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[第十三話 孤独な散歩者の苦悩]

" Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen." (語り得ぬものについては、人は沈黙しなければならない)

                                         ――ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン


 空はどこまでも青く、天の果てまで続いているように見えた。大地はそれとは対照的に緑色をしていた。一面に生えている草のせいで。

 その色彩の狭間で、黒ずくめの陰気な男が立っている。その服の色、その髪の色、その瞳の色。全てが黒一色だ。驚くべきことに、虹彩の色までが黒い。

 じっと動かずに、その男は虚空を見つめていた。そして独り呟く。

「ああ、そうか。お前は死ねば世界は終わると思っていたんだな」

 男はそこで一旦言葉を切った。誰かの声に、耳を傾けるように。

「だけど、そうじゃない。少なくともそうじゃなかった、お前にとっては。現在の生も、相変わらず以前の生と同じように、謎に満ちたままだ」

 風もないのに、男の周囲の草葉がざわめく。その陰で、何かが蠢いた。

「私はお前にその謎の答えを与えよう。その代償に、私に隷属することを誓え。その時が満ちるまで」

 その言葉に応えるように、男の周囲に旋風が巻き起こった。


     *


 城ヶ崎高等学校、二年三組の教室。昼休みに、黒髪の少年、久住肇(くじゅうはじめ)は、自身の席でサンドイッチを頬張っていた。その隣に椅子を持ってきて、机の上に弁当と水筒を広げているのは、茶髪の少年、上野寿人(うえのひさと)だ。そんな二人のほうに、茶色の髪をポニーテールにした少女がゆっくりとやってくる。肇の幼馴染の少女、宮地悠(みやじゆう)である。

 寿人は気配に気付いたのか、顔を上げて彼女のほうを見た。そして、口を開く。

「悠、今週の校内新聞見た?」

「いや、まだ見てないわ。何か面白い記事でもあったの?」

「お前の好きそうな記事が載ってたよ。幽霊が出たって」

 それを聞いたときの悠の表情の変化は見ものだった。まず、驚いたように目を見開く。それからその顔はみるみるうちに紅潮していった。文字通り血相を変えて、寿人に思い切り掴みかかる。

「どこ、どこで出たの!」

「ちょ、ちょっと」

 いきなりの悠の行動に、寿人は思わずむせそうになる。それを見かねた肇は悠を制止した。

「悠、放してやれよ」

 悠は言われて、不服そうな顔で肇をちらりと見た後に、手を放す。寿人はお茶を一口飲んでから、呼吸を整えた。

「木造校舎だよ」

 木造校舎とは、城ヶ崎高等学校の敷地の東側に位置する建物だ。戦後しばらくして建てられたこの校舎は、おそらく築五十年はゆうに越えているだろう。今はほとんど使われておらず、音楽室と、文化部の部室があるだけだった。

