4-50桐谷家
紗英が実家に帰ってしまってから三日が過ぎた。
俺はたった三日なのに、早くも禁断症状が出始めていた。
というのもせっかくの休みだというのに、俺は部屋で寝転んで呻いていた。
「長い…長すぎるだろ…一週間…。」
俺はズルズルと這いつくばったままベッドの脇まで移動すると、手探りで枕を掴んで引き寄せた。
そして枕を紗英だと思い込んで抱きしめる。
これだけ見てるとただの変人だが、それだけ俺には末期的な症状だった。
こうなった原因の一つにも4日前の失態が尾を引いている。
紗英が部屋に来るかと誘ってくれたのに、俺はアレを持ってなかった。
その日に限って持っていなかったのだ。
部屋で二人きりなんて、そうなるのが目に見えてる。
だからこそ、物凄く惜しい事をしてしまって自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
最大のチャンスだったのに、自分でその芽を摘み取ってしまった。
「バカだろ!俺!!」
俺は自分に対する苛立ちから枕を投げ捨てた。
俺ははぁと息を吐くと、天井を見つめて大の字で寝転がった。
「……会いたいな~…。」
俺はそれだけ呟くと目を閉じて紗英を想った。
瞼の裏に映るのは紗英の笑顔ばかりだ。
この笑顔にどれだけ救われてきただろうか?
嫌なことがあったときも、この笑顔を思い出せば心が軽くなる。
俺は紗英を思い出しただけで、気持ちが落ち着いてきたなと思ったとき、ケータイが鳴り響いて目を開けた。
紗英からかもしれないと思って、急いでケータイに駆け寄る。
でも電話をかけてきたのは、紗英とは正反対の嫌な奴からだった。
俺は出ないわけにもいかないので、通話ボタンを押して返事した。
「はい。」
『竜聖か。私だ。』
「言わなくても分かってますよ。一体何の用ですか。」
『今すぐ家に帰ってこい。話がある。』
「は?」
いつまで経っても自分勝手な桐谷の親父に腹が立ってくる。
こっちの都合も聞かずに上から命令してくるなんて最悪だ。
「今日は仕事なので伺えません。」
俺は行きたくなかったので、きっぱりと言い切った。
けれど親父は鼻で笑うと言った。
『嘘をつくな。休みだというのは鴫原に聞いている。もう、迎えをやっているから、すぐに来い。いいな。』
「ちょっ!!勝手に決めんなよ!」
俺は一方的な親父に歯向かったが、俺の言葉も聞かずに親父は電話を切ってしまった。
その直後にインターホンが鳴る。
俺はパッとついた画面を見て、唖然とした。
「迎えって…こんなんアリかよ…。」
俺は手際の良さに頭が痛くなった。
***
俺は普段着のままマンションの下まで降りていくと、親父の側近である鴫原真が夏なのにスーツ姿で立っていて目を背けたくなった。
暑苦しいっつの…
「竜聖さん、譲太郎氏がお呼びです。」
「分かってるよ!!だいたいなんで人の休みまで知ってんだよ!!」
俺は敬語を使う鴫原に腹が立って、やつあたりした。
鴫原はメガネをクイッと指で持ち上げると、ニッと笑って答えた。
「私に竜聖さんの分からない事などありませんよ。最近、お付き合いしておられる女性の事も調べさせていただきましたしね。」
「は!?おま…何やってんだよ!?」
紗英のことまで調べたことに驚いて俺は鴫原に詰め寄った。
鴫原は顔色一つ変えずニコニコしたまま、車を手で示してくる。
その仕草から答える気はないと分かって、俺はしぶしぶ車に乗り込んだ。
黒塗りのその車は下手したらあっち系の職業に見られそうなもので、俺は桐谷の家と関わるのが心底嫌になった。
母さんの事がなければ、もっときつく言えるのに血の繋がった家族というのは本当に厄介だ。
俺は冷房の効いた車内でなるべく早く帰れることだけを願った。
***
ものの30分ほどで、桐谷のでっけー家に着くと松の木が植わってる日本庭園の庭を歩いて、大きな引き戸を開けて家の中に入った。
入った瞬間、バタバタと足音がして母さんが玄関に姿を現した。
「竜聖。おかえりなさい。元気にしていたの?」
「ただいま。」
母さんは靴を脱いでもいない俺の傍に駆け寄ると、あちこち体を触ってから抱きしめてきた。
その腕の細さを見て、俺は顔をしかめた。
また痩せたな…
母さんの方が元気なのかと心配になる。
「玲子様、竜聖さんは譲太郎氏に呼ばれているのです。申し訳ありませんが、お話は後ほどにしていただけますか?」
「あ、ごめんなさい。そうだったのね。」
鴫原に諭されて母さんは俺から離れた。
俺は鴫原から「お早く」と鋭い目で見られて、ふっと息を吐くと靴を脱いで親父の部屋に向かった。
長い廊下を歩きながら、後ろをついてくる鴫原に呼び出された理由を尋ねてみる事にした。
「親父は何で俺を呼んでるんだ?母さんも元気そうだし、呼ばれる理由が分からないんだけど。」
「…それは譲太郎氏の口からお聞きになってください。」
鴫原は定型文のようにさらっと言い切ってしまい、俺は追及できなくなった。
俺は母さんが呼んでるという理由以外で呼ばれるのは久しぶりの事で、なぜだか嫌な予感が脳裏をかすめていく。
俺の生活に口出す系の話だったら、真っ向から歯向かってやろうと心に決めて親父の部屋の前に立った。
鴫原が先に入って親父に俺が来たと伝えてから、少し遅れて俺も部屋に入った。
親父は畳の上にいつも通りドンと背筋を正して座っていて、だらしない浴衣姿で俺を見上げてきた。
日に焼けた肌や白髪交じりの髭と頭髪がもうヤクザの親分にしか見えない。
「久しぶりだな。まぁ、座れ。」
親父は相変わらず上からで目の前の座布団を示してきた。
俺はさっさと用件を聞いて帰りたかったので、ドカッと座布団に腰を下ろした。
「呼び出した用件は何ですか?」
「まぁ、そう急くな。どうだ一人暮らしは順調か?」
珍しく世間話なんてどういう風の吹き回しだ?
