シャクトリムシ
イリスは今、真っ白なテーブルクロスに注目している。
正確に言うと、真っ白なテーブルクロスの上の茶色い尺取虫に注目している。
なぜかというと、これが周りの少女らに見つかったら悲鳴をあげられるだろうし、それはきっとうるさいだろうし、そんなことになったら使用人が慌ててこれをつぶすだろうからだ。
イリスは尺取虫が好きだった。小さくてかわいくてむにむにしたうしろ足を持っている。だからつぶされるのはかわいそうだと思った。
幸いなことに、少女たちは上座の少年に意識をとられていて、一番年下で一番身分の低いイリスは一番下座にいた。うまいことテーブルウェアの陰にいれば、見つかりはしないだろう。そこでイリスは、尺取虫が動くたびにティーカップをずらして、隠してやっていた。
つい先ほどまで、イリスは猛烈に後悔していた。何をかというと、父の仕事についていかなかったことをである。ついていけば、こんな退屈なお茶会になんて参加しなくてすんだろうに。
父は王立植物園の副園長だ。
この植物園というのは薬草園でもあり、農業試験場でもあり、植物にまつわるあらゆる悩みに答えるところである。そして副園長というのは園長の気まぐれに付き合わされる職である。なぜならほかの職員は植物園の世話や維持に忙しく、園長の気まぐれに付き合ってなどいられないからだ。
一種の名誉職である副園長は、完全なる名誉職である園長の気まぐれによって、名誉職とは思えない多忙の極みにあった。北で実りが悪いと聞けば行って小麦を検査し、西に珍しい薬草があると聞けば行って採集し、そして地元の人々の伝承をあつめて効能を推測する、といった具合である。
幸いなことに、園長の気まぐれは農学的にも薬学的にも植物学的にもそれほど意味のない気まぐれではなく、植物をこよなく愛する父は文句を言いつつも気まぐれを楽しんでいた。
同時に、父は家庭を愛する父であった。
家族が離れ離れになるのはよくない、という信条のもと、数日や数週間ならいざ知らず、数か月を超える長期間の出張となれば家族とともに各地の仮住まいに滞在した。
適応力豊かなイリスはそれを享受した。あちこちへ行って、あちこちのおいしいものを食べて、あちこちの手工芸を教えてもらう。何より、場所によって動植物が全然違う。イリスはそれを、スケッチブックにあやしげな図とミミズののたくったような字で記していくのだ。
一年、二年という短期間で引っ越しを繰り返す生活に音を上げたのはイリスの姉であった。ちなみに、イリスの字をミミズののたくったようなと形容したのも姉であった。この形容詞をイリスは割と気に入っていて、姉の一言以降、よりいっそうミミズらしい字を書くように心がけている。
イリスの父は、一代限りで伯父家に返すことになっているとはいえ、子爵位を授けられている。つまり貴族である。つまりイリスもイリスの姉も貴族の娘である。
あるとき伯父の伯爵家の領地に滞在したことで、イリスの姉は気づいてしまった。同じ貴族の娘で、さしたる身分の差などないはずの従姉妹たちは、大勢の召使に傅かれ、専属の侍女までいて、ドレスにお茶会にと華やかな生活を送っているらしい。一方で自分たちは、流浪の生活についてきてくれる奇特な使用人、家政婦と執事に女中が一人、をかかえるのみで、雪や嵐に憂える生活。
姉は嘆いた。
父は家庭を愛する父であったがために、愛娘の目にいっぱい涙をためた「お父様なんて嫌い」には耐えられなかった。かくして一家、父を除く、は王都にある伯父のタウンハウスに定住することになったのである。
ここへきてイリスは困惑した。次の引っ越し先が憧れの海辺と聞いていたからである。
もちろんついていきたいと主張はしたが、母のいない家に耐えられるかと聞かれて返答に詰まった。姉のように伝家の宝刀であるお父様嫌いを発動したところで、じゃあついてこなければ良いと言われるのは目に見えている。
まごまごしている数日の間に父は出立した。
イリスは王都に置いていかれた。
姉がなぜお茶会というものを喜ぶのか、イリスにはよくわからない。
イリスがお茶会に出るのはこれで二回目だ。
先週と、今日。
先週はまあまあ良かった。五、六人の女の子たちでケーキを食べるだけで、お茶はおいしかったし一番小さなイリスにはみんなやさしかった。
今日も同じ人たちが来るから、と聞いてきたのだが、残念ながら同じ人たちがイリスには見つけられなかった。
敗因はわかっている。
イリスは先週、ドレスの色で人を判別していたのだ。
よく考えたらドレスというのは着替えるものだ。そしてたいていの貴族は、イリスのように青色ばかりを好んで着るわけではないらしい。そういえば姉も従姉も見るたびに違う色をしている。だから色が変わることはわかっていたはずなのだが、先週はそこまで気が回らなかったのである。こっそり周りを見回しても、姉はまあ、しぐさや声でなんとなく判別できるが、それ以外はとんとわからない。
さらに困ったことに、今回は人数が多い。十数人もいる。それから男の子がひとり、その後ろに背の高い人がふたり。
イリスがこの王宮に到着し、姉の後ろで気まずい思いをしているうちにお茶会は始まっていた。
一番偉いらしい男の子に名乗って挨拶をして、あとは姉に任せることにしてイリスはお茶に集中した。王宮というなんだかすごそうな場所にふさわしく、良い香りのお茶だった。
だがそれにもすぐ飽きた。
人数が多い分、テーブルが大きくて、小さなイリスにはお菓子がとりにくかったし、お菓子がほしいときに誰に尋ねたらいいのかもよくわからなかった。お茶を優雅に飲むことはできたけれど、お茶会はまだ初心者なのだ。そしてまた、子供用とはいえ小さいイリスには大きすぎる椅子に、姿勢よく座っているのはなかなかの苦行だった。
それというのも、とイリスは考えた。自分がこんなに小さいのがいけないのだ。同じ八歳児を50人集めたところで、自分が一番小さい自信がある。ならば100人ならばどうだろうか。同じくらいの背の人がもう一人くらいいるんじゃなかろうか。じゃあ500人集めたら自分は小さいほうから十番目になれるのだろうか。小さいほうから十番目だったら、50人の中ではまあまあ良いほうなんじゃないだろうか。
イリスの思考が確率論にまつわる深遠なる深淵に陥りかけたとき、福音がもたらされた。
背後より頭上にのびるアンズの枝から、一匹の尺取虫が下りてきたのである。