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[第五話 雨の弓と、魔物と]

 鬱々とした長雨がここ数日降り続いている。今日もまた雨だ。

 昼休み。いつもならば城ヶ崎高等学校、二年三組の教室は人がまばらになる時間帯だが、この雨のせいで、生徒達は屋外にも出られず、おのおの教室内で過ごしている。たわいもない話をして笑いあう女子生徒達。あるいはカードゲームに興じる男子生徒達。

 そんな中、一番前の窓際の席で雑誌を眺めているのは、茶色の髪を頭の上で括った、ポニーテールの少女だ。名を、宮地悠(みやじゆう)と言う。彼女は真剣な表情をして、記事に見入っている。

「悠、何読んでるんだ」

 そんな彼女の頭上から声を掛けたのは、黒髪黒瞳の少年、久住肇(くじゅうはじめ)である。

 悠は集中して記事を読んでいるのか、肇の声に気付かない。

「悠」

 肇はもう一度強く呼びかける。それで、ようやく肇の存在に気が付いたのか、悠は驚いたように肇のほうを見た。

「何だ、肇か。びっくりさせないでよ」

「別に驚かせるつもりはなかったんだけど。お前そんなに真剣に何読んでるんだよ」

「肇とこの間買いに行った雑誌よ」

 悠は、雑誌を閉じて、肇に表紙を示す。ピラミッド型の図形と、暗号風の文字が羅列された表紙。間違いなくこの前悠が買ったオカルト雑誌であった。悠が肇に気が付かないほど夢中になる訳である。肇は納得したような顔をした。

「なになに、『総力特集:現代に蠢く魔術結社の陰謀――今明かされる驚愕の真実』? 何だこれ?」

 ――師匠によれば、魔術結社は単なる魔術師の集団だってことだったけれど、実在する組織であるのなら、何か良からぬことを企んでいる可能性もあるのかもしれない。

 肇がそう思って聞くと、悠は笑って答える。

「ああ、それね。魔術結社が実は世界を陰で牛耳ってるんじゃないかっていう話。政府の上層部に魔術結社の構成員がいるとか、意図的に情報を流して歴史観を歪めているとか、そういう話よ。別段珍しくも何ともないでしょ?」

「なるほど。よくある陰謀論だな」

「それより、私が気になるのはこっちの記事よ」

 悠が雑誌の真ん中あたりを開いて、肇に見せた。その見出しを肇はそのまま口に出して読む。

「『最新UMAレポート:布施湖に出没する竜、フッシーの謎を追う』? おい、悠。布施湖ってまさか――」

「肇の思ったとおり、あの(・・)布施湖よ」

 布施湖は肇と悠が住む城ヶ崎市の隣に位置する街、雲井市清滝山(きよたきやま)の山麓にある湖の名前である。幼い頃に、肇は両親に連れられて遊びに行った記憶があった。

 嬉しそうに記事を見せてくる悠を眺めながら、肇は思った。何だか猛烈に嫌な予感がする。

「おい。まさかお前、布施湖までフッシーとやらを見に行くつもりじゃないだろうな」

「肇。よく分かったわね」

「そりゃあ分かるさ」

 肇は溜め息交じりに言葉を口にする。

 ――小さい頃からの付き合いだからな。こいつの行動パターンは読めている。

 内心そう思いながら、肇は続けて言った。

「どうせ、また俺も付き合わされるんだろう?」

「あら、肇だけじゃなくて、寿人も誘うわよ」

 悠は二人と親しい天文部部長、上野寿人(うえのひさと)の名を上げる。

「寿人もこんなことに付き合わされるなんて気の毒に。で、いつ布施湖に行くんだ?」

 悠は記事を指差しながら、肇の問いに答えた。

「この記事によれば、フッシーは雨上がりに出没するらしいわ。週間天気予報によれば、ちょうど今週末にこの雨は上がるらしいから、今度の日曜日に行けばフッシーを見られるかもしれないわね」

「分かった。今度の、日曜だな」

 こうして、久住肇(くじゅうはじめ)の週末の予定は決まったのであった。


     *


 日曜日の朝。小雨だったが、相変わらず雨は降り続いている。黄色のワンピース姿の少女、悠は傘を差して、肇の家の呼び鈴を鳴らす。呼び鈴の音に応えて、黒髪の少年が眠そうな顔で悠を出迎えた。起きたばかりなのか、パジャマ姿である。

