68 夏祭りの約束
楠 瑞樹は困っていた。
彼は園島西高校の園芸部の部長だ。日々の部活によって鍛え上げられたその両腕はそこらの運動部よりもはるかに立派で、全体的に見ても筋肉質でがっしりとしている。元々高身長で体格もいいものだから、彼が麦わら帽子姿でスコップを担いだ姿を見たことのない人間であれば、柔道とか空手とか、ともかく非常にアクティブで好戦的な部活を嗜んでいると勘違いしてもおかしくない。
そんな彼の腕を浴衣姿の可愛らしい女の子が取っている。それも、腕をつかんでいるのは一人じゃない。なんともうらやましいことに、彼は両腕を女の子にとられているのだ。
にこにこと笑いながら、それこそ夢見心地でいるのは園島西高校の調理部部長の青梅とお菓子部部長の双葉だ。二人とも黒にいくらか茶が混じった色合いのふわふわの髪をばっちりと決めていて浴衣姿も気合が入っていた。準備にどれだけの時間をかけたのか、おそらくこの普段から不愛想で仏頂面をしている男にはわからないことだろう。
「えへへ、今年もこうして巡れてよかったね!」
「しかも美少女二人と一緒だし! まさに両手に花ってやつだね!」
「…っすね」
花も恥じらうかのように明るい笑顔をする二人とは対照的に、楠はいつも通りの無表情、死んだ魚のように濁った生気のない瞳のまま答えた。もしこの場を彼の学友たちが見ていたのだとしたら、おそらく全員が全員とも全力で彼の背中や尻を叩いたのではないだろうか。
この幻想的で情緒的な夏祭りの中。二人の少女と一緒に歩いていて、どうしてこんなにも無表情でいるのかと。
「……あれ、楠くん? なんか元気ない?」
「……も、もしかして、退屈だったり!?」
恋する乙女はいろいろと敏感らしい。二人は楠のほんのわずかな表情の変化を読み取り、わたわたと慌てだす。その様はまるで、どうしようもないダメ男の世話をかいがいしく焼く様子にそっくりだった。
「…そういうわけではないんですが」
やべえ、と楠は柄にもなく心の中で泣き言を呟いた。
楠は今、甚平を着ている。園島西のおじいちゃんが用意した、いかにもそれっぽい風流な紺色の甚平だ。楠には甚平の生地や仕立ての良し悪しなんてまるでわからないけれど、それでも十分に立派なものだということくらいはわかる。
動きやすいし、肌触りもいいし、薄くて風通しもいい。すごくすーすーする。このままついでに持って帰って部屋着か寝間着にでもしようとすら思っている。
しかし、それこそがまさに問題なのだ。
「……」
「……楠くん? やっぱりなんか、いつもと違くない?」
「あっ! さては、照れてるな!」
半ば冗談のつもりで放たれた双葉の一言。恐ろしいことに、それはほぼ正解だった。
(……薄い)
そう、この甚平はすごく薄い。そして、今彼は浴衣姿の少女二人とほぼ密着するようにして歩いている。
否が応にも意識が向いてしまう両腕。触れ心地のいい感触。そしてちょっとだけ温かくてなんかすっごくやわらかいものが、微妙に、それでも確かに当たっている。
そりゃそうである。だって、彼女らは彼の腕をとって歩いているのだから。
もちろん、腕だけじゃない。もうなんか全体的に体が押し付けられていて、健全な男子高校生にとっては非常に毒なことになっている。人が多いから自然にそうせざるを得ない状況になっているとはいえ、動く度に二人の体が自分の体に触れて、楠の心をどぎまぎとさせた。
楠でなければ顔を真っ赤にするか、あるいはもっと挙動不審になっていたことだろう。むしろ、楠だからこそ冷静を保っていられるともいう。いや、なんとか冷静を保つふりをすることで乗り切っているともいえるかもしれない。
彼は、最近色にボケつつある、ロリコン疑惑さえ浮上している親友のようにはなりたくないと思っているのだ。
「えっ? そうなの? 楠くん、ホントなの?」
「ぜぇったいそうだよ! ほら、なんかまばたきの回数が多くなってる!」
「…違います」
「こっち見て言える?」
「……」
にこにこと笑いながら、二人の少女はよりその距離を詰めた。わかっているのかいないのか、楠が今なお懸念している問題がより大きくなって彼を襲う。パッと見こそ無表情を貫いている彼ではあったが、頭の中は既にもうそのことだけでいっぱいで、心の中では自分でもよくわからない雄たけびを上げていた。
「……あっ、ホントだ。照れてる!」
「やーん、かーわーいーいー!」
「…そう言われたのは初めてです」
確かに彼は普段から無表情だ。後輩から鉄面皮、唐変木と心の中で言われるくらいに人の機微に疎く、鈍感で何事にも動じない。
