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[第九話 眠れる都市の奇書 前編]

 私は生涯をかけてある魔術書を探してきた。それは八世紀に狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザードが記したと言われている、『アル・アジフ』という書物だ。それには多くの版が存在した。私は世界中の図書館を巡り、それを見比べてみた。どの書物も、良くない状態で保存されていたのか、文字を判別できない部分があり、全てを読み通すことは叶わなかった。その上、不思議なことに、版が微妙に違うのか、それとも長い時間の果てに失われたのか、一つとして全く同じものは無かった。ただ、どの書物にも載っているこの詩句が私の心を捉えて放さなかった。

永久(とわ)の憩いにやすらぐを見て、死せる者と呼ぶなかれ。果て知らぬ時ののちには、死もまた死ぬる(さだ)めなれば」

 私はアラビア語で書かれたオリジナルを再現するために、活版印刷技術が普及する以前に書かれた写本を探し求めようと思う。

 

                                         ――ある死霊術師(ネクロマンサー)の残した日記より


 夢から目覚めたとき、その目覚めもまた一つの夢であると知り、見ることの叶わなかった夢や死もまた一つの夢なのだと悟る。私達は死を骨の髄まで恐れるがゆえに、毎晩夢を呼ぶのだ。


                                         ――あるブエノスアイレスの図書館員による詩の一節より


 その部屋は、簡素な執務室だった。部屋の主の性格を反映したのか、無駄なものは何一つ置かれてはいない。そこは随分と見晴らしのいい部屋で、広い窓から覗く空は澄んで清々しく晴れ渡っている。差し込んだ陽光に照らされて、室内は明るい雰囲気を醸し出していた。その雰囲気にそぐわない仏頂面で、部屋の一番奥に置かれた机の前に座っている男は、一見したところ、十代後半にも二十代前半にも見える。だが、その髪の色は抜けるような白さだ。青灰色の目をせわしなく動かしながら、彼は幾つもの書類に目を通していく。

「厄介なことになりそうだな」

 白髪の男は眉間に皺を寄せ、独り呟いた。それから、机の上に置いてあるペンを手に取り、大量の書類に順番にサインしていく。彼が、その作業を半分ほど終えたとき、部屋の扉が叩かれる音がした。書類を捌く手を止めずに、彼は来訪者に対して室内へ入るように促す。

「入れ」

 その声に応えて、入って来たのは、鮮やかな漆黒の髪をした女だった。目は髪と同じ黒色で、透き通るような白い肌をしている。整ってはいるが無表情な顔は、彼女を精巧な人形のように見せていた。

「失礼します、海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズ、クリスタロス・ヴァイナモイネン」

 彼女は思わず舌を咬みそうになる、白髪の男の名前を一字一句違えることなく、正確に呼ぶ。魔術師同士の正式な挨拶のやり方だが、長ったらしい彼の通り名と名前をそのように呼ぶものは少なかった。若い魔術師達は、彼のことを、有名なパニック映画のタイトルそのままに、「ジョーズ」あるいは「ジョーズ・クリス」と呼ぶのである。クリスタロスと呼ばれた白髪の男は、書類から目を離して、漆黒の女のほうへと視線を向ける。

「遅かったな、黒の人形師(ブラック・パペッター)綾織絢(あやおりあや)。ルドラの所に寄っていたのか」

 漆黒の髪の女、絢は軽く頷いて見せた。

「ええ、遅れてすみません。ですが、私の所属上、そちらへの報告が先になりますので。貴方が私を呼んだのは、災厄(ディザスター)の件についてでしょうか」

 クリスタロスは、その呼び名を聞いて、苦虫を噛み潰したような顔をする。

「違う。いや、全く無関係という訳ではないだろうが。結界都市の精霊の定期調査の件だ」

 結界都市とは、絢が住んでいる日本の街、城ヶ崎市の通称である。城ヶ崎市は、街全体をドーム上の結界で覆われているため、魔術師の間ではその呼び名で呼ばれているのだ。絢は表情を変えずに、クリスタロスの顔を眺める。

