2-2 父が消えた日
「依頼と言うのは、私の父に関する事です」
ソファーに座り直した琴美は、首から下げていたロケットペンダントを外し、チャームを開いて中身を見せた。一枚の写真が納められていた。対面に座る再牙とエリーチカが覗き込む。写っているのは、怜悧な印象を与える、眼鏡を掛けたスーツ姿の男性だった。
「私の父です。名前は獅子原錠一。王都大学でナノテクノロジーの研究をしていました」
「王都大学って、あの中央都にある?」
「ええ」
「凄いな。名門大学じゃないか」
幻幽都市に住んでいても、《外界》の情報は其れなりに入ってくる。王都大学は、中央都に新設された総合大学である。今年で設立十周年を迎えるらしい。ブランド価値を高める為に、内外から著名な教官を多数招いているとの話は、再牙の耳にも届いていた。
「父は元々、東北地方の大学で働いていたんですが、研究者としての腕を見込まれて、私が六歳の時に王都大学の理学部准教授として招聘されました。プライベートよりも仕事を優先するタイプだった父は、休日でも大学の研究室に籠って仕事に打ち込むような性格で、私に構ってくれる事は余りありませんでした。それでも、父が家族を養う為に一生懸命働いているんだって事は、幼い私にも分かりましたから、寂しくはなかったんです」
「家族の為に身を粉にして働くか。立派なお父さんじゃないか」
「ええ、でも……」
何か言いかけた所で、琴美はふと、写真の中で微笑む父親に視線を落とした。少女の表情は翳りを湛えており、まるで道標を失った旅人のように見える。
「(この子……何かあるな)」
先代の万屋から稼業を受け継いで五年の間に、再牙は色々な依頼人と出会ってきた。お年寄りから若者まで、その客層は様々である。
琴美のような少女を相手にするのも、特段珍しい話ではない。そういった年代の、しかも十代そこそこの女の子の依頼内容ともなると、大体が似通ったものだった。当人の抱えている深刻さとは別にして、依頼の中身自体は『人生』という長い尺度で見れば、それほど大したものではないのが殆どだった。
しかしながら、今回ばかりはどうも違うと感じる。再牙は目の前に座るこの少女が、その年には似つかわしくないぐらいの、何か強烈な想いを抱えて生きているのを感じ取った。膝の上で両手を組み、じっと、琴美の語る内容に耳を傾ける。
「今から七年前。私が八才の時です。父が何の前触れも無く、私と母を捨てて家を出たんです」
「ふむ」
「当時の私は、突然父が家を出て行った事に混乱して……あの時は、自分でも引いてしまうくらい、取り乱したのを覚えています」
「貴方がそんな御様子でしたら、お母様はさぞかし、気苦労なさったでしょうに」
口を開いたのはエリーチカだ。琴美は彼女の問いに対し、ゆっくりと頭を振った。
「それが……母は取り乱すことも無く、終始落ち着いていました。まるで、こうなる事をあらかじめ知っていたかのような態度だったんです。それが幼い私には、ひどく不気味に思えてしまって……」
「それで君の父親は、いま何処で何を?」
「……亡くなりました」
再牙が、声にならない呻きを上げた。琴美はテーブルに置かれたペンダントを大事そうに拾い上げると、再び自身の細い首に掛け、話を続けた。
「父の訃報が届いたのは、四年前の冬の事でした。その日、学校から帰宅した私を出迎えたのは、椅子に座ってテーブルに突っ伏していた、憔悴しきった母の姿でした」
夕飯の支度もしていないとは、一体何があったのか。琴美が母に『どうしたの?』と声を掛けると、彼女の母・獅子原花江は、ゆっくりと顔を上げた。寝ていた訳ではない。その証拠に、瞼は赤く腫れ、頬には落涙の跡が見られた。
『お父さんが、亡くなったのよ』
母のひび割れた唇から、父の落命を知らせる台詞が飛び出した。一瞬訳が分からず『え?』と聞き返す琴美。
