[第十五話 天使等の力学的理論 中編]
「『ペトルーシュカ』、来なさい」
絢の声に従ってその場に出現したのは、手足を糸に繋がれた木製のマリオネットだった。その両手にあるのは刀身が湾曲した片刃の剣である。三日月刀だ。絢は人形を器用に操って、天使に攻撃を仕掛けた。人形は速度を上げて天使に襲い掛かったが、その斬撃は虚しく空を切る。ヘレメレクは身を翻し、翼を広げて、素早く上空に飛んで避けた。
「OL QVASB CAOSGA」
ヘレメレクは天高く手を掲げ、呪文を唱える。差し伸べた指先から、光熱波が膨れ上がった。
絢は瞬時に危険を察知して、短く呟く。
「風よ」
絢は風の精霊の力を借り、すんでのところで天使の攻撃を避ける。その魔術による一撃はアスファルトを深く抉った。間髪入れず、宙に浮いたままの天使は、魔術を放つ。
「NIISA. NAPEAI ZONG」
無数の風の刃が、絢の頭上から襲い掛かった。絢はそれを、右に左にと飛んで躱す。それは先程の攻撃でぼろぼろになったアスファルトの残骸を弾き飛ばして、さらに地面を穿った。不安定な足場に、絢は思わず体勢を崩しそうになる。絢は舌打ちした。空を飛び回られると、面倒だ。絢は戦闘経験は豊富であると自負していたが、天使と戦った経験というのはあまりなかった。何とかあの天使の動きを止めなくては。
彼女が手で人形を動かしつつ、唱えたのは雷撃の呪文だった。
「裁きの光よ。天より大地を貫き全てを滅ぼせ」
天から落ちた光の一撃は天使の翼の左側を掠った。だがその攻撃を受けても、天使は宙に浮いたまま、余裕の表情を浮べている。
「私にそのような攻撃が効くと思うのか?」
絢はそれには答えない。彼女はただ黙々と手を動かし、人形を素早く天使の背後に移動させた。人形は天使の羽根に、三日月刀を振るう。ヘレメレクは先程と同じようにして避けようとしたが。
「なっ?」
何かに身体を絡めとられたように、天使は動揺の叫び声を上げて、突然動きを止めた。身動きのできない天使の翼に、人形は渾身の一撃を加える。
絢が仕掛けたのは糸だった。もとより天使に光属性の攻撃が効くとは思ってはいない。雷撃の光が辺りを眩しく照らした隙に、人形を使って、天使の周囲に糸を張り巡らせたのだ。続けて絢は呪文を詠唱する。
「闇夜を支配する王よ。愚者に裁きを」
声に応えて、絢の眼前に現われたのは、漆黒の闇だ。それはゆっくりと球形をとり、ヘレメレクのほうに向かって飛んでいく。
その球形の闇は瞬く間に広がって、ヘレメレクの身体を蝕んだ。天使はバランスを崩し、そのまま真っ直ぐアスファルトに向かって墜落する。落下地点へと、絢が歩みを進めたそのときに。
「GROSB」
天使が囁くように呟いた。絢の身体を後ろから貫いたのは、一本の剣だ。
「……油断は禁物だ、人間の魔術師よ」
絢は膝を折って、両手を地面に付いた。全身を苛むような激痛に、思わず呻き声を上げる。この一撃は致命的だった。霞む視界の中で、自らの血液が血溜まりを作るのを見ながら、彼女は意識を失った。
*
「おい、ティル。何をそんなに急いでいるんだ」
前を早足で歩くティルに向かって、黒須恭平は怪訝そうに尋ねた。
「おかしいとは思わないの? さっきから人通りが全くない」
二人が歩いているのは、城ヶ崎市駅前の繁華街だ。日が暮れなずむ黄昏時。普段なら、買い物客が行き交う時間帯である。だが、繁華街のどの店も閑古鳥が鳴いているようなありさまだった。店員も暇を持て余しているようだ。それを横目に見ながらティルは急いで足を動かし続ける。彼は先程から、胸騒ぎがして仕方がなかった。夢を気にするなんて、自分でも馬鹿げているとは思う。旧友の身に何かが起こったのではないか、という不安がずっと心を苛んで止まない。