「おはよう、悠。随分と早いな。駅で寿人と待ち合わせるのは九時じゃなかったっけ」

 玄関に置いてある時計は、午前八時を指している。それを肇は目をこすりながら、眺めた。

「肇が寝過ごすかもしれないと思って、早めに来たのよ」

 にっこり笑ってそう答える悠。上機嫌である。

「今仕度するからもう少し待ってくれないか」

 肇はそう言って、居間に戻り、慌てて身支度をする。黒のジーンズを穿き、英字のロゴが入った白のTシャツを頭から被る。そしてグレーのパーカーを羽織り、机の上に無造作に置いてある腕時計を身に付け、ポケットに財布を捻じ込み、リュックを背負って玄関に向かう。

「ごめん、待たせたな。でも今から駅に行ってもちょっと早すぎやしないか? 向こうで雨に濡れながら寿人を待つ羽目になるぞ」

「駅前のファーストフード店で時間を潰すことにするわ。私、朝ごはんまだ食べてないの」

「俺も今起きたばかりだから、朝食はまだだ。そうすることにするか」

 こうして、二人はしとしとと降る雨の中、歩いて城ヶ崎駅へと向かった。


     *


 駅前のファーストフード店。日曜日の朝はさすがにすいている。肇と悠は同じモーニングセットをレジで頼み、窓際の禁煙席に陣取る。その席からは、寿人との待ち合わせ場所である、駅前広場の時計塔がよく見えた。ここに座って、朝食を取りながら、二人は寿人を待つことにした。ポテトを頬張りながら、肇はぼんやりと外の風景を眺める。雨の日曜日は、駅前といえども、人通りは少ない。そうやって外を眺めていると、馴染み深い茶髪の少年が、緑の傘を差して、時計塔のほうに向かうのが見えた。待ち合わせの相手、上野寿人(うえのひさと)である。

「おい、悠。あれ、寿人じゃないか?」

 肇が悠に言うと、悠は慌ててスープを飲み込んだ。

「そうみたいね。思ったより早かったかも」

 肇はトレーを手際よく片付け、席を立つ。そして悠のほうを見下ろした。

「ちょっと見てくるから、お前はもう少しここで待っていろ」

 そうしてリュックを肩に掛け、店を出る。傘を開き、急ぎ足で、肇は時計塔の下へ向かう。傘を差して待っていた茶髪の少年は、近付く人影に気付いたのか、顔を上げて肇のほうへと視線を向けた。

「おはよう、肇。悠は一緒じゃないのか?」

「悠なら、そこのファーストフード店にいるよ。モーニングセットを食べてたんだ」

「何だ。俺も誘ってくれたらよかったのに」

 寿人は口を尖らせて、少し拗ねたような顔をする。

「寿人も朝ごはんまだだったのか?」

 肇が苦笑しながら聞くと、寿人は頷いた。

「そうだよ。ちょっと寝過ごしちゃって、約束の時間に間に合わなくなるから、何も食べないで家を出てきたんだ」

 そこにワンピース姿の悠が、二人の所まで走ってきた。

「寿人。おはよう」

 悠に向かって、肇は呆れたように声を掛ける。

「店の中で待っていろって言ったのに」

「あんまり待たせちゃ悪いと思って」

 そう返す悠。随分慌てていたのか、息を切らしている。

「俺もモーニングセット食べたかったな」

 寿人は悠のほうへ顔を向けて、小さく呟く。悠は少し驚いたような顔をして寿人の目を覗き込んだ。

「え? 寿人ってば朝ごはん食べてこなかったの?」

「うん」

 寿人は首を縦に振って、悠の言葉を肯定する。

「テイクアウトして、バスの中で食べればいいんじゃないか?」

 肇がそう提案する。布施湖に行くためには、まずここ城ヶ崎駅から電車に二十分ほど乗って雲井駅まで行く必要がある。そこから出ているバスに一時間ほど揺られれば目的地へと辿り着く。バスに乗っている時間は、朝食をとるには十分だ。雨の日の日曜日の朝ならバスもすいているだろうし。

