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楠先輩の不思議な園芸部  作者: ひょうたんふくろう
楠先輩の不思議な園芸部
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97 園島西高校文化祭:後夜祭


 後夜祭。それは、文化祭の後に身内だけで行うイベントだ。


 この時はもう、すでに外からのお客さんはいない。つまり外聞を気にする必要も無ければ見てくれを整える必要も無い。文字通りの身内向けのイベントとして、文化祭で盛り上がった情熱を最後に爆発させるべく、各々有志が出し物をするのである。


 無論、本当の意味での文化祭のメインではないから、準備の時間が十全に取れるわけではない。後夜祭としての演目に参加するのはあくまで有志で、大半は観客としてそれに参加することになる。そもそも、この後夜祭自体が一応は非公式イベントのため、参加は自由だったりする。


 が、もちろん。


「とうとう来たぜ後夜祭ィ……!」


「ホントに何があるのか知らされてないもんね……! 楽しみにするしかないでしょ……!」


 華苗の周りには、後夜祭に向けての熱い思いを隠しきれていない人間でいっぱいだ。興奮冷めやらぬまま、既に心だけは会場に行っているかのようである。


 当然のごとく、荷物をまとめて帰る人間は一人もいない。自由参加のイベントでこれはすごいことなんじゃないか……と華苗は改めて思う。


 そもそもとして、中学生時代だったら真っ先に帰宅していたであろう華苗が、自身がそれに参加することを微塵も疑わず、「帰る人っていないのね」……なんて、そっちの立場として感想を抱いていることが既に驚愕の事態だ。去年の華苗が一年後の自分のこの姿を見ても、とても信じられなかったことだろう。


「ねえねえよっちゃん、後夜祭って何やるか知ってる?」


「うーん……中学の文化祭では、なんかバンドみたいのやったり漫才とかだったけど」


「史香ちゃんは?」


「私もそんなイメージかな……。ウチでは外の特設ステージでやるって話だから、そんなに変わらないとは思うけど、でも」


 ここは普通の高校ではなく、園島西高校だ。イベントごとに関して言えば、普通で終わるはずがない。


 だいたい、文化祭としてはノータッチのはずであった校庭に、いつのまにやら特設ステージが出来ているのだ。たしかに誰もいなくて作業するのに問題は無かっただろうとはいえ、それでも普通なら結構な作業量である。


 風の噂では、文化研究部のおじいちゃんが夏祭りの時のステージを流用して造ったらしい。もちろん作業したのは本人じゃないだろうが、そう言われると何もかも納得できてしまうから不思議なものである。それに言われてみれば、華苗は今日、おじいちゃんをほとんど見かけていない。少なくとも、普通に祭りを堪能している姿は見ていなかった。


「華苗はクラスTシャツで行くの? 白ワンピも可愛かったのに」


「……もうっ!」


「あはは、そっちはデートで十分に見せたから大丈夫ってこと?」


「史香ちゃんまでっ!」


 それを言うなら、こっちにだって考えがあるぞと華苗は身構える。やられたらやり返されるのは世の常で、そして華苗が自由時間を満喫していたということはつまり、この二人も同様に自由時間を楽しんでいたということでもある。


 言い方を変えれば。


「二人とも、今日の午後はどうやって過ごしていたのかなー?」


「「……」」


「逃げるなあっ!」


素早い動きで華苗はよっちゃんの腰にしがみついた。よっちゃんは道連れを増やすべく、清水の腰にしがみついた。こうなることを予想していた、華苗の頭脳プレーであった。


「うっわ……史香、なんか思ったより細くない? もっと食べたほうが良くない?」


「ちょ、やめぇ……! お願い、そんながっしり抱き着かないでぇ……!」


「そういうよっちゃんは……こう、柔らかくて抱きしめがいがある感じ。……ちょっとクセになりそう」


「うふふ。好きなだけ抱きしめてもいいのよ、かなちゃん?」


「でもそれはそれとして今日の出来事は吐け」


「かなちゃん、こわーい!」


 よっちゃんの口が意外と堅いことは華苗も知っている。どうせこの程度じゃぼろを出さないことは織り込み済みだ。だから今は、こうして敵を油断させることに全力を尽くしている。そうして相手がこちらを見くびり、ついうっかり見せた隙を的確につけばいい。すでに華苗の中にはそこまで絵図が描かれている。


 清水については。


「史香ちゃんはアレでしょ、どうせ田所くんと一緒だったんでしょ」


「な、なんのことかな?」


「隠さなくってもいいのにねー?」


「ねー?」


「うう……華苗ちゃんがどんどん私の知っている華苗ちゃんじゃなくなっていく……これ絶対柊の影響でしょ……」


「ふーんだ!」


 女子の戯れ。ただじっと待っていることに耐えきれないのか、教室ではそこかしこで似たようなやり取りが行われている。今日の感想や楽しかった店の話をしている者もいるが、全体としてはやはりこの後のことへの期待が隠せないようであった。


 ややあってから。


「──おまたせ、みんな」


「一応、ウチのクラスは無事に終了報告ができたぞ……っと、みんなもう浮かれていてそれどころじゃないか」


 教室に、クラス代表として終了報告に行っていた柊とゆきちゃんがやってきた。どうやら特に滞りなく最後の処理が終わったらしい。正式な文化祭としては、あとは片付けと閉会式を迎えるだけである。金銭の諸々の処理についてはまた今度だ。