されど、何も感じないというわけではない。彼は楠と言う個人であると同時に男子高校生なのだ。両腕に浴衣姿の花二つのこの状況で、どうして冷静でいられるというのか。
しかも、である。身長の高い楠からは、その白く、ほんの少し汗ばんだ二人のうなじが良く見える。右を向こうと、左を向こうと、魅力を放つそれが否応もなく目に飛び込んできてしまうのだ。これで動揺しない男子高校生などこの世に存在しないことだろう。
楠が照れていることに気を良くした二人は、ここである行動に出た。
「…………あの」
「ん? なぁに?」
「こういうの、男はみんな好きなんでしょ?」
一瞬だけ離れる手。次の瞬間、楠の指に暖かくて柔らかいそれが絡みついてきた。
(……ああああああ)
にこにこしながら自分の指を絡める青梅と双葉。俗にいう恋人つなぎと言うやつだ。彼女なんて生まれてこの方できたことのない楠にとっては、それはあまりにも衝撃的すぎた。
もちろん、嬉しくないわけがない。楠だって男なのだ、可愛い女の子に手を握ってもらえたら嬉しいに決まっている。ましてや相手は浴衣姿で、このお祭りというシチュエーションである。
しかしとて、それ以上に恥ずかしい。どう対応すればいいのかさっぱりわからない。普段からつるむサッカー部長のようにノリで明るく握り返せばいいのか、それとも見かけは結構遊んでそうな優男に見える親友のように上手い言葉の一つでも言って優しく握り返せばいいのか。尤も、どちらの選択肢にしろ、楠には無理な話ではあるのだが。
当然ながら、振りほどくという選択肢はない。別に握られることが嫌なわけではないし、そもそもふり払ったら印象的に最悪である。ましてや相手は三年の先輩だ。たとえ冗談でやっているのだとしても、その選択肢だけはあり得ない。
結果として、彼は二人をできるだけ見ないようにしつつ、かつなにも物事を考えないように心を落ち着けて、なされるがままになることを選んだ。
「……真面目な話するとね、楠くんが一緒でよかったって思ってるんだよ?」
「自惚れかもなんだけどさ。合流するまでけっこういろんな人に声かけられちゃって」
そりゃあそうだろう、と楠は心の中だけで頷いた。
今の二人は、鈍感なことに周りからの定評がある楠でさえ一瞬見とれてしまうほど綺麗な姿をしている。それこそ、楠と一緒に居ることが似合わないくらいの可愛らしさだ。お祭りと言う人が入り乱れる場においてもかなり目立っていて、ちょっとした注目を浴びていた。
実際、楠自身、こうして二人と一緒に歩いていることが何かの冗談なんじゃないかと思えてしまうくらいだった。
「でもほら、もう誰も声をかけてこないでしょ?」
「邪魔されることなく歩けるって最高だよね!」
楠は強面だ。傍から見ると不機嫌な番長のように恐ろしい顔をしている様に見える。色黒で体格のいいこと、さらにはその鋭い眼光も相まって、まるでやの付く自由業のようにさえ思えるほどの威圧感を醸し出していた。
そんな男が連れている女に声をかけるやつなどいないだろう。誰だって命は惜しい。
「…久しぶりにこの顔に感謝しました」
ちなみに、この園島西高校の夏祭り、【島祭】においてはあまりナンパやそれに類するトラブルは起きていない。たしかに、そういった目的で他校から遊びに来る人たちはいるのだが、あまりにもタチが悪い連中の場合、祭りを楽しみながら巡回している柔道部や空手道部、さらにはその他たくましい肉体を持つ運動部が笑顔で介入するからだ。
もちろん、介入するほどのない──ちょっとしつこいだけの相手でも問題ない。近くにいるクラスメイトや顔見知りの男子を臨時彼氏としてその場で引き込むだけである。大抵のナンパ野郎は彼氏持ちと知った瞬間にすごすごと引き下がっていくから実に手軽な方法だ。男子側も経験としてそれを知っているからすぐにアドリブで合わせることが出来るし、むしろ絡まれている女子を見てはそうやって積極的に助けに行くのである。
「そんなわけだから、これから最後まで、いっぱいお祭りを楽しみたいの!」
「さっきまであたしたち屋台担当で巡れていなくて。悪いけど付き合ってもらうよ!」
「…うっす」
来た。来てしまった。
明るく──同性でもどきっとするくらいに朗らかに笑う二人に反して、楠の表情は一瞬だけ強張る。心の中ではわずかに暗い気持ちにさえなってしまっていた。
その理由は、彼の懐の中──先程渡されたものにあった。
(かあさん……!)
