4-4 その理由
捜索屋と別れてから暫くの後。少女と万屋は連れ立って喫茶店を後にした。琴美の腕時計の針は、気づけば既に十時半を過ぎている。なんだかんだで、一時間近く捜索屋と喋っていた事になる。
「随分と、変わった人でしたね」
店を出て直ぐの事。先を歩く再牙の背中へ向けて、琴美は率直な感想を述べた。実に端的で、分かりやすく的を得た表現だ。再牙が愉快そうに笑った。
「《外界》にはいないだろ? あんなヘンテコな格好をした奴は」
「少なくとも、私の周りには」
「あんな態度をとってはいるが、根は結構いい奴なんだよ。過度な見返りは求めないし、こっちにもプライドがあるって事を、ちゃんと分かってくれた上で仕事をしてくれる。自分を安売りしないで済む相手ってのは、この業界じゃ探すほうが難しい。あいつは希少な存在なんだ」
「信頼してらっしゃるんですね」
小走りで再牙の隣に移動し、見上げて琴美は微笑んだ。
「まぁ、そんなところだ」
「でもあの方、なんであんなに包帯を巻いてるんですかね」
「分からんなぁ」
「火門さんにもですか?」
「アイツとは知り合って七年近くになるが、何時聞いてもはぐらかされるんだよ。何か人様に言えない秘密があるんだろう」
「秘密ですか」
「アイツに限らず、この街に住む人間だったら、誰もが秘密の一つや二つ、抱えているものさ」
その人間の中に、自分の隣を歩いているこの男も含まれているのだろうかと、琴美は考えざるを得なかった。彼とは出会ってまだ間も無いが、それでも漠然と感じられた。この男は――火門再牙には秘密がある。更に言うなら、彼が抱えているであろう秘密はきっと、身近な人の死に関連しているものではないのか。
直感によるところが大きいが、無根拠なわけではない。彼の中に、憂いの色が見え隠れしていたからだ。降りかかった哀しみを、己の心の中だけで消化しなければならないという、終わりなき精神労働に身を焦がしている。そんなことを普段はおくびにも出さない辺りに、この男の精神的鍛錬の具合が伺えた。
父が亡くなったという知らせを受けた後の母も、彼ぐらいに毅然としていれば。そう思うと、琴美の胸中に、途端にやるせない気持ちが湧き上がってくる。
『お父さんのお葬式の時に、貴方、泣かなかったじゃない』
夢の世界で耳にした幻聴が、何故か不意に呼び起こされた。思い出すだけで、琴美は息が詰まる思いがした。真綿で首を絞めるかのように、己の精神が緩やかに蝕まれるような感覚だ。
あの言葉は、実際に母が口にしたものではない。おそらくは夢という抽象的現象の成せる業か。琴美が自身の心へ向けた偽り無き糾弾が、母の姿を借りて夢に出て来たに違いなかった。
琴美は、自分の心に無遠慮に片足を突っ込んできた影を恨みがましく思いながら、もう何十回繰り返したか分からない問いに向き合う。
何故あの時。父の死を母から聞かされたあの夕暮れ時。どうして自分は涙を流さなかったのだろうか。今なお考えても分からなかった。自分自身の心が、この年になってもまるで掴めていなかった。永劫の問いかけだった。
人は誰しも、毎日の生活の中で己の感情にそぐわぬ言動を見せる時がある。変わり果てた父親の遺体に面通しされた時の琴美が、まさにそうだった。
父が亡くなり、心は哀しみに満ちているのに、涙が堰を切って込み上げてくる事は無かった。通夜の時も、告別式の時も、父の遺体が業火に焼かれる時も、煤けた喉仏を箸でぎこちなく摘んだ時も。か弱い少女は、感情の一切を露わにすることはなかった。
葬儀に駆けつけてきた身内は、殆どいなかった。彼女の父と母が駆け落ち同然で結ばれた事を考えれば、致し方ないのかもしれない。両家の関係性は修復不可能な程に悪化しており、葬儀の場は陰険な空気に支配されていた。
琴美にしてみれば、殆ど顔を合わせたこともない彼らは、他人も同然だった。彼らもまた、実の父親が亡くなったというのに哀しみを露わにしない琴美を不気味がり、非難の目を向けた。誰も、一人立ち尽くす彼女の下へ、近寄ろうとはしなかった。
葬儀の間中、母は終始、泣き続けていた。ハンカチで口元を覆い隠し、嗚咽を洩らし続けていた。
その母が亡くなった時の事も、琴美は鮮明に覚えていた。
ある日の学校からの帰り、居間で彼女が目にしたのは、うつ伏せに倒れてピクリとも動かない母の姿だった。琴美は慌てて救急車を呼んだが、内心では『助からないかも』と直感していた。病院に担ぎ込まれた母は、そのまま緊急治療室へ搬送された。
担当医の話では、どうやら母は深刻な病に長い間侵されていたらしく、既に末期症状に入っているとの事だった。琴美はそんな事は露ほども知らなかったが、医師は確かにそう告げたのだ。手術のしようがなく、投薬治療による経過観察しか手段は残されていないとも、口にしていた。
