86 園島西高校文化祭:これくしょん・くらいまっくす!
『続いての作品は……【黄色い夏の白昼夢】! こんなの夢かマンガでしか見られない! もはや説明不要! 協力者は《畑の天使》こと園芸部の華苗ちゃん! さぁ、最高の拍手でお出迎えください!』
黒マントを格好良く脱ぎ去り、そして華苗はその上等な白いワンピースを観客たちの前に晒している。壇上でくるりと回ってスカートのすそをひらひらとさせ、にこっと笑ってぺこっとお辞儀した。
まだまだランウェイには一歩たりとも踏み込んでないが、この段階で既にそれなりに声援が上がっており、少なくとも佐藤の時の盛り上がりが冷めた──という事態にはならなかった。
その事実にほっと胸をなでおろし、今度こそ華苗はゆっくりとランウェイへと進んでいく。
──マジで可愛い……!
──つーか、雰囲気有るな……!
──ぎゅってしたい!
オシャレな麦わら帽子に、儚さと無邪気さが込められた白いノースリーブのワンピース。片手には大輪のヒマワリがある……というだけで、華苗の衣装は今まで登場した衣装の中で一番にシンプルで質素だと言っていいだろう。
だのに、その存在感は今までに出てきた衣装に勝るとも劣らない。華美な装飾があるわけでもないのに目が引きつけられ、何となくぼーっとしてしまうような、ともかくそんな魅力にあふれている。
「……」
麦わら帽子のつばをちょいちょいと触りながら、華苗はちょっぴりぎこちなく歩いていく。華苗が一歩進む度に片手に持った大ぶりのヒマワリがゆらゆらと揺れ、そして誰かがほう、とため息をついた。
ここで、改めてその服装を確認してみよう。
華苗が着用しているのは椿原が作った白いワンピースだ。その色の如き清廉さを表すようにノースリーブで、華苗のちょっぴり日焼けして赤くなった肌がむき出しになってさらされている。その純白は健康的な肌色をさらに強調させ、子供が持つ特有の無邪気さをこれでもかと引き立てていた。
当然のことながら、首元はすっきりしていて涼し気な感じ──はっきり言ってしまえば、鎖骨くらいは楽勝で見えてしまうほどに肌を露出している。そこがまたなんとも夏らしく、見ているものの心をどこかほんわかとしたものにさせていた。
もちろん、華苗が少しでも前かがみになれば、いろいろもろもろアウトになってしまうだろう。ましてや、華苗は体形が体形なのだ。他の人よりもいろんな意味で危険なのである。
しかしながら、そういった邪な考えを抱かせないほどに、その白いワンピースには無垢で神聖さを思わせる何かがあった。
──ガチのやつって生で初めて見たけど……。
──なんか……うん。
──ぎゅってしたい。
華苗の胸元には飾りのそれに近いリボンがひとつある。腰のあたりにもやっぱりリボンがあるが、こちらはもっと大きく、全体をウェストのところできゅっと絞る役割を果たしていた。普通の腰紐でないのは椿原のこだわりだろう。ほんのすこしだけ水色かかったそれは、色彩的な意味でも変化をつける要素となっている。
そんなリボンの下──下半身は、いかにもそれらしく広がるスカートだ。いや、広がると言っても桜井のおひめさまの衣装のように重力に逆らうように広がるのではなく、薄いカーテンのように、少しの風でゆらゆらとたなびくのである。
丈としては華苗の膝小僧くらいはあるので、決してハプニングが起きるような代物ではないが、ときおりくっきりと華苗の足のラインが浮き彫りになり、そしてまた儚く消えていく……という、なんともニクい仕上がりになっていた。
よくよく見れば、スカートの裾が僅かばかりに透けていることが見て取れたことだろう。霧のように薄いレースが光のように輝くヴェールとなって、スカートが揺れる度に光と影のグラデーションを作っていた。
(……)
客観的に見れば、華苗のそれはまさに理想の【白ワンピースの少女】であった。椿原の服飾の腕はもちろんのこと、華苗の体形や雰囲気があまりにもマッチしていたのである。
オシャレな麦わら帽子、立派なヒマワリ、上等な白いワンピース……そして、恥じらうように視線を下に向け、照れ隠しをするようにぎこちなく笑い、ぎくしゃくとしながらとてとてと歩く。
楠が演出として後ろからヒマワリを咲かせていっているが、それすら気にならなくなるくらい、華苗は一つの作品としてしっかりと役割を果たしていた。
──
──
──
騒がしかった会場も、華苗の雰囲気と服の雰囲気が馴染んでいくほどに、少しずつ静かになっていく。服と華苗の雰囲気に飲まれたのか、あるいはこの光景に騒がしいのは似合わないと本能で理解したのか。もしかしたらその両方かもしれない。
(……あれ?)