二人は繁華街を北上し、一度大通りに出た後で、東側の住宅街へと向かう。しばらく住宅街を歩いたところで二人は異常に気付いた。ティルと恭平はお互いに顔を見合わせる。
「ねえ、これ」
「ああ。空間魔術の痕跡がある」
その魔術はすでに何者かによって解かれていたようだったが、魔力の流れにまだ若干の異常があった。
「誰の仕業だろう」
ティルはさらに足を早めて、アルファルドの洋館を目指す。
しばらくして二人は道の真ん中で立ち止まった。ティルは思わず声を上げる。
「空間魔術だ」
「解くぞ」
恭平は表情を引き締めると、呪文を小声で呟いた。
「全てをあるべき姿に」
彼の声に応えるようにして空間が歪んだ。見えている風景が一瞬にして変わる。それは惨憺たる光景だった。道路のアスファルトはところどころ陥没しており、電柱には無数の傷がある。瓦礫が山のように積み重なっているその真ん中で、うつ伏せになって、アスファルトの上に血溜まりを作り、倒れていたのは、二人の良く見知った人物だった。黒いドレスを着た黒髪の魔術師。綾織絢だ。
「絢!」
ティルは叫んで絢のほうに駆け寄った。声を掛けても反応はない。ティルは地べたにしゃがみこんで、絢の顔を覗き込む。その顔色はいつもよりも、一層青白かった。耳をすませば、呼吸音が聞こえる。まだ息はあるようだと判断し、ティルは安堵した。顎の下に二本の指を当て、脈を計る。少し弱いが、脈はあった。胸の辺りにひどい傷跡があり、そこから出血している。倒れている絢の身体を、仰向けになるようにして転がすと、ティルは恭平に厳しい口調で頼み込んだ。
「クロス。応急処置を頼む」
「ああ」
恭平は懐から液体の入った小壜を取り出した。それを絢の胸の傷口に一滴垂らして、呪文を唱える。
「闇夜を支配する王よ。エリクシールの魔力を代償として、彼の者を甦らせよ」
その言葉に反応して、眩い光が辺りに満ちた。その傷口はみるみる塞がっていく。
ふう、と息を吐いて額の汗を拭うと、恭平はティルに声を掛けた。
「これはあくまでも、応急処置だ。失血が激しい。すぐにどこか安静にできる場所に移さないと」
「魔術組合支部に連絡して、転移魔術で彼女を運ぼうか」
「待て。この辺りの空間は不安定になっている。それは危険だ」
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
ティルはつい大声で叫んでしまう。魔術組合支部はここから案外遠い。二人で運ぶにしても、彼女を連れていくのは大仕事だ。といって、アルファルドの家に行く訳にもいかなかった。彼女を害した相手は、アルファルドを狙っているのかもしれない。さて、どうするか。ティルは顎に手を当てて考え込む。確か、この近くに肇の家があったはずだ。
「ティル?」
恭平は突然黙りこんだティルを、不審気な面持ちで眺める。
「クロス。この近くに知り合いの家がある。そこに彼女を連れて行こう」
「分かった」
恭平は首を振って頷くと、ティルと協力して絢の身体を持ち上げた。
*
久住肇は自宅の縁側に座って、ぼんやりと考え込んでいた。学校からの帰り道に遭遇した、あの空間の異常は何だったのか。肇は少し前に起きた悪魔騒ぎを思い出す。あの時も、城ヶ崎市中に空間の異常が生じたのだった。あれはやはり魔術か、それに類するものによる現象だろうと肇は見当を付ける。アルファルドの家の周りにそれが起こっていたということは、あの事態に彼が関わっていた可能性が高い。
肇はアルファルドのことが少し心配になった。だが、もし自らの師匠の身に何かあったとしても、肇に出来ることは何もない。彼は肇よりも遥かに優れた魔術師なのだから。
ちょうどその時、彼の思考を中断するように、玄関の呼び鈴が鳴る。彼は慌てて玄関のほうへ走り、外に出た。肇は門前にいる意外な取り合わせに、驚いて声を上げる。
