表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/21

[第七話 マーキュリアン・アタック]

 黒髪の少年、久住肇(くじゅうはじめ)はソファーに座って寛いでいた。

 ここはアルファルドの洋館の二階の一室であった。肇は魔術の練習を終えると、ここで休憩するのが日課となっていた。この部屋には屋敷の主の趣味なのか、大きな絵が飾ってある。緑の木々に囲まれた静かな湖を描いた風景画だ。繊細な筆致がとても美しい。彼は緑と青のコントラストを何となく見つめながら意識を彷徨わせていると。

 ジリリ、ジリリリ。

 唐突にこの部屋の電話が鳴った。この洋館にある電話は今どき珍しいダイヤル式の黒電話だ。電電公社からレンタルしたままにしているのであろうか。肇は慌てて屋敷の主、アルファルドを呼びに行った。彼はおそらくいつものように一階の彼の部屋にいるだろう。肇はそう思って部屋を出ると、階段の手摺を掴み、階下に向かって大きな声で叫ぶ。

「師匠、電話が鳴ってるぞ」

「今行くから、電話に出ておいてくれ」

 即座に下から返事が返ってくる。当然黒電話には留守番電話機能などないため、一度電話が切れてしまえば、誰からかかってきたのかは分からないままだ。その間も電話はずっと鳴り続けている。肇は部屋に走って戻り、急いで受話器を取った。

「もしもし」

 受話器から聞こえてきたのは、流暢な英語だ。

「Hello, Aleph.(やあ、アレフ。) It's me.(僕だよ。) Long time no see,(久しぶりだね、) How are you doing?(元気だった?)」

 ――え、英語?

 肇は動揺して、反射的に受話器を取り落としそうになるが、何とか堪える。肇が沈黙しているのを不審に思ったのか、電話の向こうの人物は、あっさりと日本語に切り替えて喋った。

「アレフ。僕だよ、僕。あんまり長い間そっちに住んでるから英語忘れちゃった?」

 ――アレフって誰だ。師匠のことだろうか。というか、名乗ってくれないと、相手が誰なのか分からない。

「えーっと。どちら様でしょうか。アルファルド・シュタインのお知り合いですか?」

 肇が尋ねると、電話の相手は驚いたようだった。ごくりと息を呑む音が電話ごしに聞こえる。

「君は誰かな? もしかしてアレフの友達?」

 電話の相手は、肇の質問に答えようともせずに、逆に聞いてくる。

 そこへ、金髪の青年、アルファルドが扉を開けて現れた。先程まで寝ていたのか、どことなく眠そうである。

「ちょっと待って下さい。今、アルファルドに代わりますから」

 肇は受話器をアルファルドに預けた。彼は面倒臭そうに電話に出る。

「もしもし」

「やあ、アレフ。君か。もうすぐそちらに――」

 それを遮って、アルファルドは非常に嫌そうな顔で、機械的に喋った。

「現在、この電話番号は使われておりません。電話番号をご確認のうえ、もう一度おかけください」

 がしゃん。アルファルドは半ば叩き付けるようにして受話器を下ろす。

「師匠、一体何を――」

「肇。今あったことは忘れろ」

 アルファルドはにこやかに言った。表面上は穏やかに見えるが、目が完璧に据わっている。

 ジリリ、ジリリリ、ジリリリ。

 再び電話が鳴り始めた。それを見たアルファルドは電話線を勢い良く引っこ抜く。

「これで安心だ、肇。邪悪は祓った」

 笑顔で言うアルファルド。肇は内心びびりつつ、こう口にした。

「さっきのって……」

忘れろ(・・・)