母は直ぐには答えなかった。ただ焦点の定まらぬ瞳で、娘の顔をぼーっと眺めていたが、やがて、堰切った様に大声を上げて泣き喚いた。
震える母の身体をしっかりと抱きしめる。少女は涙を流さなかった。日が沈み、夜を迎え、朝日が昇っても。哀しいという気持ちはあるのに、どういうわけか一滴の涙も流れなかった。
「父が亡くなってからの日々は苦しみの連続でした。元々病弱だった私の母はそれ以来寝込むようになってしまったんです。生活費は、父の貯金を切り崩してなんとか凌いでいました。でも、時が経つにつれて母の体はどんどんやつれていきました。入院して手術もしたんですが、それでも良くならなくて……今から三か月程前に、亡くなったんです」
琴美の話によれば、彼女の母親は女子高を卒業したばかりの頃、半ば駆け落ち同然で錠一と結ばれたらしい。そういった経緯もあってか、両家の親からの二人に対する印象は最悪で、金銭的援助は全く無かったという。
それは、愛娘が生まれてからも変わらなかった。駆け落ちしても、孫の顔を見れば考えを改める親も世の中にはいるらしいが、彼女の祖父母は、そういう類いの人間では無かったのだ。
琴美は、自嘲的な笑みを浮かべて口にした。
「本当は高校に行きたかったんですけど、学費が払えなかったんです。助けてくれる親戚もいなくて。私、この二十一世紀の時代に、中卒なんですよ。女が中卒なんて、もう人生終わったも同然じゃないですか。笑っちゃいますよね」
「笑わないよ」
「え?」
「良く分からんが、学歴が有るとか無いとか。そんなちゃちな物差しで測れるほど、人生って単純じゃないだろ」
真剣な表情を崩さぬまま、再牙はズボンのポケットからハンカチを取り出し、琴美に差しだした。
そこで初めて、少女は自分でも知らないうちに、涙を流している事に気が付いた。真っ白なハンカチを握りしめ、嗚咽を漏らす。目元に当てれば、涙の滴が白布を滲ませていった。
「有難うございます……」
「構わんさ。ところで、話を元に戻すけど」
「はい」
「君がこの街に来た事と、お父さんが亡くなった事に、何か関係があるんだろう?」
そうでなければ、こんな年若い少女が一人で幻幽都市に来る筈が無い。琴美は再牙の予想通りの言葉を返した。「大いに関係があります」と、泣き腫らした顔で答える。鼻をすすり、喉を鳴らし、やっと落ち着きを取り戻した所で、口を開いた。
「父はこの街で……幻幽都市で、何者かに殺されたんです」
「殺された?」
「知らせに来て下さった機関員の方が、母にそう仰ったんです。父の亡骸に刺し傷があったのを覚えていますし。まず間違いありません」
「まぁ確かに、《出島》の連中が嘘を言う筈がないしなぁ」
幻幽都市では、移住者が死亡した際に《外界》で暮らす身内や親戚へ死亡時の状況報告や、遺体引き取り等の諸連絡が手配されるしくみになっている。その役目を担うのは、蒼天機関傘下の外事交渉部の面々だ。
外事交渉部の任務は、いつも都市と《外界》との境界線上で行われていた。立地的にという意味ではなく、精神的な意味で。双方の間で起こる摩擦や揉め事、小競り合いの類を諌めるのが、彼らの仕事だった。業界では《出島》の隠語で呼ばれたりもした。
そこは、表向きには鎖国状態の幻幽都市で唯一、《外界》の人間と接触する機会を公式に許可された部署だった。だが、自由交流とは限らない。扱う仕事の重要性ゆえに、所属する機関員には思考拘束術が施されている。時に邪な心が芽生えないよう、思考拘束術よりもずっと精神支配度の高い精神打楔術を仕掛ける事もある。
いずれにせよ、琴美の母に夫が死亡した旨を通達したのは、彼ら外事交渉部の者達だった。
「それで、犯人はどうなった?」
「まだ捕まっていません」
「ううむ」
再牙は眉間に皺を寄せると、胸の前で、その逞しい腕を組んだ。
幻幽都市において警察の役割を担っているのは呪工兵装突撃部隊である。彼らの捜査力を以てしても未だに解決されていないとなると、琴美の父を殺した下手人は相当頭の切れる奴か、悪運に恵まれた輩なのだろう。