彼の懐の中には諭吉さんがいた。
そう、樋口さんや何人かの漱石さんではなく、立派な諭吉さんなのである。
この園島西高校に出展している屋台はお値段が非常にリーズナブルだ。例えば、彼が営んでいた園芸部の屋台の場合、丸々と太った大きくて甘いトウモロコシが一本丸ごとでたったの五十円である。単純な比較はできないが、他の屋台もおおむねそれくらいの量とクオリティを兼ね備えていると思って間違いない。
そして、楠は諭吉さんを使い切るまで戻って来るなと言われている。
今一度、園芸部の屋台を例に挙げよう。彼が女の子二人の分を奢って出したとしてもたったの百五十円にしかならない。もしお代わりをしたとしても三百円だ。使わなくちゃいけない金額の五パーセントにもならないのである。
その上、これだけの量だ。たしかに楠自身、昼間からずっと休む間もなく設営作業を行って空腹だとは言え、限度と言うものがある。トウモロコシを二本も食べればそれなりにおなかに溜まるし、そこにさらに焼き鳥だのお好み焼きだのを入れていけば、そう遠くない時間に満腹になることは疑いようがない。
もちろん、何も知らないで通常のお祭り価格で出店してしまった大損を叩きだしている屋台もある。そこで購入すれば諭吉さんなんてあっという間に尽きてしまうだろうが、楠は質も量でも劣るそこを利用する気にはとてもなれなかった。それはおそらく、隣を歩く部長たちも同じだろうとそう考える。
分かりやすくいえば、楠はこれから、食い倒れるまで屋台を満喫しないといけない運命にあるのである。それもデートのエスコートをしながら。
「…とりあえず、どこに行きましょう?」
しかしながら、彼はやり遂げねばならない。普通の高校生は知らないような園芸の知識は腐るほどある癖に、普通の高校生なら知っていそうなデートの作法一つ知らない自分を、彼はこの時ばかりは憎らしく思った。
「まずは腹ごしらえ、だよね!」
「お腹が減ったら戦は出来ないからね!」
青梅も双葉も楠が空腹であることにしっかりと気づいていたらしい。腕をぐいぐいと引っ張り、手ごろな屋台──フランクフルトの屋台に近づいていく。これじゃあどっちがリードしているのかわかったものじゃない。
幸いなのは、互いに気心が知れている仲だということだろうか。良くも悪くも彼らは先輩と後輩の中で、このお祭りはあくまで自分の学校で行われてる、いわばホームグラウンドの、身内の祭りなのだ。
「フランクフルト三つお願いします!」
「あいよ!」
「おっきいのしかなくてごめんね!」
「いいってことよ!」
「……」
あっという間に商談成立。青梅が三本のフランクフルトを受け取ると同時に、双葉が楠の懐をまさぐって諭吉さんを取り出した。向こうもお釣りは潤沢に用意してあるらしく、何枚かのお札と数枚の硬貨がかえってくる。もちろん、双葉はきちんとお釣りを彼のポケットの中に入れているが、傍から見たらちょっとぎょっとする光景ではあるだろう。
「はい、詩織」
「ん、ありがと」
少女二人はおいしそうにフランクフルトを食べだした。そんな様子を見せられては、いい加減腹の虫をなだめるのも難しくなってきた楠にはたまらない。何はともあれ、さて自分も食べようか──として、気づいた。
「…あの」
「どうしたの?」
青梅がわかっていてにこにこと笑っている。もう一度強く、その指を楠の指と絡めて握りしめた。
「…両手が塞がっているのですが」
「しょうがないよね、うん!」
双葉がにっこりといい笑顔で言った。
そう、楠は今、二人と恋人つなぎしている状況にある。先程の支払いの時からうすうすと気づいてはいたが、つまりは両手が塞がっていて何もできない状態だ。その上、彼と手をつないでいる二人ともが離そうとしないものだから、彼自身ではどうしようもない状況にある。
こんな状態ではとても、物を食べることなどできない。
「はい、あーん♪」
「……」
「あーん?」
「……」
「今更恥ずかしがっちゃって、んもう!」
青梅と双葉は意地悪な性格ではない。両手が塞がっていて食べられない楠のために、ずずいとフランクフルトを口元にもっていってあげていた。誰がどう見ても立派な『あーん♪』である。例えそれが恣意的なものだとしても、ピュアな乙女心が原因なのだから些細な事だろう。
