30 誘惑の桃 ☆
【写真提供;こくほう(コクホウ)】さんです。
本当にありがとうございます!
きぃ、と音を立てて華苗は鶏小屋に入る。
木のにおい、草のにおい。鶏小屋特有の臭気はしない。そのことに満足しながら小屋の主に軽く挨拶をした。
何事にも敬意を払うことは重要だ。それが大切な相手ならなおさら。
「お掃除しに来ましたよ、あやめさん、ひぎりさん」
二匹の主はこっこっこ、と鳴いて華苗の長靴を嘴で軽くつつく。
最近になってようやく、あやめさんとひぎりさんは華苗に構うようになってくれたのだ。お尻をふりふりと機嫌良さそうに振る二匹を見て、思わず華苗も笑ってしまう。コミカルでチャーミングだが、あれは“ごくろうさま”、だ。
まず扉を開けて中の換気をする。柔らかな風が小屋の中に流れた。そして箒で軽くぱぱっと掃除。もっとも、あやめさんもひぎりさんも賢いので餌を散らかしたりなどはしない。抜け羽を掃き捨てるだけで簡単に終わる。
「はい、ご飯ですよ」
餌皿に畑で適当に採ってきた野菜や果物を軽くちぎって乗せる。二匹の食欲はすさまじい。けれども、お口はちっちゃいのだ。栄養満点の卵を産んでもらうためにもこういうところはしっかりと気を使わなくてはならない。もちろん、飲み水を取りかえるのも忘れない。
ご飯を堪能したあやめさんとひぎりさんはもう一度華苗の長靴をつつくと外に出ていってしまった。華苗は慌ててその背中に卵を貰う旨を告げると、二匹とも少し大きめの鳴き声をだす。“いいよ”ということだろう。
「あの二匹にもずいぶんと慣れたもんだねェ」
「おじいちゃん?」
白髪、甚平、眼鏡。園島西高校文化研究部部長のおじいちゃん。片手に麦わらでできた籠を持ち、にこやかな表情を浮かべていた。珍しく、今日は麦わら帽子もかぶっている。足の草履はいつも通りだ。
気配がまったくなかったので華苗は声をかけられるまで気づかなかった。楠もそうだが、ここには気配を出さずに現れる人が多すぎる気がする。
「卵、とるんだろう? こないだの麦わらで籠をつくったんだ。使えないかと思ってねェ」
「ありがとうございます」
受け取ったかごは元が麦藁だったとは思えないほど丈夫な造りをしていた。素手で触ってもざらざらしないし、むしろさわり心地はいい。丁寧に作りこまれているから、これならいくら卵をいれても大丈夫だろう。
さっそく華苗はあやめさんとひぎりさんの寝床の卵を回収しにかかる。一個、二個、三個。まだまだある。今日も大量だ。
「何個あったかね?」
「ええと……三十二個、ですね」
単純計算で一羽で十六ほど生んだことになる。善哉、善哉とおじいちゃんはうれしそうに笑い、華苗から籠を受け取った。この程度のことでおじいちゃんが驚くはずもない。華苗だってもう慣れているのだ。今考えているのはこの卵をいかに利用するかということだけである。
「それじゃ、調理室に置きにいきましょう」
「そうだねェ。この暑さだと悪くなるのも早そうだ」
それに、とおじいちゃんは続ける。
「今日は面倒な──桃をやるんだろう?」
三日に及ぶ試験が終わり、生徒たちは開放感に喜びを振るわせていた。束縛された反動のためか、どこの部活も一際活気がある。ごくごく一部に顔色の優れないものもいたが、まぁしょうがないことだろう。世の中、ダメなときはダメなのだ。あまり気にしない方がいい。
「にゅふふ……!」
華苗は極上の笑みを浮かべている。どの試験も手ごたえばっちり。おそらく全て七割は超えたのではなかろうか。国語と化学はもしかしたら九割、いや満点の可能性だってある。間違いなく、今まで生きていた中で最高の手ごたえだった。
「…無事に終わったようだな」
