4 朝餉
最近あさげって言葉きかなくなったね。
華苗が全力で着替えて調理室へ至る廊下の角を曲がった時、すでに楠は到着していた。
いつの間に着替えたのかはわからないが、いつもの麦わら帽子とオーバーオールではなく、制服である白いワイシャツの上から深緑のエプロンをつけ、オリエンタルな柄の青い三角巾……というか、バンダナを頭に巻いていた。
片手にはやっぱり先ほどの卵と、畑で採ってきたいくつかの野菜がある。きっちり五分で楠は完璧に準備していた。
「…遅いぞ。一分の遅刻だ」
「先輩が早すぎるんです!」
華苗だって限界を突破するかのように努力はしたのだが、せいぜい三十秒の短縮といったところだろうか。
そもそも畑と女子更衣室はだいぶ距離がある。楠がどこで着替えたのかは知らないが、女の子は着替えだって簡単にはできない。むしろ一分の遅刻であっても褒めていいくらいだと華苗は心の中であっかんべぇと舌を出す。
「…まぁいい。行くぞ」
華苗がぜぇぜぇと息を切らしているのを無視して楠はさっさと調理室へ入っていく。一瞬、鍵はどこからもちだしたのかという疑問が華苗の頭をよぎったが、すぐ考えるのをやめた。
どうせ楠のことだ。何をしたって驚くことはない。
「…そういえば、お前はここは初めてだったな」
我が物顔で調理室に入った楠は窓際の日当たりのよい調理台に陣取る。そして、当然のように包丁やらまな板やらを準備すると、塩や胡椒、油なんかの消耗品もとりだして調理をし始めた。
「ちょっと先輩! 勝手に使っちゃまずくないですか? これ、調理部のものですよ!」
「…いいんだ、別に。それよりお前も切るのを手伝ってくれ」
とんとんとん、と楠は流れるようにトマトを輪切りにしていく。どうやらサラダにするらしい。普通にうまいのがなんか悔しかった。
「…ああ、手は猫さんの手で。刃物だから、十分気をつけてな」
「それくらいわかってます!」
諦めて包丁を持ってトマトを切り始めた華苗に楠は心配そうに言う。確かに華苗は子供みたいな体形だが、中身まで子供というわけではない。台にちょっと身長が足りなくて踏み台を使っていたりしても、もう立派なぴちぴち女子高生なのだ。
それに、華苗は料理は割とするほうだ。一般高校生に比べれば十分に料理の経験はあると自負している。……楠には負けてしまうが。
「…ほぉ、意外とうまいな。えらいぞ」
「なにその初めてお手伝いした子供を見て褒める的なニュアンス」
もはや華苗の言葉には先輩への尊敬の念など込められていない。
楠はどこ吹く風だ。きっと彼の眼には背伸びした子供しか映っていないだろう。
尤も、華苗もすでに楠の性格についてはここしばらく一緒にいたので学んでいる。
軽口をたたきながらも、きちんと手は動かしていた。
「…そいつが出来たら、こいつを千切りにしといてくれ」
「……キャベツなんて、ありましたっけ?」
「…あったぞ。シーズンだし」
楠がとりだしたのは大きなキャベツだ。採れたてだからだろうか、葉っぱの一枚一枚が瑞々しく、触ると少しひんやりしている。
華苗はあの畑でキャベツは見なかったが、きっとどこかにあったんだろう。それにキャベツは春の野菜だ。楠の言うとおり、シーズンの、旬の野菜である。
シーズンだったらしょうがない。きっと華苗が見落としていただけなのだ。
華苗は黙ってキャベツの芯をとり、葉をべりっととって千切りにする。たたん、たたん、たたんと小気味よいリズミカルな音が調理室に響きわたった。
「ふふん♪」
「……」
ちょっと自慢げになってとなりを見たが、楠は機械のように正確に、一定のリズムで素早く真顔で千切りをしていた。華苗のちっぽけな自尊心などまったく興味ないらしい。
華苗よりも早く千切りを終わらせた楠は用意したボウルにあやめさんとひぎりさんが産んだ卵を割りいれる。トマトは握りつぶしてしまうことがあるくせに、なぜか卵は片手で優雅に割って見せた。
「……変なところで器用ですね」
「…そうか?」
華苗は手が小さいこともあり、片手では割れない。どうやら華苗が楠に料理で勝てる場所は何一つとしてないようだ。
