2-6 罪、すなわち、シン
薄闇に包まれた制御室。シリコン・コンクリートの壁に掛けられた業務用電子ペーパーの画面内で、複雑な計算式が眩暈を起こしそうになるほどの速さで書き起こされている。
床に設置されたグリッド・コンピューティングを始めとする演算出力系マシンが、映像から得られるあらん限りのデータを処理している。その演算出力系マシンは、軍事産業分野の巨大複合企業で利用されている戦闘シュミレーターを、独自にアレンジしたものだった。
二名の作業員が、そのモンスター・マシンの傍で作業に取り組みながら、五百インチもの長大なモニター画面に映し出されている映像を注視している。モニターはチャプター画面仕様になっており、縦に三列と横に三列の、合計九つの分割画面が表示されていた。
無造作に、制御室のドアが開かれた。入ってきたのは、白髪で伊達眼鏡を掛けた、如何にも科学者然とした優男であった。染み一つ無い白衣に身を包み、合成大麻が練り込まれたドラッグ・クッキーを齧っている。
男の肌は薄気味悪い程に白かった。頬は痩せこけ、不健康が服を着て歩いている様にさえ見える。しかしながら、並々ならぬ精気が漲っている。事実、男の細く開かれた瞳には、昏く悪意の籠った炎がメラメラと滾っているではないか。
男の姿を目にした作業員達の表情に緊張が奔った。だがそれも一瞬の事だ。彼らは機敏な動作で木製椅子から立ち上がると軍隊式の敬礼を決めて、『組織』のサブリーダーを迎え入れた。
「室長、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
心からの尊敬の念が込めれた「お疲れ様です」を耳にして、室長と呼ばれた男――茜屋罪九郎はしかし、作業員達を面倒臭そうに一瞥した。
「挨拶なんて後でええ。早く進捗具合を報告してくれや」
そう言いながら、手元にあった黒塗りの椅子――カーボン・チェアを引いて腰掛ける。罪九郎の膝下辺りから、金属同士を擦り合わせたかのような音がした。見ると、白衣の裾から覗く両腕が黒い装甲に覆われている。正確には、腕そのものが黒かった。
いや、腕だけではない。下半身、上半身も、そして首も黒い。頭部以外の全ての部位が暗黒に彩られている。人工的な色味。機械式ナノマシン由来の肌色だ。彼の身体は、その実に九十パーセント近い部分が製密駆動塊によって構築されていた。
「状況を報告します。全サンプル体は予定通り、《崩天・果てなき絶海獄》により生じた次元の門を通じ、歌舞伎町へ空間転移しました。活動開始から三十分が経過しておりますが、黄金氷柱によるバッドステータスは確認されておりません」
「超個体の活動状況に、異常は見られないっちゅーわけやな?」
ドラッグ・クッキーを食べ終えると、茜屋は伊達眼鏡の奥で鋭く双眸を光らせて、念入りに問い質した。
「はい。平常時通りの生態活動が確認されています」
「ほほ。やっぱり軍鬼兵の制御に集合知を応用して正解やったな。肉体を構成するNEM菌にあらかじめ電気信号を与えれば、あとは放っておいても活動してくれる。我ながら、中々ええアイディアやったな」
「流石、室長ですね」
「単純な指令しか与えられへんというのと、与えられる指令が五つに限られるんがネックやけどな」
「その点に関しては、個人的な意見で恐縮ですが、作戦の決行に支障はないと考えられます。しかし、それにしても……」
作業員がモニターに視線を移し、感嘆混じりに呟いた。
「今でも信じられません。菌の完全培養に成功しただけでなく、それに超個体としての価値を見出した……私のような凡人には、決して思いつかなかったでしょう。流石は茜屋室長です」
「ワシが優秀な科学者なのは、ワシ自信がよぅく知っとる。でも今回ばかりは、感謝する相手が違うで。NEM菌や。あれが自我を持つ微生物やからこそ、集合知を獲得し、再生機能を宿した超個体として、有用出来る事が分かったんやからな」
