[第八話 コリーダ・デ・トロス]
朝八時過ぎ。黒髪の少年、久住肇は、教室の扉を開けて、自身の席に向かう。
教師のいない朝の教室は騒がしい。それはいつものことだが、今日はどことなく、普段よりも五月蝿い気がする。肇が席に着いて、鞄を開けたところで、頭上から声が掛かった。
「やあ、肇。今朝のニュース見た?」
声に反応して顔を上げる。その視線の先にいたのは、馴染み深い茶色の髪の少年、上野寿人だ。
「見てないよ、そんなの。朝はいつもぎりぎりに起きるから、見る暇がないんだ」
「数日前、この城ヶ崎市で行方不明事件があったの、知っているよね」
「ああ」
肇は頷く。そのニュースは確かに見た記憶がある。現代の神隠しだとメディアがこぞって報道していた。
「また行方不明者が出たみたいなんだ。しかもどうやらここの学生で、一学年上の生徒らしい」
「単なる家出じゃないのか?」
訝しく思った肇は聞き返す。突然いなくなったからと言って、この間の事件と関係付けるのは早計というものだ。
「隣のクラスの生徒が、昨日の夜その人と一緒に会う約束をしていたのに、待ち合わせ場所に来なかったって言うんだ。家出する人間が普通そういうことすると思う?」
寿人の言葉を聞いて、肇は考え込むように、顎に手を当てた。
「確かにそうだな」
「肇も気を付けるようにしないと。変質者の仕業かもしれないし。肇って結構夜出歩くほうでしょ」
寿人が肇を気遣うように言った。
「お前に心配されなくても大丈夫だよ」
――ここのところ魔術師には立て続けに襲われているが、変質者には襲われたことはないな。
肇はそう考えてから、思い直した。いや、魔術師もある意味変質者の一種か。肇は自分の考えに少しおかしくなる。
「どうしたのさ」
寿人が不審に思って聞くと、肇は誤魔化すように笑みを浮かべた。
「いや、何でもない」
寿人は釈然としない面持ちで、肇の顔を見つめる。
そこに、割り込んできたのは、茶色の髪を頭の上で括ったポニーテールの少女だ。肇の幼馴染、宮地悠である。深刻そうな表情で、悠は重々しく口を開いた。
「私はあの行方不明事件は何か普通じゃない気がするのよね」
「まさか、またお前は宇宙人の仕業とか言う気じゃないだろうな」
悠は苦笑して、否定するように手を軽く振った。
「違うわ。いなくなった人間に、一貫性がないのよ。普通の変質者なら若い女子高生ばかりを狙うとか、そういうことをするはずでしょう。でも行方不明者は皆年齢も性別もばらばらだもの」
寿人は首を縦に振って、悠の意見に同意する。
「確かに、それは変だよね。何かの目的があって拉致するのなら、被害者に何らかの共通項があってしかるべきだと思う」
ちょうどその時、がらっとドアの開く音がして、担任の教師が教室に入ってくる。寿人と悠は慌てて自分の席に戻り、その話はそこで終いになった。
*
その日の学校帰り。肇はアルファルドの洋館を訪れる。洋館に足を踏み入れると、いつものように小さな黒猫が赤い絨毯の上を走って、肇のほうにやって来る。肇の使い魔、クロネッカーだ。しかし何だか様子が変だった。黄金色の瞳を不安げに肇のほうに向けてくる。何かに怯えているようだった。肇が手招きすると、クロネッカーは肇の足に身をすり寄せた。黒猫を抱き上げて居間に入ると、そこには不穏な空気が漂っていた。
「貴方の協力が必要なのです」
「どうして俺が自分の失態も拭えぬ魔術師の後始末をしなければならない。適任者なら他にもいるだろう。魔術組合本部に応援を頼んだらどうだ」
「今、本部にこちらに割ける人材はいないのです。貴方がこの件に協力すれば全て丸く収まります」
「だから、俺は嫌だって言っているだろう」
