[第一話 それが苦渋の始まり]
「弟子を取ってください」
漆黒の髪をした女は言った。抑揚の無い、感情を全く感じとれない声と無表情が、どこか彼女を人形めいた雰囲気に見せている。
「何度も言っているだろう? 俺は人に物を教える器ではないと」
不機嫌な声で答えたのは金髪の青年だった。見る者に、あらゆる人間を魅了し、惹きつけるだろうと思わせるほどの端正で整った容貌をしている。彼は女に問うた。
「何故そこまで俺に弟子を取らせることに拘る」
漆黒の女は淡々と青年の問いに答える。
「貴方はそれほどの力を持ちながら、どの魔術結社にも属していない。貴方一人の行動如何で魔術界のパワーバランスが崩れるのです。元老院の方々が危惧するのは当然でしょう? 貴方には枷が必要なのです」
「貴様等はこの俺の何を恐れている? 俺がここにいれば、俺が何をしようとも、貴様等に害を与えることは不可能だ。それは分かっているだろう?」
秀麗な顔を顰めて、苛立ちを微塵も隠そうともせずに、青年は尋ねた。
「その魔力を。その意思を。私達は恐れているのです。貴方が何かを成そうとすれば何者もそれを止めることはできない」
女は断定するような口調で、言葉を続ける。
「私は貴方が是と言うまで何度もここに足を運びますよ」
刺すような視線で女を睨みながら、青年は断言した。
「何度頼まれても俺の答えは変わらないぞ」
その視線を平然と受け止めながら、女は言葉を返す。
「それでも。いつ貴方の気が変わるやもしれませんから。ではまた会いましょう」
そう言って、漆黒の女は自らの纏う色と同じ色の闇にかき消えた。
*
久住肇は、窓の外を眺めていた。その髪と同じ色をした黒瞳に映るのは、人気のない運動場だ。午後の日差しはガラス窓から鮮やかに差し込んで、開いた教科書を照らしていた。黒板では数学の教師が、√2が無理数であることを、背理法で証明している。それをぼんやりと聞き流しながら、彼は授業が早く終らないかと考えていた。午後の授業はとにかく眠くて仕方がないのだ。黒板に一定の間隔で響くチョークの音がまた酷く眠気を誘う。
――耐えろ。耐えるんだ。これが終われば帰れる。もう少しの辛抱だ。
そう肇は自分に言い聞かせて、眠気をこらえる。彼の忍耐力が限界に達しそうになったちょうどその時、授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。教師が足早に教室から出て行く。肇は眠気を払うように大きく伸びをして、席を立った。すると。
「肇! 今日の帰り、ちょっと付き合ってくれない? 寄りたいところがあるの」
そう声を掛けたのは、髪の毛を茶色に染め、ポニーテールにした女生徒だ。名を、宮地悠という。彼女は肇の幼馴染である。肇はうんざりした面持ちで、悠の顔を眺めた。
「また、本屋に怪しい本を買いに行くんじゃないだろうな」
「怪しい本って……失礼なこと言わないでよ」
「この前お前が買った本は明らかに怪しかったぞ。未確認生物大辞典とか黄金の夜明け魔術全書とか」
「人の趣味をどうこう言わないでよね。それにUMAも魔術師も本当にいるんだから」
「いつまでも子供じみたこと言ってるんじゃない。そんなものいる訳がないだろう」
「何で肇はいちいち人の夢を壊す言い方するかなあ。このロマンが分からないなんて人生損してるわ!」
「そんなロマン、分からなくて結構。俺は自分の見たものしか信じないの」
悠は生粋のオカルトマニアだ。肇は小さい頃から彼女に振り回されて散々な目に遭ってきた。山奥の心霊スポットで置き去りにされた時には幽霊だとか関係なく、本気で死を覚悟したものだ。悠の父親が血相を変えて迎えに来てくれて事なきを得たのだが。そんな風に悠に付き合わされた反動か、肇は非科学的なものを全く信じなくなってしまっていた。
肇の言葉を聞いた悠は、口を引き結んで、しばらく不満そうな顔をしていたが、話題を変えるように、明るい口調でこう言った。
