[第四話 黒猫のフーガ]
それは、アルファルド・シュタインの一言から始まった。
「野良猫を一匹捕まえて来い」
金髪の魔術師は、有無を言わさぬ口調でそう言い放った。いつもの洋館の一室である。
久住肇はその突飛な発言に顎を落とす。一瞬の沈黙の後に、おずおずと口を開いた。
「まさか、魔術の生贄にするんじゃ……」
思ったことを直接口に出したのがいけなかった。
「貴様はこの俺を一体何だと思っている」
アルファルドは碧の双眸を凶悪に煌かせて、肇を睨み付けた。全く、端正な顔が台無しである。
肇はその視線から逃げるように、明後日のほうを向く。
「師匠が動物愛護の精神に満ち溢れているようにはとても思えなかったもので」
「何の話だ、それは! とにかく今すぐ捕まえてこい。さもないと――」
皆まで言わなくとも肇には分かっていた。すでにアルファルドは手に持った杖で、複雑な印形を描いている。発動までの時間が極端に短い無詠唱魔術。肇は戦々恐々として自らの師匠のほうを眺めやる。あれが完成すればどうなるか――
「分かった、捕まえてくればいいんだろう」
そう言い残して肇は洋館から慌てて逃げ出した。
*
野良猫を捕まえる。さて、一体どうすればよいのか。久住肇は、くすんだ灰色をした住宅街の塀の上に、野良猫の姿を探しながら、自宅への帰路を辿る。辺りはまだ十分に明るく、猫を探すのにも支障はなさそうだった。肇は首を傾げながら、考えを巡らせる。そう言えば、家の庭に時々小さな黒猫が来ていたような気がする。あれを捕まえるか。しかしどうやって捕まえればいい? 網で捕まえるのか? なかなか難しそうである。
「悠にでも聞くか」
肇の幼馴染である少女は、細々とした豆知識に詳しい。単なるオカルトマニアではないのである。そう思い立った肇は、自分の隣の家の呼び鈴を鳴らしていた。
「あら、肇くん」
玄関から出てきたのは、年配の人の良さそうな女性だ。悠の母親、宮地明海である。肇が幼い頃から度々世話になってきた女性であった。肇は軽く頭を下げて挨拶してから、尋ねた。
「小母さん、悠いる?」
「悠なら、家にいるわよ。ちょっと待ってね、今呼んでくるから」
そう言って、彼女は家の中に入り、悠を呼びに行く。少し経ってから、ジャージ姿の茶色のポニーテールの少女が、欠伸をしながら、こちらに歩いてきた。
「肇。あんたのほうから、私の所に来るなんて珍しいじゃない」
「悠。お前、寝てたのか?」
大きく伸びをしながら、悠は答える。
「ええ。何か用?」
「起こして悪かったな。実は、最近家の庭で黒猫を見かけるんだけど、それを捕まえたいんだ。どうやったら捕まえられると思う?」
「その猫、何か粗相でもしたの? 肇はそういうの、興味がないと思ってたんだけど」
悠は怪訝そうに、肇の顔を覗き込んだ。
「いや。別にそういう訳じゃないんだけど。可愛いから飼ってみたくなって」
肇は視線を逸らして、適当に嘘をでっちあげる。アルファルドは肇が言った生贄説を全力で否定していたから、別に命をどうこうする訳ではないだろう。もし、悠に何か聞かれたら、逃げられたとでも言えばいい。
「ふうん。肇が動物に関心を持つなんて、どういう風の吹き回し?」
「……別にいいだろ。俺が猫を飼いたくなったって」
憮然とした表情の肇を見て、悠は考えこむように首を捻っていたが、しばらくして自信たっぷりにこう口にした。
「まあ、いいけど。ああいう動物を捕まえるにはね、大好物を用意すればいいのよ」
「大好物?」
肇が聞き返すと、悠は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「猫の大好物と言えば決まってるでしょ。またたびよ、またたび。確か駅前のペットショップで売ってたんじゃないかな?」
「なるほど。ありがとう。早速買ってくることにする」
そう言って、肇は悠に背中を向け、歩き出そうとするが。
その後ろ姿に向かって、悠は声を掛ける。