「ここに、咆哮する嵐、ルドラ・シャフジャハンからの協力要請書があります。貴方も魔術組合の一員なら、これに従う義務がある」
言い争っているのは、アルファルド・シュタインと綾織絢だ。
肇は自らの師匠に声を掛けた。
「師匠、一体何揉めているんだよ」
アルファルドは振り向くと、顔を顰めて見せる。
「ちょっと厄介事を押し付けられそうになっているだけだ」
「ええと。その厄介事っていうのは何なんだ?」
肇の問いに対して、アルファルドは実に嫌そうな顔で答えた。
「悪魔退治」
「え? 悪魔退治?」
肇は驚いて聞き返す。
その様子を隣で見ていた絢が口を開いた。
「その件については私が説明しましょう。そのうち貴方も無関係ではいられなくなるでしょうから」
「綾織さん。それはどういう意味です」
肇が訝しく思って尋ねると、絢は続けて説明した。
「最近、城ヶ崎市で連続して行方不明事件が起こっているのは、貴方もご存知のことでしょう。あの事件の犯人は、実は悪魔なのです」
「悪魔が人を襲ってるっていうんですか?」
「ええ。というよりも食べていると言ったほうが正しいですね。あれは悪食で有名な悪魔ですから」
「ということは、あの事件の行方不明者は、もう生きてはいないってことですか?」
肇は絢の言葉に、思わず嫌な想像をしてしまう。
「いえ、おそらくはまだ。あの悪魔は空間を喰らうのですよ。この事件が発生してからまだ数日も経ってはいない。だから、まだ被害者は無事なはずですが、このまま放っておいては餓死してしまうでしょうね」
――空間を喰らう悪魔。そんなものがこの世の中に存在するのだろうか。
肇は脳裏に浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「それはどういう悪魔なんですか」
「べへモットだ」
その問いに答えたのは絢ではなく、アルファルドだった。
「別名べヒモス。世界を喰らう悪魔。そんなものを喚起するなんて、召喚術師は何を考えていたのやら」
アルファルドはうんざりした顔で天を仰いだ。
「お願いします、災厄。どちらにせよこのままにしていては最悪城ヶ崎市全体がべへモットに呑まれてしまう」
絢は無表情に言った。その言葉の内容と裏腹に、口調に深刻さが見られないために、いまいち切迫感がないな、などと傍で聞いている肇は考えてしまう。
「久住さんからも、災厄に協力するように言ってください」
絢にこう話を振られた肇は仕方なくアルファルドに聞いてみる。
「ええと。師匠はどうしてその悪魔を相手にするのが嫌なんだ? そんなにそのべへモットっていう悪魔は強いのか?」
アルファルドは肇のほうに呆れた視線を向ける。
「貴様は悪魔をまだ見たことがないんだな。悪魔は強い。それこそ反則的なほどにな。普通の魔術師ではとても敵うまい」
「でも、ある魔術師がそれを呼び出したってことは、それを支配下に置こうとしたってことじゃないのか? つまり、それは精霊みたいに魔術師に制御できるもののはずだ」
アルファルドは補足するように解説を加えた。
「優れた召喚術師は、悪魔を喚起してすぐに悪魔の苦手な状況を作り出して支配する。奴等は別の世界の住人だ。この世界では、仮の姿を取る。だからこそ、こちらに来た当初はたいした力を揮えないんだ。奴等は契約を何よりも重んじるため、一度支配してしまえばこちらのものだからな。だが、召喚術師の力が及ばず、最初の支配に失敗した場合、時間が経つにつれて、悪魔の力は増大していく。そうなると、もう手に負えない。散々痛めつけない限り、奴等は向こうに帰らないだろう」
「でもさ。師匠は世界最高クラスの魔術師なんだから、その悪魔とも戦えるんじゃないのか」