「またまたご謙遜を……あぁ、あと、すみません、報告がもう一つ」
「なんや?」
「実は二十分程前に、サンプル体が歌舞伎町において二名の機関員と会敵し、これを排除致しました」
「こっちの被害は?」
作業員は手早くデータを確認した。慣れた手つきで機械盤のキーをタップする。実にゆっくりとした速度で、装置前部から一枚の記録紙が吐き出された。記録紙には、画面越しに映る餓鬼達の詳細な戦闘内容が記されていた。
「一体が戦闘に支障をきたす程度の部位欠損被害を受けていますが、問題ありません。残りのサンプル体に関しては、ほぼ無傷といった状態です」
「映像を出してくれや」
「了解しました」
作業員が手元の機械盤を操作すると、モニター画面にまだ生きていた頃の二名の機関員が映しだされた。一人はのっぽで、もう一人はちびのデブ。これを取り囲むは、五体の亜獣――軍鬼兵と言う名の、異形の怪物達である。
映像に映し出された戦闘内容は、欠伸が出るほど退屈なものだった。
軍鬼兵が一匹、のっぽの機関員に猛然と飛びかかった。迫力十分だが、その実、なんの工夫もない只の飛びかかりだ。攻撃の軌道は読み易かった。のっぽ男は恐怖に顔を歪めながらも、これを冷静に捌く。セラミック・ブレードを腰に構えたまま、半身の状態で足を運んで攻撃を躱す。と同時にカウンターの要領で、半円を描く様にブレードを勢い良く振るった。
軍鬼兵の首が刎ね上がった。細い首の切断面から、緑色のどろどろした体液が激しく飛び散る。それが運悪く、のっぽ男の両目にかかる。軍鬼兵の体液には、糊にも勝る粘着性があった。咄嗟に目を閉じるも、間に合わず。撒かれた体液が瞼にかかり、視界は完全に奪われた。
すかさず、もう二匹の軍鬼兵が強襲。今度は為す術が無かった。右肩と左脇腹に、怪物達の鋭く長い爪牙が、激痛を伴って深く食い込む。
暗闇に包まれた歌舞伎町に、絶叫が響き渡る。瞼を開けるのもままならない。男は、死が直ぐそこまで迫って来ているのを感じたに違いない。怪物達はおぞましい咆哮を上げつつ、牙と爪を効果的に駆使して、乱れない動作を徹底した。まるで熟練した傭兵のようだ。無駄な動きが、一切見受けられなかった。
一方的な殺戮の嵐だった。軍鬼兵の爪と牙にかかる血の量が、俄かに濃くなってゆく。血が、臓物が、骨が弾け飛ぶ。てらてらと光る自身の大腸を体外へ引きずり出された時点で、のっぽ男は既に絶命していた。
かたや、チビデブの機関員の惨状は語るまでもない。腰のホルスターに手を廻したまま、恐怖から凍てつき、棒立ちになっていた所を六匹の軍鬼兵に襲われて死んだ。断末魔をあげる暇もない。何とも呆気ない最期である。
只の肉塊と化した二人の機関員。その遺体は、赤黒い血の海に沈んでいる。しかし、罪九郎の関心を惹いたのは、その残酷無慈悲なスプラッター・シーンではなかった。
手元の機械盤を弄り、画面をズームして選択。新たな画面に映し出されたのは、首を斬り飛ばされた一匹の軍鬼兵の骸だった。いつの間にか、切断面から無数の緑色の泡が溢れ出している。緑色の泡は膨張と収縮を繰り返すと、次第に体細胞を生み出し、骨を生やし、神経を巡らせ、筋繊維を束ね出した。そうして、凄まじいスピードで口が形成され、鼻と目が元通りになり、額に紅煌の石が蘇り……頭部が完全に再生した。
完全なる自己再生能力の実現だ。
モニターが放つ青白い光に当てられた罪九郎の青白い顔が、不気味な笑みで満たされた。何かに納得するかのように、何度も何度も相槌を打つ。
「よーしよしよし。ちゃんと超高再生は発現しとるな。万事オーケーや。やっぱり、ワシの理論は正しかった」
「再生速度についても、問題ありません」
「ええぞ、ええぞ。奴らも随分と兵隊らしくなってきたのぉ。まるで孫の成長を見守るおじいちゃんになった気分や」
「実験は成功ですね。予定通り、ネットに上げておきます」
「ああ、それはこっちでやるから気にせんでいい。腕の立つ電脳ユーザーを『二人』飼っとるからな」