「寿人。まさかお前が悠に自らそんな話を振るような自殺行為に走るとは思わなかったよ」

 肇は一つ溜め息を吐いた後、恨めしげに寿人を見やる。寿人は弁解するように手をひらひらと振った。

「どうせ、この話はすぐに広まるだろ? 厄介事に巻き込まれるのなら、早いほうがいいと俺は思ったんだけど」

「付き合わされる俺の身にもなってくれ」

「それはお互い様じゃないか」

 ひそひそと小声で言葉を交わす二人に、頭上から声が降り落ちる。

「今晩、幽霊探索を決行するわ。あなた達も、付いてきなさい」

 茶色の髪の少女は腰に手を当てて、実に嬉しそうに断言した。

 肇はあからさまに面倒臭そうな表情をして、投げ遣り気味に答える。

「はいはい」

 その返事を聞いた悠は、不満そうに肇の顔を覗き込んだ。

「ああもう。やる気ないんだから」

「幽霊探索に精を出すお前のほうが変わってるよ。普通そういうものは避けるだろ、どう考えても」

「あのねえ。追い求めないわけにはいかないわよ、そこにそれがあるんだから」

 悠はどこかで聞いたような台詞を吐く。それを横で眺めていた寿人はしみじみと呟いた。

「ほんっとうに悠はオカルト好きだよね」

「全く傍迷惑な人種だよな、オカルトマニアってのは」

 寿人の言葉に同意して、肇は大きく頷いた。

 そんな二人を軽く睨み付けるようにして、悠は問い掛ける。

「オカルトの意味を知ってる?」

 唐突に聞いてきた悠に、肇は胡乱気な視線を向けた。

「意味なんてあるのかよ」

「言葉の意味のことよ。オカルトはもともとラテン語で『隠されたもの』を意味する言葉なの。つまり、それは暴かれるためにある。オカルトを碌に検証もせずに、一方的に否定する人間ほど信用のならないものはないわ」

「別に、一方的に否定しているつもりはないよ。ただ、自ら進んで幽霊に会いたいとは思わないだけだ」

「俺もそう思うよ。そんな恐ろしげなものには関わりたくない。まあ、宇宙人とかなら、一度くらい会ってみたいとは思わなくもないけど」

「……余計なことを言わないほうがいいと思うぞ、寿人。次にUFO騒ぎが起こったときは、俺はお前に悠を押し付けて逃げるからな」

「肇! 人を厄病神みたいに言わないでくれる?」

 目尻を吊り上げて、肇に襲い掛かろうとする悠。

 そのとき、ちょうど休憩時間の終了を示すチャイムが鳴る。悠は肇を鋭い目付きで一瞥してから、背を向けた。寿人は椅子を片付けようと、自らの席へと戻る。取り残された肇は今晩のことを考えて、頭が痛くなった。


     *


 夜の八時。雲に覆われた夜空の下、三人は城ヶ崎高等学校の校門前に集合した。空に月は無く、辺りは暗い闇に包まれている。悠はごそごそと大きなカメラをリュックから取り出して、首から提げた。その様子を見た寿人が悠に尋ねる。

「悠、それで心霊写真を撮るつもりなんだね」

「当然よ。『恐怖! 私の怪奇ミステリー体験』に絶対載せてやるんだから」

 悠は自らが愛読しているオカルト雑誌の読者投稿コーナーを挙げて言った。肇は呆れ果てた表情で、彼女のほうを眺める。悠の首にかかっているのは、昔ながらの一眼レフだ。しかし、何故心霊写真を撮るのにデジタルカメラではいけないのだろう、と肇は少し訝しく思う。口には出さないが。

「何ぼーっとしてるのよ、肇」

 悠は振り向いて声を掛けた。考え込んでいる間にも、悠と寿人は先へと進んでいる。

「ああ、悪い」

 肇は慌てて二人の後を追った。

 この時間帯は、当然のごとく校門は閉まっている。しかし夜中に学校の構内へ入る方法は、学生達の間ではよく知られていた。グラウンドの西側の金網には、大きな穴が開いているのだ。三人は、そこの金網の穴を潜って、構内へと入る。そこから、三人はグラウンドを斜めに横切って、木造校舎のほうへと向かった。その入り口は、しっかりと施錠されている。開けようとしても、びくともしない。

「どうするんだよ、悠。閉まってるぞ」

「問題ないわ」

 悠はそう言って木造校舎の裏側へと足早に歩いていく。彼女はその一番北側の窓に手をかけた。その窓は、いとも簡単に開く。鍵がかかっていなかったのだ。彼女はリュックから懐中電灯を出して、中を照らす。その窓の隙間から覗いた光景は、なんと女子トイレだった。彼女は得意そうに胸を張って、満面の笑みを浮べる。