楠はそんな華苗を無表情に見つめる。先輩はどうでしたか、と華苗は尋ねようと思ったが、たぶん大丈夫だろうと考え直した。楠はまじめなのだから。
「今日は桃なんですよね?」
「…ああ」
「桃なんて久しぶりに食べるなぁ」
「先生も久しぶりかな。結構高いのよね」
佐藤、それに深空先生も一緒だ。今日は五人で桃を栽培することになっている。テスト後だからいつもよりがんばってしまおうとのことなのだが、園芸部ではこれがいつも通りだ。
なお、深空先生は顧問であること、あと普通に桃が食べたかったために今回参加したらしい。佐藤もシャリィに桃を食べさせたいそうだ。
二人とももう桃を食べられる気になっているが、これも園島西の不思議な園芸部ならではのことである。
「…さて、始めるか」
いつも通り楠がどこからか手に入れてきた桃の苗木。葉っぱは一枚も付いてなく、細く、長い。よく見れば、根っこは湿っていた。土も付いておらず、まさに自然そのままの姿だ。
「どこ植えます?」
「…いつも通りだ」
桃を植えるときは根を吸水させてからでないとならない。そのくせ、桃の根は過湿を嫌う。いつも通り、日当たりのよくて水はけのよい場所に植えなくてはならないのだ。
まぁ、このへんはもはや常識みたいなものだろう。ちなみに、意外と暑さ寒さには強かったりする。
楠とおじいちゃんはスコップを振り上げ穴を掘る。間隔は結構広めで、小さなバケツ一個くらいなら丸々入りそうなほどの大きさだ。ざっくざっくとこともなげに掘りつづける姿はまさに農家。
麦わら帽オーバーオールと麦わら帽甚平。農家の親子にしかみえない。
華苗たちは桃の根をすこし手でほぐして広げておく。楠いわく、桃の根を広げるようにして植えないといけないそうだ。ほとんどほぐれているようなものなので、あまりやる意味もないのかもしれないが、手持無沙汰なのもいただけない。
さて、それらが終わると肝心の植え付け作業に入る。やり方はいつも通り、植えて土を被せて支柱を立てるだけ。もはやルーティンワークに近い。とくに手間取ることもなく華苗は次々に桃を植えていく。
「華苗ちゃん、結構手慣れているのね」
「園芸部ですからね」
華苗は苦戦する深空先生の元に行き、その作業を手伝う。深空先生は外での作業と言うものになれていない。今は汚れてもいい恰好をしているものの、手際が良いとはいえなかった。
華苗が株元を押さえ持ち、そこを深空先生はシャベルで土を被せる。ペシンペシンと軽く叩き、支柱を添えた。たったこれだけの作業なのだが、素人にはきついものがあったのだろう。深空先生の顔は晴れやかで、達成感に満ちていた。
「水やりはどうするんだい?」
「…こいつは控えめだな」
先ほどの通り、桃は過度の水分を好まない。直接植えたのであれば水やりはしなくてもいいくらいだ。
ただ、当然全くないというのはダメなので、あまりにも乾燥が続く場合は水をやる必要がある。もちろん、植えたばかりの時もちゃんと水をやる必要がある。
先ほど働いた楠達に代わって今度は華苗たち三人が水やりをすることにした。ぞうさんじょうろで電動井戸から水を汲んでしゃーっと全体にまんべんなく。太陽の日差しを水が反射して薄く虹がかかるのがおもしろい。
園芸部に入ってから、自分の水やりも様になってきたな、と華苗は一人考える。水やりに様になるもならないもないと周りは思うかもしれないが、やっぱり格好は大事なのだ。
「あとは成長するのを待つだけですね」
「そんな言葉が普通に出てくることに先生ちょっと驚きよ」
にっこりと深空先生は笑って言うが、華苗だってもう諦めただけなのだ。まごころだって何度もその効果を目の当たりにすれば信じざるを得ないし、それに華苗自身、そのまごころを扱えるようになってきている。人はこうして成長していくものなのだ。