「ティルに……黒須さん?」
肇は門を開ける。そこで目に入った光景に思わず絶句した。足元の硬いアスファルトに横たえられていたのは、見知った顔だった。アルファルドの監視役である魔女。黒の人形師、綾織絢だ。
「綾織さん? 一体どういう……」
「肇、悪いんだけど、少し場所を借りて構わないかな。彼女を安静な場所に寝かせたいんだ」
怪訝そうに聞く肇の言葉を途中で遮るようにして、ティルは真剣な表情で頼み込んだ。
「俺は別に構わないけど。後で何があったのか説明してくれないか」
「うん。だけど、その前に彼女を運ぶのを、手伝って欲しい」
「分かった」
肇は頷いてそれを了承する。ティルが肩を持ち、肇が足を抱えて、絢を家の中へと運び込んだ。
*
肇とティルは畳の上に座りこんで、話していた。絢は隣の部屋で、横になっている。恭平が治癒魔術を施しているのだ。
「つまり、師匠の家に行こうとしたら、空間魔術が仕掛けられていて、綾織さんが重傷を負って倒れていた、と?」
ティルは肇の言葉を肯定するように、首を縦に振る。それから考え込むように腕を組んだ。
「実のところ、僕にもさっぱり状況が掴めていないんだ」
「おそらく、師匠絡みの厄介事なんだろうな」
表情をわずかに曇らせて、肇は眉根を寄せた。
「僕もそう思う。絢が何か知っているかもしれない」
ティルは神妙な面持ちで、その意見に同意する。そこで一旦会話が途切れた。
重々しい沈黙に耐えかねた肇は、努めて明るい口調で、再び口を開く。
「ところで、ティルは黒須さんとどういう知り合いなんだ? 何だか随分親しそうだったけど」
「ああ、クロス? 僕と彼は魔術学院時代、同級生だったんだよ。アレフも一緒でね。それより、僕は君がクロスと知り合いなことに、驚きなんだけど。彼はあまり外出しないから」
「この前、学校で幽霊騒ぎがあったときに、たまたま黒須さんに出くわしたんだよ」
「彼は死霊術師だからね。しかし、黒須さん、ねえ。何かその呼び方は変な気がするなあ。あんなの呼び捨てで構わないのに。どうせ根暗死霊術師だし」
軽口を叩くティルに、肇はどう返していいのか分からない。しかし彼が死霊術師だとは知らなかった。道理で幽霊について詳しいはずである。
ちょうどその時、勢い良く襖が開いて隣の部屋から黒ずくめの男が現われた。恭平である。彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、ティルのほうを見た。
「お前、今人の悪口を言っていただろう」
「案外耳聡いね、クロス」
ティルはからかうような笑みを恭平に向ける。憮然とした顔をして、恭平は口を引き結んだ。
「綾織さんの容態はどうなんですか」
肇は座った姿勢のまま、問い掛けるように目線を上げる。
「問題ない。直に目を覚ますはずだ」
「それは良かった」
肇はほっと胸を撫で下ろして、小さく息を吐く。そんな様子を横目で眺めながら、恭平はティルを見下ろして尋ねた。
「ティル。お前はこれからどうするつもりだ? もしお前の予想通りに、アルファの身に何かあったとしても、正直私達が彼の助けになるとも思えない」
「僕はアレフの家に行くよ。やっぱり様子が気になるからね。まあ、無理だと思ったら、すぐに逃げるけど」
あっさりとそう言うティルの言葉に、恭平は呆れた表情を見せる。
「お前は逃げ足だけは早いから、大丈夫だとは思うが。しかし、敵の正体が分からない以上、慎重に行動するに越したことはない」
「敵の正体、ねえ。一体何なんだろう」
ティルは思案を巡らせて、首を傾ける。そこへ割り込んできたのは、絢の声だった。
「おそらくは天使でしょう」
彼女は先程まで重傷を負っていたことなど、微塵も感じさせない動作で、部屋に入ってきた。