「今日の帰りによるのは本屋じゃないわ。駅前にアンティークショップが出来たって聞いたから行こうと思って」
「で、何でそれに俺がついていかなくちゃならないんだ」
「荷物持ちよ、荷物持ち。何欲しくなるかわからないでしょ」
「またそれかよ」
肇は深く溜め息を吐いた。悠の家は肇の家のすぐ隣にある。そのため、彼女に付き合った買い物の帰りにはいつも大量の荷物を持つ羽目になるのだ。
――今日は早く帰って寝ようと思ったのに。
せっかくの予定が悠のせいで台無しである。肇は憂鬱な気分になった。
*
城ヶ崎高等学校。それが肇と悠の通う学校である。そこから最寄の城ヶ崎駅までは歩いて二十分ほど。学校が終わり、二人は駅のほうへと向かう。二人が住んでいる地域は駅と学校のちょうど中間地点にあるので、駅で買い物をしようとすれば当然、寄り道をすることとなる。高校の前の道を西に曲がり、住宅街を抜けて大通りへ。そこから南下すればもう駅前の繁華街だ。夕暮れ時の歩道は買い物客で少し賑わっていた。
「確か、このあたりだったと思うんだけど」
悠が言って、きょろきょろと辺りを見回した。肇も目的の店を探して首を巡らせる。
ふと。こじんまりとした、茶色の煉瓦造りの建物が見えた。その入り口は色鮮やかなハーブの緑で彩られている。
「あれじゃないか?」
肇はその建物を指差して、尋ねた。
「そうみたい」
悠は軽く頷いて答える。二人はその店の扉を開けて、店内へと足を踏み入れた。入ってまず目に付くのは、大きなガラス製のシャンデリアである。美しい曲線のフォルム。窓から射す光できらきらと輝く。それに見惚れていた悠がこう口にした。
「綺麗ね」
「確かにそうだけど……お前の家に置くところはないと思うが」
「別に買う訳じゃないわ。それにちょっと高そうだし」
肇はシャンデリアについた値札を見る。七万八千円也。
――確かに高校生に手の出る値段じゃないな。
そう考えている間にも、悠はガラス食器を陳列してあるコーナーに移動して買う物を物色している。肇は、その隣のアクセサリーが無造作に入れられている籠を見やった。貝殻のネックレスや、銀色のブレスレット。金色のいかにも古そうな懐中時計。肇はその中に青い石の付いた指輪を見つけた。目を惹かれる、鮮やかな夜空の色だ。彼は、なんとなくその指輪を指に嵌めた。それを窓の光にあてて眺め、そして、指から外そうとしたが。
――抜けない。
肇は慌てた。呼吸を落ち着けて、指輪を左右にぐるぐると回して抜こうとするが、やっぱり指から外れない。悠が買うつもりなのであろう、赤い切子のグラスを持って、肇のほうに歩いてきた。
「どうしたの? その指輪、買うの?」
「いや。指から抜けないんだ。どうしよう」
「買っちゃったら? それ結構綺麗じゃない? 値段、いくら?」
肇は指輪の入っていた籠に貼り付けてあった値札を見た。千円均一。また微妙な値段だ。
「千円だって。意外に高いな」
「そうかな? 私は安いと思うけど。そうだ! もうすぐ肇の誕生日でしょ。私が買ってあげるよ」
「えっ? いいよ、別に」
女の子に買ってもらう誕生日プレゼントが指輪だなんて。普通逆だろうに。肇はそう思って顔を顰める。悠は腰に手を当てて、肇の目を覗き込んだ。
「肇、人の好意は素直に受け取るものよ」
悠は強い口調で言い放つと、もうレジのところへ行き、肇を指差しながら、店員と交渉している。そうして、悠はその日アンティークショップで赤い切子のグラスと、青い石の指輪を購入したのだった。
*
日が暮れつつある住宅街を、二人は並んで歩く。日差しは翳って、辺りの路地は少し薄暗くなっていた。自宅への帰路を辿りながら、肇は手に提げた買い物袋を視線で示して、悠に問い掛ける。
「本当にこれ貰っていいのか?」
「いいよ。指から外れなかったお蔭でまけてもらっちゃったし」
悠は頷いてそう言った後に、にっこり笑って続けた。
