[第十話 眠れる都市の奇書 後編]
四人は座って居間のテーブルを囲み、その上に城ヶ崎市の地図を広げていた。
「件の魔術書はここの洞窟の中だ」
アルファルドは指で地図をなぞり、目的地を指し示す。それは、城ヶ崎市の北側に位置する山の麓だった。
「どうしてこんな場所に魔術書があるんだよ」
不思議に思った肇が問うと、アルファルドは眉間に皺を寄せる。
「それは、あれを封印した昔の魔術師に聞いてくれ。俺は知らん」
それを聞いたティルは笑いながら、アルファルドの意見に同意した。
「本当にね。昔の魔術師は一体何考えてたんだろう」
そこに口を挟んだのは絢だ。
「私が聞いたところによれば、この城ヶ崎市は龍脈の上に位置しているようです。おそらくその関係でしょう」
よく分からない単語に首を捻った肇は、疑問の声を上げる。
「龍脈って何のこと?」
それに答えたのは、絢ではなくティルだった。彼は口元をほころばせて、視線を肇へと向けた。
「魔力を多く含んだ土地のことだよ。もし君が地図を見れば一本の線上に聖地と呼ばれるような土地が並んでいることに気付くと思う。だから龍脈って言うんだ。魔術の一分野であるGeomancy――日本語で何て言ったっけ?」
すかさずアルファルドが助け舟を出す。
「風水」
「そう、風水において重要になる概念だ。土地に含まれる魔力を流用して、魔術を成す。昔の魔術師はこれに長けてた者が多かったらしいけど、今は廃れてる気がするなあ」
「場所を選ぶ魔術だから当然だろう。今はどこにでも人が住んでるから、魔術師にとってはやりにくいことこの上ない」
アルファルドはそこで一息吐いてから、説明を加えた。
「話が脱線したな。『アル・キターブ・アル・フェッカ』はその地点にあるんだが、どんな優れた魔術師でもあれの半径五十メートル以内に近付くのは危険だ。結界であれの影響を遮断しながら進むにしてもな」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
肇は怪訝そうな顔をして尋ねる。魔術書に近付けないのならば、封印することは不可能だ。
「ここに、ある魔法具を用意した。俺が以前作った護符だ。害を与える魔術を防御するルーンを刻んである。霊験あらたかだから大事にしろよ」
そう言ってアルファルドは、他の三人にラピスラズリの嵌った銀色のペンダントを投げて寄こした。
「災厄の作った護符。何だか逆に災難を呼びこみそうですけど」
絢がそのペンダントの青い石を眺めながら淡々と言うと、アルファルドは苦虫を噛み潰したような顔で、絢を見返した。
「こんなときに茶化すな、綾織。結構苦労したんだぞ、それを作るの」
「貴方が魔法具を作るような繊細な人間だとは知りませんでしたので」
傍らで話を聞いていたティルは、思わず吹き出してしまう。
「確かに。アレフはこういう地道な魔術は好きじゃないからね」
「で、どうする、肇。貴様も一緒に来るか?」
アルファルドは立ち上がると、肇の目を覗き込んで聞いた。予想もしなかった問いに、肇は少し驚く。アルファルドに護符を渡された時点で、何となく自分も一緒に行くのだと思い込んでいたのだ。だが、よく考えれば、絢とティルの二人はともかく、肇がアルファルドに付いて行っても何の役にも立たないだろう。けれども、自分のいないところで勝手に事が進んでいくのは嫌だった。大切な友達の命がかかっているのだから。
「師匠、俺も付いて行くよ。多分役に立たないけど」
その様子を眺めたアルファルドは不敵に笑う。
「安心しろ。貴様の助けなど借りなくても大丈夫だ。俺の活躍を黙って見ているがいい」
「まあ、今のこの街で一番安全なのはアレフの傍だからね。いいんじゃない」
ティルはその様子を見て穏やかに微笑んだ。
*
「さて、始めますか」
銀髪の魔術師、ティル・エックハートはアルファルドの洋館の門柱の前に立つと、どこからともなく杖を取り出した。彼の身長ほどもある長さのその杖には二匹の蛇が絡み付いていて、先には二枚の鳥の翼があしらわれている。
「それ、一体どうなってるんだ?」
