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[第十九話 テスト・イン・ピース]

"Tout le monde se plaint de sa memoire, et personne ne se plaint de son jugement."

(誰もが自身の記憶力の欠如には不満を漏らすが、その判断力の欠如について不満を漏らすものは誰もいない)

                                         ――ラ・ロシュフコー


 ある晴れた日の昼下がり。ロンドン郊外の教会へと足を運ぶのは、その長身以外は取り立てて特徴のない、茶色の髪をした男だ。人々が彼を街で見かけてもおそらく誰も気に止めないだろう。しかし、彼は魔術師達の間では、神殿の首領(マジスター・テンプリ)と呼ばれ、畏怖の対象となる存在だった。彼の名をヘルムート・リドフォールという。

 ヘルムートはゆっくりとした足取りで、誰もいない教会の中へと入り、視線を上へと向ける。

 彼の見上げた先には、一枚のステンドグラスがあった。描かれているのは、穏やかに微笑む聖母と、一対の羽を持つ天使。天使ガブリエルの受胎告知の絵だ。

 それを通して、色鮮やかな光が天から彼の足元に落ちてくる。丹念に磨かれた床ははっきりと天使の像を映していた。ヘルムートは誰かを待つように、腕を組みながら壁際に(もた)れかかる。しばらく彼がそうしていると、足音が教会内に響き渡った。

 入って来たのは、ヘルムートと同じ色の髪をした男だった。しかし、ヘルムートよりは若干背が低い。一風変わっているのは、その身を包む漆黒の法衣(スータン)だ。首から下げたロザリオと合わせれば、一目で聖職にあるものと分かる、そんな格好をしている。

 ヘルムートは軽く手を上げて、その男に挨拶する。

「ルカ・ゼッレフェッリ」

「お久しぶりですね、ヘルムート。あなたは本当に変わらない」

 ルカと呼ばれた男は、丁寧に会釈した。

 ヘルムートは、それに皮肉で応ずる。

「人のことを言えるのか? こうやって相対していると、どうも君の年齢を忘れてしまいそうになって困る。君達の毛嫌いする邪な術でも用いたんじゃないか、とつい勘繰ってしまいたくなるが」

「神の恩寵の賜物です」

 ルカと呼ばれた男は、その皮肉に微塵も動じず、穏やかに微笑した。

 その表情を見たヘルムートは、内心では舌打ちしながらも、同じように笑顔を浮べる。

「しかし、わざわざ教会を待ち合わせ場所に選ぶとは、どういう了見だ。私への嫌がらせか」

神殿の首領(マジスター・テンプリ)の呼び名を持つ、あなたにぴったりじゃないですか」

 ルカのおどけた口調に、ヘルムートは少し苛立たしげに眉を上げる。そして、聞いた。

「用件は何だ」

「ナイジェルはどうしています」

 ヘルムートの問いにルカは問いで返す。その質問はヘルムートにとって意外だったのか、彼はわずかに目を見開いた。

「まさか君の口から、彼を気遣う言葉が聞けるとは思わなかったよ。かつての部下である彼を、何の躊躇いもなく異端審問にかけたのは君じゃないのか」

「かの救い主も喩えられたように、放蕩息子(プローディガル・サン)ほど愛しいものなのですよ、主にとっては」

 ヘルムートはルカの言葉に、唇を歪めて見せる。

「ありがたい説教も君が言うと、本当に台無しだな。彼は今日本にいるよ。あの国にはさすがに君達も手は出せないだろう」

 ルカは意地悪く、くすりと笑う。

「あなた方は、自らの制御できないものを遠ざける傾向があるようですね。彼しかり、災厄(ディザスター)しかり。しかし、いつまでも放置していても、問題が解決する訳ではない」

 ルカはそこで一息吐いて、囁くように付け加えた。

「……私達はね。あなた方に彼が使える魔術師であることを、証明して貰いたいと思っているのです」

「どういう意味だ」

 ヘルムートは静かに問う。簡潔な質問だったが、それには有無を言わさぬ響きが篭っていた。

 ルカは能面のような笑みを貼り付けたまま、こう口にする。

「未だに彼が魔術組合(ギルド)の魔術師として最低位であるのは、大問題ですよ。もちろん彼の実力は知っていますが。彼の暴走を怖れて位階昇進試験すら受けさせないのでは、ねえ」

「何が言いたい」

「もし、彼が魔術師として自身を律することができないのなら、殺すのもやむなし、ということです」

 それを聞いたヘルムートは、小さく嘆息して呟いた。

「汚点は人知れず葬り去る、か。君達祓魔師(エクソシスト)のやり方は本当に嫌になる」

「こちらとしては、できる限りの譲歩をしたつもりです。私達にとっては、むしろあなたのほうが最大の汚点だ」

 ルカがそう言った途端、その場の空気がたちまちのうちに凍りつく。ヘルムートは、口元に物騒な笑みを湛えて、こう尋ねた。

「今言ったことは君達の総意か? それとも君のごく個人的な見解かな」

「私達の、と言ったでしょう」

 ルカは相変わらず表情を崩さない。

 この二人の様子を傍から見れば、親しい友人同士が楽しげに談笑しているようにも見えただろう。だが、その瞬間に成されたやりとりは随分と危ういものだった。もし、その場に魔術師がいれば、両者共に、呪文を唱えていないにもかかわらず、精霊達がざわめく様子を知覚したに違いない。