「ちょっと待ってよ。そういうことなら私も協力するわ。確か家に動物を入れられるケージがあったと思うの。後で肇の家に持っていくから待ってなさいよ」
肇はゆっくりと振り向いて、幼馴染の少女の顔を見た。茶色の瞳をきらきらと輝かせている。こういった時の彼女には何を言っても無駄なのだ。あの黒猫を捕まえるまでは、肇に付いて回るに決まっている。肇は深々と溜め息を吐いて、首を縦に振った。
「分かったよ。まずまたたびを買ってくるから、三十分ぐらいしてから家に来てくれ」
「了解。黒猫捕獲作戦開始ね」
実に楽しそうに、悠は宣言したのであった。
*
肇は城ヶ崎駅前のペットショップで、子犬や子猫がケージに入れられているのを尻目に見ながら、目的の物を探す。しばらく店内を歩きまわったが、どこにあるのか分からない。肇は途方に暮れる。
――またたびってどこに売ってるんだ?
猫用の玩具を置いてあるコーナーに行ってみるが、そこでも見つからなかった。しかし、最近は猫用の玩具といってもいろいろあるものである。肇は感心しながら商品を眺めた。猫じゃらしや鼠のぬいぐるみだけだと思っていたら、レーザーポインターみたいなものまである。
――いやいや、こんなことをしている場合じゃない。
肇は思い切って店員に聞くことにした。
「すみません。またたびってどこに売ってますか?」
店員はにこやかな笑顔で答える。
「ペットフードコーナーに置いてありますよ。取ってきましょうか?」
「ええ、お願いします」
店員が持ってきてくれたのは、小分けの袋に入った粉末状のまたたびだった。肇が店員に値段を聞くと、二百五十円だという答えが返ってきた。意外に安い。肇はそれをレジで精算する。ケージに入った子猫がまたたびの入った袋をつぶらな瞳で見つめてくるのを、なるべく気にしないようにして、肇はペットショップを出た。
*
肇が自宅に帰ると、悠はすでに肇の家の庭に陣取っていた。捕獲用のケージを手に持って、庭の茂みのすぐ側に座り込んでいる。悠は肇が帰ってきたのに気付き、顔を上げた。
「肇。帰ってたの?」
声が弾んでいる。何だかよく分からないが、とても嬉しそうである。肇は悠のほうへとゆっくりと歩いていった。
「またたび、買ってきたぞ。そのケージの中にセットするのか?」
「そうよ。貸して、肇」
肇は悠にまたたびの入った袋を渡す。悠は袋を開け、中に入っていた粉末をどこからか持ってきた小皿に入れる。そして、その小皿を、ケージの奥のほうへと押しやった。
「このまま、猫が来るまで置いておけばいいのか?」
肇が聞くと、悠は首を左右に振って否定する。
「トラップを仕掛けるのよ。糸をそのケージの扉のところに引っ掛け、猫がケージの中に入った瞬間に糸を引っ張って、扉を閉めるの」
悠はそう言ってこれまたどこから持ってきたのか、懐から透明な糸を取り出し、ケージの扉に括りつけた。そして引っ張れば扉が閉まるように、ケージの横に糸をくぐらせる。
「その糸どこから持ってきたんだ」
肇の問いに、悠は笑顔を浮べて答えた。
「釣具用のテグスよ。父さんが持ってたの。細いけれど、強度としては十分」
悠はてきぱきと、猫を捕まえる準備を進めてゆく。しかし猫捕獲技能など、日常生活を送るにあたっては、全く必要のない能力ではないだろうか。
「お前、やけに手際が良くないか?」
不思議そうに肇が尋ねると、悠はこうのたまった。
「これは以前私がつちのこを捕獲しようとした時に考案した方法よ。失敗したけど」
「…………」
肇は呆れて沈黙した。そういえば、そういうこともあった気がする。悠は糸を肇の家の縁側のほうまで伸ばしていく。その作業を終えると、彼女はきっぱりとこう言い切った。
「これで準備完了。後は獲物がかかるのを待つだけ。おそらく長期戦になるわね」
「そ、そうか」
肇は悠の勢いに完全に気圧されてしまっている。
そのまま二人が縁側で待つこと一時間。ついに小さな黒猫が肇の家の庭に姿を現した。
*
黒猫は尻尾を立てて、そろりそろりと門柱の近くの茂みからこちらのほうに歩いてくる。
――あれに気付くか?
