表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/21

[第十六話 天使等の力学的理論 後編]

 アルファルドは、後ろ手に縛られている両手を動かして、ロープの(いまし)めから抜け出そうとしていた。数分間格闘した後に、ようやく左手が抜ける。それから後は早かった。右手を素早く抜き、足のロープを順番に解いていく。立ち上がって、服に付いた埃を払い、足元の魔法円から出た。部屋の入り口の扉に近付いて耳を澄ませる。部屋の外から声は聞こえない。扉の把手に手をやると、予想通り鍵は閉まっていた。アルファルドは息を大きく吸い込んで、肺に空気を充たした。それから全力で叫ぶ。

「永劫の炎よ。灼熱の業火よ。灼きつくせ!」

 その言葉に応えて灼熱の炎が扉を包む。扉は跡形もなく、燃え尽きた。

「ああ、すっきりした」

 アルファルドは部屋から一歩外に踏み出す。部屋の外は長い廊下だった。異常に気付いたのか、誰かがここに近付いて来る気配がする。アルファルドは慌てて廊下を走った。その突き当たりのところに大きな窓がある。アルファルドは、窓を開けて外を見た。暗くてよく見えないが、地面はおそらく遥かに下だ。彼は意を決して窓から飛び降りる。

「空を渡る精霊よ。我に力を」

 風の力が、重力に逆らってアルファルドの身体を支える。彼はふわりと地上に降り立った。それから振り向いて、自分が閉じ込められていた建物を眺める。それは、山の中に打ち捨てられた、古いホテルだった。その白壁はところどころ剥落して、放置されて大分経つのだろうと推測できる。アルファルドはその建物に背を向けて、走りだそうとしたが。

 その頭上から、声が掛かった。

「困るな。悪いが、今君に好き勝手されては、非常に困る。どうして大人しくしてくれないのか」

 翼を広げて、宙に浮いていたのは、例の金髪の天使だ。彼は眼光鋭くアルファルドを見下ろした。

「殺されるのが分かっているのに、黙って閉じ込められている莫迦がどこにいる」

 アルファルドは不機嫌な口調で言い返す。そう言いながらも、アルファルドは頭を素早く回転させて、この天使を出し抜く方法を模索していた。一度アルファルドはこの天使に敗北している。音の魔術にやられたのだった。あれを使われると厄介だ。彼は囁くように呪文を呟いた。

「大いなる精霊よ。我を害するものを遮断せよ」

 あらかじめ、防護魔術を自らに掛けておく。これである程度の魔術は、弱めることができるはずだった。天使を真正面から睨み据えると、大地を叩くように蹴って、攻撃を仕掛ける。

回転するは炎の剣ラハット・ハヘーレヴ・ハミトゥハペヘット

 虚空から現われるのは、一振りの炎の剣。それを宙に浮く天使に向かって、思い切り投げつける。天使はそれを難なく躱して、呪文を呟いた。

「NIISA. AVAVAGO PERIPSOL」

 金髪の天使が手を振り下ろすと、雷撃が地に落ちる。防護魔術のお蔭で何のダメージもない。

「風よ」

 アルファルドは小さく呟いて、風を身に纏う。天使のように、自在に空を飛び回ることはできないが、これである程度は滞空することができるはずだった。

「NIISA. PRGEL TELOCH」

 天使は間髪入れず空から無数の炎を降らせてきた。アルファルドはそれを避けた後に、叫び声を上げて大きく跳躍する。

「来たれ、虐殺の剣(テヴァフ・ヘーレヴ)

 アルファルドの手の内に、緑色に燃える炎の剣が出現した。それを渾身の力で天使に向かって振り下ろす。その一撃は、金髪の天使の羽根をわずかに掠った。だが天使は微塵も動揺を見せず、冷淡な赤い瞳で、魔術師のほうを見返した。

「ふむ。そろそろ、か」

 その様子に違和感を感じたアルファルドは、攻撃の手を緩めて、聞き返す。

「何が、そろそろなんだ?」

「君の大切な人間達が、もうすぐここに来る」

 金髪の天使は口元に笑みを浮かべて、地面に降り立った。その指は宙に四角く輪郭を描く。その輪郭の内側が、陽炎のように揺らめいて、映像を映し出した。

 そこに映し出されているのは、アルファルドのよく見知った顔だ。ターバンを巻いた銀髪の魔術師に、黒ずくめの死霊術師ネクロマンサー。黒いドレスを着た人形使いの魔女に、黒髪をした年若い少年。四人は会話をしながら、山道を進んでいるようだった。

