[第六話 ブラック・カプリコーン・デイ]
「世界を流れ巡る水よ。我が元に集え」
黒髪の少年、久住肇は『基本精霊魔術呪文集 第七版』を開き、呪文を詠唱する。彼の前に、水が球状になってふわふわと空中を漂った。水の球体は陽光を反射して、きらきらと輝く。それを彼は満足げに眺めながら思った。
――我ながら上出来だな。問題なのはここからだが。
「我が意に従いて姿を変えよ」
彼の意思に従って、水は空中で形を変える。まるでコップに入っているかのような円柱形に。
肇は心の中で数字をカウントする。
―― 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……
十数えた時点で、彼は大きく息を吐き出した。そして、それとともにに水はばしゃん、と足元の草むらに落ちる。小さな水溜まりが足元にできた。
「にゃあ」
肇の傍らにいた黒猫はそれを見て嬉しそうに鳴く。肇の使い魔、クロネッカーだ。
「お前には魔術が分かるのか? 頭のいい奴だ」
肇はそう言って本を閉じ、クロネッカーを抱き上げて、頭を撫でる。
そこに頭上から声が掛かった。
「なかなか上手くなったじゃないか」
肇の師匠である金髪の魔術師、アルファルド・シュタインである。彼は二階の窓から顔を出してその様子を眺めていた。この所、肇は学校帰りに、アルファルドの家の庭で、魔術の練習をするのが日課になっていた。肇はもう少し魔術理論について知りたかったのだが、師匠に言わせると、魔術を実践すれば知識は自然と身に付くもの、だそうで、こうやって、肇は毎日ひたすら呪文を唱えて修練を積んでいるのであった。
「水属性だけでなく他の属性も練習するといい。おそらく貴様は四大属性の中では風が一番得意なはずだ」
「どうして分かるんだ?」
怪訝そうに肇が問うと、アルファルドは答えた。
「貴様の周りで風の精霊がざわざわして五月蝿いからな」
「師匠には精霊が見えるのか?」
肇は質問する。以前に彼自身が魅了する者として力を揮ったときには、確かに精霊がはっきりと見えたのだが、それ以来肇に精霊が見えたことはない。魔術を扱うときも、何となくそこに居るな、ということが分かるだけであった。
「ああ、見える。普通の人間は、強大な力を持つ精霊しか見えないが、優れた魔術師は、この世界に存在するあらゆる精霊を知覚するものだ。貴様も魔術を扱ううちにはっきり見えるようになるだろう。せいぜい精進することだ」
アルファルドの言葉に肇は納得して、頷いた。
それから話題を変える。
「ところでさ。俺が風なら師匠の得意な属性は一体何なんだ?」
「俺は完璧だからな。どんな属性でも使いこなすが、よく使うのは火と光だな」
自信たっぷりに言うアルファルドを肇は呆れた顔で見上げた。
――自分で完璧って言うなよな。
そう思ってから、ふと、疑問が湧いた。
「光属性っていうのは四大精霊魔術にない属性じゃないのか」
「光属性は、精霊魔術で言うと、風と水の上位属性にあたる。同様に闇属性というものがあって、これは地と火の上位属性。一般的に天使は光属性を持つ存在、悪魔は闇属性を持つ存在と言われているが、そういうものの全てと接触した訳じゃないから俺にはよく分からない。光と闇の上位属性は、空属性だ。これは風でも地でも火も水でもなく、それら全てである属性だ。空の精霊は世界の根源に一番近い存在だと言われている。転移魔術や召喚魔術など時空系統の魔術は大抵この精霊に力を借りることになる」
肇は頭の中でピラミッド状の図形を思い浮かべた。そして首を捻る。
「師匠が火属性が得意ってことは、その上位属性である闇属性も得意ってことになるんじゃないのか? 何で光属性のほうをよく使うんだよ」
肇が尋ねると、アルファルドは眉を顰めた。
「闇属性って見た目が地味だと思わないか? その割には過大な代償を必要とする禁呪が多いし」
――要するに師匠が派手好きなだけじゃないか。
