[第二話 魔術師の魔術師による魔術師のための講義]
放課後の教室。帰り支度をする生徒達がお互いに言葉を交わし、少し騒がしくなる。そんな中。
「肇、今日一緒に帰らない?」
茶色の髪を頭の上で纏めている少女が、声を掛けた。彼女の名を、宮地悠という。
「悪い、先約があるんだ」
そう言って、少女の誘いを断り、そそくさと鞄を持って教室から駆け出すのは、黒髪黒瞳の少年、久住肇である。
そのやり取りを傍で眺めていた茶色の髪の少年が、小さく呟いた。
「最近、肇の奴、付き合い悪くないか?」
「そう、そうなのよ、寿人。肇ってば何か最近怪しいのよね」
悠はその少年の意見に、力一杯頷いて同意する。
彼の名は上野寿人。肇と悠のクラスメイトであり、天文部の部長である。天文部は幽霊部員ばかりなので、実質的な活動はほとんど何もしていないのであるが。ちなみに宮地悠も天文部の幽霊部員の一人である。
「俺さ、肇って悠の下僕だと思ってたんだけど。何か意識改革でもあったのかな?」
寿人は悠に引きずられる肇の姿を何度も目撃している。超常現象に目がない悠は、事件らしきものがあると、強引に肇を付き合わせるのだ。いくら、幼馴染といえども、あれはやりすぎではないだろうか? 常々寿人はそう思っていた。
「誰が誰の下僕だっていうの?」
悠は低い声で唸り、寿人を思い切り睨み付ける。その気迫に押された寿人は、慌てて弁解した。
「冗談だよ、冗談。でも、何か他に気になることでもあるんじゃないのか? 今まであいつって授業とかでもあんまり興味無さそうだったし。お前の荒唐無稽な話だってやる気無さそうに聞いてただろ? もし何か好きなことでもできたんなら、あいつにとって良い傾向だと思うんだけど」
悠は表情を少し柔らげて、こう言った。
「私の話は荒唐無稽じゃないわ。それに肇は無趣味って訳じゃないと思う。この前もよく分からない本読んでたしね」
「まあ、それならいいんだけど。ようやく肇も幼馴染離れできたってことか」
寿人は悠の言葉に納得した様子で、何やらうんうんと一人で頷いている。
「こら! 寿人。まるで私が肇を縛りつけてるように言うな!」
教室中に、悠の甲高い声が大きく響き渡った。
*
腕時計を見ながら肇は疾走する。午後三時五十分。
――あと十分。
教室から出て、階段を駆け下り、玄関で靴を履き替える。そこから校庭を突っ切り、校門をくぐり、前の道路を西へ。そこから住宅街に入り、北へ向かう。人気の少ない路地裏をひたすら走った後に、ようやく辿り着いたのは表札の無い小さな洋館。肇は何の躊躇いもなく門を開け、洋館の入り口へと歩を進める。そこで腕時計を見ると、時刻は午後三時五十八分を指していた。
――間に合った!
肇は心の中で、快哉の声を上げる。一旦足を止め、大きく胸に息を吸い込んだ。それから足早に歩き、入ってすぐ右側の部屋の扉の取っ手に手をかけ、勢いよく開くと。そこには、肇を全力疾走させた諸悪の根源が、窓際の椅子に背をもたせかけて、実に幸せそうに熟睡していた。
「おい、人を呼びつけておいて寝るな!」
つい肇は大声で叫んでしまった。時間通りに来なければ魔術で吹き飛ばすなどと散々人を脅しておいてこれはないだろう、と彼は思う。叫び声に気付いたのか、金髪碧眼の青年は、いかにも眠そうな表情で目を瞬かせた後に、口を開いた。
「早かったな」
「お前が時間通りに来いって言ったんだろ?」
若干の苛立ちを含んだ声に、金髪の青年、アルファルド・シュタインはちっちっと指を振って答える。
「お前じゃない。師匠と呼べ」
「師匠が時間通りに来いって――」
言い直した肇の言葉を途中で遮って、アルファルドは呆れたように言った。
「まさか額面通りに受け取って走って来るとは思わなかったぞ。確かホームルームが終わるのは三時五十分頃だろう」
「何でお前が、城ヶ崎高校の時間割を知ってるんだよ!」
肇の今度の叫び声はほとんど悲鳴に近かった。
「だから、師匠と呼べ。魔術師の情報網を甘く見るな」
アルファルドは淡々とした口調で、続ける。