「さて。この道のもう少し先に、私の部下が罠を仕掛けている。気が付かなければ、確実に死ぬ類の罠だ。君が大人しく私にもう一度捕まれば、彼等の命は、助けよう」

 アルファルドは歯噛みして、眼前の天使を睨み付ける。

「そんな卑怯な手を使うのは、天使にあるまじき行為じゃないのか?」

 その言葉に、金髪の天使は意外な反応を返した。

「私を裏切った君がそれを言うのか!」

 激昂した天使は、今にもアルファルドを射殺さんばかりの視線を向けて来る。

 アルファルドは、ふと気付いた。この天使が見ているのは、自分ではなく別の誰かだ。自分の持つ膨大な記憶の中に潜む別の誰か。頭痛がする。激しい眩暈に襲われて、アルファルドは頭を押さえ、(うずくま)った。

 我知らず湧き上がってきた言葉に、自分でも驚愕する。

「違う、お前(・・)を裏切った訳じゃない」

 何だ? 俺は何を言っている? 

 アルファルドの視界が真っ白に染まる。彼の脳裏に、遠い記憶が甦った。


 一人の男が、広大な図書館に足を踏み入れる。果てが見えないほどの広い空間を埋め尽くすのは、膨大な量の書物だった。書棚には、本が隙間なくぎっしりと詰められている。

「やあ。君がここに来るなんて、珍しいね」

 笑う図書館員ラフィング・ライブラリアンが高い書棚の上に座って、その男を見下ろしていた。

「プラヴュイル。お前のことだから、もう知っているのだろう。このことはあいつには言うな。どうせ莫迦みたいに嘆き悲しむに決まっている」

 その男の言葉に、図書館員は苦笑するような表情を向ける。

「僕は別に構わないけれど。かつての同輩として、君に忠告させてもらう。君はどうしようもなく哀れで愚かだ。永劫にも等しい時間を、灼熱の牢に繋ぎ止められることを自ら選んだのだから」

「偏見に満ちた視点で、あの世界を見ているお前には、永久に理解できないだろうな。私とお前の歩む道は既に分かたれた」

「敵対は真の友情、とも言うよ?」

 からかうように笑みを浮べて、図書館員は書棚から飛び降りる。その様子を鋭く一瞥して、その男は言った。

「お前のような存在と話したのは、時間の無駄だった」

 男は背を向けて歩く。一度も振り返らずに。

 

「――今更言い訳など聞きたくもないな」

 吐き捨てる天使の言葉で、アルファルドは現実に引き戻された。目に映る風景は、すっかり元に戻っている。金髪の天使は凍りつくような目線で、魔術師を見据えた。

「君に選択権はない」

「……俺がもう一度捕まれば、あいつらは助かるんだな」

 顔を顰め、呻くような声で、アルファルドは金髪の天使に確認する。この天使は、もう一度逃げるな(・・・・・・・・)とは言っていない。だから、まだ生き延びる機会はある。

「ああ」

 天使は短く頷いた。それを見て、アルファルドは渋々と言葉を口にする。

「分かった。貴様の望む通りにしよう。だから、あいつらには手を出すな」

「賢明な選択だ」

 天使はそう鋭く言い放つと、呪文を言葉にのせる。

「G ISRO ALLAR AMIRAN」

 その呪文によって、金髪の魔術師は再び拘束された。


     *


 真っ暗闇の山道を、四人は歩いていた。辺りの闇は濃く、見通しは悪い。山特有の濃密な緑の匂いが、歩く者の鼻腔を刺激する。この辺りに詳しい絢が先頭を歩く。彼女の足取りは、この暗闇の中でも、少しの迷いもなかった。木々の間を縫って、わずかに白く浮かびあがった急傾斜の細い道を、ただ前に進んでゆく。

「もうしばらくすれば、目的地に到着するはずです」

 彼女は静かに声を響かせて言った。この坂道においても、彼女は息一つ乱してはいない。

 その一歩後ろを歩くティルがうんざりした表情で、愚痴を漏らす。

「天使も、わざわざこんな山奥に、アレフを連れて行かなくてもいいのに」

「何か理由でもあるんだろうか」

 隣で肇が疑問の声を上げると、かぶりを振って恭平が答えた。

「さあな。分からない」

 長い山道を登ったところで、目的の場所にようやく辿り着く。四人の前に立ちはだかったのは、すっかり廃墟と化した白塗りの壁の古いホテルだった。壁にはひび割れが入って、蔓状の植物がそこに絡まりつくようにして伝っている。おそらくは、採算が取れずに、放置されたのだろう。その建物を見上げて、絢は小さな声で呟いた。