肇が言うと、それを聞いた絢が口を挟む。
「その通りですよ。貴方がさっさとべへモットを倒してくれればそれで済むんです」
「どこに潜んでいるか分からない悪魔を俺に探せというのか、貴様等は。それに悪魔は大概夜行性だ。そんなものをいちいち夜中に探すのは眠いし面倒だ」
不機嫌そうな表情でアルファルドは毒付いた。
「本音が出ましたね、災厄。何よりも睡眠を愛する貴方らしい台詞ですが、世の中にはもっと重要なことがあるのですよ」
絢は冷たい視線をアルファルドに浴びせる。
「そうだよ、師匠。どうせ、その悪魔を放っておく訳にはいかないんだろう? ならばこのままにしておいても、事態は悪化するだけだ。もっと酷くなってから師匠が戦う羽目になるかもしれない」
肇はアルファルドに諭すように言い聞かせた。
「分かった。やればいいんだろう、やれば。だが貴様等にはべへモットを探すのを手伝ってもらうぞ」
アルファルドは深く嘆息してから、肇と絢の二人を強く睨み付けた。
*
夜中の十時。暗闇濃い時間帯に肇はアルファルドの家に向かう。夜遅くに出歩くのは少し億劫だが、師匠命令とあれば仕方がない。アルファルドによれば、悪魔は何よりも闇を好むものらしく、召喚術師の支配から逃れた悪魔は大抵夜に活動するものだということだった。アルファルドの家の門を開けて、敷地内に入ると、門柱のすぐ側にある街灯に照らされて、大掛かりな魔法円が闇の中に浮かび上がっていた。その規模は庭全体に及んでおり、肇が今まで見たことのあるどの魔法円よりも大きい。
庭でアルファルドと絢が何やら話している。肇が近付くとその気配に気付いたのか、アルファルドが顔を上げて、肇に忠告した。
「足元に気を付けろ。踏むなよ」
「師匠。この魔法円は何なんだ?」
訝しく思った肇は首を傾けて質問する。
「催眠暗示の魔術だ。これを使えば、この街に住む魔術師以外の人間は、これから起こることを全て夢だと思いこむようになる」
絢もこちらを向いて、アルファルドの言葉を補足するように説明を加えた。
「おそらく、災厄とべへモットが戦えば、大事になるでしょうから。あの悪魔を空間牢に閉じ込めることは不可能ですし」
「さて。これから貴様にはしっかり働いてもらう」
アルファルドは肇に向かって黒い物体を放り投げた。肇は腕を伸ばしてそれを掴み取り、まじまじと眺める。それは何かの機械のようだった。立方体の形をしていて、良く見ると小さなボタンが幾つも付いている。面のうちの一つは、液晶のようなモニターになっていた。
「師匠。これは?」
「悪魔探知機だ。悪魔に近付くと、このモニターに表示が出る。無線機能も付いていて、ここのボタンを押しながら喋れば、他の探知機に繋がる」
アルファルドは肇の側に近寄って、使い方を教授する。
――魔術師も機械っぽいものを使うんだな。
肇は意外に思った。これまで見てきた魔法具とは少し毛色が違う。
アルファルドは悪魔探知機を物珍しそうに弄っている肇に視線を向けて言った。
「肇、貴様はこの街の北のほうを探せ。綾織、貴様は南だ。悪魔探知機に反応があった場合、すぐに俺を呼べ。決して交戦しようとするな」
「分かった」
肇は了解の意を示す。隣にいた絢も同様に頷いた。
*
肇はアルファルドの家から、北の方角に向かってゆっくりと歩いていた。空が曇っているせいで、夜道を照らすものは、街灯の灯りだけだ。薄暗い中を手探りするように肇は進む。夜中の住宅街は、人気が全くなく、不気味な雰囲気を醸し出していた。幽霊でも出そうな感じである。しばらく住宅街を歩くと、見慣れた坂道が姿を表した。高台の公園へ向かう道である。急な傾斜の道を、肇は息を切らせながら上っていく。坂の中腹辺りで、肇は一つ息を吐いて立ち止まる。ちょうどその時、手に持っていた悪魔探知機がピコピコと鳴って、モニターに表示が出た。