「その代わり、私の誕生日には三倍返しね」
「何でそうなるんだよ」
肇はその返答に苦笑しながら、首を捻って見せる。
「しかしこれ、外れるのかな」
「こういう時はね、指に石鹸水を付けてゆっくりと回せば抜けるんだよ。うちのお母さんが言ってた」
「家に帰ったら試して見よう」
気が付けば会話しているうちに、家の前に到着していたようだった。肇は切子のグラスが入った買い物袋を、悠に渡す。
「はい、これ。お前のだろ。じゃあまた明日な」
悠はそれを受け取り、手を振って挨拶を返した。
「うん。今日は付き合ってくれてありがとう。ばいばい、また明日」
悠が自分の家に入っていくのを見届けてから、肇は自宅の門をくぐり、鍵で玄関の扉を開けて、家の中へと足を踏み入れた。
*
久住肇は、一人暮らしである。彼の母親である、久住芹亜は、七年前に失踪していた。彼の父親である久住敦は、居なくなった自身の妻を探すために、世界中を飛び回っていて、日本の自宅にはほとんど帰ってこない。肇の伯父は子供の養育を放棄するなど無責任だと、肇の父親を非難し、家へ来るように常々言っていたが、肇はそれを断っていた。一人暮らしは存外気楽なものだったし、何より彼は父親と約束していたのだ。母親がいなくなった後の父親の憔悴ぶりは、同じく当事者であった肇から見ても酷いもので。そんな彼を肇は傍で見ているのに耐えられず、父親に言ったのだった。
「父さん。俺のことはいいから、母さんを探しにいけばいい。俺はここでずっと待っているから」
そう言った時の父親の顔を彼は一生忘れない。ほとんど心ここにあらずといった感じで幽鬼のようだった父親の眼が、生きている者の輝きを取り戻した時の父親の顔を。そんな訳で、彼は高校生にして、一人暮らしを満喫しているのであった。
誰もいない自宅で、肇は悠の言ったように石鹸水を指に付けて、指輪をゆっくりと回す。やはり抜けない。
――この指輪、何か呪いでもかかっているのかも。
そう思ってから、肇は自身の考えにうんざりした。悠にこれは呪いの指輪だと言えば大喜びして、ジークフリート伝説について熱く語ってくれることだろう。あるいは火口に指輪を投げ捨てに行く旅の仲間の話か。彼は指輪を外すのを諦めて、畳の上に寝転がった。
*
――いつの間に寝てしまったんだろう。
気付けば、夜の帳が降りて、辺りはすっかり闇に包まれてしまっている。
肇はのろのろと起き上がり、机の上の時計を見やる。時計の針は午後八時を指していた。肇は今から晩御飯を作る気にもなれず、コンビニに弁当を買いに行くことにした。机の上に無造作に置きっぱなしにしている鞄に財布を入れて、腕時計を身に付け、靴を履いて玄関から出る。外は意外に明るかった。頭の上に煌々と月が照っているのだ。満月である。それをぼんやりと見上げながら、肇は歩く。肇の家から、コンビニに行くには、住宅街にある公園を抜け、大通りに出なければならなかった。肇の足が公園に差し掛かった所で、人のいる気配がした。
公園の街灯に照らされて、一人の異様な風体の男が佇んでいる。背は中肉中背であり、面立ちもどこにでもいるような男である。異様なのはその髪の色だった。真っ白な髪だ。その男は問い掛けるように、肇へと視線を向けた。
「我は銀の鍵によりて導く者なり。汝は?」
――何だ、こいつ。
頭のおかしい人かもしれない。肇はその男を無視して、通り過ぎようとするが。
白髪の男は音を立てずに、いつの間にか肇の前に回り込んでいた。
いや、肇の前に、突然出現したのだ。先程までは確かに街灯の下にいたというのに。
「うわああ!」
肇はびっくりして尻餅をついた。
「この反応……一般人か? どうしてこんな所にいる」
その男は怪訝そうな顔をして、わずかに首を傾ける。
肇は驚きのあまり声も出せない。
「まあいい。贄には十分か」
男は肇を冷徹に見下ろして、何やらぶつぶつと呟く。
――贄? 何のことを言ってるんだ。もしかして、俺のことか?