肇は黒猫をじっと観察する。
黒猫は、花壇の近くの草むらに、身を潜めた。花壇の周りにはひらひらと蝶が舞い踊っている。黒猫はその蝶が気になったのか、前足を宙に伸ばして捕まえようとしていた。黒猫はしばらくそうしてじゃれまわっていたが、そのうち飽きて、ゆっくりと縁側のほうに近づいてきた。そうしてケージに興味を持ったのか、ケージの扉を爪で引っ掻いて遊んでいる。それから、またたびに惹かれた黒猫はケージの中に入っていった。
「今よ!」
悠が小さな声で合図する。
それに応えて、肇は手に持った透明な糸を強く引っ張る。
がしゃん!
大きな音を立てて、ケージの扉が閉まった。黒猫はびっくりして、体中の毛を逆立てて唸るが、もう遅い。悠は縁側から庭に降りて、ケージの側に行き、透明な糸を外す。それから片手でケージを持ち上げて、縁側に座っている肇に得意そうに差し出した。
「はい。捕獲完了」
「あ、ああ。ありがとう」
黒猫は悠のほうを見て威嚇するような鳴き声を上げたが、悠が一睨みすると、小さな身体をびくっと震わせて、押し黙った。
――相変わらず凄いな、悠は。
全く、猫を視線だけで黙らせるなんて、彼女にしかできない芸当ではないだろうか。そう思って肇が悠のほうを感心して見ていると、悠は口を開いた。
「餌なんだけど……。普通の牛乳は与えないようにしてね。猫にとっては消化しにくいものだから。この子にはペットショップに置いてある子猫用のミルクをあげるといいわ。じゃあ、私は帰るね」
悠はそう言い放って、颯爽とその場を立ち去る。彼女は黒猫を捕まえただけで満足したようだった。その後ろ姿を呆気にとられたように肇は見送る。後には、ケージに捕らえられた小さな黒猫と、黒髪の少年が、その場に取り残された。
*
肇が再びペットショップに行って、子猫用の餌とミルクを購入し、家に辿り着いた時には、辺りはもう暗かった。縁側に座って、夕闇濃い空を見上げながら、肇は考えを巡らせる。師匠のところにこいつを連れて行くのは明日でもいいか、などと思いながらケージを開け、小皿にミルクを入れて、黒猫に差し出す。最初は警戒した黄金色の目をこちらに向けていたが、よほどお腹がすいていたのか、しばらくすると、小皿に近づいて、もの凄い勢いでぺろぺろとミルクを舐めはじめた。そして、ミルクを飲み終わると、何かをねだるような目で肇を見てくる。
――可愛い。
肇は思わず、口元をほころばせて、黒猫を見やる。ペットショップで買ってきた猫缶を開けて、黒猫に与えると、実に嬉しそうにそれを平らげた。そして、肇のほうに近づいて、その小さな身体をすり寄せてくる。肇はたちまちのうちに黒猫の愛らしさに篭絡されてしまった。
「もし師匠が生贄にしようとしたら、逃がしてやるからな」
肇は黒猫を力一杯抱きしめて語りかける。黒猫は肇の言ったことを理解していないようで、黄金色の目を不思議そうに煌かせながら肇のほうを見ていた。
*
翌日。学校が終わると、肇は一度自宅に戻る。いつもはアルファルドの家を直接訪れるのだが、今日は例の黒猫を連れていく必要があるためだ。ケージを手に持ち、アルファルドの住まう洋館の扉を開いた時、肇はそこに信じられないものを見た。洋館を入ってすぐの所にある階段の手摺。そこに肇の連れている黒猫よりも一回りは大きな黒猫が鎮座していた。いや、それは別段珍しくも何ともないのだが。
「アルファ殿は本当に人間か? 全く冗談ではないぞ。これ以上人外の相手などごめんこうむる」
ぶつぶつと独り不平不満を呟いているその声の発生源は間違いなく、その大きな黒猫である。
