[第十四話 天使等の力学的理論 前編]
"How do you know but ev'ry Bird that cuts the airy way,
(風を切り空を舞う一羽一羽の鳥が)
Is an immense world of delight, clos'd by your senses five?"
(どれほど喜びに満ちた広大な世界であるのか、お前たちの閉ざされた五感で理解できるだろうか?)
――ウィリアム・ブレイク
銀髪の魔術師、ティル・エックハートは、緑の木々が生い茂る森の中に佇んでいた。柔らかい風が心地よく頬を撫でていく。彼の眼前にあるのは、大きな湖だった。その水面は明るい陽光を反射して、風が吹くたびに様々な表情を見せる。
「せっかく、ここまで来たんだから、のんびりして行こう。どうせ夢なんだし」
その光景を眺めなら、ティルは誰に言うとでもなく独り呟いた。
そう、これは夢だった。夢には二種類ある。見ているものが夢だと気付く夢と、そうでない夢だ。ティルにとって、この夢は後者だった。転移魔術を使用してもいないのに、ロンドンからこんなところにいきなり来られるはずもない。
彼にとって、ここは少年時代を過ごした、故郷とも言える場所だった。イングランドはランカシャー地方の北部、湖水地方にほど近い地域である。
ティルは湖畔の草むらに、仰向けになって寝転がった。見上げれば、一羽の小さな茶色の鳥が、空を舞っている。その特徴ある響きのよい囀りに、彼は聞き覚えがあった。歌鶫だ。彼は視線でその鳥の飛ぶ軌跡を追う。歌鶫が遥か遠く北の空に飛び去ったのを見送って、彼は目を閉じた。ちょうどそのとき。
「ティル。ティル・エックハート。――えているかな」
どこからか、自分に呼びかけてくる声がある。その声は近付いたり、遠ざかったりして、ところどころが聞き取りにくかった。
「日本にいる君の友達が――に見つかった。いつかはこの時が来ると思っていたけど」
五月蝿い。ゆっくりこのまま寝かせてくれ。ティルはその声の主に苛立たされながら、そう思う。
「頼む。――の領分では僕は手を出せない。彼を助けてやってくれ」
真剣な声で懇願するように、その声は訴えてくる。その声は、ティルの名前を執拗に何度も繰り返し呼んだ後に、唐突に途切れた。ティルは目を覚ます。起きてすぐに視界に入ったのは、自分の住んでいるロンドンのアパートの見慣れた窓枠だった。彼は窓際の机に突っ伏して眠り込んでいたのだ。
――何だったんだ? 今のは。
不思議に思ったティルは心の内で自問する。しかしそうしても疑問が解決する訳ではない。ただの夢だと笑い飛ばすことは簡単だった。だが無視するわけにはいかないと、彼の魔術師としての直感が告げていた。
彼は洗面所に向かい、眠気を醒まそうと、慌てて顔を洗う。それから、旧友に連絡するために、本棚の上に置いていた携帯電話を手に取った。
*
鮮やかな金髪を長く伸ばして、うなじの辺りで束ねた一人の男が、鉄塔の上に立っていた。彼は鋭い視線で街を見下ろしながら、大きく息を吐く。彼の真紅の瞳には、日差しに照らされた城ヶ崎市の風景が映っていた。その長身の身体を包んでいるのは、白い外套だ。もし、その姿を目撃した者がいたなら驚愕しただろう。彼の背にあるのは、無数の翼だった。その男は厳しい表情のまま、眼下の街に魔術が展開されていくのを、じっと眺めている。しばらくそうした後に、彼は独り静かに呟いた。
「今から七時間が限界か。それまでに見つけることができればいいのだが」
金髪の男の前方に、異常が見られたのはその時だった。どこからともなく詠うような声が響いて、空間が波打つように揺らめく。
「ZACAM,SAANIR UPAAH」
金髪の男はそちらに目をやった。空間の狭間から現われたのは、茶色の髪をした男だ。その男は驚くべきことに宙に浮いている。彼もまた、金髪の男と同じように、背に翼があった。
「ヘレメレク。仕掛けたか」
ヘレメレクと呼ばれた天使は、金髪の男のすぐ側に降り立った。それから、恭しく頭を下げて口を開く。
「はい。仰せの通りに。しかし、宰相殿。その人間の魔術師は、本当にあの方と関係があるのでしょうか」