「……」
無言で楠はそれを食べた。そうすることしかできなかったともいう。それに、文字通り今更ではあるのだ。これくらいのことなら、既にもう何度か経験しているのだから。
「いいね、良い食べっぷり!」
「あは、なんかすっごく楽しい!」
うまい、と楠は素直にそう思う。どこぞのOBが出店している屋台だからか、値段の割に質がすごく高い。焼き加減もいい感じで、少し焦げているところが堪らなく香ばしい。業務用だとかの冷凍したフランクフルトではとても出せない肉汁の濃さと脂のうまみが一口齧っただけで全身に広がっていく。
加えて、ボリュームもバッチリだ。コンビニなんかでよく見かけるものよりも一回りは太いし長い。脂でてかてか光っているその姿は、夏バテで食欲のない人間でさえ完食できてしまうくらいに胃袋を刺激してくる。
楠は自分でも不思議なことに、ごくごくあっさりと、凄く自然にそれをペロリと平らげてしまった。
「…うまいっすね」
「じゃあ、もうちょっと食べたい感じ?」
「…ええ。すみませんが、俺のポケットから──」
「はい、あーん♪」
ずずい、と目の前に差し出されたそれをみて、楠は固まった。
「あれ? 食べないの?」
「美味しいフランクフルトだよ?」
フランクフルトなのはわかっている。そりゃそうだ。ここまでフランクフルトらしいフランクフルトを見間違えるはずもない。
問題なのは、それは先ほどまで二人が食べていたフランクフルトだということだ。小さな可愛らしい齧り跡が楠の眼にはしっかりと、なんだか妙に強烈に焼き付いている。
どうすればいいんだと、楠の頭はパニックを起こしそうになった。
「……………………」
別に嫌ってわけじゃあない。楠は回し飲みも回し食いも平然とするし、少なくともこの学校のメンバーであるならば、誰の使ったスプーンだろうとフォークだろうと平気で使える。そんなことを気にしないくらいにはみんなを信用しているし、ついでにその程度の衛生観念は男子高校生的にかなぐり捨てている。畑の作物を洗いもせずに生でむしゃむしゃするくらいには、けっこうその辺の意識は低かったりするのだ。
しかし、それはあくまで男同士の話なわけで。自分が良くとも、女子である先輩のそれを男子の常識と一緒にしていいものなのかと、彼はものすごく苦悶した。
「…いただきます」
楠は何も考えないようにそれを口にした。どのみち選択肢など一つしかない。だとしたら、なるべく意識しない風を装って、いつも通り平然と食べるしかない。
「んふふ♪」
「いひひ♪」
食べてみれば何のことはない、先程まで自分が食べていたそれを一切変わりない。味も食べごたえも何もかもがそのまんまだ。
だというのに、妙ににこにこしている二人の部長を見て、楠は自分がなんだかいけないことをしているかのような気分になってしまった。
「…次、行きましょう」
「おっけ!」
その後楠は同じように悶々としながら屋台をめぐることになる。両手が埋まっているから、そのすべてで『あーん♪』を強行された。客観的に見ればかなりうらやましい状況ではあるのだが、内心かなりガチガチになってしまっていた楠にとっては、嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやらでとても落ち着いていられるはずもなかった。
食べて、食べて、食べて。焼きそばにお好み焼き、りんごあめにわたあめ。チョコバナナもかき氷も、珍しいところで言えばレインボーアイスなんかも食べて。さすがに胃袋の限界を迎えつつあった三人は、やがて比較的人気の少ない広場で休憩することにした。
これでなお、三人全員分合わせて三千円に行くかどうかと言うところだから恐ろしい。ノルマを達成するためにはまだまだ頑張る必要がありそうだった。
「さ……さすがに食べ過ぎたね……!」
「う……射的とかヨーヨーすくいとかのお遊び系をもっと組み込むべきだった……!」
「…っすね」
楠はまだいくらか余裕があるが、青梅と双葉はパンパンだ。苦しいのだろうか、帯のあたりをさすさすとさすっている。都合よく座れる場所もないため、二人ともが自然と楠にしなだれかかって楽な姿勢をとっていた。
「…大丈夫ですか?」