いつしか司会の声さえ聞こえなくなり、辺りには華苗の足音と、たくさんの人が息を飲む音しか聞こえなくなっていた。
この事態に慄いたのは、華苗の方である。
(なんか、やっちゃった……?)
時間にしたら十数秒程度のことだろうか。それくらい前までは体にビリビリと響くくらいに歓声が上がっていたのに、今となっては不自然なほどに静まり返っている。これを異常事態と言わずして、いったい何が異常事態と言えるのか。
自分のあずかり知らぬところで、何かをやらかしてしまったのではないか──と、華苗はそんなことを思わずにいられない。
(え、ええと……!)
パニック寸前の頭で、華苗はどうにかその原因を突き止めようと試みる。もちろん、歩みを止めるわけにはいかない。表面上はぎこちない笑みを貼りつけたまま、しっかり、ゆっくり一歩一歩を踏みしめていく。
(スカートが捲れていたり……)
ちら、と華苗は後ろを振り返る。可愛い白いひらひらと、我が子の門出を見送るかのように聳える立派なヒマワリが目に飛び込んできた。
(帽子がヘンになってたり……)
ひょい、と華苗は麦わら帽子の位置を直してみる。それに釣られるように、華苗の持っていたヒマワリがゆらゆらと揺れた。
──
──
もちろん、華苗自身に変な所なんてありはしない。というか、そもそもの根本が異なっている。だから、そんなことをしても周りの雰囲気が元に戻るなんてことはないし、逆にその華苗の挙止動作の全てがより「それらしい」仕草として、観客の心を魅了していた。
(なんなのもぉ……!)
奇妙な静けさは変わることなく、とうとう華苗はランウェイの先端までやってきてしまった。当然のことながら、華苗はここで先人たちのようになにかしらのパフォーマンスをしなくてはならない。別に強要されているわけじゃあないが、今まで全員やってきていたのだ。ここで華苗だけやらないという選択肢はないだろう。
しかしとて、今の華苗には何をしたらいいのかさっぱり思いつかなかった。イベント特有のあの空気の中で、ノリと勢いに任せてスカートをひらひらしたり、なんかそれっぽいあざとい仕草でもすればどうにでもなるだろう──と考えていた華苗にとって、今のこの状況は全くの想定外だったのである。
そして、華苗は基本的にはチキンでビビりだ。たとえ入念に準備していたとしても、この手のリカバリーに長けているわけじゃあない。
「う……」
見られてる。
華苗がそれを自覚してしまうのに、数秒もかからなかった。
華苗はランウェイの先端にいるのに、何もできずに固まっているだけ。そんな華苗を、観客はこれ幸い(?)と鑑賞し、一部まともな思考力を保っている人間だけがどうしてパフォーマンスをしないのか──だなんて思っている。
妙な静けさの中、たった一人見られている少女と、見つめている大勢の人間。
何かをしなきゃいけないのに、何もできない。じっと見られていることが、たまらなく恥ずかしい。
口の中がカラカラになって、頭の中は真っ白になって、そして華苗は立ち尽くす。
なんかおかしいぞ──と、聴衆が異常事態に気付き、密やかなざわめきが少しずつ大きくなるころには、華苗の顔は耳の先まで真っ赤っかになっていた。
夢の大舞台のその先端。たった一人立ち尽くす白ワンピースに麦わら帽子の可憐な少女。
重要なのは、観客のほとんどがその少女に注目していたことと、少女には頼れる仲間がいたことだ。
「──あ」
ぽーん、と向こうから──壁際の、出入り口に近いところに何かが飛んできた。いや、正確には落ちてきた、と言った方が正しいのかもしれない。いずれにせよ、真正面を向いていた華苗には、その奇妙な物体を見ることが出来た。
そして。
──《ブレス・オブ・ノトス》!