 アルファルドは強く言った。目が怖い。

 肇は顔を引き攣らせながら、こくこくと頷く。

 驚くべきことに、電話線が抜けているのにも関わらず、しばらくしてまた電話が鳴り始めた。

 ジリリ、ジリリリ、ジリリリ、ジリリリ。

 ――そんな阿呆な。

 肇は顎を落として驚愕する。

「莫迦な? 魔術で干渉しているだと? そんなことができる訳が――」

 アルファルドも動揺した面持ちで、首を巡らせて辺りを見回す。

 その時、どこからともなく声が響いた。先程肇が聞いた声と同じものだ。

「悪いね、アレフ。もうすぐそちらに着くって言っただろう? この距離ならば僕の魔術の効果範囲内だ。頼むから大人しく待っていてくれ」

 それを聞いたアルファルドはおもむろに窓のほうへと近付いた。そして、もの凄い勢いで窓を開け、片足を窓の桟にかけて、そこから身を乗り出す。

「し、師匠?」

 肇は自らの師匠の意図を察し、悲鳴を上げた。

「大丈夫だ。俺はしばらく消える。後は頼んだ」

 そういうや否や、アルファルドは窓から飛び降りた。

「空を渡る精霊よ。我に力を」

 金髪の魔術師が小さく呟くと、彼の体はふわりと地面に着地する。肇はその様子を窓から見てほっと胸を撫で下ろした。アルファルドはそのまま、門へ向かって走る。次の瞬間、呼び鈴が鳴った。そこに居たのは、長い銀髪と色素の薄い碧の目を持つ男だ。ローブにもマントにも見える黒い布を身に纏い、頭には黒いターバンを緩く巻いている。その男が何か言おうとして口を開く前に、アルファルドは叫んでいた。

「吹き渡る風よ。我が声に応え彼の者を切り刻め!」

 空間を風の刃が吹き荒れる。それは、すっかり伸びていた庭の植物を薙ぎ払って、銀髪の男を襲った。その男はどこに隠し持っていたのか、彼の身長ほどもある長い杖を取り出す。それは奇妙なデザインの杖だった。二匹の蛇が杖に巻きついており、その先には二枚の鳥の翼があしらわれている。

「解き放て、『カドゥケウス』」

 その男は杖を掲げて短く言った。その言葉に応えて、彼を襲わんとしていた風の刃は、虚空に吸い込まれるようにして、消滅する。

「氷の刃よ、貫け!」

 続けてアルファルドは詠唱した。氷の刃が銀髪の男に向かっていくが、それも全て彼の前で消えた。その男は苦笑して、杖をアルファルドに突き付ける。

「アレフ。君がいくら魔術の天才だからといって、僕相手に風や水の精霊魔術が通じると思うのかい?」

「貴様は一体何をしに来た」

 地の底から響くような声でアルファルドは銀髪の男に尋ねると、彼は口元に笑みを浮かべた。

「ちょっと君の顔を見にね」

 ちょうどその時、もう一度呼び鈴が鳴った。銀髪の男がそれに気を取られて振り向いた隙に、アルファルドは垣根を乗り越えて逃げる。取り残された銀髪の男は独り呟いた。

「どうして逃げるかな……」

「自分の心に聞いてみてはいかがですか、詐欺師(トリックスター)

 それに冷たく声を掛けたのは、先程呼び鈴を押した人物だ。黒いドレスに身を包んだ、黒の人形師(ブラック・パペッター)綾織絢(あやおりあや)であった。


     *


 肇はとりあえず客人二人を、一階の居間に通す。銀髪の男は勧められるがまま、ソファーの上に座った。絢はその傍らへと静かに腰を下ろす。

「ええと、すみません。師匠は逃げてしまって」

 そんな二人の様子を見つめながら、肇が謝ると、絢は無表情に言葉を口にした。

「構いません。よくあることですから」

「それで、こちらの方は……」

 見るからに怪しい風体の銀髪の男に、視線を向ける。

「僕の名前は――」

 口を開こうとした銀髪の男を遮って、淡々と絢が説明した。

「彼の名前はティル・エックハート。位階III(トレース)、魔法名天翼(オルニトプテラ)。通称詐欺師(トリックスター)。世界最高の言霊使い理の王(ロード・オブ・ロゴス)メリル・シェーラザードの唯一の弟子で、ロンドンを中心として活動する魔術結社天水遊技団ザ・サーカス・オブ・シャーマイムの首領です」