肇は呆れて嘆息する。その様子をアルファルドは眺めて言った。
「そうそう、言うことがあった。明日から俺はしばらくこの家を開ける。ここで魔術の練習をするのなら、勝手に入って構わない。鍵を預けておく」
アルファルドは二階から鍵を投げる。肇は慌てて、手に持っていた本を投げ出し、両手を伸ばして鍵を受け取った。
*
翌日、久住肇は幼馴染の宮地悠と一緒に登校した。朝にも関わらず、空はくすんだ灰色をして辺りは薄暗い。そんな気の滅入る天候などお構いなしに、彼女は茶色のポニーテールを揺らしながら熱弁を振るっている。
「いい、ここで気を付けなければならないのは角度よ。その中でも最も重要なのは百二十度」
肇はやる気のなさそうな顔でそれに相槌を打つ。
「ああ、そうだな」
「聞いてるの?」
悠は鋭い目付きで肇を睨み付けた。
肇は少し気圧されながらも、悠に向かってぶつぶつと文句を言う。
「星占いの話なんて、俺に分かる訳ないだろう? まだ寿人のほうがこういうことに詳しいんじゃないのか」
肇は共通の友人である天文部部長の名を挙げる。
「星占いじゃないわ、占星術よ! 今日は木星と土星が調和を表す百二十度を形成しているのよ。人によっては誕生チャートと正三角形を形成して、物事が何でも上手く行くようになるの」
専門用語ばかりで、肇には何を言っているのかさっぱり分からない。相変わらずマニアックなことだ。うんざりした面持ちで、肇は嘆息した。
「もう少し俺にも分かるような説明をしてくれ」
「占星術っていうのは星々の運行から、宇宙の意思を読み取る技術のことよ。宇宙の根本原理は数理法則から成り立っているから、天体同士の成す角度がとても重要になるわ」
嬉々とした顔をして悠は勢い良く喋った。
――なんだそれは。
肇は万物の根源は数である、と主張した有名な古代ギリシャの数学者を思い出した。ますます理解不能だ。しばらく首を傾げていた後に、こう尋ねた。
「じゃあ、今日の俺の運勢を占ってくれよ」
悠は携帯を取り出して操作する。携帯でホロスコープを作成しているのだろうか。
「確か肇の誕生日は一月十五日だったわよね」
「ああ」
肇は頷く。一月生まれだから、彼は父親に肇と名付けられたのだ。我が父親ながら安易なネーミングセンスだと肇は思う。
「残念だけど、私の見たところ、今日の肇の運勢は最悪よ。九十度の角度が二つもある。太陽と火星の九十度と火星と金星の九十度がね」
「その九十度っていうのは占星術学的にはどういう意味なんだよ」
「突発的に起こる困難を示すものよ。私の経験上、同じ厄介事でも百八十度ならまだ逃げられる。でも九十度の厄介事からは決して逃げられない」
悠はそこで一旦足を止めると、深刻そうな表情をして肇の顔を覗き込んだ。
いかにも大げさな態度に肇は呆れた視線を向ける。
「所詮は占いだろう。当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うじゃないか」
「肇。占星術を甘く見ると酷い目に遭うわよ」
肇は朝から何となく暗い気分になった。
*
その日の学校帰り、肇はいつものようにアルファルドの家に向かおうとする。薄暗く曇っていた朝とは違い、空は雲が切れて少し明るかった。そんな中、肇は歩道をゆっくりと歩く。そうしていると、彼の眼前を何やら黒い影が横切った。肇は目を瞬かせる。黒猫だった。一瞬、朝の悠の話を思い出して肇は嫌な予感がしたが、それがよく見知った黒猫であることに気付き、ほっとする。
「何だ、クロネッカーじゃないか」
肇は自らの使い魔を抱き上げる。普段なら、この黒猫はアルファルドの家の庭で日向ぼっこしている時間帯だ。クロネッカーはどうやら肇の家の庭よりも、日当たりのいいアルファルドの家の庭のほうが気に入っているようだった。肇はクロネッカーを腕に抱きながら、交差点に差し掛かる。
そこへ、猛烈なスピードでバイクが走ってきた。
――危ないっ!