「あのバケモノ達に任せると? それは室長、最高の選択ですね。奴らにかかれば、《人喰い電狼》も《電潜戦士》も、そう簡単には発信源を突き止められないでしょうに」
「せや。例え運よくワシらの存在に辿り着いたとしても、その頃には既に……ケハハ、想像したら腹が痛うなってきたわ」
顔を狂気に歪ませる。実験終了の合図は出さなかった。その必要は無かった。罪九郎は椅子に腰かけたまま、ポケットから阿片の紙筒を取り出して火を付けた。一気に煙を吸い、たっぷりと時間を掛けて、口から吐き出す。それを、三回ほど繰り返した。
もうここ一週間、ろくな睡眠をとっていない。しかしサイボーグである彼は肉体的疲労はもちろん、精神的疲労さえも感じてはいなかった。最終実験を成功へ導く為の前準備に余念はなかった。そして今日、こうして最高の結果を得る事が出来た。心は、深い充足感に満たされていた。
熱い滴が頬を伝った。驚いて、罪九郎は右手で目尻を拭う。指先が濡れている。そこで彼は初めて、自分が涙を流しているのだと言う事に気付いた。作業員達が、ぎょっとした顔を彼に向けていた。落涙。普段の彼からは絶対に想像できない感情の発露を前にして、作業員達は動揺を隠せないでいるようだった。
「室長……大丈夫ですか?」
作業員の一人が気遣いに満ちた声と共に傍へ近寄ろうとした。しかし、罪九朗はそんな部下の行動を片手で制した。乾いた笑い声を洩らしながら。
「ワシも、歳をとったな。涙腺が脆くなって、アカンわ。どうにもセンチメンタルな気分や」
「歳をとっただなんてそんな……先日、二十八になったばかりではないですか」
「せや、まだ二十八歳になったばかり。研究者としてはこれからが正念場や。けど、この二十八年間を、ワシは十分に生き切ったと感じておる。特に、ここ四年の間はな」
作業員は、後に続く言葉を見つけ出せなかった。
この四年間、彼らが所属する組織は苦境に立たされ続けてきた。地道に蓄えてきた実験データの数々。推論・考察をまとめたメモリカード。これらの殆どが、とある理由で焼失してしまった為だ。四年前の、とある日に。
ゼロからのリスタート。再度『計画』の成就を目的に掲げた時、常に先頭に立って実験を指揮し続けたのが茜屋罪九朗だった。四年前の『事件』で一番心を痛めていたのは彼の筈なのに。傷ついた素振りを一切見せる事なく、研究に励んだ。
『頑張ろうや。あともうちょっとやで。みんな、希望を捨てちゃあかん』
そう言って、意気消沈に陥った組織のスタッフ達を、持ち前の明るさで鼓舞し続けた。彼は常に、周囲の状況へ目を配る事を怠らなかった。こんな薄暗い地下施設で、一人研究室に籠らせておくには惜しいくらい、社交性に富んだ男だった。
そんな彼の気持ちを思うと、組織の研究者や作業員達はいつも、胸が締め付けられる思いになった。そして、こんな立派な男の下で働ける自分を、心の底から誇りに思うのであった。
「大丈夫ですよ、室長」
感極まった様子の作業員の内の一人が、涙声を絞り上げて、言った。
「必ず、計画は成功させます。いえ、してみせましょう!」
「……ああ、そうやな。絶対、ワシらの……いや、ワシらの作品の有用性を証明してやるんや」
軽く微笑んで、再び視線をモニターへ移す。軍鬼兵達の姿は、既にそこには無かった。次元の門を通じて、この地下施設に誂えた巨大実験棟のうちの一つへ空間転移した後だった。時計を見ると、既に指定していた四十分の活動時間を超えていた。
知性が芽生えている――罪九朗は、軍鬼兵達の、その肉体を構成する菌類の急速な成長に酔いしれた。電子的にプログラムした意思決定信号が組み込まれた彼らの成長速度は、開発者が意識せぬ領域にまで届こうとしている。入力可能な信号は都合五パターンに限られていたが、彼らは与えられた信号を拡大解釈したに違いなかった。戦闘行動が実にスムースで滞りなかったことからも、それがわかる。
