60 彼と彼女と黄色いアイツ ☆
ちょうがんばった。
裏副題『彼と彼女と黄色いアイツと空気読まないエトセトラ』
早朝の学校に来たことがある人はいるだろうか。人気がなく閑散としていて、昇降口は閉ざされており、いつもの活気がない分、妙に薄気味悪い感じさえすることだろう。ひょこっと職員室か、はたまた用務員室のほうを覗くと明かりがついており、その様子にほっと一息がつけたりもする。
お寝坊さんには縁がないかもしれないが、あれはあれで学校生活の思い出となるような、なかなか味のある光景なのである。
そんな早朝の学校を華苗はとてとてと歩いている。時刻はおおよそ六時過ぎといったところだろうか。
いくら夏場と言えど、自然あふれるこの園島西高校の敷地内は朝の涼しげな空気に満ちており、朝露のもたらすひんやりとしたなにかが華苗のむき出しの腕を優しくなででいた。
さすがに早すぎたのか、まだ朝練を始めている部活もない。いつもなら──といっても、七時過ぎくらいには朝練を始める運動部がぽつぽつと出始めてにぎやかになってくるのだが、運動場は静まり返っている。
この閉ざされた廃村の中にでもいるかのような雰囲気、華苗は嫌いじゃない。
「とうちゃく」
ぽん、とステップでも踏むような感じで華苗は中庭へとたどり着いた。鞄を小脇に抱えたまま、うーん、と伸びをする。なんとなくポケットから手鏡を取り出し、そこに映る少女を観察した。
「……よし」
髪型は大丈夫。寝癖もない。化粧はそもそもしていないから問題ないし、特段変なところはない。汗もかいていない……というか、朝が早すぎたから今日はおかあさんに車で送ってもらっている。
オールオッケーのはずである。そうと信じたい。
「……」
誰もいないその中庭では小鳥のさえずりくらいしか音が聞こえない。ときおり遠くのほうから羽目を外したバイクのエンジン音が聞こえるが、それ以外には葉擦れや風の音など、自然の奏でる旋律しか聞こえない。
本当は心臓がどくどくと鼓動する音がうるさく聞こえているのだが、華苗はあえて聞こえないことにしていた。
そして、華苗がそこについて五分くらいたったころだろうか。ざっざ、と誰かの足音が近づいてきて、途端に華苗の鼓動がびくんと跳ね上がる。
校舎の曲がり角からいつその影が出てくるのか華苗は気が気でない。自分で出来る精一杯の明るい笑顔を浮かべ、今か今かとその瞬間を待ち構えた。
「おはよう、八島さん」
「おはよ!」
道着を抱えたその人をみて、華苗の顔にはもっと自然で素晴らしい笑顔が広がった。
「ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、私も今来たところ」
今日は柊と一緒に作業に入る予定である。相も変わらず、あの不思議な園芸部の不思議な畑は入れないことがあるため、確実に入れる華苗はこうして柊と待ち合わせをすることになっていたのだ。
「柊くんは朝練あるの?」
「いや、うちは午後から」
他愛もない話をしながら華苗と柊は畑へと向かっていく。誰もいない学校を二人っきりで歩くというのはなかなかにロマンチックだ。華苗は正直自分で何を話しているのかさっぱりわかっていなかったが、とても楽しくてどきどきしているということだけははっきりとわかっていた。
「八島さんのところはいつもこんなに早いの?」
「いつもはもうちょっと遅めだよ。こんなに早く来いって言われたのは初めてかな」
キャンプの時からちょっとだけ近づいたこの距離がもどかしくてうれしい。
華苗一人が入るか入らないかの肩の距離。体半分ほど距離を詰めても、彼はそのまま笑いながら話してくれている。ちょっと頑張れば、手をつなぐことだってできるかもしれない。
華苗はこのまま畑にたどり着けませんように、と願った。一生このまま隣を歩いていたいとさえ思った。
だがしかし、終わりというのは訪れるものである。畑へと至るいつもの曲がり角が見えたとき、華苗は悔しくなってもう拳一個分ほど距離を詰めた。
「うぉ……!」
「うわぁ……!」
二人の目の前に広がっていたのは、風に揺れる淡い黄色の穂。背の高い夏のオブジェが見渡す限りに聳えていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「…さて、集まったな」
物置小屋でこそっと着替えた華苗と外でささった着替えた柊は、その緑のオブジェの前でどっしりと構える楠の元へと集まった。一体いつから畑にいたのかは定かではないが、楠の家はここからかなり近いらしいので、華苗たちよりも早い時間にやってきていたのは間違いない。
「きちんとぐっすり眠れたかねェ? これから暑くなってくるし、疲れているなら無理せず休むんだよ。水分補給も忘れないようにするさね」
そして、おじいちゃんもいた。今日は黒い甚平を着て、いつぞやの麦わらで作った麦わら帽子を被っている。そこから飛び出た白髪が朝日にきらきらと輝いており、本物の農家の人のように見えた。
おじいちゃんはたぶん、楠よりも早く学校に来ているのだろう。華苗の知っている限りでは、誰よりも早く学校に来て、誰よりも遅く帰っている。古家にずっと住み込んでいるといわれても何ら不思議はない。
「…わかっているとは思うが、今日はこいつの収穫だ」
【写真提供:谷川山(枯葉山)さん】
楠はその緑のオブジェに近寄る。そのオブジェは楠の身長よりも高く、てっぺんで淡い黄色の穂が揺れていた。葉は濃い緑で真ん中にわずかに白っぽい筋が入っている。ビッグになった笹とでも形容できる、幅の広めなしゅっとした葉っぱだ。
高い背の植物だが、そのメインはてっぺんではなく中ごろだ。緑のヴェールに包まれた筒状のものがそこにある。端っこからは茶色い糸のようなものが何本も縺れたように飛び出ており、楠はその根元をがっしりもってぐいっと手首をひねる。
ぼきっといい音がして、彼の手の中でそれが産声を上げた。
「…トウモロコシだ」
「よくできてますねぇ……」
見ての通り、これはトウモロコシである。
