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楠先輩の不思議な園芸部  作者: ひょうたんふくろう
楠先輩の不思議な園芸部
43/129

42 園島西高校サバイバルキャンプ・5


 こけこっこ、と大きな鳴き声が聞こえた。それに混じってかすかに人の話し声が聞こえる。


 おかあさんが起こしに来たのかと一瞬思ったが、それはないとすぐに華苗は思い直した。


 おかあさんの声はもっと子供っぽかったはずだ。おとうさんなら華苗が起きるずっと前に会社に行っている。


 はて、誰なのかと華苗は寝ぼける頭を精一杯に動かしつつ布団から這い出ようとして、身動きが取れないことに気づく。


 いや、正確に言えば動けないこともないのだが、まるでズタ袋に入れられたかのように手足が布団の外へと出ないのだ。ちなみに華苗はズタ袋に入った覚えもなければ、入れられるようなことをした覚えもない。


「華苗ちゃん、おはよ?」


「おはよう?」


 と、目の前に清水の顔が映ったところで華苗は今自分がどこにいるのかを思い出した。そう、自分はキャンプに来ていて寝袋の中にいるのだと。


「だいじょぶ? 出るの手伝ったげようか?」


「へーき」


 もぞもぞ動いて寝袋から這い出ると、すこしヒヤッとした空気が華苗の体を撫でた。ぷるりと震え、大きく伸びをする。朝の陽ざしがテント越しに注いてきていてすごく清々しい。これこそキャンプだ。


 こけっこっこ──


「朝が来ると本当に鳴くんだね」


「普段はあんまり鳴かないんだけどね」


 他愛ない話をしている間にちゃちゃっと着替えを済ませる。よっちゃんは寝相が悪いのか、寝袋を盛大に蹴飛ばして幸せそうな寝顔をしていた。誰かが見かねたのか、毛布が一枚お腹にかかってる。


「よっちゃん、起きて。もう朝だよ?」


「……あさ?」


「うん、朝」


「……じゃあまだ寝てていいじゃん」


「いや、ダメだから」


 友のために、華苗は心を鬼にして毛布を引っぺがした。ある意味予想通り、よっちゃんの寝間着がはだけてお腹がぺろんと出てしまっている。毛布を掛けてもらわなければ確実に冷やしていたことだろう。


