表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/21

[第十八話 ルーディ・アンド・ザ・ビースト]

l'homme n'est ni ange ni bete, et le malheur veut que qui veut faire l'ange fait la bete.

(人間は天使でも獣でもない。そして、不幸なことには、天使の真似をしようと思うと、獣になってしまう)

                                         ――ブレーズ・パスカル


「どういうつもりですか!」

 ロンドンの中心部にある魔術組合(ギルド)本部。その無機質な灰色をした廊下を、亜麻色の髪を長く伸ばした一人の女が、足音を響かせて歩く。

 彼女の名はソフィア・クウェルクス。緑なす深淵(グリーン・アビス)の二つ名を持つ、ケルトの魔術師、すなわちドルイドである。一見したところでは、年齢は定かではないが、魅力的な風貌をした魔女だ。その視線は彼女の前を歩く一人の長身の男に、真っ直ぐ向けられていた。彼女は声を荒げて、鋭くその男を呼び止める。

「もう一度考え直して下さい、神殿の首領(マジスター・テンプリ)

 神殿の首領(マジスター・テンプリ)。それは深淵を超えたものにのみ与えられる呼び名だ。

 かつて西洋の魔術師達が用いた位階制において、上から三番目に位置する位階。生身の肉体を持った人間には、絶対に到達不可能だと言われた位階。長い魔術史上でも、自らそれを名乗り、また周囲に認められた者は、アレイスター・クロウリーただ一人である。その位階名を、そのまま通り名として持つ男は、魔女の声に反応して、ゆっくりと振り向いた。深い青色の瞳をソフィアに向けて、苛立たしげに茶色の前髪をかきあげながら、こう口にする。

「しつこいな、君も。君の弟子を日本に行かせるのは、決定事項だ。リチャードとジョーズ・クリスもこの件に同意済みだよ。彼女があの魔女と接触しているのだから、当然だろう」

 ソフィアは凄まじい形相で、眼前の男を睨み付ける。

「あの子の年齢を、考えてやって下さい」

 責めるような彼女の言葉を、平然と受け流しながら、茶色の髪をした男は、極めて穏やかに答えた。

「彼女は位階VII(セプテム)。もう立派な魔術師だよ。魔術組合(ギルド)の任務を受けるのに支障はないだろう」

「それでも!」

 重ねて抗議の声を上げるソフィアを見て、茶色の髪をした男は呆れたように嘆息した。

「相変わらず過保護だな、君は。もうそろそろ弟子離れをしたらどうなんだ」

「大きなお世話ですよ、神殿の首領(マジスター・テンプリ)、ヘルムート・リドフォール」

 むっとした表情で、ソフィアは言い返す。ソフィアと会話しているその男の名をヘルムート・リドフォールという。

 それは、魔術師の中では、知らぬもののいないほどの有名な名前だ。その名はたびたび、畏怖と尊敬をもって口にされる。現在、世界で七人しか存在しない最高位(ウーヌス)のうちでも、もっとも優れた魔術師だと言われている魔術師。魔術組合(ギルド)の特別顧問にして、魔術結社、聖堂騎士団の首領。ソフィアは、憮然としながら、言葉を続ける。

「私は私の神に誓って、過保護ではない、と断言します」

「また大げさな。これだから、ドルイドというのは嫌なんだ。こんなくだらないことにいちいち神を持ち出すまでもないだろう?」

「あなたは、ドルイドの誓約(ゲッシュ)を一体何だと思っているんですか。いくらあなたといえども、それ以上言えば許すことはできない。それは私達の神を侮辱することと同じです」

「やれやれ。そんな君にこの証明を贈ろう。全ての真理を知る無矛盾な存在が神だ。ゆえに神は存在しない」

 どこかおどけたような口調で、ヘルムートは言った。

 その言葉を聞いたソフィアは、明らかに顔色を変える。彼女は俯いて、肩を震わせながら、忌々しげな顔をした。そうして。

背教者の獣ビースト・ジ・アポステイト

 亜麻色の髪をした魔女は、吐き捨てるように、言葉を口にした。

 それはヘルムート・リドフォールの蔑称の一つだ。

 かつてヴァチカンの祓魔師(エクソシスト)でありながら、それを辞めて魔術組合(ギルド)へと加入した、異端の魔術師である彼の蔑称。

 その言葉が魔女の口から発せられた途端、その場の空気はたちまちのうちに変容した。凍てつくような威圧感が辺りを包む。

 普通の魔術師なら、立っていることも難しいだろう。それほどの重圧。

 ヘルムートの容姿は、ごく平凡なものだ。だから何も知らずに、彼に初めて会った者は、彼が世界最高の魔術師であることに気付かない。

 だがその身から発せられる気配は――

「敬虔なカトリック教徒ならともかく、異なる神を奉じている君には、そう私を貶す権利はないはずだが」

 口調はあくまでも穏やかなままだが、目は少しも笑ってはいない。身じろぎすることすら許さない冷徹な視線に、ソフィアは気圧されて、思わず口を噤む。

 ヘルムートはその様子をしばらく眺めてから、肩を竦めた。

「そんなに心配なら、もう一人ぐらい誰か付けようか? あれは最近日本に入り浸っているみたいだし、ちょうどいいかもしれないな」

 そう言って、茶色の髪をした魔術師は、表情を柔らかくして、口元に笑みを浮べた。


     *


 黒髪の少年、久住肇(くじゅうはじめ)は、魔術の修行をするために学校帰りにアルファルドの洋館へと向かう。

 いつものように、自らの師匠の様子を(うかが)おうと、洋館の居間の扉を開けたところで。

 思わず声を上げてしまった。肇の師匠である金髪の魔術師は、ソファーの所で熟睡している。いや、それは実に見慣れた風景なのだが。予想外の人物が、そのすぐ傍らに座っていた。銀髪を黒いターバンで纏めた魔術師、ティル・エックハートである。