与えた信号パターンが彼らの中で複合的変性を遂げ、それまでになかった精神要素として覚醒したのだ。その為に、彼らは状況を瞬時に見極め、ただちに決断して実行する術を身につけた。これを知性と言わず何と言うのか。人工菌の群体からなる軍鬼兵が、一連の動作を自分達で思考して行ったという事実が告げるのは、集合知の進化以外の何物でもなかったのだ。
それまでの実験では予測すらされなかった新たな事象に、罪九郎は科学者として胸を膨らませた。そして、一人の人間として疑問に思った。なぜ、そんなことに至ったのか。そこに、どのような要因の介入が、現実として起こったのかを、突き止める必要がありそうに思えた。
「(要因……ねぇ)」
思い当たる節が、ないわけではない。
真っ先に彼の脳裡に浮かんだのは、『四源』の存在だった。
それは、幻幽都市を支配している四つの根源。都市自らが、自己の異常進化を促す為に、その無意識下で生み出したとされる不可視の概念。都市に存在するあらゆる技術、現象、可能性の全ては、この四つの根源的概念に纏められ、四つの概念各々に、密接な補助関係があった。
組織の意向とは、集団の意向である。そして集団の意向とは、組織に身を置く八十七人の構成員の深層意識全てから成る巨大な意志――集合的無意識に他ならない。
幻幽都市では、集合的無意識は『人の意識や霊的存在といった、標準状態で非物質形態を取る存在を束ねる概念』に属する。つまり、四源の一つである『霊顕』に相当する存在だと言えた。
また一方で、軍鬼兵は『進化の異常正常を問わず、人としての形を失いながらも、人を凌駕する可能性を内包する存在を束ねる概念』に属する。これは『偽獣』と呼ばれる概念に、ぴたりと当てはまる。
『霊顕』と『偽獣』――四つの概念のうち、二つの根源が融合した。集合知を持つ菌類をベースに造り上げた、人ならざる存在の軍鬼兵が、人間が生まれながらに宿す集合的無意識を備え、結果として知性を獲得した。そう考えた方が辻褄が合う。
異なる二つの概念融合を可能としているのはやはり、個々の概念が有する多相性が関わっていると見ていいだろう。集合的無意識と集合知。即ち『集合』という唯一点に立って思考するならば、『霊顕』と『偽獣』は一つの融合体系に昇華される。
四源の融合、或いは組み合わせ。さしもの茜屋罪九郎をしても、幻幽都市に訪れたばかりの頃は、全くと言って良い程理解出来ない考え方であった。だが、今は違う。昔と違って、罪九郎の冷たい脳細胞は四源の定義のみならず、その本質まで詳しく理解していた。本能的に理解していた。そうならなければいけなかった。なぜなら、今回の計画に使う切り札は――
「何ブツブツ独り言を呟いてるのよ」
薄暗い室内に、女のものと思われる声が木霊した。罪九郎は、急に腹が底冷える感覚に見舞われた。椅子に腰かけたまま、首がねじ切れるかと思わんばかりの勢いで、背後を振り向く。
やはり、女が立っていた。
若く、そして、はっとするくらい美しい女だった。
その整った小顔の鼻下は薄紫色のヴェールで覆われていた。引き締まった浅黒い上半身を覆っているのは、宝飾品で彩られたブラジャー風のトップスだ。脚はカモシカの様に細くしなやかで、余計な脂肪の一切がそぎ落とされている。下半身を覆うのは、蒼一色のフリルスカート。整った形の臍は丸見えで、何とも言えぬフェティッシュさを醸し出している。
一見して麗美。しかしながら、それのみに終始しているに非ず。良く見なくとも、女の肉体のあちこちには、多数の古傷が散見された。腕や肩や腰回りだけでなく、スカートに隠れた美脚にも、痛々しい刀傷や弾痕があった。十年前に負った傷は、女の心と肉体に、永劫消えぬ疵痕をつけていた。
「御台所様、お疲れ様です」
女の存在に気付いた作業員が、罪九郎を出迎えた時以上に強張った様子で立ち上がり、敬礼を決める。この態度から察するに、どうやら組織内での立場は、罪九朗よりも女の方が上であるらしい。
御台所と呼ばれた女は作業員には目もくれず、罪九郎の座る椅子の背もたれに手を掛けて囁いた。妖艶でありながら、どこか毒の込められた瞳と共に。