「いい卵って、オレンジ色だと思うんですけど……黄色ですね」
「…オレンジであることがいい卵の条件ではない」
ボウルにはいった卵は黄色だった。華苗のイメージでは黄色い卵は少し古くなったあまりよくない卵だ。産みたての、それもあの園芸部の卵がよくない卵だとは到底思えなかった。
「…黄身の色は、食べたものによって変わってくる。一般の卵はオレンジがいいというイメージから餌を調整されてるんだ」
「へぇ」
楠が話したように、一般的に売られている鶏卵は餌を調整することであのオレンジ色を出している。言い方を変えれば、売れやすいようにわざわざ黄身の色を変えているのだ。
確かに黄色よりもオレンジ色の黄身のほうが新鮮でおいしいイメージがあるが、
別にオレンジだからといって黄色い黄身よりも品質がいいとは限らない。
「…卵の品質は色ではなく黄身の状態でみる。水っぽくなく、つやがあって広がらずに、丸くなって弾力のある黄身がいいものだ」
ボウルに落とされた黄身は激しく主張するかのようにまん丸い。ぷっくりと文字通り卵型に形を崩すことなくそこにあった。紛うことなき、いい卵である。当然といえば当然だ。
菜箸を取りだした楠はボウルの卵を溶きほぐす。ちゃっちゃっちゃっと菜箸通しがぶつかり合う音が少し続いた後、フライパンが火にかけられる。もちろん油も引かれていた。
いつの間にか小さめに切られていたトマトが投入されると、油のはぜる軽い音と共にフライパンの中でトマトが踊った。
ある程度いため、やはり勝手に持ち出した塩、胡椒で味をつけるころには、トマトもいい感じに軟らかくなってきていた。
「…こんなもんかな」
楠はタイミングを見計らい、溶いた卵をフライパンに流し込む。じゃぁじゃぁ、じゅぅじゅぅと特有の音がなった。少しフライパン振りながら、卵が半熟状になるまで炒め続ける。
「…できたぞ」
「わぁ」
華苗の目の前に、実においしそうな卵とトマトの炒めものがあった。
卵とトマトくらいしか使わず、作るのも簡単で時間もあまりかからないお手軽料理だ。優しい黄色と赤の対比がまたなんともいえない。トマトの卵のいいにおいが華苗の鼻をくすぐる。ぷるぷると卵が震えていて、ちゅるっとすっきり食べられてしまいそうだった。
フライパンを軽く振りながら皿に盛り付けた楠は次の料理に取り掛かる。
「…八島、おまえ、目玉焼きはいけるか?」
「大丈夫です」
かしゃんとフライパンの淵で卵を割る音。
「…おぉ。本当に今日は運がいいな」
「どうしたんです?」
華苗がフライパンを覗き込むと、割った卵の二つともに黄身が二つあった。いわゆる双子ちゃんだ。
「…さすがはあやめさんとひぎりさんの卵だ」
そのままじゅぅじゅぅと卵は熱されていく。華苗の家では白身が透明から白くなるあたりでお湯を少し入れるのだが、楠はそのまま蓋をしてしまった。
そうたいして時間もかからないうちに黄身の表面にうっすらと白い膜が出てくる。これで、目玉焼きの完成だ。実に朝らしいモーニングなチョイスだといえるだろう。
「…さっき切ったキャベツとトマトを盛り付けてくれ」
「はい!」
華苗は棚から二つ小鉢を取り出しできるだけ見た目がきれいになるように切ったキャベツとトマトを盛り付ける。楠は皿に崩さないよう、慎重に目玉焼きを移していた。
「まさか朝から調理室でこんなに豪華なものを食べられるなんて……!」
「…やってることはどこの家庭でも見られるものだ」
楠と華苗、というかほぼ楠が作ったのは三品。卵とトマトの炒めもの、双子の目玉焼き、トマトとキャベツのサラダだ。
健康に配慮した朝らしいメニューである。華苗も朝食は食べてきたのだが、容赦なく視覚で訴えてくる美味しさに、思わずきゅぅとお腹が鳴ってしまった。
ちらりと楠を見るが、聞こえたのか聞こえてないのか、いつもと同じ表情だ。聞いていたとしてもどうせ楠だからあまり問題はない。
「…じゃ、食うぞ。いただきます」
「いただきます!」
華苗が最初に手をつけたのは卵とトマトの炒めものだった。