――ね、猫が、喋ってる? いや、待て。落ち着け俺。これは夢だ。夢に違いない。こういう時こそ素数を数えて落ち着くんだ。
「二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三、二十九、三十一、三十七、四十一、四十三、四十七……」
動揺して訳の分からない行動に出る肇に気が付いたのか、その大きな黒猫は階段を一気に駆け下りる。そして肇に声を掛けた。
「アルファ殿の客人か?」
「う、うわああああっ!」
肇は思わずのけぞって大声を上げ、床に尻餅をつく。その状態のまま手を動かして、ずるずると後退さった。
「貴様等、何を騒いでいる?」
肇の大声に気付いたのか、二階からゆっくりと屋敷の主が降りてきた。金髪の青年、アルファルド・シュタインである。
「し、師匠。猫が喋ってるぞ?」
「何を今更猫が喋っているくらいで驚いているんだ、貴様は。それに厳密にいえばそいつは猫ではないぞ」
金髪の魔術師は、床に座り込んでいる肇に呆れた視線を向けて、言った。
「えっ?」
肇が怪訝そうに聞くと、アルファルドは大きな黒猫の背中を指差した。
「翼が生えているだろう」
肇が言われて見てみると、確かにその黒猫の背には翼があった。先程座っていたときには折り畳まれていたのだろう。翼ある黒猫は口を開いた。
「アルファ殿。そちらの人間を紹介して貰えないだろうか」
「これは俺の弟子で久住肇だ」
アルファルドは翼ある黒猫に自らの弟子を紹介する。
「では、ハジメ殿。私の名前はニャルだ。以後よろしく頼む」
翼ある黒猫、ニャルは器用に前肢を浮かせ、頭を下げて会釈した。
*
洋館の居間で、アルファルドと肇はテーブルを挟み、向かい合って座った。ニャルはソファーの上に飛び乗って、丸くなっている。アルファルドは頬杖を付いて、肇を上目遣いに見ながら問い掛けた。
「何故、俺が貴様に野良猫を捕まえてくるように言ったと思う」
「ええと……」
肇は答えが分からないので口篭る。
すると、アルファルドは一瞬息を詰めて、それをゆっくりと吐き出した。それから呆れたような視線を肇に向ける。
「貴様は俺が本当にその野良猫を魔術の生贄にするとでも思ったのか? 俺は貴様に使い魔について教えようと思っただけだ」
「使い魔? 何なんだよ、それ」
肇が訝しげに質問すると、アルファルドはこう答えた。
「魔術師が使役する存在のことだ。陰陽道では式と言われることもある」
「物語で魔女が連れている黒猫とか、烏とか、ああいったもののことか?」
「そうだ」
アルファルドは頷き、傍らで話を聞いていたニャルを指差す。
「こいつも使い魔だ。説明のために連れてきた」
「じゃあ、ニャルが、師匠の使い魔ってこと?」
それを聞いた途端、ニャルが血相を変えて、ソファーから飛び立った。アルファルドの頭上を飛び越え、テーブルの上にひらりと着地する。
「違う! 断じてそれは違うぞ! ハジメ殿。私のマスターはきちんと別にいる」
激昂して叫ぶニャルに、肇は少し気圧される。何かまずいことでも言っただろうか。
「こいつは知り合いの魔術師のところから拉致ってきた」
あっさりという金髪の青年に向かって、翼ある黒猫は全身の毛を逆立てて怒鳴った。
「アルファ殿! 他の魔術師と契約している使い魔を勝手に喚起するなんて、常軌を逸している! だいたい結界にぶつかった時は量子力学的に生死を彷徨ったぞ」
「貴様のそれは実体ではないから、大丈夫だと思ったんだ。実際無事だったろう」
アルファルドはいけしゃあしゃあと言い放つ。