「んじゃまあ……どうせ話が身に入らないだろうし、これで帰りのホームルームは終了ということにする。明日の予定については以前話した通り、午前中に片付けで午後から閉会式だ」


「「うぇーい!」」


「あと……後夜祭は一応は非公式のイベントだから、先生たちの関与はないという建前になっている。つまり、お前たちの自主性を信じているということだ。……あえて言わせてもらうが、羽目を外しすぎないように。後夜祭が終わったら、変に寄り道したりせずに速やかに家に帰るように」


 そうしないと来年度の後夜祭は無くなるからな──と、ゆきちゃんは本気の眼差しで告げた。


 もちろん、華苗たちには言われるまでも無い。


「まっかせて! 最高に楽しんで、最高の思い出のまま終わらせて見せるから!」


「小学生じゃあるまいし、やっていいことと悪いことの区別くらいはつくよ!」


 楽しいことは楽しいままに終わらせて、一点のケチをつけることなどあってはらないのだから。自分たちの行いが原因で続いてきた素晴らしい伝統を絶やすことになったとしたら、華苗たちは一生後悔することだろう。


「よし、いい返事だ。先生はお前たちを信じている……さて」


 ちら、とゆきちゃんは時計を見る。文化祭終了のアナウンスからちょうど五十分が経過したところ。まさにいい感じの頃合いであった。


「ちょっと早いが……校庭に行こうか」



▲▽▲▽▲▽▲▽



『お前らみんな、盛り上がってるかぁぁぁぁ!?』


 特設ステージの上で、マイクを持った男子生徒が叫んでいるらしい。らしい、というのはその声をかき消すほどにギャラリーが大歓声で応えたからだ。


 人。人。人人人。


 園島西高校の生徒の全員が、この特設ステージの前に集っている。校庭にいるという意味では集会の時と同じではあるが、その熱気は比べるまでも無い。制服ではなくクラスTシャツを着た生徒たちが、出来る限り前の方へと……隊列なんてなんのその、その熱狂に身を任せてそこに押しかけているのだ。


『終わらねえ……! 終わらせてなるものか! 俺達の文化祭はまだまだ終わりゃしねえ!』


 空が割れているんじゃないか、と思えるほどの熱気。ややもすればご近所迷惑になってしまうであろうそれが、なぜか今の華苗には心地いい。うるさくて、暑苦しくて、息苦しいはずなのに……自分で説明できないほどに、華苗はその空気を全身で楽しんでいた。



『それじゃあさっそく行ってみよぉぉぉ! 演目が何か気になるかぁぁぁ!?』


「「yeahhhhh!」」


『学校行事のトップバッターと言えばこれ! 園島西高校校歌ぁぁぁぁぁ!!』


「「ええええええ!?」」


『──の、ロックバージョン!』


「「yeahhhhh!!」」



 特設ステージの上に派手なフェイスペイントを施した男子が四人、女子が三人。各々違うクラスTシャツを着ていて、そしてパッと見る限り音楽系の部活のようには見えない。


 ただし、一人を除いて全員が何かしらの楽器を持っている。ギターにキーボード、そしてドラムだ。きっと華苗が知らないだけで、あのギターもいろいろ細かい種類の違いがあるのだろう。唯一わかるのは、たとえ音楽系の部活でなかろうと、きっとこの日この瞬間のために相当練習を重ねてきたんだろうな……ということだけだ。


『行くぜェおまえら! 園島西高校校歌・ザ・ロック! 学生らしく腹の底から声出して歌えや!』


 聞きなれたいつものメロディーが、いつもとは全く異なる雰囲気で蒸し暑い夕方の空に響く。親しみはあるけれどお世辞にもお洒落な曲ではないはずのそれが、都会のライブで演奏されるようなスタイリッシュなそれになっていた。


『賢哲の理想 胸に抱いて

 学舎に刻め この誇り!』


 ステージの上で、汗を滴らせながら楽器を奏でる彼ら。それに応えるかのように、オーディエンスの熱狂もすさまじい。応援や歓声のレベルを超えて、動物的な本能のままに雄たけびを上げているかのよう。華苗の小さな体にも会場に響く音全てがずしんと伝わって、耳はじんじんと物理的に痺れてくるほどの有様だ。


 華苗は普段、音楽はあまり聞かない。ロックと言うジャンルにもまるで興味がない。エレキギターのつんざくような電子音は好きになれないし、偏見かも知れないが、あの叫ぶような歌声もあまり好きになれない。


 だというのに。


『共に感じた 萌える薫風

 ここに誓おう 不滅の友情!』


「──!」


「ご機嫌だね、華苗!」


 いつのまにか、華苗も声を上げて校歌を歌っていた。慣れ親しんだメロディに、心の底の熱意を揺さぶってくるこの空気。園島西高校生としての血をこうも昂らせて来る彼らの本気に、所詮華苗程度が抗えるはずがなかったのだ。


「なんか、意外! 華苗ちゃん、こーゆーの苦手だと思ってたっ!」


「ううん、いつもは苦手っ! いまだって……すっごくうるさーいっ!」


 もう、互いに叫ばないと話すことなんて出来ない。かろうじてそれっぽい会話はできているが、実のところはっきり全てを聞き取れているわけじゃない。聞こえた単語から、口の動きから、なんとなく会話を予想しているだけだ。