「早めの時刻を指定しておけば、貴様は急いでここに来ようとするだろう? 俺も時間を無駄にせずに済むという訳だ」
――時間を無駄にするもなにも、寝てた癖に。
内心肇はそう思ったが、口には出さない。代わりにこう聞いた。
「それで、師匠。今日は何の用なんだ?」
「無知な貴様にも分かるように、魔術の講義をする、という訳だ。どうだ、親切な師匠だろう」
無知って何だよ。無知って。肇は心の中で愚痴った。肇は今まで魔術の存在すら知らなかったのだから、何も知らないのは当然だろう。わざわざ殊更にあげつらうこともあるまい。それに、本当に親切な人間は、自分で親切だとは言わない。決して。
金髪の青年は沈黙している肇を、何故か満足げに眺めて、こう切り出した。
「そこの椅子に座れ。いろいろ説明してやろう」
こうして、アルファルド・シュタインの魔術講義が始まった。
*
「貴様は世の中に魔術師がどれだけいると思う?」
アルファルドは肇の顔を覗き込んで、質問した。
「十万人ぐらいか?」
突然投げかけられた問いに、肇は少し戸惑う。答えが分からなかった彼は適当に答えた。
「もっと多い。概ね二百万人ぐらいいる」
「そうなのか?」
肇は意外な答えに、驚いて声を上げた。下手な小国の人口より多い。
「まあ世界の人口が六十五億人ほどだから、歩けば、魔術師に当たるっていうほどいる訳じゃない」
――歩いて魔術師に当たった俺は運が悪いってことですか。そうですか。
肇は心の内でそう思わずにはいられなかった。どこかうんざりした面持ちで黙り込んでいる肇を見ながら、アルファルドは説明した。
「そのうちの八割ほどの魔術師は、魔術組合に所属している」
「この前もその単語を聞いたような気がするんだけど、魔術組合って一体何なんだ?」
疑問を掲げた肇に、アルファルドは丁寧に解説を加える。
「魔術師達の互助組織だ。大抵の魔術師や魔術結社はこれに加盟している」
肇はアルファルドの顔を見据えて、更に問いを重ねた。
「じゃあ、師匠も?」
「不本意ながら、そうだ。魔術学院の学生や卒業生は自動的に魔術組合に組み入れられるからな」
「魔術学院? そんなものがあるのか」
片眉を跳ね上げて、肇は聞く。魔術学院というからには、魔術を学ぶ学校のことを指すのだろうが。そう言われればアルファルドはそういう話をしていたような気もする。まるで某ファンタジー小説のようだ。
「世界各地に百五十校ぐらいあるぞ」
「そんなにたくさんあるのか。驚きだ。日本にもあるのか?」
肇は目を見開いて尋ねると、アルファルドは腕を組んで、少し考え込むような表情を見せた。
「長野県の山奥にあった気がするな」
「…………」
肇は沈黙した。この世界は思ったよりもファンタジーな世界だったらしい。
「続けるぞ。魔術組合に所属している、魔術師には階級がある。それは十二の位階に分類される」
「黄金の夜明けみたいなあれか」
「よくそんなの知ってるな」
アルファルドは意外そうに肇のほうを見る。肇はわずかに目を逸らして、弁解じみた口調でこう言った。
「知り合いにそういうのに詳しいのがいるんだよ」
「そうか。魔術組合の位階制は、黄金の夜明けのものほどややこしいものでも無い。単純にラテン数字で一から十二までを表しただけのものだ」
アルファルドはそう言って、指を折りながら一つずつ数字を数える。
「I、II、III、IV、V、VI、VII、VIII、IX、X、 XI、XII」
アルファルドは、言葉を切って続けた。
「Iが最高位で、XIIが最低位だ。IからIIIまでは特級魔導師、IVからVIまでは上級魔術師、VIIからIXまでは中級魔術師、XからXIIまでは初級魔術師と呼ばれる」
「……覚えることが多いな。頭痛くなってきた」
肇はどこか疲れたような声で呻く。アルファルドは更に補足を加えた。
「根性で覚えろ。普通に考えれば、ピラミッド状に、力の強い特級魔導師の人数が一番少なくて、力の弱い初級魔術師の人数が一番多いと思えるかもしれないが、人口比において一番多いのは上級魔術師だ。魔術学院を卒業した人間は自動的に上級魔術師になるからな。その次に中級魔術師。優れた魔術師である特級魔導師と、入門段階の魔術師である初級魔術師は比較的少ない」