「あれ、何でティルがここにいるんだ?」

 ティルは肇の問いにひらひらと、手を振って応える。

「任務だよ、任務」

「任務?」

 片眉を上げて、訝しげに聞く肇に、ティルは呆れたような声を上げる。

「説明してないの? 彼。ほんっとに駄目な師匠だよねえ。ほとんど寝てるだけだし」

 それから口元に笑みを浮べて、こう続けた。

「任務ってのはね。魔術組合(ギルド)が、魔術組合(ギルド)に所属する魔術師に依頼する仕事のことだよ。ちゃんと、それをこなせば報酬も出る。位階III(トレース)以上の特級魔術師(エクス・ウィザード)は、一応任務を依頼されれば断ることはできないことになってる」

「なるほど」

 肇は、ようやく魔術師みたいな、摩訶不思議な職業の人間が、どうやって生計を立てているのか、分かった気がした。ティルは、寝ている金髪の魔術師を眺めながら、言葉を口にする。

(ウーヌス)ともなれば、任務なんかこなさなくても、収入はあるから生きていけるんだけど」

「ええっ? そうなのか」

 肇はつい驚いて叫んでしまった。初耳である。道理で、アルファルドがいつも寝てばかりでも、生活していけるはずだ。

「まあ、(ウーヌス)の中でもぐうたらしてるのは、僕の師匠とアレフの二人だけだよ」

 ティルは苦笑しながら、熟睡している金髪の魔術師のほうを見やった。

「で、任務なのに、ティルはここでゆっくりしていていいのか?」

「いや、相棒待ちなんだよ。今回の任務で、他の魔術師と組むことになっていてね。来るのに時間がかかるって言うから、ここで暇潰ししてるんだ」

「ふうん」

 肇は相槌を打つ。その直後、ばたん、と部屋の扉が開く音がした。もの凄い勢いで、走って来たのは、鮮やかなプラチナブロンドの髪の少女である。

 年は十二歳ほどだろうか、顔立ちはまだあどけなさを残している。その瞳は透きとおった水の色を湛えていた。

「すみません、遅れて! お待たせしました、ティル・エックハートさん」

 少女はそう叫んだ後に、目を丸くして肇のほうを見た。肇も思わず呆然と口を開けて、その少女をまじまじと見つめてから、こう漏らした。

「レネ?」

 ぽかんとした顔で、しばらく黙り込んでいた少女は、不思議そうに聞いた。

「あれ? どうして肇がここにいるの?」

「いや、だってここは俺の師匠の家だから」

「ええーっ!」

 部屋中に、甲高い少女の叫び声が響き渡る。

「ってことは、ここに災厄(ディザスター)がいるってこと?」

 傍でそのやり取りを見ていたティルは、ソファーのほうを指差す。

「ああ、そこで寝てる」

 ティルの言葉を聞いたレネは、文字通り固まった。そして首だけをゆっくりソファーの上で寝ている、金髪の魔術師のほうへと向ける。

「あれが、師匠の言う宇宙根源的恐怖」

 恐怖に慄きつつそう口にするレネに、肇は毒気を抜かれて脱力する。

「また随分と酷い言われようだな」

 肇は少しアルファルドに同情した。いくら何でも、そこまで酷くない気はする。

「まさか、君が彼女と顔見知りだとは知らなかったよ。肇も意外に顔が広いよね」

 ティルはやれやれ、といった風に、肇の顔を見つめた。

 その時、一連の騒ぎに反応したのか、それまでソファーの上で熟睡していた金髪の魔術師が、眠そうに目を瞬かせながら、身体を起こす。

「何だ、貴様等。五月蝿いな」

「起きた!」

 それを見たレネは、短く叫んで慌てて肇の後ろに隠れる。

 アルファルドは、肇の後ろから顔を出すプラチナブロンドの少女を見て、尋ねた。

「ところで、これは誰だ?」

幸運の四葉フォー・リーフ・シャムロック、レネ・テトラフォリウム。ちなみに、緑なす深淵(グリーン・アビス)の愛弟子だから変に手を出さないほうがいいよ。後が怖いから」

 レネは、アルファルドの寝起き特有の剣呑な視線を向けられて、身体をびくりと震わせる。

「全く。俺は貴様を取って食いやしないぞ。貴様の師匠は、俺のことをどう吹きこんだんだ」

 うんざりとした顔でアルファルドは呟き、ティルのほうへと顔を向けた。

「で、どうして貴様等はここにいる」

「いや、君の家で落ち合おうって、レネと約束してたんだ」

 あっさりと言うティルに、アルファルドは渋面を浮べる。

「人の家を勝手に待ち合わせ場所に指定するな」

「だってここ日本魔術組合(ギルド)支部に近いんだもの」

 ティルはへらへらと笑って答える。それをアルファルドは半眼で睨み付けた。

「貴様、さっきの問いに答えてないだろう」 

「だから、任務だって」

「任務? どんな任務だ」

 アルファルドは頬杖をついて、問うようにティルを見上げた。

魔術組合(ギルド)本部に保管されていた魔法具をある魔女から取り戻すこと。彼女、日本に逃げたらしくてね。転移魔術で飛んだなら、この近くにいる可能性が高い。この街の周辺は魔術師の密度が高いから。その魔女を捕まえるのが今回の任務」

「魔女って誰のことだ」

「ルーディ・ホワイト。無作法者のルーディ(ルードリー・ルーディ)の名で知られている魔女だ」

 アルファルドは考えを巡らすように、首を傾げる。

「聞いたことがないな」

「僕も知らなかったよ。レネは会ったことがあるみたいで、それでこの任務に指名されたらしい」

 一呼吸置いてから、更にアルファルドは問いを重ねる。

「で、彼女が持ち出したのは、どんな魔法具なんだ?」

「ソラトを喚起するための魔法具だとか、何とか。まあ眉唾かもしれないけど」

「ソラトだと? まさか」

 アルファルドは驚愕して目を見開く。肇はその様子を少し意外そうに眺めた。自身の師匠が、こうも驚くとは珍しい。

「ソラトって言うのは何のことなんだ?」

 アルファルドは、肇の問いに懇切丁寧に答えた。

「太陽の獣の名で知られる悪魔だ。いや、実際接触した人間は少ないから、悪魔と言っていいのかどうかも不明だな。古くは、コルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学デ・オカルタ・フィロソフィア』、第二の書に記述されている。数秘術(ゲマトリア)において、六六六の数価を持つことから、ヨハネの黙示録の獣と同一視されることもある」