「実に解説的な紹介をありがとう。手間が省けたよ」

 ティルと呼ばれた銀髪の男は、大きく息を吐いて、呆れたような顔で絢を見やる。

「俺の名前は、久住肇(くじゅうはじめ)です。一応アルファルド・シュタインの弟子ということになってます」

 肇は軽く頭を下げて、ティルに向かって自己紹介をした。

「いいよ、僕相手に丁寧語なんか使わなくても」

 ティルは穏やかに笑んで、砕けた調子で言った。そして顎に手を当てて、考え込むような表情を見せる。

「それにしてもあの偏屈者が弟子を取るとはね。彼も丸くなったもんだ」

 ティルがそう口にすると、反論の声が彼の横から上がった。

「彼が弟子を取ったのは、元老院への嫌がらせのためですよ。彼は、魅了する者(アトラクタ)です」

 その言葉を聞いたティルは、好奇心に目をきらきらと輝かせて、肇の顔をじっと覗き込む。

「へえ、魅了する者(アトラクタ)って初めて見たよ。肇って呪文や印や魔法具がなくても魔術が使える訳?」

「まだ、俺は魔術師になって日が浅いので、あまり上手く魔術をコントロールできないんです」

 肇はその視線に戸惑いつつも、こう答えた。

 ティルは柔和な笑みを浮かべる。

「だから、もうちょっと気軽に話していいって言ったでしょ。僕のこともティルでいいよ」

 肇はティルのことを少し変わった人物だと思った。丁寧語の微妙なニュアンスを理解して、完璧な日本語を操る。それは師匠も同じだが。口調を切り替えて、尋ねた。

「じゃあお言葉に甘えて。ティルはどうして日本に来たんだ」

 絢も同意するように、肇の言葉に頷く。

「私もそれが聞きたい。以前貴方が来たときは、悪魔騒ぎを引き起こしましたね。あの事件は日本魔術組合(ギルド)支部を震撼させました」

 咎めるような言葉に、ティルは顔を顰めつつ、早口で弁解した。

「あれは不可抗力だったんだよ。僕もまさかあそこまでアバドンが融通の利かない奴だとは思わなかったんだ」

 絢は冷たい目線でティルを見つめる。

「わざわざ、破壊者の異名を持つ悪魔を喚起することも無かったでしょうに」

「もう終わったことだよ、絢。僕がここに来た理由はね、アレフに聞きたいことがあったからなんだけど」

 誤魔化すように慌てて話題を変えたティルに、肇は首を傾けて聞いてみた。

「師匠に聞きたいことって何なんだ?」

「ちょっと専門的なことになるけどね。ヴォイニッチ手稿の一部にちょっと気になるところがあって」

 ヴォイニッチ手稿。何だか良く分からない単語が出てきた。しかし絢は何の話をしているのか、すぐに分かったようである。

賢者の石ラピス・フィロソフォールムの生成方法が書いてあると言われているあの文書ですか。しかしあれを完全に解読できたものは今までいないはずですが。それに貴方がそういった学術的なものに興味があるとは、正直言って意外です」

「失礼なことを言うね、絢。一体君は僕を何だと思ってるのさ?」

 ティルは目尻を吊り上げて、絢を思い切り睨み付けた。それを平然と受け止めながら、絢はきっぱりと断言する。

「無謀を絵に描いたような魔術師、です」

 ティルはやれやれ、と肩をすくめると、ゆっくりとした仕草で席を立った。

「ほんと酷い言われようだね。ともかく僕は今からアレフを探しに行くよ。肇、悪いけど一緒に来てくれないか? ちょっと君の話も聞きたいしさ」

 突然の頼みに少し面食らい、数度目を瞬かせてから、肇は了承の意を示す。

「別にいいけど。でも師匠に後で怒られそうだな」

 それを聞いたティルは苦笑して、肇の顔を見た。

「あの人、ちゃんと師匠やってるんだな。意外だね。でも僕が彼によく言い聞かせておくから大丈夫だよ。ああ見えても単純だから扱いやすい」

 師匠が扱いやすいだって? 驚きの発言に、肇は目を見開いてティルの顔をまじまじと眺めてしまう。案外この人は見かけによらず凄い人なのかもしれない。よく考えれば師匠と互角以上に戦っていたし。肇はそう思いながら、居間の扉に手を掛けた。