『余命は、約一カ月です』
医者は最後に、念を押すかのように琴美に告げた。
そうして事実、その通りになった。
夏真っ盛りの七月下旬。母は娘に看取られ、静かに息を引きとった。濃密な死の香りに支配された病室で、琴美は枯れ木の如く痩せ細った母の亡骸にひしと寄り添い、声を上げて泣き腫らした。
お母さん――いくらそう呼びかけても、母が目を覚ます事無かった。その余りにも無情で冷やかな反応が、母の魂はもうこの世にはいないのだという事実を如実に主張していた。少女の小さな胸が見えない何かに硬く締め付けられた。自然と涙が溢れた。感情の赴くがままに、涙を流した。
そうだ、あの時は確かに泣けたのだ。
じゃあ何故? 何故自分は父が亡くなった時、泣けなかったのだろう。
――どうして、心が冷め切っていたのだろう。
自分を産んでくれた唯一無二たる存在の喪失は、精神的重しとしては十分過ぎるものだ。肉親の死を初体験するその日まで、琴美はそう考えていた。それだけに父親を亡くしたあの日、己の心が余りにも冷静だった事に、琴美は我ながら激しい衝撃を受けた。
父の喪失に伴う哀絶を自覚しつつも、そんな自分を冷静に見つめる、もう一人の自分がいた事が信じられなかった。
「いやー、それにしても、珍しい事もあるもんだ。捜索屋の奴め。あいつ、笑うと結構男前じゃねぇか」
深い思考の海に沈んでいた琴美の意識は、隣を歩く万屋が何気なく口にしたその一言に引き上げられた。はっとして見上げると、再牙が感慨深そうな表情を浮かべている。
「まさかアイツが、人前で笑顔を見せるなんてなぁ。こりゃあ奴の言う通り、近いうちに何か起こるな」
「あの方、普段からそんなに笑わない人なんですか」
「仏頂面ってのは、あいつの為にあるような言葉だ。笑った顔を見たのは今日が初めてだよ。あの偏屈野郎、君にだけは心を許したようだな」
「そういう事になるんですかね?」
「そうさ。思うんだが、案外君みたいな子が、カウンセラーに向いているのかもしれない」
「何言ってるんですか。ありえませんよ」
「そうかな?」
「ええ、絶対に」
自信に満ちた、断定的な物言いだった。父親の死を前にして冷静でいられる自分のような人間に、カウンセラーなど勤まるはずがない。それに、他人の背中を押してやれるほど、自分は教育も経験も無い。人様に自慢出来るような殊勝な性格をしているとも思えない。
「特に、これといってやりたいこともないですから」
すべてを諦めているかのような物言いを受けて、再牙は若干眉を顰めた。
「夢を持つのは嫌いか」
「嫌いってわけじゃないです。ただ、自分がどういう生き方をすればいいのか、分からないだけです……」
言いながら、中学時代の同級生に、似たようなことを聞かれたことを思い出した。その時も、同じような返事をした。返ってきたのは、琴美を内心では拒絶する、思いやりの欠片もない一言だった。
『琴美って、変わり者だよね。なんか、何考えてるのかよく分からないよ』
将来の夢も無く、流行り物にも疎く、ファッションにも余り気を使わず、好きな人もいない。そんな彼女に物珍しい動物でも見るかのような視線と言葉を、クラスメイト達は常に突き刺してきた。
クラスメイトの失礼な物言いを受けても、琴美は決して怒る事はしなかった。それどころか、いつも惚けた態度を取っていた。己の心の内を相手に悟られまいとする防衛反応からとったその態度が、級友達との間に少しばかりの溝をもたらした。そしてその溝は、時の移ろいと共にどんどん深く広がっていった。
その結果として、琴美には友人や仲間と呼べる存在が一人もいなかった。
苦い中学時代を思い出して、嘆息をつく。
「夢がないことが影響しているんでしょうか。何を考えているのか分からないって、昔、中学の同級生にそう言われました」
「気にするなって。そんなの、俺だって良く言われる。そんな事をわざわざ言ってくる奴の相手なんか、する必要ないぞ」
「そうなんでしょうか」
「だって、考えてもみろよ。凄く失礼な話だと思わねぇか? 何を考えているか分からないって、そんなの人間なんだから当たり前だろって話だ。そう言う輩には、人間の思考や感情が手に取る様に分かるのか? 分かる訳ねぇんだ」
「あのう、それ、只の屁理屈に聞こえるんですけど」
「いいや、屁理屈なものか。詰まる所、『何を考えているのか分からない』って言い草はさ、自分と趣味嗜好や考え方の相容れない相手にそういう無遠慮な言葉を使って自分の活動範囲から排除しようという、一種の精神攻撃なんだよ。気にした方が負けだ。そんな奴は一発ぶん殴って『失礼な奴だな』とでも、言っておけばいいのさ」