 しばらくそうやって対峙した後に、ヘルムートは確認するように、ゆっくりと口を開く。

「……要するに、彼に次の位階昇進試験を受けさせれば、君達は納得する訳だな」

「ええ、その通りです」

 ルカは満足気な表情で、首を縦に振って見せる。

「分かった。君達の期待に沿うようにしよう」

 ヘルムートはそう言い放ち、ルカに背を向けて教会を後にした。


     *


「では、これで今日の授業は終わりにします」

 そう言って、英語の教師が部屋の前の扉から出て行った途端に、城ヶ崎高等学校、二年三組の教室は騒がしくなった。その喧騒の中、呆然とした表情で自らの席に座っている黒髪の少年がいた。久住肇(くじゅうはじめ)である。他の生徒達が友人と話そうと席を立つ中、彼だけが彫像のように固まって動かない。

 彼の手にあったのは、英文法(グラマー)のテスト答案だ。その結果は惨憺たるものだった。最近は放課後の時間を、ほとんど魔術の練習に取られていたために、勉強する暇がなかったのだ。いたるところ、赤文字で添削が成されている。かろうじて、追試のボーダーラインとなる四十点をきるのは免れていたが、それでも精神的ダメージはかなり大きい。

 そんな彼へ励ますように、声を掛けたのは、髪を茶色に染めた少年だった。彼のクラスメイト、上野寿人(うえのひさと)である。

「元気出しなよ、肇。次があるって」

「もし次がこれより悪かったら、間違いなく追試確定だ」

 肇は暗い表情をして、深々と溜め息を吐いた。

「別にいいじゃない。数学はものすごく良かったんでしょ」

 肇の席に近付いて、あっけらかんと言い放ったのは、彼の幼馴染である茶色のポニーテールの少女、宮地悠みやじゆうだ。

 肇は悠に恨みがましい視線を向ける。

「どうせ人事だろ。お前はどうだったんだよ」

「九十五点」

 悠は得意気に自慢するでもなく、実にあっさりと高得点の答案を披露した。

 それを見た肇は、机の上に突っ伏して呻き声を上げる。

「お前、何気に頭いいよな……あのややこしい英語の文法をよく覚えられるもんだ」

「だって、魔術書を読むのに英語は必須だもの」

 きっぱりと言う悠に、寿人は呆れたように笑う。

「さすがはオカルトマニア」

「はあ……少しでいいから俺に悠の点数を分けて欲しいよ」

 絶望に打ちひしがれつつ、しみじみと呟く肇に、悠は唇を尖らせて言った。

「それを言うなら、私にも肇の数学の点数を分けてくれないと不公平だわ」

 寿人は、肇と悠の顔を交互に眺めながら、苦笑する。

「二人とも、ほんと極端だよね。肇は数学が得意で英語が苦手。悠は英語が得意で数学が苦手。全く中庸ってものを知らない」

 悠は腰に手を当てて、軽く寿人を睨み付ける。

「じゃあ、寿人はどうなのよ」

「どっちも八十点台だったけど」

 しれっとして、茶色の髪の少年はこうのたまった。

「トータルじゃ、お前が一番いいんじゃないか!」

 教室中に響き渡るほどの大声で、思わず肇は叫んでしまった。


     *


 憂鬱な面持ちで、肇は住宅街を歩く。彼の足取りはその精神状態を反映して、どこかふらふらと頼りない。空までもが、彼の感情をそのまま映すように、暗かった。雨が近いのだろうか、大気はじとりと重苦しい湿気を含んでいる。彼は虚ろな目をしながら、自らの思考に没頭していた。何とかして、次の英文法(グラマー)の試験で挽回しなければならない。

 ――よくよく考えてみれば、身近に英語を話せる人間がいるじゃないか。

 あまりにもごく普通に日本語を喋るので、すっかり忘れていたが、肇の師匠であるアルファルド・シュタインの母国語は英語である。姓こそドイツの名前だが、彼はイングランド育ちだと聞いていた。しかし、あの師匠が親切に英語を教えてくれるとも思えない。魔術の教え方だって、あまり上手とはいえないのだ。

 考えている間に、肇はアルファルドの洋館の前に辿り着いた。門の前に立ってはじめて、肇は暗澹たる空模様に気付く。一度家に傘を取りに戻れば良かったかな、と思いながら洋館の中へと入った途端、黒猫が彼の肩に勢い良く飛び乗ってきた。肇の使い魔(ファミリア)、クロネッカーである。その小さな身体を震わせて、怯えるクロネッカーの様子に肇は既視感すら覚える。肇が居間に足を踏み入れると、案の定、金髪の魔術師と黒髪の魔女が、険悪な雰囲気で対峙していた。

 アルファルド・シュタインと綾織絢(あやおりあや)である。

「貴方には、次の位階昇進試験の試験監督を引き受けて貰います」

「要するに、雑用だろう。しかも最低ランクの位階昇進試験だ。何故わざわざそれに俺を担ぎ出す。そんなに日本支部が人材不足だとは思わなかったぞ」

 アルファルドは苛立たしげに碧色の瞳を煌かせて、言った。

「人材不足、という訳ではありません。今回の位階昇進試験は万全の体制で臨まなければならないのです。何かあってからでは遅い」

 そう言った絢を、アルファルドは不審気に見つめる。

「どういうことだ」

「ナイジェル・ハーグリーヴス、と言えば分かりますか?」

 その名前を聞いたアルファルドの表情が驚愕に染まった。

「まさか。あの似非えせ祓魔師(エクソシスト)か? 彼は位階の昇進には興味がない、というもっぱらの噂だったが」

「その渾名は、本人の前では言わないほうがいいでしょうね。貴方も彼の前では自重するようにしてください」

 肇は訝しく思って、二人の会話に口を挟んだ。

「師匠、何の話をしているんだ?」

「単に雑用を押し付けられそうになっているだけだ」

 アルファルドは、顔全体に渋面を浮べて、忌々しげに吐き捨てた。アルファルドの返答は、肇の質問の答えにはなっていない。肇が疑問に満ちた視線を絢に向けると、彼女は懇切丁寧に説明してくれた。