     *


 肇とティルが外に出てみると、夕闇が迫っていた。空は薄茜色に染まって、淡くグラデーションを描いている。ティルはそんな空を見上げながら、小さく呟いた。

「さて。ヴィンセントに探索させてみるか」

 一つ息を吐いてから、自らの使い魔(ファミリア)を呼び出す。

「我が影に潜みし闇の翼よ。ティル・エックハートの名において命ずる。出でよ、『ヴィンセント』」

 力ある言葉に従うようにして、夕陽に照らされて長く伸びた影がぐにゃりと歪み、形を変えて行く。それは鳥の形になったかと思うと、盛り上がって立体的な形を取り、一匹の烏へと変じた。

「ヴィンセント。悪いけど、アレフを探してきてくれる?」

「承知した」

 烏は短く答えると、天高く舞い上がる。

 その様子を側で眺めていた肇は、ティルに尋ねた。

「さっきの烏って、ティルの使い魔(ファミリア)なのか?」

「そうだよ。可愛いでしょ」

 自慢げにティルは口元をほころばせた。

 ――可愛さなら師匠のサラマンダーのほうが上のような気もするけど。

 肇は内心そう思うが、一応頷いておく。

「ところでさ。ティルはどういった魔術を使うんだ?」

 肇は聞いてみた。彼にとっては、アルファルド以外の魔術師に会う機会は今まであまりなかったし、会った場合でも、すぐに敵対関係になってそれどころではなかったので、後学のために聞いておこうと思ったのだ。

「僕は言霊使いの魔術師だよ」

「言霊使い?」

 肇が訝しげに問うと、ティルは悪戯っぽく笑みを浮かべて見せた。

「君は、人間が魔術的な存在に力を借りずに魔術を行使する方法を知っているかい?」

 肇はアルファルドに何度も言い聞かされたことを思い出す。

「人間が人間以外の存在になること、だよな」

「その通りだよ。それは魔術を究めた者の、最終的な到達点でもあるんだ。今まで様々な魔術師がそれに挑戦して、失敗していった。世界の理を教授して貰おうと、自身に制御できないような神を召喚しようとした者。あるいは神の似姿として創られたと言われる自らの魂の深淵に潜り、この世界に神性の流出する以前の根源の世界を見出そうとした者。僕等言霊使いも、彼等と同じようなものだ。それはどの精霊魔術にも属さない」

 肇は驚愕の声を上げる。

「それは、危険なことじゃないのか?」

 アルファルドによれば、並の人間がそれを行えば、自我を失い、発狂するということだったが。

 ティルは一つ息を吐いてから、言った。

「言霊使いのやり方はね、僕に言わせれば、彼等に比べると詐欺みたいなものだよ。あるいは冒涜的と言ってもいい。神と呼ばれる存在が言葉(ロゴス)をもって僕等を創造した、ということを前提にするなら、この世界に神が存在しないのならば、僕等も存在しないことになる。じゃあ、逆に言えば、僕等が存在しないのならば、神もまた存在しないんじゃないか? つまり、ある意味で神と僕等は同等の存在だ。それならば、僕等にも神と同じ力を(ふる)うことが可能なはずだ」

「それはちょっと論理学的におかしいんじゃないのか」

 肇は疑問に思う。神が存在しないという仮定は、十分条件ではあっても、必要条件ではない。

「だから、詐欺みたいなものだって言ったでしょ。結局のところ、世界の在り様というのは物事の捉え方の問題なんだよ」

 ティルはくすくすと笑って歩く。困惑した表情で、肇はティルの後に続いた。魔術について聞いたはずなのに、肇にはあまり馴染みのない、神学的な話になっている。

「で、俺達はどこに向かっているんだ?」

 話題を変えて肇が問うと、ティルは困ったように首を傾げた。

「うーん。ヴィンセントがアレフを見つけるのを待つしかないからね。この辺りをしばらく散策しようかな」

 二人はそのまままっすぐ、薄暗くなった住宅街を抜けると、公園の方角に向かって歩いて行った。

 

     *

 

 夕方の公園には、すでに遊ぶ子供の姿はない。そんな中、ぽつんと公園のベンチに座っていたのは、肇のよく見知った人物だった。茶色の髪をポニーテールにした少女、宮地悠(みやじゆう)だ。