肇は急ぎ足で車道を横切り、向かいの道路へと慌てて逃げる。キィーッと急ブレーキを掛けてバイクは肇のすぐ側でぴたりと止まった。バイクを運転していた女は、ハンドルを傾けて、足を路面へと付ける。頭を下げてヘルメットを脱ぐと、切り揃えられた黒い髪が肩へと流れた。その女は、数度頭を振った後に、肇のほうを見て叫ぶ。
「久住さん!」
驚くべきことに、それは黒の人形師、綾織絢であった。眉間に皺を寄せて、傍目にも苛付いているのが分かる。いつもの冷静さは見る影もない。
彼女は早口で捲くしたてるように言った。
「災厄、アルファルド・シュタインの居場所に心当たりはありませんか」
「いえ、俺にも師匠の居場所は分かりませんが。一体どうしたんですか、綾織さん」
肇は訝しんだ。彼女がこうも感情を露わにするとは何事だろう。
「彼の命が暗殺者に狙われているのです」
肇は驚いて聞き返した。
「それはどういうことですか」
「災厄は貴方も知っての通り、敵を作りやすい性格をしています。非常に態度が偉そうですし、敵とみなした相手には容赦がないですから。彼の死を望むものはたくさんいるでしょうね」
思わずうわずった声を肇は上げてしまう。
「それって師匠の命が危ないってことじゃないですか!」
絢はバイクから降りて、首を横に振った。
「いえ、それは有り得ません。この国に災厄を止められる魔術師は今のところ居ませんから」
「それじゃあ、どうして綾織さんはそんなに焦っているんですか」
「彼の命を狙う相手が問題なのです」
肇の質問に、絢は深刻そうな顔をして見せる。
「猟犬、草壁刈也。それが災厄を狙っている相手です」
普段冷静な絢をここまで動揺させるその人物は何者だろう。そう思って肇は首を傾ける。
「そのケイ何とかっていうのは一体どういった人物なんですか」
「ケイニーズ・ヴァナタサイ、です。『猟犬』という意味の言葉で、その名の通りしつこいことで有名です。どこまでも追いかけてくる」
絢は嫌なものを脳裏に思い浮かべたかのように、顔を顰めた。
「でもここで問題なのは、彼の性格などではない。彼の出自が問題なのです」
「出自?」
肇は不思議そうに聞いた。どこか名門の家の出なのだろうか。
「彼は対魔術師専門の暗殺を請け負う一族、草壁の出なのです。彼等の名は魔術師殺しとして恐れられている」
「それのどこが問題なんです、綾織さん。今この国に師匠に敵う相手はいないんじゃないですか」
「彼等は特殊な技能を持っています。彼等の扱う魔術の前では全ての魔術が無効化します。あらゆる結界も含めて。それはつまり――災厄がもし人目の付くところで猟犬と戦えば、それが衆目に晒される可能性があるということです」
――それは確かにまずい。
肇は納得して頷いた。アルファルドはおそらく大規模な魔術を使うだろう。あの派手好きな性格では。そうすればたちまち野次馬が寄ってくる。
「貴方もご存知のことと思いますが、魔術師の存在は一般の人間には秘匿されなければなりません。無用な混乱を招きますから。貴方も気を付けてください。私はこれから災厄を探します。もし貴方が彼を見つけた場合、ここに連絡してください」
そう言って、絢は電話番号を書いてある紙切れを肇に渡した。それから絢は手早くヘルメットを被り、エンジンの音を響かせながら、来たときと同じように、慌しく去って行く。肇はその姿が彼方へと消えるのを見送ってから、アルファルドの家のほうに歩いて行った。
*
肇は腕に抱いた黒猫の頭を撫でながら、アルファルドの家の前に立って、主のいない洋館を見上げる。
――師匠がいないから、今日はいつもよりのんびり魔術の練習ができそうだ。
そんなことを考えていると、後ろから声が掛かった。
「そこの少年。お前はこの屋敷の主を知っているか」
肇はゆっくりと振り向いた。そこにいたのは、髪を薄茶に染めた長身の男だ。英字のロゴが入った白いTシャツに青いジーンズといった出で立ちだ。じゃらじゃらと体中にシルバーアクセサリーを身に付けている。