「学校から帰る前に、ここの窓の鍵だけ開けておいたのよ。いくら先生でも、こんな細かいところの戸締りまできちんと確認しないでしょ」

 悠は最後に校舎の見回りをする人間が、男性教諭であることを、逆手に取ったのだった。

「……なんて姑息な」

「実は悠が鍵開けの特技を持ってるとか、そういうのじゃなくてかえって安心したけどね、俺は」

「悠ならありえるぞ」

 悠は校舎の陰で話し込んでいる二人のほうに顔を向けた。

「何ごちゃごちゃ言ってるのよ。さっさと入りなさい」

 言われた肇と寿人は顔を見合わせた。そして、同時に反論する。

「俺は嫌だ」

「レディーファーストだよ」

 中に誰もいないのが分かっていても、自ら率先して窓から女子トイレに侵入したくはない、というのが健全な男子高校生の心情である。もし女子生徒に目撃されれば、確実に変態扱いされる。まあ、敢えてその行為を勧めてくる例外的存在がここにいる訳ではあるが。

「もう、意気地なしなんだから」

 そういう問題ではない、と肇は言い返そうとしたが、止めた。彼は無駄なことはしない主義だ。悠は足を窓の桟にかける。彼女は手で窓枠を持ち、軽やかな身のこなしで、女子トイレに降り立った。彼女は窓から顔を出して、まだ躊躇している二人に言う。

「早くこっちに来なさい」

 肇と寿人の二人は、大仰に溜め息を吐いて、渋々その言葉に従った。


     *


 夜の学校というのは独特の気配に満ちている。それが古い校舎内ならば、なおさらだ。歩くたびに廊下はぎしぎしとした音を立て、時折吹く風が、窓ガラスを鳴らす。暗闇の中で、頼りになるのは、悠の持っている明かりだけだった。あらゆるものが、不気味な雰囲気を醸しだしている。

 ――肝試しには持ってこいだ。

 肇は内心そう思った。これが物語ならば、女子は震えながら、おそるおそる男子の後ろを付いて歩くのだろう。親密度アップのイベント、という訳だ。しかし、この中で紅一点である悠は、後ろの二人を全く顧みずに、ずかずかと先頭を進む。現実とはこんなものだよな、と胸中で嘆息しつつ、肇は早足でその後を追った。隣を歩く寿人に聞いてみる。

「校内新聞には、幽霊がどういう状況で目撃されたのか、書いてなかったのか?」

「この間、コンクールの前日にブラスバンド部が合宿したときに、ここの木造校舎を使ったそうなんだ。一階の開いている教室で雑魚寝したらしい。ある女の子が、二階の音楽室に忘れ物を取りに行った。それで――」

 寿人の言葉を途中で遮るように、肇は口を挟む。

「ベートーベンの肖像画が笑いかけてきたとか?」

 くすくすと声を立てて寿人は笑う。

「……なかなか古典的な発想をするね、肇は」

「そうか?」

「うん。俺が小学校の時にもそんな怪談があったような気がする。まあ、その話は置いておくことにして、だ。誰もいないのに、グランドピアノの蓋が開いて、勝手に鍵盤が動いたらしい」

 肇は腕を組んで、しばらくの間、考え込む。

「それって誰かの悪戯じゃないのか。透明な糸を仕掛けておいたとか」

 ――あるいは、魔術を使えば、もっと簡単にできるだろう。

 その現象を幽霊の仕業と考えるには、あまりにも早計だと肇は思った。

「さあね。校内新聞には騒乱現象(ポルターガイスト)だって書いてたけど」

 話しているうちに、悠はすでに階段を上がっている。彼女は踊り場から見下ろして、二人を呼んだ。

「肇、寿人。早く早く」

 催促する声に、二人は慌てて階段を登る。そうして三人は音楽室の扉の前に辿り着いた。

 悠はゆっくりと扉を開けようとする。扉は軋む音を立てて横滑りし――

 それを手で制したのは、寿人だった。

「何するのよ!」

 悠は小声で反論する。寿人は顎に手を添わせるようにして、怪訝そうな顔をした。

「よく考えたら、音楽室の鍵は開いてないはずだよ。どうして開いてるんだ?」

 それはもっともな疑問だった。楽器等、貴重品の多いこの部屋の鍵は、通常の教室と違って、職員室で管理されている。人の出入りの多いブラスバンド部の合宿の際には開けっぱなしにしていたのだろうが。さすがの悠も、音楽室の鍵のことまでは頭が回らなかったらしい、と肇は考えつつも、首を捻る。ここをよく使っているブラスバンド部か軽音楽部の連中が鍵を掛け忘れたという可能性が一番高いが、それでも見回りの教師が気付くはずだった。