俺はケンカを売るように顔をしかめて答えた。
「ええ。一人暮らしはここと違って快適ですよ。誰かの小言も聞かなくていいですしね。」
「はっはっは!お前も言うじゃないか。そうだろうな?沼田…紗英さんだったか?仲良くしてるんだろう?」
紗英の名前が親父の口から出て目を剥いた。
親父を凝視していると、親父は意地悪く口元を吊り上げた。
「鴫原から全部聞いている。この一カ月ほど、お前はえらく変わったようだな。何があった。話せ。」
「…嫌です。」
俺はやっと手に入れた場所をこいつに侵されてなるものかと歯向かった。
親父を睨んで口を開く。
「俺はこの家とは縁を切りました。口出しされる覚えはありません。」
「それはお前が一方的に言ってることだろう?桐谷の姓を名乗ってる限り、お前は桐谷の人間だ。」
「じゃあ、桐谷の名を捨てます!!」
俺はどこまでも縛り付けようとする親父を見て立ち上がった。
「俺は一人で生きていく。もう何も言ってこないでください!」
「それができるわけないのはお前が一番よく分かってるはずだが?」
鋭い目で射抜かれて、俺は言葉を失った。
親父の言う通りな事がムカムカしてくる。
俺には母さんを一人、この家に残せるはずもなかった。
五年前――――
俺が何もかも失って、自分のことも分からなかったところへ母さんだけが自分を救ってくれた。
俺を引き取る事を大反対していた親父に頭を下げてくれたのは母さんだ。
親父は俺に引き取る価値があるか見せろと言って、しぶしぶ俺を引き取った。
だから、俺は高校と大学の間は親父の言う通りにしてきたし、留学までしてその価値を示したはずだった。
でも、こいつは価値を見出すと跡取りになれと言ってきた。
ふざけるなと思った俺は大学卒業と同時に家を出た。
縁を切ると言い残して…
俺は紗英と母さんが頭の中にちらついて、親父に言い返す言葉が見つからない。
「お前の一人暮らしを認めたのは、お前がここしか帰る場所がないと分かっていたからだ。」
親父は黙っている俺を見据えて言った。
俺はその鋭い目から目が離せなくて、じっと立ち尽くす事しかできない。
「だがな、最近のお前の様子を聞いていると、その状況が変わっていると感じてな。お前、失った記憶に何か変化でもあったのか。」
俺は紗英や竜也、翔平のことを訊かれていると分かって、心臓が嫌な音を立て始める。
こいつ…どこまで知ってる…?
どれだけの事を調べたんだ…?
俺は親父のことが分からなくて、とりあえず聞かれたことだけ答えることにした。
「変化はありません。」
「そうか。じゃあ、その失くした記憶に関わる関係者と接触したのか。」
「…そ…それは…。」
俺は本当の事を言うべきなのか迷った。
親父の目から視線を外せなくて、嫌な汗が背中を伝う。
すると後ろから鴫原が声を上げた。
「竜聖さんは宇佐美麻里さん以降初めて、この春中学、高校の同級生と接触されています。沼田紗英さんもそのお一人です。」
「し…鴫原…。」
鴫原は全部知っていたというように、親父に伝えた。
俺は親父の反応が怖くて、じっと親父の顔を見つめると、親父はふっと微笑んだ。
「お前が丸くなったのはそのせいか。納得した。」
親父はそう言うと立ち上がって俺の目の前に移動してきた。
俺と目線の変わらない親父は、まっすぐ俺を見ると言った。
「お前に丸さや優しさは必要ない。俺の跡を継ぐんだからな。もう一度自分の立場を思い出せ。」
「…何言って…。俺は跡継ぎじゃない!」
「黙れ!何のために血の繋がらないお前に投資してきたと思ってる。お前にその素質がなければとっくの昔に放り出してる!」
「そっ…血の繋がらない俺より、自分の息子の猛に継がせればいいじゃねぇかよ!!」
「あいつには素質がない。それは幼少の頃から分かってた事だ。お前は猛の事は気にしないでいい。」
素質って何なんだよ!!