「知らないな」
嘘を吐いた。明らかに怪しい男にみえる。彼が例の猟犬だろうか。
「嘘を吐いているな、少年。わずかだが、お前からは魔術師の匂いがする。魔術師が魔術師を知らない訳がないだろう。正直に言ったほうが身のためだぞ」
その男は黒瞳を細めて肇を見つめる。嫌な感じの男だ、と肇は思い、口を噤んだまま無視して通り過ぎようとする。次の瞬間、肇の連れていたクロネッカーが、男の顔に飛び掛った。黒猫の爪が男の顔面を勢い良く引っ掻く。
「お前……」
男はもの凄い形相で、肇を睨み付ける。その殺気は空気が震えているかと錯覚するほどだった。体中に汗をびっしょりと掻いてしまう。そのまま数歩後退し、男に背を向けた。
――早く、逃げなければ、殺される。
それは本能の成せる業だったろうか。肇は大地を、否、空気を蹴って、逃げる。肇は無意識のうちに風の精霊の力を借りていた。
肇は元来た道を引き返し、疾走した。周りの風景がすごい勢いで、後ろに過ぎていく。肇は男を撒くために、狭い裏路地に入った。右に曲がり、左に曲がり、それからまた右に曲がる。そこからは直線。真っ直ぐに百メートルを十秒で一気に駈け抜ける。そこまで走ったところに廃ビルがあった。
窓ガラスは割れ、カーテンはぼろぼろに破れており、壁にはひび割れが入って、ところどころ剥がれている。見るも惨憺たる有様の建物である。ここは肇が幼い頃、秘密基地ごっこをして、悠とよく一緒に遊んだ場所だ。肇は迷うことなく敷地に入り、廃ビルの横手にある狭い非常階段を駆け上がった。
非常階段は赤く錆が浮いており、一歩足を踏み出すごとに、ぎしぎしと何かが軋む音がするが、気にしない。登り切った所にある一番上の扉を勢い良く開け放ち、そこを入って二つ目にある部屋に逃げ込んだ。この部屋は、廃ビルの中で、比較的きれいな場所であった。幼かった肇と悠がいろいろ改造をほどこしたせいでもあるが。今でもたまに悠と遊びに来ることがある。ここまで来て、肇はようやく息を吐いた。あの男も、まさかここまでは追ってこないだろう。そう思って、肇は柱に凭れたが。
震動がビルを襲った。立っていられない程の大きな揺れ。慌てて肇は手近にあったテーブルの縁を掴む。建物全体が老朽化しているためか、揺れるたびに嫌な音がする。
――崩れる!
肇はそう思い、急いで部屋を飛び出して、非常階段のほうへと戻った。その瞬間、轟音を立てて廃ビルが倒壊していく。肇は足場を失って落下していった。
――風よ!
肇は意識的に精霊へと呼びかけた。以前魅了する者として力を使ったときと同じように。風の刃が、彼に害を成すもの全てを切り裂いていく。そのまま肇はふわりと大地に降り立った。
「へえ、意外とやるじゃないか。少年。で、どうして逃げるんだ?」
どのようにして追いついたのか、薄茶の髪の男がそこに立っていた。彼は軽く口笛を吹いて、にやりと肇に向かって笑いかける。肉食獣を思わせる獰猛な笑み。先程と同じように鋭い殺気を振りまいてくる。
「どうして逃げるかって? お前が追いかけてくるからだよ!」
肇は大きな声で叫ぶと、足元にあった瓦礫の残骸を思い切り投げつける。それから、振り向きもせずに、近くの塀に足を掛けて乗り越えた。そこにいたのは、クラスメイトの茶色の髪の少年、上野寿人だ。彼は自転車を押しながらゆっくりと歩いていた。
「寿人、ちょうどいいところに! その自転車、貸せ!」
肇はそういうや否や、寿人の自転車を無理矢理強奪し、それに飛び乗った。
――風よ、もっと速く。
彼が強く願うと、ありえない速度で自転車が彼方へと走り去って行った。その後を薄茶の髪の男が、またありえない速度で走って追い掛けていく。
「何なんだよ、一体……」
寿人は呆然としてその二人が去るのを見送っていた。
*
――どこへ逃げればいい?