「それがどうかしましたか。確かに先月は通常よりも精霊の数が少なかったかもしれません。しかしあの街は基本的にそれほど精霊の活動は活発ではありませんし、この間の悪魔騒ぎのせいで精霊が逃げ出したせいだと思いまして気にも止めませんでしたが」

 クリスタロスは、机の上に頬杖をついた。それから絢を見上げながら、唐突に話題を変える。

黒の人形師(ブラック・パペッター)。何故、城ヶ崎市が結界都市と呼ばれているのか、お前は知っているか?」

「当然、あの街全体に巨大な結界が張られているからでしょう」

 淡々と答える絢。それに対して、クリスタロスはその青灰色の目を鋭く絢に向けた。

「お前はあの結界は何のためにあるものだと思っている?」

 予想外の問いを投げかけられた絢は、一瞬言葉に詰まった。思考を巡らせるように首を傾ける。しばらく考えた後に、彼女はゆっくりと口を開いた。

「外敵から身を護るために、昔の魔術師が結界魔術を施したのではないのですか」

 クリスタロスは、絢の言葉を即座に首を振って否定した。

「その逆だ。あの結界はあるものを封印するために張られたものだ」

 絢は疑問に思って、クリスタロスに問う。

「あるもの、とは何ですか?」

「お前達若い魔術師は、知らないだろうな。いや、年経た魔術師でもかつてあれに関わったものは、記憶が曖昧になっているものが多い。明確に覚えているものは、あれについて語りたがらないだろうし」

 クリスタロスは何故か言葉を濁すように言った。

「あれ、とは一体?」

 曖昧な返答を受けて、絢はさらに問いを重ねる。

「ある有名な魔術書の古い写しの、もっとも酷い部分だ」

 クリスタロスは顔全体に渋面を浮かべ、忌々しげに吐き捨てた。

「『アル・アジフ』。あの魔術書の一部だよ」

 絢は首を捻って、訝しげにクリスタロスのほうを見る。

「あれは、確か世界に数部しか存在していないはずですが。しかもどれも一般の人間には閲覧できないように厳重に保管されているはずです」

「その通りだ。ここロンドンの大英図書館。パリの国立図書館ビブリオテーク・ナショナル。マサチューセッツのハーバード大学ワイドナー記念図書館。同じくマサチューセッツのミスカトニック大学付属図書館。そしてブエノスアイレス大学付属図書館」

 クリスタロスは世界に名だたる図書館の名を、指折り数えながら順番に挙げていく。

「だが、そこにあるのは全て、活版印刷技術の普及した十五世紀半ば以降に印刷されたものだ。実のところ印刷されたあの魔術書というのはたいした代物ではない。もちろん、実際にその本に書かれた魔術を行うのであれば、厳重に注意すべきだがな」

 クリスタロスの言葉に、彼の言いたいことを察した絢はこう返す。

「では、問題になっている『アル・アジフ』というのは、印刷物ではなく、人の手によって書かれたものだということですか?」

「ああ。お前も知っている通り、無詠唱魔術の一派に、文字魔術というものがある。精霊や悪魔のような魔術的存在と契約した人間が、任意の言葉を書くことによって行使する魔術だ。一般にはルーン文字を用いたルーン魔術がよく知られている。恐ろしいことに、ダマスカスであれを書いた狂えるアラブ人は文字魔術を使って魔術書自体に魔術をかけた。その挙句に、自身の呼び出した何者かに喰われてしまったようだが」

 クリスタロスはそこで嫌なものを想像するかのように、わずかに顔を顰める。それから息を吐いて説明を再開した。

「そのアラブ人の死後まもなく、ダマスカスはアッバース朝により陥落する。そうしてその書は、動乱の折に、アッバース朝の首都バグダッドへと移された。それから後、それはかの有名なハールーン・アッラシードに仕えていた錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンの手に渡った。彼はその魔術も含めて正確に書き写したと言われている。彼はその当時著名な学者だった。そのため、多くの彼の弟子がその書に触れた。問題はここからだ。彼の弟子達は『アル・アジフ』を様々なやり方で写した。それらの写本の中には例のアラブ人のオリジナルよりも酷い魔術がかけられたものも存在するらしい。それらの内の何冊かはシルクロードを通り、唐へ渡ったと伝えられている。おそらく、城ヶ崎市に封印されている写本は宋の時代に日本へもたらされたものだろう」