飛び上がった人影が、飛んできた何かを叫びながら蹴り上げる。その人影が発した掛け声がテレパシーのように奇妙に辺りに響き、そして真夏の太陽がやってきたんじゃないかと思えるほどの強烈な光が瞬いた。
──なんだ!?
──新手か!?
──いや、違う! これは──!
一条の光が体育館の中を突き進む。それに付随して、暖かな風が喜びを抑えきれないとばかりに吹き荒れた。
文字通りの、激しい風だ。さすがに台風がもたらす暴風ほどじゃあないが、春一番に勝るとも劣らない威力がある。
当然のごとく、その暖かな風は観客の髪を乱していく。体育館の窓にかけられていた暗幕も盛大にはためき、眩しい外の陽ざしがディスコのミラーボールのようにあちこちにランダムな光を投射した。
もちろん、それは華苗とて例外じゃない。
「やっ──!」
女の子なら誰にでも備わっている反射神経を持って、華苗ははためくスカートを左手で押さえ、右手で飛ばされそうになる麦わら帽子を押さえた。
ぱたぱた、ぱたぱたとたなびくスカート。くるんくるんと愉快に回るヒマワリ。時折くっきりと華奢な体のラインが白い海に浮かび上がり、次の瞬間には再び想像力の彼方へと消えていく。
ちらちらと膝小僧が見え隠れして。可愛いリボンが温かな風にひらめいて。
「あ──」
いよいよもって強くなってきた風が、華苗の麦わら帽子を吹き飛ばした。
物理法則に則って、それはくるくると回りながらどこかへと飛んでいく。どこか物悲しさと懐かしさを覚える光景に、華苗も、観客も──その場にいた大半の人間が、釘付けになった。
す、と華苗は反射的に手を伸ばして──
「いいよぉ! そのポーズ!」
「映画のワンシーンみたい! もっと自信もって!」
どこからか聞こえてきた、聞き覚えのある声。その言葉にハッとなって、華苗は今の自分のポーズを改めて思い返してみた。
左手はスカートを押さえている。右手は帽子を掴もうと前に伸ばしたまま。小脇に大輪のヒマワリを抱えているから──必然的に、ちょっぴり前かがみになっている。
──ありていに言って、ちょっぴりあざといポーズであった。
「そのままにこって笑えばもっと可愛いって、かっちゃんも言ってる!」
耳に飛び込んできた、衝撃の情報。
「う、あ……!」
嘘なのか本当なのか。
見られていて恥ずかしくもあり、嬉しくもある。
もっと見てほしいとも思うし、あまり見てほしくないとも思う。
可愛いと思ってもらえるだろうか。それとも子供っぽすぎて趣味には合わないだろうか。
汗ばんで顔が酷いことになっていないだろうか。光の当たり具合は悪くないだろうか。
ありとあらゆる、いろんな考えが一瞬のうちに華苗の頭の中を駆け巡る。嬉しい気持ちも、恥ずかしい気持ちも──いろんな気持ちがごちゃ混ぜになり、華苗の思考回路はあっという間にオーバーヒート寸前まで追い詰められた。
──もう、なんでもいいやあ。
華苗は考えることを放棄した。もとより、緊張に強い心など持ち合わせていないのだ。そうなってしまったのは、ある意味必然と言えるだろう。
そして当然の帰結として、考えることをやめた華苗は今の自分の心の赴くままに振る舞った。否、わずかに残っていたなけなしの見栄やら自尊心……あるいは羞恥心や理性とでも言うべきそれが、砕け散ったと言うべきだろうか。
──!?