肇は身の危険を感じ、逃げようとして腰を浮かせるが。
白髪の男は重々しく言葉を紡いだ。
「死界の闇よ。彼の者の魂を永遠に封じよ」
その言葉に応じて、男の周りに闇が生じる。それは煙のごとくたちまちのうちに広がり、肇を包み込んだ。そしてまるで意思を持っているかのように、肇を絡め取ろうとする。それに口と鼻を塞がれ、肇は息が止まりそうになる。彼は心の中で死を覚悟した。
――俺はこんな所で死ぬのか。
肇が諦めとともに眼を閉じたその時。そこに声が響いた。
「そこまでにしておきなさい」
その声とともに闇を一条の光が切り裂いた。
黄金色に光るナイフが、肇の足元に突き刺さる。
「闇狩人。剣の名において、貴方を拘束します」
そこにいたのは、漆黒の髪の女だった。髪と同じ色の黒いドレスを身に纏っている。
「おまえがそうか!」
現れた人物を見た白髪の男が嬉しそうに叫んだ。
「では、改めて挨拶だ。我は銀の鍵によりて導く者なり。汝は?」
漆黒の女は胸に手を当てて頭を下げ、白髪の男の問いに答える。
「我は盾持ちたる狼。我は位階III、名を黒の人形師」
「我は位階II、名を闇狩人、では我が姉妹よ。参る」
白髪の男はそう言って会釈を返した後に、何事かを口にした。
「闇よ。其処に棲まう夢魔よ。彼の者に死の接吻を」
白髪の男の周りの闇が、漆黒の女に襲い掛かる。女はそれを無表情に眺め、力ある言葉を唱えた。
「踊りなさい。『ペトルーシュカ』」
漆黒の女の前に人形が現れる。それは、手足を糸に繋がれた五十センチほどの大きさの木製の人形だった。その手には光る刀がある。その人形は生命を持っているかのように、滑らかに動く。女が操っているのだ。人形が刀を振り回すと、女に襲い掛かっていた闇が霧散した。人形はそのまま、刀で白髪の男に斬りかかろうとするが。
「永劫の炎よ。灼熱の業火よ。灼きつくせ」
男がそう唱えると、炎が出現し、人形を包まんとする。女は手を器用に動かしながら、人形を後ろに下がらせて、回避させる。炎は人形の前の空間で爆ぜた。
肇は腰を抜かして、その非現実的な風景を呆然と見ていた。何だこれは。もしかして――これが魔術師というものなのか。こんな力が世の中にあっていいものなのか。全く人智を超えている。
漆黒の女は人形を操りながら、淡々と詠唱した。
「我が魔力、契約に従いて汝に与えん」
それに応えるようにして、人形が淡く発光する。それは更に移動する速度を上げて、白髪の男に再び襲い掛かったが、男は後ろに飛び退って避けた。緊迫する空気の中、対峙する二人。お互いに間合いを計っている。
そこに、第三者の声が降り注いだ。
「閃光よ。我が手に集いて全てを灰燼と帰せ」
その光の矢の一撃は、ちょうど漆黒の女と白髪の男の中間地点に落ちた。そして、目を灼くほどの光がその場を包む。その光が収まったところに立っていたのは、金髪碧眼の青年だった。
肇は異常事態にもかかわらず、一瞬、その青年に見惚れてしまった。明らかに日本人ではないと分かる鮮やかな金髪。海の色よりも深い碧の双眸。端正で整った面立ち。
「五月蝿い。貴様等、いい加減静かにしろ」
開口一番、その青年は告げた。
「今何時だと思っている」
戦いにおいても、何の表情も見せなかった漆黒の女は、驚きに目を見開いた。そして口を開く。
「どうして貴方がここに」
「ここは俺の家の近くだぞ」
青年は顔を顰めて続けた。
「魔術師同士の決闘なら、俺の目の届かない所でやれ。そこの白髪の男も」
「これは決闘ではありません。剣の任務です」
漆黒の女は、顔から驚愕の表情を消して、青年の言葉に反論した。
「そんなもの、俺には関係ない」
不機嫌に青年は言い放つ。その様子をそれまで黙って見ていた白髪の男が、忌々しげな顔をして、舌打ちした。
「邪魔が入ったか。悪いが勝負はお預けだ」
それから、早口で呪文を唱える。
「来たれ、大いなる闇よ。世界を閉ざし、彼の者を惑わせ」
その瞬間、闇が霧のように辺りをゆっくりと包み、その場にいる者の視界を閉ざした。暗闇の中で、白髪の男の声だけが朗々と響き渡る。