楠が皮を少し剥くと中から明るい黄色の粒が姿を現した。つやがあり、瑞々しく、生命の力に満ちている。一粒一粒がぷっくりとまるまる太っており、見ているだけできゅぅとお腹が鳴ってしまいそうだった。
「…どれだけ必要なんだ?」
「試作も含めていっぱい、ですね」
楠の問いに柊が答えた。
何を隠そう、今回トウモロコシを育ててくれと依頼したのは他ならぬ華苗たちである。正確に言えば華苗のクラス、ということになるのだろうか。
というのも、このトウモロコシは文化祭の出し物で使う予定なのだ。詳しくは今ここでは省くが、華苗たちのクラスは飲食店を出すことが決まっている。なるべく売り上げを多くしたい、また材料費を安く済ませたいと考えた華苗たちは、自分たちで賄えるものは賄ってしまおうという結論に至った。
すなわち、必要な野菜類は園芸部のものを使おうと決めたのである。
もちろん、華苗にとって否はない。華苗自身もこういった”高校生らしい”活動に非常に強い興味があったし、作物の一つや二つ、大した労力でもない。故に、クラス委員的存在である柊とともに、少し前に楠にお願いしたのである。
「華苗ちゃんとこも飲食店だったかね?」
「ええ。これの収穫が終われば大半の材料が揃うので、今度からよっちゃんたちが中心にメニューの試作をするんです」
「…ウチも飲食店だな。やっぱりここの野菜を使うことが決まっている。…というか、飲食店の大半がそうだ」
「どこも考えることは一緒なんですね。でも、僕たちならともかく、直接ここにつながりのないクラスはどうしてるんですか?」
「…基本、部活単位で繋がりがあるからまったくないってのはないんだ。そうでなくとも言ってくれれば分け与えるし、夏にあちこち配ってるから顔はわかっているだろう。…もちろん、使う分だけ相応の働きはしてもらうことになるが」
故に、八月の終わりから九月のはじめはいろんな人が園芸部の手伝いに来るらしい。聞くところによればクラスの役割分担の中に、買出班、調理班、接客班、内装班などに混じって収穫班とやらがあるそうだ。
「…おまえらのところは何を作るんだ?」
「内緒ですよ?」
「こればっかりは、いくら先輩でも教えられません」
華苗と柊は顔を見合わせて笑いあう。文化祭には当然のようにアンケートによる人気投票があるため、より上を目指すためにもライバルに情報を与えることはできないのだ。華苗たちは一年で経験もノウハウもないが、だからといって手を抜くつもりもない。
やれやれ、と麦わら帽子のつばを直した楠は持っていた籠にトウモロコシを放る。
「…収穫するのはもちろんだが、育てられない園芸部など話にならん」
「前も言ってましたよね、それ。暑くなる前に教えてくださいよ」
「……」
トウモロコシもやっぱり日当たりのよくて水はけのいい場所を好む。乾燥には弱いので、畑にじかに植えたとしてもこまめに水をやったほうがよい。とはいえ、過湿は過湿でダメなのでそこらへんのさじ加減も重要だ。
種をまくときは一つの箇所に三~四粒を植える。ヒマワリの時もそうだったが、これはそこだけ発芽しないという事態を防ぐためだ。
というのも、ある理由によりトウモロコシは複数をそこそこ纏めて植えないといけないのである。
植える幅は肩幅と同じかちょっと狭い程度。小指でぷすっと土を刺した程度の深さに播く。ちょっと深めだが、トウモロコシはこれくらいがちょうどいい。最後に軽く土を軽く固めて水をやれば問題ない。
なお、発芽を促すために播く日の前の晩に種を水に漬けておくとよいともされる。
播いた後はマルチとして麦わらを敷くといいだろう。その効果については今更確認するまでもないかもしれない。
温度を保ち、乾燥を防ぎ、雑草がはなくなり、土が流れることを防ぐ。意外と多機能で優秀なのだ。
「…この辺まではいつもと大して変わらんが、ここでちょっと注意がいる」
「と、いいますと?」
「トウモロコシは穀物だからねェ。せっかく植えた種を、鳥っこどもが啄んじまうのさ」
「うわ……鳥害ってやつですか」
鳥は割と穀物が好きである。トウモロコシもその例外でなく、なんらかの鳥害対策をしていないとせっかく植えたのにあっという間に荒らされてしまうのだ。方法はなんでもいいが、無難にネットでもかけておいたほうがよい。
とはいえ、一瞬で育ってしまう園島西高校の不思議な園芸部にはあまり関係ない。
種まきからおおよそ十日ほど経つと、ぴょこんと可愛らしい芽が出てくる。これがある程度成長し、薬指の先から手首くらいの長さになったら、もっとも元気な一つを残して残りのものを間引きする。
「はさみです?」
「…そうだ」
「八島さん、間引きってひっこぬくやつじゃないの?」
「この手のものはね、ひっこぬくと本命の根っこまで傷ついちゃうから、根元を切らないといけないの」
トウモロコシは根を深くまっすぐに張る。また、吸い上げも強い。例え幼少であっても根は丈夫なので、うかつにひっこ抜くわけにはいかない。
さて、そんなこんなで世話をしているとどんどんそれは大きくなっていく。種まきからおおよそ三十日もするころには葉も増えてくるため、マルチの役目も終わってしまい、撤去することになる。
このころにはそこそこ背も高くなってくるため、土寄せをすることもある。これはそのまま株の周りに土を寄せて倒れにくくするというものだ。もちろん、倒れにくくするのが目的なので支柱を添えてやってもいい。ただし、どちらの場合も根を傷つけないようにするのが重要だ。
「わき芽取りとかはあるんです?」
「…わき芽はあるが、行わない」
「華苗ちゃん、麦の時の分蘖を覚えているかい? トウモロコシの場合はそれがわき芽さ」
「ああ、なるほど」
「……全然話についていけない」
柊がしょぼんとしていた。
以前田所が言っていたが、柊はあのとき用事があって参加ができなかったのだ。いくら映画研究部のビデオでリアルな追体験ができたといえど、こうして会話の仲間外れにされるのはちょっぴり可哀想である。
そして、華苗にとってはそんな風にしょんぼりしている柊がとても新鮮だった。
「分蘖って根元から新しい芽が出る事なの。麦の時はこうすることで全体の収穫量が上がったんだ。麦もトウモロコシも同じイネ科だから、きっとそういうことだと思う」