──わぉ。
恥ずかしそうにしながらも、心の底から嬉しそうに微笑む少女。幸せでたまらないとばかりに、上目遣いでそれを見つめている。
その先にあるのは、果たしていったい何なのか。
「最高だよ……やっぱり、あなたに任せて正解だった」
小さな小さな、震えるような声。どこかの誰かが、白くて甘い少女を見つめ、ポツリとつぶやいた。
その言葉にどれだけの意味が込められていたのか……その言葉の重みを知っているのは、その人自身だけ。
「ありがとうね……華苗ちゃん」
若干潤んだ、その瞳の先。
顔を真っ赤にした、蕩けるような甘い瞳の白ワンピースの女の子が、夢の舞台の最先端でヒマワリと一緒に風に身を任せていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
『──なんだかんだでこうしてアタシがマイクを握らせてもらっているけれど……ともかく、これで被服部の【ガーデネシア・ウェスト・コレクション】はおしまいだ。被服室の方にもこれに負けない出来栄えの服がたくさんあるし、モデルの都合上どうしてもお披露目できなかった服もある。……背の高いおねーさん、ダンディさには自信のあるおじさま……我こそはと思う人はぜひウチの服たちと遊んであげてほしい。ついでに写真の一枚や二枚撮らせてくれると嬉しいな!』
壇上に上がらされた椿原がぺこりとお辞儀をし、係の者にマイクを渡す。華苗たちモデルの面々は横一列に並び、あるものはノリノリで、あるものはぎこちなく手を振ったり笑いかけたりしていた。
もちろん、華苗がどっち側の人間だったかなんて語るまでもないだろう。
『──以上で被服部主催【ガーデネシア・ウェスト・コレクション】は終了です。モデルの皆さんが退場されます』
そんな合図をきっかけとして、モデルの面々が順に出口に向かって歩いていく。通るのはやっぱりランウェイで、いつのまにやらその先端には簡易式のステップ階段が取り付けられていた。
カーテンコールやスタッフロールと言うわけじゃないが、おそらくそれと似たような意図があるのだろう。この瞬間の段取りも考えていたのか、先頭は例のファッションショーそのものにも一番乗りで参加した被服部で、いかにもそれっぽく、周りに愛嬌を振りまきながら歩いている。
「最高だったぞーっ!」
「めっちゃかわいーっ!」
「あとでその服でデートよろしくぅーっ!」
「目線こっちちょーだいっ! 出来れば上から見下ろす感じでポーズも!」
盛大な拍手と共に、そんな言葉があちこちからモデルたちへと投げかけられた。服について褒める言葉、パフォーマンスについて褒める言葉、デートのお誘いの言葉、気障なイケメン優男に対する怨嗟の言葉……などなど、どれもこれもが温かい気持ちに満ちている。
柳瀬をはじめとした何人かはその言葉に笑って手を振り返し、森下をはじめとした何人かは、見納めとばかりにポーズやちょっとしたパフォーマンスといったサービスを行っていた。
拍手の音に交じって、カシャカシャと少なくないシャッター音も聞こえる。園島西高校の生徒にしては珍しく、その大半が片手にスマホを持ち、普通の高校生と同じように写真を撮りまくっていた。
「な、なんかやたらと写真撮ってません?」
「ファッションショー中は遠慮してたんだろうね。マナーって大事だし。でも、今は……ねえ?」
華苗の前を歩いていた佐藤は、華苗のつぶやきに律儀に返答した。もうすでに諦めたのか、あるいは実は意外とノリノリなのか、佐藤はなんだかんだ言いながらも観客のリクエストに応えて軽くポーズを取ったり、目線を向けてあげたりとサービス精神旺盛である。
一方で華苗は、佐藤の背中にひっつくかのようにして縮こまっている。理由は今更語るまでもないだろう。基本的に華苗は恥ずかしがり屋だし、今は格好が格好だ。そして、この輝く栄光の一本道から逃げ出すことが出来ない以上、逃げ場はそれなりに広い佐藤の背中くらいしかないのである。
この大歓声の中、佐藤が華苗の声を聞き取れたのは、こういった物理的要因が大きかったりする。
「でも、それにしたって……」