「そうしようかな」

 寿人は口元に笑みを浮べて、こう言った。


     *


 ファーストフード店で、店員に寿人の分の朝食を紙袋に包んでもらい、城ヶ崎駅から急行電車に乗る。電車の中もがらがらにすいていた。三人は並んで席に座る。前の席には誰も座っておらず、目線の先に窓の外の風景が見える。電車は海沿いを走り、海は暗い空模様をそのまま映して、くすんだ灰色をしていた。ぽつぽつと雨の雫が窓ガラスにあたる音がする。大雨という訳でもないが、先程から雨足は弱まる気配もない。次に停車した雲井駅で三人は電車から降りた。そこから雲井駅の南側のバスターミナルに向かい、布施湖行きのバスの時刻表を見る。

「次のバスは九時三十分ね。たぶんもうすぐ来るわ」

 悠が腕時計を眺めてそう言った後、すぐにバスが来て目の前に停まった。三人は整理券を取り、早速バスに乗り込む。車内には他に誰もおらず、ほとんど貸切状態であった。悠は一番後ろの席に座り、肇と寿人もそれに続いて隣に座る。二、三分程すると、バスが発車した。

 しばらくは、雲井市の街中を走る。肇が住んでいる城ヶ崎市の住宅街とほとんど変わらない、暗灰色の無表情な風景。それが十分ほど走ると、突然景色が変わる。目に入る緑が次第に増えていく。長雨のせいで、生い茂る木々の緑が濃い。雨はまだ少し降っている。肇がそれを何となく眺めていると、それまでハンバーガーを食べていた寿人が急に口を開いた。

「フッシーって、本当にいるのかな」

 悠は自信たっぷりな様子で、即座に断言した。

「いるに決まってるじゃない」

 そんな悠に、肇は呆れた視線を向ける。

「何で見たことないのにそう言えるんだよ」

「勘よ、勘!」

 揺れる車内の中で立ち上がって、勢いよく叫ぶ悠。その様子を眺めて、寿人は苦笑した。

「悠の勘は結構あなどれないから、もしかしたら本当にいるのかもしれないな」

「オカルト方面に関してだけは、悠の勘はかなりの高確率で外れるぞ」

 幼い頃から悠に付き合わされてきた肇は、長年の経験からこう反論する。

「そんなことないわよ。それに今度の話を聞いて、私は確信したことがあるの」

「何だよ、それ」

 眉根を寄せて、肇は訝しげに尋ねた。ただの勘ではなかったのだろうか。

 悠は座席に座り直すと、鞄の中をごそごそと漁る。そして例のオカルト雑誌を取り出し、フッシーの記事が載っているページを開き、二人に示した。

「ここにね、フッシーは雨上がりに出没するって書いてあるでしょ」

「それがどうしたのさ」

 不思議そうな顔をして、寿人が口を挟む。

「雨上がりの空に見えるものって何だと思う?」

 悠は悪戯っぽい笑みを浮かべて、二人に問い掛ける。

 肇は少し考えを巡らせた後、こう答えた。

「虹、か?」

「そうよ!」

 悠は我が意を得たりといった風に頷く。

「虹がどうかしたの?」

 寿人が首を傾げて質問すると、悠は嬉々として、話し始めた。

「世界各地に伝わる虹の伝説。そういった話に必ずといっていいほど出てくるのが、竜や蛇といった生き物よ。沖縄地方の方言では虹のことを蛇っていう意味の言葉で表すことが多いし、オーストラリアの原住民、アボリジニの各部族が崇拝するウングル、ユルルングル、エインガナ、ンガルヨッドといった虹蛇レインボー・サーペント達はだいたい虹色に輝く蛇の形をしているわ。アフリカの中央部の熱帯雨林に生息しているとされる有名な首長竜のUMA、モケーレ・ムベンベの名前には、川の流れをせき止める者っていう意味だけでなく、虹と共に現れる者っていう意味もあるとされているのよ。ブードゥー教における精霊(ロア)達の長、蛇の化身ダンバラ・ウェドゥの妻、アイダ・ウェドゥは、虹の化身と言われている。そもそも虹という漢字は古代中国では、ある種の竜を指していたらしいわ」

 立て板に水のごとく、一気に悠が説明する様子を呆気にとられて、肇と寿人の二人は見ている。

「お前は相変わらず伝説には詳しいな」

 肇はどこか疲れたように言葉を口にした。

「私は常々思ってたのよ。虹の色の数だって世界各地で違うのに、どうしてこんなに似たような伝説がたくさんあるんだろうって。それでこの記事を見たときぴんときたって訳。虹と竜の間には絶対何かあるわよ」