肇はそれを以前見たときにも、不思議に思っていたのだ。ティルの格好からして、そんな長い杖を隠し持っているとはとても思えない。
「世の中には不思議なことがたくさんあるんだよ」
ティルは大げさにもったいぶって見せた。その様子を見ていたアルファルドは呆れた顔をする。
「貴様のローブに空間魔術を掛けているだけだろう。全然不思議でもなんでもない」
「詐欺師が手の内を見せる訳にはいかないでしょ。格好くらい付けさせてよ、アレフ」
ティルが不服そうに口を尖らせて、ぶつぶつと文句を言う。
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと始めろ」
アルファルドの叱責に、ティルはやる気のなさそうな言葉を返した。
「はいはい。ティル・エックハートの名において命ずる。『エアリアル』」
彼の声に応えて、一匹の小妖精が踊り出る。昆虫のように薄く透き通った翅を羽ばたかせて、宙に鮮やかな軌跡を描いた。ティルの使い魔、エアリアルだ。エアリアルはティルの手にした杖の先に、ちょこんと座った。
「悪いんだけどね、ある魔術の影響を受けないような通り道を作りたいんだ。僕の声を風で運んでくれる?」
「分かったわ、我が主」
エアリアルは翅を動かして、可愛らしく返事をした。
ティルは杖を天高く掲げると、声を響かせて、呪文を詠唱する。
「風よ。其は我が声なり。我が息なり。その届く地全てを我が領域となせ」
エアリアルは、ティルの言葉に合わせて、唱和した。
「精霊よ。眷属の願いに答え、言葉を彼方まで運べ」
空気がざわめく。風がティルの足元から吹き上がるようにして巻き起こった。ティルはその銀髪を風に靡かせながら一息に叫ぶ。
「この息は我が息にあらず、神の息なり。ゆえに我が息は命の担い手にして万象を支配する言霊。――我は世界。この世界は儚き夢。すなわち我は夢を織り成すものと同じものなり。それゆえに我は夢を操るもの。この道を通るものは須らく眠りより目覚めるべし」
そうしてゆっくりと息を吐くと、杖はもう彼の手の内から消えている。
「ふう。ありがとう、エアリアル。もう戻っていいよ。これでこの前の道は、僕の言霊の支配下にあるから大丈夫だ」
呼びかけとともに小妖精の姿も、煙のように消失した。
肇は感心しきりといった面持ちで、ティルの顔を眺める。
「前にも見せてもらったけど、言霊っていうのは随分と便利なものなんだな」
「確かに他の魔術よりは応用は利くけど、声の届く範囲じゃないと効果は無いからね。風の精霊の力を借りないと、実用に耐えないんだよ」
ティルは口元に笑みを浮かべて見せた。
「これで、山の方まで普通に歩けるようになったのか?」
一連の様子を黙って見ていたアルファルドが尋ねると、ティルは小さく頷く。
「この道なら、しばらく結界を張らなくても進めると思う。ただ、あの魔術書に近付くとさすがに厳しいかな」
「十分だ。あれを封印するのに魔力はできるだけ温存しておきたいからな」
「ええ。魔力を取っておくに越したことはありませんね。いつ不測の事態が起こるか分かりませんから」
アルファルドの言葉に絢も同意する。
それから四人は洋館の前の道路をゆっくりと北に向かって歩いて行った。アルファルドが一番先頭を歩き、そのすぐ後に絢が続く。一番後ろを、肇とティルの二人が並んで歩いた。歩いているうちに肇はとても不思議なことに気付く。その道路にいる車や人は、時が止まったように静止しているのだった。学校から出たときにも、同じような光景を目撃したのだが、ティルの言霊の力で、魔術書は無効化されているはずではないのだろうか。そう思った肇は、疑問をそのまま口に出した。
「なあ、ティル。魔術書の影響は遮断しているのに、どうして皆止まったままになっているんだ?」
「日本魔術組合支部の魔術師達が静止魔術を掛けているんだよ。車に乗っている途中で、突然眠ったら危ないでしょ。それにしてもよく間に合ったよなあ」
感嘆さえ含まれるティルの言葉に、すぐ前を歩いていた絢が振り向く。
「一番最初の静止魔術は支部長が掛けたらしいですよ。時計仕掛けの叡智の名は伊達ではないということです」
「僕はあの人ちょっと苦手なんだよね」