よく分からない単語の羅列で、すでに肇の頭は飽和状態である。ひたすら延々と喋り続けようとするアルファルドを止めるように、肇は手を挙げた。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、俺は初級魔術師になるってことか?」
「魔術組合に登録すれば、そういうことになるだろうな」
アルファルドは肇の言葉に小さく頷き、肇の言を肯定する。
「それって、どうやるんだ?」
肇は疑問に思ったことをそのまま口に出した。
「魔術組合に登録するには、特級魔導師以上の人間による魔法名の認証が必要だ。これを通過儀礼と言うな。俺は当然特級だから心配しなくてもいいぞ」
自信たっぷりな様子のアルファルドに、肇は呆れた視線を向ける。まあこれほど偉そうな態度の彼のことだ、おそらく位の高い魔術師に違いない。そう考えた後に、意味のよく分からない単語があることにふと気付いた。
「魔法名っていうのは一体何だ?」
「魔術組合で個人の特定に使うニックネームみたいなものだ。入門する際に自ら決めるのが通例となっている。だいたい自分の魔術師としての目標や自分の好きな言葉なんかを付けるな。有名な二つ名なんかが付くと、それを魔法名として使うことも多い」
「ちなみに師匠の魔法名は?」
肇が聞くと。
「災厄」
アルファルドは短く答えた。
「……それ、自分で付けたのか?」
肇は怪訝そうにアルファルドの顔を眺める。人から渾名として付けられるのならともかく、そんな物騒な名前を自ら付けるのは明らかに変だ。
「まあ、そうだ。色々あったからな」
アルファルドはどこか遠くを見るような目をして言った。
――色々って何だ、色々って。
肇は激しくつっこみたかったが、そっとしておくことにした。
「要するに、俺が魔術師になるためには、魔法名を自分で決めなければならないってことか」
「そういうことだ。なるべく早く決めろ」
「じゃあ、奇妙なる魅了者で」
「貴様、そんなあっさり決めていいのか」
「いや、お前が早く決めろって言ったんだろ」
アルファルドが魅了する者などと言っていたときに肇の脳裏に浮かんだのはこっちのアトラクタだった。散逸力学系における定常状態。
金髪の魔術師は、不機嫌そうな表情を浮かべて、肇の言葉を訂正した。
「だからお前じゃない、師匠と呼べ。貴様もいい加減慣れろ。では、その魔法名で魔術組合に登録する。面倒臭いが、明日日本魔術組合支部に貴様と行くことにしよう」
「どこにあるんだよ、それ」
「ここから徒歩二十分ほどの所だ。城ヶ崎駅のすぐ近くにある」
――それぐらいのことが面倒臭いのか、この人は。しかし城ヶ崎市が魔術都市だったとは! 道理で歩いて魔術師に当たる訳だ。今までこの街で十六年間暮らしてきたのに。
肇は次々と今までの自分の常識が覆されるような話を聞かされて、精神的な疲労を感じたのであった。
*
翌日。昨日と同じように授業が終わると、すぐに教室を出る。クラスメイトの悠と寿人がこちらを見ているような気がするが、意に介さずにひた走る。そうして、アルファルドの洋館を訪れると、彼は筆で居間の床に何やら怪しげな紋様を描いていた。二重円の内部に、よく分からない記号を書き連ねている。
「何を描いているんだ?」
不審に思った肇はアルファルドに問うた。
「転移魔法円だ。これさえあれば、魔術組合支部に一瞬で行ける」
肇のほうへは視線を向けずに、ひたすら手を動かしながら、アルファルドは答える。
「いや、師匠。昨日歩いて二十分ぐらいで行けるって言ってなかったか?」
「貴様を連れて正面から行くと、おそらく入り口で止められる。それが面倒臭い」
――どれだけずぼらなんだよ。
内心そう思った肇は呆れた声を上げる。
「魔法円を描くほうが、面倒臭くないか?」
「魔術組合支部の入り口には、個体魔力を識別する魔法具がある。魔術組合に登録していない人間がそこを通るとブザーが鳴る。それが途方もなく嫌だ」
