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[第十一話 森の女王]

"Wide-spread they stand, the Northland's dusky forests, (北国の薄暗い森が広大に佇む)

Ancient, mysterious, brooding savage dreams; (いにしえの、神秘に包まれた、荒涼と広がる夢)

Within them dwells the Forest's mighty God, (森の偉大なる神が棲まうその奥で)

And wood-sprites in the gloom weave magic secrets." (暗闇に潜む木の精霊は魔法の秘密を紡ぎ出す)


                                         ――ジャン・シベリウス、交響詩『タピオラ』 op.112


 白髪の魔術師は、穏やかな朝の光が差し込む広い執務室で、書類に目を通していた。彼の名を、クリスタロス・ヴァイナモイネンという。ここロンドンの地で、魔術組合(ギルド)の元老院議長を務めるほどの優れた魔術師である彼は、いつもにも増して苛々していた。意識せずとも溜め息が漏れる。

 彼の心労の原因というのは、この部屋の中をぐるぐる歩きまわっている人物にあった。普段ならば、この時間帯に執務室にいるのは彼だけだ。だが、今はもう一人いた。亜麻色の艶やかな髪を地面に付きそうなくらいに伸ばし、黒曜石のように輝く目を不安げに彷徨わせているのは一人の女だった。その顔は見る角度によって、幼くも、あるいは年配にも見える。ぱっと見て彼女の年齢を推しはかるのは難しい。彼女の持つ神秘的な雰囲気がそうさせているのだろうか。しかし、彼女が人を惹き付ける美貌の持ち主だということは衆目の一致するところだろう。

 クリスタロスはその朝何度目かになる溜め息を吐くと、書類から目を離し、不機嫌な口調で亜麻色の髪の女に文句を言った。

「ソフィア、うろうろするな。仕事の邪魔だ」

 ソフィアと呼ばれた女は足を止めると、強い目線でクリスタロスを見返した。

「私は自分の弟子が心配なだけです、ジョーズ・クリス。ああ、どうしましょう。やはりあんな極東の地に彼女を行かせるべきではなかったかしら」

 クリスタロスは呆れたような視線をソフィアに向ける。

「そんなに心配なら付いて行けば良かっただろう。こんな所でぐるぐる回っているだけなんて非生産的だぞ」

 ソフィアは自らの長い亜麻色の髪を指で弄りながら、不服そうな表情でクリスタロスを睨み付けた。

「私は誓約(ゲッシュ)で彼女の一族(カヴン)に関わることには手を出さないと誓ってしまった。だから、私は彼女には付いて行けない」

「誓約は制約、か。ドルイドというのも難儀なものだな」

 亜麻色の髪の女、ソフィア・クウェルクスは、最高の位階(ウーヌス)に名を連ねるものの一人であり、緑なす深淵(グリーン・アビス)の通り名を持つ、凄腕の魔術師であった。そして、彼女は今では数少なくなったドルイドでもある。彼等はかつて、楢の木の賢者と呼ばれ、ケルトの民の宗教的指導者であった。しかし、キリスト教の到来とともに、彼等の権威は失墜し、その知識を受け継ぐものはめっきり減った。ドルイド達は魔術師の中でも特異だ。彼等が重んじるのは誓約(ゲッシュ)と呼ばれる誓いだった。自らに誓約を課すことによって、彼等は強大な魔術を行使する。これは一種の禁呪とも言えた。禁呪とは、代償と引き換えに力を得る魔術のことだ。ドルイド達は、その誓約(ゲッシュ)が厳しければ厳しいほど、強い力を手に入れられるが、もし一度誓約(ゲッシュ)を破れば、悲惨な末路を辿ると言われている。誓いを破り、犬を食べて身を滅ぼしたアルスター神話の英雄、クー・フーリンのように。

 ソフィアは未だ執務室から出て行く様子を見せない。クリスタロスはもう一度、深々と溜め息を吐く。

 ――当分の間、仕事ははかどりそうもないな。

 白髪の魔術師は諦念とともに、再び視線を書類に戻した。


     *


 宮地悠(みやじゆう)は、不審に思って、その少女を眺めていた。悠が彼女を見かけたのは、学校から帰る途中のことだ。道端でじっと(うずくま)り、道路の脇の溝に手を伸ばしている。少女の髪の色は人目を惹くものだった。陽光を浴びて鮮やかに輝くプラチナブロンド。歳の頃は一二歳くらいだろうか。どう見ても日本人に見えない少女がこんなところで一体何をしているのだろう。悠は勇気を振り絞って声を掛けた。