いくら佐藤が理想の王子さまとはいえ、こちらを向いているスマホの数は尋常じゃない。それは、視線にさらされている華苗自身が誰よりもはっきりと理解している。
「……それは、僕のせいだけじゃないと思うけど?」
「うう……!」
ちら、と佐藤は後ろを向く。
そこにあるのは、小学生に間違われるほど小柄な華苗の姿──だけでなく。
「深空先生。……僕の背中は華苗ちゃんで定員ですよ?」
「お願い、佐藤くん。そこをなんとかしてぇ……!」
我らが園芸部の顧問。またの名を保健室の女神こと深空先生が、華苗に負けないくらいに真っ赤になって佐藤の背中に隠れようとしている。
しかし、深空先生の背丈は佐藤とさして変わらない。確かに佐藤よりかはちょっぴり低いが、それでも華苗ほど顕著に慎重に差があるわけではない。
ましてや、佐藤と深空先生の間にはほかならぬ華苗がいるのだ。どんなにひっつこうとしても──現に今、華苗は深空先生によりサンドイッチにされかけているが、ともかく体を隠そうとしても限界というものがある。
「僕は良く似合っていて可愛いと思いますけどね、その服」
「なんでそんなこと言うの……!?」
恥かしさと恨みがましさが半々くらいにこもった瞳で、深空先生は佐藤を睨みつけた。
「えー? 似合ってるって思わない、華苗ちゃん?」
「はい。私もよく似合ってるって思います。先生のその──」
「やめて! 言葉に出さないで!」
「──アイドルの衣装」
おそらくはネタ枠というやつだろうか。最後だと思われていた華苗の後に、スペシャルゲストとして深空先生がファッションショーに飛び込んできたのである。それも、いかにも今どきらしい可愛いフリフリのアイドルの衣装を身に纏って、である。
本人曰く、『もうすぐ三十路だし無理があるってわかってる』、『文化祭を盛り上げるために先生も頑張らないといけないって思った』……と、ネタ枠であることを強調していたものの、これが意外にも(?)真っ当な意味で盛り上がる結果となった。
そして、『可愛い』、『愛してる』、『デートしたい』、『お肌きれい』、『美脚』、『叱ってほしい』、『サイン欲しい』、『握手したい』、『全然イケる』、『結婚したい』……と予想外にも全校生徒からのまっすぐな好意に晒された深空先生は、すっかり第二の華苗になってしまったのである。
「そんなに恥ずかしがるなら、断わればよかったじゃないですか」
「だってぇ……! 彩香ちゃんに、最後だからどーしてもって泣きつかれてぇ……!」
「そうしてほいほい引き受けちゃう深空先生が、私は大好きですよ」
「おまけに、アイドルが出来るのは先生しかいないんですって言われちゃってぇ……!」
「ああ……そういえば、島祭の時にもカラオケでアイドルの歌を歌ってたんでしたっけ。……満更でもないんじゃないですか」
「言わないでぇ!」
「むぎゅ」
恥かしさのあまり、深空先生はほとんど抱き付くような勢いで佐藤の背中に飛び込んだ。当然のように、間にいた華苗はいろいろ諸々押しつぶされることになった。
ざわめきに近い歓声があがり、そしてシャッター音が激増した。
幸か不幸か、深空先生は気づいていない。
恥ずかしがれば恥ずかしがるほど──リアクションをすればするほど、それがどんなものであろうと、生徒たちの琴線に触れてしまうことに。
いつもは白衣の保健室の先生が、とびっきり可愛いアイドルの衣装を着ているのだ。いつもは白いヴェールに隠れている諸々が、今日は惜しげもなく晒されているのだ。おまけに、年頃の乙女のように恥ずかしがって、真っ赤になっているのだ。
これを写真に納めずして、いったい何をすればいいのだろう。しかも、紛うこと無き合法の、思い出の一枚である。
「桜井先輩くらいに堂々としていればいいじゃないですか。冗談抜きに同じくらい可愛いし、本物のアイドルみたいに似合ってるんですから」
「無理よ、先生は女子高生じゃないんだもの……華苗ちゃんにはわからないだろうけど、この年になると若い女の子とのギャップが容赦なく突きつけられてくるのよ……」
「アイドルなんだし、そんなの気にしないで元気に笑って手を振っていれば、それでばっちりじゃないですか」
「これを着ているのが春香ちゃんだったら、そうかもしれないけど。先生がそんなノリノリでやっても滑稽なだけね」