 寿人は感心したように、悠に向かって笑いかけた。

「なるほど。それが悠の勘って訳ね。案外信頼できるかもしれないよ、肇」

「そうかな?」

 肇は懐疑的にならざるを得ない。UMAの存在自体を否定しているという訳ではない。よく考えれば、この間肇が見た魔術師の使い魔(ファミリア)だってUMAのようなものだ。しかし、悠がこの種のことで肇を連れ回して、目的の存在に出会えたことは、今までほとんどなかったのである。だから、おそらく今回も外れだろう。肇はそう感じていた。

 三人が話している間に、いつの間にか雨はすっかり止んで、バスは曲がりくねった山道に入っている。激しく揺れるバスの中、寿人はポテトを食べながら、悠に貸してもらったオカルト雑誌を読んでいた。悠は変わり行く外の風景を嬉しそうに眺めている。肇は寿人の読んでいるオカルト雑誌を、何となく横から覗き込んでみた。魔女の呪いグッズやら金運招福風水財布やら波動水晶やら、見るからに怪しげな広告がたくさん載っている。寿人はいかにも興味深げにそれらの広告へと目を通していた。

 ――結局、寿人も悠と同類なんだよな。

 肇はそんなことを思う。彼は天文部の部長らしくかなりのロマンチストだ。頭の回路は完璧に理系なのだが、なんだかんだ言って悠に楽しそうに付き合っている。肇は少し寿人が羨ましかった。自分が彼みたいな性格なら、今まで苦労しなかったろうに。

 そうしているうちに、窓の外の風景はだんだん変わってくる。照葉樹林の隙間から、雲井市の街並みが遥か下に見えた。少し雲が切れて晴れ間が覗き、そこから太陽の光が矢のように大気を貫いて、眩しく大地を照らし出す。遠くのほうでは海が陽光を反射して、鮮やかに煌いていた。思わず肇はその風景に見惚れてしまう。

「うわあ、綺麗ね」

 悠が窓から身を乗り出すようにして、感嘆の声を上げた。寿人も読んでいた雑誌から目を離して、窓の外へと視線を向ける。

 それからしばらくしてバスは布施湖へと辿り着いた。


     *


 肇が料金を払ってバスから降りるときに、ステップのところで少しふらついた。一瞬意識が遠のく。こめかみ辺りの血流がざわめくような感覚。あまりの違和感につい顔を顰めてしまう。頭の中を何か得体の知れないものにかき乱されるようだった。先にバスを降りていた悠と寿人は、肇のほうを心配そうに見る。

「肇、大丈夫か?」

 寿人が振り向いて肇の顔を覗き込む。

「ああ、ちょっと眩暈がして」

 肇は安心させるように、穏やかに笑う。

「たぶん、気圧の急激な変化で体調を崩したのよ。こういう時は水分を補給して休憩するといいわ。売店で飲み物を買ってくるからそこでしばらく待ってなさい」

 悠はバスターミナルの近くに木製のベンチを見つけて、それを指差した。肇は悠の言うとおりに、ベンチに座って休憩する。

「じゃあ、ちょっと買ってくるわね」

 そう言って、悠は肇の側から離れる。寿人も悠に付いて売店に向かった。

 肇は二人が自分の近くを離れるのを見てから、大きく息を吐いた。深呼吸して、肺に空気を送り込むと、少しは気分が楽になったような気がした。肇が座ったベンチからは布施湖が一望できる。湖面に乳白色をした幻想的な霧がかかっていて、対岸は良く見えなかったが。湖畔は人がまばらだった。あのバスに乗っていたのは三人だけだったから当然か。そう思って肇は辺りを見回す。

 ふと。肇の視線はある一点に釘付けになった。湖のほとりに佇むのは漆黒の服に身を包んだ一人の女性。

 ――あれはまさか、綾織さん? どうしてこんな所に。

 確かにそこにいたのは、黒の人形師(ブラック・パペッター)綾織絢(あやおりあや)であった。絢は肇の視線に気が付いたのか、肇の座っているベンチのほうへ歩いてきた。相変わらず、抑揚のない声色で彼女は肇に声を掛ける。