「そういえばシャリィちゃんは?」


「私が起きるのよりもずっと早く起きてたみたい。よっちゃんに毛布かけて、もう外にいるみたいだよ?」


「……え? 早くない? まだ六時半くらいだよね?」


「ま、たしかに。でもどっちかっていうと私たちが遅いみたい。もう先輩たちいないでしょ? 気を効かせて寝かせてくれたみたい」


 テントの中には華苗と清水と二度寝に入ったよっちゃんしかいない。先輩たちの荷物はもう綺麗にまとめられている。だらしない格好をしているのはよっちゃんだけだ。


 やはり、テントの外の活気が結構ある気がする。華苗はもう一度身支度を整えてからテントの外へと出た。


 こけこっこ──


 こけこっこ──


「こけっこっこ──」


「ちょ、おまえすっげえ!」


「そうだろ? すげえだろ? さすが俺!」


 焚火の近くにバカが二人とあやめさんとひぎりさん。


 いや、バカと言ってはいけない。一瞬華苗も本物と間違えるくらいには彼のものまねはうまかった。というか、あやめさんとひぎりさんは鳴いていない。


 最初っから、全部彼の──演劇部の桂のものまねだったのだろう。芹口がそんな桂とあやめさん、ひぎりさんをデジカメで録画している。朝から実に楽しそうだ。


「こら、卵を拾うんじゃなかったのか!」


「へいへい、あんまり怒ると美しい顔が台無しだぜ?」


「減らず口叩く暇あるなら働けぇ!」


 桂の冗談に椿原が怒鳴った。やはり実に楽しそうである。これが高校生ってものなのだろう。


「あ、おはよう華苗ちゃん。ごめんね、バカがうるさくて」


「い、いえ。それより足、大丈夫なんですか?」


「うん、一晩寝たらもうばっちり。それよか、卵ってもらっていいんだよね?」


「あ、はい。あやめさんとひぎりさんに許可を貰えば」


 卵の所有権は他でもないあやめさんとひぎりさんにある。勝手に持っていったりしたらなにをされるかわからない。彼女たちは園芸部で一番偉い方たちなのだから。


 いつもは可愛らしい方たちだが、怒らせると怖いということくらいは華苗も知っている。


「ん、りょーかい。……にしても、ずいぶん産むんだね」


「食べてるものがいいからですかねぇ」


 意外と真面目に卵を拾い出した桂の手はすぐにいっぱいになってしまった。どこからか籠を持ち出してくるも、それもすぐに卵で埋まってしまう。もうこの段階で二十はあるだろう。草の陰に隠れているものはまだまだありそうだ。華苗もあそこらへんを通るときは気を付けなければなるまい。


「あとね、朝食なんだけどまともに用意できてないんだ。ほら、準備も大変だっていうか、昨日誰もそのこと考えてなかったんだよね」


「まぁ、確かに……。文明の利器の素晴らしさを再確認しましたもん。あれ、もしかして元から用意されていた食材もないとか?」


「いや、そっちのほうは早い時間にカミヤさんが来て補給してくれた。ゴミなんかも全部引き取ってくれたね。だから、牛乳くらいなら貰いに行けば飲める。でも、今からパンを焼くのも大変だし、飯盒で米を炊くのも大変だ。だから各自で果物食べたりゆで卵食べたり芋ふかしたりで済ましてくれって。その分昼と夜は豪勢にするって渚たちが言ってた」


 そういうことならばしょうがないのだろう。もともと華苗は朝はそこまで食べるほうでもないし、この状況でそんな贅沢を言ってはいられない。それに、働かざる者食うべからずだ。





「…おはよう」


「おっはよう!」


「おっす」


「おはよう、八島さん」


 川。昨日も訪れたきれいな川だ。とりあえず落ち着かなかった華苗はよっちゃんたちと一緒に顔を洗いに来たのだ。


 この川ならばきれいだし、おじいちゃんも男子がそっちで顔を洗っているとも

教えてくれた。そしてその言葉通り、楠、秋山に田所と柊がいる。


「ちょ、ちょっとあんまり見ないでくれる?」


「どしたの、史香?」


「いや……寝起きの顔見られんの嫌じゃない?」


「別に?」


 よっちゃんは気にせずじゃぶじゃぶと顔を洗った。華苗もそれに倣って手で川の水をすくう。


 パシャッと顔にひっかけるとそれは予想以上に冷たく、体がキリッと引き締まる思いがした。


「あー、青梅ちゃんたちがあっちいったのってそういうことだったのか」


「?」


「いやさ、オレと楠はもともと早起きのタイプだからさ、けっこー早めに起きていろいろ準備しておこうと思ったんだよ。したっけよぅ、一番に起きたと思ったらもう青梅ちゃんたち起きてんの」


「はぁ」


「で、オレ達見た瞬間ものっそい勢いで物陰に隠れて、後ろを向いていろと。それも大半の女子がだ」


「へぇ」


「で、当然のように起きていたじっちゃんが先導して喫茶店のほう連れてった。今から思えば、寝起きの顔さらすの嫌だったんだな」


「ま、女の子ですから。あっちのが洗面台もあったし都合がよかったんでしょう」


「でも、じっちゃんも男だぜ?」


「異性としては見られませんよ」


「…おまえたちは向こうじゃなくて良かったのか?」


「ちょっと恥ずかしいですけど、そこまででもないです」


「あたし、さりげなくこういうのにちょっと憧れてました!」


「……その選択肢を知らなかった」


 なんやかんやと話しながら身支度を整え、みんなで水をくむ。昨日仕掛けておいた罠も確認すると、何匹かがかかっているのがわかった。楠と秋山が罠を引き上げると、ぴちぴちと元気な魚が河原へと打ちあがる。