「悪魔接近中。速やかに迎撃体勢に入ること」
それを見た肇は、言われた通りに慌ててアルファルドに連絡する。
「こちら肇。師匠、探知機に反応があった。場所は北の高台にある公園の前の坂道だ」
「了解した。急いでそちらに向かう」
探知機からアルファルドの声が聞こえる。通信が途切れたすぐ後に、巨大な黒い生き物が、肇の眼前に現れた。肇がそれを見て、最初に思い浮べたのは、牛だ。その生き物の形は牛によく似ていた。大きさは段違いだったが。頭に角のある四本足の黒い獣である。
その生き物は大きな口を開けて、家を食べていた。いや、それは家の存在する空間それ自体を食べていた。肇にそれが分かったのは、その生き物が口に入れた家の周囲の空間がぐにゃりと歪んでいたからだ。家があった空間は、最初からそこに何も無かったかのように、塞がった。それに喰い尽くされ、住宅街は徐々に形を失っていく。ついには、肇の目の前の坂道がごっそり無くなってしまった。そこで、その生き物は肇の存在に気付いたのか、てらてらと黒光りした巨体を揺らして、ゆっくりと肇のほうに近付いて来た。
肇は圧倒されて動けない。その目は夜の闇の中で黄金色に爛々と輝き、肇を正面から見据えた。
「OLLOR,NONCI ICHISGE ZORGE?」
それは地獄の底から響くような声を出して言った。何を言っているのか肇には分からなかったが、それは唸り声ではなく、きちんとした言語のように聞こえた。肇はじりじりと後退する。
「な、何だよ」
黒い獣は、さらに肇のほうににじり寄ってくる。
「人間よ、汝は我に敵対するものか?」
不思議なことに、今度はちゃんと日本語に聞こえた。肇は気圧されながらも、その獣に問う。
「お前がべへモットか?」
「然り。汝が我の敵に回るのなら、我は容赦はせぬ」
「ええと――」
肇は動揺して口篭る。彼は強く祈った。
――師匠、お願いだから、早く来てくれ!
ちょうどその時、薄暗闇の中で対峙する両者の頭上を、何かが横切る気配がした。肇は訝しく思って天を見上げる。上空をぐるりと旋回したのは炎のごとき真紅の竜だった。それに跨っているのは金髪の魔術師、アルファルド・シュタインだ。その竜は激しい風を巻き起こして、地上に降り立つ。肇は自身の状況も忘れて、ぽかんと口を開けた。
――何て派手な登場の仕方だ。だいたい誰かに見られたらどうするんだよ。
アルファルドは不敵な笑みを浮べて、竜の背中から飛び降りた。
「肇、待たせたな」
「あ、ああ」
しばらく驚愕で固まっていた肇だったが、何とか首を縦に振って見せる。
「サラマンダー。肇を護ってやれ」
アルファルドがそう言うと、真紅の竜はみるみるうちに小さくなって、ちょこんと肇の頭の上に乗った。
「サラマンダーって大きくなれたのか?」
肇が驚いて、頭上の小さな竜に尋ねると、その竜は誇らしげに胸を張って答えた。
「我にもこれくらいのことはできる。マスターはおそらく炎の魔術で戦うつもりだろう。危険だから肇はここでじっとしておくといい」
「分かった」
肇はそう答えて、サラマンダーの言う通りにする。
その二人のやり取りを黙って見ていた黒い獣は、アルファルドに向かって確認するように尋ねた。
「そこの金髪の魔術師。汝は我と戦うつもりか?」
「その通りだ、この糞悪魔。貴様のせいで今日の俺の睡眠時間が一時間は減った」
アルファルドはそう言うと、射殺しそうな視線で、べへモットを思い切り睨み付ける。
「ならば、汝には死んでもらおう」