「つまり、お父さんは家を出た後、この街に立ち寄り、そこで何者かに殺された。そういう事か」
「立ち寄ったというよりも、最初からこの街に来る事自体が目的だったようです」
「ん、それはどういうことかな」
「母の日記に、そのような事が書かれていました。遺品を整理していた時に見つけたんです」
そう言うと、琴美はおもむろにショルダーバッグに手を伸ばした。中から取り出したのは、A4サイズの日記帳である。長い事使用していた為だろうか。表紙はくたくたに色褪せていた。
「私も知らなかったんですが、母は昔から、日記をつけるのが趣味だったようです。私が生まれてからは、ほぼ毎日つけていたようです。もっとも、父が亡くなってからはそれもやめてしまったようですが」
琴美の話を聞きながら、再牙は手垢のついた日記帳を丁寧に捲り、中身に目を通す。一頁一頁を丹念に読み込む。真剣な眼差しを日記に送る彼の様子を気にかけつつ、琴美は、すっかり温くなった湯呑を口に運んでいた。
二十頁程捲った所で、再牙の動きが止まった。次の様な文章が、目に飛び込んできたからだ。
『二〇三六年三月九日。晴れ。
錠一さんが幻幽都市に向かってから、そろそろ三年が経とうとしている。
元気にしているのだろうか。体を壊していないか、それだけが心配だ。
新聞やニュースでは、最近あの街で子供を狙った人攫いが多発していると報道していた。けれど、どこまでが本当の事なのか、正直言って私には分からない。
こっちの世界では都市の情報は殆ど入ってこないから。
早く帰ってきて欲しい。
毎日不安な日々を送っているけれど、琴子の為にも頑張らなければ』
綺麗な楷書体で、そう書かれていた。字は書いた人の性格を表すと言う。それを踏まえても、琴美の母親は真面目で飾らない性格の人だったのだろうと、再牙は思った。
「文章から推測するに、君の言う通りだな。錠一氏は、最初からこの街に来る事が目的で家を出た。そう考えるのが妥当だろう」
「私もそう思います。ただ、一体どういう理由で父が殺されたのか。そもそも、何故父は私と母を残して幻幽都市へ向かったのか、それすらも分からないんです。日記にも、理由について書かれていませんでした」
「そうすると、君の依頼っていうのは」
勘の鋭い再牙には、既に或る程度予想がついていた。それでも、敢えて本人の口から依頼内容を喋らせるのが、彼の変わったポリシーの一つだった。促された琴美は背筋を正し、真っ直ぐに彼を見つめて、自身の要望を簡潔に伝える。
「お願いです火門さん。父は何故、この都市を訪れたのか。何故殺されなければならなかったのか。この街で、父は一体何をしていたのか。それを明らかにして欲しいんです。お願いします!」
この通りですと、少女は藁にもすがる思いで頭を垂れた。そのあまりに真摯な態度を受けて、再牙は面食らい、言葉に詰まった。
琴美は本気で父親を慕っているのだろう。そう思わざるを得ない。でなければ、わざわざ一人で幻幽都市を来訪するはずがない。
少女の話に食い違いは見られなかった。依頼人が信用に足る人物かどうか。それを見抜くのも、万屋の技量の一つである。そして、獅子原琴美は信頼出来る依頼人だ。再牙はここまでの流れでそう判断し、心の中で彼女に合格の判子を押した。
だが、どうしたことか。押したばかりの判子の輪郭は若干ぼやけ、再牙の心象に投影されていた。その理由は判然としなかったが、何かが引っかかった。
「(普通、自分の父親が殺されたら、もっと違う事を依頼しないだろうか)」
しかしここまで話を聞いた以上、無碍に追い返すこと等出来やしなかった。
心に刺さる一本の棘をあえて無視し、再牙は「分かった」と、短く了解の返事をした。
「その依頼、やり遂げよう」
琴美の表情に、新品の蛍光灯の様な明るさが戻った。