「すみません、手間をかけさせてしまって」
「大丈夫なんですか! 綾織さん」
肇は立ち上がって、気遣うように声を上げた。
「ええ、久住さん。もう大丈夫です」
絢はいつもと変わらぬように、淡々とした口調で言葉を返す。
「あまり無理はするな、黒の人形師」
恭平は絢のほうに向き直ると、厳しい口調で忠告した。
「貴方が助けてくれたんですね、孤独な散歩者。本当に助かりました」
絢は頭を下げ、恭平を上目づかいに見て礼を言う。恭平はその視線から目を反らすようにして、ぶっきらぼうに答えた。
「当然のことをしただけだ」
ティルは苦笑して、その様子をしばらく眺めていたが、すぐ表情を引き締めて、絢のほうを見た。
「絢。さっき敵の正体が、天使だって言っていたけれど。君の身に何があったのか、教えてくれるかな」
「私は、空間魔術を解きながら、災厄の家へ向かう途中でした。そこで、私は茶色の髪をした天使に妨害されたのです。彼は、どうやら誰かの命令で動いているようでした。その誰かも、たぶん天使でしょう。その天使が災厄を狙っている、とみて間違いないと思います」
「敵は天使か」
ティルは絢の言葉を聞いて、眉を顰める。
「アルファの奴、一体何を仕出かしたんだ」
恭平も、目付きを険しくさせて、考え込むような仕草をする。
その会話に付いていけず、肇は目を白黒させた。まあ、悪魔が存在するのならば、天使がいてもおかしくはないだろう。しかし、天使と呼ばれる存在が人間を襲うものなのだろうか。随分イメージと違う。肇はその疑問をそのまま絢に聞いてみた。
「天使って、どういう存在なんですか?」
「貴方は確か悪魔と接触したことがありましたね。天使も悪魔も、実のところ、存在としてはたいして違いがない。彼等は別の世界に住んでいて、この世界では、仮の姿を取ると言われています。大抵は宗教画にあるような羽根の生えた姿を好んで取るみたいですが。契約を重んじるという点も代わりがありません。彼らの違いというのは、単にその性質によるものです。天使達は悪魔達と違って、闇よりも光を、混沌よりも秩序を好みます。そして、彼等は非常にプライドが高く、悪魔達よりも、人間に対して淡白な態度をとることが多いのです。だから、彼等を召喚し、あのように実体化した状態で制御することは、人間の召喚術師にとっては至難の業なのですよ」
絢の長い説明を、ティルが補足するように言う。
「つまり、天使達は召喚術師の頼みを聞くことはあっても、命令を聞くことはあまりない。彼等が従うのは、自分よりも純粋に強い力を持った魔術的存在だけだからね。それで、絢は黒幕を天使だと推定したんだ」
二人の会話を静かに聞いていた恭平は憂鬱そうに、ティルと絢の顔を交互に見やった。
「で、どうする。天使と戦うなんて考えたくもないが、お前達は今からアルファの家に行くつもりだろう」
「さっきも言った通りだよ」
「私には彼を監視する任務がありますから」
二人は間髪入れずに即答した。
恭平は軽く頭を振って、うんざりした面持ちで絢の顔を眺めた。
「全く。さっきまで死にかけていた人間がよく言うよ。仕方ない、私も付いて行こう」
そんな三人の様子を傍らで黙って見ていた肇が、おずおずと遠慮がちに申し出る。
「俺も付いて行って構わないかな」
どうせ役に立たないのは分かっていたが、何かせずにはいられなかったのだ。
恭平は意外そうな顔で、肇のほうを見返した。
「肇、と言ったか。アルファの弟子だからといって、あいつに義理立てすることはないんだ。最悪どんな目に遭うか分からない」
「黒須さん。俺は別に師匠に義理立てしている訳じゃないです。ただ、師匠のことが心配なだけで」
「アレフもいい弟子を持ったよね。クロス、肇も連れて行こうよ」