「へぇ……。本来は取っちゃうものなの?」
「うん。そうやって無駄になるものは省いて本命に栄養をいきわたらせるの」
華苗はちょっと得意げになる。こうやって得意になれるのは残念ながら園芸くらいしかないのだ。が、そんな華苗のわずかな自尊心をぶち壊す鬼畜がいた。
「…トウモロコシの場合はその理由ではない」
「……えっ?」
「…分蘖によってより強く根が張って株が倒れにくくなる」
「……」
なんだか気恥ずかしくなって華苗は麦わら帽を深くかぶりなおした。
「柊くぅん……先輩がいじめる」
「ま、まぁまぁ……」
柊がぽんぽんと頭を叩いてくれた。それでよしとする。
さてさて、雨にも風にも病気にも負けずに育っていくと高い高いそれのてっぺんに淡い黄色のふさふさの穂が出てくる。麦と少し似た細かい粒粒みたいのが集まったもので、これが天を突く槍のように放射状に出来るのだ。
「…てっぺんのこいつを雄穂という」
「雄の穂と書いて雄穂さ。いわゆる雄蕊にあたるやつさね」
「ってことは、めしべにあたる……柊くん、雌って他に読み方あったっけ?」
「たぶん、雌雄の『し』で雌穂……かな?」
「そのとおりだ。トウモロコシの実の若いところがこれにあたる」
雄穂とはトウモロコシのてっぺんにあるあのふさふさである。トウモロコシの穂といえば真っ先にこれを思い浮かべる人が多いのではなかろうか。
対して雌穂とはトウモロコシの形をした、ふさふさを出すほうである。他の作物と違い、穂の場所がはっきり分かれているため間違える人はいないだろう。
「…本来、この雌穂は一番上の受粉させるものを除いて摘み取る」
「これも間引きってやつですか……なんだか勿体ないですね」
柊が少し残念そうにつぶやいた。この話をそのまま飲み込むのであるならば、一株のトウモロコシからは一つのトウモロコシしか収穫できないことになるからだ。
実際、あまりたくさんの実を付けさせると食べられる部分のほとんどない、貧相なものしかできなかったりするので、この処置はしょうがないものなのである。
だがしかし、他の作物ならともかく、トウモロコシに限って言えば勿体ないなんてことはない。
「それがねェ。この若いうちに採っちまうのがヤングコーンになるのさね」
名前通り、この間引いた若いものがヤングコーンである。熟成したトウモロコシとはまた違った味わいと食感であるため、全く無駄になってしまうことなんてないのだ。
茹でるなりしてサラダに入れるなり、焼いたり炒め物にしてもおいしい。工夫と発想次第で、いろんなものに使える優れものだ。
「でも楠先輩。僕の目には下までたくさんトウモロコシができているように見えるんですけれど……」
柊の言う通り、華苗たちの目の前には上から下までびっしりと実を付けたトウモロコシがずらっとどこまでも続いている。一つの株に軽く見積もっても五つ以上はあるだろう。しかも、どれもこれもが丸々と太っていて大地の恵みに満ちている。
「何言ってるの、柊くん。まごころこめたからこれくらいは普通だよ。うちは間引きなんてしなくてもおいしいのがいっぱい採れるの!」
「えええ……?」
「…こめたのはお前じゃないだろうに」
「細かいことはいいんです」
華苗はこういうときくらいしかない胸を張ることができない。不思議そうな柊をみて、すこしくらいお姉さんぶりたいと思ってもいいはずなのだ。いい加減華苗の常識は崩壊してきているのだが、そのことに突っ込める人間は今この畑にはいない。
さて、この雌穂は出来てしばらくすると先端からひょろひょろと糸みたいのを出す。薄い黄緑色をした、さらっとした手触りのいわゆるトウモロコシのひげと呼ばれるアレだ。トウモロコシはここに花粉が付着することで受粉するのである。
「人工授粉ですか?」
「それもできるけど面倒だねェ」
「…その手間を省くために、ある程度密集させて植えたんだ」
トウモロコシの花粉は虫や人の手ではなく、風によって受粉する。これを難しい言葉で風媒といい、この形態をもつ花は総じて目立たず地味なものが多い。派手になる必要がないからだ。
しかしながら、トウモロコシの授粉は他の株からの花粉によるものが多い。おそらく物理的に、てっぺんのものが風で真下に運ばれることが少ないからだろう。そのため事前にある程度密集させて植えることで受粉の確立を上げるのだ。
ちなみに、このとき植えるものは確実に同種のものにしないといけない。例えば飼料用のトウモロコシと甘味の強いトウモロコシが交雑してしまうと、互いのいいところがすっかりなくなったトウモロコシが出来てしまうのだ。
もしも別用途のトウモロコシも育てるのであれば、それぞれ植える場所は十分に離しておかないと後で後悔することになるだろう。
無事に授粉して一か月もしないうちにはひげが茶色くなる。これは収穫の合図であり、いけそうなものから皮を少し剥いて中身を確かめる。
黄色くまるまるとした粒がみっしり入っていれば収穫期ドンピシャだ。そうでなかった場合は見なかったことにしてそっと皮を戻してやろう。
割と収穫時期は短いのでこのくらいになったら注意を怠らないようにしたい。
「…そしてここに至る」
楠が手の中にあるトウモロコシをこれでもかと華苗たちに見せつけた。黄金の赤子が太陽の光に輝き、緑のゆりかごの中で元気な産声を上げている。
これが出来損ないだというのなら、世の中の野菜は全部豚の餌である。そう思えてしまうほどに良い出来の、実に立派なトウモロコシだ。
「…狩るぞ」
「うぃっす」
「物騒な……」
ひきつった笑みの柊ににっこり笑い返して、華苗はさりげなく彼の手を引きながら畑へと入った。自分一人じゃとてもこの聳えるトウモロコシに太刀打ちできないが、頼れる彼がいれば言わずとも目の前を切り開いていってくれる。
「根元をもって、ぽきっとやっちゃって!」
「よいしょ……っと」
柊がくっと軽く手首をひねるとそれはいとも簡単にもげた。身がしまりすぎていて自重に耐えきれなかったようである。華苗も軍手越しにその柔らかい緑のヴェールを感じ取り、小さな手を精一杯に使って収穫する。
小気味の良い音とともに、黄金の延べ棒が誕生した。