ティルが言うと、肇は驚きに目を見開いた。傍若無人を絵に描いたような彼に苦手なタイプの人間がいるとは思わなかったのだ。
「ティル、支部長ってどんな人?」
「随分と神経質そうな感じの人だよ。別に怖いって訳でもないんだけどね」
肇は考え込む。要するに、アルファルドと正反対の人間ということだ。
「師匠と折り合いが悪そうだよな」
「よく分かったね」
ティルは目を丸くして肇の顔を覗き込んだ。
「あの人は基本的に適当だから」
苦笑しながらそう答えた肇に、一番前を歩いていたアルファルドが反応する。
「貴様等、人の悪口ばかり言ってないで、さっさと歩け」
「別に悪口なんか言ってないよ。アレフの被害妄想じゃないの?」
ティルがからかうように笑うと、アルファルドはむっとして足を早めた。
四人はそれから黙って歩き続ける。しばらく歩いたところで、アルファルドは足を止めて、厳しい声を発した。
「それ以上歩くな」
後ろの三人は、アルファルドの声を聞いて歩みを止める。アルファルドは神妙な顔付きでこう告げた。
「この辺りからは、魔術書の影響力が強くなってきている。結界を張って進まなければならん」
「私が結界を張りましょう」
絢が申し出た。アルファルドは頷いてそれを了承する。
「やってくれ」
「光よ。此処に在りて忌まわしき邪を払え。七里結界」
絢の声に応えて、辺りが眩い白光に包まれる。見えない障壁が、魔術書の力を阻んだ。
「かなり、広範囲の結界を張りました。これで、洞窟の入り口までは歩けるでしょう」
彼女は大掛かりな魔術を使用して疲労したのか、額にびっしょりと汗をかいている。ティルは呆れたような顔をして、絢を見つめた。
「そんな短い詠唱でよくこんな大きな結界を張れるよね。今のこの街では精霊の助けもほとんど得られないのに」
「変なものを見るような目で見ないでください。私に言わせれば貴方達三人のほうがよっぽど変ですよ」
絢の発言に驚愕した肇は、慌てて否定するように手を横に振った。
「ちょっと待ってくれ。どうしてその中に俺が入ってるんだよ」
「何言ってるんですか。名だたる魔術師を二人も倒しておいて、よくそんなことが言えますね」
絢が淡々と言うと、ティルは興味津々といったふうに肇へと視線を向けた。
「へえ、肇って結構強いんだ。知らなかったよ」
「そうでもないと思うけど」
肇は正直なところ、魔術師と戦ったときのことは、あまりよく覚えていなかったので言葉を濁す。
「くだらないことを言っている場合か。急ぐぞ」
いつの間にか一歩先を進んでいたアルファルドが苛立たしげに振り向いて、三人を促した。絢が早足でそれに続き、ティルと肇もその後に付いていった。
*
四人はようやく山の麓に辿り着く。辺りに生い茂っていた森が切れて、ごつごつとした岩肌が眼前に立ちはだかっていた。その一番東側、まるでそこだけを穿ったように、ぽっかりと口を開けた洞窟がある。太陽はすでに西の空にあり、夕焼けが空を赤く染め上げていた。
「ここからが問題だな。貴様等、例の護符をしっかり持っていろ」
アルファルドは洞窟の正面で立ち止まって言うと、躊躇いなく中に入って行った。他の三人も慌ててその後を追う。
「炎よ」
金髪の魔術師が短く呟くと、彼の指の先に小さな炎が灯り、周囲を橙色の光が照らした。その炎は、鬼火のように彼の手から離れて、ゆっくりと洞窟の奥のほうへと移動していき、道を指し示す。アルファルドが先頭に立って、四人は奥へと進んだ。入り口は随分と広かった。背の高い人間が優に立てる高さだ。しかし洞窟の内部に行くに従って、幾つもの岩が道を塞いでいて、狭くなっていた。しばらく歩いていると、突如道が途切れ、行き止まりかに見える。だが、アルファルドは手馴れたように、足元にある大きな岩を横に動かした。そうすると狭い縦穴が姿を現す。それを見たティルは不思議そうな顔をした。
「ねえ、もしかしてアレフってここに来たことがあるんじゃないの?」
「ああ。その時は例の魔術書について何も知らなかったから、あの封印を見たときは、驚いた」
アルファルドの言葉に、絢は考え込むようにして、顎に手を添わせる。