「誰かが鍵を掛け忘れたんでしょう? 好都合だわ」

 笑みを浮かべながら、悠が扉に手を掛けて、開けようとしたちょうどその時に。

 がたん、という音が音楽室の中から聞こえてきた。

「今、何か音がしなかった?」

 そう聞いてくる寿人の口を、悠は手で塞ぐ。

「しっ。静かにしなさい」

 悠は声を顰めて扉の隙間から、音楽室の中の様子をそっと(うかが)う。黒い人影が、グランドピアノの側を横切った。

「中に誰かいるぞ」

 肇は口だけ動かして、ほとんど声を出さずに言う。同様に、悠も囁くように喋った。

「泥棒かしら」 

「分からない」

 首を傾げる寿人。

「中に入る?」

 扉を指差し、ジェスチャーでそう尋ねる悠に、寿人は頷いて同意した。肇も仕方なくそれに従う。悠の合図で、三人は勢い良く扉を開いた。悠が懐中電灯でグランドピアノの横の薄暗闇を照らし出す。

 そこの闇に溶け込むように立っているのは、黒ずくめの人物だった。闇色の服を身に纏う、黒髪黒瞳の男。靴までが誂えたように黒い。

「不審人物発見!」

 悠はその男をびしっと指差して、言い放つ。

「お前達は――」

 その男は振り向いて、悠と寿人のほうへとゆっくりと視線を向ける。それから目を見開いてわずかに驚いたように肇のほうを見た。肇は警戒するように、黒髪の男を睨み付ける。しばらく沈黙した後、肇は口を開いた。

「……あなたは、不法侵入者ですね」

「お互い様だと思うがな。お前達も、不法侵入者だろう」

 黒髪の男は、憮然とした表情で硬い声を発した。

「俺達が、不法侵入者だということは認めます。しかし、俺達は、ここの学校の生徒だ。別におかしいということもないでしょう。でも、あなたはそうじゃない。ここの教師でも生徒でもないのに、こんな夜中に校舎にいるのは、どう考えてもおかしい」

 黒髪の男は肇の質問には答えずに、唐突に話し始めた。

「古い話をしようか。二十年以上も前のことだ。この部屋で、放課後にピアノの練習に打ち込んでいる少女がいた。そのピアノの音色を毎日飽きもせずに、聞きにきていた少年がいた。その少年はその少女のことを好きだったのさ。ある日、少年は少女を驚かせようと階段の陰で待ち伏せをした。少年の目論見通りに、少女はびっくりした。だが、その拍子に、少女は階段から転落した。少女は手を痛めて、ピアノを弾けなくなった。その挙句、精神を病んだ少女は、交通事故に遭って死んでしまった。少年はその後を追うようにして、自殺した。それから、この音楽室には、少女の幽霊が出るようになったという」

 随分と捻りのない怪談だ、と肇は思った。まさか、この男も悠と同じように、心霊写真を撮りに来たのだろうか。横を見ると悠は何故か得心のいったような表情をして、うんうん頷いている。