「こんにちは。一体何をしているの?」

 その少女は声に反応して、首だけをゆっくりとこちらを向いた。その水色の瞳は、どこか不安そうな色を湛えている。

「I dropped the wand to the gutter.(溝に杖を落としたの)I couldn't reach my hand out for it though I tried to pick up……(拾おうとしたんだけど手が届かなくて……)」

 予想は付いていたが、彼女の口から出たのは英語だ。悠は話し掛けたものの、一瞬戸惑う。それから悠は彼女が必死に手を伸ばして何かを取ろうとしていることに気が付いた。

「溝に何か落としたけど、取れないのね。ちょっとどいて。取ってあげるから」

 悠はその少女を押しのけて、溝に手を伸ばす。悠はぬめっとした感触に顔を顰めながら、そこに落ちてある物体を拾い上げた。それは木の枝だった。悠はそれに付着していた泥を軽く指で払い、少女に渡す。

「はい、これ。あなたはこれを拾いたかったんでしょう?」

 少女は破顔して木の枝を受け取ると、悠の手を握ってぶんぶんと振り回した。

「Thanks a million!(本当にありがとうございました!)I'm very grateful for your help.(助けてもらってとても嬉しく思います)」

 悠は突然の少女の行動に面食らってしまう。

 少女は悠のほうを見て、不思議そうな顔で首を傾けた。それから、ぽんと手を叩いて何事かを小さな声で呟く。そうして彼女は再び口を開いた。

「ええと……言葉、通じてますよね。助けていただいてありがとうございました」

 驚くべきことに、彼女の口から出たのは流暢な日本語だった。

「え、ええ」

 悠は驚愕を隠せない。こんな小さな子が日本語を話せるなんて。そりゃあ言葉は通じたほうがいいに決まっているが。

「さすがは、師匠だわ」

 彼女は何やら嬉しそうに一人でうんうんと頷いている。

「本当に助かりました。あなたにこの三倍の幸運が訪れますように」

 プラチナブロンドの少女はにっこりと笑って悠に礼を言った。それから身を翻すと、足早に去っていく。

 悠はそれを呆然とした面持ちで見送った。それから、彼女の言葉を心の中で反芻する。

 ――三倍返しの法スリー・フォールド・ロウ。それに、あの木の枝。

 彼女がそこから連想したのは、ただ一つの単語だ。古来より様々な物語に登場し、ある時には物語の主人公を助け、またある時には主人公の敵になる存在。その名は、度々軽蔑と畏怖の両方を込めて呼ばれる。魔女(ウィッチ)

 ――まさか、ね。

 悠は脳裏に浮かんだ考えを即座に否定する。彼女は自らの思考が飛躍しがちなことを自覚していた。そんなに都合よく魔女がいてたまるものか。そう思い直し、彼女は自宅への帰路を急いだ。


     *


 夕闇が迫る。日が沈んでからの数分間に、西の空を一様に染め上げるのは燃えるような赤さだ。そこだけに太陽の名残が未だ残っている。黒髪の少年、久住肇(くじゅうはじめ)は、そんな空の下を早足で歩いていた。

 ――真っ暗になる前に帰ろう。

 肇はいつものようにアルファルドの洋館から自分の家に帰る途中だった。薄暗くなった住宅街は、昼と夜の狭間特有の神秘的な雰囲気を醸しだしている。彼はふとその風景に違和感を感じた。

 住宅街の十字路。その真ん中で俯いて佇んでいるのは、大きなリュックを背負ったプラチナブロンドの少女だった。両手に一本ずつ木の枝を持ち、何事かを一人でぶつぶつと呟いている。

「うん、たぶんこれで合ってるはずよね」

 その様子を見ていた肇は何となく嫌な予感がした。というのは、肇が見知っている外国人は自らの師匠も含めてほとんど全員が魔術師だったからだ。

Luis(ルウィーシュ)Ruis(ルウィーシュ)Luis(ルウィーシュ)。精霊たちよ。七竈(ななかまど)接骨木(にわとこ)の木に宿り、我に道を指し示せ」

 彼女の声に応えて、二本の木の枝は彼女の手を離れ、空中に浮いてくるくると回る。そしてそれは空中で燃え上がると、勢い良く、肇のほうに向かって飛んできた。

 ――っ!

