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書簡  作者: いちはつ
13/25

ローズマリー

10歳になって間もなくの春を、イリスは伯父のシルウァ伯爵領で過ごしていた。

父はここのところ、手に入れた新しい種類の野菜の土の適性や収穫量を、温暖な気候のシルウァ伯爵領で試験する、という仕事をしているのだそうだ。よって年単位の長い時間、こちらに滞在することになる、と見込んでいた。

だからイリスも長丁場に備えて、時間のかかる趣味を作ることにしていた。たとえば庭に隠れ家を作るとか、フェリクスに贈るハンカチに刺すためにとっておきの図案を考えるとか。



最近、イリスは新しい趣味を見つけた。リュートを弾くことだ。ちょっとした伝手で、リュートを手に入れたのである。


イリスは伯爵領に来てからも、王都にいたころと同様、領主館の園丁の後をちょろちょろとついて回っていた。庭木の手入れを手伝ったり、種まきをしているうちに、園丁の子とも仲良くなった。園丁は師匠のようなものだから、園丁の手伝いをしているその子は同じ師匠の下の門下生のようなものである。つまり弟弟子みたいなものである。

ある日のこと、イリスは弟弟子がリュートをかき鳴らしているのを見かけた。きちんとした教育を受けたわけではない、つたない演奏ではあったが、なんとなくその音に心を揺さぶられた。というと聞こえは良いが、実際のところリュートを斜めに構えてかき鳴らす姿の優雅さがイリスのノブリスオブリージュ精神をくすぐったのである。

そのリュートはどうしたのかと尋ねれば、街のはずれに打ち捨てられていたのを拾ったのだという。弟弟子はイリスにも弾かせてくれた。少しばかり音楽の心得があるイリスは、小さく音階を弾いてみて、たちまち夢中になった。


それ以来、リュートの音が聞こえるたびにイリスは弟弟子を探して回った。そして時々は貸してもらった。そのものほしげな姿に呆れたのか、はたまた園丁である父に何か言われたのか、弟弟子はある日突然、やる、とイリスにリュートを突き出した。あたらしいおもちゃを見つけたから、と言うのだ。それが照れ隠しなのか本心なのかはわからなかったが、イリスは喜んだ。そのお礼として秘蔵のお菓子を渡し、さらにイリスの宝物箱から一つ好きなものを選んでもらった。

なお、宝物箱に詰まった海の貝殻や石ころと言った夢のかたまりは、田園育ちの弟弟子をいたく羨ましがらせた。そして手に入れた貝がらを大切に飾っていることを、イリスは知っている。お互いに喜んだのだから、公正な取引である。


そんな次第で手に入れたリュートである。何ら後ろ暗いことはない。

しかし、イリスはそのリュートを四阿の裏の茂みに隠していた。捨てられていたリュートを使用人からもらって弾いているなんて貴族らしくない、と従姉たちに言われるのを案じてのことだ。もっとも、園丁の子はただの使用人というよりは志を同じくする弟弟子であったから恥じることはない。さらに、イリスの信奉するたぶん誤用のノブレスオブリージュの精神からすると、誰からもらおうと物は大切に扱うべきなのだが。



リュートを手に入れたとはいえ、その弾き方を知っているわけではない。一応貴族令嬢のたしなみとして音楽に親しんではきている。音はわかる。楽器の演奏も練習したことがある。だが、まともに演奏したことがあるのは単音楽器のリコーダーだけだ。チェンバロやピアノ・エ・フォルテのような大型楽器は、引っ越しに邪魔になるから、と子爵家には敬遠されてきたし、伯父のタウンハウスや領主館にはあっても遊び程度にしか触れたことがない。だから和音というものが今一つ理解できないのだ。

園丁の子供が言っていたところによると、リュートとはぽろろんと優雅にかき鳴らすものらしい。しかし、イリスのリコーダーの知識によると、楽器とは旋律の音を一つずつ順に鳴らすものだ。だからイリスはそうやって演奏する。きっとイリスの演奏はリュート弾きのそれとは程遠いのだろう。それでも、街で聞いた少し古い流行歌の音を一つずつたどっているだけで、なんとなく昔話の貴婦人になったような気分になれるのである。



