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[第三話 プリンキピア・マギカ]

「さて、今日は呪文の話でもしようか」

 目の前では金髪の青年が椅子に座ってふんぞりかえっていた。久住肇(くじゅうはじめ)の魔術の師匠、アルファルド・シュタインである。ここは彼の住む洋館の一室であった。柔らかな日差しが窓から鮮やかに部屋全体を照らす。

「呪文?」

 向かいに座って話を聞いていた肇は、鸚鵡返しに聞き返す。ここ数日肇は学校帰りにアルファルドの家に寄って彼の話を聞いていたのだが、こんな魔術師らしい話は初めてだった。アルファルドは、懇切丁寧に肇の質問に答えた。

「呪文っていうのは魔術を放つときに唱える言葉のことだ。無詠唱魔術と呼ばれる、呪文の代わりに印を用いる分野の魔術もあるが、ほとんどの魔術の発動には呪文が必要だ。例えばこういう風に」

 アルファルドは一旦言葉を切って、呟く。

「静かなる炎よ。道標となって我が行く手を照らせ」

 その言葉に応えるように、金髪の魔術師の手に小さな炎が宿る。

 肇は感心した表情をして、その様子を眺めた。この洋館に通うようになって、彼が魔術らしきものを使うのをやっと見れたような気がしたのだ。

「それ、俺にもできるのか?」

 アルファルドは、手の中の炎を消し去って、肇を見返した。

「練習すれば普通にできるだろう。そもそも貴様は呪文を唱えずに魔術を扱えるはずだから、適正は十分ある」

 肇はさらに問いを重ねる。

「魔術を使うには呪文を唱えるだけでいいのか?」

「魔術の原理については説明してなかったな。魔術とは自分の意思を世界に押し付けて変化を引き起こす技術のことだ――具体的には、自身の魔力を通じ、世界の根源に近い存在の力を借りることによってそれは行われる」

「魔力?」

 肇は訝しく思って、首を捻って見せる。

「魔力はこの世界のどこにでも存在する。無機物、有機物を問わずこの世のあらゆるものがそれぞれ固有の魔力を持っている。この間、貴様は魔術組合(ギルド)の入り口のところで魔力を測っただろう?」

「そう言えば」

 肇は魔術組合(ギルド)支部に魔法名を登録しにいった時のことを思い出した。確かにそんなことをしたような気がする。アルファルドは顎に手を添わせながら、補足した。

「魔術師に限らず、人間はそれぞれ固有の魔力波動を持っている。それは人によって微妙に異なり、同じ魔力波動を持つ者はいない。だから、魔術組合(ギルド)では魔術師の識別にそれを用いているんだ」

「なるほど」

 肇は納得したように頷き、質問する。

「じゃあさ。その世界の根源に近い存在って言うのは何なんだ?」

「色々だ。精霊、悪魔、天使、それに神。人類の歴史上で畏怖や崇拝の対象とされてきた諸々の存在」

「そんなものが本当にこの世界に存在するのか?」

 肇は驚きのあまり、思わず音を立てて椅子から立ち上がった。そんなものが存在するとはとても信じられない。今まで肇は幽霊だって見たことがなかったのだ。アルファルドは肇の驚く様子にわずかに口元を歪めながら、解説を加えた。

「実際にこの世界で実体として(・・・・・)観測されているのは精霊だけだ。他の存在がこの世界で取る姿は仮の姿だとか何とか……まあそのへんは俺にもよく分からないから置いておくとして」

 アルファルドは一拍置いてから、付け加えるように、こう言った。

「先程俺が使用した呪文は、火の精霊の力を借りたものだ」

「火の精霊?」

 肇は息を吐き、椅子に座りなおして聞く。

「精霊は世界中のあらゆる場所にいる。だから一番力を借りやすい。実際、入門した魔術師が一番最初に習うのは四大精霊魔術だ」

「四大精霊ってのはサラマンダーとかああいうものか?」

「よく知っているな。風の精霊、シルフ。地の精霊、ピグミー。火の精霊、サラマンダー。水の精霊、ニンフ。この四種類の精霊の力を借りて行う魔術体系を、四大精霊魔術という」

