アンズ
さて、この尺取虫は何をしたいのだろうか。
尺取虫はシャクガの幼虫である。なんでこの尺取虫が古巣のアンズの木を離れて旅に出たのかはわからないが、チョウやガの幼虫には決まった植物しか食べないものもいる。まだこの尺取虫が食べ足りないなら、古巣から離すのはかわいそうだ。
イリスは時間をかけて――時間はたっぷりあった――真剣に脳内で議論した。
そして、もとの木に返してあげるのが一番だ、という結論に至った。
イリスがさりげなくティーカップを動かしながら尺取虫をかばいながら思考をまとめている間に、お茶会を繰り広げる人の一群は庭を見に行くということになったらしい。それは大変魅力的なお知らせだったが、イリスには重大な任務があった。人がいなくなった隙にこの尺取虫を返してあげよう。そうすれば尺取虫の安全は保障される。そのあとに急いでおいかけて、庭を見に行く一行に合流しよう。
もっとも、イリスの短い脚で急いだところで、ほかの少女たちの普通に追いつけるかどうかは疑問だったが。
少女たちが笑いさざめきながら立ちあがり、イリスに背を向けた。護衛の目がそちらへ向いているのを確認して、イリスは布巾にそっと尺取虫をのせた。そしてアンズの木に向かう。
そこでイリスは誤算に気づいた。アンズの木は、生け垣の向こうにあったのだ。手を伸ばしてみても、アンズの枝にはもう少しのところで手が届かない。尺取虫をのせた布巾を足しても、届くか届かないかというところ。
「何をしているの、小さなレディ」
後ろから声がかかったのは、大きすぎる椅子に疲れた足で必死に背伸びを繰り返しても全く手が届かないという事実を突き付けられ、あきらめて生け垣に放してしまおうか、とやさぐれ始めていた時だった。
イリスがしとやかに、尺取虫を落とさないように首だけで振り向くと、剣を下げたベルトが目に入った。
「アンズの落とし物を、持ち主へ返そうとしているのですわ」
これ以上の体勢変化は不可能だと判断したイリスは、自分が思いつく限りもったいぶった優雅さで、ベルトに対して返答した。
「おやそれは大変だ。その大任、この騎士フェリクス・アルゲイフォンテスが引き受けよう」
ベルトが芝居がかった口調で述べると、イリスの手から布巾が離れた。それは楽々と、悔しいほどに易々とアンズの枝に添えられた。布巾から尺取虫がアンズに戻るのを見届けてほっと息をついたイリスは、今度はきちんとベルトに体を向けて淑女の礼をとった。
「ありがとうございます。助かりましたわ、サー」
「光栄です、レディ。……レディが困っているところを助けるのが騎士の仕事だからね」
そう述べたベルトが急に姿を消し、アッシュグレイの髪が目に入った。騎士の礼をとっても見えないと判断して、かがんでくれたらしい。
「お名前をうかがっても?」
「アルブスクラ子爵家のマルガリタ・イリスと申します」
ベルトから人間に昇格したベルトに尋ねられ、イリスは答えた。
「マルガリタ嬢は尺取虫が好きなの?」
「とっても、」
そう言いかけてイリスは思い直した。一つのものに強い執着を示すのは優雅じゃないと誰かが言っていた気がする。ノブレスオブリージュ、高貴であるためにはいつでも惜しみなく人に施せなければならないのだ。だから執着しちゃいけないのだ。できる自信はないけれど。
とりあえずイリスは言葉を変えた。
「割と好きですわ。とてもかわいらしいでしょう」
「めずらしいね。女の子はみんな虫が嫌いなのかと思っていた」
「そんなことありませんわ。いもむしの仲間はかわいらしいのよ」
「どのあたりが?」
そう問われてイリスはちょっとむっとしてベルトあらためアッシュグレイを睨みかけたが、その表情にあるのがからかいではなく好奇心であるのを見つけると、睨むのをやめて気品あふれると自分で思っている笑みを浮かべた。慈愛を込めて諭せば、イモムシ愛好仲間に引き込める気がしたのだ。
「いもむしの魅力は何といっても足ですわ」
「足?」
「ええ。足です」
イリスは語り始めた。好きなものの話をするのは好きなのだ。子供らしく話が行ったり来たりしながらも、彼女が主張したのは大体こんなことである。