 全部で四匹。うれしくはあるが、ちょっと足りない。


「もうちっと欲しいな」


「…今から釣りますか?」


「昨日の感じだとあんま釣れないんだよな……。餌が合わないっぽい」


「田所、アンタなんかこうぱぱーっと魚獲る方法とか知らないの?」


「無茶いうなよ」


 聞いた話では昨日は素手で獲るのがメインだったらしいし、橘もこの場にはいない。さすがにこの時間に川に入ると風邪をひきそうだし、今はこれで我慢するしかないだろう。


 ちらりと横を見ると、柊がとても残念そうな顔をしている。華苗にはそれがなんだかとても可笑しく見えた。


「熊ちゃんたちがなんとかしてくれないかね?」


「熊ちゃん?」


「…空手道部長の榊田先輩だ。ほら、でっかい人がいただろう」


「あ、あの人ですか。でもどうして?」


「いや、熊ちゃんと中林と葦沢が朝練してんだよ、ここの下流で。すっげぇぞ、修行みたいだった」


「ああ……そういえばそんなことをするっていってたっけ」


「柊君はいいの? 合気道部だよね」


「自主練だから。それに、あの三人の練習に付き合ってたら体が持たないよ」


「今日はもっと気合入ってたぞ。昨日の組合のバルダスって人いたじゃん? あの人と勝負してたって証言が結構出てきてるんだけどよ、そのこと聞いたら『試合に勝って勝負に負けた』って三人ともが言うんだ」


「へぇ、部長たちに勝てたんだ。あの人すごいなぁ」


「ま、その辺はとにかくとして。川の中でやってたから、ついでに魚を獲っていてくれるといいなって思って」


「どうでしょうね、あの人たち集中すると周り見えなくなるし」


「だよなぁ」


 秋山は結構情報通なところがある。華苗はそんな話を聞いた覚えがない。というか、それは組合の人の仕事の邪魔にはならなかったのだろうか。


 とりあえずそれは置いとくとして、今は魚だ。四匹だと塩焼きにするのは難しいだろう。


 いや、塩焼きにするのは簡単なのだ。今の華苗ならナイフ一本あれば綺麗に捌けるし、火打石と火打ち金があれば火をつけることだってできる。


 だが、それをみんなの前で食べられるかと聞かれれば話は別だ。


 となると、上手く捌いてスープか何かにするのが妥当だろう。青梅ならきっとおいしいものを作ってくれるに違いない。


「なら、ちょっとその子たちあたしに貸して」


「うぉっ!?」


 いつのまにやら背後に少女の陰。サバイバルジャケットとサバイバルナイフを引っさげた、誰よりもサバイバルを楽しんでいる女子生徒──敦美さんだ。


「私?」


「と、僕ですか?」


「うん」


 敦美さんはなぜだか華苗と柊を指名してきた。華苗には特にこれと言って指名されるようなことをした覚えはないのだが、いったい何が敦美さんの琴線に触れたのだろうか。


「…構いませんよ」


「もとよりオレ達が決めることでもないしな」


「僕はいいですよ」


「私も」


「じゃ、そういうことで」


 わけもわからずまま、華苗と柊は敦美さんに連れられて川の上流へと向かう。向かっている間も特にこれといった会話もなく、淡々と石だらけで歩きにくい路を進むだけだ。


 たまに聞こえる獣の鳴き声は、敦美さんがどこか遠くにガンを飛ばすとピタッと消えた。なかなかどうして頼もしい。


 ゆっくりと、それでも確実に華苗たちは歩を進める。


 朝の河原を散歩するのもなかなか楽しい。空気が澄んでいてきれいだし、水を飲みに来たと思われる小動物がちょこまかとそこらを走っている。よっちゃんたちが見たという、木の根っぽいウサギもいた。なるほど、たしかに毛並みが木肌のように見えて、木の傍で蹲っていたら根っこのように見えるだろう。