「べへモットの証言通りなら、可能性は高い」
「……あの牛ですか。信用に足るとも思えませんが。だいたい無断でこちらに来たのは、いくら何でもまずかったのでは?」
「問題ないだろう。どうせ、我々の活動時間には限界がある。彼等が私の不在に気付く間もないさ」
どこか開き直ったように、あっさりと言ってくる眼前の男を眺めながら、ヘレメレクは考え込む。多少厳しいところはあるものの、彼は上司としては申し分なかった。彼の下で働くことを誇りに思っている者も多い。数多い天使達の中でも、純粋な戦闘能力で、この上司と肩を並べるのは、あの天使長ぐらいのものだろう。これで、あの方への執着さえなければ。彼は胸中で密かに嘆息する。いなくなった者にいつまでも拘るのは、愚か者のすることだ。
金髪の男は表情を引き締めると、ヘレメレクに続けて命令を下した。
「私は今からその魔術師を探し出して接触するつもりだ。君は邪魔が入らないように、見張っておいてくれ。普通の人間ならば、魔術に掛けられていることも気付かんだろうが、もし邪魔する人間がいれば、殺しても構わん」
「承知致しました」
今度は軽く一礼してから、ヘレメレクは翼を羽ばたかせて、鉄塔から飛び立った。
*
「ついにやったわ。これで私の大いなる野望に一歩近付いた」
トレードマークの茶色のポニーテールを揺らしながら、宮路悠は甲高い声を辺りに響かせた。彼女は手に持ったオカルト雑誌を誇らしげに広げている。
「ついに! 私の写真が『恐怖! 私の怪奇ミステリー体験』に掲載されたのよ!」
「ああ、そりゃあ良かったな。お前の大いなる野望とやらが一体何なのかは知らないけど」
悠の言葉を話半分に聞き流しながら、久住肇はやる気のなさそうな声で言葉を返す。二人はゆっくりと住宅街の路地を歩いていた。城ヶ崎高等学校からの下校途中である。今日の授業は五限で終わったために、時刻は三時半過ぎだった。まだ十分に日は高く、辺りを眩しい陽光が照らす。軽く身体を動かせば、汗ばむほどの陽気だ。悠はその陽気そのもの、といったハイテンションで、声量を大にして叫ぶ。
「いい、これはものすごいことなの。今まで何度も投稿したけど、こんなに大きく載ったのは初めてよ!」
「分かった、分かった」
オカルト雑誌に自分の撮った写真が掲載されたことがよっぽど嬉しいのか、悠は息吐く間もないほどに、言葉をまくし立ててくる。それを適当にあしらいながら、肇は頭の中で別のことを考えていた。このテンションの悠を撒くのは、至難の業だ。アルファルドの洋館へ寄りたいが、悠が一緒に付いてくる可能性もある。一度家に戻ってから出直すほうがいいかもしれない。しばらく歩きながら逡巡した末に、彼はこのままアルファルドのところに行くことに決めた。
「次はもっといい心霊写真を撮ってみせるわ」
嬉々として話し続ける悠の言葉を途中で遮って、肇は口を開く。
「悠。悪いけど俺、ちょっと寄るところがあるから」
誤魔化すように笑って告げると、肇はくるりと背を向けた。自宅とは反対の方角へと足早に歩を進める。
「肇? ちょっと待ってよ」
怪訝そうに問い掛けてくる声には答えずに、肇はいつものように交差点へと差し掛かった。青信号が点滅して赤に変わりそうなことを察知した彼は、急いで横断歩道を渡る。全力疾走して道路の向かい側に辿り着いたと思ったところで、彼はその異常に気付いた。確かに渡ったはずなのに、自分の立っている場所は、渡る前とは何一つ変わってはいない。肇はその場に立ちすくんで考え込む。
「もう、一体どこに行くのよ」
振り向くと、走って追いかけてきたのだろう、息を切らした悠がそこに立っていた。
「いや、知り合いのところに寄って帰ろうかと思っただけだ」
ふうん、と相槌を打つ悠。再び赤信号は青へと変わった。それを見た彼女は横断歩道を渡ろうとする。
「おい待て、悠!」
慌てて肇は悠の後を追いかけた。向かいの道路に渡ったつもりだったが、やはり一歩も進んでいない。思わず疑問の声を上げてしまう。
「悠、何か変じゃないか?」
「そうかな。普通でしょう?」
無限ループ。break文で脱出することはできそうもない。これは一体何だ。何故悠はおかしいとは思わない?