顔全体に渋面を浮かべ、実に嫌そうに言ってくるアルファルドに、肇は納得した面持ちで頷いた。
――なるほど。空港のゲートで金属類を誤って付けていると止められるようなものか。確かにそれは嫌な感じだ。そうこうしているうちにアルファルドが転移魔法円を完成させる。彼は一つ息を吐いてから、朗々と呪文を詠唱した。
「大いなる精霊よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」
それに応えて、、転移魔法円に魔力が満ちていく。魔法円は淡く黄緑色の光を放っていた。
非現実的で幻想的なその様に、肇は目を奪われる。しかし。
――転移魔法円ということは、この中に入れ、ということだよな。
得体の知れない光の中に飛び込むというのは、なかなか勇気のいるものである。尻込みした様子の肇を、アルファルドはわずかに眉を顰めて見やった。
「何をしている。行くぞ」
アルファルドはそう告げると、肇を問答無用で魔法円の内に放り込んだ。
*
エレベータに乗ったときに似た、重力が増したような感覚が肇を襲う。それがしばらく続いた後、周りの風景が変わった。洋館の一室から、殺風景な部屋に。眩暈に襲われた肇は、軽く頭を振った。まだ判然としない意識の中で、肇はゆっくりと顔を上げる。彼の目の前に立っていたのは、見覚えのある女性だった。肩まで伸びる漆黒の髪。髪と同じ色の、闇そのもののようなドレス。吸い込まれそうな黒の瞳。美人だが、表情がないためか、どこか作り物めいた印象を与える。
この間の夜に、肇を助けてくれた魔術師だ。
彼女は、肇の隣に立つ金髪の魔術師を、その瞳で真っ直ぐ見据えて、口を開く。
「災厄。こういうくだらないことで呼びつけないでくれませんか」
「別にくだらなくもないだろう。俺の弟子の登録だ」
そう返すアルファルド。
「そちらが貴方の弟子ですか」
漆黒の女は、何の感慨も無く肇のほうを見る。そうして、頭を下げた後に、こう言った。
「はじめまして。私は、黒の人形師、綾織絢。位階IIIに身を置く魔術師です」
「俺の名前は久住肇といいます。よろしくお願いします」
それを眺めたアルファルドが、不満そうに呟きを漏らす。
「どうして、綾織には丁寧な口調なんだ」
「一応、助けてもらったからな」
絢は表情を変えずに、肇の言葉に首を傾げて見せる。
「私が貴方を助けたことがありましたか」
どうやら、彼女はこの間の夜のことを全く覚えていないようだった。
アルファルドもそのことに関しては特に説明する気もないようである。彼は絢に尋ねた。
「そんなことはどっちでもいい。肇の登録書類は持ってきてくれたのか」
「こちらに」
絢が差し出したのは、A4サイズの茶封筒である。
アルファルドはそれを受け取り、中の書類を一枚取り出して、肇に渡した。
「これに記入しろ」
渡されたその紙には、住所、氏名、電話番号、魔法名を記入する欄があった。そしてその下には認証者のサインを書く欄がある。随分とあっさりしたものだ、と肇は思った。
「書くものがないんだけど」
肇が口にすると、絢がボールペンを貸してくれる。
「これをお使いください」
「ありがとう」
軽く礼をして、肇は書類に記入する。それからボールペンと書類をアルファルドに手渡した。アルファルドは流れるような筆跡でサインを書き、ボールペンを絢に返す。
「今から受付に書類を提出してくる。貴様等もついてこい」
こう言って、アルファルドはくるりと踵を返し、部屋から出た。
*
肇は道が分からないため、ただアルファルドに付いて廊下を歩き、階段を降りる。そうして辿り着いたのは、ビルの正面玄関だった。灰色をした天井は高く、広さを感じさせる。ガラス張りをした入口はまだ午後の穏やかな陽光を反射していた。その受付には、若い女性が座っている。アルファルドが話し掛けると、彼女は少し驚いたようだった。
――そりゃ驚くか。何しろ入り口から入ってきていない人間が建物の奥から出てきたんだから。
肇はそう思って、アルファルドが受付の女性に書類を渡すのを見ていると。