「黒の人形師、後日改めて伺おう。また招待状を送る」
そうして闇が晴れた時には、白髪の男はすでに消えていた。
「貴方が邪魔をしなければ、あの男を拘束できたかもしれませんのに」
漆黒の女は、別段責めるでもなく平板な口調で青年に言う。
「魔術師ではない者の気配がした。魔術師がどこでのたれ死のうが俺の知ったこっちゃないが、俺の家の近くで一般人に死なれると、さすがに寝覚めが悪い」
そう告げた後に、金髪の青年は肇のほうを眺めた。青年の様子に、初めて漆黒の女は肇の存在を思い出したようだった。地面に座り込んだままの状態であった肇は、二人に揃って視線を向けられ、戸惑う。とりあえず生命の危険は去ったようだったが。
「お前達は一体何なんだ?」
訝しく思って、肇は疑問の声を上げた。
「魔術師だ。まあ、どうせすぐ忘れるだろうが」
金髪の青年は、口の端を上げてわずかに笑みを浮かべ、肇の目を覗き込んでくる。
「大いなる精霊よ。彼の者の意識に潜りて時を遡らせよ」
催眠術のような、心地よい響きの声を最後に、肇の意識は途切れた。
*
気が付けば、肇は公園のベンチに横たわっていた。
――俺はどうしてこんなところで寝ているんだ?
肇は疑問に思う。頭が鈍器か何かに殴られたようにがんがんする。痛みを抑えるようにこめかみを押さえながら、彼はゆっくりと記憶を辿っていった。確か、弁当を買いに行こうと思って家を出た。それから――
――っ! 公園で白髪の男に襲われそうになったんだった。その後、黒ずくめの女が出てきてそいつと戦っていた。魔術で。
馬鹿馬鹿しい話だ、と肇は自分でも思う。魔術師なんている訳がない。夢だ。これは夢に違いない。そう自分に言い聞かせて、何となく腕時計を見た。午後九時半。肇が家を出たのが午後八時頃。時間が経ち過ぎている。肇はびっしょりと身体中に冷や汗をかいた。寝て起きたばかりの人間が、わざわざ公園のベンチでまた寝るだろうか? ありえない。ではあれは真実だったとでも? 肇は現実感が揺らいだ感覚の中で、思考を巡らせる。悠の奴が言っていたことは正しかったのかもしれない。魔術師は実在する。彼は起き上がり、ふらついた足取りで公園を後にした。それからコンビニで買い物をしてから、急いで自宅に戻り、遅い晩御飯を取った。
*
翌日。肇はいつものように登校して、授業を受けるが、頭がぼんやりとして手につかない。
――どうしてしまったんだ、俺は。
授業中の教師の声も耳には入るが、理解できない。右耳から入った言葉がすぐに左耳から抜けてゆく。昨日の夜の出来事が何か関係あるのだろうか? いや、果たして――あれは本当にあったことなのか? 昨日見た光景は、確かに生々しく記憶に残っているのだが、どこか非現実的でもあった。彼は頭上から落ちる声に意識を引き戻される。
「はじめ、肇!」
そこにいたのは茶色のポニーテールの少女。宮地悠だ。
彼女は呆れた顔でこちらを見下ろしていた。
「もう! どうしたのよ、肇。今日ちょっと変よ。朝から何度も声掛けてるのに、全然聞いてないし」
肇は弁解するように、言葉を口にする。
「昨日の夜、あまりよく眠れなかったんだ」
「早く寝るようにしないと、身体に良くないわよ」
悠はそう忠告した後、何かに気が付いたように肇のほうを見た。
「指輪。結局外れなかったの?」
指輪。一体何のことだろう。肇は少し考えを巡らせてから、ようやく昨日悠と買い物に行ったことを思い出した。記憶が遠い。まるで随分と昔のことのようだ。肇は自らの指に視線を落として、返事をする。
「ああ。石鹸水で試してみたけれど、駄目だった」
遅い返答。悠は心配そうな顔をして、口を開いた。
「肇、大丈夫?」
「大丈夫だよ、何とか」
肇は安心させるように、無理矢理笑みを形作って見せる。
「ならいいんだけど。疲れているのなら無理はしないでね」
悠はほっとしたのか、やれやれ、と肩を落として、肇の傍から立ち去ろうとするが。
その背後から、肇は声を掛けた。
「なあ、悠。魔術師って本当にいると思うか?」