この街で、魔術師だけがその異変に気付いていた。
*
日本魔術組合支部の一室で、机の前に座りながら、芦川賢治は自らの部下の報告を聞いていた。城ヶ崎市全体に大規模な魔術が掛けられていることについて、調べさせていたのだ。確認するように、彼はその切れ長の黒瞳をさらに鋭く細めて、問い掛ける。
「やはり、これは空間魔術の一種なのだな」
「はい。城ヶ崎市の北部、数箇所に仕掛けられています」
「引き続き、調査を続行しろ」
「了解しました」
退室していく部下の後ろ姿を眺めつつ、片眼鏡に手をやりながら、賢治は大きく溜め息を吐く。彼は頭を抱えていた。彼がここ日本魔術組合支部の支部長に就任して、それほどの時間が経つ訳ではなかったが、未だ心の休まるときがあった試しがない。この間の魔術書騒ぎに続き、この異変だ。一つの街で、果たしてこれほど魔術絡みの事件が頻発するものなのだろうか? 彼の脳裏を特異点という言葉がよぎる。この街の結界は、これまであの魔術書を封印するために張られたものだと言われてきたが、もっと他の意味があるのかもしれない。あるいは、災厄がその名前通りにこの街に災厄を招いているとでも? 賢治は、常々、あの金髪の魔術師の悪評は大げさだと考えていた。確かに少々許しがたいところはある。だが、基本的に彼は悪人ではない。短い付き合いだが、それくらいは分かる。賢治の思考は、部屋の扉が叩かれる音で中断された。
彼は顔を上げて、来訪者を出迎える。たくさんの書類を抱えながら入ってきたのは、鮮やかな黒髪をした女だった。髪と同じ色をした服に身を包んだ魔女。賢治もよく見知った顔である。黒の人形師、綾織絢だ。
「何だ、君か」
「お疲れですね、時計仕掛けの叡智」
「ああ。本当に頭の痛いことだ。今回の異常の原因は全く分からない。こんなことをして一体何になる?」
賢治はこの問いの答えが返ってくることを特に期待していた訳ではなかった。ただの愚痴のつもりだったのだ。しかし、返ってきたのは、彼にとって予想外の返答だった。
「私は災厄絡みの厄介事の可能性が高いと思っています。彼に恨みを持つ何者かがこれを仕掛けたのではないでしょうか」
「しかし、一人の魔術師が、こんな大掛かりな魔術を行うことが果たして可能だろうか? 彼に恨みを持ちそうな魔術師で、優れた力を持つ者は、だいたい分かっている。今回の件で彼等が動いた形跡もない」
「強大な力を持つ精霊や悪魔の喚起魔術、あるいは天使や神の召喚魔術を行って、その力を借りれば、一人でも可能だと思います。お忘れですか? 先日のべへモットの事件のことを」
淡々と告げてくる絢の言葉に、賢治はこの間の事件を思い出す。あれは確かに厄介な出来事だった。剣長官、咆哮する嵐の要請通りに災厄が動いたので、早期解決したのだったが。
「……ふむ。召喚術師が彼を狙っている可能性も考えるべきだったか。しかし、それほど強力な魔術的存在を使役できる魔術師というのもそうはいまい」
賢治は背もたれに体重を預けて、そこで一呼吸置く。それから考え込むように、顔の前で手を組み合わせると、視線を絢に向けた。
「君は通常通り災厄を監視してくれないか。もし彼を狙う者の仕業なら、必ず彼の側に近付いてくるはずだろう。これは私からの頼みだ」
手に持っている書類を抱え直しながら、絢は無表情に首を傾げて見せた。
「できれば、私もそうしたいとは考えているのですが。思ったよりもこの空間魔術は厄介なようで、彼のところに辿り着けるかどうかは、正直分かりません。出来る限りの努力はしてみますが」
「それでいい。頼む、黒の人形師」
「分かりました」
絢はそう言い残すと、身を翻して足早に部屋から出ていく。賢治は先程よりも深く溜め息を吐いて、その背中を見送った。
*
闇色の服を身に纏う黒髪の男が、部屋の片隅で一人ぶつぶつと文句を言っていた。彼の名を、黒須恭平という。ここは城ヶ崎市の隣町、雲井市にある彼の家の一室だ。その声は呪詛のように止まることを知らず、ひたすら延々と言葉を紡いでいた。