「彼に、位階昇進試験の試験監督をして貰おうと思っているのです」

 試験監督。要するに、試験が滞りなく行われるかどうかを監視する人間のことだろう。散々な答案を受け取ったばかりの肇には、随分と嫌な響きに聞こえる。しかし位階昇進試験とは何のことだろうか。そう思った肇は、問いをそのまま口に出した。

「綾織さん。位階昇進試験っていうのは一体?」

「貴方も、魔術組合(ギルド)の位階が十二に分類されていることは、ご存知でしょう。魔術師が、位階を上げるためには、この位階昇進試験に受かる必要があります。この試験は、四半期に一度、全世界の魔術組合(ギルド)支部で行われるものです。もっともこれは、十二の位階のうちの下の六ランクのみ、つまり初級魔術師(プライマリー・メイジ)中級魔術師(セカンダリー・メイジ)とに限られるのですが」

「ええと、じゃあ上の六ランクの位階昇進試験は別に行われる、ということですか?」

 肇の質問に、絢は淡々と答える。

「上の六ランク、すなわち上級魔術師(ハイ・ウィザード)以上の位階の昇進は、各自で論文を提出して審査を受ける必要があります。魔術学院の卒業論文も、これにあたります」

 なるほど、と肇は考えを巡らせる。魔術師としてやっていくのも、いろいろ大変だということだ。アルファルドが最高位の魔術師ということは、今までこれをクリアしてきたことになる。しかし、正直言って、いつも寝てばかりの怠惰な彼が、真面目に論文を書く様子というのもあまり想像できない。つい肇は、自らの師匠をまじまじと見つめてしまった。

 金髪の魔術師は不機嫌そうな表情で、肇を見返す。

「何だ、貴様。その視線は」

「……いや。師匠も意外に偉かったんだな、と思って」

 アルファルドは目を凶悪に吊り上げて、無言で宙に印を描き始めた。肇の肩に乗ったままの黒猫は、異変を察して床に飛び降りる。無詠唱魔術、というものは、通常の魔術とはまた違った迫力があった。鬼気迫るものを感じた肇は慌てて叫ぶ。

「どうして怒るんだよ。ちゃんと誉めたじゃないか!」

 静止の声を無視して、金髪の魔術師は印を完成させた。鋭い氷の針が凄まじい速度で肇のほうに飛んでくる。肇はそれをぎりぎりのところで避けた。氷の針は、肇の背後の壁に突き刺さる。彼の頬にひやりと一筋の汗が伝った。肇はアルファルドを睨み付けて、抗議の意を示す。

「師匠、俺を殺す気か!」

「ちっ、外したか。残念だ」

 舌打ちしたアルファルドに、絢はこのうえもなく冷静な口調で諭した。

災厄(ディザスター)。師弟喧嘩はそのくらいにしておいてください。さっきの話ですが、引き受けて貰えますね?」

「断る」

 アルファルドは間髪入れずに、短く否定の言葉を突き付ける。

「貴方も分かるでしょう。彼がもし暴走した場合に、その場に止められる人間がいなければ、どんな悲劇が起こるか」

 絢の言葉を吟味しながら、アルファルドは眉根を寄せていたが、しばらくして何かを思いついたように、口を開いた。

「仕方ないな。ただし、交換条件がある。肇にも位階昇進試験を受けさせろ」

「既に受験申し込みは締め切りましたが」

 絢は無表情のまま反論する。

「綾織。それくらい貴様の権限で何とかなるだろう」

「……分かりました。では、彼の受験手続きを進めることにします」

 両者の会話を、肇は呆然とした面持ちで眺めている。当事者の意見も聞かずに、勝手に話を進めるのは止めて欲しい。

「師匠。どうして俺がその試験を受けなけりゃいけないんだよ」

 肇が不満を漏らすと、アルファルドは人の悪い笑みを浮べて見せる。

「俺だけそんな面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。肇、貴様も付き合え」

 ――自分だけ厄介な目に遭うのが嫌なんだな、師匠は。

 金髪の魔術師の表情を見て、肇は大きく溜め息を吐いた。


     *

 

 綾織絢(あやおりあや)がアルファルドの洋館を立ち去って少しした後に、雨がぽつぽつと降り始めた。雨の雫が居間の窓を叩く音を聞きながら、肇は居間のソファーに腰を下ろしてアルファルドに尋ねる。

「その試験っていうのはどういう内容のものなんだ」

「試験の内容は、筆記試験と実技試験に分けられる」

 アルファルドの答えを聞いて、肇は深く嘆息する。やれやれ、学校の試験が終わったばかりなのに、また試験勉強をしなければならないとは。どこか疲れたような表情をしながら、肇は重ねて質問した。

「たぶん受からないとは思うけど、どのような対策をしておけばいいのか教えてくれないか?」

「筆記試験は基本的に過去問をやっておけば大丈夫だろう。貴様が受けるのは最低ランクの位階昇進試験だからな。実技試験のほうは対策のしようがない。何故なら実技試験の問題というのは、試験を作成する人間の趣味に大幅に左右されるからだ」

 肇は呆れ果てて、思わず言葉を失ってしまう。

 ――それって公正な試験とはいえないんじゃないか。

 金髪の魔術師は一拍置いてから、続けた。

「俺が経験したうちで、一番酷かったのはある死霊術師(ネクロマンサー)が試験を作成したときだ。アンデッドとの戦いを強いられてな。何回倒しても死体が甦るんだ。あれはさすがの俺も精神的にきつかった……」