箸でつまむと卵の部分がより一層プルプルと震えるのが分かる。落とさないよう慎重に口に運ぶと、トマト特有の酸味が遅れるようにしてふわっと卵の優しい甘味が口の中に広がった。
卵とトマトが見事に引き立てあい、お互いが潰しあうことなく見事に共存している。そしてするっと喉の奥へと落ちてしまった。
「おいしい、ですねぇ…!」
「…当然だ。あやめさんとひぎりさんの卵を使っているのだからな」
楠もせっせと箸を動かしている。なんだか妙に箸使いがきれいで決まっているのがやっぱりくやしい。米一粒でも楠なら簡単につまめるだろう。
つづいて華苗が手をつけたのは目玉焼きだ。白い海に浮かぶように寄り添って二つの黄色い島がある。ぱくんと白身に齧りついた華苗だったが、自分の舌が信じられなかった。
「白身ってこんなにおいしかったんですね……!」
「…あやめさんとひぎりさんの卵だからな。それに──」
あやめさんとひぎりさんは一般的な卵を産む鶏と決定的に違う点がある。
卵を産む鶏は狭い場所に管理され自由に運動できないのに対し、あやめさんとひぎりさんは自由に外で走り回っているのだ。
当然ストレスがたまることもない。いわば心も体も健康体であり、卵がおいしいのもそれが理由だと楠は考えている。
もちろん、決してそれだけがおいしい理由ではないのだろう。ただ、あの畑の野菜を食べ、一日にいくつもの卵を産み、そしてなにより楠に面倒をみさせているということで、あやめさんもひぎりさんも普通のめんどりではなくなっているのかもしれないのだ。
「…醤油、使うか?」
「醤油を使うなんてもったいなさすぎます!」
実は華苗はそんなに目玉焼きの白身は好きではない。なんだかあまり味がしないし、食感もちょっといやなのだ。別に食べられないというわけではないが、喜んで食べるようなものでもない。だいたいいつもソースの味でごまかして食べている。
ところが、この白身はおいしい。華苗の語彙ではうまく説明できないが、とにかくものすごくおいしいのだ。そのプルプルとした食感もよかった。
「…おまえ、ソースか?」
「普段はソースですけど、今日はストレートで」
「…そうか」
こんなおいしい目玉焼きにソースをかけるなんて卵を冒涜しているような気がした。ソースはいくらでもかけることが出来るが、まっさらな状態の目玉焼きは一度ソースをかけてしまったら味わえないのだ。
「えへへ……♪」
白身を堪能した華苗は黄身の攻略に取り掛かる。
ちょっとはしたない、というかあまり人前でやりたくないが一口で黄身を口に含んだ華苗は、ゆっくりとその小さな犬歯で黄身の表面の膜を突き破る。濃厚な、なんとも言えない味が口の中いっぱいに広がった。
丁寧に咀嚼すると喉の奥まで黄身があふれ出てくる。完璧な、理想的すぎる半熟だった。
甘くて濃厚で、とろっとしていて……これ以上は華苗の語彙では表現できない。
もにゅもにゅと口を動かし、最後に別れを惜しむようにごくんと飲み込む。口に入れてから飲み込むまで、最後まで完璧だった。
「…まごころ込めて育てた野菜。そしてそんな野菜を食べ、まごころ込めてお世話をさせていただいたあやめさんとひぎりさんの卵。自分で作ったものを、ちゃんと料理して食べるのもいいものだろう? これも、園芸部の醍醐味だ」
楠が格好良く話したが、華苗の耳には半分も入っていない。せっかくの言葉が無駄になったことに気付いた楠だったが、特にどうすることもせず黙々と目の前の園芸部の成果に箸を運ばせていた。
おいしい朝餉の前にして、すべてのことがどうてもよく感じてしまったのだ。
「…片づけは俺がやっておく。おまえははやく教室に行け」
「え、でも……」
十分に朝食(?)を堪能していた華苗だったが、気づけばもうすぐ朝のホームルームの時間だった。食べたのなら片付けもしなくてはいけないが、そんな時間はもうないだろう。
支度だってほとんど楠がやってくれた上、華苗はこれでも後輩なのだ。片付けくらいは全部自分でやる気でいたのだが、ちょっと厳しいと認めざるを得ない。
「…俺のところは朝始まるのがちょっと遅れる。一年のこの時期に遅刻をするといろいろと面倒臭いぞ」