「私は断じてあいつのパシリではないはずだ。何で私がこんなことをしなければならん。というか、最近日本に来るのが多すぎる。むしろあいつは日本に住むべきじゃないのか。いや、それではここに居つく期間が長くなって余計面倒か。だいたいあいつの電話はいつも唐突なんだ。時差を考えていないから、こちらが迷惑を被る羽目になる。いっそのこと着信拒否にするべきだろうか」
恭平がその手で部屋の床に書き記していたのは転移魔法円だった。魔術師が遠距離を移動する際に使用する代物である。この転移魔法円は、魔術師にとって最もポピュラーな移動手段だ。しかし一つだけ大きな制約があった。転移元と転移先の魔法円の両方に転移座標と時刻を正確に書かなければならないという制約だ。彼はロンドンに住む友人からこちらに来るという連絡を受けて、必死に魔法円を描いていた。
彼の頭上を一匹の黒猫が飛び越えていく。翼を羽ばたかせながら。この翼ある黒猫は彼の使い魔ニャルであった。ニャルは部屋の奥の机に降り立つと、からかうようにその目を煌めかせた。
「マスター、手が止まってるぞ」
「五月蝿い、ニャル。お前も手伝え。今何時何分だ」
恭平は手を動かしながら、顔を上げずに、自らの使い魔に聞いた。
「三時五十五分。四時まで残り五分だ。がんばれ、マスター」
「無責任なこと言うな。しかし何とか間に合いそうだ」
恭平は手を早めて、作業に没頭する。彼はすでに仕上げの部分に入っていた。魔法円の外周に、転移座標と時刻を細かく描いていく。そこまで終えてから、彼は息を吐いた。彼は立ち上がり、机の上に置いてある電波時計に目をやる。時刻は三時五十九分。本当にぎりぎりだな、と思いながら、彼は魔法円に手を付いて、呪文を詠唱した。
「大いなる精霊よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」
部屋全体が魔法円の放つ明るい光に照らされる。しばらく待った後に、魔法円から現われたのは、頭に黒いターバンを巻いた銀髪の魔術師だ。彼は目を瞬かせながら、きょろきょろと辺りを見回す。それから恭平のほうを見て、口を開いた。
「やあ、クロス。それにニャルも。元気そうで何より」
「こんにちは、ティル殿」
翼ある黒猫は前足を器用に上げ、ティルに向かって優雅に一礼した。
「ティル・エックハート。お前は一体何をしに来た」
恭平は立ち上がると、ティルに剣呑な視線を向けた。今まで彼に散々かけられた迷惑のことを鑑みれば、少々詰問口調になるのは仕方のないことだろう。ティルは頭を掻きながら、弁解口調で言う。
「君とアレフの様子がちょっと気になって」
「電話すればいいだけだ。わざわざ来ることなんてない」
「夢を見たんだよ。変な声がして、日本にいる友達を助けろって、何度もしつこく言って来るんだ」
恭平は目を見開いて、旧知の友の顔をまじまじと見つめる。彼がまさか夢占いを信じるとは思わなかった。彼は魔術師にしては珍しく、根っからの合理主義者だったので、少し意外だったのだ。
「そこの本棚にユングの本が置いてあるぞ。何なら貸そうか」
その言葉を聞いたティルは苦笑したが、すぐに表情を引き締める。
「いや、今はいい。それよりアレフのほうが気になる。何度電話しても出なかった」
「いつものことだろう。どうせ寝ているに決まっている」
呆れ果てた顔で言い切った恭平に、ティルは神妙な面持ちでかぶりを振った。
「嫌な予感がするんだ。どうしてなのかは分からないんだけど。僕は今からアレフの家に行くから」
ティルは鋭く言い放つと、恭平に背を向けて部屋の外に出る。
「おい、待て」
恭平はいつもの彼らしくもない真剣な様子に戸惑いつつも、慌てて後を追った。
*