チョウやガの幼虫であるイモムシには三種類の足がある。ひとつ目は体の前のほう、胸の部分にある三対の胸脚だ。細く節だっていて足そのものあまりかわいくはないが、よく見ると大人になったチョウの足と似ていて、逆に言うとチョウやガからかわいかったイモムシを思い起こすよすがとなる。またこの三対で葉を抱えて縁から食べる姿勢は実にかわいらしい。ふたつ目は真ん中らへんから後方にある腹脚、太くてむっちりしていて、のんびり動く様は見ていて飽きない。腹脚の数はイモムシの種類によって違っていて、四対のものが多いけれど、さっきのシャクガは一対しかないようだった。真ん中辺の腹脚がなくなったから、あの独特な動きになったのだろう。最後はお尻にある尾脚、ここで器用に枝葉をつかんでいるところを後ろから見るのが好きなのだ。
「それでね、葉から無理やりはがそうとするとこのおしりの足が吸盤になってなかなかとれないの」
いつの間にか猫がはがれたイリスは、いつの間にか二人の間に降りてきていた尺取虫を指さしながら熱弁をふるった。アッシュグレイは微笑みながら、興味津々といった体で、あるいは興味津々を装って、イリスを眺めている。
「だからとても好きなの……ですのよ」
自分の主張を述べ終わって満足したイリスは、一応自分がお茶会という場にいることを急に思い出した。そして慌てて語尾をそれらしく取り繕ってみたものの、すでに会話の内容も上気した頬も優雅なお茶会からは程遠い。
「へえ、」
お茶会にふさわしくないと思わなかったのか、思っても言わないだけの大人なのか、アッシュグレイは感心してみせた。
「面白いな。マルガリタ嬢は本当にいもむしが好きなんだね」
「ええ」
さきほど、とても、を、割と、に変えたことなどすっかり忘れてイリスはにっこりした。
「イモムシも、チョウも、それからトカゲもお花も、触って腫れないものはなんだって」
「お花も好きなのか。それじゃあ庭を見たいんじゃない?」
そう告げられて、イリスははっとした。周りの様子を気にしてみれば、きゃらきゃらとした少女たちの笑い声が近づいてくる。どうやら庭を見終わって、帰ってきたらしい。
「帰ってきちゃったね」
目に見えてしょんぼりとしたイリスの肩を、アッシュグレイは優しくたたいた。
「まあそうがっかりするなって。また機会はあるよ」
「そう……ですかしら……」
イリスは一応知っているのだ。気が合わないと判断されたら、イリスのようなそれほど身分の高くない令嬢は、お茶会に誘ってもらえなくなると。
ついさっきまで、お庭を見に行くなんて素敵なイベントがお茶会にあることに、全然気づいていなかった。尺取虫にとらわれずに退屈なおしゃべりをこなして、仲良くなって、お庭を見るチャンスを増やしておくべきだったのだ。今日はだいぶ団体行動を乱してしまった自覚がある。姉にもきっと叱られる。でももしかしたらイリスがついてきていなかったことに気づいていないかもしれない。イリスは小さいから、目に入りにくいのだ。その可能性に期待しよう。そうすれば怒られない。
「大丈夫だよ。俺から殿下に頼んどいてあげる」
殿下って誰だっけ、心の中で一瞬首を傾げかけて、はっと気づいた。あの一番偉そうな男の子だ。あの子に気に入られれば、またお茶会にもぐりこんでお庭観察ができるかもしれない!
「ありがとうございます、サー!」
イリスはパッと顔を輝かせた。現金なイリスの反応にアッシュグレイは苦笑する。
「フェリクスでいいよ」
「フェリクス、さま」
そうそう、とフェリクスは笑った。フェリクス様、とイリスはもう一度呼びかけた。
「私のことはイリスとお呼びくださいませ」
「イリス嬢?」
「ただのイリスでかまいませんわ。……そっちの名前のほうが好きなんですの。海のような色をしたお花の名前なんですって」
「イリスはほんとに生き物が好きなんだね」
「ええ!」
じゃあまたお話聞かせてね、イリス、と笑うフェリクスの瞳が海のような青灰色であるのに気づいて、イリスはうれしくなった。そして瞳の色なら人を判別できるかも、とこっそり意気込んだ。