書類を確認している受付の女性の表情が一瞬強張った。少しの間を置いてから、彼女は身体を震わせて、ほとんど悲鳴に近い声を上げる。
「ええっ……! 災厄?」
アルファルドはそれをじろりと睨み付ける。
「悪かったな」
それを聞いた女性は、慌てて取り繕うような表情を見せた。
「し、失礼しました! そちらの入り口で認証を行いますので、一度建物の外に出てからお入りください」
アルファルドは、言われた通り、一旦ビルの外に出てから入り直す。
「こ、個体魔力識別完了。確かに位階I、魔法名災厄、アルファルド・シュタイン様ですね」
その様子を黙って見ていた絢が、受付の女性に忠告する。
「貴方、新人ですね。災厄はこの近くに住んでいるので、たまにここに来ます。基本的にこちらから手を出さなければ無害なので、そこまで恐れる必要はないと思うのですが」
「いや、基本的にも何も、俺は人畜無害だ」
不機嫌そうな顔でこう返すアルファルド。
何だかよく分からないが自分の師匠は恐れられているらしい。肇はそう思い、その様子を何となく眺めていると、受付の女性に声を掛けられた。
「久住肇様。そちらの入り口のところに立ってください」
肇は、ビルのちょうど入り口のところに立った。
「魔力の新規登録を行います。魔法名は奇妙なる魅了者でよろしいですね?」
「はい」
肇は肯定して頷く。そのまま肇がしばらく立っていると、受付の女性はこう告げた。
「魔力登録が完了しました。魔術組合会員証は後ほどご自宅に郵送します。本日はお疲れ様でした」
思ったよりもあっさりとした手続きに、肇は意外さを禁じえない。魔術師になるのだから、もう少しいろいろあっても良さそうなものなのに。
「何か入門の儀式とかない訳?」
疑問の表情を浮かべて、肇はアルファルドに尋ねる。
「そういうのは、魔術組合ではなくて、各々の魔術師が所属している魔術結社でやることになっている」
「魔術結社? 何か怪しげな響きだな」
「単なる魔術師の集団だ。別に怪しげでも何でもない。俺は所属していないから、貴様もそういうのは無しだ」
「そうなのか」
どこか納得がいかない顔で首を捻っている肇に、金髪の魔術師は促すように言った。
「さて、用事も済んだことだし、帰るぞ」
そうして行きとは違って正面玄関のところから、普通に帰ろうとするアルファルドを見て、肇はわずかに目を見開いた。
「転移魔法円は使わないのか?」
「あれは、転移先にも魔術師がいる必要がある。俺の家には誰も魔術師がいないから、使えない」
「なるほど」
そうやって、肇とアルファルドが会話している所に、絢が口を挟む。
「災厄。もし良ければ、貴方の弟子をこの後借り受けても構いませんか」
「別に構わないが。変なことを吹き込むなよ」
「私は貴方とは違いますので」
淡々という絢。相変わらずその声の響きには感情が見えない。
「えっと、綾織さん? 何の用でしょうか」
肇が怪訝そうに聞くと。
「こちらで話しましょう」
絢は、先程三人が歩いてきた階段のほうへ、肇を誘った。
*
魔術組合支部の二階にある談話室。狭い室内の真ん中には、年代物の大きなテーブルが置かれている。そのテーブルを挟んで、肇は絢と向き合って座っていた。アルファルドはすでに先に帰っている。
「久住さん。貴方は災厄、アルファルド・シュタインのことをどれだけ知っていますか」
絢はこう話を切り出した。何を聞かれるのかと身構えていた肇は、少し拍子抜けする。
「正直なところ、師匠については何も。先程は受付の女の人に恐れられていたみたいでしたが」
「やはり、彼は何も話してはいないのですね」
絢は抑揚の無い声で続ける。
「彼はあの若さで、世界でも数人しかいない位階、Iに達している。魔術師の中には見た目通りの年齢でない者も多いのですが、彼は見た目そのままの年齢です」
――そう言えばさっきIとか言っていた気もする。
肇は不思議に思う。もし絢の言う通りなら、アルファルドは魔術師としてずば抜けた才能を持つ、と言ってもいいのではないだろうか。しかし絢の単調な声色には、どこか不吉な響きが篭っていた。