肇は必死に自転車を漕ぎながら、思考を巡らせる。このままではあの男に追いつかれてしまう。どこかで撒かなければならない。学校のすぐ側の住宅街を抜けて、北の方角、つまり山のほうへ向かう。山麓に近付くに連れて、だんだんと人気がまばらになり、道路が次第に細くなっていく。肇は息を切らしながら自転車で坂道を上った。その先は行き止まりになっている。大きな溜め池があるのだ。
そこで自転車から飛び降りて、背の高い草の多く生えた池の岸辺へと進む。後ろを振り向くと、少し遠くに例の男の姿が見えた。
――まだ追い掛けてくるのか。
肇の背筋を冷や汗が伝う。彼は草の茂みに分け入った。息を詰めて、池の静かな水面を眺めながら、ひっそりと身を潜める。酷く長い時間、そうしていた気がするが。
「観念しろ、少年。そこにいるのは分かってるんだ」
気が付けば、いつの間にか、薄茶の髪の男が肇の目の前に立っていた。殺気立った笑みを浮かべて。
肇は両手を挙げて、草むらから姿を現す。その様子を見た男は、口の端を歪める。
「お前は、災厄、アルファルド・シュタインの知り合いだろう。彼の居場所を吐けば、お前の命は助けてやる」
「確かに、俺はアルファルドの知り合いだ。でも、俺は彼の居場所を知らない」
肇は眼前の男を、精一杯の虚勢を張って睨み付けた。
「お前の名は、草壁刈也か」
「いかにも、私の名は草壁刈也だ。お前のような少年にも知られているとは、私も有名になったものだな」
刈也は面白そうに、肇を見やる。
「お前は暗殺者だと聞いた。俺を殺すんだろう?」
喧嘩越しに聞くと、刈也は鼻でせせら笑うように言った。
「お前がこのままアルファルドの居場所を教えなければな」
「俺は知らないって言っているだろう!」
肇が声を響かせて抗議するが、刈也は意に介さずに、呪文を口にする。
「悪いが力ずくで聞き出させてもらうぞ、少年。閃光よ。我が望みに応え、彼の者に裁きを」
辺りを覆う白光。
目も眩むような雷が、今にも肇を襲わんとする。その前に、肇は叫んでいた。
「来てくれ! タイローン!」
肇の手の甲に、うっすらと竜の形をした紋章が浮かび上がる。それとともに、光が満ちて、白色がかった緑色をした一匹の竜が姿を表す。竜はすぐに事態を理解したのか、間一髪でその背に肇を拾い、雷から逃した。
「ごめん、タイローン。いきなり呼んで」
肇はタイローンの背で謝った。
「肇、気にするな。我は気軽に呼んでいいと言っただろう。友の窮地に駆けつけるのは当然のことだ」
タイローンは長い首を後ろに巡らせて笑う。
その様子を興味深そうに眉を撥ね上げて、刈也が眺めた。
「竜を喚起するなんて案外やるな、少年」
「我は我が友を傷付けるものを許さぬ。そこの男、覚悟しろ」
タイローンは刈也を鋭い目線で見据え、重々しく呪文を呟く。
「水よ。眷属の願いに応え、氷の刃となれ」
竜の呪文とともに、無数の氷の刃が、刈也の周囲を取り囲む。それをなぜか刈也は余裕の表情で見つめていた。その様子を見て竜は訝しげな声を出す。
「命乞いするのなら、今のうちだぞ」
「そんなもので私は殺せない」
刈也は自信たっぷりに言い放った。
「そうか。貫け」
タイローンは無慈悲に宣言する。それと同時に、無数の氷の刃が今にも串刺しにせんと、刈也に向かって飛んで行くが、その直前で、刃は全て虚空に吸い込まれたように消え去った。
「そんな……」
タイローンは呻いた。タイローンの背でそれを見ていた肇も驚愕の表情を浮かべている。
「私の名は草壁だ。知らない訳じゃないだろう? 我が一族の異能を」
――綾織さんの言っていたのは、こういうことか。
肇は理解する。確か、彼女は彼等の扱う魔術の前では全ての魔術が無効化する、と言っていた。
「今度はこちらから行かせてもらう。煉獄の炎よ。全てを灼きつくせ」
