節が幾たびかめぐり、イリスは十五の声を聞いた。



フェリクスからの便りは、まだ来なかった。

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