「最終テストは上手くいったみたいね。流石、人工血液の開発に成功した科学者なだけの事はあるわ」
「お、驚かすなや……あんた、一体いつからそこにいたんや?」
「今しがた。ついさっき」
女の、あくまで冷静な返答を受けて、罪九郎は引き攣った笑みを洩らすしかなかった。毎度の事ではあるが、この女の神出鬼没っぷりには驚かされる。それを可能にしているのは、ジェネレーターたる彼女の能力だった。心臓に悪いからやめてくれと言っても、止めてはくれなかった。罪九郎は白髪を掻いて、難しそうな表情を浮かべた。
「祝福してくれるんなら、もうちょっと派手にやなぁ……」
「祝福? 馬鹿言わないで。様子を見に来ただけよ。祝福なら、全てが終わった後にやりましょう……もっとも、その頃には、私達の勝利を祝ってくれる人達なんて、私達以外にはいない訳だけど」
小さく、女が笑みを漏らした。控えめに漏らしたその声には、しかしどこか、触れるのもおぞましい邪悪さが滲み出ていた。
罪九郎は伊達眼鏡を押し上げ、わざとらしく前屈みの姿勢を取る。作戦決行日における軍鬼兵の配備。切り札の運用法。蒼天機関が管理するヴェーダ・システムへのハッキング……計画実行をあと数日後に控えた今、やるべき事は山ほどあった。
だが、どうにも思考が纏らない。後ろに立つ女の気配を完全に無視するのは叶わない。彼女は、それだけ強力な存在感を放っていたのだ。
「(誘われるがまま、こうしてホイホイついてきたが……一体ホンマ、何者なんやろなぁ、この女)」
罪九郎は、御台所と周囲から呼ばれているこの女の素性を、まるで知らなかった。分かっているのは、彼女が何らかの強い恨みを幻幽都市に抱いているという事だけだ。女の本名も、生い立ちも、どういった経歴で組織を立ち上げたのかも、その一切が謎に包まれていた。一度、その辺りの事について尋ねた時があった。確か九年前、初めて女と出会った日の事だった。
女は何も答えなかった。答えなかった代わりに、こう言った。
『全てが終わったら、話してあげても良いわ』
ただそれだけ、言い残した。
「(別に、今となってはそんなもん、どうでもええことやけどな)」
女の得体の知れなさを不気味に思う反面、そこまで彼女の正体を知りたいとは思っていない。彼女が何処の誰で、いかなる理由から幻幽都市の破壊を目論んでいるのかといった事については、ちょっとした興味本位から聞いただけだ。本人が答えたくないなら答えたくないで、別に問題はなかった。
そんな事を考えるのに時間を割くくらいなら、運用兵器の研究に邁進した方が随分と有益だった。彼は未知への探求に取り憑かていた。今まで誰も為し得た事の無い実験結果を成功に導くことさえ出来れば、それだけで満足だった。
罪九郎は、三度の飯よりも研究を優先した。糞をする事よりも寝る事よりも、第一に優先したのは研究だった。疲れ知らずの身体にする為に、全身をサイボーグ化させたのも、ひとえに、研究へ没頭する為だった。
女が設立した組織の研究環境は、罪九朗からしてみれば、大変に居心地の良いものだった。潤沢な資金は当然の事ながら、最新鋭の精密機械をいくらでも好きなだけ購入出来た。無論、架空のダミー会社名義を使ってだ。
研究者として、これ以上の環境は無いと感じている。だから、たとえ性格のソリが合わなくとも、罪九郎は女に付き従っている。研究の邪魔さえされなければ、それでよかった。
彼の人生は、常に研究と共にあった。彼にとって学術研究は生活の一部であり、人生そのものであった。自然科学の法則――世界が隠し持っている真理の一端を解明し、そこから湧き出る知識や技術を一片残らず吸収する。それをしている時が彼にとって、生を実感出来る唯一の刻なのだ。
「ところで、『アレ』の状態はどうなってるのかしら。ちゃんと四日後の作戦決行日には、間に合うんでしょうね」