 反射的に肇は身を反らしてそれを避ける。背中にじとりと冷や汗が伝わった。もしあれが当たっていたらと思うとぞっとする。おそらく軽い火傷では済まなかっただろう。

「お前。いきなり何するんだよ」

 肇はその少女に向かって抗議の声を上げた。

 プラチナブロンドの少女は顔を蒼白にして言った。

「しまったわ。七竈(ななかまど)を使ったのがよくなかったのかしら。あれは火の精霊が好む木だから」

 その発言を聞いた肇はむっとして思わず叫んでしまう。

「おい、聞けよ。無視するな!」

 少女はそこではじめて気付いた、という風にゆっくりと首を動かし、肇のほうを見た。彼女はどこか焦った口調で肇に問い掛ける。

「……そこのあなた。今の、見たわよね?」

「木の枝が燃えながら飛ぶ様子なら、そりゃあもうばっちり目撃したぞ」

 肇の返答を聞き、少女は動揺して顔を白黒させる。

「ど、どうしよう。記憶操作なんて高度なことは私にはできないし」

「何気に物騒なことを言ってるよな、お前」

 肇は半眼で呆れたように少女を見やる。彼女は下を向いて、腕を組み、考え込むような仕草を見せた。

 少しの間、悩んだ末に少女は開き直ったようだった。誤魔化すように笑みを浮べる。

「ごめん。今の忘れて。他言は無用だから」

 そう言って彼女は踵を返し、すたすたと歩いていく。しばらく歩いた後に、彼女は途方に暮れた顔をして立ち止まった。肇はそれを見て、捨てられた猫のようだ、と思う。少女は縋るような表情で振り向き、肇のほうを眺めた。

子羊を盗んでマイト・アズ・ウェル・絞首刑になる位ならビー・ハングド・フォー・親羊を盗んだ方がましア・シープ・アズ・ア・ラム、って言うものね」

 彼女はそう言うと、急ぎ足で肇のほうへと戻ってくる。そして懇願するように、潤んだ視線で肇を見上げた。

「ねえ、お願いがあるんだけど。今晩あなたの家に泊めてもらえないかしら」

 肇は驚いた。何とも無防備なことだ、と思う。会ったばかりの人間を信用して、一夜の宿を請うとは。海外は物騒だと聞いていたが、案外そうでもないのだろうか。それとも魔術師というのは、頭の螺子(ねじ)が緩んだ人間が多いのかもしれない。肇はさてどうしようか、と考えを巡らせた。部屋ならいくらでも空いている。問題は倫理的なものだった。こんな少女を一人暮らしの肇の家に泊めていいものか。少し逡巡した後に、肇は彼女を泊めることに決めた。この少女を放置しておいてはまた問題を起こしそうな気がしたのだ。

「分かったよ。俺の家でいいなら」

「やった! ありがとう」

 そう言うや否や、少女は肇に抱きついた。柔らかいプラチナブロンドの髪が肇の顔に触れ、石鹸のいい匂いが鼻腔をくすぐる。

 ――やっぱり無防備だよな。

 肇は胸中で密かに溜め息を吐いた。


     *


「そう言えばまだ名前聞いていなかったわよね。私の名前は、レネ・テトラフォリウム。レネって呼んでいいわよ。今はロンドンに住んでいるんだけど、元々はアイルランド出身なの」

 プラチナブロンドの少女は、畳の上に座り込むと、こう言った。

久住肇(くじゅうはじめ)だ。見ての通り、生粋の日本人だよ。この近くの高校に通っている」

 肇は軽く自己紹介をした。二人が話しているのは肇の家の居間だった。あの後、肇は自分の家に彼女を通したのだ。

「レネ。一つ聞いていいか?」

 肇はレネの顔を問うようにして覗き込んだ。

「お前、何しに日本に来たんだよ」

 肇の数少ない経験では、海外の魔術師がわざわざこの街に来たときに、碌なことがあった試しがないのだった。この間は城ヶ崎市が壊滅しかけたのだ。

「ええと……その……」

 レネは視線を明後日の方向に逸らし、言葉を濁す。あからさまに怪しい。肇は畳み掛けるようにして質問した。

「お前が魔術師であることと何か関係があるのか?」

 レネの顔色が明らかに変わる。 

「まさか、さっきので気付いたの?」

「いや、普通気付くだろ。それに、この街では魔術師なんて珍しくもなんともないぞ。知り合いにも何人かいるし」

 自らの師匠である金髪の魔術師やその監視役の漆黒の魔女を思い出しながら、肇は言った。自分が魔術師だとは言わない。彼は未だに自身が魔術師である、という実感が湧かなかったからだ。