「そういえば、おじいちゃんや佐藤先輩は今日はそっちの部活はいいんですか?」
「ちょうど麦わら細工が終わったからねェ。もとからこれと言って目標やノルマがあるわけでもないし」
おじいちゃんたちは麦わらを使っていろいろとやっていたらしい。美術部や被服部とも一緒に活動していたそうだ。夕方の散歩で近所の子供に紙芝居をしたりもしていたらしい。相変わらず、やることが多い。
「深空先生は? 保健室の先生って大変なんでしょう?」
「まぁ、楽ではないかな。夏場だと熱中症とかも多いし。でも、華苗ちゃん達が差し入れくれるから先生助かってるのよ~」
いちご、さくらんぼ、びわ、レモン、ブルーベリー、ラズベリー、ブラックベリー。
園芸部が保健室に持ち込んだ果物だ。おじいちゃんたちも梅を処理して持ってくことがあるらしい。
園島西高校で調理室の次に食べ物が充実しているのは間違いなく保健室だろう。調理室と違い、ここでは純粋に果物そのものを楽しめる。今日が終われば、あの冷蔵庫には桃が加わることになるだろう。
桃は仙人の果物とも呼ばれ、不老長寿を授けるとされている。実際にはそんな効果はないのだが、食物繊維やビタミンなどの栄養が豊富で体にいいことは確かだ。具合が悪くなったときに桃缶を食べた記憶がある人も少なくないはず。桃は保健室にはうってつけの果物なのだ。
「なんて話している間に伸びてましたね。先輩、今回はまごころの量、間違えてませんね?」
「…大丈夫だ」
「じゃあなんだっけ、えーと、剪定だっけ?」
「…そうだな。俺とじいさんでやる」
はいな、とおじいちゃんは楠から枝鋏を受け取り、ひょひょいと桃の樹に登る。パッと見で二メートルはある大きさの樹だが、これでもまだ成長途中。きっともっと大きくなるだろう。
楠もその巨体に似合わぬ身軽さで木に登り、パチンパチンとやりだした。華苗たちは枝拾いだ。もちろん、楠達が下りて安全になってからやる。
剪定は危ないのだ。こういう大きな果樹の剪定は楠は絶対に華苗にはやらせない。
桃の剪定も他の果樹と同様に樹勢を落として果実をつけやすくしたりする効果があり、普通は寒くなって葉っぱが落ちてきてから行われる。夏にも行われるが、こちらは主に樹に日差しをちゃんと当てるために行われる。
なお、剪定は収穫のしやすさなどを考えてYの字型にやるのが一般的だ。もっとも、まごころでだいたいどうにかしてしまうのでこの園芸部ではあまり細かくはやらない。やったという事実が重要なのだ。
「この切った枝はどうするの?」
「そこらにまとめて埋めたりしますね。なんか栄養になるって楠先輩はいってましたよ」
「そういうものなの?」
「そういうものらしいです」
深空先生が不思議そうに首をかしげるが、華苗に聞かれても困る。埋めた翌日にはきれいさっぱりなくなっているものを、他にどう説明すればいいのか。
おじいちゃんに渡せば薪くらいにはなりそうだが、そもそも学校で薪を使う理由もない。となると、埋めるしかないのだ。
「あ、桃の花だ」
佐藤の声に釣られて二人は顔をあげる。楠達が最後の剪定を追えると同時に、あちこちで花が咲きだした。
【写真提供:こくほう(コクホウ)さん】
薄いピンクの綺麗な小さい花だ。どこからか風流ないい香りも漂ってくる。見渡すかぎりにその花が咲いていて、なんとも雅な風景である。
思わずうっとりしてしまいそうになる華苗だったが、本番はこれからだ。
「自家結実性は?」
「…なくはない」
「人工授粉は?」
「…したほうがいい」
「そうですか……」