 絢は、その魔術書が辿った歴史を静かに聞いていた。しかし、彼女が聞きたいのはそんなことではない。彼女が聞きたいのは、城ヶ崎市の精霊の異変と狂えるアラブ人が書いた魔術書にどんな関係があるのか、ということだ。

「城ヶ崎市にある『アル・アジフ』は、封印しなければならないほど酷いものだったのですか?」

「ああ。私達が、日本に初めて行ってあの街を見つけたときには驚愕したものだ。誰が何のためにあんな巨大な結界を張ったのかとな。あの街はちょうど龍脈レイラインの上にある。だからあの結界魔術は、龍脈レイラインの持つ魔力によって半永久的に作動していた。私達のうちの一人が、興味本位でその結界の中心を調べたときに悲劇は起こった」

 絢はクリスタロスに問うような視線を向ける。クリスタロスは話を続けた。

「その結界の中心に封印されていたのは一冊の本だ。その本の表紙にはアラビア語で『アル・キターブ・アル・フェッカ』と書いてあった。アラビア語で欠けたる書物という意味の言葉だ。だからこそ、その魔術師はその本がかの悪名高い魔術書の写本であることに気付かなかった。無造作にその本を開いた魔術師は、それにかけられていた文字魔術を作動させてしまった。そこからは悲惨だったよ。あの街にいたほぼ全ての人間が意識を失ってばたばたと倒れていった。全く私が意識を保っていられたのが不思議なくらいだ。多くの魔術師の犠牲を払って、その本は再び封印された」

 クリスタロスの長い話を黙って聞いていた絢は、そこでやっと得心したようだった。

「つまり、貴方は城ヶ崎市の精霊が逃げ出したのは、その魔術書の封印が弱まったせいだと思っているのですね?」

 クリスタロスは首を縦に振って、絢の言葉を肯定する。

「私は、この件を任務として災厄(ディザスター)に依頼しようと思う」

 絢は驚きに目を大きく見開いた。

「正気ですか? 貴方は彼をあんなに嫌っていたのに。それとも、これは彼に対する嫌がらせですか」

 むっとしたのか、クリスタロスは剣呑な目付きで絢を睨み付ける。

「私はこういったことに個人的な感情を持ち込むほど愚かではない。あれがあの街に住んでいる以上、この件に関しては適任だろう。それにあの本の封印が完全に解けた場合、(ウーヌス)でもないと手がつけられん」

「分かりました。では、私から彼に依頼すればいいのですね」

 絢は確認するように、こう聞いた。

「ああ。よろしく頼んだぞ」

 絢はクリスタロスに軽く一礼してから、部屋を退出する。それを見送った後に、溜め息を吐いて、クリスタロスは独りごちた。

「さて。彼女だけではあれを止めるには心許ないな。道化の王のサーカスザ・サーカス・オブ・シャーマイムに依頼するか」

 そうして彼は机の上に置いてある電話の受話器に手をかけた。


     *

 

「あの人達は僕を何だと思ってるんだか」

 鏡の前に立ち、肩まで届く長い銀髪を無造作にターバンで纏めながら、色素の薄い碧の目を不機嫌な色に染めて、その男はぶつぶつと呟いた。

「まあ、働いた分の報酬はちゃんと貰うけどさ。ようやく、神殿の首領(マジスター・テンプリ)からの厄介事が片付いたと思ったら、今度はクリスか。最近体良く使われてるような感じがするんだけど、気のせいかな」