「おかしいですね。私が調べたところによると、以前あの魔術書を封印し直した際、二度と人が近付かないように、この洞窟自体に、空間隔離の魔術を掛けておいたらしいですが」
「あんな所に空間の綻びがあれば、誰だって気になるだろう。それに俺はあの封印には触ってないぞ」
その会話を傍らで聞いていた肇は、ふと疑問に思った。
「空間隔離の魔術をかけていたのに、どうしてその魔術は解けているんだ?」
アルファルドはああ、と頷いて答える。
「おそらくは、あの魔術書の魔力があまりにも強すぎるせいだろう。強い魔力波動は弱い魔力波動を淘汰するものだからな」
四人は狭い縦穴を順番に降りていった。驚くべきことに、縦穴の下にあったのは広い空間だった。天井からは、暗灰色をした無数の鐘乳石が氷柱のようにぶら下がっていた。水滴がぽたぽたと、鍾乳石を伝って落ちる。先程よりもひんやりとした湿った空気に、肇は身体を震わせた。
「さて。目的の場所にだんだん近付いて来たぞ」
アルファルドは炎を操り、その空間のさらに奥のほうを照らす。そこにあったのは、地底湖だった。湖面は透き通っており、神秘的な青色を湛えている。その真ん中に島のように丸い形の岩があった。遠目にもそこに何かが置かれているのが分かる。
「止まれ。ここから動くな」
アルファルドは厳しく静止の声を上げた。
「師匠。あそこに魔術書があるのか?」
「ああ。これ以上近付くのは貴様等には危険だ。綾織、結界を張ってくれ。三人共ここで待っていろ」
絢は首を縦に振って、言われた通りに結界を周囲に張り巡らせる。
「アレフ。君はあの魔術書にどうやって近付くつもりなんだい? 浮遊魔術を使うにしても、あれに近付く途中で意識を失ったら目も当てられないよ」
ティルが尋ねると、アルファルドはにやりと口元に笑みを浮かべた。
「仕掛けがあるんだ」
アルファルドはそう言って、洞窟の壁を伝って歩いていく。そこには一箇所だけ色の違う場所があった。石灰岩のように、白い岩肌が見える。アルファルドがそこに触れると、驚くべきことに、地底湖の水はゆっくりと音を立ててひいていった。ティルは感心した面持ちで、それを見ている。アルファルドは完全に水がひいたのを確認してから、丸い形の岩のほうに近付いていった。
「師匠、気を付けてくれ」
肇の言葉にアルファルドはひらひらと軽く手を振って応える。あの岩に一歩、また一歩と近付くたびに、眩暈でくらくらとする。酷い圧迫感に意識がもっていかれそうだった。そこに置かれた魔術書、『アル・キターブ・アル・フェッカ』は、淡く赤みのかった黄金色の光を放っていた。何とかアルファルドは岩の上にあるその魔術書にそっと触れる。それから、懐から万年筆を出して、魔術書に文字魔術を記そうとするが――
その瞬間、魔術書の光が一層強くなった。電撃に打たれたような感覚がアルファルドを襲う。金髪の魔術師は、ぼんやりとした視界のうちに連れの三人が地面に倒れ伏すのを見た。それから、彼の意識は闇に落ちた。
*
どこからか声が聞こえる。笑うような声が。そこは一切光の射さぬ無明の空間だった。
「やあ、災厄。久しぶりだね。奈落の底で会って以来だ」
その声を発したのは、燃えあがる炎のような目をした、黄金色の髪をした青年だった。不思議なことに、暗闇の中でもその姿ははっきりと見える。彼は優れた彫刻家の手による彫像のような端正な面差しをしていた。だが、その耳の後ろには白い翼が生えている。異形といってもいいだろう。
「迂闊だったな。あの魔術書には貴様が関わっていたのか」
振り向いて視界にその存在を捉えた金髪の魔術師は、顔全体に渋面を浮べる。
「やだなあ。僕も実のところ、君に会うまでは、あれのことなんかすっかり忘れていたんだ。まさか、あの魔術書の封印されている街に君が住んでいるなんて思ってなくてさ。そのことに気が付いたときは思わず小躍りしそうになったよ」
黄金色の髪をした青年は、アルファルドとは対照的に微笑して見せた。嫌悪感すら含まれる表情を向けられても、どこ吹く風といった様子である。
「あの魔術は貴様の力を借りて行われている訳だな。さっさと解除しろ」
アルファルドは剣呑な視線で、その青年を思い切り睨み付けた。