「分かったわ。謎は全て解けた。あなたがその少年ね。未だに彼女のことを思って化けて出たんだわ。しっかりとカメラに収めさせてもらうから、覚悟しなさい!」

 悠はそう言って首から提げたカメラのシャッターを押す。その男はフラッシュに目を(すが)めつつ、慌てて手を否定するように振って、叫び声を上げた。

「ちょっと待ってくれ! どこをどうすれば私が幽霊に見える!」

「まず顔色が悪いわ。それにどことなく存在感が薄い気がするの」

 きっぱりと断言する悠。いくら不審人物とはいえ、初対面の相手にこの言い方はないだろう、と肇は呆れ果ててしまう。

 それを傍らで黙って見ていた寿人は苦笑しつつ、代わりに謝った。

「すみません。こいつはこういう奴なんで。あなたが何者なのか説明して貰えないと、いつまで経っても幽霊扱いされると思います」

「ふむ。私はその自殺した少年の友達だった、と言ったら、お前達はどう思う」

 黒髪の男の言葉を聞いた肇は、即座に反論した。

「そうだとしても、あなたが夜中にこんな場所にいる理由にはならない」

「私はその少年と約束した。その少女を助ける、とな」

 寿人はその言葉に驚いて聞き返す。

「ちょっと待ってください。その少女は交通事故で死んだはずでしょう。まさか、幽霊になったその少女を助けるとでも言うんですか」

 黒髪の男は、突然神妙な面持ちをして三人の顔を眺めると、こう尋ねた。

「お前達は、幽霊の存在を信じるか?」

「もちろんよ!」

 勢いよく即答したのは、悠だった。

「俺にはよく分かりません」

 次にそう答えたのは寿人だ。

 黒髪の男は、問うような視線を肇のほうに向ける。その視線に戸惑いつつ、肇はゆっくりと口を開いた。

「……俺も、幽霊が存在するかどうかについては何とも言えません。見たことがありませんから」

「それぞれで答えが違うのも、当然だな。人は進んで信じたいと望むことしか信じないものだ。科学者でさえも。自らの信念に反するものに遭遇すると、簡単に思考を停止してしまう。だが、お前達がどう思おうと、幽霊は存在する。その少女の幽霊は、今もこの近くに潜んでこちらを(うかが)っているはずだ」

 それを聞いた悠は、嬉しそうにきらきらと目を輝かせて、黒髪の男の顔を覗き込んだ。

「ただの不審人物じゃないわね、あなた。こんなところで私と考えを同じくする人間に出会うとは思わなかったわ。そう言えば、あなたの名前を聞いてなかったわね。聞かせてもらっても構わないかしら」

 黒髪の男は悠の様子に気圧されながらも、こう答えた。

「黒須。黒須恭平(くろすきょうへい)だ」


     *


 それぞれ軽く自己紹介をした後に、悠は黒須恭平(くろすきょうへい)にこう聞いた。

「ええと、黒須さん。あなたは少女の幽霊を助けるって言っていたけど、どうするつもりかしら」

「彼女はピアノに執着して、この世界に留まっている。お前達の言い方で言えば、未練というやつだ。だから、ピアノの音に惹かれてやってくるはずだ」

 肇と寿人の二人はその様子を遠目に眺めながら会話する。寿人は肇に不安そうな表情を向けた。

「肇、悠は大丈夫なのかな、あんな人を簡単に信用してしまって」

「寿人、安心していい。ああなった悠は誰にも止められない」

 魔術師ですらも、と肇は密かに心の中で付け加えた。

 恭平はグランドピアノの上蓋を上げる。そしてピアノの前に座り、蓋を持ち上げて鍵盤に手を置いた。彼は楽譜を暗譜しているのだろう、何も見ずに、弾きはじめる。それは鐘が鳴り響くような音から静かに始まった。それから順に短調の主題が展開されていく。

 肇は首を捻る。その物悲しい旋律をどこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。

「何ですか、その曲は」

 恭平は弾く手を止めずに答える。

「ラ・カンパネラ。パガニーニの曲をリストがピアノ用に編曲したものだ」

 弾き続ける間に、そのピアノのトリルに唱和するように、音楽室中が騒がしくなる。騒乱現象(ポルターガイスト)だ。まず窓ガラスががたがたと鳴り、端に寄せてあった譜面台が倒れる。戸棚が勝手に開き、中に入っていた楽譜が宙を舞う。その隣に置いてあった、メトロノームが肇のほうに飛んできた。