 いかにも悠が好きそうな話だよな、と思いながら肇は黙って聞いている。

 アルファルドはティルへと視線を移して、こう続けた。

「しかし、あれを喚起したなんて話は聞いたことがないぞ。ほとんど伝説上の存在じゃないのか。ソロモン七十二柱みたく、扱いやすい悪魔ではないことは確かだろう」

「ソロモン七十二柱が、扱いやすいだって? そんなことを言えるのは、君だけだよ」

 呆れ果てた顔をして、ティルは金髪の魔術師を見た。

「しかし、貴様等はこんな所にいていいのか? その魔女を捕まえなければならないのだろう」

「大丈夫、大丈夫。慌てたって一つもいいことなんてないよ」

 ティルは極めて落ち着いた様子で、くすりと微笑する。そのすぐ側にいるレネものんびりしたものだ。

 ――大丈夫なのか、この二人が組んで。

 肇の心を一瞬、嫌な予感がよぎった。不安である。そこはかとなく不安である。せめて綾織さんぐらいのしっかり者が付いていてくれれば。二人を見回してから、小さく嘆息する。こうしていても埒が明かないので、肇は日課通りに、庭で魔術の練習をすることにした。


     *

 

 城ヶ崎市の住宅街。西の空はすっかり赤く染まっている。あらゆるものが影を長く伸ばし、夜の訪れを待つばかりの時間帯である。そんな中、夕陽を背中に浴びながら、たそがれるようにして道路の端のほうをとぼとぼと歩くのは、まだ年若い一人の魔女だ。

 その赤毛の色は、夕暮れの光で一層深みを帯びて輝いていた。

 彼女の名をルーディ・ホワイトという。彼女は顔を伏せて、誰に言うとでもなく小さく呟いた。

「何で、私こんなことしちゃったんだろう」

 茶色の瞳を泣きそうに潤ませて、ルーディは手に持った魔法具を眺める。魔術組合(ギルド)本部から、彼女が持ち出したものだ。それは黒い球体をしていた。その漆黒の色を見ていると、吸い込まれそうだと錯覚する。太陽の獣を喚起することができるという、伝説の魔法具。

「ほんと、莫迦みたい。道具の力を借りたって、一流の召喚術師(サマナー)になれる訳じゃないのに」

 彼女の位階は(クィーンクェ)上級魔術師(ハイ・ウィザード)であり、魔女としてはそう悪くはない。確かに彼女は精霊魔術師としては、十分なレベルに達していた。だが彼女が目指しているのは召喚術師(サマナー)だ。精霊や悪魔を喚起して使役することを得意とする魔術師。優れた召喚術師(サマナー)ならば、天使すら呼び出すことも可能だという。

 しかしルーディの場合、呼び出した存在が素直に彼女の願いを聞いてくれたことなどほとんどなかった。適性がないのだと周りの人間は言ったが、幼い頃から憧れてきたものを、そう簡単に諦めきれるはずもない。自分に出来うる限りの努力はしたつもりだった。人は言う。天才と凡人には努力では埋めようのない差があるのだと。本当に問題なのは、そこではない。凡人と凡人にさえなれないものの差のほうが、一層切実なのだ。

「どうしよう。やっぱり、魔術組合(ギルド)支部に出頭したほうがいいのかな」

 彼女は迷っていた。まだ間に合うかもしれない。今すぐ魔術組合(ギルド)にこれを返せば、罪は軽くなる。直に魔術組合(ギルド)は、自分に追手を差し向けるだろう。そうなってからでは遅いのだ。

「……よし、行こう」

 ルーディはしばらく考えを巡らせた後に、静かに決意した。そうして魔術組合(ギルド)支部へと歩を進めようとしたそのときに。

 どこからか声が響いた。

 ――我を呼べ。

「へっ?」

 ルーディは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。そうして辺りをきょろきょろと見回したが、その声の発生源はどこにも見当たらない。

 ――ここだ、ここ。

 それで、ルーディは自身の手の内にある、黒い球体が喋っているのだと気が付いた。まじまじと食い入るようにして、その球体を見つめる。

「もしかして、これが私に話し掛けてるの?」

 ――我を物扱いするとは、無礼な魔術師だな。

 憮然とした口調を隠しもせずに、声はルーディに語り掛けてくる。

「まさか、アガシオン?」

 アガシオン。それは使い魔(ファミリア)の中でも特異な形態のものを指す。魔術的存在たるスピリットを、魔法具の中に封じ込めたもの。アラビアンナイトなどでお馴染みのランプの精は、アガシオンの代表的な例である。

 ――そう呼ばれるのは癪に障るが。まあいい、我を呼べ。

「呼ぶって言っても、どうやって――」

 抗議しようとしたが、出来なかった。口が自分の思惑とは関係なく、勝手に動くのだ。ルーディは恐慌状態になる。

Samech(サメフ)Vav(ヴァヴ)Resh(レーシュ)Tav(タヴ)その徽章はイミ・エフォン・ト・カラグマフ・獣の名、(イ・ト・オノマタ・)もしくはトゥ・ティ・ティユー・イ・其の名の数字なり。ト・ナリト・モント・オノマトサ・トゥー 智慧はここにあり、オーデ・イ・ソフィア・エステン・心ある者はオー・エフォン・ヌーン・獣の数字をツィフィサト・ト・ナリト・数えよモント・ティ・ティユー

 その言葉を唱え終わると同時に、彼女の周囲を黒い霧が取り囲んだ。そしてそれは彼女の身体をゆっくりと侵していく。纏わり付くような不愉快な感触に、ルーディは絶叫した。彼女の叫び声が途絶えた後に、黒い霧も消失する。彼女の茶色であった瞳は、闇を思わせる黒色に変化していた。普段の彼女であったなら、決して見せないような不敵な笑みを浮べる。