「行きましょう」

 彼女は躊躇なくガラス張りの扉を押して、建物内に足を踏み入れた。後の三人も、周囲を警戒しながら、それに続いた。


     *


「宰相殿。この建物内に例の侵入者を確認しました。どうされますか」

「手を出すな、ヘレメレク。但し、ここには辿り着けないようにしろ」

「……相変わらず、難しい注文をしてくれますね」

 アルファルドの眼の前で、金髪の天使と茶髪の天使が言葉を交わす。アルファルドはそれをぼんやりした面持ちで眺めていた。確かに話し声として聞こえるのだが、潮騒のざわめきのように意味を成さず、耳に入ってくるのだ。先程掛けられた魔術のせいで、意識が朦朧としている。こめかみを流れる血の音がかすかに聞こえた気がした。幾つもの魔法円が、彼の足元に描かれている。おそらくは、これが例の術式だろう。物質体、すなわち肉体からエーテル体とアストラル体を分離する術式。自分はもうすぐ死ぬのだろうな、とアルファルドは思ったが、不思議とその実感は湧かなかった。

 茶髪の天使が、足早にその部屋から出ていく。それを見送ってから、金髪の天使は朗々と呪文を唱え始めた。

「OL POILP CONGAMPHLGH. T NOAS LUCIFTIAN GAH. OL SONF VORSG TA QAAL,OD UMD G LAIAD DOOAIN. NONCI CHIS ENAY MICALOZ OD IALPOR GOHED」

 長い詠唱に応えるようにして、順番に魔法円へと魔力が満ちていき、部屋全体を明るく照らす。それを目を(すが)めながら、アルファルドは他人事のようにじっと見つめていた。


     *


「ねえ、今の、気付いた?」

 ティルは振り返って、確認するように連れの三人の顔を眺める。

「ああ」

「強い魔力の気配を上の階から感じました」

 恭平と絢が、それぞれ頷いて答える。肇だけが不思議そうに辺りを見回した。

「たぶん、天使達は上にいる。何をしているのかは分からないけど、急いだほうが良さそうだ」

 ティルは真剣な面持ちで言うと、身を翻して、先を急ぐ。暗闇の中、鋭く足音を響かせながら、四人の魔術師は廊下を走った。突き当たりの階段を一息に駆け上がって行く。階段の踊り場に辿り着いたところで、彼等は不思議な現象に出くわした。

 階段をいくら上がっても、上の階に進めないのだ。

「これって……」

 肇はわずかに目を見開いて、声を上げた。

「街に仕掛けられていた空間魔術と同じですね。どうやら、私達を先へ進ませたくないようです」

 そう言うと、絢は囁くような声で呪文を口にする。

「捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」

 その言葉に従って、一気に場の空気が変容した。空間の歪みが正される。

「これで、先へ進めるな」

 恭平がその様子を見ながら小さな声で呟くと、ティルは考え込むように眉根を寄せて、こう言った。

「いや、まだだ。まだ終わってないよ。根本的な解決になっていない。大本を叩かないと」

 虚空を睨み付けて、叫ぶ。

「解き放て、『カドゥケウス』」

 いつの間にやら、彼の手の中には、身長ほどもある長い杖が現われていた。杖の持ち手には二匹の蛇、杖の先には二枚の翼が、細かな意匠であしらわれている。ティルはその杖を天高く掲げた。

「この息は我が息にあらず、神の息なり。故に我が息は命の担い手にして万象を支配する言霊。――我が言霊からは何人たりとも逃れられぬ。悪意を以って我等を襲うものよ。ここに姿を現せ」

 ティルの言葉に応えて、辺りが眩しい光に照らされる。その光が収まった後、踊り場のところに立っていたのは、茶色の髪の天使だ。彼はどこかうんざりしたような顔で嘆息すると、魔術師達のほうを見た。