「籠、僕が持とうか?」
「ありがと!」
二人で仲良くどんどんと収穫していく。下のほうにあるのは華苗が、上のほうにあるのは柊の担当だ。根元のほうを優しく丁寧に手で包み、えいやと一息でもぐだけなので簡単である。
どれもこれもが出来の良いものでたちまちのうちに籠がずっしりと重くなるが、そのたびに柊が気を回してリヤカーまで持っていってくれるので大変ありがたい。頼りになる、とはこういうことを言うのだろう。
「いっぱい採れそうだね」
「これだけあればよっちゃんたちも満足するかな」
二人だけでもうかなりの量を収穫した。ふと後ろを振り返ってみると、華苗たちが収穫した場所はトウモロコシが倒れており、まるでミステリーサークルを突き進んだかのような様相になっている。あっちのほうで動く大柄な影と、見えないけれど向こうにあるおじいちゃんの気配と合流すれば、ちょっとしたアートが完成するかもしれない。
「おや、合流だ」
「…一通り採れたみたいだな」
なんて思っていたら本当にトウモロコシをかき分けて二人が出てきた。楠は雄穂よりも背が高いから近づくのも容易にわかるが、おじいちゃんは雄穂よりも小さいし足音もあまり立てないからちょっとわかりづらい。
日も少しだけ昇ってきて畑は少しだけ暑くなってきている。これだけ早く終わらせられたのは僥倖と言えるだろう。
「そういえば、どうしてこんなに朝早くに収穫したんですか? いつもはもっと遅いじゃないですか」
「…早朝に採ったもののほうが甘いんだ」
「ちょっとの手間でおいしくなるなら、それを惜しむべきではないからねェ。朝の涼しい時間なら作業も楽さ」
トウモロコシは早朝に採ったもののほうが甘くておいしいことが知られている。もちろん種類や気候にもよるが、大半はそうであると考えていいだろう。せっかくここまで手間暇かけて育てたのだから、最高の状態で収穫したいと考えるのは当然のことである。
なお、収穫した後はどんどん甘さが抜けていってしまう。そのため、さっさと茹でるなりして火を通すか、冷暗所に保存しないとならない。
「じゃ、今はまだ食べられないんですか?」
「…生でもいけなくはないが、ゆでたほうがうまいだろ?」
その言葉には華苗も頷かざるを得ない。大地の恵みをそのまま感じるのも素晴らしいが、なんだかんだで調理したものもおいしいのだ。
「…それに、おまえらは文化祭のための収穫だろうが、俺には別の目的がある」
「目的、ですか?」
「…あやめさんとひぎりさんの飯だ」
麦と同じようにトウモロコシには様々な利用法がある、普通に調理して食べるのはもちろん、ポップコーンやお酒になったり、油を取ったり粉にして使ったりもする。
中でも飼料としての利用価値は大きく、鶏の好物でもある。卵を産む鶏に対する配合飼料の半分がトウモロコシといえば、その重要性と栄養バランスの良さを分かってもらえるだろうか。
「…いつも頑張って卵を産んで下さるからな。たまにはちゃんとしたものを召し上がってもらいたい」
と、いうわけでここで華苗たちは分かれて行動することになった。楠とおじいちゃんは収穫したそれを卸に調理室へ、そして華苗と柊はあやめさんとひぎりさんに採れたての早摘みトウモロコシを召し上がっていただくために鶏小屋へと赴く。
この園芸部の中で一番偉いのはあやめさんとひぎりさんのお二人なのだ。その好物を収穫したのだから、真っ先にお二人に召し上がって頂くというのが筋というものだろう。
「僕、初めてここに入るな」
「そういえば、ほかに入ったのはおじいちゃんくらいかな」
トウモロコシのたくさん入った籠を小脇に抱えて華苗たちは鶏小屋の扉を開けた。日光がふんだんに取り入れられたそこはかなり明るい印象があり、また、毎日華苗と楠が丁寧に掃除しているから清潔感にあふれている。
もとよりあやめさんもひぎりさんもきれい好きな方々なので、そんじょそこらの鶏小屋とは比べ物にならないほど、どこか高貴で清らかな空気に満ちていた。
「あやめさん、ひぎりさん、ご飯ですよ」
プリティーでエクセレントなダイナマイトワガママボディをゆっさゆっさと揺らしながら、あやめさんとひぎりさんのお二人は華苗の長靴を労うようにこつこつとくちばしで突かれる。こっこっこ、と鳴かれながら、ふりふりと可愛らしいお尻を振っていた。
華苗は籠からトウモロコシを一つ取り、皮を丁寧に向いて一粒一粒トウモロコシをほぐしていく。彼女らの口は小さいから、きちんと食べられるようにしなくてはならないのだ。
「キャンプの時も思ったけど、賢い鶏だよね……」
「だって、あやめさんとひぎりさんだもん」
柊が裏手のつるべ井戸から水を汲んできた。当然のことながら、部外者であり初めて入る柊は井戸の存在など知っているはずもなかったのだが、手持ち無沙汰な彼にあやめさんがたは慈悲深くもお仕事を与えて下さったのである。
それも、自ら彼の靴を突かれて井戸まで案内されたのだというからすごい。
「掃除……する必要もなさそうだね」
「たぶん、朝に楠先輩が軽くやったんだと思う。お水も代えたんだろうけど、暑いから全部飲んじゃったみたい」
柊も華苗の隣にしゃがみ込んでトウモロコシの処理に入った。ひぎりさんが彼の近くにお越しになり、畏れ多くもトウモロコシの緑の皮を手本を見せつけるようにしてくちばしで剥かれていた。
こっこっこ──
「ど、どうもありがとう」
これくらい楽勝よ、と言わんばかりにワガママボディをゆっさゆっさと揺らされる。彼女らの協力もあり、あっという間に餌皿には黄色い恵みが盛り付けられた。
こっこっこ──
あやめさんとひぎりさんは優雅にお尻を振られながらそれを啄む。やっぱり採れたての一級品は格別なのか、いつもより召し上がるスピードが速い。つつい、つついと小刻みに軽快なリズムで啄まれる様子を見ていると華苗としてもうれしくなってくる。
「よく食べるねぇ……」
柊がつぶやいた瞬間、二人ともがあなたも食べる? と言わんばかりに器用にくわえたトウモロコシを突き出してきた。
「……気持ちだけ受け取っておきます」
「柊くん、結構気に入られているみたいだね」