これくらいならばセーフだろうと、楠は一度手を外し、二人を背中から支えるようにポジションを変えた。それは確かに純然たる善意によるもので、ただしがみ付くだけだった二人にとっても体勢がいくらか楽になるものではあったのだが……。
(……あ)
奇しくも、それはまるで楠が二人を同時に抱きしめているかのような形にもなってしまっていた。
「あっ……意外と大胆……!」
「できれば……もっと楽な時にやってほしかった……!」
軽口を叩く余裕があるなら大丈夫だろうと楠は判断する。とはいえ、一度この体勢になった以上またポジションを変えるのも変な話なわけで。結果として、なるべく心の無を意識した楠とこの状態をいいことにしがみつく二人と言う構図になってしまっていた。
「はー……それにしても食べたぁ……!」
「やっぱりお祭りだとテンション上がっちゃうね……!」
「…たしかに、いつにもましてテンション高いですよね」
ポロリと漏れる本音。何気ない一言だったはずのそれは、妙に大きく響いていく。
「……私たち、今年で最後だからね」
「この島祭にはまた来れるけど、高校生として参加できるのは、もう……」
「……」
少しだけ残念そうに二人は笑った。
青梅も双葉も三年生だ。この夏祭りが終わり、文化祭も終われば、あとはもう受験に取り組み卒業するだけである。当然のことながら夏の思い出を作れるのは今この瞬間が最後なわけで、それがこの青春真っ盛りの二人の女子高生にとって、いかに大事なものであるのか、感慨深い思い出になるのかは語るまでもない。
「…また来年も一緒に回りましょうよ。それでいいじゃないですか」
「んー? 確かにそうなんだけどね。でも、やっぱり今この瞬間はもう二度と戻ってこないから。それに、高校生同士の思い出っていうのが重要なの」
「楠はまだちょっと早かったかな?」
「……」
楠はちょっと前の自分をぶん殴りたくなった。今目の前にいる二人は、明らかに無理をして笑っている。
「今でも思うよ。私たちがあと一年遅く生まれていたらなって。楠くんがあと一年早く生まれていたらなって」
「や、確かにしょっちゅう顔を合わせているけどさ。それでも、あたしたちが楠と一緒に居られるのは二年間しかない。こういうイベントだって、大半は学年別。むしろ、こうしてガッツリ時間が取れるのって島祭くらいじゃない?」
「…それは」
なんだか湿っぽい空気になってしまった、と楠は内心でオロオロする。顔にこそ出していないものの、その実すっごく焦っていた。彼はこういう時のフォローなんてどうすればいいかわからないし、口がうまいわけでもない。要するに何もできないのだ。
「ずるいよぉ……っ! どうして、二年だけしかないのかなぁ……っ!」
「もっといっぱい、いろんなことをしたかった……っ! もっとたくさん、いろんな思い出を作りたかった……っ!」
「一生このままここで過ごしたいよぉ……っ! ずっとお祭りを巡っていたいよぉ……っ!」
「ここから帰りたくない……っ! ずっと、ずーっとこうしていたい……っ!」
「……っ!?」
鈍感な楠でもわかる。二人は今、確かに泣いている。泣き顔を見られないように隠してはいるけれど、幸か不幸か、ひっく、ひっくという嗚咽と、その度に震える体を、密着している楠はしっかりと感じてしまえるのだ。
「…あの」
「ごめんね、わかってる。こんな楽しいお祭りで迷惑だよね」
「…迷惑ではありません」
「あは、楠って優しいもんね。初めて会った時もそうだったっけ」
「…ええ、そうですよ。俺は優しいんです」
もうどうにでもなれ、と楠は二人を抱きしめ、ポンポンと頭を撫でた。親友とは違い、泣いている女にうまい言葉など言えるはずがないということは彼自身がよくわかっている。ならば、せめて行動で示すしかない。
幸いなことに、やってること自体は先ほどまでとさして変わっていない。これは泣いている子供をあやしているだけなんだ、と楠は必死に自分に言い聞かせた。
「ごめんね……もうちょっとだけこのままで……」
「ホントいつも、悪いね……」
「…いえ」
二人が落ち着くまで、楠はぼんやりと抱きしめながら頭を撫でる。お祭りなのだ、これくらいはまぁありえないこともないだろうと、そう思い直すことにしたのだ。
(…今度夢一からうまい文句の一つでも聞いておくか)