 ――何だか前に悠に聞かされた精霊の名前と微妙に違う気がする。

 肇は心の中でそう思ったが、気にしないことにする。

「さて、呪文の話をしていたんだったな。呪文というのは、力を借りる存在に対し、自身の魔力を同調させて、その力を支配下に置くことを、宣言するためのものだ。基本的には対象に対する呼びかけの部分と、命令の部分からなる。先程の呪文だと、前半の『静かなる炎よ』が呼びかけにあたり、後半の『道標となって我が行く手を照らせ』が命令にあたる訳だ。ここまではいいか」

 肇は脳裏に浮かんだ疑問を、そのまま口に出す。

「今、基本的には、って言ったよな。そうじゃない呪文もあるってことか?」

「その通りだ。大抵の魔術師は魔術の教科書に載っているような呪文をそのまま使うが、結局のところ、力を借りる対象に自分の意図さえ伝われば、呪文の文言なんて何でも構わない訳だ。自分の魔力と親和性の高い対象に力を借りる場合は」

 言葉を途中で切り、アルファルドは短く呪文を唱えた。

「炎よ」

 それだけで、先程と同じように手に小さな炎が宿る。

「とまあ、ご覧の通りだ。精霊魔術師は、自分の得意な属性だと、自身の魔力波動の変化だけで、どのような魔術を使うのかということを、精霊に伝えることができる。これを詠唱破棄、あるいは詠唱短縮と言う。それでも(あらかじ)め精霊と取り決めておいた、何らかのキーとなる単語が必要となる訳だが。それの最たるものが、先程も言った印を用いる無詠唱魔術。逆に、この世界に存在しない悪魔などを初めて喚起する際には、ひたすら延々と呪文を唱える羽目になる」

 ふと、アルファルドの長い説明を聞きながら、肇は不思議に思った。

「どうして俺みたいな魅了する者(アトラクタ)は、魔術の行使に呪文や印を必要としないんだ?」

「以前言っただろう。魅了する者(アトラクタ)とは世界に満ちる魔力を魅了する者だと。俺達魔術師は自身の魔力で、力を借りる対象とコミュニケートする訳だ。まあ悪い言い方をすれば、魔力で脅迫する、と言ってもいい。強大な魔力を持つ魔術師ほど、強い支配力を持つため、強力な魔術を扱うことが可能だ。さっき、俺は世の中のあらゆるものが魔力を持っている、って言っただろう? 魅了する者(アトラクタ)は力を借りる対象がもともと持っている魔力をまるで自身の魔力のように(・・・・・・・・・)扱うことができる。その結果、出鱈目な強制力をもってそいつらを支配することが可能だ。コミュニケーションの必要なんてない」

 肇は呆れた声を上げる。

「ちょっと反則技っぽいな」

「っていうか貴様の存在自体が反則だ。なんか説明してたらだんだん腹が立ってきた」

 アルファルドは何故か不機嫌そうな顔をして、肇のほうを見た。

「今日はここまでにしよう。ああ、そこの本棚に簡単な呪文集があったと思うから持って行くといい。俺はもう寝る」

 そう言い放って、アルファルドは部屋から出ていった。


     *


 肇はアルファルドに言われた通り、本棚を探す。本棚には、ぎっしりとたくさんの書物が詰まってあった。肇は指で背表紙をなぞり、表題を読み上げていく。

「ええと、『An Advanced Guide To Elemental Magic』、『The Dictionary Of Offensive Spells For Expert』?」