あやめさんとひぎりさんは受けた恩は絶対に返す方だ。彼女らは柊がキャンプ中に華苗を助けたことをきちんと覚えているのである。そうでなければ、こうも気安く他人に接することなどありえない。
おそらく、柊が今の柊であり続ける限り、彼女らは彼女らの全力をもって彼を助け続けるだろう。園芸部ヒエラルキーの頂点の力は華苗ですら未だにわからないのだ。
こっこっこ──
「あ、卵持っていっていいって」
十分に食事を楽しんだお二人はやっぱりゆっさゆっさと体を揺らしながら外に遊びに行かれた。出るときにこれはお礼よ、と言わんばかりにお尻を振ったのを華苗は見逃さない。
「卵って、どこ?」
「そこのわらの中」
柊は華苗が指を指したそこを慎重に漁る。そして、ぴしっと固まってしまった。
「……」
「どうしたの?」
「……あはは」
ちょちょいと手招きされたのに身を任せ、華苗は彼の隣からひょこっと首を突っ込んだ。
「わぁ! すっごいいっぱい! 今までで一番かも!」
「いっぱいってレベルじゃないでしょう……!?」
そこには、軽く見積もっただけで五十個以上の卵が悠然と、されど貫録と威厳をもって鎮座していた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「…それで来るのが遅かったのか」
「まぁ、私らも準備があったし問題ないさね」
結局、籠をいくつか用意して卵を調理室へと持っていったために、華苗たちは予定をいくらかオーバーして待ち合わせ場所へと到着した。
そこにはすでに大鍋を用意した楠とおじいちゃんがおり、合図の一つを出せばすぐにでも調理ができるほど準備が整っている。
当然のごとく今からそのトウモロコシの調理を始めるのだが、意外なことにここは調理室ではない。
「おお! 今日はトウモロコシかね! 朝早くから精が出るね!」
「うっまそうだなぁ……なぁ、先生にもくれるんだよな?」
「名前だけとはいえ顧問だし、先生は食べる義務があると思うの」
「華苗。克哉。先生はお前たちの担任だよな? ……信じてるぞ?」
ずずい、と周りを取り囲んでいるのは教頭、荒根、深空先生にゆきちゃんだ。もちろん、このメンツをみれば簡単にわかるがここは職員室である。枝豆の時にも使った、教師用の休憩スペースだ。
どうやら朝のミーティングが終わった直後らしく、まだ結構な人数の先生方がちらちらとこちらをうかがっている。
そりゃあ、トウモロコシを山ほど抱えた生徒が意味ありげな大鍋をもっているのだから気にならないはずがないのだが、華苗としてはもうちょっとこう、子供がおやつを待ち構えるかのようなキラキラした瞳はどうにかするべきだと思う。
「今更ですけど、ここ、借りてもいいですかねェ?」
「もちろんだとも!」
教頭先生が気持ちよく許可をくれた。本当に今更だが、まだ朝も早く集まっている部活も少ないことから、今日は職員室に採れたてのトウモロコシを差し入れすることになったのである。
「何か私たちに手伝えることはあるかね?」
「いや、そんな七面倒なことをするつもりはないさね」
おじいちゃんは大鍋に水を張った。そしてトウモロコシの皮を素早くむき、ちゃぽんと水につける。華苗たちもそれを見てトウモロコシの皮を剥き、そしてやっぱり鍋に入れた。
「…シンプルに茹でようかと」
大きな鍋だけど、水はトウモロコシが隠れるかどうかくらいだ。楠は中でしっかりトウモロコシが水につかっているのを確認すると、コンロのつまみを回して強火の炎を出す。一瞬、ガスの匂いが華苗の鼻を突いた。
「なぁ、塩は入れないのか?」
「後で漬けたほうがうまくいくのさね」
不思議そうに首をかしげる荒根をよそに、おじいちゃんは調理室から借り受けたのであろうトレーに水を張り、そこに目分量で塩を振り入れた。
なんでも塩水で茹でるよりかは茹で上がったものに塩水を染みらせるほうが、よりおいしく仕上げることができるらしい。
「茹でるときは必ず水から。塩は後でなじませる。そして皮は直前に剥く……っていうのがおいしいトウモロコシの秘訣さ」
薄く水を張ったとはいえ、大鍋だ。じりじりと水が温まった音か少しだけ聞こえるが、未だに沸騰する気配はない。この妙に待たされる時間は華苗にとってはかなりの苦痛である。
「そういえばゆきちゃん、今日はエプロン姿なんですね」
ふと、気になったことを華苗は口に出した。今日のゆきちゃんはいつぞや見た黄色いエプロンをつけている。調理部・お菓子部の顧問とはいえ、食べる専門のゆきちゃんなのに、だ。
しかも、考えてみればこんな朝っぱらからである。いつもは昼か午後の遅い時間に摘みに来ることが多いとよっちゃんが言っていたのを、華苗ははっきりと覚えている。
「先生だってまじめに顧問しているんだ、当然だろ?」
「食べるだけじゃなく?」
「こないだカレーパン作ったな。にくじゃがもやったし、昨日なんてスコッチエッグを作っちゃったぞ」
「ゆきちゃんが!?」
「失礼だなぁ……。というか、先生をつけなさい、先生を」
あのゆきちゃんが、調理部が作ったものをタッパーに入れて夕飯にするゆきちゃんが、にくじゃがなんて家庭的なものに、スコッチエッグなんてオシャレのものを作ったというのだ。これを驚かずになにを驚けというのだろう。
「最近のユキ、すごいのよ。料理もお菓子もどんどん覚えているし、おやつをお披露目したりもするの。……しかも、すっごくおいしい。ゼリーなんて買ってきたものじゃないかって疑ったわ」
真剣に話す深空先生を見る限り、どうやらゆきちゃんは本気で料理の勉強をしているらしい。華苗は熱中症で頭がやられたのかとすら思えた。
「な、なにがあなたをそこまで……」
「料理の一つや二つ、出来て当然だろう?」
「……本当は花嫁修業のつもりなんだよねェ?」
「「な゛っ!?」」
おじいちゃんの言葉に華苗と柊が驚愕の声を上げた。しかも恐ろしいことに、ゆきちゃんが頬を赤らめて照れているではないか。華苗の中では一応はクール系の頼れる残念美人だったのに、これではまるで恋する妙齢の乙女である。
「いや……その……そうとれなくもない、かな?」
「ゆきちゃん! 目を覚ましてください!」