「師匠が優れた魔術師であることに、何か問題でもあるんですか」
「魔術師がIになるには条件があるのです。その時点でIIであることは当然ですが、他のI全員にその位階に相応しい人間であると認められなければならない。他の位階の昇進とは訳が違うのですよ」
肇は首を傾げて、質問を重ねる。
「師匠が現在Iであるということは、その位階に相応しい人だと、認められたということでは?」
「彼がIへの昇進を申請したとき、Iの中に反対した者が三人いました。その時点で、Iは六人だったので、半数の魔術師の反対にあったということです。普通なら、この話はそこで終わるところなのですが、反対した者のうちの一人が、災厄を挑発して彼の逆鱗に触れた。彼を挑発した者は生死の境を彷徨いました。その場に居合わせたI――四人ほどいましたが――は誰も彼を止められなかった。その事件の後、反対していた三人は賛成の側に回りました。それが契機となって彼はIとなったのです」
彼女は一息にそれだけ言うと、口を噤んだ。
「……要するに、師匠は魔術組合の魔術師達にとって脅威となったために、体制に組み込まれたということですか」
敵として脅威ならば、味方にせよ、と言うことである。Iという位階を与えることで、彼を懐柔しようと試みた、ということだろう。
「察しがいいですね。彼はあの時魔術組合を辞めてもおかしくなかったのですが、魔術組合としては彼を野放しにしておく訳にはいかなかったのです」
無表情でそう言う絢を眺めながら、肇は疑問を口にする。
「何故その話を俺に?」
「貴方には知っておいてもらいたかったからです。彼は魔術組合の上層部、特に元老院の人間に疎まれている。そこのトップが彼に半殺しの目にあった人物なので当然ですが。実の所、私は彼の監視役のようなものです」
絢は一旦そこで言葉を切る。それから視線を肇のほうへと向けた。彼女の黒目がちの目に、感情の色は含まれてはいなかったが、咎められているような気がして、肇は少し居心地が悪かった。
「つまり、私が言いたいのは、彼の弟子である貴方も、私の監視対象になるので、ご了承ください、ということです」
「監視対象? 俺はそれほど大層な人間じゃないと思いますが」
危険人物の弟子だからといって、同じように危険人物とみなされてはたまらない。
「魅了する者も、また脅威なのですよ。そのうち貴方も自覚することと思いますが。話は以上です。お時間を取らせて申し訳ありませんでした」
そう言い残して、絢は部屋を出て行った。
*
肇が魔術組合支部から出たとき、辺りは夕闇が濃くなっていた。沈みゆく太陽が西の空を薄茜色に染め上げて、一種幻想的な気配を醸しだしている。路地裏に入れば光は建物に遮られて、すっかり薄暗い。そんな道を辿りながら、肇は家路を急ぐ。この間のように魔術師同士の諍いに巻き込まれては堪らない。彼は足を動かしながら、心の中で、絢についさっき言われたことを反芻していた。
――魅了する者も、また脅威、か。
師匠であるアルファルドが危険人物だということにも驚いたが、それ以上に自分が魔術師に脅威と言われたことに実感が湧かない。何しろ、今まで普通の人間として平凡な人生を歩んできたのだ。そう考えながら歩いていると、そこに後ろから声が掛かった。
「肇! こんな遅くまで何してたの?」
肇が振り返ると、道の真ん中に、ワンピース姿の茶色のポニーテールの少女が、仁王立ちしていた。宮地悠である。
「ちょっとした野暮用」
肇は動揺を悟られないように、簡潔に言った。まさか、魔術師達の根城に行っていたと言う訳にはいかない。
「ねえ、肇、何か隠してない?」
相変わらず悠は鋭い。幼い頃、彼女がかくれんぼで鬼になった時のことを肇は思い出す。肇はいつも悠に見つかってばかりだったのだ。
「別に」
肇は顔を背けて答えた。目を合わせたら後ろ暗いことがあるのが、ばれそうだ。
悠はそんな肇の顔を覗き込んで、穏やかに笑う。
「まあいいんだけどね。肇、今からちょっと付き合ってくれない?」
