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書簡  作者: いちはつ
18/25

ノイバラ

イリスの体調は一日一日と薄紙をはぐように快復へ向かった。やがてすっかり体調を取り戻したイリスは、しばしシルウァ伯爵領をはなれて王都のタウンハウスに居を移した。

タウンハウスはここ最近大騒ぎであった。姉の社交界デビューが近いのである。母も姉も、ついでに使用人一同も、果物売りの手押し車をひっくり返したような騒ぎだった。


イリスはその日も、変な気分でタウンハウスの騒ぎを見ていた。

姉のデビューに備えて装飾品一式をそろえるとかで、朝からどこかの行商人が客間で文字通り店を広げているのだ。


一週間ほど前にはドレスをこしらえると言ってそこらじゅうに布が繰り広げられ、片っ端から姉にあてられていた。ついでにイリスも呼び出され、布でぐるぐる巻きにされた。なぜかというと、最近の風潮では、デビュタントのドレス、特に一番外側のガウンの布地は少しばかり奮発するのがふつうだからである。子爵家は貧乏なわけではないが、一度きりしか着ないくせに高級なデビュタントのガウンを姉妹すべてにあつらえられるほど裕福なわけではない。よってイリスのデビューの際には内側のペティコートだけを新調して、ガウンは姉の着たものを仕立て直す、ということになったのである。

しかしそれには相当な譲歩が必要だ、とイリスも姉もわかっていた。姉は桃色や橙色など暖色系を好んで着用する。けれどもイリスの装いは青色でなければならない。一人が気に入る布地にはもう一人が納得せず、よしんば気に入ったとしても似合わなかった。二人がうなずき、なおかつ審判者たる母が納得する布地を選定するころには日はとっぷりと暮れ、イリスの空腹は限界だった。


同じことが装飾品でも起こるのか、とイリスはげんなりしていた。イリスとて、きれいなものが嫌いなわけではない。好きに選んで良いとか、あるいは選ぶ必要がなく眺めるだけだったら存分に楽しんだだろう。しかし、選択の時は迫っている。今日中に選ばねばならぬのだ。

デビュー目前の姉と違い、イリスは装飾品の選定に対してそれほど熱中できなかった。自分がデビューするのは遠い未来に思えたし、自分がどれだけ長い手足を得ているかも想像できなかった。この間の布地は何とか着地点を見出したからよかったものの、今回もそうなるとは限らない。夕刻まで紛糾したならば、空腹により正常な思考能力を失って変なものに決めてしまうかもしれない。何より、今広げられている行商人の装飾品にイリスの気を引くような青色がない。


というわけですっかり戦意を喪失したイリスは、仮縫いのドレスの前で盛り上がる姉や母を冷めた目で眺め、姉と母が気に入った装飾品を気に入ったふりをして、さっさと本日の大騒ぎを終わらせることにしたのである。

幸いなことに、姉と母の気に入る装飾品は比較的早くに見つかった。とはいえ二時間ほどはドレスに合わせて色の組み合わせを論じたり、胸元にあてて肌色の映え具合を見たりと大騒ぎが繰り広げられたのだが。それでも騒ぎが昼前に収まり、ゆったりと昼食をとれることにイリスは心から感謝した。午後からフェリクスが来訪する予定になっていたから、昼食の時間を後ろにずらすわけにはいかなかったのである。



イリスが王都に帰ってきてから、フェリクスは子爵家一家が住まうタウンハウスにちょくちょく顔を出すようになっていた。従姉たちが王都に滞在する間に、フェリクスがシルウァ伯爵領に2回も訪れたという話を伝えたこともあり、フェリクスがイリスの親友であることはイリスの母や姉にもすっかり知れ渡っていた。そしてそのこと、どちらかというとフェリクスがイリスの親友であるということよりも頻繁にタウンハウスを訪れること、は姉や母を甚く喜ばせているようであった。



「まあフェリクス様、よくおこしくださいました」


午前中の大騒ぎなどなかったような優雅さを装った母は、館の女主人として、王宮に出仕している主人に代わり、にこやかにフェリクスを迎えた。そして隣に控えるイリスの姉をそっと前に押し出した。イリスの姉は頬を染め、うつむきがちに膝を折った。