「えっ、そうなの?」

 肇の言葉に、レネは驚いたように大きく目を見開く。

「じゃあ肇に隠す意味はないわね。改めて挨拶を。私は位階VII(セプテム)、名は幸運の四葉フォー・リーフ・シャムロック。今は魔女として修行中の身なの」

「レネが日本に来たのも、その修行の一環なのか?」

 肇の問いに、レネは力強く頷いた。

「ええ。私は日本に杖を作りにきたの。これは魔女としての試練なのよ」

「杖を作るって?」

 肇は訝しげに眉根を寄せる。彼の師匠はめったに杖を使わなかった。その友人である銀髪の魔術師は、しょっちゅう杖を使っていたが。今まで疑問にも思わなかったが、もしかして、杖というのは魔術師にとって必須のアイテムなのだろうか。

「私の一族では自分の杖を作れてはじめて一人前になれるの。私達は使う魔術によって杖の材質を変えるのよ。例えばこれ」

 レネはそう言って立ち上がると、彼女のリュックから何本もの杖を取り出して、居間の机の上に並べていく。

「オリーブの木でできているんだけど、攻撃的な魔術には向かないわ。どちらかというと補助的な魔術に向いている。魔術を増幅させたりね。こっちは柳の杖。柳の木は月の満ち欠けと生死を司ると言われていて、治癒魔術によく使われるのよ」

「へえ」

 肇は感心しながら、机の上に置かれた杖を眺める。その中で一際目立っているのは奇妙な形に曲がりくねった杖だった。黒光りする艶やかな光沢が美しい。肇はそれを指差して聞いてみた。

「それは?」

「それはリンボクの木よ。硬いから、私の故郷ではシレイリと呼ばれる武器の材料に使われるわ。闇に属するものが好む木なの。呪術師や錬金術師向きの木ね」

 肇はふと疑問に思って、質問する。

「こんなに持っているのに、まだ杖を作る必要があるのか?」

 レネはああ、と言って答えた。

「私達の一族で、最も扱いが難しいといわれている木があるの。それはブナの木よ。腐りやすいし、乾燥すると反るから、加工するのは大変なの。私はブナの杖を作ろうと思っているのよ」

「何故わざわざ日本まで来たんだ? ブナの木ならヨーロッパでも生えているだろうに」

「占いで出たの。極東の地で、汝は森の女王に出会うだろうって」

 占い。それは肇にとっては馴染み深いものだった。幼馴染である宮地悠(みやじゆう)がよく肇を占っていたからだ。しかし彼は基本的に占いには懐疑的だった。あれは、精神の支柱として用いるものであって、断じて行動の指針に用いるものではない。占いの結果というのは抽象的なものだ。恣意的な解釈なら後からいくらでもできる。

「それって信用できるのか? だいたい極東の地って言ってもどこを指しているのか分からないだろう」

「大丈夫よ。何回も占って精度を高めたから。さっき私がやっていたことを、肇も見たでしょう。ああやって私はここまで辿り着いたの」

 肇は先程の光景を思いだして、呆れたようにレネを見やった。

「さっきのは明らかに失敗してたと思うけどな」

「……まあ、いいじゃない。こうして泊まるところを確保できたんだし」

 レネは肇に向かって笑いかけた。肇は彼女の笑みに一瞬見惚れた。笑うと可愛らしいな、などと肇は思う。

「で、どうするんだ。山にブナの木でも探しに行くのか?」

「ええ。私の目的地は、この街から見えている山よ」

 ――清滝山(きよたきやま)、か。

 肇は顎に手を当てて、考えこんだ。あの山には今まで何度か登ったことがある。標高はそれほど高くはないが、頂上までは長く険しい山道が続く。この少女を一人で行かせるのは危なっかしい気がした。都合のいいことに、明日は土曜日で、学校は休みだ。

「レネ。もし明日あの山に向かうのなら、俺も付いて行って構わないか?」

「いいわよ。別にそんなに面白いものでもないと思うけど」

 レネは穏やかに微笑して、肇の提案を受け入れた。


     *


 昼間にも関わらず、森の中は薄暗かった。木々は枝振りを天高く伸ばし、歩くものの頭上を覆う。空を埋め尽くす葉と葉の隙間からわずかばかりの太陽の光が差し込んでいる。その空間を満たすのは静寂だった。時折鳥の囀る声が聴こえるだけだ。肇とレネの二人は山道を並んで歩く。踏みしめる木の葉は柔らかく、歩きやすかった。