俺は自分勝手で横暴な親父に頭にきた。
俺は親父から一歩離れると告げた。
「俺は継がないからな!!こんな家、母さんがいなけりゃとっくに捨ててるんだから!」
「今はそう言ってろ。いずれ逃げられなくなる。」
「帰る!!」
俺はイライラも絶頂で親父に背を向けると部屋を飛び出した。
だんだんと足音を立てながら廊下を歩いていると、前から母さんが駆け寄ってきた。
俺はその細い姿を見て、苛立ちが少し収まった。
「竜聖。またお父さんとケンカしたの?」
「……違うよ。ちょっと言い合っただけだ。」
俺はいつも母さんを心配させているので、これ以上気に病ませたくなくて取り繕った。
母さんはガリガリの手で俺の腕に触れるとすがるように言った。
「お父さんはあなたに期待しているのよ。だから、少し言い方がきつくなってしまうの。許してあげてね。」
「……分かってるよ。」
母さんはホッとした顔で微笑むと、「最近の話を聞かせて。」と客間に引っ張って行くので、俺は仕方なく少しだけ付き合う事にした。
客間の机の前に母さんと隣同士で座ると、お手伝いである女性がお茶を出してくれて、俺は軽く会釈で返した。
そして、話してもいいのかと思ったけれど、母さんには自分の口から紗英や翔平、竜也の事を伝えたくて口を開いた。
「俺、この春に懐かしい奴らと再会…っていうのかな…記憶がないからアレだけど、出会ったんだ。もしかしたら母さんも知ってるかもしれないんだけど…、中学の同級生なんだ。」
「…中学の同級生?」
中学の同級生と聞いて、少し母さんの表情が曇った気がしたけど、俺は気にせず続けた。
「うん。知ってるかな。沼田紗英に本郷翔平、あと山本竜也。翔平と竜也は俺と親友だったみたいでさ。紗英とは高校のとき付き合ってたみたいで…実は、今ちゃんと付き合ってるんだ。」
俺は紗英の話をするのは少し気恥ずかしかったが、母さんに紗英の良さを知ってほしくて続けた。
「紗英はこの5年俺のこと待っててくれたみたいで、記憶のない俺とも友達になってくれて…そこから翔平や竜也とも仲直りしたんだ。それから、三人で遊んだりとか…紗英とは色んなところでデートしたりとか…。紗英ってさ、いつも笑顔で優しくてさ、俺…そんな紗英が大好きでさ…いつか母さんにも――」
俺はふと母さんの顔を見て、その表情に声が出なくなった。
母さんはいつもの優しい笑顔じゃなくなっていて、今にも泣き出しそうに俺を見つめていた。
「か…母さん?」
俺が声をかけると母さんは顔をしかめて涙を流し始めて、俺はそれを見つめることしかできなくなった。
母さんはボロボロと涙を流しながら、唇を震わせて言った。
「りゅうせい…竜聖が一番好きなのは母さんじゃないの?」
「へっ…?」
母さんが暗いその声を聞いたとき、俺の頭が急に痛くなった。
俺は母さんの初めて見る顔に呼吸が浅くなる。
なんだ…母さんが…怖い…
俺は母さんから離れようと後ろに下がった。
しかし母さんに腕を掴まれてしまい、俺はその場に固まった。
「母さんが一番でしょう?竜聖…。」
「か…母さん…何言って…いっ!!」
俺の腕を掴んでいる母さんが爪を立ててきて、思わず痛みに顔をしかめた。
母さんは俺が顔をしかめていても、力を弱めようとしない。
この細腕にこれだけの力があるのが驚いた。
「母さん!やめてくれよ!母さんも大事だけど、やっぱり好きなのは――」
「その口で同じことを言わないで!!」
母さんは俺の言葉を遮るように声を張り上げると、俺の首を掴んで押し倒してきた。
畳に押し倒されて、俺は首に手があることに悪寒がした。
首を絞められているので、息も苦しくなってくる。
そのとき脳裏に変な残像が過った。
暗い廊下、目の前には同じように泣いて俺にのしかかる母さんの姿。
苦しい、助けてという感情が胸に広がってくる。
俺はその嫌な記憶を打ち消したくて、力いっぱい母さんを押しのけた。
細腕の母さんは後ろ向けに吹き飛んで、俺はその場に手をついて何度もむせた。
そして呼吸が整ってきて、母さんを見ると母さんは畳にうつ伏せになってすすり泣いていた。
「か…母さん…。何で…こんなこと…。」
母さんはすすり泣くだけで、俺の問いには答えようとしてくれなかった。
俺はしばらくその姿を見つめていたが、また同じ状況になったらと思うと怖くなったので、母さんを残して部屋を出た。
そして玄関に向かいながら、俺はさっき思い出した記憶が何なのか言い様のない不安で胸の奥が気持ち悪かった。
やっと桐谷のお家を出すことができました。
次は紗英の帰省編です。