「そんなことないけどなあ……」
「そ・う・な・の・!」
とてとてと──それでも、ファッションショーの時よりかは早く、モデルたちはランウェイを歩いていく。華苗の恥ずかしさも、深空先生の恥ずかしさも、あと数十秒の内には思い出の彼方に溶け込んでいくことだろう。
終わりを思わせる、確かな余韻。拍手の音か、それともこの雰囲気か。何がそう思わせるのかはわからないが、自分でも不思議なことに、ここにきて少しだけ──華苗はこの瞬間が終わってしまうことが残念でたまらなくなった。
「きゃん!」
「──ん?」
人の流れが、ふと止まる。
いや、正確には、止まったのは佐藤から後ろの人だけ……すなわち、佐藤と華苗と深空先生だけである。華苗が足を止めたのは、目の前にいる佐藤が歩みを止めたからに他ならない。
「大丈夫ですか、桜井先輩?」
佐藤の目の前を歩いていた──ちょうど話題に上がっていた桜井が、それはもう盛大にコケていた。
スカートの裾を踏んだのか、はたまたヒールの靴のせいか、あるいは段差でもあったのか。どんな理由があったのかは知らないが、少なくとも転んだという事実は変わらない。
当然の帰結として、佐藤は桜井を起こそうと手を差し出す。別に佐藤に限らずとも、誰だってそんな行動をしたことだろう。
重要……というよりも問題なのは、ほかならぬ彼らの現在の格好であった。
「……なんか、凄く似合っているわね」
ポツリと、深空先生がつぶやいた。
倒れたお姫様に手を差し出した、カッコいい王子様。まるで絵本のクライマックスのワンシーンかのような、出来過ぎた光景。これが本当のドラマや映画の撮影現場だと言われても誰も疑わないだろう──と思えるくらいに、倒れた桜井と、にこやかに手を差し出した佐藤はサマになっていた。
「……おーじさま、助けて」
「……んん! 姫様の仰せの儘に」
そのことがわかっていたのだろうか。桜井は悪戯っぽく笑いながら呟いた。もちろん、小さな声と言ってもこれだけ注目を浴びているのだから、それははっきりと会場にいる人たちに伝わったことだろう。
佐藤自身もある程度その自覚があったからか、桜井のその思惑に乗って気障ったらしく、あからさま過ぎるくらいにそれっぽく、格好をつけて手を差し出し直していた。
が、しかし。
「おーじさま、助けて」
「……いや、あの?」
桜井は、その手を取ろうとはしない。にこにこ微笑んでいるだけで、佐藤のことなんてまるで気にしちゃいなかった。
「おーじさま、助けて」
「……えっ、僕何か間違えました? こういうことじゃないんですか?」
「……普通はそれで合っている。が、こいつの場合は違うんだ」
観客席から聞こえてきた、落ち着いた声。桜井の顔が、ぱあっと明るくなった。
その声の主に反応するかのように人の壁に切れ目が入り、その正体が明らかになる。
「穂積くん! おっそーい!」
心底嬉しそうに笑う桜井とは対照的に、疲れたようにも呆れたようにも見える表情をした穂積がランウェイに上がってきた。眼鏡をかけているのはいつも通りだが、今日は制服ではなくてクラスTシャツを着用している。制服姿ではないというのはもちろんだが、この状況が状況だからか、ずいぶんと新鮮……というよりも、場違いな印象を華苗は抱いた。
「違うって、えっと……?」
「なに、お前じゃなかったってだけだよ」
佐藤に申し訳なさそうに会釈をして、穂積は桜井に手を差し出す。今度はごく自然に、桜井は穂積の手を握った。ぎゅっとその手が握りしめられたのを確認すると、穂積はごくごく当たり前のようにその腕を引っ張り上げ、桜井を立たせた。
「悪い王子様の手から攫ってほしい……だなんて、前に言ってたからな。ほら、夢は叶っただろう? いつまでも居座って周りに迷惑かけるんじゃない。……まさか、わざと転んだわけじゃないよな?」
「えへへー……転んじゃったのはホントだよ?」
今までに見たことのないくらいに幸せそうな顔をして、桜井は笑った。たぶん、まあ、そういうことなのだろう。
「……最後までエスコートしてね、王子様?」
「まあ、ロールプレイングは嫌いじゃない」