「はい、ついた」


 やがて、敦美さんは足を止めた。なんてことのない、何の変哲もない場所だ。


「ほら、あれ見て」


 ところが川の中にちょっとしたものがある。ペットボトルだ。二リットルのペットボトルがちょっとずつ離れて、いくつか置いてある。


 岩陰や草陰、川の真ん中の方など、設置場所は様々だ。おそらく二十本くらいはあるのではなかろうか。


「あれ、回収するの手伝って。中に魚がいるから」


「ホントだ……」


 よくよく見ると、全てのペットボトルの中に魚が入っている。一つ当たり二匹だろうか。なぜか入ったきり出ていこうとしない。


 敦美さんがそれを引っ張り上げるとペットボトルの中で魚がビチビチと跳ねまわっていた。


「これね、ペットボトルを半分に切って、逆さまにくっつけた簡易仕掛け。これに匂いの強めの餌を入れておけば自然に魚が入ってくるんだ。昨日使い終わったやつを貰ったの」


 なるほど、言われてみればかなり理にかなった造りをしている。ペットボトルの飲み口のところ──狭まっているところを切って、ひっくり返して重なるようにくっつけることで、入口は大きくても出口が小さくて出られない構造になっている。物自体が透明だからかかったかどうかも一目でわかるし、回収すればそれそのものが魚籠になる。


「あたしだけじゃ全部は持ちきれないから」


「い、いったいいつの間に?」


「昨日の夕飯の後。先輩たちみたいに手づかみとかで獲ってもいいけど、それだと食事によって得られるカロリーと捕獲によって消費するカロリーでは後者のほうが大きくなりかねないんだ。サバイバルの基本はいかにエネルギーを使わずに効率よく行動できるかだから、本当ならこうやって手軽な罠をしかけたほうがいい。もちろん、罠だけじゃ安定性に欠けるから自分から打って出ないといけないんだけどね」


 敦美さんが近くの樹に括り付けてあった紐を手繰ると、川の真ん中にあったペットボトルがするすると近づいてきた。まだまだ元気なのか、尾がペットボトルを叩く音がし、ぶるぶると震えている。


「せいっ」


 敦美さんはそれを無表情で、何のためらいもなく近くの石に打ち付けた。ガン、ベコと言う音がした後は何の音も聞こえなくなる。


「うるさいようだったら気絶させていいよ。どうせ今日もペットボトルは貰えるし」


 さすがにプロなのか、その動作には一切の迷いがない。流麗で見惚れるような動きだった。華苗にはちょっと真似できない。


「これ、やっぱり焼くんですか?」


 柊が聞く。その顔は焼いてほしいと訴えていた。


 敦美さんはそんな柊をみて少しだけ笑った。


「手間賃代わりに一匹ずつはあげる。でも、これは焼くんじゃなくて燻製にするから」








 燻製というものをご存じだろうか。チーズや魚、肉などを煙で燻して加工したもののことである。


 煙によって燻された食べ物は殺菌され、水分も抜けるので保存食として扱うことが出来る。独特の風味も付加されるので、嗜好品としても人気は高い。お酒のお共にピッタリだともいえる。


 今回重要なのは燻製の保存食としての側面だ。それなりに手間と時間はかかるものの、手順そのものは基本的には燻すだけ。煙にさらすだけで完成してしまうのだ。


「せっかくなので、燻製を作ろうと思う。協力はおじい、深空せんせいは見学」


「いつかやるってことで練習したからねェ」


「お魚のスモーク好きなのよ~」


 キャンプに戻った華苗と柊はその端っこにあるなにやら意味ありげな櫓のようなものの前に連れ出された。百葉箱くらいの大きさの三角錐のなにかだ。当然のようにそこらで拾える木材を加工して作ったものらしく、まっすぐで太い樹の枝を払ったものをロープで縛って作られている。