 口元を歪めて、ルーディであった者はこう口にした。

「ふむ。やはり、久々の現世の空気はいいな。澄み渡っていて心地よい。さて、この宿主は、随分と仲間の魔術師に劣等感を抱いているようだが――彼女のためにも叩き伏せておいてやるか」

 そう言ってから、彼女は手にした黒い球体を、懐に収める。それから、地面を蹴り、重力をものともせずに空高く跳躍した。


     *


 久住肇(くじゅうはじめ)は、がっくりと肩を落としつつ、自宅への帰路へとついていた。辺りは夜の帳が降りて、既に真っ暗になってしまっている。彼は愚痴るようにぶつぶつと文句を言った。

「何なんだ、あいつらは」

 魔術の練習をしようと思ったのに、全然、これっぽちも進展しなかったのである。その理由というのは、ティルとレネの二人が、肇が精霊魔術を放つたびにいちいち細かく駄目出しをしてきたからであった。

「だいたい、任務で来たんじゃなかったのかよ。あの二人、すっかり遊んでるじゃないか。……俺で」

 考えるだに情けなくなってきたので、肇はそこで思考を中断することにして、ひたすら足を動かすことに神経を集中させる。

 そうやって、歩き続けていると、ふと、肇は背後から自分に向けられる視線に気付いた。

 肇は足を止めて振り返る。そこに立っているのは、赤毛の少女だった。取り立てて美人という訳ではないけれど、顔立ちにはどことなく愛嬌がある。

 彼女はその風貌に似つかわしくない、古臭く前時代的な口調で、問い掛けてきた。

「汝は、魔術師か?」

 以前も似たようなパターンで、道端で突如不審者に襲われた肇は、脳裏に素早く考えを巡らせる。

 こういう時の対処方法は――

 ――通常なら無視して通り過ぎるのが、最善の一手だ。けれども前はそれで失敗したんだったか。

 肇は誤魔化すように、顔面に笑みを貼り付ける。

「……俺は魔術師みたいな、いかにも怪しげな職業従事者ではありません。ええ、断じて。ただの一高校生ですから。失礼」

 そうして肇は軽く一礼し、くるりと踵を返して、足を早めてその場を立ち去ろうとするが。

 しばらく進んだ後に、赤毛の少女は驚くべきことに、肇の前に立っていた。

 ――いつの間に回り込んだんだよ。

 冷や汗を掻きながら、肇は眼前の少女を見据える。少女は肇へとその黒い瞳を真っ直ぐに向けてきた。

「いや、汝は魔術師だろう。気配で分かる。ここで行き会ったのも何かの縁だ。悪いが、我の力の試金石とさせてもらおう」

 言うや否や、少女は物騒な笑みを湛えて、攻撃を仕掛ける。その手にあるのは、彼女の瞳と同じ色をした黒い刀だ。

 ――問答無用か! くそったれ。

 少女の一撃を、肇は後方へと飛んで躱す。

 ――あれ、やってみるか。

 肇は思い立つ。ティルとレネに散々駄目出しされた四大精霊魔術のうち、自身の師匠であるアルファルドの最も得意とする属性。いくら肇であっても、詠唱なしで制御するのは、困難を極める。炎の精霊(サラマンダー)というのは、四大精霊でも扱いが難しい部類に属するからだ。増して攻撃に用いるともなれば、なおさらである。彼は、ゆっくりと呪文を言葉に乗せる。

「煉獄の炎よ。全てを灼きつくせ」

 逆巻くようにして、炎の手が少女へと伸びた。少女は目前に炎が襲い掛かろうというのに、余裕の表情である。

 少女は天に手を掲げて、勢い良く振り下ろした。ただそれだけで、燃え盛る炎が消失する。それから嘲笑うように、口元を歪ませた。

「ははは! 太陽の獣である我に、炎の攻撃が効くと思うのか」

 肇は顔を顰めて考え込む。太陽の獣。聞き覚えのある単語だ。そもそもティルとレネの二人は、それを喚起する魔法具を取り戻しに来たのではなかったか。

「もしかして――ソラトか?」

「左様。我のことをそう呼ぶ者は多い。だが我は自ら付けた、サウラシュトラという名のほうが気に入っているが」

 哂いながら、少女は次々と斬撃を繰り出す。疾風怒涛の連撃を、風の精霊の力を借りながら、肇は縦横無尽に跳んで避ける。

 だが。最後の一突きは肇の黒髪を掠め、数本の髪の毛が宙を舞った。

「っ!」

 肇は舌打ちする。少女の次の攻撃は、確実に自分を捉えるだろう。

 ――肉を切らせて、骨を断つ、か?

 そう彼が覚悟を決めた瞬間。闇を切り裂くように、輝く一振りの枝が赤毛の少女の足元に突き刺さった。

Fearn(フェーン)Dair(ダー)Muin(ミューン)! 彼の者に賢明なる加護を」

「オガム文字に木の枝……ドルイドか」

 バックステップで跳び退り、忌々しげに赤毛の少女は肇の後方を睨み付ける。

 その目線の先に佇むのは、鮮やかなプラチナブロンドをした少女だ。

 肇は息を吐いて呼吸を整えた後に、こう口にした。

「レネ! ありがたい、助かった」

 そう感謝の言葉を述べてから、肇は少し後悔する。これはもともとレネの仕事じゃないか。

 レネは肇に笑い掛けると、水色の双眸を問い詰めるように、赤毛の少女へと向けた。

「あなたは、無作法者のルーディ(ルードリー・ルーディ)よね。どうしてこんなことを」

無作法者の(ルードリー)、ね。そういう言い方をするから、彼女が傷つくんだ。だが、汝は知っているか? その言葉が古代インドの飛行船の技術解説書ヴィマニカ・シャストラでは太陽を増幅させる力を指すことを」