「孤独な散歩者。彼の戦闘能力は私が保証します。私も危ないところを助けて貰ったことがある。決して足手纏いにはならないと思いますよ」
ティルと絢はそれぞれ肇に味方するようにこう言った。恭平はやれやれ、といった風に小さく肩を竦める。
「手に負えないと思ったらすぐ逃げるぞ、いいな」
どこか疲れたような恭平の言葉に、三人は合わせて頷いた。
*
「宰相殿。早くしないと、間に合いません」
「努力はしてみる。だが、彼が意識を取り戻さないと、術式は始められん」
アルファルド・シュタインは会話する声で目を覚ました。その声は部屋の外部から聞こえてくる。おそらく片方は先程の天使だろう。だがもう一人のほうは? 彼は重い瞼を緩慢に持ち上げて、辺りを見回す。彼が閉じ込められているのは、薄暗い部屋の一室だ。暗いというのも当たり前で、その室内には窓が全くなかったのだった。まるで物置のような部屋だな、と思いつつ、手を動かそうとしたところで、痛みに顔を顰めた。彼の手足はきつくロープで縛られていたのだ。その下に描かれているのは、魔力を封じるための魔法円だった。アルファルドは苦笑する。魔術師一人にそこまでやるとは随分乱暴な天使だ。
彼がそこまで考えたところで、部屋の入り口が開く音がした。入って来たのは威圧するような長身に、白い外套を纏った天使だった。彼はその額にかかる金髪をかきあげて、鋭い赤眼で魔術師を見据える。
「気が付いたか」
「お蔭さまでな。貴様等は何のためにこんなことをする。俺を捕まえても、何も出ないぞ」
「君は本当に私のことを憶えていないのか」
芝居がかった調子で、いかにも大仰に溜め息を吐くと、金髪の天使は天を仰ぐ。アルファルドはその様に既視感を覚えた。その横顔に、一瞬違う誰かの顔が重なる。激しい嘔吐感を伴って、こめかみのあたりに激痛が走った。目の前の光景が真っ白に染まる。
そこは見渡す限りの荒野だった。草木の一本も生えてはいない。一人の男が、その大地を踏みしめながら、一歩一歩進む。彼が歩くたびに砂埃が舞い上がった。少し離れてもう一人の男が、その後に付いて歩く。
前を歩く男が立ち止まって振り返る。地平の果てに、沈みかけている夕日がその男の背を照らした。男は嘆くように天を仰ぐ。
「かのお方は一体何を考えておられるのだろう。果たしてこの地が豊かになることはあるのだろうか。いくら私の祖先の所業が酷いものとはいえ、こんなことは私の代限りにして欲しいものだ」
その嘆きに、後ろを歩くもう一人の男が驚いて目を見開いた。
「まさか、お前がそんなことを言うとは思わなかったな」
「どうせ生きている限り、この苦しみが続くんだ。私は父上のように長く生きたくはない。もう疲れたよ。私の言葉に天罰が下るのならば、喜んでそれを受け入れよう。私はもはや自分の命など惜しくはない。気がかりなのは息子達のことだけだ」
鮮やかに見えた荒野の風景は、その男の言葉を最後に、徐々に色褪せていく。白昼夢。気が付けば、手に汗をびっしょりと掻いていた。アルファルドは自問する。今のは誰の記憶だ? 彼が自分ではない者の記憶を視ることは珍しくなかった。魅了する者が、精霊達の思いを背負う存在ならば。天の理を外れた者が背負うのは、過去の亡霊だ。自己同一性の喪失と引き換えに、膨大な記憶を得る。あってはならない知識。知るはずのない記憶。眠るという行為だけが、アルファルドをそれから解放する。彼が弟子に忠告した言葉は、実は、彼が自分に言い聞かせていた言葉でもあった。
気が付けば、金髪の天使が神妙な面持ちで、アルファルドの顔を覗き込んでいる。
「……やはり、憶えていない、か。まあいい。術式が完了すれば、嫌でも思い出すさ」
「術式? 何のことだ」
首をわずかに傾けて、アルファルドは鸚鵡返しに問い返す。何だ? この天使達は一体自分に何をしようとしている?