それ、殴っている時点で、既に気にしてますよ。
思わずそう言いそうになったが、琴美はぐっと堪えた。
しかし実際のところ、火門再牙ほど『何を考えているのか分からない人間』も珍しい。万屋に身を置きながら、殺人業務に手をつけていない業者を探す方が難しかった。人殺しは一切しない。犯罪者からの依頼は全て断る。悪党の肩棒を担ぐ真似は御免被る。それが、彼が己に課した絶対の戒律である。
彼が仕事をこなしていく過程で出会った業界人は、そんな彼のポリシーを悉く嘲り、否定してきた。儲けてナンボの万屋稼業。中でも、殺人と暗殺業務は、ズバ抜けて報酬が高いと言うのが、業界における暗黙のルールだ。そのルールを真正面からぶち破る彼の姿勢は、同業者からしてみれば、変人を通り越して目障りだった。
――殺し殺されるのが日常の幻幽都市で、何を正義漢ぶっていやがる。
――万屋に身をやつしている時点で、お前も金に飢えた狼なのさ。
――本当は、人を殺したくて仕方ないんだろう? いいぞ人殺しは。愉しいし、金になる。
そう臆面も無く吐いてきた相手には、決まって拳を振るい、脇腹を蹴り、次々に病院送りにしてきた。殴り倒す度に、彼の心はチリチリと焦げていった。
奴らには分からない。分かろうともしない。万屋とは本来、どうあるべきなのか。奴らは完全に取り違えている――再牙の矜持を理解しているのは、苦楽を共にしたエリーチカ以外にいなかった。
「まぁしかしだ。その年で夢の一つも無いというのは、いささか勿体ないな。無理をしてでも、でかい野望を持つべきだと思うがね」
突拍子も無い問いかけに、琴美が噴き出す。夢の無い人間に野望を語れとは、カブトムシの幼虫に空を飛べと言っているようなものではないか。
「野望なんて、そんな大それたことを言われても……」
「小説家になってやるだとか、女優になってハリウッドに進出とか、結婚してカカア天下を築いてやるとか。色々あるだろう?」
「ありません。私はただ毎日を何事も無く、平凡に生きられればそれでいいんです」
「平凡に生きる、ね」
幻幽都市で吐く台詞にしては、全く以て似つかわしくない。目を細めて、琴美は尋ねた。
「そういう火門さんには、夢ってあるんですか?」
「俺か?」
「私にばっかり質問してきてずるいですよ。教えて下さい」
口を尖らせつつ、琴美はふと思った。自分はこの万屋の個人的な面について、詳しい事を何も聞かされていない。それほど良くは知らない、しかも男の人とこうして街を歩いている事を意識すると、なんだか心の奥がむず痒くなってくる。奇妙な感覚だった。
そんな少女の揺らめく気持ちを推し量る余裕も無いのか、何時にも増して眉間に皺を寄せ、再牙は熟考する。疵面に渋い顔というのは中々に強面だ。彼の横を通り過ぎる人々が、やや緊張した様に目を泳がせている様を、琴美は少し残念な気持ちで眺めていた。話してみれば良い人なのに。外見で決めつけるなんて、勿体ない。
「夢ねぇ」
「何でも構いませんよ」
「そう言われると、直ぐには思い付かないな」
「あー、曖昧な言い方をして逃げるつもりですか? 駄目ですよ、無いなら無いって、ちゃんと言って下さい」
悪戯が成功しかけてご機嫌になっている童の様に、琴美は目元を綻ばせた。とても、切羽詰まった様子で依頼を申し込んできた少女と同一人物とは思えない。表情が豊かな女の子だなと、再牙は思った。
その刹那、彼の脳裏を何かが掠めた。彼は無意識にも、琴美と自身の同居人を比較していた。鉄の様に無表情な、アンドロイドの同居人。彼女にも、こんな風に感情豊かに笑って欲しいものだと、ありもしない事を頭の隅で思いながら、答える。
「今は無いかな」
その答えを待っていたとばかりに、琴美が「そっかそっか」と、小さいながらも愉快そうに声を上げた。
「じゃ、火門さんも私と同じですね」
「まぁ、そう言う事になるのかな」
「火門さんこそ、もっとでかい野望を持つべきなんじゃないですか? 折角お仕事をなされているんですから、もっと経営の幅を広げるとか、財テクで成功して大金持ちになるとか」
「儲け主義は嫌いだ。金目当てで、この業界に入った訳じゃないからな」
「だったら、何で万屋を続けているんですか」
「恩返しだ」
「え?」
言葉の意味を図り損ねた琴美が聞き返す。再牙は、一言一言を噛みしめるように、己の心に言い聞かせるように、言った。
「俺は、俺を拾ってくれた人への恩返しがしたい。その人の考え方が間違ってはいないんだと言う事を、世の万屋共に知らしめてやりたい。続けている理由は、ただそれだけさ」