 銀髪の男がいる部屋はロンドンのとあるアパートの一室だ。室内はあまり広くはなかったが、それなりに小奇麗には片付けられていた。その部屋の主の名を、ティル・エックハートといった。魔術結社天水遊技団ザ・サーカス・オブ・シャーマイムの首領である魔術師だ。

「全く(ウーヌス)っていうのはどいつもこいつも偉そうなんだから。一番酷いのは僕の師匠だけど。あーあ、魔術師としての強さと、性格の良さってのは反比例するものなのかも」

 ティルが、新たに思い付いた仮説について、自身の脳内で検討し始めたとき、呼び鈴が鳴った。ティルは慌てて玄関に走り、扉の把手(とって)を引き開ける。そこに立っていたのは、茶色の髪を短く切り揃えた少女だった。くりっとしたアイスブルーの瞳を、ティルのほうへ向けてくる。

「おはよう、ティル。何だか機嫌が悪いみたいだけど」

「ああ、シャルロット。クリスがね、ちょっと面倒事を押し付けてきたんだ」

 彼女の名をシャルロット・ヴァレンタインという。まだ若いが、魔術学院を飛び級で卒業した優秀な魔術師だった。魔術師としての位階は上から六番目のVI(セクス)であり、天水遊技団ザ・サーカス・オブ・シャーマイムの一員である魔術師である。

「クリスって、あのジョーズ・クリス?」

 シャルロットは目を大きく見開いて、驚いたように聞き返す。ジョーズ・クリス、すなわち海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズ、クリスタロス・ヴァイナモイネンは、現在、世界で七人しかいない魔術師の最高位(ウーヌス)のうちの一人であった。水の詠い手、氷の刃(アイシクル・エッジ)など数々の異名を持つ魔術師であり、魔術組合(ギルド)の元老院議長を務める人物だ。

「ティルって、もしかして凄い魔術師に気に入られる体質なんじゃないの?」

 シャルロットが問うと、ティルはうんざりした顔をする。

「別に気に入られるようなことをした覚えはないんだけどね。彼等が僕に興味を持ったのは十中八九メリル師匠のせいだよ」

 ティルの師匠である言霊使いの魔女、メリル・シェーラザードも、クリスタロスと同様に位階(ウーヌス)に達している魔術師であった。ティルはその唯一人の弟子である。

「でも、あの災厄(ディザスター)と友達なんでしょう。とても信じられないけど」

 呆れさえ含まれる声音で、そう言ったシャルロットに、ティルは苦笑して見せた。

「魔術学院時代の同級生だからね。腐れ縁みたいなものだよ」

「へえ」

 シャルロットは釈然としない表情で、しばらく首を捻っていたが、すたすたと部屋の奥のほうへ歩いていく。そして、ふと窓際の机の上に目を留めた。そこには一冊の本が広げたまま置いてあり、そこに貼られた糊付きの付箋紙には筆記体でメモ書きがしてあった。


 "That is not dead which can eternal lie, (永久の憩いにやすらぐを見て、死せる者と呼ぶなかれ)

 And with strange aeons, even death may die." (果て知らぬ時ののちには、死もまた死ぬる定めなれば)


 不思議そうにシャルロットはそのメモを眺める。

「ねえ、ティル。これは一体何なの?」

「ああ。個人的に僕はある死霊術師(ネクロマンサー)について調べてるんだけど。彼の日記に書かれていた言葉なんだ。クリスが頼んできた今度の任務にも関係あるかもしれない」

「それってどんな任務?」

「結界都市にある魔術書の封印を確かめてくること。これはその魔術書に出てくる言葉だ」

「ふうん、どういう意味なのかしら、これ」

 シャルロットは小首を傾げて聞いてきた。ティルはかぶりを振って答える。

「さあね。その魔術書を書いた狂えるアラブ人は夢の中で砂漠に佇む呪われた都市を垣間見て、この言葉を書き記したそうだけど。専門家の間では二種類の解釈が成されているらしい」