 彼女は肇の姿に気付くと、顔を上げて尋ねた。

「あれ、肇じゃないの。こんな時間にどうしたの?」

「ああ、ちょっと人探しを手伝っているんだ。悠こそ、どうしたんだ?」

 肇が聞き返すと、悠はティルのほうに視線を向けて言った。

「コンビニに寄った帰り。その人は肇の知り合い?」

 悠はベンチから立ち上がると、興味深そうに、ティルの顔を覗き込んだ。肇はその様子に意外さを禁じえない。外国人が珍しいのだろうか。

「はじめまして。僕の名前はティル・エックハート。肇には世話になってるよ」

 ティルは軽く頭を下げて、自己紹介をする。悠は流暢な日本語に、目を丸くして見せた。

「私は、肇の幼馴染で宮地悠(みやじゆう)よ」

 ティルは悠の姿をまじまじと眺める。それから笑って、隣に立つ肇に目をやった。

「羨ましいよ、肇。こんな可愛い幼馴染がいるなんて」

 悠はその言葉に頬を赤らめる。彼女にしては珍しいリアクションだ、と肇は思った。普段この幼馴染はこんな表情をすることはほとんどない。

「ありがとう、ティル。お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないよ。君はこの花みたいに綺麗だ」

 ティルは右の掌を悠の目の前に差し出すと、一旦握ってから開く。手の中から取り出したのは黄色いクロッカスだった。芝居がかった仕草で一礼すると、それをそのまま悠に手渡す。

 クロッカスの花を受け取った悠は、少し驚いた表情をした後、笑みを浮かべて見せた。

「魔法みたいね」

「魔法じゃないよ。ちょっとした手品だ」

 肇はその様子を呆れた顔で見やる。彼は、クロッカスの花を取り出す瞬間に、ティルが左手で複雑な印を描いていたのを見ていたのだ。ちょうどその時、一匹の烏が、三人に向かって飛んできた。ティルの使い魔(ファミリア)、ヴィンセントだ。ヴィンセントは、魔術師ではない悠の存在に気を使ったのか、公園の時計の上に止まった。それに気付いたティルは時計に目をやってから、別れの挨拶をした。

「もうそろそろ行かなくちゃ。またね、悠」

 そう言い残すと、ティルはそそくさと公園の出口へと歩いていく。肇は慌ててその後を追った。


     *


 肇とティルは、ヴィンセントを追って、住宅街の北側、人気のない山のほうへと向かった。日はすでに西の空に落ちている。二人が歩く小道の両側に背の高い木々が生い茂っているせいか、辺りはすっかり暗かった。そんな暗闇の中、長い坂を息を切らせながら登っていく。その坂を登りきったところで、ようやくヴィンセントが、上空から舞い降りてティルの肩に止まった。

「我が主。アルファルド・シュタインは先程この辺りにいました」

「ありがとう、ヴィンセント。もう休んでいいよ」

 ティルがそう言うと、ヴィンセントはふっとティルの影に吸い込まれるようにして消える。それから彼は肇に向かってにやりと笑いかけた。

「肇。言霊使いの真骨頂、とくとご覧あれ」

 どこから取り出したのか、彼はいつの間にか、二枚の鳥の翼と二匹の蛇があしらわれた長い杖を手に持っていた。その柄を地面に向かってとん、と軽く叩き付けて小さく呟く。

「風よ。其は我が声なり。我が息なり。その届く地全てを我が領域となせ」

 その声に応えるようにして、一陣の風が吹く。ティルの長い銀髪が、ふわりと靡いた。杖の柄に触れた地面を中心として、魔法円が自動的に描かれていく。闇の中に浮かび上がる、幾重もの美しい光の軌跡。肇は思わずその様子に見惚れてしまう。

「この息は我が息にあらず、神の息なり。故に我が息は命の担い手にして万象を支配する言霊。――我が言霊からは何人たりとも逃れられぬ」

 続けてティルは勢い良く唱えた。

「彼の者を絡め繋ぎとめ捕らえよ。其の者の名は『アルファルド・シュタイン』!」

 ティルの足元に描かれた魔法円の一部が、ひときわ強く輝いた。それを見たティルは薄い碧の瞳を凶悪に煌かせる。

「かかったな。引きずり出せ(・・・・・・)