「久住さん、こんなところで会うなんて奇遇ですね」

「綾織さんこそ、どうしてここに?」

 肇が疑問に思って問うと、絢は答える。

「水の精霊の活動が活発化しているようなので、調査に来たのです。結局異常は何もありませんでしたが」

 絢は、肇の顔を正面から見据えて、こう続けた。

「貴方は精霊にあてられたようですね」

「どういうことですか、それは?」

 肇は不思議そうな顔をして、絢に尋ねた。

「一定の空間内に存在する精霊の密度が通常より高いために、魔術師が圧迫感を感じる現象のことです。魔術師は魔術を行使せずとも、普段から無意識に精霊の存在を知覚しています。精霊の数が急激に増えると、人によっては眩暈などを感じたりもします。しばらくここにいれば、慣れますよ」

 ――なるほど、先程の眩暈はそういうことか。

 肇は絢の言葉に納得して、頷いた。

「へえ、そうなんですか」

「ただ、その状態で魔術を扱おうとすると、大抵失敗します。貴方も気をつけてください」

 絢は淡々とした口調のまま、肇に忠告する。

 ――俺はほとんど魔術を使えないから問題ないと思うけど。

 肇は内心そう思ったが、口には出さない。

「分かりました。ありがとうございます」

「それではまた」

 肇が礼を言うと、絢は頭を軽く下げて、その場から立ち去る。

 それとちょうど入れ替わるように、悠と寿人の二人が肇のところに戻ってきた。

「肇、あの黒髪美人と知り合い?」

 寿人が興味津々、といった面持ちで肇に聞いた。

「まあ、そんなところだ。別にお前が勘繰るようなことは何もないが」

「それは残念」

 寿人はおどけたように言って、缶ジュースを肇へと差し出す。

「これ買ってきたよ。悠のおごりだ」

 肇はわずかに目を見開いて、悠のほうへ目線を移す。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 悠は満面の笑みを浮べる。そして何故か手に持っていた白いビニール袋をいくつも肇に押し付けた。

 肇は不審に思って悠の顔を見やる。

「何これ」

「布施湖名物、フッシーまんじゅう。肇の分もちゃんとあるから、持って帰ってね」

「…………」

 ――もう便乗商品が出てるのかよ。

 肇は深く溜め息を吐き、白いビニール袋をリュックの中に押し込んだ。


     *


 三人は湖の周りの散策コースを歩く。黄色いレンガの道に沿って、のんびりと。湖を一周するのに二時間ほど掛かるらしい。悠は目を皿のようにして、湖面を見つめているが、霧が薄くかかっていて、はっきりとは見えない。

「フッシー、出ておいで」

 業を煮やしたのか、ついに悠は、フッシーに呼びかける作戦に出た。

「そんなので、出てくる訳ないだろう」

 うんざりした顔をして肇が言う。

「だいたいフッシーなんてネーミングセンス皆無な名前をその竜は自分の名前として認識してるのかどうか謎だ」

「じゃあ、フッシテラス・ロンポプテリウス、出ておいで」

 その様子を見た寿人は笑いをこらえて、悠の顔を眺めた。

「学名っぽく言ってもあまり意味はないと思うよ」

「そうかな」

 悠は首を傾げて寿人のほうを見た。

「もし本当に竜がいるのなら、こちらを警戒してもおかしくはないと思う。呼びかけるのはたぶん逆効果な気がする」

「俺もそう思う。静かにしたほうがいい」

 肇も寿人の意見に同意した。悠は二人にそう言われて考え直したのか、口を閉ざして歩を進める。それからしばらく三人は黙って歩き続けた。

 先に進むにつれ、次第に霧が濃くなってくる。二十メートルぐらい先も見えない。

 ――っ!

 そうして歩いていると、再び肇を眩暈が襲った。身体中の血液が逆流するような不愉快な感覚。肇は頭を押さえて地面に(うずくま)る。呼吸を整えて、顔だけを上げるが、悠と寿人の姿はすでに見えなくなっていた。何とか立ち上がり、肇は二人に追いつこうとするが。

 ――あれ?