 シャルロットは興味深そうにティルの顔を覗き込んだ。

「詳しく説明してくれない?」

 ティルは机の上に置いてある本を手に取って、ぺらぺらとめくりながら解説する。

「一つはね、これはある種の黙示(アポカリプス)なんじゃないかって説だ」

 シャルロットはああ、と納得したような面持ちで、言葉を口にした。

ヨハネの黙示録ブック・オブ・レヴレイションみたいな?」

「そう。つまり、終末を預言する詩句だっていう説。そのアラブ人は夢の中で神と接触して世界の終末を見せられた。封印されていた神々が復活して世界を滅ぼす日をね」

「それじゃあ黙示録そのまんまじゃない」

 シャルロットはつまらなさそうに口をとがらせる。

「もう一つの説は何なの?」

 ティルはにやりと悪戯っぽく笑って、こう言った。

「この言葉自体が、魔術そのものだった、という説だよ」

「文字魔術、ということかしら?」

 シャルロットが聞くと、ティルは首を縦に振って肯定する。

「その通りだ。この本はもともとアラビア語で書かれていた。そのアラビア語の言葉で、狂えるアラブ人は神と契約して、文字魔術を行使したというものだ。シャルロットも知っている通り、文字魔術の制約はとても厳しい。綴りだけでなく、字体も正確に書かなければならない。その代わり、魔力の供給源さえあれば、効果は永続的だ」

 シャルロットは部屋中に響くほどの大声で、疑問を掲げた。

「でも、そんなのって聞いたことがないわ! 精霊や悪魔ならともかく、神と呼ばれる存在と一魔術師が契約するなんて、ありえない」

 ティルは口元に柔和な笑みを浮かべて見せる。

「そうだね。どちらにせよ、彼は人間の手に負えない存在と契約したのだろうと言われている。その魔術書はどうやらどんな魔法具よりも取り扱いに注意しなければならないらしいから」

「で、ティルはその取り扱い注意な魔術書をわざわざ日本まで行って見てくる訳?」

 シャルロットが尋ねると、ティルは疲れたような表情で、大きく溜め息を吐いた。

「まあ任務だからね。仕方がない。またしばらく留守にすることになると思うけど、よろしく頼む」

「分かったわ」

 シャルロットは小さく頷いて、了承の意を示した。


     *


 空には雲一つなく、天気は上々だった。穏やかな陽光が、辺りを眩く照らす。見事なまでの快晴だ。城ヶ崎高等学校の教室で、黒髪の少年、久住肇(くじゅうはじめ)はそんな窓の外の風景を眺めながら、漢文の授業をぼんやりと聞き流していた。


春眠(しゅんみん)(あかつき)を覚えず

 処々啼鳥(しょしょていちょう)を聞く

 夜来風雨(やらいふうう)の声

 花落つること知らず多少いくばくぞ」


 教師が有名な孟浩然(もうこうねん)の五言絶句を朗読している。

 ――ただでさえ眠いのに、さらに眠くなるような詩だ。

 肇は内心そう思う。さっきから欠伸が出そうになって仕方がない。斜め前の席に座っているクラスメイト、上野寿人(うえのひさと)を見ると、彼は完全に机に突っ伏して熟睡していた。肇の席からは他にもちらほらと眠っている生徒が見える。肇の幼馴染の少女、宮地悠(みやじゆう)は教科書に落書きをしながら、ひたすら眠気と闘っていた。

 ――何やってんだか、あいつは。

 肇は呆れて、口元に笑みを浮べる。その様子を見て、肇の眠気は少し収まった。教師の授業をまともに聞いているものなど、ほとんどいない。いくら午後の授業が眠いものだといっても、これは酷すぎる。肇は教師が少し気の毒になった。肇はきちんと授業を聞こうと、改めて教科書を眺めて、書き下し文をノートに記入していく。その時だった。

 ――っ!