「相手は誰です!? そんな都合のいい現実あるわけないですよ!」
「おまえら! そろそろ本気で怒るぞ!?」
本気だったらしい。華苗と柊に細い綺麗な指のでこピンが放たれる。ゆきちゃんはぷりぷり怒りながらちょっと変わったデザインの眼鏡のブリッジをくいっと中指で押し上げた。
「ほら、セインってのがいただろう? 藤枝先生とあいつが文通を始めてねェ。そのときからこんなかんじなのさ」
「お姫様抱っこの騎士っぽい人かぁ……!」
「でも、どうしておじいさんがそのことを知っているんです?」
「手紙を届けているのが私だからさ」
例の秘密の自然保護区域は携帯電話はおろか、ネットもつながらなければポストやそれに類する通信手段の一切がないらしい。故に、その管轄をしている管理者と知り合いであるおじいちゃんが手紙のやり取りの媒介をしているそうだ。
「もうね、好みのドンピシャだった。文面は丁寧だし、ウィットもある。まじめな性格だけど、情熱的でおちゃめなところもある。それに先生、熊の時に眼鏡どっかやっちゃっただろ? あのあとセインさんが昔使ってた眼鏡くれたんだけど、偶然にも先生にぴったり合うんだ。これって運命じゃないか!?」
ちょっと変わっていると思ったらあっちのデザインらしい。でも、たまたま同じくらい目が悪かったってだけで運命扱いするのはどうかと華苗は思う。
「本当は合うのは当然なんだが……ごほん。ともかく、すっかりホの字の藤枝先生はやつの好物であるゼリーづくりを始め、そして胃袋からつかむために料理の腕を磨いてるってわけさ」
三十路に近い人が運命云々を言うのはちょっとどうかと思えるが、華苗としても料理の一つや二つくらいはきちんと出来るようになっておきたいところである。
普通に作れることは作れるのだが、園島西高校の生徒は最高クラスの腕を持った生徒が最高クラスの素材を使って作る料理を食べなれているため、舌がかなり肥えてしまっているのだ。
近い未来に標的の胃袋を掴むためには、華苗もうかうかしてはいられない。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。鍋の泡が少しずつ大きくなってきている。
「まぁ、藤枝先生はいいとして……。なぁ神家、キャンプの時の燻製ってまた作ってもらえたりしないか? 先生、あの味が恋しくて居酒屋はしごしてるんだけど、全然いいのが見つからないんだ」
「私も荒根先生と一緒に探してるんだが、とうとう妻と娘に怒られてしまってね……」
自業自得じゃないかと華苗は突っ込みを入れたい衝動にかられた。確かにおいしかったけれど居酒屋をはしごするのはダメ人間みたいだ。
「すぐには用意できないさね。……代わりと言っちゃなんですが、今日をこいつを持ってきました」
おじいちゃんがすっと何かを差し出した。華苗にはとてもよく見覚えるのある、緑の長くて立派な野菜だ。
「キュウリですか?」
「ああ、さっき畑でうまそうなのがこんなにあってね」
こんなに、と見せられたが園芸部的には普通である。確かに立派なものでおいしそうではあるが、どれもこれもがそうだから比較対象にならないのだ。
あえて言えば、おじいちゃんが持つと絵になることくらいだろうか。なんか、キュウリに妙な貫録がある。
「キュウリがどうしてお酒の肴の代わりになるんです?」
「こいつはタダのキュウリじゃない。一本漬けさ」
「「ッ!?」」
荒根と教頭、そしてゆきちゃんに深空先生までが息をのんだ。その視線はキュウリに釘付けになっており、だれかがごくりとのどを鳴らしたのが華苗たち生徒の耳に入る。
「つ……作っていたというのかね!?」
「キュウリっていったらこれだからねェ。それに……欲しかったんでしょう?」
キュウリの一本漬け。
高校生の華苗たちには知る由もないが、それは居酒屋における鉄板である。そのものずばりキュウリをまるごと一本漬けただけのものなのだが、これが恐ろしくお酒にあい、止まらなくなってしまうのだ。お酒の好きなこの四人が、これに食いつかないはずがない。
「とりあえず、トウモロコシもありますし、スライスしたのをちょっとだけ……。ああ、お土産に丸ごと一本つけたのを渡しますから、そんな悲しそうな顔しないでくださいな」
スライスしたそれをおじいちゃんが平皿に盛り付けた。どこで見繕ってきたのか、爪楊枝までつけて準備万端である。
薄くスライスされたそれは綺麗な緑色をおしげもなくさらけだし、そして早く食べてと誘うように華苗たちの目の前に横たわっている。となれば、一息に食べてあげるのが礼儀ってものだろう。
「──あ、おいし」
こりっ、ぽりっとした食感。ちょっぴり辛くてちょっぴり酸っぱい。キュウリのみずみずしさはそのままに、どことなく喉が渇くような感じ。
これだけでご飯二杯は楽勝で食べられるだろう。すっきりさっぱりしているし、夏のおともにはぴったりだ。
「「……!!」
「ねぇ柊くん、おいしいけどさ、あそこまで感激するほどかな?」
「さぁ……。僕たちも二十歳になったらわかるかも」
「じゃ、その時は一緒に食べようね」
「うん。あと燻製も塩焼きもあるし、今から楽しみだよ」
大人たちは感動に打ち震え、そして一心不乱に爪楊枝を動かしている。ひょいぱく、ひょいぱくとほぼノータイムでのストロークだ。あんなに食べていてはあっという間に喉がひりついてしまいそうである。
「……」
「……」
と、思っていたら荒根が無言で立ち上がり、麦茶を冷蔵庫から持ってくる。同時に深空先生が人数分のコップを手早く配置した。
ちらっと見えたが、冷蔵庫にはわが園芸部の麦を使った麦茶とわずかばかりの梅ジュースで埋め尽くされており、誰かが麦茶の量産体制を敷いているのは疑いようがなかった。
「……ああ、この麦茶が酒であったのなら」
「…荒根先生、校内でその発言はいかがなものかと」
ぐつぐつ、ぐつぐつ。トウモロコシの鍋は沸騰している。ここまでくればあとちょっとだろう。湯気がもうもうと立ち上がる様に、何かを予感せずにはいられない。
「一応試作品としてこいつも持ってきたんですが……」