「でも……今すっごく、たのしいっ!」


 校歌のサビの部分。いや、そもそも校歌にサビなんてないはずなのに、誰もがサビとして認識してしまうメロディ。華苗は迸る熱に身を任せ、ぴょんぴょん飛んで声を枯らさんばかりに歌い上げた。周りを見れば同じように汗だくになり、髪を振り乱すようにして叫んでいる人ばかりだった。


『ああ園島の 大地に響け

 園島西高 我らが西高!』


「「我らが西高ーぉっ!」」


 一番、二番、三番の最後まで歌って。盛り上がりに盛り上がって、アンコールまでして。この時間が永遠に続くかと思えるほどの一体感は、名残惜しさを大いに感じさせながらも見事な余韻と共に夏の夕暮れに溶けていく。


『さあ! さあ! さあさあさあ! 良い感じに盛り上がってきたところで次いってみよーっ!』


 その後も、その熱狂は留まることを知らなかった。


『心はまだまだ若いんだ! というかそれどこから持ってきたんだぁ!? 先生方のアカペラお披露目!』


 セーラー服(!)を着たゆきちゃん、深空先生、その他女の先生に、厳つい学ランを着た教頭先生にブレザー姿の荒根先生。服装だけは在りし日のそれと全く同じにした先生方が、恥ずかしそうに、照れくさそうにステージに立って歌をお披露目している。


「ゆきちゃんかわいーっ!」


「深空せんせえもかわいーっ!」


「うう……さすがに、この年でセーラー服はちょっと……!」


「せめて、せめてブレザーがよかった……っ!」


「荒根ぇーっ! 全然ブレザー似合ってねぇぞーっ!」


「うっせぇぇぇぇ! そんなの俺もわかってんだよぉ!」


 まさかの演出にみんなも大盛り上がりだ。文字通りの無礼講として、先生方にちゃちゃを入れている。特にゆきちゃんら若い先生はいろいろとコメントしやすいのか、他の年配の先生に比べて明らかに反応が多い。


「ははは……いいではないですか、荒根先生は。私なんて何もコメントが……」


「や、さすがに教頭先生に舐めた口は聞けないって、あいつらもわきまえてますよ」


「そうかね? 文字通りの無礼講だし、こういう日のために親密度を上げていたつもりなのだが……今からでも、衣装交換しないか? 私としては、ジジイ無理するな……って、そんなコメントを期待していたんだが」


「は、はは……」


「──それともやはり、セーラー服にするべきだったか」


「お前らァァァァ! 全力で教頭先生をイジれぇぇぇぇ! 手遅れになる前にッッ!!」


 本当か嘘かわからない教頭先生の冗談に、華苗は思わずぷっと噴き出した。隣を見れば、同じようによっちゃんや清水も笑っている。いいや、この場には笑っていない人間なんて一人もいない。


『貴重な先生方の学生服姿、しっかりカメラに収めたかァ!? お次は──!』


 女装した武道部有志によるアクション寸劇。超技術部による内輪ネタ満載のパフォーマンス。一日目の発表でお披露目できなかった被服部の衣装のお披露目会……などなど、続く演目はどれも見逃せないものばかりだ。


 準備期間が無かったからか、少々クオリティは荒く内輪寄りのネタが多いものの、よそ行きの仮面が無いだけに園島西高校生にとってはむしろかなりウケがいい。二年生、三年生の先輩方がきっちり仕上げてきているのはもちろん、意外なことに少数ながらも一年生からの参加もあった。


 そのどれもに、華苗は自分でも意外なほどに夢中になってしまった。ステージから目が離せなくなって、信じられないくらいに大きな声で歓声を送って。ステージとギャラリー、そのすべてが一つになるようなあの一体感が心地よくて。


 そう、今この瞬間そのものが楽しい思い出なのだ。この瞬間に強く煌めく、青春の一ページなのだ。どこか他人事のようにそう考えるもう一人の華苗は、楽しそうに自分を見つめている。


 そうして。



『いいねいいね、ボルテージもクライマックスだねェ!!』


「「いぇあああああ!!」


『正直俺、ずっとずっとこの祭りを続けていたい! 許すことなら永遠に、このみんなでこの瞬間を生き続けたい!」


「Fooooo!!」


「恥ずかしいこと言ってんじゃねえぞーっ!」


「そこらへんにしとかないと、もっと恥ずかしいこと言わせてやんぞーっ!」


『あっはっはっはっ! やっぱみんなおんなじ気もちだよなあ!? 今この瞬間が、最ッ高に楽しいよなあ!?』


「「うぇぇぇぇぇぇぇい!」」


 ステージの上で、司会進行の誰かが煽る。煽りに煽って──そして、ちょっとだけトーンを落とした。


『……でも、残念ながらそろそろ時間だ』


「え……」


 しん、と辺りが静まり返る。慌てて華苗が時計……校舎にあるそれを見ようと振り返ってみれば、すでに夕闇に紛れて針を読み取ることが出来ない。ステージの周りはライトで照らされていたので気づかなかったが、夏の終わりのこの時期でさえ暗くなるほど、それなりに遅い時間だった。