「レネ。ずっと気になってたんだが、どうしてそんなに日本語が上手なんだ」

 肇は隣を歩くプラチナブロンドの少女に尋ねてみる。

 すると、彼女は口元をほころばせた。

「ああ、これね。私の師匠が渡してくれたのよ」

 そう言って彼女が見せたのは指に嵌めた指輪だった。

「この指輪に翻訳魔術がかかってるの。便利な道具でしょう?」

 肇は何となく、ウィーンの有名な動物行動学者の書いた本を思いだした。

「そんな便利な魔法具があるのか?」

 その問いに、レネは軽く頷いて答える。

「これを作るのはすごく難しいのよ。そもそも翻訳魔術が難易度の高い魔術なのに、その効果を永続的に保たせなければならないから」

「ふうん」

 肇は、自らの師匠はおそらくこれを作れないだろうな、と思いつつ、感心してその指輪を眺める。それから二人は黙って山道を歩き続けた。

 そのうちに、肇の身を覚えのある感覚が襲う。頭の中を得体の知れない何かがかき乱しているようだった。肇は思わず足を止める。

 ――精霊の数が増えて来ているな。

 肇がこめかみを押さえてその場に立ち尽くしていると、先に進んでいた少女が振り向いて、肇のほうに戻ってきた。彼女は心配そうに肇の顔を覗き込む。

「ねえ、大丈夫?」

「ああ、何でもない」

 肇はレネが全く平気な様子に驚く。彼女は森を歩くのに慣れているのだろうか。肇はレネが作ったたくさんの杖を思いだしながらそう思う。肇は気を取り直して、また歩きはじめた。だんだん道が険しくなってくる。細い木の根が地面から突き出していて、思わずつんのめりそうになった。足元に気を配りつつ、肇は歩を進める。

 次第に生えている木が変わってきたのか、木々の隙間から広い空が見えはじめた。天上から眩い木漏れ日が射し、明るく森を照らす。柱のように立ち並ぶのは落葉広葉樹林だ。しばらくして、前を歩いていた少女は突然立ち止まった。訝しく思った肇はレネに声を掛ける。

「おい、どうしたんだよ」

 レネが見上げているのは大きな木だった。どれだけ長い年月の間、この地を見守ってきたのだろう。幹回りは大人が手を広げても抱えきれないほどに太く、その樹肌はごつごつとして何とも言えない風格があった。黒ずんだ地衣類が不思議な紋様を描き、薄茶色の樹肌と鮮やかなコントラストを成している。緑色の蔦が自らを主張するようにその上を伝っていた。肇はその貫禄に圧倒されてしまう。

 レネは引き寄せられるようにその大木に近付いていき、その幹に触れた。その途端に、酷い耳鳴りが肇を襲う。先程まで明るかった森の雰囲気は、一変していた。辺りにはいつの間にか光を遮るように深い霧が立ちこめている。薄暗い森は幻想的な雰囲気を醸しだしていた。

 どこからか、声が聴こえてくる。

「我の眠りを妨げるのは、お前か」

「あなたは誰なの? 姿を見せてちょうだい」

 レネの言葉に応えて、その声の持ち主は姿を現す。それは女性の姿をしていた。背の丈は高く、緩くウェーブのかかった暗緑色の髪を腰の辺りまで伸ばしている。黒い瞳は冒しがたい威厳を湛えていた。

「我の名前はオクシア。この森を支配するものだ」

「私はレネよ。こっちは肇」

 森の女王は鋭い眼差しで、少女の顔を見つめ返した。

「汝は何をしにこの地へ来たのだ」

「私は杖の材料を探しにこの森へ来たの」

 その答えは何故かオクシアを怒らせたようだった。彼女はレネを剣呑な表情で睨み付ける。

「魔術師か。この地を荒らすのなら、我は容赦はせぬ。地の精霊(ピグミー)よ。我に力を貸し、彼の者を滅ぼせ!」

 オクシアが叫ぶと、足元の土が盛り上がり、たくさんの石が現れる。それは一旦空中に静止すると、二人に向かって飛んで来た。

 プラチナブロンドの少女は、素早く右手で黒光りする杖を操り、宙に文字を描く。

Beith(べー)Fearn(フェーン)Straif(ストラフ)! 精霊たちよ、我に加護を」

 薄い光の膜がレネと肇を覆い、迫り来る石礫(いしつぶて)を防ぐ。

 オクシアは攻撃の手を緩めない。

「動かざる大地よ。長き眠りより覚めよ」

 その声に応え、大地が蠢動する。レネはバランスを崩して、前に倒れそうになった。彼女は片手に持った杖で身体を支えながら、宙に木の枝を何本も放り投げて、呪文を詠唱した。

