ウマ
イリスがそろそろ帰ろうか、という頃合いになって、殿下が離宮へ行こうと言い出した。
もう帰る時間だとイリスが言えば、今日じゃない、という。明後日あたり時間がとれそうだから、天気が良かったらちょっと馬に乗って離宮まで行ってこよう、というのだ。離宮に行くことについて、もちろんイリスに否やはない。離宮といえば庭、庭と言えば植物、イリスの好物である。
ただ、問題が一つある。
「イリスは馬に」
「乗れませんわ」
しょんぼりといったイリスを見て、フェリクスがそうだろうね、と噴き出した。それに対して、イリスは憤然とした。そうだろうね、とは何たることだ。レディがしょんぼりしているのだ。笑うとは何事だ。さっき叱ったばかりじゃないか。大きな図体をして何を学んでいるのか。イリスはキッと強いまなざしでフェリクスを睨みつけ、威勢よく決意を表明した。
「いまはちょっと、……だいぶ鐙に足が届きませんけれど、いつかフェリクス様より大きくなって颯爽と遠乗りに行って見せるんですわ」
それを聞いたフェリクスはさらに失礼なことに大笑いを始めた。フェリクスはもはや互いが認める大親友だけど、身長に関しては好きになれない、とイリスは思った。
翌々日は良いお天気だった。天気によらず、とりあえず朝のうちに王宮においで、という言葉に従って王宮を訪れたイリスは、客間女中の案内でフェリクスが待つという厩舎へ向かった。
すでに数頭の馬が洗い場に引き出されていて、馬丁とともにフェリクスが馬の手入れをしていた。
「ほら、こいつが俺の馬だよ」
フェリクスは一頭の鹿毛の蹄の確認を終え、ブラシをかけているところだった。後ろに回っちゃだめだよ、馬がびっくりして蹴るからね、と言うフェリクスの横にイリスは立って、鹿毛を見上げた。
フェリクスに加えて私まで乗せて歩きにくくないかしら、とイリスが馬を気遣えば、鹿毛は鼻を鳴らした。
「こんな小さなレディを乗せてどうにかなるほど柔じゃないって言っているよ。たぶん」
「まあ言葉がわかるんですの?」
「たぶんね」
フェリクスはぽんぽんと鹿毛の首をたたくと、手際よく鞍をのせて締めていく。となりの馬丁は女性用の横鞍をつけているから、きっとアガタ様もいらっしゃるのだろう。
フェリクスのことを信用しているのだろう、鼻梁を抱えて無口を外し、頭絡をかける間も鹿毛はおとなしくされるがままだった。
準備が整ったころ、予想通り殿下とアガタ様が現れた。そのほかにも、殿下の護衛数人とアガタ様の侍女一人が同行するようだ。
一行が騎乗準備をするのに合わせて、フェリクスは洗い場から馬を引き出すと、イリスを鞍の上に横座りに乗せ、その後ろにひらりとまたがった。
全員が騎乗したのを見計らって軽く馬腹を蹴ると、馬はおっとりと歩き始めた。
「駈歩は難しいかな」
「まあ、わたくし振り落とされたりしませんわ」
「それは大丈夫だろうけど、慣れないとお尻が痛くなっちゃうかもしれないから」
フェリクスはそう笑うと、俺たちにかまわず先へ、と殿下に声をかけた。殿下は笑って手を振った。
城の横手の門を出て、街の外壁を抜け、石畳の街道が土の道に変わったころ、殿下の声を合図に一同はそろって駈歩を始めた。フェリクスは気にせずのんびりと鹿毛を歩かせる。
周りは石造りの街並みからのどかな田園風景に移り変わっている。
道の左手には小川が流れ、陽光が水面で遊んでいる。川べの草花に蝶が数頭、ひらひらと戯れかかる。木々の梢はたのしげにさやぎ、小さな鳥がさえずっては枝を渡る。
時折吹きそよぐ初夏の柔らかな風にイリスは目を細めた。
「気持ちが良いものですわね」
「そうだね。駆けさせるのも良いけれど、こうやってのんびり歩くのもたまには良いもんだ」
「気持ちが良すぎて、眠ってしまいそうですわ」
「それは俺の腕を信頼してくれているってことかな」
「ええ、きっとフェリクス様は小さな親友を地面に落としたりはしないでしょう」
そうだね、とフェリクスは笑う。それに答えるかのように鹿毛が鼻を鳴らした。
「このままだと俺も寝ちゃいそうだ。少し駆けてみようか」
それを聞いてイリスが顔を引き締めるのを見て、フェリクスは少し笑ってしっかりつかまっておいで、とイリスを抱き寄せた。イリスは片腕をフェリクスの腰に回し、もう片方の腕でフェリクスの上衣の胸のあたりをきゅっとつかんだ。舌をかまないように口を閉じておいでね、と声をかけると、フェリクスは馬腹を蹴った。
心得たように鹿毛が駆け始める。