おじいちゃんが苦笑いを浮かべながら小さなお皿をどこからか取り出した。その行為はまさしく飢えるオオカミの群れの前に子羊をぶら下げるようなものである。
「そいつは……!」
「なんか、きれいですね!」
ぷるぷるとした、薄緑色の何かだ。直方体で、なんとなく和菓子みたいな感じがする。いっそ作り物と見間違えてしまうほど無機質な印象を抱いてしまうかもしれないが、そこから香る深い緑の香りが胸を満たすと、優しい印象を受けるから不思議なものだ。
「翡翠豆腐……だと……!?」
「藤枝先生ががんばっていると聞いたのでねェ。園芸部の枝豆と、その大豆を使った豆腐で作ってみたんだ」
翡翠豆腐とは、文字通り翡翠のように碧い色をした豆腐の事である。別に緑色でぷるぷるしていれば豆腐でなくともこう呼ばれるが、ともかくなんか緑で豆腐っぽければ翡翠豆腐だと思っていい。
今回おじいちゃんがつくったのはペースト状にした枝豆と豆腐を合わせたものだ。枝豆の香りとふくよかな甘味が豆腐と組み合わさり、好きな人には堪らないものとなっている。もとより同じ大豆であるそれらの相性が悪いはずもなく、これもまた涼しげで食べやすいので夏のご馳走と言えるものだ。
やっぱり居酒屋でお目にかかることのできるものである。いや、もしかしたら料亭で見ることのほうが多いのかもしれない。
「最近、置いてあるところを見ないのだよ……!」
「なんちゃってもどきに何度騙されたことか……!」
教頭と荒根の目がガチである。
今更確認するまでもないが、おじいちゃんは基本的に器用であり、だいたいのことはその道の人と同じくらいの成果を出すことができる。和食に至っては日本文化なので、その実力はとても言葉で表すことはできないだろう。青梅でさえ、和食に限ってはおじいちゃんに負けるといっているのだから。
「あら、これはユキのためのものなんですよ?」
深空先生が飢える野獣からそれをしっかりとガードする。教頭たちの悔しそうな声を聴きながら、ちゃっかり一口おこぼれをもらおうとしているあたり、強かだ。
華苗たちの分もないから、二人で食べることにしたらしい。元より、華苗たちには先生たちほどの執着はない。
もし五年後の華苗と柊がこの光景を見ていたら、例え恩師であろうと牙を剥いていただろう。
「…あんな大人にはなりたくないな」
「ですねぇ……」
「あ、トウモロコシいい感じじゃないですか?」
「おっと、メインを忘れちゃいけないねェ」
うっとりと翡翠豆腐を頬張る三十路二人組を放っておいて、生徒はトウモロコシを鍋から取り出し軽く塩水を染みらせる。
トレーで軽くころがし、少しなじませる程度だ。華苗もこのやり方は初めてであったが、そんな初心者の華苗からしても、なかなかおいしそうに仕上がったのが見て取れた。
黄色はさらにつよくなり、艶も一段と増している。まるで小金の粒がついているんじゃないかと思えるほどであり、仄かに甘いトウモロコシ独特の香りがふわっとあたりに漂った。
食べなくても、わかる。これは絶対においしい。
「……おお、トウモロコシが茹で上がったようだぞ!」
「くいっぱぐれるわけにはいかないな!」
華苗たちの手には今も湯気をもうもうと出している金の延べ棒がある。このぎりぎり触っていられるかいられないかくらいの熱さがすごくいい。
粒の一つ一つがきれいにまっすぐ並んでいて、不揃いなところなんて全然ない。幾何学的とも、芸術的ともいえるような配列だ。
まるまる一本を贅沢にそのまま茹でたそれは見た目以上にずっしりと重く、まだかじってすらいないのにほわんとどことなく甘い香りを放っている。
「…いただきます」
「いただきます!」
華苗はリスのようにそれに口を付けた。
「…………うわぁ!」
甘い。すっごい甘い。
玉ねぎともカボチャとも違う、トウモロコシの甘さががしっと華苗の心臓をわしづかみにしてくる。
とても瑞々しく、いっそ果物と言われても違和感がない。いや、下手したらそこらのスーパーで売っている安物の果物よりも糖度が高いのではないかとすら思えるものだ。
舌に触れるトウモロコシの粒はどれもこれもがしっかりとその存在を主張しており、一粒一粒のぷりっとした歯ごたえがしっかり全部伝わってくる。両手をそうっと回しながら粒の間に歯をあてがうと、これまた面白いように口の中にステキな甘さが広がり、華苗の頭をぽうっと夢心地にさせていた。
「…上出来だ」
「やっぱり早摘みはおいしいねェ」
表面のわずかな塩気がいい塩梅にトウモロコシの甘さを引き立てている。まるでそのままコーンポタージュを飲んでいるかのようだ。ともすれば喉が焼け付くほど甘いが、なのに全然しつこくない。自然の甘さだけが、野菜の甘さだけがぎゅっと詰まっている。
甘い香りがすぅっと鼻に抜けていき、その後味がなんとも心地よい。早く次を、と脳が体をせかすが、おいしさに打ちひしがれて体がうまく動かない。結構素早く食べているつもりなのに、すっごくもどかしい。
一列食べ終わり、ふぅと一息を突く。一粒一粒のなんて愛おしいことかと、華苗はそう思わずにいられない。
「丸ごと一個とか、すっげぇ贅沢。しかもこんなにもうまい……!」
「おやつに出ても、いっつも半分こだったっけなぁ……」
荒根は豪快にそれをむさぼっている。働き盛りの男だからだろうか、華苗の倍以上の回転数でトウモロコシを回しており、意外にもきれいに端からその粒を胃の中へと放り込んでいた。教頭も丁寧に食べているようで、指の先しか汚していない。トウモロコシを食べるのは華苗はちょっと下手なので、こういうのには憧れる。
「……」
「……なんでみんなきれいに食べられるのかなぁ?」
ちらっと隣を見た。柊は苦手な人……というか、とんでもなくヘタクソだ。粒を取ってるんじゃなくて、芯についている粒をそのまま潰してしまっている。
トウモロコシは食べにくいので、そうなってしまうのも無理はない。華苗だって中学生になるまでは全部おとうさんに取ってもらっていたのだから。
「こう、コーンの隙間に歯を入れて……」
ちょっと恥ずかしいけど実演してあげる。だがしかし、見て覚えられるくらいなら困ることなんてないのだ。柊は言われたとおりにやってはみたものの、やっぱりうまくできずに粒の根元が芯にしっかりと残ってしまっていた。