 アルファルドは顔に嫌悪感すら浮べて、こう口にする。肇は苦笑して師匠の顔を眺めた。どうやらよっぽど散々な目に遭ったらしい。

 ――何だ、そのレベル(フォー)生物災害(バイオハザード)は。

 肇は考えこむように、腕を組んで見せる。それから少し間を開けて、言った。

「要するに、試験作成者が変な人物だったら、危険極まりない試験になるってことか?」

「その通りだ。誰が試験作成者なのかは、極秘事項扱いで、試験当日までは明かされることはない。試験監督ですら、事前に知ることは不可能だ」

 なるほど、と肇は納得して頷いた。それからふと思い出したように、聞く。

「そう言えばさ、さっきの綾織さんの口振りでは、受験者に危険人物がいるみたいな話だったけど」

 アルファルドは、大きく息を吐き、天を仰いだ。

「ああ。本当に頭が痛くなる。噂に名高い似非えせ祓魔師(エクソシスト)の相手をせねばならんとは」

似非えせ祓魔師(エクソシスト)だって?」

 肇が訝しく思って、鸚鵡返しに問いかけると、アルファルドはうんざりしたような面持ちで、忌々しげにこう吐き捨てた。

「ナイジェル・ハーグリーヴス。違法的魔術師イリーガル・ウィザード、あるいは悪魔憑きの祓魔師(エクソシスト)と呼ばれる人物だ」


     *


 悪魔憑きの祓魔師(エクソシスト)。その言葉を聞いた肇は首を捻る。そもそも彼の持っている祓魔師(エクソシスト)のイメージというのは、ホラー映画によく出てくる悪魔祓い師だ。十字架を掲げたり、聖句を唱えたりして、悪魔を追い払う聖職者。悪魔憑きは、ついこの間、肇は目撃したばかりだ。つまり、ソラトに取り憑かれたルーディのような状態を指すのだろう。しかし。

「悪魔憑きが祓魔師(エクソシスト)なんかやってていいのか?」

「確かにな。欠格事由(けっかくじゆう)も甚だしい。だから彼は厳密には元祓魔師(エクソシスト)、ということになる」

 アルファルドの言った単語が理解できなかった肇は、不思議そうな顔をして、こう聞いた。

欠格事由(けっかくじゆう)?」

「その職務に就く者としての要件を充たしていない、ということだ」

 全く外国人の癖に、日本人である肇よりも日本語に詳しい。この語学力を少しは分けて欲しいものだ、と肇はしみじみと思った。

「その人物のどこが危険人物なんだ」

「俺も直接会ったことがある訳じゃないから、よくは知らないんだが、どうやらとんでもない乱暴者らしい。ヴァチカンの祓魔師(エクソシスト)達の間では有名だったそうだ」

 ――師匠もあまり人のことは言えないと思うけれどな。

 肇はそう思うが、口には出さない。黙っている肇を尻目に、アルファルドは本棚に向かっていき、一冊の本を手に取った。

「さて、こんなことを言っていても、仕方がないな。試験勉強を見てやるから、そこに座れ」

 アルファルドの言葉を聞いて、思わず不機嫌になってしまう肇である。

「取りあえず問題を解いてみろ」

 アルファルドはその本を肇に渡す。安っぽく真っ赤な装丁の分厚い本で、表紙には『位階昇進試験過去問題集』と書かれてある。肇は問題集を開いて、最初のページに目を通した。そこにはあまりにも意味不明な問題が並んでいた。例えばこんな感じだ――


 ・新約聖書における四福音書のうちで、もっとも成立年代が新しいものはどれか

 ・八世紀に狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードが記した『アル・アジフ』と呼ばれる魔術書のギリシャ語による表題を示せ

 ・錬金術師パラケルススの『妖精の書』に記されている四大精霊の名前を順に挙げよ

 ・ジョン・ディー博士により記録され、一般に天使との交信に使われる言語を何というか


 肇には最後の問題の答え以外は、分からなかった。

「師匠。全く歯が立たないんだけど」

「貴様、こんな問題も解けないのか?」

 金髪の魔術師は顔を顰めて見せる。肇は問題集のページの一番上を指差して、尋ねた。

「そもそも、新約聖書の四福音書が何なのか、分からない」

 それを聞いたアルファルドは深々と溜め息を吐く。

「四福音書と言えばマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに決まっているだろう。この成立年代には諸説あるが、一番新しいのがヨハネというのは、どの説でも一致している」

「じゃあ、その次の答えは?」

「ネクロノミコン」

「その次は?」

「ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー」

 肇が質問する度に、金髪の魔術師の表情はだんだん険しくなってゆく。ついには堪忍袋の尾が切れたのか、肇から問題集を取り上げて、解答が載っている一番後ろのページを勢い良く破り、それを肇のほうに向かって投げつけた。

「もういい、それを見ながら勉強しろ」

 そう言い放って、アルファルドは足早に居間から立ち去る。肇はその様子を、呆然とした面持ちで見送った。


     *


 その日から一週間ほど、肇はアルファルドの洋館に毎日のように通い、生きていくのに必要のない無駄知識を、頭に詰め込む羽目になった。何度も問題集を投げたくなったが、アルファルドが目の前で睨みを利かせていたので、そうする訳にもいかなかったのだ。

 肇はあまり試験勉強は得意な方ではない。彼は自分の記憶力が偏っていることを存分に自覚していた。例えば、ルべーグ積分の素晴らしさについてなら、何時間でも語ることができる。しかし自身の興味のない事柄については、全くといっていいほど記憶力が働いてくれないのであった。

 そして、試験当日の日曜日の朝。すっかりやつれ果てた表情で、肇は魔術組合(ギルド)支部に足を運んだ。入口の自動ドアを抜けた先にあるロビーは、いつもよりも人が多く、がやがやと騒がしい。そこに張り出されている案内を見て、三階の試験会場へと向かった。