「嫌だね。僕はあの街の人間が死のうが生きようがどうでもいい。まあ君を置き去りにしたあの愉快なシンドバッド似の銀髪君が死ぬのは少し惜しいけれど」
「では力ずくでも、貴様にそうさせてみせる。来たれ、炎の剣!」
アルファルドの声に応えて、虚空から一振りの剣が現れる。彼は右手を伸ばしてそれを勢い良く掴み取ると、青年に向けた。
「君お得意の炎の剣か。だけどね、ここは夢の世界だ。だから、全ては僕の思い通りになる」
黄金色の髪の青年はどこから取り出したのか、短い杖を手にしてそれを軽く振った。それだけでアルファルドの手にあった剣は瞬く間に消滅する。アルファルドは、舌打ちすると、苦虫を噛み潰したような顔をして、目の前の青年を見据えた。
「貴様、一体何が目的だ」
「ちょっと君が困る顔が見たかっただけだよ」
にこやかに言う青年にアルファルドはうんざりしたような面持ちで、大きく息を吐いた。そんなことのために一つの街を壊滅させようというのか。これだから人外の存在というのは嫌なのだ。
――仕方ない、か。
アルファルドは表情を引き締めると、朗々と詠い上げるように呪文を唱えた。
「OL GNAY IP DARBS TOFGLO,AOIVEAE,BOGPA DE MADRIAX. OL GAHALANA A VORS ORS. ZILDO ACROODZI OD ULS,DAS ENAY MICALOZ OD IALPOR GOHED. OL SONF VORSG TA QAAL,QUASB BOGPA!」
長い詠唱が終わった途端、二人の存在する空間はゆらりと揺らめいて、徐々に形を失い始める。
「相変わらず滅茶苦茶だね、君は。この世界ごと、破壊する気?」
青年の言葉にも、アルファルドは黙って答えない。続けて囁くように呟いた。
「NIISA. NAPEA TELOAH」
金髪の魔術師の手には、いつの間にか緑に輝く炎の剣が握られている。世界が秩序を失い、崩れゆく中、その隙間を縫ってアルファルドは動いた。一息に距離を詰めると、青年の後ろに回って、首筋にその切っ先を突き付ける。それでも、その青年は余裕の態度を崩さない。とぼけたように言った。
「ふむ。僕は戦いみたいな野蛮なことはあまり好きじゃないんだよ」
アルファルドは呆れた表情をして、青年の横顔を見やった。
「一つの街を滅ぼそうとしている奴がよく言うな」
青年はへらへらと笑う。アルファルドは相変わらず気に触る笑みだ、と思った。
「分かってないなあ。これは一種の芸術なんだよ。ほら、昔の有名な魔術師も言っていたじゃないか。人の儚い人生は眠りによって完成するんだって。それに、眠りと死は表裏一体のものだからね」
「自分の趣味に他人を巻き込むな。貴様一人で勝手に寝ていろ」
そう言うや否や、手に持った炎の剣でアルファルドは躊躇い無く青年の首筋を斬る。驚くべきことに、その斬撃を受けても、青年は平然としていた。金髪の魔術師はその様子をいかにも嫌そうな顔で眺めて、追い払うようにしっしっと手を振る。
「さっさと自分の世界に帰れ」
「言われなくても、僕はこちらの人間に召喚された訳でも何でもないから、残念ながらそれほど長い時間干渉できないんだよ。だから、いいことを教えてあげよう。僕の名前をあの魔術書の表紙に正確に記せば、この魔術の効果は完全に消える。だけど、綴りを少しでも間違えれば――」
青年は言葉を切って、からかうような笑みをアルファルドに向けた。
「分かってるよね?」
そうしているうちにも、二人がいる空間は、崩壊していく。黄金色の髪をした青年は、名残惜しそうに別れの言葉を告げた。
「時間切れか。君の怒る顔が見れてとても楽しかったよ。では、おやすみ。天の理から外れたがゆえに孤独なるものよ」
青年の笑い声は次第に遠ざかっていく。赤みがかった黄金色の光が辺りを乱舞して、鮮やかな軌跡を描いた。それから、アルファルドの意識は現実世界に引き戻された。
*