「うそ……もう終わり……」


 まだ、全然物足りない。ようやく体が温まってきて、こういう場での楽しみ方を──楽しさを覚えたばかり。こんな中途半端なところで終わられては、不完全燃焼したこの気持ちの高ぶりをどう治めればいいのかまるでわからない。


 そんな華苗の懸念は、彼の一言で払拭された。


『だから……後夜祭最後のクライマックス! むしろお前ら、これが目当てでここにいるだろ!』


 すう、と彼は息を吸った。


『クライマックスを飾るメインイベント……フォークダンスの時間だぁぁぁぁ! 爺ちゃん、イグニッション!』



 ──はいはい、任された。



 どこか遠くから、そんな涼やかな声が聞こえた気がして。


 ぼう、と華苗たちの後ろに大きな大きな篝火が焚かれた。


「よう、今更説明するまでも無いが……危ないから、この線の内側には入らないようにね」


 いつの間にか、ステージに群がるみんなの後ろ……校庭の中央辺りに、キャンプファイヤーのそれを彷彿とさせる櫓が組まれていた。樹を交互に組んで高さも出した、まさに燃え盛るのにこの上ない状態のそれだ。


 すでに着火は済まされていて、今まさに華苗の目の前で煌々と煌めく赤い炎が燃えている。この広い校庭の半分程度を照らす強さを鑑みるに、それなりに大規模なものなのだろう。きっと近づけば、想像以上に高く組まれていることがわかるに違いない。


 そんな篝火を囲むように、薪で作った円がある。その内側にいるおじいちゃんは、片手に持った薪でトントンとその円を示すように叩いた。


 おじいちゃんの影は、赤い炎に照らされて揺らめいている。長く伸びたその影がちょうど華苗たちの足元の方にまで伸びてきていた。


 円の中に入るな、といった張本人が円の中にいることは気にしちゃいけない。きっとおじいちゃんは何かあった時の消火要員なのだろう。その証拠に、その傍らには少々雰囲気に合わない消火器と、水の入ったバケツが複数個置かれていた。


「……わ」


 気を利かせたのか、ステージを含むすべてのライトが一斉に消された。辺りが心持ち薄暗くなり、この場を照らすのは正真正銘このキャンプファイヤーしか存在しない。敷地外の街灯は木々によって遮られ、いつもは点いている校舎のそれも今だけはすべて消えている。


 まるで、本当にどこかのキャンプ場に来たかのような雰囲気。夕闇の中に浮かぶ炎は、幻想的に輝いている。


「ん……そうか、すべての電気を落としちまったか。……しょうがないねェ」


 炎を背にしてみんなの注目を一身に集めているおじいちゃんは、ゆったりと語りだした。


「わかっているやつはわかっているだろうが……これから、自由参加のフォークダンスを行う。我こそはという奴は、好きなようにこっちに来て踊るといい」


 後夜祭。キャンプファイヤー。高校生。これらのキーワードが導くものはそれしかない。むしろそれ以外、あってはならない。


「もちろん、見ているだけでも構わない。手拍子したり、歌ったり……ああ、本当に自由に楽しんでいいんだ」


 さすがにそれは無理があるんじゃないか、と華苗は心の中だけでも思う。まさかの立候補(?)スタイルな上に、この衆人環視の中だ。加えてダンスホールのようにミュージックが流れているわけでもない。しんと静まり返り、パチパチと薪の爆ぜる音が響く中で踊れる人間なんて、そうはいないだろう。


「なァに、楽しく踊れればそれでいいさね。リズムもステップもめちゃくちゃでいいんだよ。……まぁ、できれば三年坊には率先して『お手本』を見せてもらいたいところだがねェ?」


 にやり、とおじいちゃんはからかうように笑う。【こんなイベント、見逃すのはもったいないぞ】……と、その眼ははっきりと華苗たちを挑発していた。


 そして。


 ざわり、とどよめきが走り。


 一人の女子生徒──茶華道部の白樺が、炎の前へと躍り出た。


「おや、佳恵ちゃん。一人でどうしたね?」


 珍しく、本当に不思議そうに声を上げたおじいちゃん。そんなおじいちゃんを見て、白樺は先ほどのおじいちゃんに負けないほど挑戦的に笑った。


「あら。言わせないでほしいですわ、おじいさま──どうか私と踊ってくださいな」


 先ほどよりも大きなざわめき。にこっと笑いながら片手を差し出した白樺は、どこまでも自信にあふれている。まさかそう来るとは思わなかったのだろう、さすがにおじいちゃんも呆気に取られているように華苗には見えた。


 とはいえ。


「ははは、こいつぁ光栄な話だ。私でよければ、喜んで」


 にこりと笑っておじいちゃんは白樺の手を取る。実に自然な動きであった。


「うふふ。最後くらい、いっぱい甘えさせてくださいよ」


「私としてはいつだって甘えてもらっていいんだがね……まぁいい、せっかくだし手本になるかね」


「ええ、よろしくお願いします……せっかくですし見せつけてあげましょうか。少しチークダンスにしてもらっても?」


「ああ、いいとも」


 白樺とおじいちゃんが手のひらを合わせて指を絡めあう。その状態のまま、おじいちゃんは白樺の手を軽く吊り上げるようにしてその後ろに回った。たん、たん、たたんとリードするように軽快にステップを踏んで、腕の中にいる白樺をくるりと一回転させて。