確かにまだ学校が始まってそんなに日がたったわけではない。あのよっちゃんでさえ、遅刻ギリギリというだけで遅刻したことは何気に一度もなかったりするのだ。今遅刻すればブラックリスト入りは確定だろう。一度そういう印象を持たせてしまうと、それはなかなか払拭されないものである。
「…安心しろ、その分放課後働いてもらう」
「それは……」
安心、できるのだろうか。ともあれそう言ってくれる以上、その好意を無視することはできない。ありがとうございます、といって華苗は全速力で教室へと駆けだしていった。
「おはよう、華苗。どうだった~?」
「よ、よっちゃん……」
本日二度目の全力ダッシュに息を切らす華苗。めずらしくよっちゃんもまだ2分前だというのにすでに席についていた。いつもはだいたい30秒前だ。
「うぇっぷ。やっぱ無理するものじゃないね……」
「華苗ってばだらしないぞ!」
ふらふらになりながらもとりあえずイスに座る。ついつい忘れていたが、さっき軽くとはいえ食べたばかりなのだ。わき腹がジンジンと痛い。
「あれ、なんかいいにおいしてない?」
「あ、わかる?」
ひくひくと鼻をうごかすよっちゃん。華苗は先ほどまで調理室でおいしい物を食べていたとはいえ、そこまで香りの強い物ではない。よっちゃんの嗅覚は人並み以上にするどいようだった。
「さっきまでね、先輩と一緒に調理室で収穫したの食べたてたの」
「え~! い~なぁ~!」
よっちゃんは結構よく食べる。遅刻しかけるのだって、朝がっつり寝るくせに
ごはんをおかわりして食べていることが理由だ。朝はしっかり食べなきゃいけない主義らしい。
朝どころか昼だって早弁した上で購買にいっているのだからその食欲はすさまじいものだ。しかもそれでいてスタイルがいいのだから華苗はよっちゃんを羨ましく思っている。
華苗は食べても食べてもまったく変わらないというのに。縦も奥行きも。
「あたしだってさぁ、朝早くきてたんだよ?」
「え? 畑に来てくれたの」
「うんにゃ、畑の場所がわからなかった」
あっはっは、とよっちゃんは笑うが華苗はちょっときまずい。いつもギリギリまで寝ているよっちゃんがわざわざ朝早く来てくれたのに、結局無駄足になってしまったのだ。華苗は悪くないが、どうしてもそこらへんを意識してしまう。
「でもさぁ……」
「どしたの?」
唐突によっちゃんが笑うのをやめ、真剣な表情で華苗に向かう。いつもとは違うただならない表情に、思わず華苗は背筋を伸ばした。
きょろきょろと周りを見て、声を潜めてよっちゃんは話し出す。
「……あたしさ、この学校中を走り回ってくまなく探したつもりだったんだけど、どこにも畑、なかったのよね。いくらなんでも一時間探してみつからないっておかしくない?」
「え?」
「いやさ、華苗の話では校舎裏だったし、新観の後ふらついていたらはいっていたっていうから、そこらへん考えていろいろ探したけどなかったんだよね」
「そんなバカな」
からかっているのかと思った。だがよっちゃんの目は嘘を言っていない。
「部活紹介のパンフレット引っ張り出してみたけど畑の場所は書いてなくて、園芸部って名前が載ってるだけだった。この学校の見取り図も見たけど、学校の中と体育館への通路が載ってるだけで外までは載ってなかった」
「えっ、でも、たしかにわたしは畑に……」
「うん、華苗が畑に行っているのは本当だと思う。いつもなんか持ってきてくれるし、あの麦わら帽やジャージの汚れは本物だもん」
ただ、あたしは華苗が畑に行くところを見ていないとよっちゃんは続ける。部活があるのでよっちゃんとはいつも放課後すぐに別れるのだ。そのあと華苗が“どういうふうに畑へ行っているのか”まではよっちゃんは知らない。
「いずれにしろ、普通の園芸部でないことは、証明できたんじゃない? 秘密はわからなかったけどさ。ホントにキツネの仕業かもね?」
ぴしりと固まる華苗だがよっちゃんはけらけらと笑う。担任の先生が出席をとっていたが、それに華苗が気づくことはなかった。
20150413 文法、形式を含めた改稿。