ゆっくりとアルファルドは目を開けた。まだ意識が朦朧とするが、やらなければならないことがある。身体を起こすと、彼は地面に落ちた魔術書と万年筆を拾い上げた。まだ魔術書は仄かに光を発しており、その表紙にはアラビア文字で右から左にタイトルが書いてあった。『アル・キターブ・アル・フェッカ』と。そのすぐ下に、金髪の魔術師は丁寧に文字を書いていく。文字魔術というのは非常に神経を使うものだった。字体や綴りを間違えたが最後、魔術師が一方的に契約破棄したと魔術的存在にみなされ、どんな災難が降りかかるか知れたものではない。アルファルドは小声で呟きながら、一つずつギリシア文字を綴っていく。
「SpiritusAsper、Upsilon、Pi、 Nu、Omicron、Sigma」
そこまで終えると、魔術書の放っていた光は徐々に弱まっていく。アルファルドは魔術の効果が完全に消えたことを確認してから、大きく息を吐いた。それから立ち上がり、倒れている三人のほうに近付いていく。その様子を眺めたアルファルドは何となく腹立たしくなって、魔術書の角で自らの弟子の頭を思い切り叩いた。
「っ……!」
痛みによって覚醒したのか、肇は弾かれたように起き上がると、涙目になってアルファルドのほうを睨み付けた。
「師匠! いきなり何するんだ」
「貴様があんまり幸せそうに寝ているから、少し腹が立ってな」
肇が辺りを見渡すと、ティルと絢の二人もどうやらその騒ぎで意識を取り戻したようだった。
「災厄、終わったんですか?」
「ああ。もう大丈夫だ」
怪訝そうな絢の問いに、アルファルドは頷いて答えた。
「ねえ、アレフ。その魔術書、普通に持っていても平気なのかい?」
不思議に思ったティルが、アルファルドの手にしている魔術書に視線を落とす。
「これはもう、ただの魔術書だ。封印する必要もない」
アルファルドのあっさりとした返答に、ティルは呆れたような顔で嘆息した。
「君一体何やったのさ」
「ただの文字魔術だ。ほら、さっさと帰るぞ」
アルファルドは面倒臭そうな表情で、一同へ帰るように促す。それから四人の魔術師は元来た道を引き返していった。縦穴をよじ登り、狭い洞穴を抜けて、外に出たときには、すっかり日は落ちていた。
*
洞窟の入口のすぐ傍で四人を待っていたのは、片眼鏡をかけた黒髪の男だった。日本魔術組合支部長、芦川賢治だ。
彼がその場にいたことが意外だったのか、絢は少し驚いたように表情を変えた。
「時計仕掛けの叡智。どうして貴方がここに」
「災厄に礼を言っておきたくてな。あの魔術書を止めてくれて感謝する」
言って賢治は深く一礼する。背筋を伸ばし、上体を四十五度に傾ける完璧な礼。
対するアルファルドの返答はそっけない。
「当然のことをしたまでだ。貴様に感謝される筋合いはない」
「アレフ! もう少し言い様ってものがあるんじゃないの」
ティルはアルファルドを後ろから小突いて、咎めるような口調で言った。
その様子を見ていた賢治は苦笑して、ティルの顔を眺める。
「いつものことだ、詐欺師。君が気に病む必要はない。それにおそらく後でもっとひどい修羅場を見る羽目になるだろうからな」
「どういうことですか、それは」
その言葉に反応したのはティルではなく、絢だった。彼女は問うような視線を賢治に向ける。
賢治はこめかみの辺りを押さえると、どこか疲れたような顔付きで返答した。
「海神の顎門がここに来る」
それを聞いたティルと絢の二人は、ほとんど悲鳴に近い声を上げる。
「クリスが?」
「まさか、そんな……」
アルファルドは声こそ発しなかったものの、忌々しげに表情を歪めた。その場で事態を把握していなかったのは、肇だけだった。彼はティルに小声で聞いてみる。
「クリスって誰のことなんだ?」
「元老院議長、クリスタロス・ヴァイナモイネン。魔術組合のお偉いさんだよ。アレフと仲が悪いんだ」
その割にティルは随分気安い呼び方をするな、と肇は何となく思った。
しばらくして、何かが吼えるような声がする。その発生源は、肇達の頭上だ。夜空に細長い体躯の生き物が、浮かんでいる。白い竜だった。東洋の絵画に見られるような姿の竜。それは、真っ直ぐに肇達に向かって降りてくると、輪郭をゆらめかせて、人の形に姿を変えた。白髪をした若い男の姿だ。彼はその青灰色の目で鋭くアルファルドのほうを一瞥した。