そう聞かれた悠は、驚いて振り向き、まじまじと肇の目を凝視した。
「本当に、大丈夫? どこか頭でも打ったんじゃないの?」
肇はむっとする。どうして普段そういう話ばかりしている奴に、頭の心配をされなきゃいけないんだ。そう思った彼は、かぶりを振って答えた。
「いや、いいんだ。気にしないでくれ」
「そう?」
どことなく不安そうな面持ちの悠。ちょうどその時、授業の開始を示すチャイムが鳴った。悠は慌てた様子で自分の席に戻り、この話はそこで終わりになった。
*
今日も授業が終わる。帰宅部である肇は、鞄を手に取り、急いで教室を出る。体調があまり良くなかった。意識が朦朧として、足元がふらふらする。今日こそは早く帰って寝よう。そう思って、いつものように校門から出て、高校の前の道を西に曲がって、路地裏に入ったとき。
そこに金髪の青年がいた。忘れもしない鮮やかな金髪。印象深く輝く碧の瞳。昨日の夜の青年である。
――あれが元凶だ。
何の根拠も無く、肇は確信した。
密かに後を付ける。青年は住宅街をまっすぐ北に歩き、古びた小さな洋館の前で立ち止まった。その建物に、肇は見覚えがあった。肇が小学生の頃、幽霊屋敷だと子供達に噂されていたのだった。何しろ、門に表札がなく、人の気配も全く無かったのだ。肇はその建物のことを今まですっかりと忘れていたのだが。
青年は門を開け、洋館に入る。その様子を電信柱の陰から肇が見ていると。
ぞくり、と背筋を悪寒が突き抜ける。最初は金縛りにあったのかと思った。身体が石のように固まって動かない。体中が嫌な汗でびっしょりと濡れる。
――えっ?
ぞっとした。手足が自分の意思と関係なく動くのだ。肇の足は勝手に洋館に向かい、手は勝手に門を開け。気が付けば、いつの間にか肇は洋館の中に入っていた。
入り口には、真っ赤な絨毯が敷き詰められている。窓には柄物のドレープのカーテン。天井にはシャンデリア。まるで映画のセットのようだ。そこに、映画の登場人物のように例の金髪の青年が立って、こちらをもの凄い目付きで睨み付けていた。
「貴様。どうして俺を付けていた。誰かに頼まれたか、それとも――」
青年は言葉を切って眉を顰めた。そして、近付いて、肇の顔をじっと見つめる。
「貴様、昨日の一般人ではないか」
そう言ってから、青年はしまった、という顔をした。
「お前は、昨日の魔術師だな」
掠れた声で肇は問う。今日一日、調子が悪かったのはおそらくこいつが最後に俺に何かしたせいだ。魔術。肇はそう思って青年を見返した。
「どうして、覚えている。忘却魔術をかけたはずだが」
金髪の青年は首を傾げ、視線を落とし、それから肇の手――正確には、肇の指に嵌めてある青い石の指輪を見やって呟いた。
「そうか、その魔法具のせいか。不完全だが、対魔術の印章が刻まれている。昨日の結界に侵入できたのもそのためか」
――やはり呪いの指輪だったか。
畜生。悠の奴もとんだ物をプレゼントしてくれたものだ。肇は心の中で毒づく。そうして自らを奮い立たせるように、精一杯の虚勢を張って、眼前の青年に尋ねた。
「お前、俺をどうするつもりだ」
「その指輪を外して、もう一度忘却魔術を掛けなおす」
金髪の青年はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、今日一日の貴様の記憶はまるまる無くなることになるが、我慢しろ」
――ちょっと待て。指輪が外れるのは嬉しいが。
「人の記憶を勝手に弄るな!」
肇は思わず叫び声を上げてしまう。
「そう言うな。俺達の存在は、貴様等には秘匿されなければならないからな」
青年は肇の抗議の声を無視して、短く呪文を詠唱する。
「解呪」
それだけで、あっさりと指輪は肇の指から落ちて、足元に転がった。肇は短く呻いた。何をやっても取れなかったのに。金髪の青年は指輪を拾い上げてから、肇の目を覗き込んだ。
「さて、改めて掛けなおすぞ。大いなる精霊よ。彼の者の意識に潜りて時を遡らせよ」
――嫌だ! 何でこんな奴に好き勝手に記憶を弄られなくてはならない。本当に、我慢ならない!