 何が書いてあるのかよく分からない分厚い魔術書に紛れて、一冊の薄い本があった。

『基本精霊魔術呪文集 第七版』

 これなら肇にも読めそうである。

 ――師匠って、どこからどう見ても日本人に見えないのになんで本棚にこんな本があるんだか。

 苦笑を浮かべながら、肇はそれを手にとってぱらぱらとめくる。

「ええと、地の精霊の章。失せ物探しの呪文。地に潜む者よ。失せたる物○○を見つけたまえ」

 ――○○のところに失くした物の名前を入れる訳ね。

 肇は別に今すぐ探したい物がある訳でもないので、次々と親指でページをめくっていく。今すぐ試せそうな呪文は他にないのだろうか。

「水の精霊の章。水を生みだす呪文。世界を流れ巡る水よ。我が元に集え」

 ――これにしよう。

 肇はそう心に決めて目を瞑り、本に書かれている呪文を唱える。

「世界を流れ巡る水よ。我が元に集え」

 何も起こらない。何かこつでもあるのだろうか。肇は首を傾げて、考え込むような仕草をする。師匠の話だと魔力を使って水の精霊を支配して、世界に変化を起こすんだったか。でも魔力ってどうやって使うんだ。そもそも魔力っていうのはどう感じられるものなんだ? 肇はアルファルドに魅了する者(アトラクタ)だと言われたときのことを思い起こそうとする。あの時自分は一体どうやったんだ? いや、何を感じた? 

 ――自分がここにいるという感覚が希薄になって、目の前の空間が狭くなった気がした。

 肇はもう一度、ゆっくりと呪文を詠唱する。深く息を吸ってから、言葉一つ違えることなく。

「世界を流れ巡る水よ。我が元に集え」

 ばしゃん!

 次の瞬間には、肇の頭に大量の水が降り注いでいた。

「うわっ」

 肇は全身びしょぬれになってしまった。服が濡れる不快な感触に、肇は顔を顰める。身を震わせると、水滴が床の上にぽたぽたと滴り落ちた。足元に大きな水たまりができている。

 水の音に気付いたのか、アルファルドが血相を変えて部屋に飛び込んでくる。

「人の家で何やってるんだ貴様は! 帰れ、今すぐ帰れ!」

 額に青筋を立てたアルファルドは剣呑な目付きで、肇を睨んだ。

「ろくに魔術を制御できない癖に試すな、この莫迦たれが」

「ごめん、俺が悪かった」

 肇は頭を下げて謝る。明らかに自分に非があった。

「全く。吹き渡る風よ。燃え盛る火よ。我が声に応えて熱風となれ」

 アルファルドが呟くと、熱をもった風が水分を払い、辺りを乾燥させる。瞬く間に部屋はすっかり元通りになっていた。先程まで、水浸しであったのが嘘のようである。

「とりあえず、今日はその本を持って帰れ。読むのはいいが、試すなよ」

 こうして、久住肇(くじゅうはじめ)は、仏頂面のアルファルドに洋館を追い出された。


     *

 

 肇がアルファルドの家を出た時、陽はすでに落ちていた。薄紫の夕空の下、静まり返った住宅街を急ぎ足で歩く。早く家に帰ろう。そう思いながら歩を進めていくと、ふと。肇の目の前に見知った顔の人物がいた。闇に溶け込むように佇む漆黒の女。黒の人形師(ブラック・パペッター)綾織絢(あやおりあや)である。彼女は買い物帰りなのかスーパーの袋を手に提げていた。肇は、絢に声を掛ける。

「綾織さん。あなたはこの辺りに住んでいるんですか」

 声に気付いて、絢はこちらを振り向いた。

「ええ。災厄(ディザスター)を見張るのに都合がよいもので」

 相変わらずの無表情のまま、絢は答える。

「それより、貴方。厄介事に巻き込まれたくなければ、早く帰ったほうがいいですよ」

「それはどういう――」

 肇が訝しげに問い返したちょうどその時。高らかに声が響き渡った。

「我が名において、空間を歪曲させ、場を遮断せよ。空間隔離!」

 その瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪む。途端に重力が増したような感覚が肇を襲った。空気が身体全体にのしかかるような圧迫感。それが収まったときには、視界に移るものはすっかり変わってしまっていた。肇と絢がいた場所は何の変哲もない、住宅街であったのに。辺りの風景は、無機質な何も無い空間へと化けている。