 昨日の段階ではなかったはずだが、きっとおじいちゃんが夜なべでも何でもして作ったのだろう。


「まずは魚を捌きます」


「はいはい」


 昨日何匹もやったのだ。魚を捌く腕ならこの集団の中でトップファイブくらいには入れるのではないかと華苗は睨んでいる。


 ナイフと水を用意して、ささっと一匹。ワタをきれいに取り除き、溜めてあった水を使ってきれいに洗い流す。ただし、今回はえらぶたの下は切らないでおくらしい。


「ずいぶんと手慣れたもんだねェ」


「昨日いっぱいやりましたから」


 敦美さんも含めた三人がかりでやれば、あっという間に作業は終わる。


「捌いたらどうするんですか?」


「水分を拭き取って塩水につける」


 この塩水につけるという作業が腐敗防止につながる。また、発色を良くしたり味付けに関わってきたりする。


 もちろん、この塩水もただの塩水ではない。ソミュール液やピックル液等、水に塩や砂糖、香辛料などをある一定の割合で混合したものを使うことでよりおいしいものが作れるのだ。加える物によりある程度のアレンジが可能なので、ここで完成品の個性が出ることもある。


 ──が、サバイバルにおいてそんな上等なものを簡単に用意できるわけがない。


「ぶっちゃけ食べるだけなら塩水でいいんだよね。もちろん決まった塩分濃度があるんだけど」


「……」


 塩水だけで十分にそれらの代用は出来る。というかそっちが贅沢すぎるだけだ。塩分濃度五~六パーセント前後の塩水を使えばまったくもって問題はない。


「五パーセントってどれくらいですかね?」


「海水がだいたい三パーセントだからその倍くらいのしょっぱさだって覚えておけばいい。なめて海水よりもしょっぱいと感じたらまず大丈夫」


「わかるんですか?」


「わからないの?」


 当たり前のように敦美さんは言うが、普通の高校生はそんなものわからない。そりゃあ、サバイバルしてるときにまともな計測器具なんてないのかもしれないけれど、自分の舌で塩分濃度を確かめる人なんて普通はいない。


「先生、敦美ちゃんを見てるとすっごく不安になるのよね」


「別に大丈夫。あたし、体だけは人一倍丈夫だから」


 でっかい盥にドバドバと塩を入れ、敦美さんが塩味を確認しながら濃度を調整する。秤やそれに類するものがない以上、そうする以外に方法はない。そもそも、水の量だって正確にはわからないのだから。


「んで、このなかに魚を突っ込む」


 言われたとおりに華苗たちはその中へと魚を突っ込んだ。目の濁ったそれらがみっしりと触れあって揺らいでいる。こういってはなんだが、ちょっと気味が悪い。


「塩分濃度が低いとうまく中まで浸透しないから塩はちょっと多めでもいいと思う。あ、濃すぎると食べられたものじゃなくなるから注意ね」


「何度か失敗したからねェ」


 さて、この塩漬けと呼ばれる作業はある程度長い時間をかけて行わなければならない。長く漬ければ漬けるほど、その保存性は高まっていく。物によっては数日間も漬ける場合があるらしい。


 ──が、サバイバルではそんな悠長に待ってはいられない。


「実際、燻製としての体を成すだけならそんな漬ける必要もないんだよね。一日二日持たせるだけなら数時間で十分。てなわけでおじい、よろしく」


「はいはい」


 おじいちゃんが盥をゆさゆさとゆらし、全体をまんべんなくかき混ぜると、いくらか中の雰囲気が変わったように見えた。


「ほい、できた」


「……」


「ねぇ、本当に食べられるものができるのかしら?」


「さぁ……?」


 おじいちゃんは文化研究部の部長だからか、物の時間を促進することができるらしい。麦の時ははざがけした麦が一瞬で乾燥したのを華苗は覚えている。あのはざを作ったのはおじいちゃんだった。