薄紫色のヴェール越しに、女が意味深な視線を投げかけた。部下に仕事の進捗状況を訪ねる上司の様な口調だった。いや、実際上司と部下の関係ではあるのだが、この問いかけは結構珍しい事だった。女が罪九郎の仕事振りを気に留める事は、これまで数えるほども無かったのだ。
「意外やなぁ、そんな事を聞いてくるなんて。今までずっとワシに任せっきりだったのが、一体どういう風の吹き回しや?」
「茶化さないで。気になって当然でしょ。万全な準備の下で進めなきゃいけないんだから。計画の失敗は絶対に許されない。いや、許してはならない。一夜限りの最終戦争に、保険は効かないわ」
「心配せんでも大丈夫や」
阿片の灰を床に落として、茜屋は自信たっぷりに告げた。
「切り札は既に成長を終えとるわ。大将がこしらえてくれた『ゆりかご』が、相当お気に召した様やな」
「あんな代物が? やっぱり随分変わってるわね。私だったら酔って吐いちゃうところよ」
「ヒハハハ。奴は人知を超えた存在やからなぁ。次元の狭間に揺られて酔うどころか、ご機嫌抜群や。何せ、そっちに移し替えてからナノマシンの成長稼働率もグングン上がっとったぐらいやからなぁ。シュミレーション・トレーニングじゃあ、骸眼も超高再生も問題なく発動しとる。あとは、『目覚まし』を鳴らしてやるだけや」
罪九郎が何を企んでいるのか、女は直感的に理解した。
不快感から、眉根を寄せる。
「やっぱり動かすのね。殺戮遊戯を。あの六人の《黒きジャグワール》を」
「当然や。ここで使わんでいつ使うんや」
冷酷に言い放たれたその一言は、女の心に、僅かばかりの怒りと寂しさを植え付けた。何のために命を与えられ、何のために生きているのか分からぬままに、死へとひた走る虚構の生命体。罪九朗が如何しても今回の計画に必要な存在だと言って聞かず、三年前にロールアウトした人造生命体は、全部で六体存在していた。
女は普段から、彼らの存在を意識の外へ追いやってきた。
同情も、出来るだけ寄せることはしなかった。
試験管の中で産まれ落ちた彼らを初めて見た時、例え難い痛みが胸を貫いたのを、女は昨日の事のように覚えていた。以来、彼女は人造生命体達からは距離を置いていた。
彼らを見ていると、昔の自分を見ているようで辛かったのだ。人間の勝手で造られた生命体に同情を傾けたとしても、それが彼らにとって救いの手にならないことは良く分かっていた。だから意識的に無関心を貫き、ずっと避け続けてきた。
しかし――そうは言っても、流石に胸にくるものがある。
「何とか――」
してあげられないのかと口にしかけた所で、不意に言葉が詰まった。
言ってはいけない。その一言だけは。
心の奥底で、もう一人の自分が警鐘を鳴らしている。
決めたではないか。忘れもしない、十年前のあの日に。全てを奪われ、絶望の底へ叩きつけられたあの日に、決意した筈ではなかったか。どんな手を使ってでも、幻幽都市の存在も、匂いすらも、この世から抹殺すると。その為なら、どんな非人道的な所業もやってのけると、天地天明に誓ったのを忘れたのか。
いいや。決して、ポーズなんかじゃない。この期に及んで、たかが人造生命体に情をほだされるなど、あってはならない。
「……やってしまいなさい。徹底的に。私達の悲願を達成するためにも」
それは、必要な犠牲である。
罪九郎がすかさず同調した。
「おう、まかせときいや。というか、もう既に一部では動こうとしとるところや」
「それは、どういう――」
「決まっとる。ヴェーダ・システムへのハッキングや」
都市インフラの中枢を担う、三元理論式非ノイマン型量子演算機構の名を口にすると、罪九郎は二本目の阿片をポケットから取り出して、続けた。
「都市の破壊工作に際して、インフラの鍵を握っとる中枢装置を麻痺さすんは定石中の定石や。作戦決行日まで時間はあるとはいえ、早めに手を打っとく必要はある」
「向こうの電脳部隊に逆探知されたら、作戦決行前に全員オダブツよ。分かってるの?」