佐藤に負けないくらいわざとらしく、まさにエスコートする王子様のように穂積は桜井の手を優しく握った。
「あー……“彼女は私が連れていく。私が幸せにして見せよう”。……ほら、さっさと行くぞ。後が閊えてる」
いかにもそれっぽいセリフを残して、穂積と桜井は行ってしまった。たぶん、桜井的には悪の王子さまから自分を攫ってくれる本当の王子さま……といったシチュエーションを望んでいたのだろうが、傍から見れば、ワガママを言う妹を連れ出すお兄ちゃんのそれにしか見えないのが悲しいところである。実際、穂積もほとんどそんな気分なのだろう。
ただ、本人的には満足なのか、後ろ姿でわかるくらいに桜井はご機嫌であった。
虚しく残されたのは、差し出してそのままになった佐藤の手だけである。
「えっと、これ……」
悪の王子様の手。それは、倒れた誰かさんを助け起こすために差し出されたものである。
言い方を変えると、それはちょうど華苗と手をつなぐのにぴったりな高さにあった。
「……華苗ちゃん?」
このままでは格好がつかないと思ったのだろう。あるいは、勇気を出して(?)行った王子様ムーブを無駄にしたくないと思ったのか。ともかく、お祭りやイベントの時の特有の気軽さで、佐藤は華苗に手を差し出した。
王子様と白ワンピースの女の子。手をつないで歩いたとしても、それほど違和感はない。
「ちょーっとまったぁ!」
が、しかし。
華苗が迷う暇すら与えず、観客席の方から大きな声が上がる。それも、とてもとても聞きなれた、女子生徒の声である。
はて、今度は一体何が起こるんだ──と身構えていた華苗に、影が落ちた。
「わっ──!?」
背後から、あるいは側面からの強襲。どこにでもいるごく普通の女子高生である華苗は、それがどこから来たものかわからない。
ただ、目の前が一瞬暗くなって、頭に何か馴染みのある感覚が戻ってきたのだけは確かだ。
「あ、これ……」
「──はい、忘れもの」
耳に心地よい低い声。
おそるおそる、華苗は顔をあげた。優しく被せられた麦わら帽子がぐらりと傾く。
ドキドキしながらそのつばをあげれば、そこに見えるのは。
「か、克哉くん……?」
「お、お届け物に参りました」
ぎこちなく目を逸らした、柊がいた。光の当たり具合のせいか、華苗が見てはっきりわかるほどに顔が赤くなっている。どういうわけだかこの暑いのに学ラン姿で、おまけにおでこには例の赤いシール──ではなく、いかにもそれらしい鉢巻が巻かれていた。
しかし、今の華苗にはそんな柊の姿なんて目に入っていない。言葉にできない喜びや恥ずかしさで頭がいっぱいで、自分がどこにいるのか、何をするべきなのか、なんて声をかけるべきなのか……などなど、一切合切が頭の中から抜け落ちてしまっていた。
出来たことと言えば、ごくごく自然ににっこりと笑っただけ。それさえも半ば無意識での行動なのだから、実際はほとんど何もできていなかったに近い。
「……」
「……」
「……わーぉ、なんだろ、このそこはかとない疎外感」
華苗は何もできない。
柊も、なぜか華苗の前で固まってしまっている。
その理由は、おそらくもっとも彼らに近い場所にいた佐藤と深空先生が、一番よく理解できていたことだろう。
『……ん゛ん゛! マイクの調子が悪いなー。ちょっと調整の時間が必要だなー。でもすぐに終わるだろうから、なるべく早く済ませて欲しいなー』
あからさま過ぎるアナウンス。そこまでされてようやく柊は正気に戻ったらしい。妙に静まり返った会場に気付き、辺りを見渡して、そしてもはやうっ血してるんじゃないかってくらいに顔が赤く染まっていく。
「……え、ええい!」
「……きゃっ!?」
大好きな人が目の前に、こうして会いに来てくれた──だなんてことで頭がいっぱいだった華苗は、ここでようやく正気に戻った。
「か、克哉くん? な、なにしてるの?」
華苗の目の前で、柊が学ランのボタンを外し始めた。上から順に、一個ずつである。そもそもとして華苗は学ランのボタンの造詣が深いわけじゃないが、ともかくこの学校のそれはいわゆる普通のボタンと形がかなり異なっており、ボタンと言うよりもむしろ、ちょっとしたアクセサリーのチャームのような見た目となっている。