「で、次に塩抜き」


 塩抜きとは文字通り対象に過剰に含まれている塩分を抜く作業だ。これを行わないとせっかくうまく燻製ができても、塩辛すぎてとても食べられたものではなくなってしまう。


 ただ、こちらは塩を抜くだけなので塩漬けほどの時間はかからない。物ややり方にもよるが、短くて三十分、長くて十時間といったところだろうか。


 流水にさらすとそれは劇的に早くなるほか、あえて薄い塩水でさらして塩抜きをするなんて方法もある。浸透圧の原理がいろいろ関係しているのだが、これの場合はだんだんと塩水を薄くしていき、最終的に真水で流すと上手くいく。


 ──が、サバイバルにおいては時間も水も大切なものだ。


「塩が抜けたかどうかなんてカンに頼ることが結構多いんだよね。うまくいくときはすごくうまくいくし、できないときはとことんできない。だったら、どうせ設備も限られていることだしそこそこでいいと思うんだ。だから、今使ってもいい分の水でできるだけ抜けばそれでいいよ。ぼけっと待っててもいいけど、水流を起こしてやると早く抜けるね。二十分、しっかりかきまぜたら終わり」


 カンに頼ることがある、というのは嘘ではない。が、普通はすこしだけ味見をしたりするものである。少し切り取って、あぶるなりして試食をすれば好みの塩加減に出来るのだ。


 とはいえ向こうはプロなので華苗は素直にその指示に従った。魚を真水で満ちた小さい盥に小分けにし、一生懸命ゆすって少しでも塩が抜けるように祈る。


 華苗たちはまだ気づいていないが、敦美さんの目的はおいしい燻製を作ることではない。食べられる(●●●●●)燻製を作ることだ。


「で、乾燥。これも面倒だからおじいに任せる」


「人使いが荒いよねェ……。まぁいい。華苗ちゃん、克哉。この櫓モドキがあるだろう? こいつは中が棚のようになっている。そこにこの魚を並べてくれんかね?」


「おじいさん、乾燥は?」


「もうできてるよ」


 おじいちゃんがキッチンペーパーで軽くふいただけだというのに、魚の水気はきれいさっぱりなくなっていた。


 細かいことに突っ込んではいけない。ここの人達は、そういう人たちなのだから。


 なお、乾燥は気温によっていくらか方法が変わってくる。夏場であれば冷蔵庫にいれて数時間ほど。冬場であれば日の当たらない風通しの良い場所で乾燥させる。


 寒い時期に外気にさらすとおいしくできるといわれているが、こちらの場合は猫や鳥なんかに持って行かれないように注意しなくてはならない。


 乾燥させる時間は気候条件や好みによってまちまちだろう。きっちりやればその分保存性が上がり、完成品の香りや見た目が良くなる。


「よくできてるわね、この櫓もどき」


「おじいが作ったからね」


「八島さん、上の段は僕がやるから下の段をやってくれる?」


「届くもん!」


 届くことには届く。華苗は嘘は行っていない。が、奥のほうまでは手が届かない。意地になった華苗は精一杯背伸びして半ば投げるようにして魚を並べた。


 ちなみに、燻製をするときはある程度まとまった量をやったほうがうまくいく。煙ももったいないし、効率も考えると大量にやったほうがいろいろとお得だ。もちろん、限度はあるのだが。


「で、あとはこれを密閉して……」


 敦美さんはどこからか見つけてきたのであろう大きな葉っぱや樹の皮で櫓モドキの隙間を埋めた。最後にビニールシートを軽くかぶせる。


「燻す」


「火、つけますか?」


「まだダメ」


 焚火から種火と薪を拝借してきた柊に敦美さんがストップをかけた。


「燻煙材──スモークチップとかスモークウッドとかいうんだけどね、それを使うの」


 煙は何でもいいわけではない。おいしい燻製をつくるためにはその燃料も重要になってくる。


 スモークチップは樹の欠片のことだ。その名の通りチップ状になっている。


 スモークウッドは樹の棒のことである。ただし、これは樹を粉末状にして固めたものだ。


 燻煙材に使われる樹は多岐にわたり、身近な例を挙げればサクラやブナなんかがそれにあたる。それぞれの樹ごとに味や香り、色に特徴があり、どれを使うかによって最終的な仕上がりは大きく変わってくる。対象との相性や個人の嗜好もあるので、どれが一番向いているかは決められない。