アルファルド・シュタインは、違和感を感じてソファーの上で目を覚ました。ゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。彼の碧眼に映るのは、いつもと変わらない自宅の居間だった。彼は怪訝そうな顔をして、首を傾げる。彼は再び目を閉じて、世界に満ちる魔力に意識を向けた。それで、ようやく違和感の正体に気付く。魔力の流れに異常があったのだ。この家の周りに、幾つもの空間の綻びがある。おそらくは空間魔術の一種に違いない。それにしても、誰が何故こんなことをしたのか。敵は魔術師か、それとも、他の何者かであろうか。狙われる心辺りなら、十分過ぎるほどにあった。アルファルドは、辺りを警戒しながら、扉に手を掛けて部屋の外に出る。それから家の外の様子を窺おうと、玄関から出たところで。彼の目は、まるで最初から居たかのように、庭の風景に溶け込んで、ごく自然にそこにいる存在を捉えた。
そこに立っていたのは金髪の男だ。その長い髪を後ろで紐で括っており、白い外套を身に纏っている。それはどこからどう見ても人間には見えなかった。背から生えた無数の羽根。翼ある存在、天使。
アルファルドは厳しい表情をして、金髪の天使を眺めた。天使は燃え上がる炎のような赤眼で、魔術師を見返した。見るものを断罪するような鋭い視線で、睨み付ける。しばらくそうした後に、詰めていた息を大きく吐いて、天使は重々しく口を開いた。
「……やはり、君がそうなのか」
「貴様は何者だ。俺に何の用がある」
金髪の天使はアルファルドの問いを完璧に無視して、憂鬱そうに目を伏せる。
「悲しいことだ。本当に私のことを忘れてしまったのか。それとも知らないふりをしているだけなのか」
天使は悲劇的な調子で、嘆くように言葉を紡いだ。
「君が災厄を見せなかったならば、今の私は無かったというのに。君は二番目であることをいつも苦にしていた。孤独なるもの。同じ一つ星でも、魚の口に比べて見劣りする、その名を君が得たのも、きっと偶然ではなく、意味のあることなのだろう」
独白するように語り続ける言葉を遮って、アルファルドはきっぱりと断言した。
「何をごちゃごちゃ言っている。俺は貴様なんぞ知らん。悪魔に恨まれる覚えなら嫌というほどあるが、天使に恨まれる覚えは全くないからな」
金髪の天使はアルファルドの顔を再び見つめると、軽く肩を竦めた。それから自嘲するように表情を歪める。
「そうか。君はあくまでも私のことを知らないと言い張る訳だな。仕方ない。力ずくでも私のことを思い出してもらおう」
天使はその手を天高く掲げると、呪文を言葉にのせる。
「ZIRDO ISRO MERIFRI. OL SONF VORSG TA QAAL,IALPON NAZ PVRGEL」
轟音とともに現われたのは、燃え盛る炎の柱だった。それはすっかり伸びきった庭の草を燃やし尽くした。生き物のように蠢いて形を変えたかと思うと、アルファルドに襲い掛かる。アルファルドはその炎を間一髪で躱して、小さく呟いた。
「イージスの盾よ」
その言葉に応えて、不可視の盾が炎を遮った。炎は力を失い、そこで沈静化する。金髪の魔術師は、その様子を見届けると、眉間に皺を寄せて、大きく溜め息を吐いた。若干の苛立ちを込めて、こう告げる。
「家を燃やされてたまるか。全く傍迷惑な天使だ」
「精霊魔術か。君ならそんな姑息な手段で妨害する必要もないだろうに。だがこれは避けられまい」
金髪の天使は、言い放つや否や、続けて呪文を詠唱した。
「NIISA NAPEA, ZAMRAN PAMBT」
天使の背後の空間が波打つようにして、揺らめいた。その空間の狭間から忽然と現われたのは、幾つもの剣だ。その一本一本の柄には意匠を凝らした装飾が施されている。それは天使の翼の周りをぐるりと囲んで、宙に静止した。
「さて、君はどう出るか」
天使は口元を喜悦に歪ませながら、指を折って数字を数える。
「OL CORMP CORMFA. X,M,P,Q,N,O,S,D,V,L,T,GROSB!」
高らかに宣言された最後の言葉を合図にしたように、宙に浮いた剣は、アルファルドに向かって一直線に飛んでいく。
