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都の貴人の来訪に、シルウァ伯爵家は浮き立っていた。
従姉たちは余所行きのように着飾り、こぞってフェリクスにあいさつに現れた。シルウァ伯爵は楽し気に狩猟を企画し、アルブスクラ子爵は控えめに試験農園の案内を申し出た。
そして数日の滞在の間、毎日のように晩餐会が開かれた。もっとも、小さな友人に会いに来たのだから仰々しい夜会はやめてくれというフェリクスの要望に応えて、一族だけの食事会ではあった。それでもいつもより少し豪華なメニューを、イリスは満喫していた。いつもの食事も、十分楽しんでいるのだが。
いつも楽しく生きているイリスにとってもいつも以上に楽しい日々はあっという間に過ぎ、フェリクスの滞在は最終日を迎えていた。この日も一日、イリスはフェリクスとともに過ごした。フェリクスが連れてきた鹿毛に乗せてもらい、少しばかり領地をめぐって花の名所を探した。父の試験農園を訪れて、自分が手伝って種をまいた穀物の芽を自慢げに見せびらかした。豪華な晩餐に舌鼓を打ち、食後のアップルパイと香り高い紅茶を楽しんだ。そして、最後の夜を惜しむように、屋上でひと時を過ごしていた。
この領主館で最も高い建物であるキープの屋上は、イリスのお気に入りの場所だ。晴れた宵にはよく、こっそりと寝室を抜け出し、主寝室と貴賓室の間を抜けてキープの屋上でひと時を過ごす。きっと見晴らしもよいのだろうが、イリスの背は凸凹した狭間胸壁の低いところからやっと顔が出るくらいだから、景色はあまり楽しめない。イリスはこの場所を専ら天体観察のために用いていた。流星群も、天の川も、遮るもののないこの場所からはよく見えた。
青い青い空に、月が昇り始めていた。
イリスはこの時間帯が好きだった。日が沈み、夜の闇が包む前のひととき。空は昼よりも深い青に染まる。空だけではない。風も空気もすべて青に沈み込む。世界すべてが大好きな青に包まれるから、幸せな時間なのだ。
「吸血鬼でも出そうな晩だね」
イリスが青に包まれた幸福感に浸っていると、森から吹く風を楽しんでいたフェリクスがふと月を見上げてつぶやいた。イリスはちょっとむっとした。レディと一緒にいるのだから、そこは月がきれいですねとかなんとか言うべきなんじゃないかと思ったのだ。でもすぐに、フェリクスは親友だからまあいいや、と思い直した。姉や従姉から聞く、レディに対する理想的な賛辞の数々を、フェリクスの口から聞くのはちょっと変な感じがしたのだ。
「吸血鬼が出たら、イリスみたいに小さな女の子はあっという間にさらわれちゃうよ、きっと」
からかうように言って、フェリクスはいたずらっ子のような表情でイリスの顔を覗き込んだ。
「怖い?」
「怖くありませんわ」
イリスは憤然とフェリクスの長身を見上げた。フェリクスは狭間胸壁の高いところに肘をついて、面白そうにイリスを見下ろした。イリスは胸を張って、できるだけ重々しく堂々と偉そうな口調を心がけながら言った。
「世の中には、もっと怖い、血を吸ういきものがいますもの」
「コウモリとか?」
「ここのあたりのコウモリは血を吸いませんから、違います」
「じゃあなんだろう」
「蚊ですわ」
イリスはふふ、と笑って答えると、小さな腕の一か所を指し示して見せた。そして言ってから後悔した。虫刺されの存在を思い出して、かゆみがぶり返してきたのだ。すっかり忘れていたのに、フェリクスが吸血鬼なんて言うからだ。
イリスが責任をこっそり転嫁しているなどつゆ知らず、フェリクスはしゃがみこんでその腕をとって検めた。そして子供らしくすべらかなイリスの腕に小さな赤い腫れを認めると、軽く眉をひそめた。
「いつ、かまれたんだろう」
「わかりませんわ。お昼にはありませんでしたから、お父様のところを訪れた時かしら。それとも、館の中に入りこんできたのかしら。フェリクス様は大丈夫でして?」
うなずきを返すフェリクスに、イリスは、ずっと一緒にいましたのに私だけですのね、と拗ねて見せた。
「たぶん蚊には、俺の固い腕よりイリスのやわらかな腕のほうがおいしそうに見えるんだろうね」
「そうなのかしら。私、いつもそうですの。蚊に好かれているみたいですわ。ですが全然うれしくありません」
「そうか。じゃあ、蚊の片思いなわけだ」
「ええ。たいがいの虫は好きですけれど、蚊を見つけたら思い切り叩きたくなりますわ」
そう言ってイリスは、にくい敵が目の前にいるように、眉を吊り上げて空を睨みつけた。
「病気を運ぶこともあると言いますし、本当にいるのかどうかもわからない吸血鬼より、目の前の蚊のほうが私にとってはよっぽど怖い存在ですわ」
それはそうだ、とフェリクスは言いながらイリスの腕を離すと、立ち上がってまた遠くへと目をやった。どこからともなく吹く風が、この高い場所にも若草の香りを届けて去っていった。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
フェリクスが小さく口遊む。そして、ああ、と声を上げた。
「ハーブなんか、良いんじゃない」
「ハーブ?」
「君のお父上のほうが詳しいだろうけど。水薄荷とか、虫よけになる草があるって聞いたことがある」
それを聞いてイリスも何かに思い至ったように、声を上げる。
「そういえば、薬草園にいるときにはあまりかまれませんわ」
ポプリでも作って持ち歩いたら良いかしら、とイリスは早くもわくわくした様子だ。手を動かすのが好きなイリスにとって、何かを作る計画を立てるのは何よりの喜びなのだ。ローズマリーなら簡単ね、ラベンダーの花はもうそろそろだわ、良い布があったかしら、とあっという間に計画を立てる。そしてフェリクスを見上げると、満面の笑みで礼を述べた。
「ありがとう、フェリクス様。悩みが一つ減った気がいたしますわ。何かい良い蚊よけができたら、フェリクス様にも差し上げますわね」
そう言うイリスの髪を、フェリクスはくしゃりとかき混ぜた。
伝えておくれ、四反の地を見つけてと
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
わたつみ満ち引く波の間に
さすればかの人にわが愛を捧げましょう
無理というならこう答えましょう
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
せめて試すだけでもしておくれ
さもなくば決して恋人にはなれない
青い青い空気にフェリクスのやわらかな声が溶けて、晩春の夜は更けていく。イリスは虫刺されのことなどすっかり忘れて、ラベンダーが花盛りになったらポプリづくりの計画をはじめようと、胸を躍らせた。
次の日、フェリクスは鹿毛を駆って王都へ帰っていった。
度重なる引っ越しに慣れていたイリスにとって、別れはそれほど辛いものではなかった。イリスは、心から望めば自分は世界各地を身軽に回れるのだと信じていた。すくなくとも、今まではそうであった。時折大人の事情で望みがかなわないこともあったが、自分が大人になればそんなしがらみから離れて、より一層身軽に動けるものだと信じていた。だからイリスの未来は明るかった。
何より、親友との間には手紙という手段があった。ずっと一緒にいられなくても、互いに思いやれるのが親友なのだ。イリスはフェリクスに、たくさんお手紙をすると約束をした。庭のこと、図鑑のこと、ポプリのこと、ハンケチのこと、リュートのこと、面白いことは、きっと伝えます、と。
フェリクスは嬉しそうに笑ってイリスの頭を撫でた。