さて、彼がそんなことを考えられる程度には余裕を取り戻したころ。だいぶ落ち着いたのか、青梅も双葉もぐしぐしと顔を拭い、先程までの雰囲気をみじんも思わせない笑顔を浮かべて楠を見上げてきた。
「うん、落ち着いた」
「心配かけてごめんね!」
「…お気になさらず」
ようやく楠はホッと一息を付く。不愛想で仏頂面で機械のように無表情な彼だが、女と子供の涙はすごく苦手だったりするのだ。しかも相手は女で子供である。
「…青梅先輩、双葉先輩」
それでも、楠には思いやりの気持ちと言うものがある。彼は口下手ながらも、必死に言葉を紡いだ。
「…まだ、あと半年もあります。そこでいっぱい、思い出を作りましょう。文化祭だってまだ終わってないじゃないですか」
「ま、まあ、確かにそうなんだけど……」
「…『いろんな思い出を作りたかった』……このセリフ、本来は卒業式の時に言うべきものでは?」
「意外と冷静なツッコミ!?」
普段滅多に使わない表情筋を全力でフル稼働させ、彼はにっと笑いかけた。非常にぎこちなく、まるで獲物を見つけた悪魔のように恐ろしげなものではあったが、それでもたしかに笑いかけたのだ。
「…こういうセリフは卒業式の時までとっておきましょう。今は目の前のことを全力で楽しめばいいじゃないですか。それで、卒業式の時に振り返ってみて、本当にそうだったのか考えてみましょう」
「……」
「……」
「…笑って卒業できるかもしれません。全力で満喫して、気兼ねなく卒業できるかもしれません。俺も、そうできるように全力で努力します」
「……うん」
「……そうだね」
「…ですから、その答え合わせは卒業式の時にしましょう。約束です」
ぴっと小指と小指が絡み合う。それは、この三人だけの秘密の約束であった。
辺りは少し静かになっている。それなのに何か予兆めいた奇妙なざわつきがあった。もちろん、必死に言葉を考えている楠と、普段は口数の少ない彼から紡がれた感動的な言葉にドキドキしている二人はそれに気づかない。
雰囲気がぶち壊しになるが、楠の台詞はキャンプの時の親友のものを参考にしている。というか、口下手な楠が一からオリジナルでこんなことを考え付いて言えるはずがない。
たしかこんな感じだったか、と彼は最後に締めの一言を言い放った。
「…俺は悲しそうな顔をしている二人よりも、笑っている二人が好きですから」
どーん、と大きな音。空に綺麗な綺麗な赤い大輪の花が咲いた。光の花は夜空を明るく彩り、真っ赤な顔をして目を丸くする二人をちらちらと照らし出す。続けざまに何発も打ち上げられ、そのたびに二人の瞳が煌めいた。
青梅と双葉が息を飲んだ音は、そのひゅるるる、という音ですっかりかき消されてしまっていた。
「…面と向かって言うのは恥ずかしいですね」
「く、楠くぅん……!」
「今の、録音しとけばよかった……っ!」
「…………」
なんだかとっても恥ずかしくなった楠は顔を上げ、花火を眺めることにした。
毎度のことながらずいぶんと景気よくあがっており、そのバリエーションもなかなか豊富だ。赤、青、黄色に紫といろんな色がある。オーソドックスに大輪の花を咲かせるものもあれば、柳の葉のように光の尾を引くものもあった。
とても高校の夏祭りとは思えないほどの幻想的な、それでなお華やかな光が夏の夜を染め上げていく。どどん、どんと打ち上がる音と、ぱぁんとはじける音が耳に心地いい。
そのあまりにも夏らしく情緒的な光景に、楠はポツリと呟いた。
「…きれいだな」
しかし、ここで返って来るであろう二人の先輩からの返事が来ない。はて、いったいどうしたのか、同じように見とれているのか──と思った瞬間。
「励ましてくれて、ありがとね!」
「さっきの言葉、すっごくうれしかった!」
「──ッ!?」
ちゅちゅっ、と二つの湿った音。赤と青の二つの大きな花火が空中で花開き、辺りをより一層明るく照らした。
地面に瞬いた、重なる三つの人影。
生まれて初めてのその感覚に、楠は呆然とすることしかできなかった。
「卒業式の答え合わせ、それも追加ね!」
「ちゃんとはっきり、答え出しておけよぉ!」
顔を真っ赤にした二人の少女が恥ずかしそうに笑う。真夏の夜花が空にたくさんの花を咲かせ、地上ではその光を浴びた二つの花が咲いていた。