「手を出すな、と言われているのだが、これでは仕方ないか」

「ヘレメレクと言いましたか。先程の借り、返させて頂きましょう。貴方達は早く災厄(ディザスター)の所へ向かってください」

 絢が感情の見えない口調で、淡々と告げる。だが、そこに秘められた鬼気は、その場にいる誰もが感じとっていた。彼女は天使に対峙するように、一歩踏み出す。

「全く。お前は、ついさっき手酷くやられた相手にたった一人で立ち向かう気か?」

 恭平はほとほと呆れはてた、という表情で、絢の横に並ぶ。彼は語気を強めて、後ろの二人に声を掛けた。

「ティル、肇。お前達は先へ進め」

「分かった。肇、走るよ」

 ティルの言葉を合図にして、二人の魔術師は階段へと駆け出した。

「NIISA. AVAVAGO PERIPSOL」

 それを阻もうと、天使は雷撃の呪文を唱えたが、絢がすでに素早く回り込んで、光の盾を展開している。

「イージスの盾よ」

「NAPEA」

 ヘレメレクの呟きとともに、空間が歪む。彼は虚空から剣を取り出して、絢に斬りかかった。だがその一撃が絢を捉える寸前で体勢を崩す。彼の羽根を、炎の一撃が掠ったのだ。それを放ったのは、恭平だった。天使は振り返り、忌々しげに舌打ちする。

「二人がかりか。卑怯じゃないのか」

「何とでも言うがいいさ。勝った者が正しいのだから」

 恭平は天使を見返して、冷然と言い放った。


     *

 

 ティルと肇はついにその建物の最上階に辿り着いた。ここまで来れば、肇もその異質な空気に気付く。身に纏わりつく空気が、異様な重々しさを感じさせるのだ。あまりの圧迫感に、息が詰まりそうになりながらも、肇は歩を進めた。ティルはその発生源である扉の前に立つと、小さな声で、肇に囁いた。

「突入するよ」

 肇は無言で、首を縦に振る。その様子を確認してから、ティルは勢い良く扉を開け放つ。

 そこにいたのは。力なく魔法円の上に横たわる、金髪の魔術師と。

 その傍らに寄り添うように立つ、長身を白い外套に包んだ、金髪の天使だった。

「師匠!」

 肇は倒れ込んでいるアルファルドのほうに向かい、急いで抱き起こしてみる。その身体はぐったりとして生気が無い。耳をすませても、呼吸音が聞こえなかった。肇は顔を蒼白にして、アルファルドの額に手をあててみるが、やはり氷のように冷たかった。

「君はアレフに何をしたの」

 ティルは金髪の天使を睨み付けて、詰問する。

 天使はその赤い瞳で、鋭くティルを睨み返した。

「単に彼のエーテル体とアストラル体を肉体から剥がしただけだ」

「何てことをしてくれたんだ! このまま放っておけば、彼は間違いなく死ぬ」

「……君達の定義では、死であっても、私達の定義では、そうではない」

「御託はいいよ。僕は君を倒して、彼を連れて帰る」

 冷ややかな口調で、ティルは天使に告げた。そして叫ぶ。

「神は我が内にあり、故に世に神はなし――我が声の前では一切が無力と化す」

 ティルが仕掛けたのは、敵対する者の魔術を無効化する、言霊使いの秘儀だ。どんな存在であっても、それから逃れる術はないはずだった。しかし天使はそれをものともせずに、呪文を詠唱する。

「OL SONF VORSG TA QAAL,IALPON NAZ PVRGEL」

 その呪文に応えて、炎の柱が顕現する。まるでティルの言霊の効果など、最初からなかったかのように。

「なっ……」

 ティルは思わず動揺の呻き声を上げる。予想も付かない現象だったために、反応が遅れた。防御する間もなく、炎がティルを襲わんとするが。

 それはティルの眼前で、見事に二つに割れた。それを防いだのは、黒髪の少年だ。

「……魅了する者(アトラクタ)か。君のような者が、私の考えを理解できないとは。むしろ君はある意味で私達に近しい存在だと言うのに」

「俺に分かってるのは、師匠が死にかけていて、早く助けないと、死ぬってことだけだ」

 肇は静かに言う。怒るほどに、彼の思考は研ぎ澄まされ、認識は明確化される。彼は周りの精霊達を、強制的に支配下に置いた。肇の周りの空気が軋む。無数の風の刃が、立て続けに天使を襲った。