そんなボタンが外されるにつれ、柊の胸元が開いていく。学ランの下からは、汗で少々透けたいつもの白いワイシャツが覗いている。
「ねえ、どうして学ランなんて……」
「僕ね、武道部だから応援合戦に出てたんだよ。……このファッションショーの前にやってたんだけど」
「え……」
もちろん、華苗がそんなこと知っているはずもない。そもそも文化祭でそんな出し物があるってこと自体知らなかったし、仮に知っていたとしても、ちょうど被服室でお召し替えをする頃合いと被ってしまっている故に、見ることは叶わなかっただろう。
だけれども、華苗は堪らなく悔しい気分になった。
もし知っていたなら、どんな手を使ってでも見ていたのに……と、うつむいた瞬間。
──何か、温かいものが華苗の肩にかけられた。
「きゃっ──!?」
確かに肩から感じる、温かく、あまり覚えのない感覚。いや、肩だけじゃない。腕も、背中も──全身が何かに抱きしめられているかのように、心地よい。
この、どこか懐かしいような、胸がドキドキしてくる香りはなんだろうか。汗と熱とちょっぴりの制汗剤のような人工的な香りが混ざった、人の匂いだ。だけれども、それは決して不快なものではなく、何か大いなるものに護ってもらえるのだという絶大な安心感を華苗にもたらした。
肩から感じる感触を、全身から感じる温もりを、自らを包み込んでくるこの匂いを、ずっと感じていたい。大好きな人が抱きしめてくれるかのような感覚に、ずっとずっと包まれていたい。出来得ることなら、自分の方から抱き締め返したい。
そんな圧倒的な幸福感に包まれて、華苗はたちまちのうちに真っ赤になった。
「えと、あの……さっきからずっと恥ずかしそうにしていたし、その……」
今更確認するまでもないが、華苗にかけられていたのは柊が来ていた学ランである。身長差と体格の違いのせいで、ただの学ランがちょっとしたロングコートみたいになってしまっているが、そこはまぁご愛敬という奴だろう。
白いワンピースの上に黒い学ラン。とてもちぐはぐな格好ではあるが、不思議とそんなに違和感はない。むしろ、どこか微笑ましいような、ギャップの妙とさえ言える何かがある。
──尤も、ただその二つを組み合わせただけなら、そんな感想を抱く人は誰一人としていないだろう。このシチュエーションと、着ている華苗の表情が、そんな前提を覆しているのだ。
「や、その……ファッションショーの時も途中で固まってたし、さっきもずっとぎこちなかったし……」
「……」
「ショーも終わってこの空気だったし、もういいかなって……も、もしかして僕、余計なことした? ……あっ! 今更だけど、かなり汗だくだった……!」
一人で勝手にオロオロしたり赤くなったりしている柊を見て、華苗はなんだか堪らなく愛おしい気持ちになった。カッコよく見えていたはずの彼が可愛く思えて、同時に嬉しくて暖かい気持ちが胸いっぱいに満ちていく。
「か、華苗ちゃん? その、迷惑だったら脱ぎ捨ててもらって構わないから……!」
「……へへっ♪」
華苗は学ランをきゅっと掴み、上機嫌で頬をほころばせた。
絶対離してなるもんかと、より一層強く、それを自らの体に纏わせた。
「──克哉くん」
黒い学ランを肩にかけた、白いワンピース姿の女の子。
麦わら帽子をちょちょいと上にあげ、太陽がかすむほど眩しい笑顔で言った。
「ありがと!」
自然と差し出された手を、柊はゆっくりとつかむ。そのまま流れるように、二人はランウェイを後にした。
後に残ったのは。
「……結局、僕のこの手はどうすればいいんですかね」
「先生の手なら空いてるけど……後が怖いから、遠慮しておくわ」
やれやれと肩を竦め、佐藤はその手をなんともなしに顎にあてた。
「それにしても……なんでわざわざ柊くんはこんなに目立つことをしたんだろう? 別に華苗ちゃん、最後はそんなに恥ずかしがってなかったし、どうせあと少しで終わってたのに……」
「あら、そんなのわかりきってるじゃない」
アイドルのように茶目っ気溢れる笑みを浮かべ、深空先生は悪の王子様に悪戯っぽくウィンクした。
「柊くんは、あんなに可愛い華苗ちゃんの姿を他のみんなに見られるのが──たまらなく悔しかったのよ」