「なんかすごい専門的な話をしているみたいだけど、先生にもわかるように教えてくれない?」
「簡単に言うなら、面倒臭い作業があるってことだねェ」
桃は自家結実性だ。自家結実性なのだ。ところが、花粉の量そのものが少ない物は実ができにくかったりする。
そのため二本以上の樹を植え、そのうちの一本を花粉の量が多い種にして人工受粉させたほうがちゃんと確実に実が付く。花を直接すり合わせてもいいが、いつも通り綿棒で擦り合わせるほうが簡単だ。
「てなわけで、別の樹の花の花粉をこうやってつけて、また別の花に受粉させてください。ちょこちょこっとやるだけですから」
「え、これ全部?」
「さすがに多すぎるかな、なんて先生思うんだけど……」
「全部です。さっさとやらないと終わりませんよ?」
「……」
綿棒を持って固まる佐藤と深空先生を残して華苗は人工受粉に取りかかる。ちょちょいとこすって別のにこする。簡単だ。
……簡単ではあるのだが、幾分量がある。入った当初なら泣きそうになっていたかもしれないが、もう慣れたもの。うだうだ考えるより手を動かした方がいい。
それに、慣れればなにも気にならなくなってくる。これでもさくらんぼよりかはマシなのだ。
「…生理落下もある。摘花を」
「はぁい」
「どれくらいやるかね?」
「…気持ち程度で。まごころでカバーしますんで」
摘花は剪定と同じく、要らない花に栄養を与えないように花を摘み取ってしまうことだ。これをしないと無駄な小さな実がたくさんできてしまい、一個当たりの質が悪くなってしまう。当然、質が悪くなると生理落下の可能性も上がるのでやっておいて損はない。
もちろん、適切な量というものは決まっているのでやりすぎはよくない。また、一気に取るのではなく状態を見て何度かに分けて行う。花ではなく蕾を取る摘蕾というのもあるが、本質的には同じだ。実際は摘花よりも摘蕾のほうがよく使われているらしい。
こしょこしょ、ぷち、こしょこしょ、こしょこしょ、ぷち。
適当なペースで華苗は人工授粉を、摘花をしていく。どうせまごころでどうにでもなるから、摘花は適当だ。というか、華苗の背では届かない場所のほうが多いのでその分一本の樹を終わらせるペースは速くなる。できないところに時間をかけるよりかは出来るところをたくさんやったほうがいい。
佐藤と深空先生もおじいちゃんや楠を見ながらがんばっているが、どうにも摘花に遠慮しているような節が見受けられる。まぁ、楠自身もあまり間引きやそれに類する行為は好きではないので問題はない。
この園芸部の場合、栄養がいきわたらないなんてことはないのでその手の行為はしない方が効率はいいのだ。
「袋かけはどうするかね?」
「…しなくてもいいでしょう。どうせすぐできます」
「それもそうだねェ」
桃は暑さ寒さには強いものの、病害虫に付かれ易い。病気に罹ると葉が全部落ちてしまったり、せっかくの果実が腐ってしまったりする。カメムシに実の汁を吸われるとその部分は変色して腫れたようになってしまうし、シンクイムシやチョッキリゾウムシは実に穴をあけたりする。
袋かけはそんな病害虫から桃の実を守るために行われるもので、文字通り、袋を被せて実を保護するのである。これをすると強い日差しや強風の影響も受けにくくなり、鳥害対策にもなる。病害虫以外の原因による裂果や傷も防げるのだ。
その効果を最大限に発揮するために、袋かけは実がついた直後に通常は行われる。
「わ、わぁ。もう実が出来てる……」
「まるでビデオの早送りみたいね。先生びっくり」
当然、虫や病気にかかる間もなく成長する場合にはする必要はない。いつの間にやら木々はさらに成長し、華苗たちの元に日陰を作っていた。木漏れ日がなんとも眩しくて綺麗だ。