 金髪の天使は跳躍して、迫り来る風の刃を素早く避ける。さすがの天使も、室内では動き辛そうだった。彼は攻撃を避けながら、次の一手を打っている。

「NIISA. NAPEA」

 彼の手の中には、どこから現われたのか、細かい装飾の施された剣があった。天使はその剣の柄を強く握り締め、その切っ先を肇のほうに向ける。それから跳躍して、肇に向かって剣を振り下ろした。肇は後方に跳んだ。天使は攻撃の手を緩めずに、続けて斬撃を浴びせようとする。横薙ぎの一撃。肇は辛うじてそれを躱す。ティルは肇を庇うように、間に入って、呪文を口にする。

「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」

 銀髪の魔術師は、氷の刃で天使の剣を受け止めた。


 彼は見ていた。よく見知った顔二人が天使と戦っているのを。早く、自分の身体に戻って、彼等を助けなければならない。いや、自分は果たして誰だったか? どうしてあの二人だけに味方する必要があるのだろう。あの天使のことも、自分はよく知っているのではなかったか。あの二人の人間以上に。彼等は何故戦っている。止めなければならない。これ以上自分の大切な者達を失うのはごめんだ。自分が誰であるかなど(・・・・・・・・・・)もはやどうでもいい(・・・・・・・・・)


 その瞬間、ゆらり、と空気が変じた。戦っていた三者が、思わず手を止めてしまうほどに。

 魔法円の上で倒れていたアルファルドが、いつの間にか、起き上がっている。

「師匠」

 彼に近付こうとする肇を、ティルが呼び止めた。

「待つんだ、肇。何だか様子がおかしい」

 金髪の魔術師は、据わった目で、肇達のほうを見た。その碧眼は何の感情の色も湛えてはいなかったが。

「お前達は何故戦う? そんなに死に急ぎたいのなら、私がまとめて葬り去ってやるが」

 放たれた殺気は、凄まじいものだった。辺りに満ちたのは、全てを凍らせるような、禍々しい空気。

 それに一番近くで晒された肇は、思わず床に座りこんでしまう。その場にいる誰もが、固まったように、動かない。いや、動けないのだ。

 最初に呪縛が解けたのは、金髪の天使だった。彼は呆然として呻く。

「……莫迦な。術式は完璧だったはずだ」

「お前は完璧主義者の割に、意外と詰めが甘い」

 アルファルドは、天使に向かって、一歩踏み出す。その何気ない動作。それだけのはずなのに。

 絶対的な死を予感させた。

 金髪の天使は、羽根を広げて宙に浮き、呪文を唱える。

「CORAXO ZIEN. QUASB TOFGLO」

 それは、身の危険を、否、魂の危険を感じた彼の、ほとんど反射的な行動だった。

 彼が降らせたのは、無数の稲妻だ。だが、それはアルファルドに届く直前で、全てかき消えた。詠唱の一つもなしに、攻撃がことごとく無為に帰す。天使の顔に浮かんだのは、焦燥と恐怖だった。不可解な状況に思考は空転し、それゆえに、彼は判断を誤った。アルファルドに付け入る隙を与えたのだ。金髪の魔術師は小さく呟いた。

「ZIRDO YARRY」

 その言葉とともに、一筋の光が天使の羽根を貫いた。バランスを崩した天使は、部屋の床に勢い良く激突する。

 アルファルドはその様を冷淡に見下ろして、言った。

「本当に残念だ。お前がそんなに死にたがっていたとは知らなかったな、エノク(・・・)

「……ようやく、思い出してくれたのか」

 金髪の天使は、弱々しく魔術師に向かって笑いかける。その天使の身体は淡く発光して、輪郭は徐々に形を失っていった。天使は消え行く自分の身体を眺めて、囁くような声を出す。