 赤毛の少女は挑発的な笑みを浮べて、高らかに叫んだ。

「我は太陽の獣。我が望みは、炎を拝する者(ザラスシュトラ)百の地域(サウラシュトラ)を統治することなり!」

 その叫びに応えるようにして、灼熱の炎が顕現した。レネは早口で呪文を詠唱しながら、杖を取り出して宙に素早く文字を描く。

Nion(ニーウン)Dair(ダー)Ur(ウアー)! この大地に結界を」

 レネと肇に襲い掛からんとしていた炎は、何かに遮られるようにして消える。その様子を見た肇は、すぐ隣にいるレネに尋ねた。

「結界を張ったのか」

「ええ。やっぱり住宅街で、そのまま魔術戦をするのはまずいもの。しかし、ルーディはソラトに身体を乗っ取られているようね」

「そんなことがありうるのか?」

 眉を難解に寄せて肇が問うと、レネは表情を曇らせた。

「私は召喚術師(サマナー)じゃないから、詳しいことは分からないけれど、悪魔の喚起に失敗した場合、まれにこういうことが起こるらしいの」

「じゃあ、ソラトを倒そうとすれば、そのルーディって魔女も傷付くってことか」

 喋っている二人を眺めながら、赤毛の少女は唇を吊り上げる。肉食獣を思わせる獰猛な表情のまま、こう呟いた。

「その通りだ。我がダメージを受ければ、それをそのままルーディも受けることになる。汝等にそれができるのか」

 試すような響きの赤毛の少女の声。

 思わずレネと肇は黙り込んでしまう。

 その問いに対する返答は思わぬ所から返ってきた。赤毛の少女の背後に姿を現したのは一人の人物。

「僕はその魔女のことを何にも知らないから、彼女がどうなろうと僕には関係ないね」

 にべもなく言い放ったその声の主は、長い銀髪に、黒いターバンを巻きつけている。

「真打は一番最後に登場するものだって、相場が決まってるんだよ」

 ティル・エックハートは、自信たっぷりにこう宣言した。


    *


「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」

 ティルは通る声で朗々と呪文を唱えた。彼の手に生じたのは、一振りの透き通る刃。光を反射しない闇の中では、その刀身は一層見え辛い。

 ティルは地を蹴り、一息で距離を詰める。赤毛の少女は黒い刀でもって、それに応戦した。剣戟の音が甲高く響き渡る。赤毛の少女はティルの攻撃を見極めようと、目を細めた。それから、彼女は黒い刀を構えたまま、後方へと跳んで、間合いを広げようとする。

 ティルは追うように、何も躊躇いもなく踏み込んで、赤毛の少女へと刃を向けた。

 斬り下ろした切っ先は、確実に赤毛の少女を捉えている。

 戦う二者を眺めながら、肇は横に立つレネに尋ねた。

「いいのか、手伝わなくて」

「私がどうこうできるレベルじゃないもの。かえって邪魔になるわ」

 そういうものか、と肇は首を傾げる。そういえばティルは師匠に完勝したことがあったっけ。

 視線を戻すと、ティルの氷の刃を、赤毛の少女は、黒い刀を立てて受け止めていた。彼女の赤い唇が、優美に弧を描く。

「人間の魔術師にしては、なかなかやるじゃないか。だが、その刀は所詮氷。炎の力を借りれば容易に融けよう」

 そう言って、黒い刀で氷の刃を受け止めたまま、呟いた。

「我が眷属よ。盟約に従いて、彼の者を滅却せよ」

 炎が蛇のようにうねって、氷の刃を包み込んだ。それが瞬く間に水へと変わり、蒸発していくのを、哂いながら見つめて、少女は漆黒の刀身を振り下ろす。その刃先はティルの目前、ぎりぎりのところで止まった。

 刀の柄を持つ赤毛の少女の手は、わなわなと小刻みに震えている。

「身体が動かん。汝は一体何をした!」

 凄まじい形相で、歯軋りをしながら、赤毛の少女はティルを見据えた。

 ティルは笑う。まるで悪戯が成功した子供のように、人の悪い笑みで。

「残念だったね。氷の刃はフェイクだよ」

 柔和な笑みを浮べたまま、ティルは詠唱した。

「神は我が内にあり、故に世に神はなし」

 詠うような声で、ゆっくりと、銀髪の魔術師は言葉を紡いでいく。

「すなわち、我が声の前では一切が無力と化す――真実の力によりて、(ウィー・ウェーリー・)我は生ける間、(ウーニウェルスム・)森羅万象を制覇せり!ウィーウス・ウィーキー

 その言葉が終わると同時に、赤毛の少女に劇的な変化が訪れる。彼女は顔を苦悶に歪ませて、呻き声を上げた。

「くっ、に、人間のくせに、我に抗うというのか」

 彼女は地面に手を付き、くずおれるようにして倒れ込む。

 その拍子に懐から転がったのは、黒い球体だ。黒色だった瞳の色が徐々に薄くなっていき、彼女の身体の中から、何か黒い霧状のものが現れる。

 そうして、それは再び彼女のほうへと向かっていった。いや、それは黒い球体に吸い込まれたのだ。

 赤毛の少女は目を泳がせて、辺りをきょろきょろと見回す。

「あ、れ……」

 そんな彼女に、強く呼びかけるのはレネだ。

「ルーディーさん、大丈夫ですか?」

「え、ええ」

 ルーディは、目をぱちくりとさせた後、レネの声に反応するように首を縦に振った。

「レネ? どうしてここにいるの?」

「任務。あなたがその魔法具を持ち出したって聞いたから」

 簡潔に答えると、レネは転がっている魔法具を、身を屈めて拾い上げようとする。その様子を見たティルは、制止の声を上げた。

「待つんだ、レネ。ソラトはまだそこ(・・)にいる」

 ――よく分かったな。

 嘲笑うような声が周囲に響き渡ると、黒い球体から再び黒い霧が噴き出した。それは凝集して球状になると、レネへと飛んでいく。

 レネは杖を掲げて、払い除けようとするが、間に合わない。

 その時、ちょうど一陣の風が、黒い霧を勢いよく吹き飛ばした。その魔術を放ったのは肇である。

「レネ!」

 肇はレネの側に急いで駆け寄った。レネは笑みを浮べて肇に頭を下げる。

「ありがとう」

 笑顔を向けられた肇は何だか照れくさくなって、目線を逸らした。

 ティルは一つ溜め息を吐いてから、呪文を詠唱する。

「我が命により、彼の者を拘束せよ」

 霧が黒い球体へと戻ったのを眺めてから、ティルは魔法具を手にして、こう口にした。

「やれやれ、とんだ魔法具だね。これはソラトを喚起する魔法具ではなくて、ソラトを封印した魔法具だったんだ。そんな凄まじい魔術師が魔術組合(ギルド)にいたことが、驚きだよ。しっかし封印は確かになされているはずなのに、どうしてこんなにこいつは自由に動けるんだ?」