 素早く頭を動かして肇はそれを避ける。辛うじて避けることには成功したものの、少し足がふらついた。くらくらと眩暈がして、こめかみを流れる血の音が聞こえるような気がする。この感覚は精霊に当てられたときと、非常によく似ていた。隣を見れば、寿人が苦しそうに顔を顰めて、頭を押さえている。

「寿人! 大丈夫か」

「大丈夫じゃ、ない」

 そう言った途端、寿人は崩れるように膝を折って、ぐったりと床に倒れ込んだ。肇は寿人の身体を慌てて支える。

「当てられたか。彼は彼女に近い波長を持っていたのかもしれないな」

「どういう意味ですか」

 肇は寿人の身体をゆっくりと床に横たえながら、瞳に剣呑な光を湛えて、問い詰めるように恭平のほうを見た。彼は手を動かしながらこう言った。

「幽霊の存在を知覚する仕組みは、ラジオの受信機によく似ている。その幽霊の個体が出す波長と合わなければ、どうあっても知覚できない。俗に霊感が強いと言われている人は、高感度のチューナーを持っているのと同じようなものだ」

 ピアノの演奏はさらに佳境に入っている。それに連れて、騒乱現象(ポルターガイスト)は次第に激しさを増していった。音楽室の椅子までもが、空を飛んでいる。黒と白の鍵盤に激しく指を叩きつけて、足元のペダルを踏む。怒涛の旋律が音楽室中に響き渡った。その曲はクライマックスを迎えて、恭平は演奏を終える。騒がしかったこの空間に、つかの間の静寂が戻った。

 シャッターを押してその様子を必死にカメラで撮影していた悠に、異変が起こったのはその時だった。手が脱力したようにだらんと垂れ下がり、その瞳は視線が定まっていない。ふらふらと頼りない歩き方をしながら、グランドピアノのほうに近寄ってきた。

 それを見た恭平は椅子を蹴って立ち上がる。

「しまった! 憑依されたか!」

 肇は急いで悠のほうに駆け寄ると、彼女の肩を大きく揺さぶった。悠は――否、彼女に憑依した幽霊は、肇を鬱陶しそうな視線で眺めやり、肇の手を振り払った。

「っ!」

 声もなく、肇の身体は後方にふっ飛ばされた。まるで何か見えない手にでも掴まれたかのように。突然のことに、抗うこともできなかった。勢い良く壁際に叩き付けられるが、彼は無意識のうちに魔術を使用して、寸前で衝撃を緩和する。

 恭平は、懐から何かが書かれた紙を取り出して、悠のほうに向かって投げつけた。しかし、それは悠の目の前であっさりとはね返される。肇はまさか、彼も魔術師だろうか、との疑念を抱きながら、恭平の顔を眺めた。彼は真剣な顔をして、肇のほうを見返す。

「このままでは彼女の身が危ない。お前は彼女の注意を惹いてくれ。一瞬でいいから!」

 ――彼女の注意を惹く方法? ああ知ってる。当然じゃないか。長い付き合いなんだから。

 肇は肺に息を大きく吸い込んで、思い切り叫んだ。

「悠! お前の目の前に魔術師がいるぞ!」

 恭平はぎくりとした表情をして、肇のほうへ視線を向けた。だが、それも刹那のことだ。彼は再び紙切れを悠のほうへと投げる。それはきれいな放物線を描いて飛んでいく。悠の身体にそれが接触した途端、白い光が辺りを包んだ。目を開けていられないほどの眩しさだ。その光に浄化されるように、音楽室の空気が変質した。今度こそ、この部屋は静寂を取り戻す。