はじめは体を固くしていたイリスも、そろそろと緊張を解いていった。予想外にゆったりした馬の動きと裏腹に、周りに目をやれば風景が驚くほど速く過ぎ去っていく。
駈歩を始めてからはあっという間に、離宮の城門まで到着した。
「こわくなかった?」
離宮の厩舎に着き、おもむろに馬をとめながらフェリクスは尋ねた。
「全然こわくありませんでしたわ。大きい馬は初めてでしたけれど、思ったよりずっと安定していましたし」
「そうか、よかったな」
そう言ってフェリクスは鹿毛の首をぽんぽんと叩いてねぎらう。その真似をしようと小さな腕を伸ばしながら、イリスは続けた。
「それに、フェリクス様が一緒でしたから安心でしたわ」
そりゃよかった、と言ってフェリクスは今度はイリスの頭をぽんぽんと撫でた。
その手が心地よかったので、一昨日身長を笑ったことは許してやろう、とイリスは思った。
フェリクスに手を引かれ、イリスは念願の離宮の庭に足を踏み入れた。
王宮にあるような荘厳な整形庭園ではなく、風景式庭園だ。館の前の広い芝生を抜けると、湖が眼前に広がる。アーチの美しい石橋から湖を望めば、スイレンの葉がいくつか固まって浮いているのが見える。橋を渡ると広葉樹に囲まれたなだらかなのぼり道になり、新緑の柔らかな重なりの向こうに、八角形のガゼボや廃墟を模したフォリーが見え隠れする。その中の一つ、ツタの這う石壁の小さなアーチをくぐって、イリスは思わず歓声を上げた。
色彩が突然森から花畑へと移ったのである。
フランス菊が白い頭を揺らす足元にはワスレナグサが青色を散らし、街中ではあまり目にしないイヌバラが野性的な茂みを作っている。花々が折り重なって咲き誇る向こうには、ブドウのつるを這わせたパーゴラが見える。とっくに到着していたのであろう殿下やアガタ様たちは、パーゴラの下にしつらえられた席でのんびりとお茶を楽しんでいるようであった。
イリスたちに気づいて、殿下たち一行は破顔した。
「天気が良いからこちらで昼食を、と思ってね。そろそろ良い時間だが、おなかはすいているかい」
「ぺこぺこですわ!」
殿下からかけられた言葉に、イリスは笑顔で答えた。お外で昼食だなんて、なんて素敵なアイディアだろう。そろそろ殿下の格付けを、教え諭すべきあわれな弟子から友達に引き上げるべきかもしれない。
昼食の後も、イリスはフェリクスを連れて、あるいはフェリクスに連れられて、喜々として庭園を散策して回った。フォリーの裏には先ほどのような花畑があることもあったし、ないこともあった。離宮の中には、王国各地の風景を模した小さな庭園が点在している。それをめぐり、父が持ち帰った植物を見つけるたび、イリスはすてきな気分になった。
森の中ののぼり道をのぼり切ると、一番高いところには展望台が設えられていた。
「おや、殿下たちは船遊びを始めたみたいだね」
「まあそうですの。私からは見えませんわ」
フェリクスが館や湖の方角を望んで言うのを聞いて、イリスは必死に背伸びする。しかし、目の前の植え込みとほぼ同じ大きさのイリスからは見えそうもない。その様子をフェリクスは面白そうに眺めていたが、見えないことが分かったイリスがしょんぼりする前に、実は展望台の上にも上がれるんだよ、とイリスの手を引いた。
展望台の階段を上ると、小さなスペースがある。そこの欄干は幸いにも格子状になっていたので、その隙間からイリスは湖を見下ろした。
「本当ですわ!船がたくさん。手を振ったら見えるかしら……でもこの欄干、高すぎますわ……」
イリスは恨めし気に自分より大きい欄干を見つめた。フェリクスは笑いながらイリスを抱き上げた。イリスは思わず展望台を見下ろし、その高さに身をすくめてフェリクスの首にしがみついた。フェリクスは大丈夫だよ、というようにイリスをかかえる腕に力を入れた。
「ほら、殿下たちが気付いたようだ。手を振ってごらん」
イリスはフェリクスの首に回した腕を片方、恐る恐るほどいた。そして手を振ってみる。最初は小さく、そして大きく。
船遊びを楽しんでいるであろう一同も、こちらに手を振り返してくれた。
初夏の日差しのまぶしさと丘を吹き渡る風の心地よさ、そしてフェリクスに抱えられた安心感に、イリスはすっかり幸せな気持ちで手を振り続けた。
夏から秋の数か月を王都ですごしたのち、父に再び長期出張の辞令が出た。海べをはじめいくつかの箇所で集めた植物の栽培実験を、穏やかな気候の伯父の領地で行うことになったのだ。
イリスは殿下と、アガタ様と、知人に昇格した幾人かの貴族令嬢たちと、それからフェリクスにしばしの別れを告げ、意気揚々と旅路に就いた。