 その魔法具は、若干自嘲気味に言葉を発する。

 ――いみじくも炎を拝する者(ザラスシュトラ)がこう言ったように、人は深淵に架けられた、一本の綱なのさ。ちょっとしたきっかけさえあれば、そこから転落するのは非常に簡単なことだ。その行為が意識的にしろ、無意識的にしろな。我は人がそういうぎりぎりの精神状態のあるときに限って、我を解放するように仕向けることが可能だ。人が我を求めたときにのみ、我はこの魔法具から自由になれる。封印した魔術師も、我を制約なしで閉じ込めることはできなかったらしい。

「何て厄介な代物なんだ。こんな魔法具を普通に置いていたら、駄目だろう。明らかに魔術組合(ギルド)の管理不行届じゃないか」

 肇はうんざりした顔で、ティルの手の内にある魔法具を見つめた。

「確かに。ルーディは当然、罪に問われるだろうけど、ちょっと気の毒だよね」

 ティルも頷きながら、肇の意見に同意する。

「私からもルーディさんの罪を軽くするように、師匠に頼んでみます。一緒に来てくれますよね」

「ええ。最初からそのつもりだったし」

 ルーディはレネへと晴れやかに笑いかけた。

「さて、これ持ってかなきゃならないし。レネ、結界解いて帰るよ。ああ、肇。アレフによろしく言っておいてくれ」

 銀髪の魔術師は颯爽と身を翻す。それを慌てて追うのはレネとルーディの二人だ。現れたときと同じように、鮮やかに立ち去る彼等を、肇は少し呆れたように見送ったのだった。


     *


「失礼いたします」

 ティル・エックハートは非常に彼らしからぬ言葉遣いで、こう言った。ここは、ロンドンの中心部に位置する、魔術組合(ギルド)本部の一室だ。顔を上げて、その言葉に答えたのは、茶色の髪をした魔術師だった。神殿の首領(マジスター・テンプリ)、ヘルムート・リドフォールである。

「わざわざ、日本まで行ってもらって済まなかったな」

「いえ、そんなことは」

 ティルはかぶりを振って、あくまでも丁重な態度を崩さない。彼をよく知っている者がこの様子を見れば、驚くのは間違いないだろう。何しろ、掛け値なしに、世界の魔術師達の頂点に立つ存在が目の前にいるのだ。普段、傍若無人な彼も変わろうというものである。

「ここに、ルーディ・ホワイトが持ち出した魔法具を持ってきたのですが――」

 ティルは懐から魔法具を取り出して、ヘルムートに示す。

 それを眺めたヘルムートは愕然として、その青色をした瞳を大きく見開いた。ティルは一旦言葉を切って、訝しげにヘルムートの顔を覗き込む。

「どうしました?」

 ティルは大変珍しいものを見た、と思った。ヘルムートがこんなにも感情を露にするとは、意外である。いつも余裕の表情を浮べてにこやかに容赦ない皮肉を浴びせる、というのがティルの抱いていた彼のイメージだったからだ。

「いや、なんでもない。その魔法具は後で私が処理しよう。その机の上に置いておいてくれないか。細かい報告はもういいから、下がれ」

 ティルはヘルムートの様子を不審に思いながらも、言われた通りにして、部屋から退出する。ヘルムートはティルが出ていったのを確認してから、大きく頭を振り、嘆息しながらこう呟いた。

「……若気の至りだな。今更になって、自分の過去の汚点を見せられるとは思わなかった。しかし、詐欺師(トリックスター)を付けて本当に正解だったよ。彼女に何かあったら、後でソフィアに殺されても文句は言えん」

 彼は机の上にある魔法具へ、ゆっくりと視線を向けた。それから、封印されている獣を、解き放つ呪文を言葉にのせる。

「汝が長く深淵を覗き込むときには、その深淵もまた汝を見つめているのだ」

 黒い球体は、ぱりんと盛大に音を立てて割れた。その中から現れたのは、二本の角を持つ黒い獣だ。その姿形は獅子に似ており、たてがみだけが燃え盛る炎の色をしている。その獣は闇色の瞳を剣呑に吊り上げて、魔術師を見据えた。

「どういうつもりだ。我を封印しておいて完全に解放するとは!」

 茶色の髪をした魔術師は、薄く笑って見せる。異界の深淵を思わせる青色の瞳が、凶悪に輝いた。威圧するような視線を向けられた黒い獣は、思わず口篭ってしまう。魔術師はきわめて穏やかな口調で、物騒な内容を口にした。

「昔ならともかく、今の私なら君を完全にこの世界から消し去れるからな」

 ヘルムートは、天高く手を掲げて、短く詠唱する。

「去れ、彼岸の彼方へ」

 部屋中に派手に響き渡ったのは、獣の咆哮だ。それもしばらくした後に止む。後に残されたのはただ静寂のみ。実にあっさりと黒い獣はその部屋から姿を消したのだった。

<蛇足以外の何物でもない何か:PART6>


○日本魔術組合(ギルド)支部の談話室。

   肇は椅子に座って本を読みながら、時間を潰している。

   入り口のドアが盛大な音を立てて開く。入ってきたのはティル。

   彼は意外そうな顔をして、肇のほうを見る。

ティル「あれ? 何で肇がここにいるわけ?」

肇「師匠が出るの面倒臭いから、代わりに自己主張しておいたら、だってさ」

ティル「っていうか、君一応主人公じゃないか! 毎回出てるし、いちいち自己主張する必要もないんじゃない?」

肇「……今回の話じゃ、どう考えてもティルのほうが大活躍だった気がするんだけど」

ティル「そ、そうかな」

   ティルはいかにも気まずそうに、視線を宙に泳がせる。一瞬の沈黙。

ティル「さて、今回も名言ネタ、行ってみよう!」

肇「……誤魔化したな」

ティル「何か文句ある?」

肇「いえ、なんでも」

ティル「とは言ってはみたものの、今回は結構ややこしいネタが多いんだよね。まず冒頭の名言だけど、考える葦で有名なブレーズ・パスカルの『パンセ』から。彼のことはいくら肇でも知ってるよね」