まだ華苗の小さな握り拳程度でしかない大きさの桃の実が、葉っぱに隠れてそこかしこに生っている。まだ熟す前の緑色であることもあり、近づいてみないと葉っぱに紛れて目立たない感じではあるが、一度気付いてしまえば無視できないくらいにたくさんあった。
【写真提供:こくほう(コクホウ)さん】
まるで気づいたらジャングルにいたかのような心持ちである。極端な例えかもしれないが、ともかく気分はそんな感じだった。
「これ、色がつくまでどれくらいかかるものなの?」
「…物や環境にもよりますが、概ね二か月前後といったところです」
「先輩、ウチの場合は一瞬ですよね?」
そして、そう思った次の瞬間には、華苗の握り拳より確実に二まわりは大きいピンクの結晶が、見渡すかぎりに広がっている。花の時にはなかった果物特有の甘い、芳しい香りが華苗たちの鼻をくすぐった。
【写真提供:こくほう(コクホウ)さん】
【写真提供:こくほう(コクホウ)さん】
葉っぱの緑もかなりの量があるのだが、それを覆すほどに桃はたくさん生っている。ほとんどの枝がその重みに耐えきれずに垂れていた。
摘花も摘果も全くせずとも全ての実が十分に成長する不思議な園芸部ならではの光景だ。つくづく、まごころは偉大である。
「ねぇ楠くん。もういいのかな?」
「…もうちょっとですね」
一度軍手を外し桃に触れていた楠は深空先生にそう告げる。桃は、色がついてからもうちょっとだけまって完熟させた方がおいしいと楠は思っている。追熟したほうがいいという人もいるので、これはあくまで楠個人の意見だが、この場の全員がそれに従う。
「…よし、こんなもんだろう」
ぱちんと鋏でそれをきりとり、満足そうに楠はうなずく。
桃が完熟かどうかを調べる手立ての一つに果実の柔らかさを見るというものがある。理想的なパン生地のような、俗に言う耳たぶ程度の弾力がベストだ。
この状態の実は完熟して自然落下寸前である。つまり市販のものでは食べられない、作った人しか楽しめない最高のおいしさを持つ実なのだ。
深空先生にその実を手渡した楠は、続いてもう一つ収穫して華苗に手渡そうとする。なんかチビだと言外に言われたような気がした華苗は気づかないふりをして、自分の背でも届くところにある桃をもぎ取った。
【写真提供:こくほう(コクホウ)さん】
「うん、とってもおいしそう!」
立派な桃だ。仄かなピンクと黄色のグラデーションが美しい。一日中見ていても飽きなさそうな、もっとおげさに言えば美術の絵画の課題で描きたくなるような、そんな素晴らしさを醸し出している。
「……」
楠は手の中のそれを自分のものにすることにしたらしい。珍しく佐藤がにやっとおかしそうに楠を見つめ、おじいちゃんも肩をすくめた。
さて、この桃、華苗の持った感じでは予想以上にずっしりと重い。程よい弾力を持ち、そしてうっすらと白い産毛のようなものが生えている。
桃と言えば、この手触りだ。最近切るのを忘れてちょっと長めになっている爪を皮へとつきたてると、面白いようにずぶずぶと沈んでいく。
ぴっとそのまま切り裂き、つるっと剥く。剥きやすさも最高だ。
「…よし、食うぞ」
がびゅり。ぐぎゅっぷ。
あまり上品ではない音が桃の木々に響く。華苗と深空先生はどこか遠くへ行ってしまったかのような目つきをしていた。
「すごいね! こんな桃初めてだ!」
「うん、いいねェ」
「…さすがはシーズン物。まごころも五人分、落下直前のもぎ立て。我ながらよくできてるな」
手と口をあふれ出る桃の果汁でべとべとにした男三人が誰ともなしに呟く。その大きな口で一口かじるたびに、豊富な果汁が手と顎を伝い地面に滴り落ちる。