 ──そして、軽くハグするようにほっぺとほっぺをこすり合わせた。



「きゃ──」


「ああああああ!?」


「ひゃあああ……!」


 黄色い歓声を上げるもの。この世の地獄を見たかのような悲鳴をあげるもの。人それぞれではあるが、おじいちゃんの行動はこの場にかなりの大きな衝撃をもたらした。


「どうだい、簡単だろう? こうやって小気味よくステップを踏んで、リズムに合わせてくるりと回って。少し見てれば誰でも楽しく踊れる」


「ええ、本当に素敵。音楽なんてかかってないのに、体が動きを教えてくれるような。……おじいさま、もう一回!」



 ──たん、たん、たたん。


 腕を開いて、気取ったように首をかしげて。


 ──たん、たん、たたん。


 息を合わせて、踵で地面を突き。


 ──たん、たん、たたん。


 くるりとまわって──ほっぺとほっぺが触れ合って。


 そうして最初に戻って、新たなステップを踏む。



 なるほど、簡単な動きだ。複雑なところなんてどこにもないし、少し見ていれば誰にだって踊れるだろう。踊り方の知らないマイムマイムを、なんとなく周りの動きだけを見て踊るような……いいや、それより簡単だ。動きよりもむしろ、息を合わせるほうが少し難しいかもしれない。


 あまり運動センスのない華苗でさえそんな認識を抱くダンス。誰にでも踊れるという意味では、確かにこの上ないものだ。


 だけどまぁ、問題はそこではなくて。


「ひゃああ……! あ、あれ踊るの?」


「うっわ……めっちゃ密着してる……!」


「やべェ、踊っても無いのにすげぇドキドキする……! 健全なんだけど、なんかこう……!」


「やだ、どうしよぉ……! あたし今、絶対汗臭い……!」


 男子と女子が、あの距離感で踊る。男子と女子が、ペアとしてみんなの前で踊る。


 青春真っ盛りの高校生的に、めちゃくちゃおいしいイベントだが……ハードルもまためちゃくちゃ高かった。


 ちら、と華苗は隣にいるよっちゃんと清水を見る。


「あ、あはは……」


「いや……いやいやいや……」


 二人とも、真っ赤になって汗だくだ。優しい華苗は、この後夜祭が大いに盛り上がったからそうなってしまったんだなと思うことにした。



「よっしゃあ、見せつけてやろうじゃんか!」


「ちょ、待ってくれよ!?」



 おお、と再びのどよめき。少々ボーイッシュな感じのする女子生徒──おそらく三年生の先輩が、いくらか気の弱そうに見える男子生徒の腕を引っ張っておじいちゃんたちの隣へと躍り出た。すでに女子生徒の方から腕を絡めていて、踊る準備は万端である。


「おま、いきなりそんな……!?」


「──最後って言ったろ。つ、付き合ってもらうかんな!」


 おじいちゃんたちの真似をするように、その女子生徒はステップを踏む。最初は少したどたどしかった男子生徒の動きもやがては滑らかになり、華苗たちの目には真っ赤な炎に照らされて幸せそうにはにかんだ女子生徒の顔が映った。


 ほっぺとほっぺが触れ合ったとき、彼らは何かを話していた。なんて言っていたのかは、きっと二人だけが知っている。


「マジか……ガチな感じじゃんかよ……!」


「さっきまではまだ祭りのノリがあったけど……! この空気で次に出ていくのは……アッ」


 さっきとは別の意味で、会場の空気が震えた。


「いくよ、楠くんっ!」


「い、一周やったら交代だからね! ぜったいぜったい交代だからね!」


「……」


 人混みの中から、青梅が楠の腕をひっぱってやってきた。その傍らには当然のように双葉も引っ付いている。引っ張られている楠はと言えば、今日もやっぱり何も映していない死んだ魚のような瞳……と見せかけて、若干の戸惑いの色のようなものが見て取れた。


「…俺、あまりこういうのは得意じゃないですが」


「いいのいいの! そう言うの含めて思い出だから! ……でも、ちょっとリードしてくれると嬉しいかな?」


「…っす」


「そうだそうだ! で、完璧になったところで私と変われ!」


「…っす」


 なんともまあ賑やかな感じで、楠と青梅が三番目に加わる。きゅっと幸せそうに楠の手を握る青梅は、やっぱり幸せそうに楠にその体を預けてゆったりとステップを踏んでいた。得意ではない、と言っていた楠でも意外とその姿はサマになっており、少なくとも傍から見る限りではきっちり踊れている。


「楠ィィィィ! てめえ羨ましいことしやがってよぉぉぉぉ!」


「女の子の方に誘わせるとか、てめえそれでも男かあああああ!?」


 妬ましそうに、でもどこか安心したように男子たちが吠える。別に恋のライバルでも何でもなくても、男はそう言うのを気にしてしまうものなのだ。これはもう、生物学的にしょうがないことともいえる。