 肇は席に座って辺りを見回す。受験者の平均年齢は、肇よりも数段下だ。大体中学生ぐらいの人間が多い。おそらくは小学生だろう、と思われる者もちらほらと見受けられる。

 その中で、肇は一際目立つ人物が、一番前の席に座っていることに気が付いた。肇より年上の彼は、受験者の中で明らかに浮いている。しかし、彼が変わっている点はそこだけではなかった。彼の外見もまた、一風変わっていたのである。灰色の巻き毛に、青色をした瞳。どこからどう見ても日本人には見えない。

 彼は憂鬱そうな顔をして、所在無げにくるくると鉛筆を回していた。

 ――あれが噂の危険人物だろうか。

 肇が何となくそんなことを考えていると、部屋の入口の扉ががちゃりと音を立てた。

 入口から入ってきたのは、二人の見慣れた人物だ。一人は当然予想が付いていた――肇の師匠であるアルファルド・シュタインだ。意外だったのは、もう一人の人物だった。全身黒ずくめの死霊術師(ネクロマンサー)黒須恭平(くろすきょうへい)である。

 部屋中の視線が二人に集中する。恭平は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「今から、XI(ウーンデキム)への位階昇進試験を始める。まずはここで筆記試験を受けて貰い、それから二十分の休憩時間を挟んだ後に、隣の部屋に移動して実技試験に移ることになる。何か質問は」

 室内は試験前の緊張のためか、静まり返っている。誰も何も言わない。

「では、試験問題を配る。開始時間までは、問題を開かないように」

 恭平はそう言った後、アルファルドに目で指示を下す。金髪の魔術師は、非常に面倒臭そうに、試験問題を配り始めた。

 試験問題を受け取ってから、試験開始までの時間というのは、肇にとってはすごく長い時間に感じられた。部屋の前に掛かっている時計を睨み付けながら、ただひたすら待つ。

「試験始め」

 試験開始の合図とともに、肇は試験問題に一通り目を通し、問題を解き始めた。


     *


 筆記試験は何事もなく終わった。とはいっても、これは特に事件らしい事件が起こらなかった、という意味だ。肇は精魂尽き果てた表情で、席に座ったまま休憩時間を過ごす。一週間かなり頑張って勉強した割には、結果は芳しいとはいえなかった。どうせ付け焼き刃だったんだし、と自分を慰めながら、肇は実技試験の会場である隣の部屋へと移動する。試験監督の黒須恭平(くろすきょうへい)とアルファルド・シュタインは受験者達を案内した後、特に何をするでもなく、待つように部屋の片隅に立っていた。しばらくすると、どこからともなく声が響いてくる。

「あー、あー、テステステス、ただいまマイクのテスト中」

 聞き覚えのある声に、肇は猛烈に嫌な予感がした。

「えー、魔術師の卵である諸君。もし試験に落ちても気にしないように。人生というものは試行錯誤トライアル・アンド・エラーの連続だ。つまり失敗は成功の元、必要は発明の母ということである――」

 その声は部屋の前に据え付けられているスピーカーらしきものから、延々と流れ続ける。

 ――五柳先生(ごりゅうせんせい)の声じゃないか。

 肇の目は、その放送を聞いたアルファルドが、思いっきり不愉快そうな顔をして、部屋から出ていくのを見逃さなかった。

「君達は大いなる希望を持って、この試験に臨むべきだ。たとえその希望が怖れとは切り離せないものであっても――ぐぎゃあ」

 潰れたような悲鳴で一旦その放送が途切れる。代わりに聞こえてきたのは、地獄の底から響く低い声であった。

「貴様、余計なことを言っている暇があったら、さっさと試験を始めろ」

「……あいつらは一体何をやっているんだ」

 思わず頭を抱えて呻く恭平に、肇は同情に満ちた視線を向けた。


     *


「さて今回の実技試験だが、君達には私の最高傑作、クノッソスの地下迷宮に挑戦してもらうことになる。一番奥にある魔法具を取って、ここに戻って来られれば合格だ。この地下迷宮には君達を阻止するべく、要所要所に私のゴーレムが設置してある。このゴーレムは、受験者の魔術レベルに応じて、戦闘能力が変わるように設定されている。ちなみに、今回のゴーレムのデザインは、クノッソスのミノタウロス伝説になぞらえて牛頭人身の姿だ。我ながら鑑賞に耐えうるデザインだと思って――うぎゃあ」

「貴様はそれ以上喋るな」

「くっ……小僧め。(アレフ)の分際で、牛頭人身(ミノタウロス)を莫迦にするとは許せん」

 五柳先生(ごりゅうせんせい)こと、錬金術師高野淵明(たかのえんめい)とアルファルド・シュタインによる実技試験の解説は終始こんな調子で行われたので、試験開始時間は大幅に遅れてしまったのだが。

 要点を纏めると、実技試験の内容というのは、受験者は二人一組で、隔離空間に作成された地下迷宮に潜り、ゴーレムの妨害をかいくぐりながら、魔法具を持って帰ってくる、というものであった。

 試験監督である黒須恭平(くろすきょうへい)は、受験者たちを二人ずつにより分けてゆく。恭平は肇に近付いて、灰色の髪の男を指差し、耳元でこう囁いた。

「悪いが、お前は彼と組んでくれ。もし何かあっても、お前なら対処できるはずだ」

「黒須さん。じゃあ彼が例の祓魔師(エクソシスト)ということですか」

「ああ。何かあったら、これで連絡を頼む」

 恭平が肇の手に握らせたのは、黒い立方体の形をした機械じみた魔法具だ。それはいつかの悪魔探知機に似ていた。

「使い方は分かるか? ここのボタンを押しながら喋るんだ」

「分かりました」

 肇は了解の意を示すように、首を縦に振る。そして視線を灰髪の祓魔師(エクソシスト)のほうへと向ける。彼は筆記試験のときもずっと静かだった。どう考えても、師匠のほうが問題を起こしそうな雰囲気である。