 そこに挑発するような表情で立っていたのは一人の男。ごく平凡な容姿だが、その白髪だけが異彩を放つ。この間の夜、肇を襲った男だ。

「綾織さん、あれは――」

 言った肇を遮って、絢は口を開いた。

「位階II(デゥオ)、魔法名闇狩人(ナハト・イェーガー)斉藤慎(さいとうしん)。戦闘狂の変態です」

「誰が、変態だっ! 誰が!」

 白髪の男、慎は憤って叫んだ。

 ――戦闘狂は否定しないのかよ。

 肇は内心でつっこみを入れる。そして自分の考えに少しおかしくなった。随分自分も神経が図太くなったものだ。

「貴方が約束の時間より若干早く来られたせいで、彼を巻き込んでしまいました。一体どうしてくれるのですか」

 絢は淡々と慎に向かって言った。その声に咎めるような感情の色は見られない。慎はあっさりと動揺から立ち直り、表情を引き締めて、肇へと視線を向ける。

「お前はこの間の。気付かなかったが、魔術師だったのか。そこで黙って見ていろ。自分の身ぐらい自分で守れるだろう」

 その様子を見た絢は少し首を傾げて、真顔で肇を見た。

「彼と顔見知りだったなんて。つくづく貴方は不幸な出会いの多い方ですね」

 ――いや、綾織さん。あなたが覚えていないだけです。

「まあ、巻き込んでしまったものは仕方ありません。これを持っていてください」

 こう口にして、絢は肇にスーパーの袋を押し付ける。

「では、我が姉妹(ソロール)よ。宴の始まりだ」

 白髪の男は嬉々として宣言し、戦いの火蓋が切って落とされた。


     *


「来なさい。『ペトルーシュカ』」

 絢の声に応えて、お馴染みの木製のマリオネットが現われる。絢は続けて詠唱した。

「光の剣よ、彼の者の武器となり、闇を払え」

 その瞬間、光が人形の手に収束し、剣の形を取っていく。まばゆく輝く一振りの剣が人形の手に収まった。

「相変わらず私相手には、光属性の魔術を用いるんだな。闇属性のほうが得意な癖に」

 剣を構えた人形を見下ろして、慎は哂いながら言う。

「当然です。相手の最も苦手とする魔術で潰すのが(グラディウム)のやり方ですから」

 絢は物騒な内容を、表情を変えずに、平然と口にした。

「では、こちらも行かせてもらう。闇夜を支配する王よ。愚者に裁きを」

 その途端、慎の前の空間に亀裂が入り、漆黒の闇が姿を現した。それは煙のように慎の周囲に次第に広がって行き、黒い球形をとる。

「行け!」

 慎がそう叫ぶと、闇の球が、勢いよく絢のほうへ向かって飛んでいった。絢は人形を操りながら淡々と呟く。

「我が魔力は代償。故に契約に基づき、我が命を履行せよ」

 絢の声に応えて、人形の身体が発光する。そして、人形は手にした剣で闇の球を切り裂いた。絢の前の闇は霧散したかに見えたが――

「なっ!」

 絢の顔に珍しく動揺の色が浮かぶ。黒い霧状になった闇は、みるみるうちに凝集して元の形を取り戻したのだ。

「ははっ! 何度も私が同じ手に掛かると思うのか!」

 慎は、口元を歪ませて嘲笑した。

「新たな贄だ。存分に喰らえ」

 すると、闇の球は再び絢を襲わんとする。絢はぎりっと歯軋りをし、慎を真っ直ぐに見据えた。

「仕方がないですね。我が魔力の全て、我が血液の一滴に宿る魔力に至るまで汝に捧げん。『ペトルーシュカ』! あれを滅しなさい!」

 人形は絢の命に応え、闇の球へと向かっていく。人形がそれと接触すると、強い光がその場に満ち溢れた。目を灼くような閃光が収まった後、闇の球は完全に消滅した。だが、木製の人形もその場から消えている。