「君の肉体から、エーテル体とアストラル体を引き剥がして変容させる」
「おい待て! それはつまり、身体から魂魄だけを抜き取るということだろう。そんなことをすれば――」
「君は間違いなく死ぬな」
天使は冷ややかに言い放った。
「……貴様等は俺を殺すために、わざわざ捕まえたのか」
唸るような低い声で、アルファルドは問い掛ける。
「死ぬのは、人間としての君だ。君は違う存在として生まれ変わる」
アルファルドは改めて金髪の天使の顔をまじまじと眺める。まさか、天使が新興宗教の教祖のような台詞を吐くとは思わなかった。しかし、このままじっとしていても、殺されることは確定したようなものだ。何とか隙を見て逃げ出さなければ。
「術式の準備が整うまで、もう少しだ。しばらくの間、そうしていろ」
金髪の天使はそういい残すと、身を翻してその部屋から出て行った。
*
既に日は落ちて、辺りはすっかり薄暗くなっている。ぽつぽつと、少しずつ家々に明かりが灯りはじめる時間帯。人通りはなく、路地裏となればさらに闇が濃い。四人の魔術師は、そんな暗闇の中、住宅街を歩いていた。
「……おかしいですね」
道路の真ん中で突然立ち止まり、訝しむように声を上げたのは、絢だった。そのすぐ後ろを歩いていた恭平はつんのめりそうになった。慌てて体勢を立て直すと、不審に思って聞き返す。
「どうした?」
「魔力の流れが先程と全く変わっています。この辺りにあった空間魔術は全て解けている」
絢の言葉に頷いて、ティルはぐるりと周囲を見回した。
「確かに、そう言われて見ればそうかもね」
「魔術組合支部の魔術師達が解いたんじゃないですか」
肇が絢に向かって問うと、絢はかぶりを振って答えた。
「彼等がここまで早く対処できるとはとても思えません。天使達が解除したのかもしれない」
「どっちにしろ、好都合だよ。時間の短縮になる」
ティルは急ぐように足を早めて、先頭を進む。四人はそのまま住宅街を北上していった。
四人はアルファルドの洋館の前に立つ。門柱のすぐ側にある街灯に照らされて、門前からも庭の様子が窺えた。洋館の前庭に生えていた植物は、見る影もなく、焼け焦げている。辺り一面を焦げ臭い臭いが漂っていた。
「これは、ひどいな」
鼻を刺すような臭いに、肇はつい眉を顰めてしまう。
「ここで戦いがあったようですね」
絢も同意するようにこう口にした。ティルはその庭の様子を眺めると、血相を変えた。門に手を掛けて、勢い良く開け放つ。それから、走って洋館へと向かった。
「おい、ティル!」
恭平はそれを制止しようとしたが、時既に遅し。ティルはもう玄関の扉を開けて洋館の中に入っている。
「全く、中に天使がいたらどうするつもりだ」
恭平は嘆息して、軽く頭を振ると、ティルの後に続く。肇と絢も、並んで玄関の扉をくぐった。
洋館の中は人の気配がしなかった。ティルは洋館中を走り回って、各部屋の扉を開ける。どの部屋にも、アルファルドはいなかった。
「やっぱり誰もいないみたいだ。アレフ、一体どこに行ったんだろう」
ティルが息を切らして階段を駆け下り、肇たちのほうに戻ってきた。
「この庭の惨状を見る限り、天使と戦ったことは確かだろう。勝敗は分からないが」
「勝ったとも、思えないけどね。さて、どうしようか」
表情を少し曇らせて、憂鬱そうに天井を見上げながら、ティルが呟く。
「探知魔術を使いましょう」
絢がそう提案した。他の三人が、その声に反応して一斉に振り向く。
「それで、師匠を見つけられるんですか?」
肇が絢に聞くと、彼女は淡々と告げた。
「まだ、この街に彼等がいれば、ですが」
「探知魔術か。あれって確か地図と探す対象が普段身に付けている物がいるんじゃなかったっけ」
ティルが洋館の壁に凭れて、考え込むように腕を組んで見せる。
「地図なら常に持ち歩いています」