 肇は軽く頭を下げて、彼に挨拶した。

「ええと、俺は今回一緒に組むことになる久住肇(くじゅうはじめ)だ。短い間だけど、よろしく頼む」

 灰色の髪をした男は顔を上げて、深い青色の瞳で肇のほうを見た。だが口は閉ざしたままである。沈黙に耐えかねた肇はもう一度彼に問うた。

「名前、聞いていいか?」

「……ナイジェル・ハーグリーヴス」

 大分間を開けて返答が返ってきたことに、多少の違和感を感じながらも、肇は頷いて見せた。


     *


 降り立ったそこは見事なまでの異空間だった。先程まで魔術組合(ギルド)支部にいたとは、とても信じられない。全体的に薄暗く、陰鬱な気配が漂っている。通路は広すぎずもなく、狭すぎずもなく、といった按配だ。数十メートルごとの石壁には、松明(たいまつ)が据え付けてあり、その篝火(かがりび)は幻想的に足元を照らし出していた。地下迷宮(クノッソス)の名に相応しく、方向感覚を狂わせるかのように、いたるところに曲がり角があり、どこか身体に纏わり付くようなじめじめした湿気は、歩くものの精神をじわじわと蝕んでゆく。

 ナイジェルと名乗った男は肇のすぐ前を歩いていた。肇は何度か彼と会話をしようと試みたのだが、続かなかった。寡黙な人物なのだろう、と勝手に納得してあっさりとその試みを放棄する。

 しばらく歩いていくと、ナイジェルは足を止める。突然彼が立ち止まったために、肇は思わずつんのめりそうになる。二人の眼前に立ちはだかったのは、大きな石像だった。

 ――これが五柳先生(ごりゅうせんせい)ご自慢のゴーレムか。

 確かに彼の言っていた通り、前よりもディティールに(こだわ)った造形であった。それは牛頭人身の姿をしており、手には両刃の斧を持っている。ゴーレムは、その巨体に似合わぬ速度で肇に襲いかかってきた。

「……っ!」

 肇は右に飛んでその攻撃を躱した。さてどうやって倒すか、などと考えているうちに、灰髪の男は肇に警告した。

「下がれ」

 そう言ってから、彼は呪文を紡ぐ。

「PRGEL TELOCH」

 灼熱の炎がゴーレムを包む。その炎は勢い良く燃えて、あっさりとゴーレムを溶かし尽くした。後には残骸すら残らない。肇は驚愕をもってその様を眺めていた。彼は汗を拭いながら、ナイジェルに礼を言う。

「ありがとう」

「いや」

 ナイジェルは目を合わせようともせずに、短くこう答えたのみである。このようにして、彼は圧倒的な強さでゴーレム達を瞬殺していった。肇の出番が無かったほどだ。そんなナイジェルの様子を見ながら、肇は大きく息を吐く。単に寡黙なだけで、特に危険人物とも思えない。そうやって迷宮のかなり奥まで進んだところで、新たなゴーレムが現れた。

 今までのゴーレムとは一味違う。どこが違うのかというと、同じ牛頭人身の姿をしているのだが、大きさが一回り以上も小さい。そして武器も違った。その手にある武器は湾曲した細身の剣である。

 そのゴーレムは地面を蹴って、ナイジェルに斬りかかる。疾かった。肇がその動きに気が付いたときには、もうその刀は、ナイジェルの肩を切り裂いていた。

「…………」

「おい、大丈夫か!」

 肇の気遣うような声にも、彼は反応しない。肇は舌打ちして眼前のゴーレムを睨み付けながら、風の刃をゴーレムの額にぶつけようとする。

 ――確か、額に書いてある右端の文字を消せばいいんだったか。

 以前淵明に教わった倒し方を試そうとするが、ゴーレムの動きがあまりに素早く、上手く当てることができない。肇がゴーレムから距離を取ろうと飛びすさったその時に。

 横から声が上がった。肇は思わずぎょっとして、ナイジェルの横顔を見つめてしまう。

「……くくく」

 彼は唇を歪めて哂っていた。目の色の青は不気味なまでに、冴え冴えとした輝きを放っている。彼の哂い声は、次第に大きくなっていった。

「ははははは! 魂のない土塊の分際でよくも僕を傷付けたものだ!」

 肇は、先程までとは全く違う彼の雰囲気に気圧される。

「父と子と聖霊の御名において、汝をこの世界から滅却する。疾く消え去れ」

 力ある言葉に応えるようにして、不可思議な現象が起こった。ゴーレムの輪郭が揺らめいて、その場から消え去ったのだ。それはどこか空間魔術の様相に似ていた。ナイジェルはゴーレムが完璧に消え去るのを確認すると、剣呑な視線を肇のほうに向けた。

「君も僕の敵か?」

 肇は面食らい、どう答えていいのか分からない。そこにいたって始めて、彼が悪魔憑きと呼ばれていたことを思い出した。この彼はさっきまでと別人と考えたほうが良さそうだ。

「俺はお前の敵じゃない。お前は……ナイジェルなのか?」

「ああ、確かに僕はナイジェル・ハーグリーヴスだ。君がその質問をするということは、君は彼と今まで話していたと考えるのが妥当か。彼と意思疎通ができる人間というのもなかなか希少なものだけれど、君はそうなのかな」