べへモットはそう言うや否や、勢い良く大地を蹴って、アルファルドに向かって突進する。それはその巨体には似合わぬ速さであった。アルファルドはそれを軽くバックステップで躱し、呟いた。
「貴様を串刺しにして丸焼きにしてやる。回転するは炎の剣!」
金髪の魔術師の叫びに応え、虚空から赤く燃える炎の剣が現れる。アルファルドはそれを掴みとって勢い良く投げた。それはくるくると回転しながら黒い獣のほうへ飛んで行き、その身体を燃やし尽くすかに見えたが。
「その程度の炎では、我の身体には傷一つ付けられぬ。何故なら我がそのように作ったからな」
地獄の業火のごとき炎に全身を包まれても、黒い獣は平然とした様子である。
「戻れ」
それを眺めたアルファルドは舌打ちして短く言うと、炎の剣は彼の手に戻った。べへモットは機敏な動きで頭を持ち上げて、アルファルドに襲い掛かる。彼はそれを辛うじて避けた。黒い獣の角が金髪の魔術師の身体のすぐ横を通る。
「っ!」
身を翻して、アルファルドは即座に体勢を整える。頭を返して向かってきたべへモットをぎりぎりの距離まで引き付けると、飛び上がってべへモットの背中を刺すが、大したダメージは与えられなかったようだった。
華麗に戦う魔術師と黒い獣。まるで闘牛を見ているかのようだ、と肇は思う。さらに突撃してくるべへモットをアルファルドは後方に跳んで避ける。そして炎の剣でべへモットの肩に一撃を食らわせた。
「そのような攻撃は無駄だと言っているだろう」
べへモットは余裕を感じさせる声音でこう口にした。それを忌々しげに見やりながらアルファルドは距離を取って炎の剣を構え直す。それから声を夜気に響かせて、朗々と呪文を詠唱した。
「我は運命に逆らう者。星辰を否定する者。天の理から外れた者。外なる闇にて待つ者なり。災厄の名において命ずる。ここに来たれ、虐殺の剣!」
金髪の魔術師の呪文に応えて、手にした炎の剣の色が変わる。鮮やかな赤色からアルファルドの瞳と同じ緑色に。
――バイルシュタイン反応じゃあるまいし。炎の色が変わっただけで強くなるものだろうか?
肇は何となく化学の授業でやった炎色反応の実験を思い出し、目を瞬かせる。
アルファルドは再び向かって来るべへモットの攻撃を躱し、緑に燃え盛る刃で、黒い獣の首筋を一突きにした。
「だから無駄だと――」
べへモットは言いかけるが、その声は途中で喘ぐような声へと変わる。黒い獣はふらふらとよろめいて膝を折った。その様子を見たアルファルドはべへモットに向かって意地悪く笑いかける。
「悪魔を侵す毒の炎だ。それは貴様がこの世界にいる限り、向こうの世界にある貴様の本体を焼き続ける。さっさと帰ったほうが身のためだぞ」
べへモットは黄金色の目を大きく見開いて、愕然と呻いた。
「そんなことが人間に可能なのか。こちらの世界にありながら、あちらの世界に直接影響を与えるなどということが」
「言っただろう? 俺は『天の理から外れた者』だって」
「まさか……」
べへモットは頭を上げて、金髪の魔術師の碧の目をまじまじと覗き込む。
「BAGLE? NONCI CHIS ENAY MICALOZ OD IALPOR GOHED……」
アルファルドはその鼻先に容赦なく剣を突き刺した。とどめの一撃。黒い獣はどう、と大きな音を立てて倒れる。それからその輪郭はゆらりと揺らめいたかと思うと、淡く煌めく光の粒子へと変じた。そうしてそれはゆっくりと大気中に散らばっていき、次第に獣は形を失ってゆく。
べへモットが消えると同時に、もの凄い勢いでその場に空間が増殖していった。べへモットに食べられた坂道も、住宅も、瞬く間に元通りになる。そこまでは良かった。だが――
「災厄。このままでは危険です」