 ──が、サバイバルにそう都合よく燻煙材なんてあるわけがない。


「燻せればなんでも大丈夫。そこらへんに生えている樹でも、いい香りがするのはあるしね。もちろんそれを見分けられなきゃダメだけど。樹の種である程度向き不向きは判別できるんだ」


「じゃ、なんで止めたんですか?」


「おじいたっての希望で、燻煙材は持ってきたの」


「さすがにアレをそのまま食べたくはないからねェ……。今回はこいつ、チップを使う」


 いつのまにかおじいちゃんが麻袋のようなものを二つ用意していた。アサガオの芽切りの時に使ったやつと同じものだろう。チキチキといやなことを思い出しそうになるが、華苗はそれを堪えて中を見てみる。


 ふわりといい匂いのする、華苗の小指よりも小さい木片がぎっしりと詰まっていた。


「なんてやつです?」


「そっちはさくらんぼ、こっちのがビワだ」


「あれ、もしかして?」


「ああ、園芸部の奴だよ。剪定やはざがけのときにちょっともらったやつでつくったのさ」


 ちなみに、チップだったらブレンドしてオリジナルのチップを作ることもできる。組み合わせはまさに無限大。これも燻製を作る楽しみの一つであろう。


「あれも使えたんですか」


「いや、普通は使わない……というか、チップとして出回ることはないね。びわもさくらんぼも、貴重な樹だ」


「チップとしてメジャーなサクラはバラ科でこの二つもバラ科。近い種だから使えないってわけじゃないんだ。何度か作ったから味は保障する。たぶん、ここでしか食べられないよ」


「そんなに言うと、期待しちゃうわよ?」


 なお、本当に切羽詰った状況でもない限り、普通に市販の燻煙材を使ったほうが良い。樹の種類によっては人体に有害な成分を含むものもあり、燻煙材はそれらを考慮したうえで作られたものであるからだ。


 ちょっとくらいなら大丈夫な気もしなくもないが、人間健康が第一である。


 さて、これで燃やすものもできたわけだが、実はチップそのものに火をつけるわけではない。鉄板や受け皿なと、なんでもいいので何かを介して炙ることにより煙を出すのだ。


「故に、こうして適当に簡易台を作ってそこにチップを載せ、その下を火に当てる」


「意外と細かいんですね」


「ガチサバイバルなら、ちょっと湿った薪に火をつけるだけでおっけー。あ、その場合は燃やし始めの煙は使わないほうがいいよ」


 敦美さんが誰かが持ってきてた石を使ってぱぱっと簡易の竈を造り、そこに鉄製と思われる平皿を載せる。そして、そこに麻袋からすくったチップをぶちまけた。比率にして一対一といったところだろう。


「柊後輩、火を」


 さっきからずっと種火をもっていた柊が薪に火をつけた。最初はなかなか煙が出なかったものの、少しずつ白い煙が立ち込め、濛々と中に立ち込めていく。


 やがて中の空間がいっぱいになったのか、下から少しずつ煙が漏れ出てきた。少しだけ漂ってきた煙が華苗の前を通ると、サウナのあるお風呂のような、お線香のような、ホームセンターのような、高級旅館の廊下のような、そんななんとも言えない香りがした。


 ちなみに、華苗は旅館に行ったことはあれど、高級旅館に行った記憶はない。


「なんかいい香り……。どこかでこんな風味のお酒を飲んだような……」


 さすがに大人は言うことが違う。


「あとはこのまま煙を切らさないようにすればおしまい。うまくいけば昼過ぎ、遅くとも夜には食べられるんじゃない?」


「と、いいますと?」


「これね、熱源の調整と燻煙材の調整が必要なの。素人がやると燻煙材を切らしたり、熱源が強すぎてダメにしちゃったりするのね。意外と難しい作業なんだ。スモークウッドを使えばその辺は楽なんだけど」