灼熱の炎がタイローンと肇を襲った。
「しっかり掴まっていろ、肇!」
タイローンはそう言い、勢いよく身を翻して炎を避ける。肇は振り落とされないように必死になってタイローンに掴まった。タイローンは上空まで一気に上昇し、呪文を唱える。
「吹き渡る風よ。流れ巡る水よ。我が声に応えて雷雲となれ、降り落ちよ!」
竜の声に応え、天から稲妻が刈也に向かって落ちるが、その稲妻も、刈也の前で目に見えない何かに阻まれたように消える。
その隙に、刈也はもう次の呪文を詠唱していた。
「豊穣の女神よ。地に眠る異形のものよ。盟約に従いて我が武器となれ」
刈也の立っているすぐ側の地面がぼこぼこと盛り上がる。そうして無数の石礫が宙に浮かんだ。
「当てろ」
刈也が言うと、石礫は次々と上空のタイローンに向かって飛んでくる。タイローンは身を捻って避けようとするが、完全には避けきれない。バランスを崩し、重力に引かれて落下する。タイローンは池の水面に激突する瞬間、敢えて長い体をとぐろのように巻き、肇に伝わる衝撃を和らげる。そのお蔭で、肇は傷一つ無かったが、竜は少なからずダメージを負ったようだった。
「タイローン!」
肇は心配して声を上げる。
「大丈夫だ。これくらいの傷はすぐ回復する。肇は早く逃げろ」
タイローンはよろめきながら、池の岸辺まで辿り着く。そして、そこで肇を降ろした。肇は全力で走って、刈也から逃げようとする。刈也は肇に向かって魔術を放った。
「閃光よ。我が手に集いて全てを灰燼と帰せ」
それはまさに閃光の速さで肇を襲った。避けることが不可能な速さで。
だが刹那。肇の脳内を様々な感情がよぎる。
――ああまずいな、殺される。早く逃げなければ。
そこでふと疑問が湧く。あれ、どうして俺はあいつから逃げ続けているんだ? タイローンは俺を庇って傷付いているのに。俺は一体どこまで逃げれば気が済むんだ!
肇の思考は怒りで塗り潰され、それに従い視界がクリアになっていく。肇は自分の手足の延長のように自身の周囲の精霊達を強制的に支配した。辺りの空気が軋み、精霊達は悲鳴を上げる。肇を襲った雷撃は、彼の眼前ぎりぎりのところで辛うじて消滅した。
「何だ?」
刈也は違和感を感じる。防御魔術を唱える時間は無かったはずだ。それなのに一体どうして――
肇は刈也を思い切り睨み付け、風の精霊に心の中で命じる。
――切り刻め。全てを。
風の刃が、荒れ狂った。それは辺りのもの全てを切り刻んだが、刈也には届かない。風の刃が、刈也の周囲に近付くと、消えるのだ。
「無詠唱魔術か? 大したものじゃないか、その年で。だが私には届かない」
刈也は嘲笑しながら、きっぱりと断言した。
肇はそれには答えない。彼はかつてないほど冷静に、自らの魔術が無効化されるプロセスを観察していた。刈也の周囲で魔術が消えるのは何故だ? 彼に近付くと魔術の原動力たる魔力が吸い取られるからだ。その為に全ての精霊は力を失い、同時に魔術は効力を失う。そう、彼のあれは世界の理に直接干渉している訳ではない。ならば、恐るるには足りない。彼の許容量を超える魔力を供給してやればいい。
――従え。
肇は強く周りの魔力に命じる。その場のあらゆるものが含む魔力に。そして、それを風の精霊に与えてやる。それから断罪の言葉を告げた。
「叩き斬れ」
鎌鼬が刈也を襲う。
「無駄だ」
刈也は笑みを浮かべて、避けもせずにそれを見据えた。
だが、それは易々と彼の領域を貫く。
「なっ……?」
刈也は驚愕した。自分の領域を魔術が侵すなどありえない現象だ。そんな強力な魔術など――
そこで彼の意識は闇に落ちた。
*
肇は刈也が草むらに倒れ伏したのを確認すると、慌ててタイローンに駆け寄る。白緑色をした竜は頭を巡らせて、黄金色の双眸を肇に向ける。肇は不安げな面持ちで、タイローンの顔を見た。