いつの間に嗅ぎ付けたのか、その場に現れていた綾織絢がアルファルドに背後から声を掛けた。
「べへモットに食べられた空間が全てここに溢れ出たらどうなるか――」
「分かっている。今から空間魔術を施す」
アルファルドは振り向いて鋭く絢に一瞥をくれると、小さく呟いた。
「大いなる精霊よ。捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」
力ある言葉に応えるようにして、空間の増殖は一旦そこで止まる。
「綾織。貴様等はこの事件を誤魔化すために修復魔術を使っただろう。修復魔術を使った場所は分かるか?」
絢は軽く頷いて、アルファルドの問いに答えを返す。
「ええ。駅前の高架下と、魔術組合支部の裏にある路地。後はここから北にあるトンネルです」
「その修復魔術を無効化できる魔術師は今魔術組合支部にいるか?」
無表情のまま、絢はアルファルドの言葉を否定するように、首を横に振った。
「いえ、いません。そもそもそれは禁呪でしょう」
「それも俺がやらなければならんのか、畜生。サラマンダー!」
アルファルドは苛立たしげに吐き捨てると、肇の頭に乗っている真っ赤な竜を呼ぶ。竜は肇の頭から降りると、自らの主人の意図を察して大きくなった。
「今から空間を調整してくる。肇、貴様は綾織を手伝ってやれ」
そう言うと、金髪の魔術師は真紅の竜の背中に乗る。真紅の竜は大きく羽を動かすと、ふわりと上空へと舞い上がった。取り残された肇は絢に問うような視線を向ける。
「綾織さん。何か俺に手伝えることはありませんか?」
「災厄の空間調整待ちですね。行方不明者が出てきたら、魔術組合支部に運ぶのを手伝ってもらいます。今は空間が不安定になっているので、転移魔術を使う訳にはいきませんから。一度車を取りに魔術組合支部に戻ります。貴方も一緒に付いて来て下さい」
「分かりました」
肇は絢の頼みを了承する。二人は歩いてそのまま日本魔術組合支部へと向かった。
*
本当に大変だったのはそこからだ。最初に行方不明者が出現したのは日本魔術組合支部の裏路地であった。行方不明者の男性はすっかり意識を失ってそこに倒れていた。車を使うほどの距離ではなかったため、肇は絢と一緒にその男性の身体を持ち上げて、日本魔術組合支部に運ぶ。次に肇と絢は車で駅前に向かった。高架下のすぐ近くで、一組の男女が倒れていたのを、車に乗せる。そこで一旦日本魔術組合支部に戻り、その男女を降ろしてから、最後に向かったのは城ヶ崎市の北部にあるトンネルだ。そこにいた学生を保護して、ようやく肇が家に帰れたのは、夜中の午前二時過ぎだった。肇はそのままベッドに倒れこむようにして眠る。
翌朝肇が起きた時刻は七時四十分。思い切り寝坊してしまった。このままでは遅刻する。肇は急いで身支度をすると、全力で学校まで走った。それでどうにかいつもと同じ八時過ぎに学校へ到着する。教室の扉を開けると、中はざわざわと騒がしかった。肇は訝しげに思いつつも、自分の席に鞄を置いて着席する。
大きく欠伸をしながら、授業の準備をしている肇に声を掛けたのは、幼馴染の少女、宮地悠だった。
「肇、どうしたの? 何だか眠そうだけど」
「いや、昨日少し夜更かししただけだ」
肇が答えると、悠は気遣うように肇に忠告した。
「早く寝ないと駄目じゃない」
「ちょっと色々あったんだよ」
言葉を濁してから、肇は誤魔化すように逆に聞き返す。
「それよりさ、何なんだよ、この騒ぎは」
それを聞いた悠は唇をほころばせて、少し嬉しそうな顔をした。
「昨日の夜、ちょっと不思議なことがあったのよ」
「不思議なことって何なんだよ。まさか行方不明になっていた人間が見つかったとか?」