それは彼の防衛本能が起こした現象だったろうか。その瞬間、嵐がその空間を蹂躙した。風が辺り構わず吹き荒れる。窓のカーテンも、天井のシャンデリアも。全てがずたずたに引き裂かれた。
「なっ……」
金髪の青年は一瞬、言葉を失う。そうして漏れた声は。
「貴様、魔術師か?」
「そんな訳ないだろう」
肇ははっきりと断言した。生まれてこの方、そんな摩訶不思議な職業についた覚えはない。では、この現象をどう説明すればいいのか。呪いの指輪の力か? 肇はそう自問する。
「昨日はそんな気配は微塵も感じられなかったのに。しかも呪文無しで魔術を放つとは」
青年は何やら一人でぶつぶつ言っている。
「あのさ、お前。俺は別に魔術師でも何でもないし、不思議な力とかそういうのはないはずなんだけど」
肇は疑問を掲げて、こう口にした。自分が魔術師? もしそうだったらそれこそ、悠が見逃すはずがない。
「先程の風は確かに貴様が放った魔術だ。精霊に干渉している魔力波動で分かる。まさか、魅了する者か? それにしてもこの年齢まで見つけられなかったなんて、そんなはずは……」
「おい、俺にも分かるように説明してくれ。俺はこれまで生きてきて魔術なんかと一度も関わったことがないんだよ。だから俺が魔術師であるはずがない」
肇は金髪の青年に問うような視線を向けた。
「いや、魔術師だ。厳密に言えば違うかもしれないが。貴様は魅了する者だ」
「魅了する者? 何だよ、それは」
怪訝そうな顔をして、肇は鸚鵡返しに聞き返す。
金髪の青年は、辺りの惨状を見回しながら、その問いに返答した。
「生まれながらの魔術師だ。世界に満ちる魔力を魅了する者。魔術の行使に呪文や印などのトリガーを必要とせず、思うだけで世界に奇跡を起こす人間。それ故に魔術を学ばずに魔術を扱うことができる」
「今まで、俺は奇跡なんか起こしたことないぞ」
肇は、眉を顰めて見せる。手品さえ碌にできない自分が、そんな教祖紛いのことができる訳がない。納得がいかない、といった面持ちの肇に向かって、金髪の青年はきっぱりと告げた。
「誰かが貴様の魔力を封印していたんだろう。それが指輪と俺の解呪のせいで、封印が解けた」
そこで一旦言葉を切り、考え込むように顎に手を添わせる。
「しかし、魔術組合に報告すべきか」
「どういう意味なんだ」
「魅了する者は発見され次第、魔術組合の管理下に置かれる。危険だからな。通常はもう少し幼い時に発見されて、魔術学院に強制入学させられることになるんだが」
青年は呆れた顔をして続ける。
「こんな例は聞いたことがない」
「誰かに管理されるなんてごめんだ」
肇は憤然として叫んだ。
「同感だな」
金髪の青年は、口の端を歪ませる。それから何かを思い付いたようにこう言った。
「一つ、提案がある。貴様、俺の弟子にならないか」
「何で俺が」
肇は不満そうな表情をして、青年を眺める。魔術師の弟子なんて冗談じゃない。お伽噺じゃあるまいし。
「このままでは貴様はその年で魔術学院に入学させられることになるだろう。おそらく、周りの学生は貴様よりも年下だ。間違いなく浮くぞ。それでもいいのか?」
「魔術組合とやらは、そんな権限があるのか?」
肇は目を見開いて、驚きの声を上げた。今の高校生活が気に入っているのに、勝手にそんなことさせられてたまるか。
「情報操作は奴らの十八番だからな。あらゆるところで記憶の改竄を行うだろう」
「俺も魔術組合の上の奴らから弟子を取れとせっつかれているから、貴様が弟子になると、俺にとって都合がいい。これは取引だ」
「……いいだろう」
肇はしばらく考えを巡らせた後に、首を縦に振って頷いた。
「まだお前の名前を聞いていなかったよな。俺は久住肇だ」