 ナイジェルが饒舌に喋る様子に驚きながら、肇は聞いてみる。

「彼って?」

「彼は、彼さ。熱風の悪魔、パズズ。僕と彼は共生関係にあるからね。本当に忌々しいことだが、彼が出ている間には、僕は思い切り暴れることはできないんだ」

 最後の言葉をいかにも残念そうに言うナイジェルに、肇は呆れ果てる。

 ――悪魔憑きの癖に、悪魔のほうが大人しいのか。

 黙ったままの肇に、ナイジェルはこう問い掛けた。

「で、君。悪いけれど状況説明を頼めるかな。ここはどこで、僕が何をしていたのか、とか」

魔術組合(ギルド)の位階昇進試験の試験会場で、今は試験の真っ最中だ。ちなみに俺はお前と組むことになった受験者で、久住肇(くじゅうはじめ)という」

 それを聞いたナイジェルは、悔しそうな顔をして地団駄を踏む。

「畜生。せっかく何の後腐れもなく、戦いを楽しめそうだったのに。あいつが出てたせいで、せっかくのチャンスが台無しだ」

 毒づくナイジェルを、肇はどこか疲れたような顔で眺めた。


     *


「父と子と聖霊の御名において、チェストぉぉぉぉぉ!」

 ナイジェルは地下迷宮中に響き渡るほどの声で叫んだ。彼の手にあったのは、銀色の刀身をした一振りの日本刀だ。彼は大地を蹴って跳び、牛頭人身の姿をしたゴーレムに斬撃を浴びせる。ゴーレムはその材質を全く感じさせずに、一刀両断された。その切断面は非常に滑らかで、まさに文字通り真っ二つである。

 そんな様子を肇はただただ呆けて見ていることだけしかできない。薩摩示現流かよ、と突っ込む気力すらおきない。彼は今まで持っていた祓魔師(エクソシスト)のイメージが、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じていた。

 二人が今いるのは、彼らが最初に降り立った、地下迷宮の入口に近い辺りである。

 折角地下迷宮の最奥部まで来ていたのに、ナイジェルが戻ってゴーレムと戦いたい、と突如言い出したために、引き返す羽目になったのだった。

「父と子と聖霊の御名において、天誅ぅぅぅぅぅ!」

 ナイジェルはばったばったとゴーレムを斬り倒していく。それを眺めながら、肇はつい呟いてしまった。

「……その刀、なんかいろいろ凄いな」

 ナイジェルは振り向き、小首を傾げてこう言った。

「僕の愛刀ミュルグレスのことか?」

 ――日本刀なのに銘は外国語なのかよ。

 肇はナイジェルの言葉に、小さく嘆息する。祓魔師(エクソシスト)が日本刀で戦っていていいのか。何でも父と子と聖霊の御名において、って言えばいいってものでもあるまい。

 ナイジェル・ハーグリーヴスの暴走は、それから数時間続いた。


     *


「……遅いな」

 魔術組合(ギルド)支部の一室で、こう呟いたのは黒須恭平(くろすきょうへい)である。他の受験者が全員、隔離空間から帰ってきているのにもかかわらず、肇とナイジェルだけがまだ帰還していなかったのだ。

「何かあったら連絡するように言ったんだろう? だから大丈夫だ」

 心配そうに考えを巡らせる恭平に、アルファルド・シュタインは楽天的な口調でこう言った。高野淵明(たかのえんめい)は、隔離空間との接点である魔法円の周りを、落ち着きなくぐるぐると回っている。

 しばらくした後に、魔法円に眩しい光が満ちていく。そこから現れたのは、疲労困憊した面持ちの肇と、それとは対照的に明るい顔をしたナイジェルだ。肇はふらふらとした足取りで、恭平に魔法具を渡した。

「一体何があった」

 恭平は厳しい顔付きをして肇に問い掛ける。それに答えたのは、肇ではなくナイジェルだった。

「ゴーレムを残らず殲滅してたら、ついつい遅くなってしまって」

 その言葉に愕然としたのは、淵明だ。彼はナイジェルに詰め寄るようにして尋ねた。

「あそこには百体以上仕掛けたはずだが? もしかしてそれを全部倒してしまったのか?」

「ああ」

 ナイジェルは実にあっさりとその言葉を肯定する。淵明は思わず呻き声を上げ、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。

「一から作り直すのは結構大変なんだぞ……」

 アルファルドはその様子を見ながら笑う。

「まあ、いいだろう。無事に終わったんだし」

 やれやれ、と深く溜め息を吐いて、恭平は試験の終了を宣言した。

「今日の試験はこれで終わりだ。結果は追って通達する」

 肇はただ頷いてそれを聞いている。もはや言葉を発する気力もない。全員がその場を立ち去った後に、彼はようやく家に帰宅する気になったのだった。


     *


「肇。どうしたの? どこか体調が悪そうに見えるけど」

 翌日の朝。肇は身体中に蓄積された疲労感が抜けないまま、城ヶ崎高等学校へと登校した。よろめきながら、ゆっくりと自分の席へと向かった肇に心配そうに聞くのは、彼の幼馴染、宮路悠(みやじゆう)である。