肇「莫迦にするな、ティル。円錐曲線の定理のパスカルだろう」

   呆れたように肇を見返すティル。

ティル「……君に数学者の話題を振ると、こう返ってくるのは予想できてたけどね。彼は神学者や哲学者としても一流で、『パンセ』はどっちかっていうとそっち関連の本だ。ああ、獣を現すフランス語の"bete"の最初のeには、本当は^のアクサン記号が付いてるから」

肇「また文字が出なかったんだな」

ティル「まあね。ちなみにフランス語の"bete"は酷い罵倒語なので、フランス人に対しては絶対に使わないように」

肇「普通、フランス人の知り合いはいないと思うけどな」

ティル「何言ってんの! 某伝説の錬金術師がいるじゃないか」

肇「……そう言えば、そうだったな」

   ティルは咳払いして、真剣な顔で続ける。

ティル「さて、問題なのは次だ。これは証明だから、もはや名言と言っていいのかも不明だよね」

肇「そう、全ての真理を知る無矛盾な存在が神だ。ゆえに神は存在しない」

ティル「アレフが来たがらなかった理由が分かった気がする。これは肇の得意分野だ」

肇「これは無矛盾、という言葉から分かるように、ゲーデルの不完全性定理の応用だ。つまり自然数論において、ある公理系が無矛盾であれば、その公理系は自身の無矛盾性を立証できない。すなわち、神が全知であるということを前提とすれば、自然数論における無矛盾性を立証できないことになり、全ての真理を知ることは不可能になる。ゆえにそのような神は存在しない」

ティル「意味がよく分からないので、その辺で止めてください」

肇「カントールの対角線論法を引き合いに出したほうが分かりやすかったかな」

ティル「いや、どちらにしろ意味不明だから」

肇「これはパトリック・グリムという人が、一九九一年に行った証明だな」

ティル「よく考えてみれば、これは別に神の存在自体を否定してる訳じゃないんだよね。神が全知であることを前提とするならば、それは人間の認識の及ぶものとして存在するはずがない、って言ってるだけで」

肇「しかし、この言葉の響きは、結構危険な感じがするな」

ティル「確かに。これって実はパスカルの考え方に結構近いと思うんだ」

肇「どういう意味なんだ?」

ティル「パスカルはね、神が存在しないよりも、存在するほうに賭けたほうが、圧倒的に優位だと理性では分かっているんだけど、神を感じるのは心情であって、理性ではない、それが信仰というものだって言ってたんだよ」

肇「……ある意味悟りの境地に達してるな」

ティル「今回の話でこれを喋っているのが、深淵を超えてる神殿の首領(マジスター・テンプリ)だから、どうしても無神論者の戯言に聞こえてしまうんだよねえ」

   不思議そうな顔をする肇。

肇「神殿の首領(マジスター・テンプリ)って、一体何のことだ? 何だか聞き覚えのある単語の気がするんだけど。それに深淵を超えるって?」

ティル「今回のテーマは獣、ということで、アレイスター・クロウリーの話が少々絡んでくるんだよ」

肇「その名前は知ってるよ。悠がしょっちゅう話してたから。たしか二十世紀を代表する有名な魔術師の名前だよな」

ティル「彼は良い意味でも、悪い意味でも、凄まじい人物だからね。すごくぶっ飛んでるというか」

肇「……酷い言い方だな」

ティル「まあ、軽々しく扱ってはいけない魔術師の名前ナンバーワンだね、たぶん。彼は自らヨハネの黙示録の獣を名乗ってたんだ」

肇「六六六の獣の数字のことか?」

   嬉しそうに頷くティル。

ティル「そうそう。よく知ってたね」

肇「悠がこの間話してたから」

ティル「次の名言ネタはこれなんだよね。作者によれば『前回と同じく、日本聖書教会の舊新約聖書きゅうしんやくせいしょの文語訳を若干改変させていただきました』だって」

肇「これって聖書の話なのか」

ティル「そうだよ。ギリシャ語なので、当然新約聖書。その一番最後にあたるヨハネの黙示録でもっとも有名な部分だ。その徽章は獣の名、もしくは其の名の数字なり。智慧はここにあり、心ある者は獣の数字を数えよ――ってね」

肇「この数字が六六六ってことか」

ティル「うん。多くの人がこの数字の意味を読み解こうとしてきたけど、一番有名な説はローマ皇帝ネロを指すって説だね」

肇「……ようやく第四話の悠の話が理解できた」

ティル「今回の話では、中世ドイツの魔術師コルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学デ・オカルタ・フィロソフィア』に記述がある、太陽に対応するソラトを六六六の獣としてるんだけど――」

   そこで考え込むような表情をするティル。

肇「どうしたんだ?」

ティル「いや、アグリッパとクロウリーの話が出たんで、第四話の悠の犬の名前の話に関する説明でもしようかな、と」

肇「犬の名前?」

ティル「彼女、犬ならいい名前がいっぱいあったんだけどね、って言ってたでしょ」

肇「ああ、メフィストフェレスとかなんとか」

ティル「メフィストフェレスは、ゲーテの『ファウスト』等で有名な悪魔だ。後でファウスト絡みの名言ネタがあるので、ちょうどいいかもしれない。ゲーテの話で最初に登場したとき、彼は犬の姿をしてたんだよ。ちなみに、ムッシューはアグリッパの、エセルドレーダはクロウリーの飼い犬の名前なんだ」