言葉の端々に苛立ちの色が感じ取れた。ヴェーダ・システムが幻幽都市にとってどのような位置づけにあるのかを知っているからこそ見せる反応だった。
それは幻幽都市のインフラ設備の安全管理業務を一手に担っている、巨大な量子演算機構。都市の状態を常に観測し、解析し、分類し、得られた膨大な経験値から大量の知識を抽出し、蓄え、都市の各種インフラストラクチャーへフィード・バックする機能を持つ。それがヴェーダ・システム。都市が誇る知性構造体。その力は際限なく拡張中で、仮想世界を構築するネットワーク管理にまで及んでいる。
ヴェーダ・システムの防衛機能には目を見張るものがあった。それは、仮想の世界でも変わらない。システム中枢に積まれている攻性防壁の数は呆れるほどのバイト数を誇り、簡易罠の数は天文学的な数字に昇るとされている。
だが侵入者にとって一番の脅威になりうるのは、先に挙げた防衛システムそのものよりも、寧ろヴェーダ・システムの内部構造にあると言って良かった。システムの中枢部に近ければ近いほど、そこは巨大な迷宮型通路に覆われている。新人の電脳兵士が何の予備知識も持たずに警邏目的で没入すれば、無限ループの檻に囚われ、座して死を待つ状態になると言われるほどの複雑さだ。
そんな超巨大なシステムを相手にしても、茜屋の心から自らを恃む気持ちが消え失せることはなかった。万事全てが上手くいくとでもいうように、旨そうに阿片の煙をくゆらせる。
「心配する気持ちはよう分かるが、ワシかて無策な訳やない。逆探知されんよう、色々と準備はしてある」
「それでも、六人全員を没入させるのは、失敗した時のリスクを考えると、得策とは思えないわ」
「六人全員? なわけないやろ。阿呆ぬかしなさんなよ大将。ハッキングをやらすんは、『七番目』の人造生命体や。ぶっちゃけた話、作戦当日に奴は使えん。只の余り者やからな」
七番目――?
確か、貴様の子飼いの人造生命体は六人だった筈では――
「せやから、余り者って言うとるやろが」
阿片の煙を口から吐き出しつつ、彼は椅子から立ち上がった。全身から金属の擦れる音を立てながら、出口のドアへゆっくりと近づきながら口にする。
「ほらぁ、化学反応なんかでも、目的物以外に副生成物がちょろっと生成されることがあるやろ? それと同じや。亜生物工学も、反応制御面においてまだまだ課題があるっちゅうことや。ま、それでも、儲けものと思えばどうってことないかぁ」
暗がりに浮かぶ、外道科学者の青白い顔。その中心に穿たれた二つの双眸の中で、暗黒色の炎が揺らめいている。心に芽生えた邪な企みを実行へ移そうとする時の彼は、いつもこんな貌を浮かべる。
七番目、ひいては六体の人造生命体達の命運は、創造主たる彼が手綱を握っている。あの奇形人の集団をどう使おうが、それは彼の勝手であり、女の預かり知らぬ所である。
だが、容易に想像がつく。人造生命体達はきっと、碌な扱い方をされないだろう。それは、始めから分かっていた事だ。何を今更――
――胸に、何故か幻痛を覚えた。ような気がした。
「それじゃ、早速行動開始といこうかのぉ」
「どこへいくつもり?」
制御室のドアを開けようと電子ロックに手を掛けた罪九郎の肩越しに、女の声が響く。しかし彼は振り返る事なく、実に簡潔に答えた。
「決まっとるやろ。『七番目』に仕事をさすんや。それと、切り札のお守りもせなあかん。さぁーて、忙しくなって来よったで」
軽く伸びをして、彼は制御室を後にした。後には、実験終了の後片付けをする作業員が二人と、女だけが残された。
△▼△▼△▼△▼
本当に、奇特な男と出会ったものだ。
物言わぬ扉の向こうへ消えた科学者の事を思いつつ、女は、モニターを見やった。そこにはもう、何も映っていなかった。異界門の中で創造した『眼』は、既に通信カメラとしての役割を終えて、女の『力』へと還元されている。
彼と出会ったのは、些細な偶然からに過ぎない。だが一体、何が切っ掛けで出会ったのかまでは覚えていなかった。覚える必要が無かったからだ。