Uath(ヒューア)Tinne(ティンヤ)Ngeadal(ナイエダル)! 恐怖を纏い全てを滅ぼし尽くせ」

 空中を舞う枝はお互いに絡み合い、矢の形になる。それはオクシアを直撃しようとしたが、彼女が手を翳すと、その眼前で四散した。続けて彼女は小さく呟く。

「地を這う眷属よ。堅牢たる檻となりて彼の者を絡め繋ぎとめよ」

 地面に根付く木々の根が、触手のようにその手を伸ばす。それはみるみるうちに伸びて、レネと肇を覆い、二人を閉じ込める牢獄となった。レネは顔色を青ざめさせる。

「そこで、しばらく大人しくしておれ。我等の時間は汝等にとって永劫にも等しいだろうが」

 森の女王は意地悪く笑って、閉じ込められた二人を眺めた。

「ど、どうしよう。燃やせばここから出られるかしら」

 レネは混乱した様子で杖を掲げ、呪文を唱えようとする。

 それを慌てて肇は手で制した。こんな狭い空間で火の魔術を使うなんて、危険極まりない。

「おい、落ち着けって」

「どうしたら、この状況で落ち着いていられるっていうの!」

 思わず大きな声で叫ぶレネに、肇は静かな口調で告げる。

「まあ、見てろ」

 肇は周りを囲む木々の根に軽く触れた。目を瞑り、手に意識を集中させる。そこから魔力を根こそぎ奪い取ってやりさえすれば、この魔術は無効化されるはずだった。思惑通り、絡まりあった木々の根は解け、広い隙間が出来る。そこをくぐって、肇は外に出た。

 牢獄から至極あっさりと肇が脱出するのを見て、レネは唖然とする。

 オクシアも似たような表情をして、肇の顔を見た。

「なっ……」

 しかしすぐに思い直したように再び呪文を詠唱する。

「地に眠る異形のものよ。盟約に従いて我が武器となれ」

 先程と同じように石礫(いしつぶて)が肇を襲うが、それは彼には届かない。直前で荒れ狂う風がそれをことごとく叩き落とす。

「汝は一体何者だ」

 動揺したように、オクシアは呻き声を上げた。

「いや、ただの高校生だけど」

 肇はその様子を見ながら、続けて言葉を口にする。

「あのさ。お前、ちょっとやりすぎじゃないか? レネは単にブナの杖を一本作りたいだけだ。それくらい許してやっても構わないだろう。それともお前は魔術師に対して何か恨みでもあるのか?」

 オクシアは何か嫌なものを思い出すかのように、苦々しげに頷いてみせた。

「その通りだ。以前赤き竜に乗った魔術師はこの森を燃やした」

 猛烈に不吉な予感がした肇は、オクシアに重ねて問う。

「それって金髪に碧の目をした魔術師じゃなかったか?」

「ああ。汝の知り合いか?」

 森の女王はその黒目がちの瞳を咎めるように肇へと向けた。

 ――師匠。変なところで恨みを買うのは止してくれ。

 肇は嘆息混じりに、首を縦に振った。

「まあ、そんなところだ。あの人は災厄だから、自然現象とでも思って諦めたほうがいいと思うけどな」

「災厄……。まさか、災厄(ディザスター)か?」

 驚愕の声を上げるオクシアを見て、肇は溜め息を吐く。

 ――まさか精霊にまで師匠の悪名が轟いていようとは。

 いつの間にか、牢獄から外に出ていたレネもびっくりしたようだった。

「えっ? 肇って災厄(ディザスター)の知り合いなの?」

「知り合いって言うか、師匠だよ」

「「ええっ?」」

 森の女王とプラチナブロンドの少女の声が、まるで示し合わせたかのように見事に重なった。

「さすがは災厄(ディザスター)の弟子ということか。我の攻撃をあっさり無効化するはずだな」

「肇って魔術師だった上に、あんな恐ろしい人の弟子だったんだ……」

 二人が何やら納得して考え込んでいるのを、肇はどこか疲れたような顔で眺めやる。

「オクシア。悪いんだけど、レネにブナの木の枝を一本提供してくれないか。俺達はそれでここを立ち去るから」

「我も災厄(ディザスター)の弟子に手を出す気にはなれん。仕方ない、しばらくここで待っておれ」

 肇の言葉を了承して、オクシアは森の空気に溶け込むように姿を消す。肇とレネはその場で長いこと待っていたが、オクシアはなかなか戻って来なかった。業を煮やして、レネは古い様式(シャン・ノース)で詠うように口ずさむ。