 辺り一帯に白い光が満ちた。肇はあまりの眩しさに目を閉じてしまう。瞼の裏を灼くほどの光が収まった後に、ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた端正な顔立ちの金髪の魔術師が、ティルのほうをもの凄い目付きで睨み付けていた。

「無様だね、アレフ。君が逃げるからこんな目に遭うんだ」

 ティルは人の悪い笑みを浮かべて、アルファルドを見据える。

「逃げるのは当然だろう! 貴様が以前俺に何をやったか忘れた訳ではあるまい」

「ちょっと悪魔の潜む奈落の底に置き去りにしただけじゃないか」

 アルファルドの殺気溢れる視線にも動じずに、ティルは惚けた口調で言った。

「それをちょっとって言うのか、貴様は! 裁きの光よ。天より大地を貫き全てを滅ぼせ!」

 アルファルドは激昂して呪文を詠唱するが。

「神は我が内にあり、故に世に神はなし――我が声の前では一切が無力と化す」

 ティルが早口で呟くと、彼を襲わんとしていた雷撃は瞬間にしてかき消えた。彼はアルファルドに苦笑を向ける。

「それ以上魔術を放っても無駄だよ。ここはもう完全に僕の言霊の影響下にあるからね。それと悪魔の件に関しては弁解させてもらうよ。僕は君を信頼してああいう行動を取った訳だ。君があの程度の悪魔なんかに殺される訳ないだろう? 何しろ世界最高クラスの魔術師、(ウーヌス)なんだから」

 その言葉を聞いたアルファルドは、悔しげに顔を歪ませた。

「その俺と互角以上に戦う貴様が、悪魔を恐れて逃げる訳があるまい。大方面倒臭かったからとか、後始末が嫌だったからとか、そういう理由だろう。大体貴様が未だにIII(トレース)に留まっていることが俺には信じられん」

「やだなあ。僕が悪魔と関わりたくないのは、あいつらの性格が悪いからだよ」

 ティルがへらへらと笑みを漏らすと。

「貴様の性格のほうが百倍悪いわ!」

 アルファルドは憤然として叫んだ。そのやり取りを見ていた肇は、何だか自らの師匠が気の毒になる。なるほど、師匠はそれでティルから逃げていたのか。

 ティルは表情を引き締めて、話題を変えた。

 「今回僕がここに来たのは、ちょっと聞きたいことがあったからなんだ。君は確か魔術学院時代に、ヴォイニッチ手稿に関する論文を書いていたよね。悪いんだけど、いろいろ教えて貰いたいんだよ」

「貴様がそういうことに興味を持つとは意外だな」

「どうして皆同じことを言うかなあ」

 ティルは小さく溜め息を吐くと、顔を顰めて見せた。指でこめかみを押さえながら、こう答える。

「僕はある死霊術師(ネクロマンサー)の行方を追っているだけだよ。彼の残した日記にヴォイニッチ手稿に関する記述があってね」

「用件は本当にそれだけか? 貴様はいつも厄介事を持ち込むからな」

 アルファルドはティルを不機嫌そうな顔で見つめた。

「ああ、忘れてた。ここに来るついでに、魔術組合(ギルド)本部の連中から君に伝言があったんだった」

 ティルはぽんと手を叩くと、懐をごそごそとやって、何通もの手紙を取り出す。そして、その差出主の名前を順番に読み上げた。

「ええと、これは元老院議長クリスタロス・ヴァイナモイネンからだね。こっちは元老院議員ソフィア・クウェルクスから。ええと、これは特別顧問ヘルムート・リドフォールからのもの。で、こっちは(グラディウム)長官ルドラ・シャフジャハンから。極め付けは魔術組合(ギルド)長リチャード・バロールからの手紙だ」