今日も今日とてイリスは昼食を終えると四阿の裏の茂みからリュートを引っ張り出した。今日の夕方、フェリクスが訪れるというから、一曲披露しようと考えているのだ。未熟な演奏を人に聞かせるのは気が進まなかったから、これまでは師匠と弟弟子の前でしか演奏しなかったのだが、大親友であるフェリクスには自分の楽しみを伝えたいのだ。

フェリクスは音楽が好きだろうか。フェリクスは自分より年上なのだから、今練習している一昔前の流行歌も知っているだろう。そしたら、一緒に歌ってくれるだろうか。

そんなことを思いながら、ぽろん、ぽろんと音を追いかけるうちに、いつしか時を忘れた。



「昼まではあなたの来訪を楽しみにして、そわそわしていたのですが」

「今はどこかへ消えてしまった、と」


ええ、と言ってアルブスクラ子爵は眉を下げた。約束通りのお茶時にシルウァ伯爵領を訪れたフェリクスは、その答えを聞いて、あの子らしい、と笑いをこぼした。


「庭園にお邪魔しても?」


長い付き合いである。部屋にいないのなら庭だろうと、すぐに予測がついた。子爵の了承を取り付けて、フェリクスは領主館の広い庭園に足を進めた。


館の前の整形園を抜けると、ハーブの生い茂る薬草園が広がる。ローズマリーの茂みの中でフェリクスは足を止めた。薬草園の向こうから風が吹いて、草の香りとともにつたないリュートと少女の澄んだ声を運んできたのだ。


 緑の袖はわが喜び、

 緑の袖はわが楽しみ、

 緑の袖はわが魂だった

 私の心を占める、緑の袖の君は


フェリクスは笑みを深めて、足を進めた。その裾が触れるたび、青い小花を付けた茂みが過ぎがてに揺れた。


「ここにいたのか、青い袖の君」


屋根からしだれかかるつるバラを持ち上げて、フェリクスは四阿の中を覗き込んだ。小さな少女は驚いたように顔を上げた。


「まあフェリクス様。お早いおつきでしたのね」

「おや、もう少しゆっくり来たほうが良かったかな」

「そんなことありませんわ」


ちょうどフェリクスに披露する曲のリハーサルをしていたところだったから、本音を言うと少し早すぎたのだが、イリスはそんなこと曖にも出さず、にっこりとわらった。親友との再会である。早いほうが良いじゃないか。


「またお会いできてうれしいですわ。ようこそシルウァ伯爵領へ……私も居候の身ですから偉そうにはできないのですが」

「こちらこそ、相変わらず元気そうでよかった」


二言三言、定型の挨拶を交わしてから、フェリクスはイリスの手元のリュートに目をやった。


「イリスもリュートを弾くんだね」

「普段はリコーダーしか吹きませんわ。このリュートはつい先だって、ちょっとした伝手で手に入れましたの。フェリクス様もお弾きになるの?」

「最近はあまり弾いていないけれどね」


まあそれでしたらお弾きくださいな、そう言ってイリスはリュートを差し出した。フェリクスは少しかがんでリュートをとると、ぽんぽんと弦を鳴らして調子を合わせた。慣れた手つきでリュートを扱う様子を、イリスは興味深そうに、目を輝かして見つめた。


「それでは再会を祝して」


再会にふさわしい歌ではないかもしれないけれど、と言いおいてフェリクスはリュートをかき鳴らした。



 伝えておくれ、亜麻の上衣を作ってと

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 縫い目なく、細かな針仕事なく

 さすればかの君にわが愛を捧げましょう


 伝えておくれ、彼の茨で上衣を乾かせと

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 アダムうまれし日より花の咲かぬ茨に

 さすればかの君にわが愛を捧げましょう



やわらかなバリトンが五月晴れの空に立ち上り、薬草園を吹き渡る風に運ばれていった。

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