 一瞬意識が飛んだ。肇はつい手に持っていたシャープペンシルを床に取り落としてしまった。最近あまり寝ていなかったから、体調が悪いのかもしれない。そう思って、彼は身を屈めてシャープペンシルを拾い、眉間の辺りを押さえて深呼吸した。それから、何となく教壇のほうに立つ教師のほうを見やる。そして感じたのは。違和感(・・・)だった。

 教師はゆっくりとふらつき、足元がおぼつかない。そのまま二、三歩前に進んで、教卓のほうに大きな音を立てて倒れ込む。肇は思わず席を立ち、叫び声を上げた。

「先生!」

 何もかもがおかしかった。普段こんなことが起これば、教室中がざわめきに包まれるはずだ。だが、周りを見回せば、クラス中の全員がすっかり眠りこけていた。肇の背筋を悪寒が突き抜ける。その瞬間、彼を再び眩暈が襲う。肇はへなへなと床に座り込んだ。意識を何とか保ちながら、机の上に置いてあったシャープペンシルを片手で掴んで、自分の腕を思い切り突き刺した。痛みで意識を明確にする。

 肇は立ち上がると、教壇のほうに近付き、無理な姿勢で教卓に倒れ込んでいた教師を床に横たえた。それから、窓際の席に座って眠り込んでいる、幼馴染の少女の肩を強く揺すって起こそうとしたが、失敗に終わる。肇は舌打ちし、走って教室を出た。隣のクラスを覗き込んだが、状態は似たようなものだ。

 ――こんな異常事態は、おそらく魔術によるものだ。だから魔術師ならば対処法を知っているはず。

 肇は自らの師匠である金髪の魔術師の顔を思い浮べながら、校舎の階段を急いで駆け下りる。肇が校庭を突っ切り、学校の外に出たとき、彼は信じられないものを見た。道路の車やバイクが不自然な場所で静止している。まるで時が止まったかのような有様だ。運転手も、石になったような姿勢で固まっている。肇はぞっとした。城ヶ崎市はすっかりゴーストタウンと化したかのようだった。肇は大地を蹴って全力で走る。

 住宅街にさしかかったとき、またしても肇を酷い頭痛が襲った。もはや立っていることも叶わない。その場に(うずくま)り、そのまま道路に倒れ伏した。硬いアスファルトの感触。

 ――く、そ……もう駄目か……

 その時、肇の頭上から、馴染み深い声が降ってきた。

「何だ、こんな所にいたのか。随分と探したぞ」

 肇は何とか頭を上に上げる。霞む視界の中、捉えたのは、光のごとき鮮やかな金髪。肇の師匠にあたる魔術師、アルファルド・シュタインだった。これほどにも、彼が頼もしく見えたことは今まで一度もない。肇は安堵して、自らの意識を手放した。


     *


 綾織絢(あやおりあや)が、その部屋に足を踏み入れたとき、そこはまるで戦場だった。

「末広町から本町へ向かう道路は閉鎖しました」

「予定通り、静止魔術を作動させろ。道路と建物の境界には結界を張るように」

「例の封印はどうなっている」

「これ以上は近付けません!」

 せわしなく飛び交う言葉。ばたばたと、人が入れ替わり立ち替わり部屋の中に入ってくる。その中心にいるのは三十代前半ほどの黒髪の男だった。彼は魔術師としては古典的な黒い長衣を身に纏い、片眼鏡をかけて、いかにも神経質そうな細面の顔付きをしている。彼はただでさえ鋭い目付きをさらに鋭くさせて、周りに的確に指示を下していた。

時計仕掛けの叡智ホロロギウム・サピエンティアエ。これは一体どういうことです」

 絢はつかつかとその男に歩いて近付くと、珍しくきつい口調で問うた。

「詳しく説明している暇はない、黒の人形師(ブラック・パペッター)。ある魔術書の封印が弱まったとだけ言っておこうか」

 黒髪の男は絢に剣呑な眼差しを向けて、こう答えたのみである。彼の名を、芦川賢治(あしかわけんじ)といった。魔術師としての位階は上から二番目のII(ドゥオ)。ここ日本魔術組合(ギルド)支部の支部長を務めている人物であり、ルーン魔術のスペシャリストでもある。