 でも、そんな男のことを女がわかるはずもない。


「うるっさああああい! あんたらヘタレチキンが吠えるなああああ!」


「「がフっ!?」」


 双葉の雄たけび。ダメージを負った男子は少なくなかった。


「あんたらがヘタレだからこうして女子が誘うことになってんだろおおお!? さっきから見てれば、全部女子から誘ってるじゃんか! そっちのほうこそ男かあ!?」


 勝ち誇ったように、双葉は続けた。


「──どうせもともと、誰かを誘うってのは決めてたでしょ? そりゃそうだよ、去年も一昨年もそうだったんだもん。最後は絶対に……って、みんなそうに決まってる」


 きっと、この言葉の本当の重みをわかっているのは、三年生だけなのだろう。


「で、最初は祭りのノリで軽くさらっと誘おうとしたけど……なんかこう、ガチっぽい感じになっちゃったから土壇場になって尻込みした。……情けないッ! あんたらそれでもホントに園島西かァ!?」


「う、ああ……!」


「そう、そうなんだよ……! お、俺だって本当は……!」


「そうだろうが! 誘いたかったんだろうが! ……なら誘えよ! ほら、そういう空気は作ってやったぞ! いいか、女の子はなぁ……!」


 大きな大きな、それはもう大きな声で。


 双葉は、力の限り叫んだ。


「──いつだって、誘ってほしいものなんだよ! 今この瞬間くらい、男見せろやぁ!」


 双葉の雄たけびが、きっかけだった。


「……踊るか、桜井」


「──うんっ!」


「えーと、僕から誘ったほうが良いのかな?」


「そう言ってる段階でダメなんだが……ふふ、今日は眼を瞑ろうか」


 何組かのペアが、手を取り合って踊りの列に加わる。揺らめき交差する影が増えて、光と闇のグラデーションがそこに生まれた。最初はぎこちない動きだったそれは、炎の周りを半周するころには滑らかな動きとなり、完成された一体感としての存在感を醸し出す。


 自由でいいとおじいちゃんは言っていたが、なんだかんだで動きのベースはおじいちゃんと白樺が踊っているそれになっている。細部こそ微妙に違うものの、足を止めてポーズをとるところや軽くハグする……ほっぺを合わせるところのタイミングは全く同じだ。


 全く同じタイミングできゃあ、とかわあ、とか黄色くも甘い囁き声のようなそれが響く。踊っている方から放たれているのか、見ている方から放たれているのか。その光景が夢のように非現実的過ぎて、華苗にはちょっと判断がつかなかった。


「……いいなあ」


 華苗の中に浮かんだのは、そんな気持ちだった。青梅も桜井も柳瀬も、本当に幸せそうに笑っている。輝く炎に照らされた顔は、きっと炎以上に輝いていて、胸の中には炎以上に熱い気持ちでいっぱいなのだろう。


 自分も、あの輪に加わりたい。同じように、笑ってみたい。


 普段そこまで自己主張のしないはずの華苗が、無意識にそう思っている。


「よーう、よっちゃん!」


「あっ、秋山先輩!」


 ぱあっと明るい声に、華苗は思わず隣を見た。


「んもう! いつ誘ってくるのかなーって、ずっと待っていたのに!」


「あっはっは! いやぁ、オレがよっちゃん誘っちゃったら、よっちゃんのクラスの男子にめっちゃ恨まれちゃいそうだし? 最初くらい、同じクラス同士で組ませてやろうという王者の風格兼年上の余裕みたいな?」


「そーゆー秋山先輩こそ、他の女子はいいんですか?」


「もちろん、後で踊っちゃうぜ? こんな機会滅多にないしな!」


「こらぁ! そういうところ!」


 ぽかぽかと殴り掛かるふりをして……よっちゃんは、秋山の手を握った。その意味は、今更語るまでも無いだろう。華苗にだって、秋山がよっちゃんを誘いに来たのだということは普通にわかるし……なにより、他の女子とは「後で踊る」と言ったのだ。


 つまり、一番最初はよっちゃんと踊りたかったということだろう。もしよっちゃんが他に誰かに誘われていたら……たぶん、それを口実に残りの時間全部よっちゃんを独占していたかもしれない。


 いいや、これさえも全部華苗の想像でしかないのだが、そう想像させてしまう何かが、秋山からは感じられたのだ。あるいは、これが場の空気に飲まれるということなのかもしれない。


「んじゃ、あたし先に踊ってるから!」


「華苗ちゃんたちも、さっさとしないと時間が……つーか、あの輪っかが満員になるかもな!」


 華苗ちゃんたちに言ってもしょうがないけど、なんてわざとらしくつぶやきながら、秋山はよっちゃんの手を取って踊りの輪の中に加わる。凄まじい冷やかしの声が投げかけられていたが、そのすべてを秋山とよっちゃんは華麗に対処していた。


「……史香ちゃん」


「う、うん……」


 ちら、と二人はあたりを見渡す。


 踊りに加わる人たちが増えて、いろんな意味で盛り上がってきていた。「こっち側」の人間は刻一刻と数を減らしており、見渡しは結構よくなってきているのだが……まぁ、肝心の探している人は見つからない。


「あンのバカ……!」


「や、さすがにこの人混みだし……」


 気づけば、どこからか軽快な音楽が流れていた。スピーカーだけ電源を入れ直したのか、どこかで聞いたことのある民謡のそれがあたりに小さく響いている。小さく、というのは例によって例のごとく、当たりの喧騒が大きすぎるせいでスピーカーのそれがかき消されてしまっているためだ。