 いつの間に気が付いたのか、寿人が目を瞬かせて、ゆっくりと身体を起き上がらせた。

「あれ、どうしたんだ、俺は」

 悠も眉間の辺りを押さえて、首を動かす。その瞳はもとの光を灯していた。

 二人の様子を見た恭平は、安心させるように微笑んで口を開く。

「もう大丈夫だ。全て終わったよ。少女の幽霊は消え去った」

 それを聞いた悠は、どこか納得していないような顔できょろきょろと辺りを見回す。

「まあ、いいわ。騒乱現象(ポルターガイスト)はばっちり撮れたはずだし。黒須さん、ありがとう。肇、寿人。帰るわよ」

 そう言って、彼女は足早に音楽室の外へ出た。寿人も盛大に溜め息を吐いて、その後を追う。

 どこか疲れたような顔をして、二人に続いて帰ろうとする肇を、恭平が鋭く呼び止めた。

「待て。お前は、アルファの弟子だな。どこかで聞いたような名前だと思ったんだ」

 音楽室の戸口で立ち止まって、肇は振り返る。

「あなたは、やはり魔術師なんですね」

「ああ。位階III(トレース)孤独な散歩者ソリタリー・ウォーカー。……ニャルの飼い主と言ったほうが早いか」

 肇は以前自らの師匠が見せてくれた、翼の生えた黒猫を思い出した。そして内心思う。この人も師匠の犠牲者の一人に違いない。

 恭平は表情を和らげて、穏やかに付け加えた。

「アルファによろしく伝えておいてくれ。あまり無茶をしないように、と」

 その言葉に軽く頷いて、肇は恭平に背を向けた。


     *


 黒須恭平(くろすきょうへい)は、随分と久しぶりに、日本魔術組合(ギルド)支部の扉をくぐった。ここの図書室で調べものをする必要があったためだ。彼は自らの専門である死霊術(ネクロマンシー)に関する本を借りて、帰ろうとしたところ、受付の所で、黒いドレスを来た黒髪の女とすれ違った。黒の人形師(ブラック・パペッター)綾織絢(あやおりあや)だ。彼女は仕事中なのか、両手に大量の書類を抱えていた。恭平は彼女に向かって頭を下げ、挨拶をしてそのまま通りすぎようとしたが。絢は何かを思い出したように、彼を視線で制した。そしてこう切り出す。

「ああ、孤独な散歩者ソリタリー・ウォーカー。ちょうどいい所に来ましたね。誠に遺憾ですが、貴方に伝えておかなければならないことがあります」

 そう言って彼女は手に持っていた書類の山から、一冊の雑誌を抜き取る。絢はそれを開いて、恭平のほうに差し出した。それはあるオカルト雑誌の一ページだ。仰々しい字体で『恐怖! 私の怪奇ミステリー体験』と書かれている見出しの下にある写真には。騒乱現象(ポルターガイスト)の真っ只中で、しっかりとグランドピアノに向かう恭平の姿が写し出されていた。

「魔術師の存在は秘匿されなければなりません。他のどのような雑誌に載っても構いませんが、この手の雑誌に載ることだけは極力避けなければならない。後で(グラディウム)のほうから、厳重注意がいくと思いますので、覚悟しておいてください」

 絢は責めるでもなく、平板な口調で淡々と告げる。恭平は言葉を失って、沈黙した。 

<蛇足以外の何物でもない何か:PART3>


○日本魔術組合(ギルド)支部の談話室。

   入り口の扉が開く。きょろきょろと部屋の中を見回すティル。

ティル「あれ? おかしいな。逃げたのかな、アレフ」

   ティルの背後から、人影が近付く。ティルの頭を杖で殴るアルファルド。

アルファルド「誰が逃げたって?」

   頭を押さえて座り込むティル。振り向いてアルファルドを睨み付ける。

ティル「何するのさ!」

アルファルド「この間は殴られ損だった気がするから、殴り返してみただけだ」

ティル「最早魔術師の戦いじゃなくなってる気がするよね……」

アルファルド「今回の話のことか?」

ティル「いや、そうじゃなくてさ」

アルファルド「で、今から何をするんだ?」

ティル「取りあえず名言ネタの解説でもしようか。語り得ぬものについては」

アルファルド「人は沈黙しなければならない、と」

ティル「まあ、自分の写真がオカルト雑誌に載ってたら、衝撃を受けて黙り込むかもね」

アルファルド「それにしても酷いオチだ」

ティル「確かに。ええと、冒頭の名言はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』のラストを飾る、命題七から」

アルファルド「他にもあるのか?」

   ティルはペンで文字をホワイトボードで書く。


   "Wie auch beim Tod die Welt sich nicht aendert, sondern aufhoert."