「おいしいんだけど、なんかちょっと悔しいな。やっぱり男として、こういうのはかぶりつきたいじゃないか。絶対、ちまちま食べるよりもかじりついたほうがおいしいんだよなぁ……」
「無理せず取って食べたらいいさね」
「でも、これ全部取るのはちょっと……」
「コツがあるのさ」
おじいちゃんは茹で上がっているトウモロコシをひょいと手に取り、それの二列分だけを指で一粒一粒取り出した。ちょうど、親指一本が入るくらいの幅が出来上がり、おじいちゃんはその列のすぐ隣の粒の上に親指を乗せる。
「こうやってあてがってから、内側のほうに粒を倒すのさ」
「おお……!?」
ぺりっと空いてる列のほうへ粒を倒すと、魔法にかかったかのように粒が取れる。一回、二回と指を動かしたときにはすでに一列分のコーンが取れており、ここまで三秒もかかっていない。
「こんなに簡単に取れるんですね……!」
「私らは丸ごと食べることのほうが多いし、料理でも最近は缶詰のコーンを使うことが多いからねェ。知らないってのも無理はないさ」
こうやってきれいに取り外したコーンはスープに使ったり、サラダやグラタンに入れたりするそうだ。冷やして保存しておけば割といろんなことに使えるので便利だそうである。ちなみに、最近ではトウモロコシの粒を取るためだけの器具もあるらしい。
「ふう、ごちそうさま!」
そして華苗は最後の一列を食べ終わった。手元に残る芯はきれいに粒が取り除かれており、奇妙な達成感がある。柊のものは途中から明らかに見た目が変わっており、きれいなところとそうでないところの対比がなんともおもしろい。
「また食べたいなぁ……!」
「来ればいくらでも食べられるよ? というか、食べに来て! 柊くんのためなら、私、ちゃんと全部取ってあげるから!」
二人の口からはトウモロコシの甘い香りが漏れている。それがなんだかとってもおかしくって、華苗はふわりと微笑んだ。
とっても自然でとっても明るい、素晴らしい笑顔だったとそれを見ていた人なら言うだろう。
「……っ!?」
一瞬柊の顔が赤くなったが、それに華苗は気づかない。慌てて顔を背けた彼を、不思議そうに小首を傾げて見上げるだけだ。
「……そ、その時はよろしくお願いします」
「まかせて!」
「……なんだかんだで華苗も人のこと、言えないじゃないか」
「あらあら、ユキと違って華苗ちゃんはもっと純粋じゃない」
ほほえましいものを見る表情で──実際ほほえましいものを見ながら深空先生がぽつんと呟いた。その言葉を聞き取ることができたのは、そのほほえましいことになっている二人以外の人間である。
これぞ青春、とにっこり教頭が笑い、おじいちゃんもまたにこにことしていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「…どうでもいいですが……」
さて、やっぱりこんな空気なんて読む気のない楠が言葉を紡ぐ。彼は黙々と二本目のトウモロコシを平らげていたようで、手がさっきよりもいくらかべたついてしまっているようだった。
「…さっきから、ものすごい形相で見られています」
「「……えっ?」」
先生方が一斉に振り返る。すぐ目の前に、それらはいた。
「独り占めはよくありませんなぁ」
「朝からあんなにおいしそうに食べられると目の毒で……」
「私、トウモロコシって大好物なんですよぉ……!」
血走った瞳の先生方がずらりと華苗たちのほうを見ている。国語も数学も、物理も生物も英語も歴史も家庭科もみんな。その視線は未だ茹でられずに山積みとなったトウモロコシに注がれていた。
「……足りる、かねェ?」
「…下手したら一人三本でも食べてしまいかねませんね」
楠はすっと立ち上がり、そして籠を背負う。そして、なんとなく甘い世界にいる二人を容赦なく現実へと呼び戻した。
「…収穫しに行くぞ。ついてこい」
──その日の午後、よっちゃんたちはぷんすか怒る華苗からえんえんと楠に対する恨み言を聞かされたらしい。
20141129 誤字修正
20141220 誤字修正
20140221 誤字修正
20160416 文法、形式を含めた改稿。
20210122 写真追加。誤字修正など。
20210129 写真追加。
やっぱりさ、収穫だけじゃなくて食べたいじゃん? 尺の都合でどうしても調理まで回らないから、こうしてたまにものっすごく長くなるんだよね。収穫して餌やって食べただけで二万文字近いんだぜ……? すっきりまとめたいものですわ。
……ええ、あの写真が使いたかっただけですとも。だって、あんないいの見せられたら使いたくなるじゃん!キュウリもう終わってるけどさ! しょうがないじゃん! キュウリの一本漬けもすっごくおいしいし!
朝の学校ってなんかいいよね。昇降口開けに来る用務員さんとか先生と仲良くなれるよね。あの人気がない、外界から隔離された感じがすごく好き。母校はマジで木々に囲まれていたから敷地から外の様子がうかがえなかったんだよなぁ……。
我が家の猫の額ほどの畑に去年だか一昨年だかにトウモロコシを三本くらい植えたけど、いい塩梅になってきたところで近所の野良猫に荒らされた。それさえなければトウモロコシのちゃんとした自前の写真が載せられたのに……!
トウモロコシは保育園でも育ててた。先生が成長記録として高さ分の緑のテープを定期的に壁に貼っていたんだけど、それが自らの身長を超えてしまったとき、生まれて初めて挫折と屈辱を味わった。上のほうに貼っていたとはいえ、壁越えて天井にまで行くとか反則じゃん……!
トウモロコシ食べるの苦手。食み痕がぐしゅってなっちゃうの。きれいに食べられる人は天才だと思う。
文化祭はいずれまとめて。あったことをそのまま書くだけだから楽といえば楽だ。華苗ちゃんのモデルの象さんもこのとき作ったんだっけ。これ書いているのが夜だからか、なんだかすごく感傷的だ。ああ、なにもかもが懐かしい。気合を入れて書かねば。なんだろう、最近昔のことばっかり思い出すなぁ……。
忙しいんだけどな!
そして言ってるそばからあとがきがめっちゃ長くなった!