「今年、この子がデビュタントですのよ。再来週、侯爵家で開催される舞踏会でデビューする予定ですの。フェリクス様はいらっしゃるのかしら?」

「ええ、殿下がお出かけになりますから、その付き添いで」

「まあ。でしたら、一曲この子のお相手いただけないかしら。この子ったら、誰からも誘っていただけないのでは、とずっと不安げにしていますの」


それに応じてイリスの姉は初々しい、気恥ずかしげな笑みを浮かべた。フェリクスは苦笑しつつ、ええ、とうなずいた。


イリスはその様子をぼんやりと眺めていた。頭に浮かんでいたのは、従姉たちの噂話である。お年頃またはお年頃になりつつある従姉たちの噂話の中心は、イリスの知らぬ社交界のロマンスであった。すでにデビューを済ませた上の従姉たちはいつも、どこそこの貴公子が話しかけてくれただの、誰と誰が婚約しただのという噂話をしていた。そしてその中に、フェリクスの名が出てくることもあったのである。従姉たちの口から聞く噂話には、イリスの知らぬフェリクスの姿があった。そしてその噂話は、令嬢たちの結婚相手候補者リストにフェリクスの名が連ねられているという事実を、否応なしに突きつけた。


姉は恥じらいながら、フェリクスは穏やかな表情で、いくつかの言葉を交わしている。その光景から、イリスはフェリクスと姉が結婚するという未来があるのかもしれない、ということに気が付いた。そしてその想像は、イリスの小さな胸をかすかにきゅっと苦しめた。

姉がフェリクスと結婚したら、兄みたいなフェリクスが本当に兄になる。それは楽しいことかもしれないじゃないか。そうイリスは考えた。それなのに、なんだかいやだな、という思いが心の底から浮かんでくる。なぜそう思うのか、イリスには自分の心がよくわからなかった。わからなかったからもっと考えた。そして何とか理屈を見つけた。フェリクスは兄みたいだけれど兄じゃない。大親友だ。だから実際に兄になってもうれしくないんだ。イリスはそう考えて、自分を納得させた。



「私がデビュタントになる時にも、踊ってくださいますよね?」


フェリクスの腕を引いてタウンハウスの庭に出たイリスは、フェリクスを見上げて問いかけた。君の背がもう少し伸びたらね、とフェリクスは目を細めた。フェリクスの望み通り、小さかったイリスはあいかわらず小さかった。フェリクスの背が伸びた分だけ出会った頃より開いた身長差は、まだ縮んでいなかった。

それに対してイリスは憤然と背筋を伸ばし、フェリクスを睨みつけた。もやもやした気持ちをほんの少し、胸に隠しながら。


「私、意外とダンスは得意ですのよ」

「なら試してみるかい?」


そう言って笑ったフェリクスは、一礼して手を差し伸べた。イリスはスカートをつまんで優雅な一礼を返すと、澄ました顔をしてその小さい背をできる限り伸ばし、フェリクスの手をとった。ノイバラに囲まれた庭の小さな広場で、フェリクスが一、二、三とリズムを口遊む。そのリズムに合わせて、イリスは大きく一歩、ワルツのステップを踏んだ。

歩幅の全く違う二人のワルツは、楽なものではない。上半身にしたって、身長差のせいでほとんど手をつないでいるようなものだ。それでも、しゃんと背を伸ばしてリズム通りにステップを踏むイリスに、フェリクスは優しく微笑みかけた。


「本当だ、上手だね。今まで踊ったどんな令嬢にもひけをとらないよ」


ああ、まただ。イリスは思った。フェリクスがほかの令嬢のことを口に出すのを聞いて、フェリクスと姉の結婚を想像したときのような嫌な感じが、イリスの胸を襲った。イリスの知らないフェリクスの姿を、ほかの令嬢が知っている。イリスの中のもやもやは大きくなっていった。


「きっと君のデビューの時には、たくさんの貴公子が君と踊りたがるだろうね」

「いいえ」


イリスは胸の中のもやもやを打ち消すように、強く言った。


「私、そんなにたくさんの人たちと踊りたいわけではありませんわ」


そう、舞踏会や夜会そのものには興味はない。舞踏会でたくさんの貴公子に囲まれることにも興味はない。だいたい、イリスは人の顔を覚えるのが苦手だ。だからたくさんの貴公子にダンスを申し込まれたとしても、誰が誰やら分からなくなるのが落ちだ。だから殿下とは踊っても良いけれど、ほかの人はどうでも良い。ダンスが好きとは言っても、誰とでも踊りたいわけではない。一緒に踊るのが楽しいのは、大親友だけなのだ。


「フェリクス様と踊りたいの。だから、私のデビューの時には、一緒に踊ってくださいませね」

「もちろん。小さな親友のお望みとあらば」


フェリクスはにっこりと笑った。

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