女王よ(レギナ)地の精霊の女王よ(レギナ・ピグメオルム)出て来てちょうだい(ヴェニ)

 果たしてその言葉が聴こえたのか、暗緑色の髪をした森の女王は姿を現した。その手には長い木の枝を持っている。

「これでいいだろう、魔術師の少女よ」

 オクシアは穏やかに微笑すると、レネに木の枝を渡した。

「ありがとう」

 レネは丁寧に頭を下げて、それを受け取る。その様子を見て、肇はレネに笑いかけた。

「さあ、帰ろうか」

 レネは肇に笑みを返す。それから二人は森の女王に別れを告げて山道を引き返した。


     *


 レネは肇の家に戻ると、さっそく道具を広げて、杖作りを開始した。メジャーできっちり十三インチの長さを測り、そこに印を付けてナイフで枝を切る。その後サンドペーパーで樹皮を削ぎ落とし、表面を滑らかにしていった。それからその木の枝の上部を丸く削り、その周囲に複雑な模様を彫刻していく。最後にもう一度細目のサンドペーパーを掛け、精油を含んだ布で軽く表面を拭き取る。その手際の良さに、肇は感心した。わずか一時間ほどで、木の枝だったものは杖の形を成したのだ。

「これでよし、と」

 レネはそれを満足そうな顔で眺めやる。

「それで完成したのか?」

 作っている様子をじっと見ていた肇が尋ねると、レネは笑って答えた。

「魔法具としてはまだ未完成よ。本格的な儀式が必要になるから。それは帰ってからにするわ」

 広げたときと同じように、手早く道具を片付けながら、彼女は立ち上がる。そして言った。

「さて、そろそろ帰ることにしますか」

「もう帰るのか? 随分と慌しいな」

 肇の言葉を聞いたレネは、溜め息交じりに苦笑する。

「私の師匠は過保護なのよ。多分今頃は心配のあまり睡眠不足になっていると思うの」

「愛されてるんだな」

 肇は自身の境遇と比べて少し羨ましく思った。あの金髪の魔術師が肇を案じて睡眠不足になるということは、絶対にありえないだろうから。

「肇、いろいろありがとう。本当に助かったわ。また遊びに来るから」

 そう言って少女は鮮やかな笑みを浮べる。それから、彼女は肇の耳元に口を近付け、囁いた。

「これは魔術師としての誓約(ゲッシュ)よ」

「えっ?」

 訝しげに肇が聞き返したときにはもう少女は身を翻していた。光輝くプラチナブロンドの髪が視界の端に映る。まるで精霊のようだ、と肇は思った。


     *


 ロンドンの中心部に位置する魔術組合(ギルド)本部。その最上階の見晴らしの良い執務室で、白髪の魔術師、クリスタロス・ヴァイナモイネンは今日も仕事に励んでいた。彼が机に座って慌しく書類に目を通していると、がちゃりと勢い良く扉が開く。

「どうしましょう、ジョーズ・クリス」

 いかにも悲劇的な口調で、大仰に嘆きながら入って来たのは、亜麻色の髪の魔女だった。ソフィア・クウェルクスである。

 クリスタロスは鬱陶しそうに顔を上げて、まるで邪魔なものでも見るかのようにソフィアの表情を眺める。憂愁に翳った彼女の美貌も、彼には何の効果もないようだった。ただ苛立たしげに、こう問い掛ける。

「どうしたんだ、一体。お前の弟子は昨日帰って来たんじゃなかったのか」

「それが、あの子ったら日本で男の子の家に泊めてもらったって言ったんですよ。何かあったんじゃないかともう心配で」

「…………」

 ソフィアの返答に、クリスタロスは呆れ果てて沈黙した。

 ――この女の戯言にこれ以上付き合ってられるか。私はもう知らん。

 白髪の魔術師は大きく嘆息して、再び仕事を再開した。

<蛇足以外の何物でもない何か>


○日本魔術組合(ギルド)支部の談話室。

   椅子に座って寛いでいるティル。扉が開いてアルファルドが入ってくる。

ティル「やあ、アレフ」

アルファルド「貴様、いきなり呼びつけるとは何の用だ」

ティル「いや、当分出番が無さそうだから、本編に復帰できるまで、ここで自己主張することにしようと思って」

アルファルド「???」

   訝しげな表情をするアルファルド。それをティルはどこか哀れむようにして見る。

ティル「君には分からないんだね。必ずしも下なるものはクウォド・エスト・インフェリウス・上なるものエスト・シクト・クウォド・の如し(エスト・スぺリウス)って訳じゃないんだよ」