絢はそう言うと、懐から折り畳まれた地図を取り出した。
随分と用意周到なことだ、とその様子に呆れつつも、肇は顎に手を添わせて、首を傾げる。
「師匠のよく身に付けている物、か。何かあったかな」
「これが使えるんじゃないのか」
いつの間にか、洋館の赤い絨毯の上に座り込んでいた恭平が何かを手に持っていた。視線が彼に集中する。彼の手にあったのは、輝く金色をした一本の髪の毛。
「それ、呪いに使えそうだよね」
それを見たティルが思わず笑みを漏らす。
「そうですね。探知魔術の他にも使い道がありそうです。大切に取っておかなくては」
絢が冗談とも本気とも取れない口調でこう言うと、男性陣三人は戦々恐々として絢の顔を眺めた。
「何か?」
顔を青ざめさせて、表情を引き攣らせた三人のほうを、絢はいかにも不思議そうに眺める。感情の色の見えない、いつもの黒瞳で。
「いえ、何でもありません」
「別に、ねえ?」
「何でもない」
それぞれ三者三様の答えが返ってきた。
*
絢はすっかり焼け焦げた洋館の前庭に地図を広げ、探知魔術の準備をする。左手に持つのは、金色の髪の毛だ。夜気の中、絢は朗々と声を響かせて、呪文を唱える。
「地に棲まう精霊よ。空を駆ける精霊よ。我が手にあるは道標。遍く四方を探り、我に行くべき道を示せ」
絢の右手の人差し指が、地図に落ちる。しばらく彼女の指は止まったまま動かなかったが、数秒して、何かに操られるかのように、小刻みに動いた。その指が指したのは、城ヶ崎市の北側に位置する山の中だ。
「この辺りに建物なんかあったか?」
肇は首を捻る。以前魔術書が封印されていたのも、確かこの辺りの洞窟だった。そこへ行ったときは、周囲に何かあるようには思えなかったのである。
絢はわずかに首を傾げると、肇のほうを見返して無表情に言った。
「古いホテルがあったように思います」
「ふむ。アルファはそこにいる、という訳か」
一連の様子を黙って見ていた恭平が、納得したように頷く。
「急ごう」
ティルは三人を促すと、急いで門の外に出た。
To Be Continued…
<幕間劇>
○謎の空間。
何かを考え込むように、立っている肇。その様子を見て、ティルが声を掛ける。
ティル「今度は落ち着いてるね、肇」
肇「さっきと全く同じ状況だからな」
ティル「さて、どうしようか」
肇「……ふと思ったんだけど。今回の話って、俺の出番あまりないな」
ティル「アレフがメインの話だからね」
肇「実は、知られざる師匠の生態の謎に迫る!って感じの話なのかな」
ティル「まあ、そうとも言える。作者に言わせれば、アレフに関して『張っていない伏線を回収する』ための話だそうだから」
肇「伏線を張ってもいないのに、回収するところが凄い」
ティル「仕方ないよ。タイトルにまでなっているのに、出番が少なかったんだもの」
会話が途切れる。しばらくの間、沈黙する二人。
肇「……ところでさ」
ティル「何?」
肇「この話で、天使達が唱えている謎の呪文は、一体何なんだ?」
ティル「作者からは『取りあえず、読み飛ばすように』っていう指令が来てるよ。まあその説明は例の蛇足(略)コーナーでやる予定だし」
肇「蛇足(略)コーナーって?」
ティル「肇は知らなかったっけ。作中の名言ネタを解説するコーナー。一回ぐらい、肇も来てみる?」
肇「どうしようかな」
ティル「来るといいよ。謎の呪文の解説も、たぶんアレフがしてくれると思う」
肇「師匠も来るのか? あんまり行きたくないな」
ティル「日本魔術組合支部の談話室でひたすら喋るだけだから、別に面倒なこともないと思うけど」
その言葉の後に、空間が歪みはじめる。
肇「またか」
ティル「やれやれ」
ティルは嘆息してから、優雅に一礼する。
ティル「読者の皆々様におかれましては、ここまで読んで頂いて、心より深謝申し上げます」
ティルの言葉の後、暗闇の中で、静かに幕が降りる。