絢の話では、彼等が完全に回復するまで魔術組合で保護して、その後に記憶の改竄を行うという話だった。だから、肇は彼等が通常の生活に戻れるようになるまでには、まだしばらく時間がかかるはずだと思っていたのだが。
「違うわ」
悠はあっさりと肇の言を否定する。
「このクラスの数人が皆同じ夢を見たのよ。城ヶ崎市の上空を飛ぶ赤く燃える竜の姿を。私もその夢を見たの」
――師匠、ばっちり目撃されてるし。というか、これが催眠暗示の魔術の効果か。
肇は顔を引き攣らせそうになりながらも、悠に尋ねる。
「その竜の上に、誰か乗っていなかったか?」
悠は不思議そうな顔をして、肇の顔を覗き込んだ。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、何となく」
肇は曖昧に笑う。悠は釈然としない面持ちで首を傾けた。
「ふうん。確かに竜の上には金髪の男の人が乗っていたわ。結構格好いい人だったけど。まあそれはともかくとして、これって共時性じゃない?」
「いや、ただの偶然の一致だと思うけど」
肇は事実を知りながら惚けて見せる。
「全く、肇は相変わらず夢がないわね。これは私達の集合的無意識の産物に違いないわ。人間の無意識の深層にある個人の経験を超えた共通領域が、同じ夢を皆に見せたのよ!」
「はいはい」
やる気がなさそうに肇は返事をした。そこに新たに現れて口を挟んだのは茶色の髪の少年、上野寿人だ。
「おはよう、二人とも。一体何を話しているんだ?」
「ああ、ちょっと非因果的連関の原理について喋っていたんだ」
肇の言葉を聞いて、寿人は顔を顰める。
「何それ」
「だから、共時性よ!」
寿人は肇と悠の顔を代わる代わる眺めると、呆れたようにこう言った。
「いつも思ってたんだけどさ。お前達ってちょっと変わってるよなあ。実は似たもの同士なんじゃないか?」
肇はうんざりしたような表情で寿人を見る。
「俺と悠を同類みたいに言わないでくれ。俺は悠みたいなオカルトマニアじゃないぞ」
悠も憤然として寿人を睨み付けた。
「私を肇みたいに夢がない人間と一緒にしないでくれる?」
寿人は二人の咎めるような視線を受けて、苦笑を浮かべる。
「そういうところが似てるんだよ。さすがは幼馴染ってところかな」
「「寿人!」」
二人の抗議の声が重なった。寿人は二人の反発をのらりくらりと躱し、手をひらひらと振って自分の席に戻る。その後すぐに担任の教師が来て、ホームルームが始まった。その日、肇はずっと眠気をこらえて授業を受ける羽目になった。
*
結局のところ、例の催眠暗示の魔術は、二時間程度しか持たなかった。何しろ、城ヶ崎市全体という広い範囲をカバーする魔術だったため、少しの時間稼動させるだけでも膨大な魔力が必要となったためだ。それはつまり――
「催眠暗示のかかっていない何人もの市民に竜に乗った貴方の姿が目撃されています。どうするつもりですか」
洋館の一室で、漆黒の髪の女、綾織絢は、その屋敷の主である金髪の魔術師に冷淡な眼差しを向けた。
「俺はちゃんとやるべきことをやった。どうして貴様に非難されなければならない」
金髪の魔術師、アルファルド・シュタインはその視線を平然と受け止め、睨み返す。
二人の間にばちばちと見えない火花が散る。その様子を傍で見ていた小さな黒猫は、怯えて部屋から出て行った。
この事件の後。城ヶ崎市に新たな都市伝説がまことしやかに囁かれることとなる。曰く、夜な夜な金髪の外人が赤い竜に乗って空を飛ぶらしい、と。後に悠が自分の見た夢とそっくりなこの都市伝説に興味を持って、肇を振り回すこととなるが、それはまた別の話である。