 その様子を見て、楽しげに慎は笑みを見せる。

「ふん。なかなかやるな。さすがは(グラディウム)の一員というところか。だが、これに耐えられるかな」

 そうして慎は呪文を言葉にのせた。

「昏き刃よ。闇の王の化身よ。我が手に集い、共に世界を滅ぼさん。来たれ、『ティルフィング』」

 その声に呼応するように、慎の右手に禍々しい漆黒の刀身を持つ剣が現われた。慎は剣を中段に構えた後、大きく頭上に振り上げて大地を蹴り、絢に斬り掛かる。それを見た絢は無表情に短く唱えた。

「イージスの盾よ」

 次の瞬間、光の壁が絢の前に現われ、慎の渾身の一撃はそれに阻まれる。慎は一旦、後ろに飛び退り、漆黒の剣を構え直した。そしてもう一度、絢に襲い掛かる。

「光の剣よ――」

 絢は再び呪文を唱え、応戦しようとするが。

「甘い」

 振り下ろした斬撃は、絢の肩のあたりを捉えていた。漆黒の刀身は形を変え、黒い霧状の闇となる。そして、ずぶずぶと絢の全身を侵食していき――

 ――まずい。

 それまで、魔術師同士の戦いを、傍観していた肇は思った。あのままでは綾織さんが、死んでしまう。気が付けば、肇は白髪の魔術師の前に飛び出していた。

「どういうつもりだ、少年」

 勝負の邪魔をされた慎は、不機嫌そうに肇の方を見て尋ねた。漆黒の剣は形を取り戻して、彼の手にあった。後ろでは、絢が地面に手を付き、苦しそうに呻いている。

「ええと――」

 肇は何か言い訳を口に出そうとするが、混乱して頭が回らない。何故こんなことをしてしまったのか、自分でも理解ができなかった。

 その様を冷ややかな目で見た慎は言い放つ。

「まあいい。お前が死に急ぐのなら、止めはしない。解き放て、『ティルフィング』」

 再び漆黒の剣は黒い霧へと変化し、肇を襲った。暗い闇がたちまちのうちに、肇の全身を覆いつくし、ゆっくりと肇を侵していく。

「……あああああああああああああっ」

 身体中の細胞が震え慄くような感覚。自分のものとも思えない絶叫だ。彼は激痛にのたうちまわりながら、頭の中の冷静な部分がそう思考しているのを感じていた。ああ、自分はここで死ぬんだ。十六年。短い人生だったな。この男に殺されるんだ。

 ――殺される? こんな奴に?

 肇の中のもう一つの思考が警鐘を鳴らす。このまま死んでいいのか? ここで終わっていいのか? 母さんにも、二度と会えないまま? 