そしてまさに金髪の魔術師を串刺しにせんとしたが。
直前で何かに阻まれるようにして、それらは全て軌道を変えた。目標を見失った剣は、勢い良く地面に突き刺さる。
すでに、アルファルドは一歩前に踏み出している。
「来たれ、炎の剣」
魔術師の手の内に炎の剣が発生した。アルファルドは距離を瞬時に詰めると、天使に向かって渾身の力で炎の剣を叩きつけた。天使はその羽根で空を舞い、身を捻って避ける。そのまま門柱の上にひらりと着地すると、天使は冷淡な視線で魔術師を見下ろした。
「遊んでいる時間はあまりない。一気に片を付けさせてもらう」
手を再び掲げると、詠うように声を辺りに響かせる。
「OL OECRIMI LVIAHE FABOAN」
周囲の空気を細かく振動させて、アルファルドを襲ったのは、音だった。
その音は三半規管を狂わせて、アルファルドの意識を苛む。
「貴様……」
激しい眩暈に立っていられなくなったアルファルドは、がくりと膝を付いた。全身の血液が逆流するような、不愉快な感覚。視界が酷く歪む。なんとか手で身体を支えて立ち上がろうとするが、掴む指は力が入らず、地面によろめくようにして倒れ伏す。
天使はアルファルドが倒れ込むのを見届けると、その横に翼を広げてふわりと降り立った。
「肉体を持つ者は脆弱だな。たとえ君といえども、それは例外ではない」
金髪の天使はそう呟いて、アルファルドの身体を抱える。それから大地を蹴って、空に舞い上がった。
*
久住肇は途方に暮れていた。いくら歩いても、この交差点からは抜けられそうもない。まさか、よく見知った場所でこんな目に遭うなどとは思いもしなかった。隣を歩く悠は、異常事態であるというのに、のんびりしたものだ。こういう事態に遭遇した場合、真っ先に狂喜するのは、この幼馴染であるはずなのに、だ。まるで得体の知れない何かが人の意識に干渉しているようだ、と思った。
「どうしたの? さっきからずっと黙り込んじゃって」
「いや、何でもない」
悠の問いにかぶりを振って答えながら、肇は考え込む。もし魔術によってこの現象が引き起こされているのなら、魔術によってこの現象を消し去ることも可能なはずだ。絢が以前空間魔術を解いていたことを思い出す。あの時彼女はどう唱えていただろうか。肇は自分の記憶力の無さを呪った。風の精霊ならば、呪文を介せずとも、従わせることは可能だ。だが空の精霊ともなれば、厄介だった。到底、自分のレベルでは、歯が立ちそうもない。
青信号にも係わらず、横断歩道の前で立ち止まる肇を訝しく思ったのか、悠は重ねて聞いてきた。
「ねえ、どうしたのよ」
「いいから、黙っていろ」
肇は鋭い声で悠を制止すると、目を閉じて意識を集中させる。
――空の精霊よ。力を貸してくれ。この魔術を解きたいんだ。
彼は自身の呼びかけに応じて、魔力の流れが変わったことを認識した。成功しただろうか。肇は横断歩道を渡らずに、元の道へと引き返す。もしこれが師匠絡みの事件だった場合、悠を連れてアルファルドの洋館に近付くのは危険だった。住宅街をしばらく歩いてみて、思惑通りに、空間魔術が解けていることを確認する。肇はほっと胸を撫で下ろした。
「肇。どこか寄り道するんじゃなかったの?」
「いいんだ。早く家に帰ろう」
怪訝そうに言ってくる悠に笑みを返すと、肇は早足で自宅の方角へと歩いていった。
*
綾織絢は、城ヶ崎市中に幾重にも張り巡らされた空間魔術を、一つずつ解いて進んでいた。彼女が目指しているのは、アルファルドの洋館だ。
「捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」
力ある声に答えるようにして、住宅街の風景が一瞬歪む。傍目には何の変化もない――だが、彼女には分かっていた。目を閉じて、魔力の流れが正常に戻っていることを確認する。それから小さく息を吐いて額の汗を拭い、また歩きはじめる。そうやって辺りに気を配りつつ、絢が慎重に目的地へ向かっていると、頭上から声が降って来た。