「何しに行くんだ?」
肇はわずかに眉を寄せて尋ねる。悠の誘いというのは、碌なものがないのだ。わざわざ夕方に声を掛けるというのも、何やら嫌な予感がする。
「星を見に行くのよ!」
悠は実に楽しそうにこう宣言した。
「星?」
訝しく思った肇は、思わず聞き返す。UFOでも見に行くのならともかく、星を見に行くとは! 肇は悠が突飛なことを言い出すことに慣れていたので、彼女がまともなことを言ったのを聞いて、かえって驚いたのだった。
「寿人がね、星を見ようって言い出したの。肇も連れてこいって。私、何回も肇の家に行ったんだけど、帰ってなかったみたいだし」
「天文部の活動か?」
肇は天文部の部長である級友の顔を思い浮かべながら聞く。悠は肇の問いに、笑顔で頷いて見せた。
「そんな所。天文部は私と寿人だけだけどね」
「どこで星を見るんだ?」
「学校の北の方にある、高台の公園よ」
そう言うと、悠は嬉しそうな顔をして、肇の前を行く。歩いていくうちに日は沈んで、辺りの風景は次第に暗さを増していく。ぽつりぽつりと、住宅街の窓には灯りが点り始めた。二人はたわいもない会話をしながら歩を進める。二十分ほどして、ようやく二人は目的の公園に辿り着いた。
*
夜の公園は人気が少なく、待ち合わせの相手以外には、誰もいなかった。昼間であれば、遊具で遊ぶ子供達の姿が見られるのだが。そんな夜特有の静謐な気配の中、公園のベンチに座って待っていたのは、茶色の髪の少年だった。天文部の部長、上野寿人である。
寿人は二人の姿に気付くと、ベンチから立ち上がって、声を上げた。
「悠! 肇見つかったの?」
「この通り、捕獲したわよ」
悠は胸を張って、断言した。
「捕獲って、俺は猛獣かよ」
肇はやれやれ、と肩を落として溜め息を吐いた。自分の扱いが随分酷い気がするが、気のせいだろう。いや、気のせいだと思いたい。
「まあ、まあ、二人とも。今日は星空を見にきたんだろう」
寿人は二人をとりなすように、誤魔化すような笑みを浮べた。そして彼は目線を空へと向ける。
雲一つない夜空だった。月はまだ昇ってこないのか、見当たらない。そのお蔭か、空がいつもよりも暗く、無数の星が煌いているのが見えた。
「うわあ、すごく綺麗な星空だね。あそこに見えるのが北極星?」
悠は空を見上げ、感嘆の声を上げる。
「そうだよ、北斗七星が近くに見える」
寿人がいかにも天文部の部長らしく、北の地平線のほうを指差して解説した。
その言葉に、肇は首を巡らせながら、星を探す。
「あの柄杓だな」
「南斗六星っていうのもあるんでしょう?」
悠が尋ねると、寿人は笑って答えた。
「随分マニアックだな。射手座の弓の部分を、南斗六星っていうんだ。残念ながら今は見えないけどね」
星空を見ながら、悠は何かを思い出したように呟く。
「確か、北斗七星の神様が死を司る神様で、南斗六星の神様が生を司る神様なのよね」
「そういうことには詳しいんだよな。悠は」
肇がそう言うと、悠は嬉しそうな顔をして振り向いた。
「悠の機嫌直ったみたいだな」
その様子を見た寿人は、小さく肇に耳打ちする。
「それ、どういうことだよ」
肇が眉を顰めて、寿人を見返した。
「最近、お前忙しそうだっただろ? 何があったか知らないけどさ。悠の奴ちょっと苛々してたぞ」
「そうかな」
「そうだよ! あたられるのはどうせ俺だからお前は気が付かなかったんだろうけど」
そう言って、寿人は恨めしげに肇の顔を覗き込んでくる。
「ごめん、ちょっと色々あってさ」
肇はその視線に辟易しながら、弁解するような口調で言った。
「まあいいけどね。こんな満天の星空見てると、嫌なことなんて忘れるよ」
寿人は一つ息を吐いてから、表情を和らげて、口元に笑みを浮かべる。
それから三人は黙って星空を眺めていた。大宇宙から見れば、太陽系の第三惑星である地球の、こんな小さな街に住んでいる人間というのはちっぽけなもので、魔術師であるかどうかなんて、実はそれほど重要なことではないのかもしれない。肇は何となくそんなことを考えながら、ずっと星空を見ていた。