肇は納得した。なるほど、師匠は人の使い魔を勝手に連れてきた、という訳だ。
しかし、一つ疑問に思ったことがある。
「結界って何のことだ?」
「説明してなかったか。この城ヶ崎市は街全体が巨大な結界で覆われているんだ。この街の中と外でお互いに魔術の干渉ができないようになっている。まあ、普通に生活している分には困らないんだが、転移魔術や召喚魔術を使う時には致命的だ」
「師匠、この間転移魔術を使ってなかったっけ?」
肇が尋ねる。この間魔術組合支部に登録しに行った時には、確かに転移魔術で移動したはずだ。
「あれは結界内での使用になるから問題ない。この街の外に転移しようとした場合は確実に結界に阻まれる。召喚魔術の場合は転移魔術ほど影響はひどくないんだが、物理的に外の世界に存在するものを結界内に呼び込もうとすると、失敗する。精霊の喚起は問題ないんだが」
「なるほど。じゃあ、ニャルは精霊みたいなものだから、結界を通過できたってことなのか?」
肇は翼ある黒猫を眺めながら、アルファルドに問うた。
「ニャルはクリーチャーの中でも特殊だからな。そう思ってくれても構わない」
「クリーチャーって?」
またよく分からない単語が出てきた。
「使い魔はその性質によってだいたい二つの種類に分けられる。一つはクリーチャー、もう一つはスピリットだ。クリーチャーはこの世界に存在する生物を魔術で変質させて使い魔にしたもの。スピリットはもともと魔術的な存在を契約で従わせて使い魔にしたもののことだ。魔術的な存在っていうのはこの前説明した、精霊、悪魔、天使、神みたいな、世界の根源に近い存在のことを指す。もう分かっただろう? 俺が野良猫を捕まえてこいと言ったのはそれをクリーチャーとして貴様の使い魔にするためだ」
肇は自分の連れてきた小さな黒猫をまじまじと見やる。疲れているのか、黒猫はケージの中でぐっすり眠っていたが。
「この黒猫もニャルみたいに喋るようになるのか?」
「変質には時間がかかる。俺はクリーチャーの使い魔を持っていないから、よく分からないんだが、魔術を掛けてから最低三ヶ月くらいはかかるはずだ」
そう言ったアルファルドに、肇はなんとなく不安を覚える。
「師匠。まさか、今まで使ったことのない魔術をこの黒猫に試すつもりじゃないだろうな」
「大丈夫だ。この俺が魔術を失敗すると思うのか?」
自信たっぷりに言うアルファルド。その様子を見て、肇は更に不安になった。
*
アルファルドは居間の床に、筆で複雑な魔法円を描いていく。肇はよく分からないので、その様子を横で黙って見ているだけだった。金髪の魔術師は魔法円を完成させると、小さな黒猫の入ったケージを真ん中に置いて、高らかに詠唱する。
「大いなる精霊よ。彼の者を汝の眷属となし、これに名付けし者に祝福を与えよ」
アルファルドの呪文に呼応するように、魔法円が眩い光を放ち、小さな黒猫を包みこんだ。
「よし。これで大丈夫だろう」
魔法円の光が消えたのを見て、アルファルドは言った。
肇はケージを手に取って、テーブルの上に置く。そして小さな黒猫をじっと眺めた。先程と同じようにずっと眠ったままで、どこも変わった様子は見えない。
「特に何も変わってないように見えるけど」
「変質にはしばらく時間がかかるって言っただろう。それまでに貴様が名前を付けてやれ。それでこいつは晴れて貴様の使い魔だ」
案外あっさりしたものだと肇は思った。しかし、結局悠に言った通り、この小さな黒猫を家で飼うことになりそうだ。そう考えて溜め息を吐く。まあ、どうせ一人暮らしだし、構わないか。寂しさも紛れるだろうし。第一、とても愛らしい。