「悪いが、ここから先へ通す訳にはいかない。宰相殿の命令だ」
絢は空を見上げる。その声の主は、電柱の上に立っていた。茶色の髪をした男だ。その背には翼がある。
彼女は不自然極まりないその姿を見ても、表情を変えない。何の感情も込めずに、ただ淡々と問い掛ける。
「貴方達の狙いは、災厄、アルファルド・シュタインですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
茶色の髪をした天使は、絢の問いをはぐらかすように、意味深な答えを返す。
「宰相殿がどなたなのかは分かりませんが、私もここで退く訳にはいかないのですよ」
その天使は重力を感じさせずに、ふわりと絢の前に降り立った。厳しい表情で絢を見据えると、鋭く言い放つ。
「これ以上進むつもりなら、殺してでも止めろと言われている。人間よ、あなたは命を賭してでもここを進む覚悟があるのか」
糾弾するような視線にも動じずに、絢は真正面から天使を見返して、こう告げた。
「貴方のその問いは人間を侮りすぎではないでしょうか? 私は任務に当たるときはいつでも死を覚悟している」
その言葉を聞いた天使は、嬉しそうに口元に笑みを浮べた。
「その覚悟に敬意を表して名乗ろう。私の名はヘレメレク。力天使に属するもの。称号は破壊の王」
絢は心の中で苦笑する。天使の挨拶も魔術師の挨拶とそう変わらないらしい。
「では私も。位階III、黒の人形師、綾織絢。参ります」
天使と魔女の戦いはそのようにして始まった。
To Be Continued…
<幕間劇>
○謎の空間。
意味が分からず、辺りを見回す肇。
肇「何だ、これは? 空間魔術か?」
ティル「やあ、肇」
後ろからの声に、肇は振り向く。
肇「あれ、ティルじゃないか。一体どうしたんだ」
ティル「……作者が分量を間違えて、書いてしまったために、謎の空間が生じたんだ」
納得したように頷く肇。
肇「分かった。この前みたいに、無駄に長くなって、前編と後編に分かれるから、あらかじめ、読者に謝っておいてくれってことだろ」
ティル「違うよ」
首を振って否定するティル。その様子を肇は不思議に思って眺める。
肇「何が違うんだ?」
ティル「前編と中編と後編に分かれるんだよ!」
肇「……そりゃあ驚きだな。でもあんまり変わらない気もするんだが」
ティル「いや、全然違う。僕は以前、図書館に本を借りに言ったときに、上巻と下巻だけ借りて、中巻を借り忘れたことがあるんだ」
肇「それは、ちゃんと調べなかったティルが悪い。というか、誰もそんな個人的経験に興味はないと思う」
ティル「そうかな」
肇「そうだよ。せっかくこんな空間があるんだから、もっと有意義なことに使わないと」
ティル「有意義、ねえ」
ティルは考え込む素振りを見せる。
ティル「そう言えば、今回のサブタイトルは、いつもにも増して、意味が分からないなあ」
肇「俺には分かるけどね」
ティル「大体、この話のサブタイトルは基本的に、駄洒落か、喩えか、パロディなんだよね」
肇「……というか、ほとんどがパロディだな。作者によれば、『第一話と第五話と第六話と第八話以外は全部パロディ』、だそうだ」
ティル「第六話は、そのまんまだから、パロディとは言えないね。肇、分かってるんだったら、何かヒントくれない?」
肇「熱力学第二法則の悪魔で有名な人の、別の論文のタイトル」
ティル「……何てマニアックな。今回のこれって、一応天使の話だよね?」
肇「どう考えても天使の話だけど、作者って天邪鬼だから」
黙り込むティル。しばらくして、辺りの空間がだんだん狭まっていく。
ティル「何、これ?」
肇「帰れ、ってことじゃないのか」
ティル「ええと、とにかく、読者の皆さん! 読んでくれてありがとうございました! 次回をお楽しみに!」
慌てて早口で叫ぶティル。二人の姿が闇に消えた後、閉幕。