「大丈夫か、タイローン」
「ああ、何とかな。すごいじゃないか、肇。あの男を倒すなんて。ところで、肇は魅了する者なのか?」
「どうも、そうらしい」
タイローンの無事な様子に、胸を撫で下ろしつつ、肇は肯定して頷く。
「そうか。ならば忠告しておく。くれぐれも自分を見失うな」
タイローンは真剣な目をして、肇の顔を覗き込んだ。
「師匠にも似たようなことを言われたよ」
肇が苦笑すると、タイローンはどこかほっとしたような顔をした。
「ならいいんだが」
「ところで、呼び出したのはいいんだけど、どうやればタイローンは布施湖に帰れるんだ?」
不思議に思っていたことを、肇はタイローンに聞く。すると、穏やかに目を細めて、タイローンはこう答えた。
「肇がそう望めばいい。我を喚起するのも退却させるのも同じことだ。その紋章にはその力がある」
「分かった。ありがとう」
肇は礼を言うと、目を瞑って竜が無事に帰れるように、心の内で念じる。すると、手の甲に鮮やかに紋章が浮かび上がり、発光した。それとともに、タイローンの姿が揺らめいて、その場から消え去った。
「ふう」
肇は身体を襲う酷い疲労感に顔を顰めつつ、大きく息を吐いた。そうして、地面に倒れている刈也を見やる。
――どうしようか、これ。
処遇に頭を悩ませた。何しろ、危険人物である。再び目を覚ました場合、肇の手に負えない可能性が大だ。そこで、肇は絢に連絡先の電話番号を書いた紙を貰ったことを思い出す。綾織さんに連絡しよう。そう考えた彼は携帯を取り出し、絢に電話をかけた。
*
「久住さん。全く貴方はとんでもない人ですね」
バイクに乗って、颯爽とその場に駈け付けた綾織絢は嘆息して肇のほうを見た。
「そうですか?」
肇は首を傾げる。確かに自分にしてはわりと頑張ったとは思うが。
「そうですよ。貴方は猟犬を倒すことで、問題を解決してしまった。草壁一族に名を連ねる者に勝つなんて、熟練した魔術師でもなかなかできないことです」
普段、鉄面皮を誇る絢に呆れたような顔をされて、肇はどんな顔をすればいいのか分からない。
束の間の沈黙の後、肇はこう尋ねた。
「この男はどうなるんですか?」
「剣の名において拘束します。拘束理由は、建造物等損壊罪か器物損壊罪と言ったところでしょうか。災厄の件については、魔術組合本部のほうで尋問することになるでしょう。彼が意識を取り戻す前に何とかしないといけませんね」
絢はバイクから降りると、刈也のほうへと歩いていく。そして刈也を冷然と見下ろしながら、呪文を詠唱した。
「死界の闇よ。彼の者の魔力を封じ込めよ」
その言葉に応じ、暗い霧が出現して、ゆっくりと刈也の体を覆っていく。それを見た絢は続けてこう呟いた。
「大いなる精霊よ。空間を檻として彼の者を閉じ込めよ」
次の瞬間、倒れ伏していた刈也の姿はその場から消える。絢は肇に向かって頭を下げた。
「さて、今回もご協力ありがとうございました。貴方は剣でも十分やっていけると思いますよ」
そう言い残して、絢はバイクに跨って慌しくその場から立ち去った。
*
肇はそれでこの件は全て無事に片が付いたと思ったのだが。この後は散々だった。悠からは廃ビルの件についてしつこくいろいろ聞かれ(寿人が崩れるところを目撃していたのだから当然か)、寿人からは、自転車を汚したことで文句を言われ、使い魔であるクロネッカーには顔を引っ掻かれた。おそらく、クロネッカーを見捨てて逃げたのがいけなかったのだろう。その挙句、洋館に帰って来たアルファルドから大目玉を食らった。危険人物と勝手に戦うなどとんでもない、ということらしい。
――悪いのは俺じゃないのに。
全くもって理不尽である。悠の占星術はもしかして当たっていたのかもしれない。肇は憂鬱な気分になった。