 いくら歩いても二人の姿は見えない。終いには走って追いつこうとするが、無駄だった。

 ――どういうことだ、一体。

 肇は途方に暮れて立ち止まる。

 そのとき、どこからともなく、声がした。

「汝は、魔術師だな」

 地の底から響くような低い声だ。肇は声の発生源を探そうと、辺りを見回したが、霧が深くて何も見えない。

「どこを見ている。我は、ここにいる」

 その声は湖の方角から聞こえてきた。先程までは湖は霧で覆われて何も見えなかったのに、そこの空間だけが切り取られたように霧が晴れている。鈍い灰色をした湖面の上に、ふわりと浮かんでいたのは、白色がかった緑色をした一匹の竜だった。東洋の竜に羽根を付けたような姿をしている。

「フッシー? 本当にいたのか?」

 肇は驚愕して思わず叫んだ。まさか、悠の言うとおり、UMAがいたとは。とても信じられない。

「フッシーとは我のことか?」

 その竜は首を傾げて、黄金色の瞳を肇のほうへ向けた。爬虫類特有の縦に細長い瞳孔。こうして見ると、意外に愛嬌がある。

「ああ。布施湖に棲む竜だから、皆フッシーって呼んでいるんだ。お前の名前は何て言うんだ?」

 肇が聞くと、低い声を大気中に響かせて竜は答えた。

「それは、我を示す固有名詞ということか? 今はタイローンと名乗っている」

 ちゃんと名前があるんだな、と肇は思った。悠がフッシーと呼んでも出てこなかったはずである。

「俺の名前は久住肇(くじゅうはじめ)だ。肇って呼んでくれ」

 肇も自己紹介をした。それから、続けて聞いてみる。

「タイローン。俺だけをわざわざ引き止めたっていうのは、俺に何か用があるってことなのか?」

「我はある魔術師を探している。同じ魔術師である汝なら、もしかしたらその魔術師を知っているかもしれないと思って呼び止めた」

 竜は肇のほうに近付いて、肇の顔を覗き込む。近くに寄ると、竜はなかなか迫力のある生き物だ。肇は少し気圧されてしまう。

「俺は魔術師っていっても半人前以下だし、魔術師の知り合いなんてほとんどいないよ。悪いけどご期待には添えないと思う」

 肇が返答すると、竜はその黄金色の双眸を煌かせて、尋ねた。

「長い茶色の髪をした女性の魔術師なんだが。知らないか?」

「俺にはそういう知り合いはいない」

 竜はそれを聞いて、随分とがっかりしたようだった。黄金色の目に落胆の色が見える。肇はこの竜が少し気の毒になった。

「その魔術師の名前は分からないのか? だいたいどうして、タイローンはその魔術師を探しているんだ?」

 肇は疑問をそのまま口にした。

「名前は分からない。我が彼女を探しているのは、約束のためだ」

「約束?」

 竜の言葉を不思議に思って、肇は聞き返す。

「ああ。我が彼女に、もう一度虹を見せることができれば、彼女は我と契約すると約束した」

 虹。またその単語が出てきた。虹と竜の間に何か関係があるという悠の仮説は、正しかったのだろうか。

「虹を見せるってどういうことだ?」

「我等の種族で流行っている遊びに、雨上がりに空を飛んで水滴を空気中に散らし、虹を作り出すというものがある。我等の間では、その虹の下で交わした約束は決して破られることがないと言われている。まあジンクスみたいなものだが」