「『アル・キターブ・アル・フェッカ』ですか」

 絢はクリスタロスの言葉を思い出して、言葉を口にした。

「知っていたのか。さすがに優秀だな」

 賢治は感心したように絢の顔をまじまじと眺める。絢は口調を淡白なものに戻して、そっけなく言った。

海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズから聞いただけです。彼はこの件を災厄(ディザスター)に任せるつもりでしたが、少し遅かったようですね」

 絢の言葉に、賢治は片方の眉をわずかに上げて見せる。

「どちらにせよ、災厄(ディザスター)はこの件に関わらざるを得ないだろうが、海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズの依頼があるのは助かる。私の立場からは彼に命令できないからな」

 絢は首を傾げて、賢治に尋ねた。

「あの魔術書をどうやって封印するつもりですか」

「この状態でもまだ封印は完全に解けている訳ではないのだよ。単に封印が弱まっているだけだ。誰かがあの魔術書に近付いて上から文字魔術を施さなければならない」

 賢治は大きく息を吐き、一拍置いてから続ける。

「しかし、並の魔術師では、あれに近付くことすらままならないだろう。あれの近くで意識を保っているのは、とても難しい。私が行くつもりだったが、海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズの依頼書があるのなら災厄(ディザスター)に任せたほうが安全かもしれんな」

 絢は賢治の顔を無表情に見つめて同意する。

「私はもとよりそのつもりです。彼にもたまには働いてもらわないと」

「では君は災厄(ディザスター)を探してくれ。見つけ次第こちらに連絡を頼む」

「分かりました」

 絢は頷くと、急ぎ足でその部屋から出ていった。


     *


 長い夢を見ていた。夢の中で久住肇(くじゅうはじめ)は小さな子供だった。城ヶ崎市の北にある緑地公園に、彼はいた。彼の父親である久住敦(くじゅうあつし)も、母親である久住芹亜(くじゅうせりあ)も一緒だった。緑地公園の中心には大きな噴水があった。そこで、彼は水浴びして遊んでいた。水を両手で掬い、自分の母親に差し出す。彼女は長い茶色の髪を風に靡かせ、穏やかに微笑む。そして、両手を器の形にして、肇の差し出した水を受け取り、飲んで見せた。肇はそれを見て喜ぶ。それから彼女は、手を肇の頭の上にのせ、黒髪をくしゃくしゃと撫でる。肇は自分の大好きな母親が自分に構ってくれるのが嬉しくて仕方がない。彼女は、肇に噴水の前で待つように言った。すぐ戻って来るからと。彼女は肇の父親と一緒にその場を去る。肇はしばらく、噴水の中で遊んでいたが、だんだん飽きてきた。

 そうして噴水から外に出て、地べたにしゃがみこみ、土を掘りはじめる。この下に宝物でも埋まっていないかと思ったのだ。彼の母親は大の物語好きで、色々な話を肇に読み聞かせてくれた。その中でも肇のお気に入りだったものの一つは、アラビアンナイトだった。船乗りシンドバッドの冒険に幼い肇は心躍らせたものだ。その中に、噴水の下に宝物を見つけて、金持ちになる男の話があったのだった。肇は黙々と土弄りを続けている。そのうち、彼は随分と時間が経っていることに気が付いた。辺りはいつの間にかすっかり真っ暗になり、周囲にはもはや誰もいない。彼は突如言いようのない孤独感に襲われた。どこからか、肇を嘲笑う声がする。チェシャ猫のように、不愉快な笑い声で。

 ――皆お前を置いていったんだよ。いつまで経ってもお前を迎えに来るものはいない。

 肇を包む辺りの闇は、さらに濃くなって、別種の生き物のように、蠢いている。それは触手を伸ばして、肇を絡め取ろうとした。その触手は皮膚の表面を撫でていき、おぞましい感触に肇は総毛立つ。あまりの恐怖に、肇は声にならない叫び声を上げ――

 ――っ!