 ただまぁ、踊る分には問題ないのだろう。くるくると回って揺らめく影は見事にシンクロしていて、時たま混じるぎくしゃくした動きもすぐにその綺麗な動きに馴染んでいく。


「ゆきちゃん! 最後の思い出に踊ってくれええええ!」


「なんだよ、最後って。踊るくらいいくらでもやってやるけど」


「え……いいの? だってゆきちゃん、昨日も今日も来ていたあの外国人が……」


「……いいんだよっ! 教え子と踊ってやるくらい、別に普通だろうが! 先生に感謝しろよな!」


「やったああああ! ゆきちゃん愛してるうううう!」


「ずるいぞ! 俺も俺も!」


「俺も踊ってくださいいいい!」


「ええい、お前らッ! 全員踊ってやるから一列に並んで待ってろッ!」


「せんせえ、いっしょに踊ろ~!」


「おっ、いいな! きっちりエスコートしてやんよ!」


「荒根ェァァァ! あんた、教え子相手に何を……ッ!」


「ばーか、女子のお誘いを断れるわけねえだろ? それに今は無礼講だもんな?」


「ちっくしょうがあああ!」


「……実際、俺は当て馬だろ? 焚きつけつつ、ダンスの練習をして……ってところか? 誤解されない相手としちゃ、一番便利だもんな?」


「うふふ、ヒ・ミ・ツ・♪」


 ゆきちゃんも、深空先生も、荒根先生も。なんだか妙なノリではあるがにこやかに楽しそうに踊っている。相手をとっかえひっかえしているが、それでも踊っているという事実は変わらない。深空先生に至ってはなぜか女子相手にいっしょに踊っているし、炎の向こうでは、白樺の相手を終えたおじいちゃんが今度は草津といっしょに踊っている。


 もうとっくに、最初にできた輪はいっぱいになっていた。今はさらにそれを囲うような感じで新しい輪ができつつある。相手を変えようと……いいや、踊り疲れてそこから抜け出そうとした内側の人たちが、外側の人たちにぶつかりそうになって互いに気まずそうに笑いあっている姿も見える。


「──あの」


 どくん、と華苗の心臓が跳ねた。


 おそるおそる、後ろを振り返ってみれば。


「その……良ければ、いっしょに踊ってもらえないでしょうか?」


 恥ずかしそうに目を泳がせた柊が、華苗に手を差し出している。


「……もう、遅いっ!」


「ごめんね、まさかこんなイベントがあるとは思わなくて……普通に人混みに飲まれて、見失ってた」


「じゃあ許す!」


 恥ずかしさをごまかすようにして、華苗は柊の手を取った。嬉しい気持ちが爆発しそうで、もう他のことなんて考えられない。言いたいことも、言ってほしいことも、なんだかいろいろ一杯あったような気がするのだが、何もかもが今この瞬間の喜びによって吹っ飛んでしまったのだ。


 華苗がもう少し冷静だったら、隣で同じように田所の手を取った清水のことに気づけただろう。互いに自分たちの様子に気づかれなかったのは、華苗にとっても清水にとってもよかったことなのかもしれない。


「ちなみに華苗ちゃん、この手のダンスの経験は?」


「うー……小学校の運動会以来、かな」


「じゃあ、僕と一緒だ……あそこの切れ目に混ざろうか」


 ぎゅ、と柊が華苗の手を握ってきて、やっぱり華苗の心臓がどきりと跳ねた。

 す、と柊が華苗の指に己が指を絡めてきて、華苗の心臓は口からまろび出そうになった。


「このリズムなら、そんなに難しくなさそう……だね」


「う、うん」


 そうして始まる、フォークダンス。なるほど確かに、あまり運動センスのよろしくない華苗でも特に問題なく踊れるほど簡単だ。時折周りとリズムがズレてしまうこともあるが、そこはまぁご愛嬌という奴だろう。


 問題なのは、そこじゃない。


(ひゃああああ……!)


 近い。


 そう、近いのだ。


 本当の意味で、ぎゅっと抱きしめあっているわけじゃない。動きながら行うダンスで、さすがにそれはない。


 それはないのだが……密着していると言っていいくらいに、体が近い。具体的には、柊の体温と男の人らしい体の硬さ……筋肉のそれがはっきりわかる程度には近い。これはもう、ほぼ抱きしめあっているのではないかと華苗は思う。


 身長差的に、華苗の目の前には柊の胸板がある。この熱狂で汗をかいたのだろうか、黄緑色のそれの一部がうっすらと深緑になっていた。なんだか見てはいけないものを見ているかのようで、そしてふわっと香る柊の匂いに華苗の頭はクラクラした。


 幸か不幸か、似たようなことを柊も思っていることを華苗は知らない。


「あの、華苗ちゃん……」


「なっ、なぁに?」


 頭の上から降ってくる落ち着いた声に、華苗は上ずった声で返した。


「今更だけどその、僕、結構汗かいていて……汗臭かったり、手汗とか」


 それを言ったら、華苗のほうがよっぽどヤバい。現在進行形で汗を大量生産しているし、額にもはっきりわかるほどに汗が浮いている。たぶん手の感覚が無くなっているだけで、手汗も相当ひどいだろう。