「……冗談じゃ、ない」

 怒りが湧いた。どこかでかちり、とスイッチが入ったような気がした。

 その瞬間、世界が軋み、精霊達が悲鳴を上げた。


     *


「何だ?」

 少年の異様な気配に気が付いたのか、慎は声を上げる。彼を捕らえていたはずの、漆黒の闇がいつの間にか消え失せている。確かに致命傷を与えたと思ったのだが。

「ちっ」

 慎は舌打ちして、呟いた。

「戻れ、『ティルフィング』」

 漆黒の剣が、慎の手元に戻る。そして、次なる斬撃を繰り出そうと、少年のほうへ向かって走り、刃を振り下ろすが。

「……なっ?」

 慎の攻撃は虚空を切った。必殺の一撃だったはずなのに。慎は驚愕をもって黒髪の少年を見やる。その目は、闇色をして何の感情も映してはいなかった。

 ――魔術師になったばかりの素人の少年に見えたが。

 そう思って、慎は愛刀をもう一度構え直す。そして斬り掛かろうと、少年を真正面から見据えた瞬間。

 ふっと少年の姿が消えた。

 そして風の刃が慎を襲う。

「……っ!」

 軽くバックステップを踏み、それを躱す。

 ――無詠唱魔術(・・・・・)だと?

 慎は目を大きく見開いた。この少年が魔術を放つのに何の予備動作もなかったのだ。詠唱がないと、次の攻撃のタイミングが読みづらい。無詠唱魔術を用いる相手とやりあった経験がないでもなかったが、印を結ぶ仕草さえないのは、どういうことだ? 慎は気配を背後に感じ、勘で振り向きざまに魔術を放つ。

「永劫の炎よ。灼熱の業火よ。灼きつくせ!」

 勘で放った割には、上出来だった。燃え盛る炎は確かに目標を捉えている。

 それは触手のように手を伸ばして、少年のほうへと襲い掛からんとしたが。

 その直前で何か見えない壁にぶちあたったかのようにかき消えた。

 慎の背筋をぞくりと悪寒が突き抜ける。

 ――まただ。一体何のトリックだ?

 黒髪の少年は相変わらず無表情のまま、沈黙している。冷や汗が慎の背中を伝わった。


     *


 今や肇は世界に満ちる魔力をはっきりと知覚していた。そして、同じように世界にいる精霊達の存在も。今までと全く同じ世界を見ているはずなのに酷く現実感に乏しい。それは夢の中で目覚めた瞬間のあの感覚にどこか類似していた。茫洋としながらも覚醒している、という矛盾した意識の中で、肇は目の前の白髪の男をただ見つめていた。その時彼を支配していたのは、あの白髪の男を倒さなければならない、という意識だけだった。不思議なことに、怒りの感情は既に消え失せていた。

 白髪の男がこちらに向け、魔術を放つ。

「煉獄の炎よ。盟約に従いて彼の者を滅却せよ!」

 遅すぎる。肇はそう思った。白髪の男が、辺りの精霊達を従わせるプロセスが、スローモーションで再生される映像のようにゆっくりと見える。肇は周りの精霊達に対して、意識を同調させた。

 ――それは俺のもの(・・・・)だ。だから、俺によこせ。

 そう思うだけで、精霊達からは悲鳴が上がる。

 ――五月蝿い。あれを消せ。

 短く命ずるだけで、精霊達は従順になる。

 肇は自分の思惑通りに炎が自分の眼前で消え去るのを、何の感慨もなく、見つめている。白髪の男が漆黒の剣を向け、凄まじいスピードで踏み込んで来た。鈍く輝く漆黒の刀身が眼前へと振り下ろされる少し前に、肇は風の精霊に命令を下す。すると自分の身体は、まさに風のような速さで、白髪の男の攻撃をいなしていた。

 ――切り刻め。

 肇の意識に応え、無数の風の刃が、白髪の男に襲い掛かる。男は転がって躱そうとしたが、最初の攻撃を辛うじて見切ったのみで、全てを避けることは叶わなかったようだ。背後からの風の一撃に、白髪の男は、地面に倒れ伏した。肇はその様を、無感情な目で見下ろしていた。


     *


 斉藤慎(さいとうしん)久住肇(くじゅうはじめ)の戦う様子を、綾織絢(あやおりあや)は彼女にしては珍しいことに、大変な驚愕をもって眺めていた。まるで、出鱈目だ。久住肇(くじゅうはじめ)魅了する者(アトラクタ)だということは、アルファルドから聞いてはいたが。いくら、彼が魅了する者(アトラクタ)だとはいえ、XII(デゥオデキム)の魔術師が、II(ドゥオ)の魔術師を圧倒する? 冗談ではない。あれではまるで伝説に聞く魅了する者(アトラクタ)静かなる警鐘(サイレント・アラーム)のような――