男はこうしてワイルドに食べなきゃいけない生き物なのだ。もちろん、食べ方はワイルドでも三人とも直後に口は拭う。
「……おいしい!」
「……!」
深空先生は声も出せない。おいしすぎるからだ。
華苗は夢心地にありながらも、どこか遠くで考える。
程よい弾力。ジューシーかつフルーティ。まさに桃。その全体を通して桃だとそれは表現する。そしてなにより桃の甘さが素晴らしい。
華苗は果物はただ甘いだけでなく適度な酸味も必要だと思うタイプだが、この桃に限っては酸味なんて必要ないと感じた。
甘い。ただ甘い。果物の、桃の甘さだ。
とろけるような、夢見るようなその甘さは一口食べるほどにまるで麻薬のように次を求めたくなる。甘美で蟲惑的な毒だった。
一噛みするだけでどこから出てきたのだと言わんばかりの果汁の洪水が起こる。ごきゅり、と喉を動かすたびにその心地よくて強く甘い香りが鼻に抜け、言葉にできない余韻と満足感が華苗を包む。最高だ。
さっきは酸味は必要とないと思っていた華苗だが、種周辺のちょっと酸っぱくなっているところもたまらなくおいしい。丁寧に大きな種をもしゃぶりつくし、足で適当に穴を掘りそこに埋める。普段ならこんなことはしないが、これをそのまま捨てるのはあまりにもったいない。
「もう一個!」
「…好きなだけ食え」
「先生も貰うね」
女二人は無我夢中で桃を採っては食べていた。三つほど食べて大方満足した男三人は卸すための収穫を始める。
女二人はそんな男らに気づきもしなかった。とろんとした表情でひたすらに桃を貪りつづけている。
「これも籠にいれる?」
「…いや、こいつは重ねると悪くなるから番重だな」
「とってくるさね。リヤカーに乗せとけば結構な量を運べるさ」
楠達が番重を持ってきたあとも、女は桃を食べ続ける。普通の桃は一個二百~三百円ほど、いいものだと五百円するものもある。
最上級品にも負けないおいしさのこの桃は一個いくらになるのだろうか。彼女たちはその値段を聞いた後もこのような行動をとれるのだろうか。ここでしかできない、極上のぜいたくだった。
「女の人って桃が好きなのかな?」
「…さぁな。八島はだいたいあんな感じだ」
「まあ、出来のいい桃だから仕方ないさね」
三人は手分けして桃を収穫する。傷一つなく、大きくて立派な桃。あっという間に番重は埋まっていく。おじいちゃんは上のほうを、楠は真ん中くらいを、佐藤は下のほうを収穫した。
「桃、さいこぉ……!」
「前食べた高級なのよりもおいしい……!」
番重が五、十と積み重なっていく。おそらく五十ほどは埋まるだろう。桃はまだまだたんとある。売りに出したらどれくらいするのだろう。この園芸部は当たり前のように高級品を大量に収穫するから金銭感覚もおかしくなりかねない。
男三人は適度につまみ食いしながら着々と仕事を進めていった。お菓子部、保健室。ついでだから職員室にも持っていこうと話しながら楠達は手を動かす。調理部にも持っていくのは話すまでもないことだ。
男三人はそれこそ農家のようにきりきりと働いた。収穫した桃を園芸部の小屋に入れ、調理室に卸し、保健室の冷蔵庫に突っ込み、職員室で先生方に詰め寄られ、持ち帰り用の桃を詰めたときにはもう夕暮れになっていた。今日の仕事は終わりだ。
さて、帰る支度をするかというところで男三人は忘れていた女二人を思い起こす。
食べ過ぎで座り込んでいる二人が畑の隅で夕焼けに照らされていた。桃は仙人の果物ではなくて悪魔の果物だったらしい。ぽんぽんと膨らんだ腹を見た二人は、そう悟ったそうだ。
20150125 誤字修正
20160409 文法、形式を含めた改稿
20160626 挿絵追加、それに伴う若干の文章変更
 