 ――まさか、虹を作るのが、竜の間で流行っている遊びだったとは。

 肇は少し驚いて目を見開いた。悠もこのことまではおそらく予想できなかっただろう。

「じゃあ、契約っていうのは?」

「魔術師が我等と結ぶ契約といえば、決まっているだろう。魔術師と使い魔(ファミリア)が結ぶ主従の契約だ。タイローンという名も、彼女が我に付けたものだ」

 ――その魔術師は、この竜を放って一体どこへ消えたというのだろう。

 肇は顎に手を当てて考え込む。

「タイローン。最後にその魔術師に会ったのはいつなんだ?」

「十年ほど前になる」

 十年。肇はその長さに呆れた。竜という存在の時間感覚にも。今頃になって、遅いな、とでも思ったのだろうか、この竜は。

「そんなに前のことなんだったら、その魔術師は約束のことを忘れているんじゃないか?」

 肇が呟くと、竜は恐ろしい目で睨み付ける。鋭い眼光を向けられて、肇は数歩後退さった。それから慌てて言い直す。

「そうじゃなくても、その魔術師には何か来れない理由があったんだよ。彼女の身に何かあったとか」

 竜は思い悩むような顔をする。

「我はそれが心配なのだ。彼女が忘れているだけならまだ良いのだが」

「じゃあさ。もし俺がこれから先、そんな魔術師に会ったらここに来て報告することにするよ」

 肇がそう提案すると、竜は首を横に振った。

「そんなことをする必要はない。主従の契約はできないが、肇が我を喚起すればよいだけのこと」

「俺は半人前以下の魔術師だっていっただろう」

 肇は竜に反駁する。

「一人前だろうが、半人前だろうが関係ない」

 竜はにやりと笑い、高らかに叫んだ。

「我、水の精霊タイローンは久住肇(くじゅうはじめ)を友とすることをここに誓う! 友に名を呼ばれれば我は速やかに馳せ参じよう!」

 その言葉に応えて肇の手の甲が発光する。肇は自分の手にうっすらと竜の形をした紋章が刻みこまれたのを見た。光が収まると、何事もなかったように紋章は手の甲から消えた。

「何をしたんだ、タイローン」

 肇はつい呻き声を上げてしまう。この竜は一体自分に何をしたのだろうか。

「肇が望んで我を呼べば、我は現われる。魔術師的な言い方をすれば、紋章による喚起魔術の簡略化ということだが」

「俺が来て欲しいと思ったときに名前を呼べばタイローンが来てくれるってことか? 何でそんなこと……」

 肇の問いに竜は笑いかけた。

「我は肇が親身になって我の話を聞いてくれたのが嬉しかったんだ。気軽に呼んでくれて構わないぞ」

 肇も竜の目を見返して微笑む。

「ああ。何か分かったらタイローンを呼ぶことにする」

「肇。ありがとう」

 竜はそう言って天へと昇っていき、肇の頭上、遥か上空で一旦静止する。それから竜は頭を返し、重力に引かれるように、湖へ落下していく。その美しい軌跡にしばし肇は見惚れた。そうして竜が湖に姿を消すと、いつの間にか霧はすっかり晴れていた。

「肇!」

 茶色のポニーテールを靡かせて、息を切らした幼馴染が肇のほうへ走ってくる。宮地悠(みやじゆう)だ。

「良かった。どこかで遭難したのかと思ったわ」

 その後ろから心配そうな顔をした、上野寿人(うえのひさと)が現われる。

「すごい霧だったからね。肇を見失ったときは本当に心配したよ」

「ごめん、悪かった。ちょっとまだ体調が優れなくてさ。早く歩けなかったんだ。でももう大丈夫だ」

 肇は寿人を安心させるように微笑んで見せた。その時、悠が顔を上げて叫んだ。

「ねえ、あれ見て! 虹よ!」

「ほんとだ」

 寿人もつられて空を見上げる。そこには、晴れ上がった空から差し込む光を受けて、素晴らしく色鮮やかな虹がかかっていた。タイローンの置き土産だろうか。肇はそう思う。三人はそれから空にかかった虹を消えるまで飽きもせず眺めていた。


     *


 その後。悠は一時間ほど探索したところでフッシーを見つけることを断念した。彼女は自棄になって売店で巨大なフッシーのぬいぐるみを買い、肇はそれを持って帰る羽目になった。悠が大量に購入したフッシーまんじゅうの処遇に肇は困ったが、結局アルファルドへの土産になった。案外好評だったようで、アルファルドは嬉しそうに、フッシーまんじゅうを口にしていた。肇はそれを見てほっと胸を撫で下ろしたものだ。悠はまたフッシーを探しにいくと息巻いていたが、肇はそれに付き合う気にはなれなかった。何しろ呼べば来るのだ、あの竜は。

 ――結局悠のせいで俺はまた厄介事を背負い込んだ訳だ。

 肇はそう思った。呪いの指輪といい、布施湖の竜といい、悠はつくづくそういったものに縁があるようである。

 ――まあ、いいか。

 彼女に付き合っていれば、退屈はしないだろう。肇はそう考えることにした。どうせ肇は悠の頼みを断れないのだ。前向きに考えたほうがいいに決まっている。というか、そう思わないとやっていられない。

 悠は今日も嬉しそうに例のオカルト雑誌を読んでいる。その様子を見ながら肇は密かに溜め息を吐いた。

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