アルファルド「何のことだ? 今さり気なく錬金術の秘奥を否定しなかったか?」

ティル「ええと、このコーナーでは、上に見られるような、マニアックな作者にしか分からない作中に出てくる名言ネタを紹介しようと思います」

アルファルド「一体誰に向かって喋ってるんだ貴様は」

ティル「まあ、いいじゃない」

   そう言ってさらさらとペンでホワイトボードに向かって文字を書くティル。


   "waere aber ich nicht, so waere auch ≫Gott≪ nicht: (一方で、もし私自身が存在しなければ、「神」もまた存在しない)

    dass Gott ≫Gott≪ ist, dafuer bin ich die Ursache; (神を「神」たらしめているのは、私が原因なのである)

    waere ich nicht, so waere Gott nicht ≫Gott≪." (もし私が存在しなければ、神は「神」で無かったであろう)


アルファルド「ドイツ語か? 何か違うような気もするが」

ティル「ウムラウトが出なかったんだよ。ほら、特殊文字だから。その辺は想像にお任せします」

アルファルド「貴様、すごく無茶苦茶なことを言ってないか。これは一体何なんだ」

ティル「第七話の真ん中辺りでネタにされてる名言。異端審問を受けた中世ドイツの神学者、マイスター・エックハルトの説教集から」

アルファルド「なるほど。Eckhartつながりでわざわざ喋ってた訳か。こんなの分かる訳ないだろう」

ティル「まあね。けれど、次のはかなり有名だと思うよ」

   ティルは続けて文字をホワイトボードに書く。


   "There are more things in heaven and earth, Horatio, (この天と地の間には、不思議なことがたくさんあるんだよ、ホレーシオ)

    Than are dreamt of in your philosophy." (君の哲学なんかじゃ夢にも思わないようなことがね)


アルファルド「これは、シェークスピアだな。ハムレットだ。第十話でしつこく繰り返されてたな。何でネタにされたんだ」

ティル「ええっと、ボルヘスを読めば分かるらしいよ。シェークスピアと言えばこんなのもあるな」


   "We are such stuff As dreams are made on; (我々は夢を織り成すものと同じ材料で出来ている)

    and our little life Is rounded with a sleep." (そして、我々の儚い人生は眠りによって完成するのだ)


アルファルド「これはテンペストか。調子に乗って続けてシェークスピアのネタをやった訳だな」

ティル「僕の使い魔(ファミリア)つながりでね。第十話のこの二つはかなりあからさまだったと思うけど、これは分かりにくかったと思う」

      

   "Here lies one whose name was writ in water" (その名を水に止めたるもの、ここに眠る)


アルファルド「これは何だ?」

ティル「某SF小説で壮大なネタにされている夭逝の英国詩人、ジョン・キーツの墓碑銘から」

アルファルド「何でこれを使う必要があったんだ?」

ティル「ある神様から忘却の川を連想して、そこからこれを思い出したらしい」

アルファルド「確かに分かりにくいな、それは」

   ティルはホワイトボードに書かれた文字を消して、新しく文字を書く。


   "Regina, Regina Pigmeorum, Veni" (女王よ、地の精の女王よ、来たれ)


アルファルド「これは、第十一話か。ラテン語みたいに見えるが、何なんだこれは?」

ティル「ノーベル文学賞受賞者にして、黄金の夜明け団員という前代未聞の詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツのケルトの薄明から」

アルファルド「魔術師の話でアイルランドのネタをやるなら、この人は外せないと思った訳か」

ティル「名言ネタは今のところこれだけだね。何かだんだんファンタジー小説ならぬネタ小説と化してる気がするんだけど」

アルファルド「作者の趣味だからな。諦めるしかあるまい」

ティル「では、ここまで長い薀蓄を聞いてくれてありがとうございました! 次回をお楽しみに!」

アルファルド「……貴様、次もやる気でいるのか、このコーナー」

   呆れ顔でティルを見つめるアルファルド。そこで照明が落ち、幕が下りる。

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