肇はあまりのことに驚いて、声も出ない。
「貴様、何故ここにいる」
アルファルドは唸るような低い声で、白髪の男に問うた。
「誰がこの件の後始末をすると思う。この事件が発生して六時間。この間の城ヶ崎市民の記憶の空白を私以外の誰が処理できる? 破壊しか能のないお前みたいな魔術師には逆立ちしても無理だろうが」
白髪の男、クリスタロスは強い口調で言い放つ。
「貴様は俺に喧嘩を売っているのか」
アルファルドは、碧眼に剣呑な光を湛えて、眼前の白髪の男を睨み付ける。
「私がお前に敵意を持つなと言うほうが無理な相談だよ、この化け物が」
クリスタロスの発言に、その場の空気ががらりと変わった。その空間を支配するのは息苦しくなるような威圧感だ。アルファルドは濃縮された純粋な殺意をクリスタロスに向けた。
「もう一遍死んでみるか? クリスタロス・ヴァイナモイネン」
金髪の魔術師は薄く笑う。それはなんとも形容しがたい表情だった。酷薄さと艶やかさが入り混じったような凄絶な笑み。それは見るものをどうしようもなく惹き付けると同時に恐怖のどん底に叩き落とす。
肇はここで初めて悟った。自らの師匠は、悪魔と戦ったときでさえ、一欠片の殺意も持っていなかったことに。しかし、アルファルドをここまで怒らせるとは、この白髪の魔術師との間に一体何があったのか。
クリスタロスは、重苦しいほどの敵意の篭った視線を平然と受け止める。
「豎子め、この私が何度も同じ手に乗ると思うのか」
魔術師同士の対峙。それもお互いが超一流の魔術師である。その場の緊張が一気に頂点にまで達する。
「裁きの光よ――」
アルファルドが呪文を呟こうとした瞬間、そこに居合わせた魔術師三人がまるで示し合わせたかのように同時に動いた。ティルは懐から杖を取り出してアルファルドに向け、その魔術を封じ、絢はアルファルドとクリスタロスの周囲を結界で覆う。賢治はIsaのルーンを大地に刻み、クリスタロスの動きを止めた。
沈黙の中、最初に口を開いたのは、ティルだった。
「クリス。君はアレフに喧嘩を売りに来た訳じゃないよね」
「ああ。私は断じてこれの相手をしに来た訳ではない」
ティルはクリスタロスに確認するように聞くと、今度はアルファルドのほうに向き直って諭す。
「アレフ。君も挑発に簡単に乗るんじゃない」
「…………」
アルファルドは険悪な表情のまま黙り込む。そしてくるりと踵を返し、すたすたと去っていった。
「師匠!」
肇の言葉にも彼は答えない。その様子を見たティルは肇に声を掛けた。
「放っておきなよ、肇。ちょっと拗ねてるだけだから。それにしても危なかったな」
ティルの言葉に、絢も首を縦に振って同意する。
「ええ。せっかく魔術書の脅威が去ったのに、城ヶ崎市に新たな危機を招く所でした」
「海神の顎門。あなたも大人気ない。あんな言動をすれば、誰だって怒る」
賢治が窘めるようにして、クリスタロスに話し掛けた。
「私は自分を狭量だとは思わない。一度殺されかけた相手に、寛容に接することなど私には無理だ」
クリスタロスは賢治に弁解するような視線を向けた後、気を取り直したように、絢に指示を下す。
「さて、私は私のやるべきことをするか。黒の人形師、結界を頼む」
絢は軽く頷くと、クリスタロスの指示に従って、結界を張った。
白髪の魔術師は、呪文を夜気に響かせながら、朗々と詠唱する。
「詠え、忘却の川より流れ巡る水よ。そこに刻まれるは汝の名と記憶。その名を水に止めたるものよ、ここに眠れ」
先ほどまで雲一つ無かった夜空にみるみるうちに雲が湧き起こる。それは瞬く間に空全体を覆い、それからしばらくして、ぽつぽつと雨が振り始めた。全てを洗い流すように、静かに雨が降る。半刻ほどして、それはようやく止んだ。
「これで全て終わった。ご苦労だったな」
白髪の魔術師は雨が降り止んだのを見届けてから、白い竜へと変化する。そうして、彼は来たときと同じように、夜空に姿を消した。
その様子を訝しげに眺めていた肇は、ティルに尋ねてみた。
「あれ、一体どうなってるんだ?」
「僕にも分からないよ。そもそもあの人年齢不詳だし」