「俺の名前はアルファルド・シュタイン。以後、貴様は俺のことを師匠と呼べ」
「……分かった」
何だか随分偉そうな奴だというのが、肇のアルファルドに対する最初の印象だった。それが概ね間違っていなかったことを、肇は後々深く思い知ることとなる。
*
「あれ? 指輪取れたの?」
放課後、学校の教室で肇に話し掛けたのは、制服を来た茶色のポニーテールの少女だった。肇の幼馴染、宮地悠だ。彼女の視線は肇の指に向けられている。
「ああ、ほら」
肇は上着のポケットの中に手を入れて、青い石の指輪を取り出した。
「くるくる回してたら取れたんだよ」
悠は指輪を手に取り、窓から差し込む光に当てて、矯めつ眇めつして眺める。それから、口元をほころばせて、こう言った。
「内側に何か彫られてるわ。ルーン文字ね。ねえ、もしかしてこれ、魔法の指輪じゃない?」
――言えない。これのせいで魔術師の弟子にさせられましたなどとは、断じて言えない。
「そんな訳ないだろ」
わずかに顔が引き攣ったのを自覚する。それから一呼吸置いた後、内心の動揺を悟られないように、肇は表情を取り繕って見せた。
「ルーン文字が彫られているだけで、魔法の指輪なんかじゃないと思うけど」
「相変わらず肇は夢がないなあ」
悠は呆れたように、肇の顔を覗き込んだ。
「でもこの前より元気だね、肇」
「ああ、もう大丈夫だ」
肇は安心させるように、笑い返す。
「じゃあさ、今日の帰り、付き合ってくれない? 今日、オカルト雑誌の発売日なの」
「またかよ」
肇は深く溜め息を吐いた。肇が魔術師の弟子になったと悠に知れたらどうなるのか。考えるだけで恐ろしい。おそらく質問攻めでは済まないだろう。そうしてまた二人はいつものように本屋に向かったのだった。
*
「この間は失礼しました」
漆黒の髪をした女は、淡々とした口調で謝罪の言葉を述べた。その儀礼的な響きの声から、感情を読み取ることは困難だろう。対する金髪の青年、アルファルド・シュタインは、そんな女の態度にも慣れた様子で、わずかに首を傾けて聞いた。
「結局、捕まえられたのか?」
「いえ、痛み分けに終わりました。あの男のことですから、また嬉々として、果たし状を送りつけてくるでしょう」
抑揚のない声で女は答える。アルファルドは一つ頷いて、こう口にした。
「そうか。貴様に朗報がある。俺はついに弟子を取ることにした」
「っ!」
漆黒の女は、予想外の言葉に少し驚いたようだった。それから軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「感謝するのには、まだ早い。俺が取った弟子は魅了する者だ」
女の目が大きく驚愕に見開かれた。問うような視線を、アルファルドに向ける。
「それは、どういうことですか」
「どういうことも、何も、そのままの意味だ。これを聞いた元老院のお歴々の顔は見ものだろうな」
アルファルドはくっくっと可笑しそうに笑いながら、言葉を続ける。
「火種が爆弾を抱えたようなものだ」
「もしかして、貴方は元老院への嫌がらせのために弟子を取ったのですか」
漆黒の女の声には、珍しく非難の色があった。
「これくらいの当てつけは許されるだろう。俺はこんな所で隠遁生活を強いられているのだから」
問い詰める言葉にも、アルファルドは平然とした様子である。
「貴方は結構その生活を気に入っているように思いますが」
女の口調は元の平板なものに戻っている。もはやそこに動揺の色は微塵も見えない。
「では、気が進みませんが、元老院の方々に報告してくることに致しましょう。それではまた」
そう言って、漆黒の女は現れた時と同じように、闇の中にかき消えた。