「いや、何でもないんだ」

 肇は手に持った鞄を机の上に置き、弱々しい笑みを見せた。悠は茶色の髪を弄りながら、ふうん、と相槌を打つ。それから何かを思い出すように、こう口にした。

「そういえば、今日英文法(グラマー)の小テストがあるんだけど、肇は勉強やってきた?」

 その言葉を聞いた肇の顔色は、みるみるうちに蒼白になる。訝しげに思ったのか、悠は身を屈めて、肇の顔を覗き込んだ。

「本当に大丈夫?」

「……いろいろあってすっかり忘れてただけだ」

 肇はがっくりと肩を落として、鞄の中から英文法(グラマー)の教科書を取り出した。

<蛇足以外の何物でもない何か:PART7>


○日本魔術組合(ギルド)支部の談話室。

   ティルは誰かを待つように、椅子に座っている。

   入口の扉が開いて、入ってくるのはアルファルド。

ティル「やあ、アレフ」

   ティルは迫力のある笑顔で、アルファルドを見据える。

   気圧されるように数歩後退さるアルファルド。

アルファルド「何だ」

ティル「この間、君はこのコーナーをさぼったよね? 君はこの話で出番が少ない人達のことを、少しでも考えたことがあるのかい?」

アルファルド「……いや、その」

   アルファルドは顔を背ける。

ティル「普通の話よりもちょい役がやたら多かったりするこの話で、しょっちゅう出られる君は幸運なんだよ! 僕なんかロンドン在住だから出番少なめだし!」

アルファルド「……悪かった」

ティル「分かったならいいんだ、分かったなら。じゃあ、名言ネタいってみようか。とは言っても今回はいつもより少なめなので、サブタイトルの解説でもしようかな」

アルファルド「サブタイトル?」

ティル「まあ、いつものごとく何のパロディかは知ってる人にはすぐ分かるんだけどね」

   そう言って、さらさらとペンでホワイトボードに文字を書くティル。


   "Rest in peace"(安らかに眠れ)


アルファルド「なるほどな。これはクリスチャンの墓碑によく刻まれる文句だ」

ティル「もともとこの文句はラテン語の"Requiescat in pace"を英訳したものなんだよね。たびたびRIPと略されたりなんかする」

アルファルド「最後の審判の日まで安らかに眠るように、という祈りが込められている言葉だな。実にキリスト教らしい考え方だ」

ティル「今回はテストの話だったけど」

アルファルド「相変わらず作者の悪ふざけは酷いからな……」

ティル「まあ、気を取り直して次行きますか」

   先程の文字の下に続けて文字を書き込むティル。


   "Tout le monde se plaint de sa memoire, et personne ne se plaint de son jugement."

   (誰もが自身の記憶力の欠如には不満を漏らすが、その判断力の欠如について不満を漏らすものは誰もいない)


アルファルド「これは冒頭の名言か」

ティル「これまでこのコーナーでたびたび名言を取り上げてきた訳だけど、それだけを書いている人は案外少なかったりするね。これは十七世紀のフランス貴族、ラ・ロシュフコーの『考察あるいは教訓的格言・箴言(しんげん)』から。彼は三銃士で有名なリシュリュー枢機卿と対立したりして、波乱万丈な人生を送った人だ。この本の箴言(しんげん)は、そんな彼の鋭い観察眼に満ち溢れている。ちなみに記憶を意味するフランス語、"memoire"の最初のeには´のアクサン記号が付くよ」

   言葉を切った後、ティルは続けて文字を書く。


   "L'esperance et la crainte sont inseparables."

   (希望と恐怖とは切り離せないものだ)


ティル「これも同じくラ・ロシュフコーの箴言(しんげん)から。希望を表す"esperance"の二番目のeと、不可分を表す"inseparables"の最初のeには´のアクサン記号が(略)」

アルファルド「……フランス語は本当に表記に困る」

ティル「全くだね」

   ティルは先程の文章を一旦消して、文字を書く。

 

   "In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti."

   (父と子と聖霊の御名において)


アルファルド「これも有名なキリスト教の祈祷文だな。これは三位一体(トリニタス)を表している。要するに父なる神、子なるキリスト、聖霊の三者は、一体にして不可分だということだ」

ティル「キリスト教の中心的教義そのまんまな文句な訳だけど、こういうのって、聖書には何となくしか書いてないんだよねえ」

アルファルド「新約聖書における四福音書のうち、これについて詳しく触れられているのは、一番成立年代が新しいとされるヨハネによる福音書だけだ。つまり、こういった考え方は後の年代になって成立した、ということになる」

   ティルは大きく溜め息を吐く。

ティル「……出たよ、例のマニアックな過去問。そもそも福音書って何なんだ、っていう人も結構多いと僕は思うんだけど」

アルファルド「キリストの生誕から復活までの話を、四人の人物(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がそれぞれ別の視点から書いたものだな」

ティル「同じ話をわざわざ違う人が書く意味って何なんだろうね」

アルファルド「同じ話だからこそ、書いた人の趣味が(にじ)みでていて楽しいんじゃないか? ルカなんかは十二使徒以外、例えばパウロのような人間は絶対に使徒として認めないっていう雰囲気がありありと出ているし。ヨハネは上記で見られるような神学語りが多かったりする。ちなみに、冒頭で触れられている放蕩息子(プローディガル・サン)の喩えはルカにしか書かれていない」

ティル「……それでいちいち話してたんだね、彼は」

アルファルド「ああ。作者の趣味だから、仕方がない気もするが」

ティル「さて。解説はこんなところかな」

アルファルド「今回はようやく肇が莫迦だってことが判明した話だったな」

ティル「でもルべーグ積分の素晴らしさについては、何時間でも語ることができるんだよねえ」

アルファルド「この間そのことについて肇に聞いたら、今までやっていた積分がリーマン積分だと気付いたときの衝撃について熱く語り始めたので、ちょっと焦った」

   呆れ果てた顔をするティル。

ティル「……なんて鬱陶しい主人公なんだ」

アルファルド「確かにな。じゃあ、もうそろそろ俺は帰るぞ」

ティル「そうだね。では、読者の皆様方! ここまで読んでいただいて」

アルファルド「どうもありがとうございました」

   二人が揃って礼をした後に、幕が降りる。

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