 そこでようやく今まで見ていたものが、夢なのだと悟る。肇はゆっくりと目を開けた。気が付けば、彼はアルファルドの洋館の居間にあるソファーに寝かされていた。頭がまだぼんやりとする。肇は上半身を起こしてから、軽く頭を振って周りを見回し、自らの師匠を探した。金髪の魔術師は窓際に座って、窓の外を鋭く睨み付けている。

「師匠」

 肇が呼びかけると、アルファルドは振り向いた。そして椅子から立ち上がって、肇のほうに近付いてくる。彼にしては珍しく少し心配そうな表情で、肇の具合を(おもんばか)った。

「肇。大丈夫なのか」

「ああ、何とか。それより師匠、これは一体何なんだよ。何かの魔術なのか?」

 そう問われて、アルファルドは眉間に皺を寄せて答える。

「これはある魔術書の封印が解けかけて起こっている現象だ」

「その魔術書っていうのはどういうものなんだ?」

 肇が聞くと、アルファルドは顔を顰めた。

「魔術書『アル・アジフ』の最悪の写本だ。『アル・キターブ・アル・フェッカ』。欠けたる書物。あれに書かれた文字は、全てのものを眠りへ誘う。それだけならまだいいんだが、封印が完全に解ければ、絶えることのない悪夢を見せられ、終いには死をもたらすと言われている」

 驚いた肇は、つい声を荒げてしまう。

「何だって? じゃあ、このまま放っておけば、この街の皆は――」

 肇の声を遮って、アルファルドは決然と強い口調で言い切った。

「死んでしまうだろうな。だが、そうはさせない」

「何か手立てはあるのか」

 肇はソファーから起き上がると、アルファルドの顔を覗き込んで聞いた。

「あの本の近くに行って、あれの文字魔術を上書きする。だがどうやってあれに近付くか。正直言って少し厳しいな。助けが欲しいところだ」

 彼は顎に手を当てて、深刻な表情で考え込む。ちょうどその時、居間の扉が開いた。漆黒の髪をした女が、すたすたと部屋の中へと足を踏み入れる。綾織絢(あやおりあや)だ。

「ここまで入ってくるのには苦労しました。どれだけ厳重な結界を張っているんですか、貴方は」

 入ってくるなり、絢は咎めるような視線をアルファルドに向けた。

「仕方ないだろう。あの魔術書の影響を遮断するためだ」

「貴方は事態を正確に把握しているようですね、災厄(ディザスター)

 アルファルドは不機嫌そうに絢の顔を眺める。

「当たり前だ。この俺を誰だと思っている」

 絢は無表情にアルファルドを見返すと、懐から束になった書状を次々と取り出した。

「頼もしいですね。今回ばかりは、貴方も怠けている訳にはいかないでしょう。ここに元老院議長、海神の顎門エーギルズ・ワイド・ジョーズの任務依頼書があります。それから、(グラディウム)長官、咆哮する嵐ハウリング・テンペストと日本魔術組合(ギルド)支部長、時計仕掛けの叡智ホロロギウム・サピエンティアエの連名による協力要請書も」

 その様子を見たアルファルドは、苦々しげに吐き捨てる。

「言われなくても、そのつもりだ。あの爺の思い通りになるのは業腹だが。貴様も協力しろ。俺一人では少しきつい」

 絢はアルファルドの言葉に軽く頷き、ぽんと手を打った。

「ああ、それなら頼もしい助っ人がいます。もうすぐ、ここに到着するはずですが」

 その瞬間、居間の部屋の窓が外側から勢い良く開かれた。吹き渡るは一陣の風。カーテンがぱたぱたとはためく。そこにいたのは、黒いターバンを緩く頭に巻いた銀髪の男だった。黒い布を身に纏い、薄い碧色をした目を悪戯っぽく輝かせる。

「やあ、アレフ。助けに来たよ」

 アルファルドはうんざりとした面持ちで旧知の友の顔を見た。

「貴様、どうしてそこから入ってくる。そこは入り口ではないぞ」

「君が変な結界張るからさ。ここが最短距離なんだよ」

 ティル・エックハートは飄々として笑いかけた。

To Be Continued…

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