肇がそう考えていると、今までの様子をソファーの上に乗って黙って見ていたニャルが、どこか疲れたような声を出した。
「アルファ殿。もう帰っても構わないだろう?」
それに対し、アルファルドは意地悪く笑って答える。
「ああ。だがまた用事があったら容赦なく呼びつけるぞ」
「頼むから勘弁してくれ」
翼ある黒猫は苦々しげに言って、居間の窓から羽ばたき、去って行った。
*
その後しばらく肇を悩ませたのは、たった一つの問題だった。この小さな黒猫に何と名前を付ければ良いのか。魔術師が使い魔に名付ける行為というのは、飼い主がペットに名付ける行為とは違うのだろうか。まず肇がしたことは、この道の先達、つまり自らの師匠にそれを尋ねることであった。
「師匠も使い魔って持ってるんだろう?」
「当然だ。この俺を誰だと思っている」
アルファルドは自信たっぷりに胸を張って言い、呪文を唱えた。
「灼熱に棲まう者よ。炎の化身よ。アルファルド・シュタインの名において、姿を現せ」
そこに現われたのは、掌に乗るくらいの真っ赤な小さな竜であった。
――か、可愛い。
肇は思わず相好を崩した。あまりにもアルファルドの使い魔に似つかわしくない、可愛さである。彼のことだから、もっと凶悪な生物が出てくると思ったのに。
「師匠。この竜の名前は何ていうんだ?」
「サラマンダー」
アルファルドは短く答える。それを聞いた小さな竜はどことなく悲しげにアルファルドを見た。
「マスター。いい加減名前を決めてくれないか? いくらマスターが名前を呼ばずに支配できるほど、召喚術師としては化け物じみているにしても、いつまでもそういう訳にはいかないだろう」
「貴様は俺が呼べば来るんだから問題ない」
その一人と一匹のやり取りに戸惑った肇は、小さな竜に小声で聞いてみた。
「一体どういうことなんだ?」
「マスターは我をサラマンダーとしか呼ばない。サラマンダーは種族名だから、その言い方では犬に犬って呼ぶようなものなんだよ」
小さな竜は、肇に愚痴る。それを聞いた肇は心底この可愛らしい竜に同情した。
*
師匠は役に立たない。そう感じた肇はクラスメイトに聞いてみることにした。
「なあ、寿人。猫を家で飼うことになったんだけど、何て名前を付ければいいと思う?」
肇が聞いた相手は、茶色の髪の天文部部長、上野寿人である。
「うーん。猫の名前、か。やまねこ座には目ぼしい星がないんだよなあ」
寿人は天文部の部長らしく、最初は星の名前を付けようと考えたようだった。彼は腕を組み、考え込んでいたが、しばらくして何かを思いついたように、ぽんと手を打った。
「アルファドってのはどう?」
「師匠の名前に似てるから却下」
「師匠って誰のこと?」
寿人が訝しげに肇の顔を見る。しまった、と肇は思う。つい口を滑らせてしまった。誤魔化すように、笑みを浮かべた。
「ああ、師匠っていうのはちょっとした知り合いの愛称なんだ」
「へえ」
寿人はどこか釈然としていないような顔をした。それから首を傾げて見せる。
「じゃあ、アルフ」
「さっきのを略しただけじゃないか。それに何となく嫌な感じがする」
――師匠の愛称っぽいし。
肇は胸の内で密かに呟く。
「ふーん。なかなか難しいな。ピートっていうのは?」
そこに茶色のポニーテールの少女が口を挟む。肇の幼馴染、宮地悠だ。
「猫にピートっていうのはいくら何でもべたすぎるわよ、寿人」
そう言われた寿人は口を尖らせて文句を言う。
「じゃあ何て付ければいいんだよ」