「……損傷が、激しいな。……当分、こちらには、来れそうも、ない……君には、また……」

 言葉はそこで途切れて、天使の姿は完全に消えた。

 アルファルドは、天使が消え去った後もなお、厳しい顔付きで虚空を見つめていたが、しばらくして肇とティルのほうに振り向く。

「お前達も、私と戦うのか」

 その碧の双眸は、刺すように二人に向けられた。息苦しくなるほどの威圧感。警戒が脳裏に閃き、背には冷や汗が伝う。慌てて首を横に振った。

「君は、アレフ――アルファルド・シュタインだよね」

 ティルが、先程から感じていた違和感を、思わず口に出す。彼はそう聞かずにはいられなかった。いつもとあまりにも雰囲気が違いすぎる。

「私か? 私は――」

 金髪の魔術師は、片眉を顰めて、考え込むような表情を見せる。そして、その後に。

 ぷっつりと糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。

「アレフ!」

 ティルは金髪の魔術師のほうへと慌てて駆け寄った。


     *


 ティルは床に倒れているアルファルドの容態を診ていた。

 肇はその様子を傍らで、不安そうに眺めている。閉じられた瞼はぴくりとも動かないが、いつものようにただ眠っているだけにも見えた。

「師匠は大丈夫なのか」

 肇は首を傾げてティルに尋ねてみる。

「分からない。見たところ、肉体に外傷はないけれど、エーテル体やアストラル体に異常があるのかも」

 そのとき、がちゃりと音がして入り口の扉が開いた。部屋の中に入って来たのは絢と恭平だ。

 絢は室内の惨状をぐるりと見回してから、話し掛ける。

「随分とまた、派手にやったようですね」

「お前達も、天使を倒したのか?」

 恭平が訝しむように、問い掛ける。その問いに、ティルは苦笑して答えた。

「僕達は何もしてないよ。アレフが倒した。その後、彼は意識不明になったんだ。どうやら魂魄(こんぱく)を無理矢理分離させる術式を掛けられたらしい」

「ふむ」

 恭平は一つ頷くと、足早に床に寝かされたアルファルドのほうへと歩く。恭平は座り込んで、アルファルドの額に手を当てた。

「多分、大丈夫だろう。エーテル体が少し弱っているが、少し眠れば回復すると思う」

魔術組合(ギルド)支部に連絡して、転移魔術で帰りましょうか。災厄(ディザスター)も、そこの医務室で診てもらいましょう。少々、私も疲れました」

「そうだね。本当に大変な一日だった」

 絢の提案に、ティルが続けて賛成する。

「そうと決まれば、クロス。さっさと転移魔法円を描く」

「何故私に頼むんだ」

 恭平は実に嫌そうな顔で、ティルのほうを見返した。

「だって、ねえ?」

 何故かティルは隣にいる肇に、同意を求める。ティルに突然話を振られて面食らった肇は、どうコメントしたらいいのか分からない。

「ええと――」

「この面子で、そういう細かくて地味な作業が向いてそうなのって、どう考えても君しかいないじゃないか」

 ティルはきっぱりと言い放つ。それを聞いた恭平は、うんざりとした表情をして、言った。

「全く、いつもいつもお前は――」

 恭平は懐からペンを取り出して、愚痴りながら、既にその部屋にある魔法円と重ならないように、注意深く転移魔法円を描く。絢はそれを横目で見つつ、携帯電話で魔術組合(ギルド)支部と連絡を取った。肇は、恭平が魔法円を描く様を、感心して見つめる。驚くほどの手際の良さだ。師匠とは段違いである。瞬く間に転移魔法円は完成した。恭平は魔法円を一気に描き終えると、呪文を詠唱する。

「大いなる精霊よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」

 それに応えるようにして、転移魔法円に魔力が満ちて、発光した。ティルは横たえられたアルファルドの身体を無理矢理引きずって、魔法円へと放り込む。アルファルドの姿は、しばらくすると、消え去っていた。そうしてから、肇のほうに振り向いて、笑いかける。

「さあ、僕達も帰ろうか」

 肇は首を縦に振って、大きく頷く。ティルの後に続いて、肇は魔法円へと足を踏み入れた。

 

     *


災厄(ディザスター)。この件に関して、報告書の提出を求めます。今回の事件が貴方のせいで起こったことは、明白です」

 綾織絢(あやおりあや)は、ベッドに横たわっている金髪の魔術師を見下ろして、抑揚のない声でこう告げた。あの事件から、三日後。アルファルドは未だに魔術組合(ギルド)支部の医務室に拘束されている。精密検査の結果、アルファルドには、何の異常もなかった。本来ならば、すぐに家へと帰れるはずなのだ。だが――

「報告書を提出しない限り、貴方は、ここから出られません」

 淡々と言葉を紡ぐ絢。彼女は、(グラディウム)の権限で、医務室を押さえていたのだった。

 ベッドの上から、アルファルドは剣呑な視線で絢を睨み返す。

「嫌だ。だいたい、細かいことは記憶にない」

「私相手にそのような政治家紛いの言い訳が通用するとでも?」

「言い訳じゃない。俺は単に事実を述べただけだ」

 絢は無表情に金髪の魔術師の顔を覗き込んで、言った。

「仕方がないですね。どうやら最終手段に訴えるしかないようです。この間、通販で買ったあれを使うとしましょう」

 そう呟いた黒の人形師(ブラック・パペッター)の手にあったのは。

 なんと、藁人形だった。

 それを見たアルファルドは慌てて叫んだ。

「おい、待て! それは――」

 彼の脳裏に忌々しい通販の宣伝文句が甦る。

 一家に一体! 今や家庭の必需品! あなたも今すぐご家庭で、嫌な相手を密かに呪えます。今なら護符、五寸釘の豪華三点セットに、門外不出の奥義書まで付けて、税込四千九百九十九円!