己の手足となって働く兵士との出会いに纏わるエピソードなど、一々覚えていられるか。
そうだ、そうなのだ。
あの頭脳明晰な科学者も、目の前で実験データの整理をしている作業員も、すべからく、只の兵士なのだ。計画を成就する為の歯車としての価値以外、何もない。兵士。即ち、唯の駒だ。そして、主人は彼女だ。この女にとっては、組織そのものすら、巨大な駒に過ぎなかった。幻幽都市壊滅作戦に必要な、従順なマリオネット。それ以外の何物でもなかった。
「(従順な、マリオネットか)」
嘗ての自分がそうだった。
自分を取り巻く世界の真実を知らなかった。胸の内に悶々とした思いを抱えていながらも、周りがそうするから従った。周囲の言葉に流されるまま、時を過ごした。
だが、彼女には最後まで出来なかった。公的に許された人殺しとはいえ、己の血を穢す事を極度に拒んだ。犯罪者とは言え、人間をその手に掛ける事を良しとしなかった。そんな事をしても、心にぽっかりと空いた空虚を、満たす事は叶わないと知っていたから。
昔は確かにそう考えていた。
今は、違う。時の運びに従い、人の考え方も次第に変わっていく。今の自分は進んで『人殺しの罪』を被ろうとしている事を、御台所と名乗る女は、改めて自覚した。
――罪なものかッ!
自分を良い様に利用し、用済みとなれば慈悲の欠片も無く放り捨てた組織と街に復讐する事の、一体何が罪だと言うのか。
「(利用してやる。とことん、利用し尽くしてやる)」
罪九郎も、ここにいる作業員も、異界の揺りかごの中で眠る、あの神獣すらも。昔の自分がそうされたように、今度は自分が周囲の者を利用し、操り尽くそう。そうして都市を奈落の底へと叩き落とす。二度と這い上がれぬよう、徹底的に蹂躙する。
気持ちの揺れは無い。しかし、彼女はどうしても、時折思い出してしまう事がある。普段、特に何も考えずに過ごしている時。短い期間ながら、共に同じ時を過ごした仲間の姿が、脳裏にフラッシュバックする。
同じ部屋で寝て、同じ釜の飯を食い、同じ戦闘服を着た、九人の仲間達。その中で、組織の追跡を無事に躱して生き残ったのは、彼女一人だけだった。
「(いや)」
目を伏せて、静かに頭を振る。
他のメンバーはあの場から逃げきれず、殺されたかもしれない。それでもあの男だけは、きっと上手く逃げおおせたに違いない。あれ程の強さを誇った彼が、そう簡単にやられるとは思えない。
怒りの拳を以て仲間を叱咤激励し続けていた、勇敢なる司令官。アヴァロだけは、別格の存在だった。如何に機関の組織力が優れているとはいえ、あの男を捕えるのは至難の業だろう。
彼は間違いなく、生きている。何の根拠も無かった。さりとて、根拠の無い自信を馬鹿には出来ない。
もし、作戦決行までに彼と出会えたら、自分はどうしただろう?駒として、迎え入れたろうか?
「(違う。きっと彼だけが私の心を分かってくれる。彼だったら、理解してくれるはずだ。彼は、私の仲間だ)」
同じ釜の飯を食っていた頃は、考え方の違いから幾度となく衝突を繰り返した。その当時は、自分の言動に誤りがあるなどとは、思ってもいなかった。
今なら分かる。力を以て力を制する事の意味を。暴力を以て暴力を蹂躙するその重要性を。生まれ変わった彼女には理解できた。
あの頃のアヴァロは、一人の人間が宿すには余りにも逸脱しすぎている異能を背負い、街の人々を守ろうと奮闘していた。
愚かだと思う。されども、蔑む気持ちはまるで無い。寧ろ、去来する想いは愛おしさだ。母が出来の悪い息子に向けるような、そう、母性に似ている。
あの頃の彼も自分と同じだ。思考を止め、上の命ずるままに、その力を振るっていたのに過ぎない。
「(可愛そうなアヴァロ。もし、今の私と出会っていたら――)」
もっと上手く、彼の力を使ってあげられる。
仲間として、迎え入れられる。
自然と、体が熱くなる。
頬に刻まれた紫色の竜の刺青が、疼き出す。