 絢が思考を巡らせているうちに、戦いは終了したようだった。そうだ。こんなことを考えている場合ではない。

「光よ、我が傷を癒せ」

 絢は短く呪文を唱える。肩の傷口はみるみるうちに塞がった。具合を確かめるように、腕をゆっくりと動かしてから立ち上がる。万全ではないが。

 絢は倒れた慎の傍らに立っている肇に、近付いて声を掛けた。

「久住さん。そこまでです」

 肇はこちらを見た。その黒瞳は何か別の世界でも見ているように、焦点が定まっていない。

久住さん(・・・・)!」

 絢はもう一度強く肇に呼び掛けた。すると、彼の目は普段の光を取り戻したようだった。

「あ、れ? 俺は何を……」

 絢は呆れた声を出す。

「貴方はその戦闘狂の変態と戦っていたんでしょう。そこをどいてくれませんか。(グラディウム)の名においてその男を拘束します」

(グラディウム)って何ですか?」

 訝しげな表情をして肇は、絢に問い掛ける。絢は淡々とした口調で、肇の問いに答えた。

(グラディウム)は、特定の魔術結社に属さない特級魔導師(エクス・ウィザード)のみで構成される、魔術組合(ギルド)の中でも戦闘に特化した組織です。魔術師規範から逸脱した行為を行った魔術師の捕縛、殺害といった役目を担っています。魔術師の警察みたいなものですね」

「この人は何かやったんですか?」

 疑問に思った肇は、絢に尋ねた。確かに彼は胡散臭い人物のように見えたが。魔術師でも、殺人未遂罪に問われたりはするのだろうか。

「この男は強い魔術師に果たし状を送り付けて決闘するのが趣味という極めて傍迷惑な人物なのです。この男は魔術師を何人も殺していますが、魔術師同士の合意による決闘では、魔術師の殺害は通常罪に問われないことになっています。この男は決闘に一般人を戦いに巻き込んだ疑いがあるので、その件において拘束されます」

 絢は一旦そこで言葉を切ってから、呪文を口にした。

「大いなる精霊よ。空間を檻として彼の者を閉じ込めよ」

 白光が辺りを包む。そして次の瞬間、地面に倒れていた白髪の男の姿はそこから消えていた。

 肇は首を傾げて、不思議そうな表情で周囲を見回す。

「これは、一体……」

「ここでは、転移魔術が使えませんので、一旦空間牢に閉じ込めてから、魔術組合(ギルド)本部に送ることになります」

 肇は感心した面持ちで、絢のほうを見やる。

「そんな便利な魔術があるんですね」

「ええ。では私達も帰りましょうか」

 絢は身を屈めて、肇が放り出したままにしていたスーパーの袋を拾い上げる。それから早口で呟いた。

「捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」

 その言葉に呼応するように、辺りの風景は元の住宅街へと変化する。空にもはや太陽の名残は見えず、先程よりも暗闇が一層濃くなっていた。

「本日は助けていただいてありがとうございました。では、これにて失礼します。お気をつけて」

 絢は軽く一礼して謝意を示すと、くるりと身を翻してその場から立ち去る。

 後には、黒髪の少年が取り残された。

「なんか、疲れたな」

 肇は誰もいなくなった路地を眺めながら、深く溜め息を吐く。身体中を襲う酷い疲労感に、顔を顰めた。先程までは白髪の男と戦っていたのだから、疲れているのは当然だろう、とは思うのだが、いまいち現実味に欠けていた。まるで夢のようだ。

「早く帰って寝よう」

 独り呟き、ふらついた足取りで、肇は家に向かう道を歩いていった。


     *

 