 悪い冗談みたいな話だが、こんな通販の藁人形でも、本職の呪術師の手にかかれば、立派な魔法具と化す。絢は呪術師ではないが、人形使いである。魔法具の扱いには誰よりも詳しい。アルファルドの背を悪寒が突き抜ける。彼はベッドから這うように抜け出し、医務室の窓から急いで逃げ出そうとするが。すでに、絢は五寸釘を手に持っている。

 数瞬の後。医務室中に絶叫が響き渡った。


     *


「やあ、宰相殿。体調を崩したと聞いたんだけど、大丈夫かい」

 金髪の天使は、背後からの声に振り返る。彼の後ろに立っていたのは、背に翼を生やした銀髪の少年だった。

「プラヴュイル。あなたが私をそう呼んでも、嫌味にしか聞こえない」

「君のほうが偉いんだから、そう呼ぶのは当然じゃないか。それを言うなら、先に君の言葉遣いを改めて欲しいよ。どうして、君は僕に対してだけは、そんなに他人行儀な口調なんだろうね。お蔭で、僕はここ第八天(ムザロト)の影の支配者だとか言われる羽目になる」

 プラヴュイルと呼ばれた銀髪の天使は、大仰に頭を振って、いかにもわざとらしく嘆息した。それをうんざりしたような顔で、金髪の天使は眺める。

「習い性なので、仕方がありません。それに、影の支配者は厳然たる事実でしょうが」

「まあ、いいけどさ。君、この間第九天(クキャヴィム)(シャアル)を使ったよね。それと何か関係があるんだろう?」

「何のことでしょうね。私には分かりませんが」

 あくまでも白を切る金髪の天使に、銀髪の天使は、悪戯っぽく問い掛けた。

「隠しても無駄だよ。第九天(クキャヴィム)に入ることのできる天使は限られているからね。下に降りるにしても、第六天(ゼブル)(シャアル)を使うのが、普通じゃないか?」

 そう言って、銀髪の天使は金髪の天使の赤眼(しゃくがん)をじっと見つめた。そして、囁く。

「探し物は、見つかった?」

「……いえ」

 金髪の天使は、かぶりを振って踵を返す。銀髪の天使は、その後ろ姿を、盛大な溜め息を吐いて見送った。

<蛇足以外の何物でもない何か:PART4>


○日本魔術組合(ギルド)支部の談話室。

   椅子に座っている肇。部屋の扉が開き、ティルが入って来る。

ティル「あれ? アレフ来てないの?」

肇「師匠ならまだ来てないけど」

   肇は顔を上げてティルのほうを見る。

ティル「まあ、いいや。アレフがいないうちに、さっさと名言ネタの解説を済ませちゃおう」

肇「名言ネタ? そんなのあったか?」

   肇は訝しげな顔をする。

ティル「今回はウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』からだね」

肇「誰だ、それは?」

ティル「十八世紀イングランドの銅版画家にして詩人」

肇「知らないな」

ティル「そう? 結構有名だと思ってたけど」

   ティルはそう言って、文字をホワイトボードに書く。


   "An Angel came to me and said: (ある天使が私のところに来て言った)

     'O pitiable foolish young man! (ああ、哀れで愚かな若者よ!)

     O horrible! O dreadful state! (なんてひどい! なんて恐ろしいことだ!)

     consider the hot burning dungeon (考えてもみろ、汝は灼熱の牢に)

     thou art preparing for thyself to all eternity, (自らを永劫繋ぎ止めようとしている)

     to which thou art going in such career.'" (汝はそのような生き方をしているのだ)


肇「……随分長いな」

ティル「まだあるよ。これも、私と天使の対話部分から」

   ホワイトボードに続けて文字を書くティル。


   "It is but lost time to converse with you whose works are only Analytics."

   (分析論だけを振りかざす、お前のような存在と話したのは、時間の無駄だった)


   "Opposition is true Friendship."