 キャンプファイヤーの炎が熱いからだ、という言い訳を言おうとして。


 つるり、としっかり握っているはずの華苗の手が滑った。


「ご、ごめん! やっぱり僕の手、相当手汗かいてる!」


 大きく慌てて、柊はシャツの裾で手をゴシゴシと拭いた。たぶん手汗は華苗の方だと思うが、乙女心的に華苗はそれを指摘することが出来ない。というか、自分が繋いでいた手を柊が必死に拭いている姿を見て、別にそうではないというのに泣きたくなってくる。


「ち、違うと思うよ! その、ほら……身長差的に、この手を釣り上げる格好が、その……」


「あ……そっちか、よかったぁ……!」


 フォークダンス。もしかしたら社交ダンスかも知れないが、例のあのポーズをとると女の人は手が吊り上がるような形になる。普通だったらそれでも何ら問題なく、スタイリッシュに決めることが出来るのだが、しかし華苗の場合は身体的理由により、下手をしなくとも連行された宇宙人を彷彿とさせるそれになっていた。


 そう、そういうことなのだ。決して手汗のせいではない。言われてみれば、脇腹の片方が引きつる様に痛かったのだ──と、華苗は必死に自分に言い聞かせた。


 だからつまり、これも──そう、しょうがないことなのだ。


「だから……ね?」


 勇気を出して、一歩踏み込み。


「……え?」


 華苗は、にっこりと笑って柊を見上げた。


「……しょうがないから、こっち支えて」


「こっちって、その……」


「……いいの!」


 柊の手をガシッと握り、華苗はそれを自らの背中の後ろ……腰の方へと宛がう。


 きゃあ、と周りから一段と大きな声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにした。


「こ、この前テレビでやってたの! 社交ダンスだと、こうやって腰に手を当てて支えてるって!」


「でも、その」


「いいのっ! ダンスなら普通っ!」


 華苗はさらに一歩詰め寄った。もうここまで来たら行けるところまで行ってやろうという心づもりだ。どうせこの明るくも暗い中、細かい所なんて見られるはずもない。どのみち結構密着しているのなら、むしろ存分に状況を楽しまないほうが損だと、乙女回路がバグって限界を突破しようとしている。


 踊りの輪の中で、二人だけフォームが違う。違和感自体はそんなにないが、ありていに言ってかなり目立っている。


 でも、今の華苗はそんなことにまるで気が付かない……いいや、どうでもいいとさえ思っていた。


「ほらっ! ちゃんとリードしてっ!」


「──はい、喜んで」



 ──たん、たん、たたん。


 腕を開いて、気取ったように首をかしげて。



 夢のような空間の中で、華苗と柊は小気味よく軽快なステップを踏む。手のひらから感じる柔らかい感覚と、確かに感じる相手の体温。二人で同じものを感じ、二人で同じことをしているというその事実に、華苗の心は今までにない程の喜びを感じた。


 周りに合わせて、ぱっと腕を開いて見つめあう。意識なんてしていないのに、華苗は心の底からにっこりと笑うことが出来た。目と目が合うというそれだけのことが本当にうれしくて、彼が自分だけを見つめてくれているというそれだけのことで、堪えきれない感情が体を突き抜けていくのだ。



 ──たん、たん、たたん。


 息を合わせて、踵で地面を突き。



 赤い炎が、華苗たちを照らしている。キラキラと輝くその姿は、ゆらゆらと揺らめく光と影の交差を生み出し、夏の夜に光の芸術品を生み出した。軽快なメロディと、軽やかなステップ。芸術なんて知らなくても思わず見入ってしまうその光景に、それを作り出している張本人たちは気づいていない。


 華苗はもう、頭の中が真っ白になっていた。考えるという概念そのものがすっかりなくなっていた。ただただ、今この瞬間が楽しくて、嬉しくて……否、そんな陳腐な言葉じゃ言い表せない感情でいっぱいで、もう本当にそれだけしかなかった。


 唯一思考らしきものがあったとすれば、この抱きしめられている感じが前にもどこかであったような……すごくドキドキして堪らないという、乙女の本能みたいなそれしかなかった。



 ──たん、たん、たたん。



 柊がこんなにも近くにいる。柊の指が自分の指を絡めていて、柊の片手が自分のことを支えてくれている。少し見上げれば、夢にまで見る愛しい顔がすぐそこにある。


 もしかしたら、これは夢なのかもしれない。こんなにも素敵なことが、現実にあるはずがない。


 だってほら。


 くるりと回って見つめあって。


 彼が少しずつ、腰をかがめてくる。はにかみながらもしっかりと、華苗だけを見て顔を近づけてくる。


 彼のあの顔を、自分だけが独占したい。自分だけを、見ていてほしい。


 ──ほっぺとほっぺが触れ合って。


 頬に感じる、柔らかく熱い感覚。




「──」




 ──耳元で囁かれた、幸せな言葉。


 その言葉のことを、華苗は一生忘れないことだろう。



「……はいっ!」



 華苗の答えが、炎のきらめきと共に夏の夜空に溶けていく。


 ──新たなステップを踏み出して、華苗たちはずっとずっと踊り続けた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今なら、近所じゅうの砂糖壺をいっぱいに出来る自信がある。(キリッ
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