肇「悠のネーミングセンスって一体……」

ティル「肇も人のことは言えないと思うよ」

   肇は眉を顰めてティルのほうを見る。

肇「で、神殿の首領(マジスター・テンプリ)の意味について、全く解説してない訳だけど」

ティル「これは黄金の夜明け(ゴールデン・ドーン)を始めとする近代西洋魔術結社の位階制において、上から三番目に位置する位階だ」

肇「上から三番目なのに、どうして凄い位階みたいに書かれているんだよ」

ティル「この位階制は十段階に分かれていて、カバラにおける生命の木(セフィロト)上の十の球体(セフィラー)にそれぞれ対応してる」

肇「ぜんっぜん、意味が分からない」

ティル「まあ、仕方がないよね。ここに生命の木(セフィロト)を描く訳にもいかないし。生命の木(セフィロト)は前回の話でも少し触れられていたように、人間が神性へと到達する道程を、図形で示したものだ」

肇「その図形と、神殿の首領(マジスター・テンプリ)の話に何の関係があるんだ」

ティル「生命の木(セフィロト)は神性へと到達する道程を、四つの世界に分類してるんだよ」

肇「四つの世界?」

ティル「表現の世界、アッシャー。形成の世界、イェツィラー。創造の世界、ブリアー。そして、根源の世界、アツィルト」

肇「それがどうかしたのか」

ティル「表現の世界、アッシャーが一番人に近く、根源の世界、アツィルトが一番神に近い世界とされているんだけど。創造の世界、ブリアーと、根源の世界、アツィルトの間には、超えがたい壁があるんだ。生身の肉体を持った人間には超えることが不可能な壁がね」

肇「もしかして、それが深淵ってことか」

ティル「そう、よく分かったね。神殿の首領(マジスター・テンプリ)が対応してる球体(セフィラー)、ビナーは深淵を超えた根源の世界に存在する」

肇「でも、生身の肉体を持った人間には到達不可能な位階なのに、作中にはアレイスター・クロウリーが名乗ったって書いてあるのはどういう訳なんだ」

ティル「まあ、言ったもの勝ちっていう側面もあるから。彼はエノク語の召喚歌で天使を呼び出すことに成功したときに、神殿の首領(マジスター・テンプリ)に達したと思ったらしい」

肇「……何となく師匠でも深淵を超えられそうな気がしてきた」

ティル「前々回の話では、呼び付けてもいないのに天使が来てたからね」

   苦笑するティル。それからホワイトボードに向かって文字を書く。


   "Vi veri veniversum vivus vici." (真実の力によりて、我は生ける間、森羅万象を制覇せり)


肇「で、この文句は何だ? そもそも何語なのかも分からないな」

ティル「ラテン語だよ。僕の座右の銘。で、この文句はファウストの言葉だとよく言われているけど、実は典拠不明」

肇「……典拠不明って。そんな適当でいいのか」

ティル「ファウスト博士を題材にした作品を書いた、マーロウにもゲーテにも、またその元ネタになった伝記にも載ってないんだ。アレイスター・クロウリーは、神殿の首領(マジスター・テンプリ)としての魔法名に、これを用いた」

肇「魔法名ってそんなころころ変わっていいのか?」

ティル「出世魚みたいなものだから。位階が上がると魔術目標も変わるってことじゃない?」

肇「そういうものか」

ティル「そういうものだよ。で、クロウリーは、この文句を黙示録の獣と関連付けたんだ」

肇「全く関係なさそうに見えるけどな」

ティル「よく見てみなよ。頭文字にVが五つ並んでるよね。数秘術(ゲマトリア)風に解釈すれば、Vはヘブライ語の六番目の文字Vav(ヴァヴ)を表しているから、六が五つ並ぶことになる。これは獣の数字を連想させる。さらにVという文字の形は、二本の角を持つ獣の姿に似ていて、黙示録の獣の描写に一致している」

   どこか疲れたように、肇は嘆息する。

肇「どう考えても、こじつけだろう、それ」

ティル「どっちかって言うと、駄洒落っぽい気もしないでもない。で、次の名言ネタはこれ」

   先程の文字を消して、文字を書くティル。


   "Der Mensch ist ein Seil, geknuepft zwischen Tier und Uebermensch,

   (人とは獣と超人の間に張られた、一本の綱である)

    ――ein Seil ueber einem Abgrunde."

   (――深淵の上に架けられた、一本の綱だ)


肇「ドイツ語みたいだけど、よく分からないな。一体何なんだろう」

ティル「ソラトが言ってたじゃないか。炎を拝する者(ザラスシュトラ)がこう言った、って」

肇「……意味が分からないんだけど?」

ティル「しょうがないなあ。ザラスシュトラとは、ペルシャ起源の宗教、ゾロアスター教開祖のゾロアスターのことで、ドイツ語読みすれば、ツァラトゥストラだからね。ここまで言えば分かるでしょ」

肇「分かった。神は死んだ、の人だ」

ティル「そうだよ。これは一九世紀ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』から」

   ティルは続けて、流麗な筆致でホワイトボードに文字を書く。


   "Wer mit Ungeheuern kaempft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.

   (怪物と戦う者は、その際に自らが怪物にならないように心せよ)

    Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."

   (そうして、汝が長く深淵を覗き込むときには、その深淵もまた汝を見つめているのだ)


ティル「これも同じくニーチェの『善悪の彼岸』から」

肇「やれやれ、やっとこれで終わりか。今回は随分長かったな」

ティル「他に言うことは何かないの?」

肇「どういう意味だ」

ティル「ここまでわざわざ読んでいただいている読者の方に、オチを提供しようというサービス精神はない訳?」

肇「……狙ってできるのか、それって」

ティル「もう、君って主人公の癖にてんで駄目だよねえ。ああ、これを言うの忘れてた。ソラトがインド/ペルシャ起源の獣っていうのは作者の妄想だから、信用しないように」

肇「…………」

   何故か暗い顔で沈黙している肇。ティルはそれを訝しげに見やる。

ティル「どうしたのさ」

肇「やっぱり、俺にはオチを提供することはできそうもない」

ティル「もういいよ。ほら、頭を下げる!」

   ティルは、肇の頭を手で無理矢理押さえて、頭を下げさせる。

ティル「さて、実に長い話を聞いていただいて、本当にありがとうございました!」

   ティルが深々と礼をした後、ゆっくりと幕が降りる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