「貴様の師匠以外の(ウーヌス)全員からではないか」

 アルファルドは唸るような声を上げる。

「クリスの分は想像が付くと思うけど、ほとんど君への恨み言だと思うよ。この前会ったとき、散々愚痴ってたもの。他のも多分似たようなものだと思う」

「あの可愛げのない爺を貴様はよくそんな名前で呼べるな」

「見た目は僕等と同じくらいなんだから、爺と呼ぶのは失礼だと思うよ。それに魔術組合(ギルド)長や特別顧問ほど怖くないし」

 ティルはにこにこと笑いながら言った。

「そうか?」

 アルファルドは実に嫌そうに聞き返す。

「そうだよ。君もいい加減彼のことを許したらどうなんだい?」

 ティルが問うと、アルファルドは忌々しげな表情で毒付いた。

「向こうがこっちを嫌ってるのに、許すも何もあるものか」

「君もクリスも頑固だからね。どっちもお互いに譲ろうとしない」

 ティルは大きく嘆息すると、肇のほうを振り返る。

「さて、アレフの家に帰ろうか。いろいろ付き合わせて悪かったね」

「いや、別に気にしてないよ。珍しいものも見れたし」

 ――師匠が完敗する様子なんて、滅多に見れないしな。

 肇はそう思い、ティルに向かって笑いかけた。


     *


「だからね。ここに描かれているのは、アスポデロスだと思うんだ。こっちはアルラウネじゃないかな」

「いや、これはマンドラゴラだろう」

 洋館の客間で、ティルとアルファルドは何やら書物を紐解いて喋っている。

 その書物には鮮やかな色で様々な植物の絵が描かれてあった。その横に細かく文字が書かれているが、何語なのかは肇にはさっぱり分からない。

「おそらくこの材料を全部混ぜ合わせてから煮詰めて、硫化水銀を足してるんだと思う」

「それから四大精霊の力を借りて、結晶化させる訳だな。だがその時の天体の配置が重要らしい。太陽が獅子宮に入り、かつ太陽と土星が調和を表す百二十度(トライン)を形成するときに、儀式を行う訳か」

「つまり、材料を全て集めたとしても、これを作れる期間は限られてくるってことだね。チャンスは二十年に一度といった所かな」

 肇は盛り上がっている二人を呆れた顔で眺めた。先程まで、アルファルドがティルから逃げ回っていたのが嘘のようである。

「ええと、師匠。俺は家に帰ってもいいかな」

 肇が尋ねると、アルファルドは不機嫌そうにこう言った。

「貴様はこの屋敷を俺とティルの二人だけにする気か。俺はそんな恐ろしい目には遭いたくないぞ」

 その様子を傍で見ていたティルが苦笑する。

「嫌だなあ、アレフ。人を恐怖の根源みたいに言うのはよしてくれないか」

「貴様は黙れ、ティル。肇、悪いがティルがこの家にいる間、ここに泊まってくれないか。これは師匠命令だ」

 ――お願いだから、こっちの都合も考えてくれ、師匠。

 肇はうんざりした顔をして、深い溜め息を吐いた。


     *


 それから数日間、ティルはアルファルドの家に滞在していた。肇は師匠命令により、アルファルドの家にティルと一緒に泊まる羽目になった。アルファルドに凄まれたのでは仕方がない。悠には怪しまれないように、ティルの泊っているところに一緒に厄介になるので、しばらく留守にすると言っておいた。肇は悠がティルのことを根堀葉堀聞いてくるのを、必死に誤魔化さなければならなかった。嵐のような数日間が過ぎ、ティルが帰ってしばらくの間、アルファルドは呆けたような顔をしていた。

 今日もいつものように修行に励んだ後、肇が二階の一室で休んでいると、黒電話が鳴る。

 ジリリ、ジリリリ。

 肇は何の躊躇いもなく、受話器を取った。

「もしもし」

「やあ、肇。僕だよ、僕。アレフはいる?」

 受話器から聞こえてくるのは、ティルの声だ。

「ティル、悪いんだけど、師匠は今寝てる」

「じゃあ、また後でかけ直すよ」  

 それからティルはアルファルドの家にしょっちゅう電話をかけてくるようになった。例のヴォイニッチ手稿のことで分からないことがあると、すぐに電話してくるのである。アルファルドは邪険そうにしながらも、きちんと電話に出てティルの相手をしていた。

 ――もしかしたら、師匠はティルのことをそれほど嫌いじゃないのかもしれない。むしろ好意を持っているのかも。

 肇は思う。アルファルドは敵とみなした相手には本当に容赦がないのだから。それをアルファルドに指摘すれば、おそらくは嫌そうな顔で否定するだろうが。肇はソファーに座って寛ぎながら、そんなことを考えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