   (同じように、死によっても、世界は変わらずに、終わるのである)


ティル「同じく『論考』命題六・四三一から」

   その下に続けて文字を書き込むティル。


   "Wird denn dadurch ein Raetsel geloest, dass ich ewig fortlebe?

   (私が永遠に生き続けるということによって、その謎というのは解決するのであろうか?)

    Ist denn dieses ewige Leben dann nicht ebenso raetselhaft wie das gegenwaertige?"

   (永遠の生というのは、相変わらず現在の生と同じように謎に満ちたものではないのか?)


ティル「同じく『論考』命題六・四三一二から」

アルファルド「貴様、今すぐヴィトゲンシュタインに謝れ」

ティル「……そういうことは作者に言ってね。ええと、次行こう、次」

   一度文字を消して、新たにホワイトボードに文字を書きこむティル。


   "Because it is there." (そこにそれがあるから)


アルファルド「これは有名だな」

ティル「登山家ジョージ・マロリーが、どうしてエベレストに登るのかと記者に聞かれて答えたのがこれ」

アルファルド「日本語だとそこに山があるから、とよく訳されているが、『it』だから実は山以外にも使える」

ティル「そうだね」

   ティルはすらすらと、続けて文字を書く。


   "Libenter homines id quod volunt credunt." (人は自ら進んで信じたいと望むことを信じるものだ)


ティル「何気に名言が多い、ローマの政治家にして軍人、ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』から」

アルファルド「今回は普通に名言ネタが多かったな」

ティル「うん」

   何故かアルファルドの顔をじっと見つめるティル。その視線にたじろぐアルファルド。

アルファルド「な、何だ、貴様」

ティル「ねえ、何か重要なことを忘れてる気がするんだけど、何だろうね?」

アルファルド「もしかして、今回初登場した第三の男のことか?」

ティル「うーん、何だか違う気がするんだけど、まあいいや。第十三話にして初登場というところが、彼の不幸っぷりを物語ってると思う」

アルファルド「貴様の初登場は第七話だからな」

ティル「もし暇な読者の方がいれば、『薔薇戦争』にちらっと出てるので、読んで頂けるといいかと」

アルファルド「地味な脇役だが」

ティル「しょうがないよ。根暗死霊術師(ネクロマンサー)だし」

アルファルド「根暗死霊術師(ネクロマンサー)だからな、まあ仕方ないか」

   その時、扉が開く音がする。険悪な表情で、部屋に入ってくる恭平。

恭平「アルファ、お前もか」

ティル「なかなかナイスなボケありがとう、クロス」

恭平「何の話だ?」

アルファルド「さっきカエサルの話題が出てたからな」

恭平「ふむ。しかしお前達は一体こんなところで何をやっているんだ?」

ティル「ささやかな自己主張だよ、何分出番がないもので」

アルファルド「上に同じ」

恭平「それじゃあ、私も自己主張させてもらうとしようか」

   喋り始めようとした恭平を遮るようにして、ティルが大声で叫ぶ。

ティル「ああーっ!」

恭平「どうしたんだ、ティル」

ティル「思い出したんだよ。エノク語講座をアレフにさせようとしてたんだった!」

   それを聞いたアルファルドは、慌てて逃げ出す。その後を追いかけるティル。

   恭平一人だけが、呆然とした面持ちで部屋に取り残される。

恭平「……仕方ないな、あいつらは。読者の皆様方。ここまで読んで頂いて、心より御礼申し上げます」

   深々と頭を下げる恭平。そこで照明が落ち、幕が下りる。

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