 翌日。いつもの洋館の一室に肇が足を踏み入れた途端、アルファルドは肇を思いっきり睨み付けた。その迫力に気圧されて、肇は後退り、つい動揺してしまう。

「ど、どうしたんだよ、師匠。昨日水の魔術を失敗したことなら、謝っただろう」

 碧の眼光が、鋭く煌めいた。

「違う!」

 アルファルドの怒号が部屋中に響く。

「昨日、闇狩人(ナハト・イェーガー)斉藤慎(さいとうしん)と戦ったと綾織に聞いた。腐ってもあれはII(ドゥオ)の魔術師だ。もしかしたら、貴様は殺されるかもしれなかったんだぞ! どうして俺を呼ばなかった! 呼べばすぐにあれをこの世から消し去ってやったものを」

 ――師匠、俺が呼んだだけで来てくれるのか。いくら魔術師でも超人的である。いや、あれ? もしかして。

「師匠。俺を心配してくれてるのか?」

 肇は聞いてみた。

「当然だ。だいたい魅了する者(アトラクタ)を野放しにしておいたら、世間にどんな迷惑をかけるか分からないだろう」

 ――何か心配の方向性が違う気もするが。素直じゃないっていうことなのだろうか。

 肇がそう思って沈黙していると、アルファルドが真剣な目をしてこちらを見た。

「昨日、貴様は魅了する者(アトラクタ)としての力を使ったな。何故今まで魅了する者(アトラクタ)が危険だと言われてきたのか、貴様には分かるか」

「魔術の行使に呪文や印を必要としないからじゃないのか」

 アルファルドは首を振って肇の言葉を否定する。

「違う。魔術の原理について説明したことを覚えているか?」

「ええと、魔術とは自分の意思を世界に押し付けて変化を引き起こす術のことで、精霊、悪魔、天使、神などの世界の根源に近い存在に力を借りることによって成される」

 肇は昨日アルファルドの言った言葉を思い出しながら、ゆっくりと答える。アルファルドはその様子を満足げに見ながら頷いた。

「人間が魔術を行使するのにはもう一つ方法がある。極めて馬鹿馬鹿しくて単純な方法だ」

「その方法っていうのは何なんだ?」

「人間が人間でなくなることだ。自らが世界の根源に近い存在(・・・・・・・・・・)になって、世界の理をコントロールすれば、何かに力を借りる必要はなくなる」

 アルファルドはそこで一呼吸置いて、補足するように続ける。

「それには当然リスクも存在する。並の人間がそれを行おうとすれば、おそらくたちまち自我を失い、狂気に陥ることだろう。魅了する者(アトラクタ)はその性質上、そう成りやすい。もともと魔術の行使において自我の境界が薄いからな」

「俺が人間ではないものになるって? まさか。そうなった魔術師っていうのは今まで存在したのか?」

 肇は驚愕の声を上げた。自分が人外の存在になるなんて、信じがたい。未だ魔術師だって自分にとっては人外みたいなものである。

 アルファルドは息を吐き出し、噛んで含めるように言った。

「世界の著名な魔術師のうち、何人かはその呼び名の示すとおり、明らかにあちら側(・・・・)の住人だ。神殿の首領(マジスター・テンプリ)ヘルムート・リドフォール。緑なす深淵(グリーン・アビス)、ソフィア・クウェルクス。理の王(ロード・オブ・ロゴス)メリル・シェーラザード。だが、それも何十年もの修練を経ての話だ。貴様にはまだ早すぎる」

 ――師匠はどうなんだろうか。綾織さんの言う通りなら世界有数の魔術師ってことだけど。

 肇はそう思ったが、何となく聞きづらかった。

「ともかく! 普通に魔術が使えるようになるまでは、無駄に魅了する者(アトラクタ)としての力を使うな! 分かったな!」

 そう言い残してアルファルドは部屋から立ち去った。

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