ティルの答えに、肇は呆れ果てた。全く、世の中には不思議なことがたくさんあるものだ。
「君達も帰るといい。感謝する」
賢治は大きく息を吐いてから、三人に礼を言って帰っていく。それを見送ったティルは振り向いて絢と肇に笑い掛けた。
「さて、僕達も帰ろうか」
「ああ」
肇は同じように笑みを返す。本当に今日は大変な一日だった。早く家に帰ってゆっくり寝よう。あの魔術書が力を失った今、もう悪夢も見ないだろう。彼は足早に家路へと着いた。
*
翌日。肇はいつものように学校へ向かった。教室の扉を開けると、普段と全く変わらない風景が、肇を出迎える。生徒達は楽しそうに談笑していた。
――魔術師達は一体あれをどうやって誤魔化したんだろう。
肇は不思議に思った。記憶を操作したのは、おそらくあの白髪の魔術師、クリスタロスだろう。だが、物事には物理的な側面というものが存在するのだ。ここに倒れ伏していた級友達をどのようにして家に運んだのだろうか。肇が自分の席に座って考えを巡らせていると、頭上から声が掛かった。
「肇、どうしたの?」
幼馴染の少女、宮地悠だ。彼女は茶色のポニーテールを揺らしながら、肇の顔を訝しげに覗き込んでくる。
「いや、世の中にある不可思議な現象についてちょっと考えていたんだ」
それを聞いた悠は何故か嬉しそうに笑った。
「肇もついにそのことに気が付いたのね。この天と地の間には人智の及ばないことがたくさんあるのよ」
――まあ、確かにそうかもな。
今回の事件で見たものを肇は思い出しながら、悠に聞いてみる。
「その人智の及ばないこととやらにはどんなものがあるんだ?」
「そうねえ。私は持って来るのが面倒だからいつも学校に辞書を置いたままにしてあるんだけど、昨日に限って家に持って帰ってしまったみたいなのよ。そんな記憶全くないのに。お蔭で今日辞書持ってくるの忘れちゃった」
肇はその理由をすぐに理解した。魔術師達は魔術を用いて、生徒達の荷物を家に運んだのだろう。だがもちろん彼等は個々の生徒の性癖など知る由もないため、こういった齟齬が生じた訳だった。
「はははっ!」
肇は大声を上げて笑った。
「今の、そんなに可笑しかった? 私としては、色々つっこんでほしかったんだけど」
悠は笑い続ける肇を呆れた顔で眺めやる。本当にあの事件が無事に解決して良かった。願わくは、この平穏な日常がずっと続きますように。肇はそんな悠を見ながら心の中で思った。
<後書きに代えて>
○真っ暗な部屋。
向かい合う肇とティル。肇は不思議そうな顔で辺りを見回す。
肇「あれ? ここはどこだ?」
ティル「作者が後書きを書くのが嫌だったから僕等が呼ばれたんだよ」
肇「どういうことだ?」
ティル「今回の話が長くなって前編と後編に分かれたことと、引用が多いことについて謝罪してこい、だってさ」
肇「要するにパク――」
ティルが慌てて肇の口を塞ぐ。
ティル「可哀想だからオマージュと言ってあげなよ。ええと、作者からの伝言によると『ハワード・フィリップス・ラヴクラフトとホルヘ・ルイス・ボルヘスに捧げる』、だそうだ」
肇「作者は重度のラヴクラフティアンだからな」
ティル「書き終わってからクトゥルフものだってことにようやく気付いたらしいよ。ああそれと『有名な例の二行連句だけど宇野利泰氏の名訳をお借りしました』だって。何のことだろうね」
肇「さあ、俺には分からないな。で、この話は結局何だったんだ?」
ティル「アレフがあんまりにも睡眠好きだったために変な神様に気に入られて城ヶ崎市が壊滅しそうになる話」
肇「くだらないな。そんなことで俺の住んでいる街は滅びそうになってたのか?」
ティル「それを言ったら第八話だってくだらないよ。よく考えたら食欲対睡眠欲の牛同士の戦いだもの」
肇「師匠が関わると大抵くだらない話になるな。当分おとなしくしてもらうように言っておこう」
ティル「まあ、あの人は災厄だからね。ええとまだ作者からの伝言が残ってたな。『読みにくい文をここまで読んでくれてありがとうございました』だって。ほら、肇も礼をする!」
肇「ここまで読んでくれてありがとう」(何故か棒読み)
二人が頭を下げ、幕が下りる。