「じゃ、誰かが見張っといたほうがいいんですか?」


「おじいがやる。さっきはああいったけど、言い換えれば熟練者がやれば燻煙量も燻煙時間もチップの混合も何もかも自由自在なんだよ。扱いが難しいけど調整自在でアレンジできるってのがチップの特徴かな。ウッドは手軽で簡単だけどアレンジや調整は出来ないって覚えておいて。おじいはずっと拠点にいるし、あたしよりも燻製はうまい。これ以上の適任はいないでしょ?」


 ちょっとかわいそうな気がしなくもないが、おじいちゃんはキャンプ中はずっと拠点にいると自ら公言したのだ。なにもしないよりかは楽しいだろう。


 それにちょっと目を離したくらいなら大丈夫だろうし、そうでなくてもここはにぎやかだ。興味を持った人が遊びに来るに違いない。


「お手伝いありがとうね。昨日も捌くのとか任せちゃってごめんね。これはあたしから八島後輩と柊後輩へのほんのお詫びの気持ち。できたやつ、優先的に食べちゃっていいよ」


「やったぁ!」


 敦美さんもなんだかんだで気遣いの出来る人だ。自己中心的なところがちょっとあるかもだけど、ただ単にこの状況に興奮していただけらしい。


「じゃ、あたしはもういくね。八島後輩たちはこれからどうするの?」


「先生、敦美ちゃんについて行ってもいいかしら? まだあんまり森の中見て回ってないのよね」


「いいよ。ついでだからゆきちゃんもさそう?」


「そうしようかしら」


「八島さんはどうする?」


「私も……ちょっと森の中をお散歩してみたいかな。なんか食べられるものもあるみたいだし、食材でも探してみようと思う」


「じゃ、付き合うよ。一人じゃ危ないからね」


「……子供じゃないよ?」


「わかってるって。規則の問題だよ」


 くるっと華苗はキャンプ地を見回した。今日のお昼は豪勢にするといっていたが、どうやら手間はそんなにかからないものらしい。青梅も双葉も姿が見えないところを見ると、二人ともどこかで大自然を満喫しているのだろう。昨日はあの二人が中心となって食事の用意をしていたから、こういうときくらい遊んだっていいはずだ。むしろ、遊んでもらわないと申し訳ない。


「じゃ、行こっか。どっちに行く?」


「どこでもいいよ、八島さんの好きなところで。ちゃんと付いていくから」


 あの喫茶店の裏にあったような果物がまだあるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、華苗は森の中へと入っていく。そんな華苗の小さな背中を、柊が見守るように追いかけていった。




20160505 文法、形式を含めた改稿。


もし本格的に燻製を作ろうとするのであれば、きちんとちゃんとした本などで調べるようにしてください。文献等で調べましたが、あくまでフィクションです。


ペットボトルの仕掛け、うまく言葉で説明できただろうか?

切って逆さにして貼っ付けるだけの超お手頃罠なんすよ。


サバイバル関連の本で燻製調べたんだけどさ、どれも味とか二の次で喰えるか喰えないか、持つか持たないかの二択なのね。米軍式とかなかなかにワイルドだったよ。『針葉樹でやるな、広葉樹でやれ』だってさ。


ちなみにびわとさくらんぼチップは完全なるオリジナルです。

どんなに探してもそれらのチップは見つかりませんでした。園芸部だから、ということでお願いします。……誰かチップ作って食べた感想教えてくれないかなぁ。


お酒よりもスモークチーズが大好き。

あれたまに無性に食べたくなる。

週末にホワイトソーダ飲みながらちびちび齧るのが最高にシャレオツ。


寝袋って怖くね?

起きたとき身動き取れなくて誘拐されたんじゃないかって勘違いすると思う。

一回身動き取れないタイプのを見たけど、私はあれじゃ眠れそうにない。

暗くて狭くて身動き取れないところってなんかめっちゃ怖い。

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