   (敵対は真の友情)


肇「これで全部?」

ティル「うん」

肇「……それにしても、師匠、遅いな」

ティル「もしかして、絢に見つかるのが嫌だったのかも」

肇「それはありうる」

ティル「ところでさ」

肇「何?」

ティル「今回の話、どう考えても、魔王を復活させようとして、封印を解いたところで返り討ちにあった魔界宰相!って話じゃない?」

肇「ありがちなパターンだ。でも一応、天使の話なんだよな」

ティル「ほとんどアレフが魔王と化してるけどね」

   部屋の扉が開く。部屋の中に入って来て、不機嫌な口調で唸るように言うアルファルド。

アルファルド「……誰が魔王だ、誰が」

ティル「やあ。随分遅かったね」

アルファルド「いや、ちょっと綾織に捕まってな。ところで何故肇がここにいる」

ティル「今回の話で、天使が喋ってる謎の呪文について解説して欲しいそうだよ」

アルファルド「貴様がずっと言ってた例のあれか」

ティル「例のあれだ」

肇「例のあれって?」

ティル「ジョン・ディー博士の残した文書に載っている有名な言語」

肇「D言語?」

   アルファルドが肇の頭を小突く。

アルファルド「呆けるな、肇。話が進まん」

ティル「エノク語だね」

肇「エノク語っていうのは一体どんな言語なんだ? 作中に出てきた名前と関係があるのか?」

アルファルド「…………」

ティル「何で黙るのさ」

アルファルド「いや、何でもない。エノク語は、十六世紀の数学者にして魔術師であるジョン・ディー博士が、霊媒のエドワード・ケリーと組んで、天使から教わったとされている言語だ」

ティル「ジョン・ディー博士は、ラヴクラフティアン(怪奇作家ラヴクラフトの熱烈なファン)にはネクロノミコンを英訳した人物として知られているよね」

肇「ネクロノミコン?」

アルファルド「……第九話を読み直せ」

ティル「ジョン・ディー博士自身は、エノク語のことを単に天使語とか呼んでたらしいけど」

アルファルド「エノク語が有名になったのは、大英博物館に保存されていたジョン・ディー博士の文書を元にして、マグレガー・メイザースをはじめとする魔術結社黄金の夜明け(ゴールデン・ドーン)の魔術師達が、これを体系化して、魔術に用いたからだ」

ティル「と言っても、元々の資料自体が少ないから、詳しい文法は分からないけどね」

肇「じゃあ、あの呪文って、もしかしてちゃんと意味があったのか? 俺はてっきり作者が適当にアナグラムで作ったのかと思ってた」

アルファルド「一応、意味はあるぞ」

肇「本当に?」

アルファルド「ああ、本当だ」

肇「じゃあ、例えば今回師匠が言ってた『ZIRDO YARRY』ってどういう意味なんだ?」

アルファルド「我は神意なりアイ・アム・プロヴィデンス

   呆れたような顔をするティル。

ティル「……作者って、どうしようもないよなあ」

肇「どういうことなんだ?」

ティル「"I am Providence" これはラヴクラフトの墓碑に刻まれている有名な言葉なんだよ。……いつかはやると思ってたけど、エノク語でやられると、誰も気付かないよね」

肇「……本当に重度のラヴクラフティアンだな」

   嘆息する肇。会話がそこで途切れる。

アルファルド「さて。もう帰っていいか?」

ティル「何か用事でもあるのかい?」

アルファルド「いや、実は……」

   扉の外から、人が歩く足音がする。窓を開けて、そこから飛び降りるアルファルド。

ティル「アレフ?」

肇「ここって、二階だよな。師匠は大丈夫なのか」

ティル「さあ? どうしたんだろうね」

   扉が開き、絢が部屋の中に入ってくる。

絢「災厄(ディザスター)を見ませんでしたか?」

ティル「彼に何か用?」

絢「ええ。彼に報告書の手直しをしてもらおうと思っていたのですが、逃げられてしまって」

肇「師匠なら、さっきここを出ていきましたけど」

絢「仕方ないですね。あまりこんな野蛮な手は使いたくないのですが」

   懐から藁人形を取り出す絢。

ティル「それは……!」

   顔面を蒼白にするティル。藁人形に、五寸釘を打ちつけようとする絢。

   窓の外から、この世のものとも思えない叫び声が聞こえる。暗転した後、閉幕。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