悠は自らの顎に手を沿わせて考える。
「犬ならいい名前がいっぱいあったんだけどね。メフィストフェレスとかムッシューとかエセルドレーダとか」
最初の名前以外、肇にはよく分からない。
「メフィストフェレスっていうのは確か悪魔の名前じゃなかったか? いくら何でもそんな名前を付ける訳にはいかないだろう」
それを聞いた悠は腰に手を当てて、肇を思い切り睨み付ける。
「肇にはいい案があるっていうの?」
「もう普通にクロとかシロとかでいいよ」
凡庸な名前でも、面妖な名前を付けられるよりは、あの黒猫にとっては、幾分ましな気がする。肇がそう思って口にすると。
「クロとかシロとかっていう名前を付けるのはあまりにも安易だと思うわ。肇のことだから黒猫でクロにするんだろうけど。そんな名前にするのなら、まだシュレーディンガーとかシャミセンとかにしたほうがましよ!」
――動物愛護団体に訴えられそうな名前を付けるのは止めて欲しい。
肇はうんざりして悠のほうを見やる。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「どうせ肇がクロにするのなら、クロウリーは?」
悠が提案した。その名前は肇でも知っている。悠が尊敬してやまない、魔術師の名前だ。アレイスター・クロウリー。
「却下。黒いのならシュヴァルツとかネロにすればいいのに、どうして魔術師の名前になるんだよ」
「ネロっていうのもなかなか魔術的よ。ヨハネの黙示録に出てくる獣の数字だもの」
相変わらず幼馴染の思考回路は意味不明である。彼女にまかせておく訳にはいかない、と肇は必死で思考を巡らせる。
――黒猫、黒猫の名前……。
その時、肇の頭に天啓が閃く。
「そうだ! クロネッカーにしよう」
黒猫だからクロネッカー。何だか安易な気もするが、自然数をこよなく愛した数学者の名前である。
「何それ」
悠が不思議そうな顔をして、こちらを向くが、気にしない。
――よし。今日は早く家に帰ってあの黒猫と戯れるぞ。
想像を巡らせて顔をにやけさせる肇を、悠と寿人は、呆れたような顔で眺めた。
*
肇は、黒猫の名前を決めたその日、アルファルドの家には寄らず、真っ直ぐに自宅へと帰った。あの小さな黒猫に名前を教えるためだ。肇は急ぎ足で家に上がり、廊下を突っ切って、黒猫のいるはずの台所へと向かう。案の定、黒猫は台所に置いてある籠の中に蹲っていた。この籠は、もともと洗濯籠であったのだが、黒猫がすっかり気に入って、自分の住処にしてしまったのである。
肇はその様子を横目に、冷蔵庫から猫用のミルクを取り出し、小皿に注ぐ。
そして、小皿を台所の床に置いて、名前を呼んだ。
「おいで、クロネッカー」
小さな黒猫は、その呼び名が自分のことを指していることに気付かないのか、きょとんとして肇のほうを見た。そして、ミルクが小皿に入っているのを見ると、黒猫は器用に籠に前足を掛けて、籠から飛び出し、肇のほうに近付いてくる。黄金色の双眸が、一瞬、肇の目と合った。肇はゆっくりと、もう一度猫の名前を呼ぶ。
「クロネッカー。ミルクの時間だ」
肇がそう言うと、黒猫は小さくにゃあ、と鳴いて肇の足元に来る。そして、ぺろぺろとミルクを舐め始めた。
――本当に癒されるな。
肇は幸せそうにミルクを舐めるクロネッカーを見て、思わず頬を緩ませた。この小さな黒猫も、いずれはニャルみたいに、喋るようになるのだろうか。しかし喋っても喋らなくても、猫は可愛いものだ。肇はしばらくの間、クロネッカーを眺めながら、至福の時間を過ごした。