22 最後に挽いて
生徒名簿を一番最初に載せました。
よかったらどうぞ。
「そろそろ挽いてもいい頃合いかねェ」
にがやかな古家前。実に百人近くもの生徒が麦の処理をしている。
あるものは麦打ち台に大麦を叩きつけ脱穀を。あるものは千歯扱きを使って脱穀を。あるものは足踏み脱穀機を使って脱穀を。そして、別のものは脱穀された麦をふるいに掛け、さらにそれを唐箕に掛けることによって選別をしている。
今頃楠を含めた畑に行った者たちは必死になって麦を刈り取っていることだろう。先ほど背負子に麦をいっぱい括り付けてきた男子生徒はすでに半泣きになっていた。
華苗たちが頑張って空けていったはざも、次から次へと運びこまれる麦によってまた再び重量感のある壁として立ちはだかっている。
「おいおかしいぞ! なんであんなに次から次へと生えてくるんだよ!? おまえら、知ってただろ!」
「なんのことだかさァ~っぱりわかんねェよなァ?」
「そうだなぁ。俺らは何も知らんぞぉ」
白々しくとぼける森下と柔道部部長。今持ってきたのは、柔道部の人だったのだろう。信じられないものを見た顔で、いや実際信じられないものを見たのだろうが、ともかくものすごい形相で身近にいるのに絡み出している。
と、その隙に背後に忍び寄った女子生徒、茶華道部長の白樺がささっと背負子をはずし、麦を回収して笑顔で言った。
「さぁ、こちらはもう大丈夫です……。お次の、お願いしますね……?」
死刑宣告を喰らったかのような顔をして、その柔道部員はがっくりとうなだれた。ざまァみろ、と森下が口だけ動かしてちゃかすが、白樺はそれを見逃さない。同じようににっこり笑い、言った。
「森下君も、元気が有り余っているのならいってくださいね……?」
「……オオっと、麦打ち台やんねェとな!」
逃げようとする森下の襟首をむんずと掴み、白樺は二人をまとめて死地へと送りだした。観念したように、柔道部長もそれに続く。
「華苗ちゃん、ちょいと手の空いてそうなのを集めてくれんかね。そろそろ挽かないと後が詰まっちまうからねェ」
「あ、はい」
そんな様子を麦を振るいながら見ていた華苗におじいちゃんが声をかけた。とりあえず、と華苗はあたりを見回す。
よっちゃん、清水、田所は暇そう、というか華苗に付き合ってくれるだろう。我らがゆきちゃんも一緒にやるとして、あと数人見つければいいだろうか。
「じいちゃ、そろそろ挽くの?」
「私たちも混ぜてくれる?」
「はいな。あと、適当に力がありそうなのを何人か欲しいねェ。忠彦、武、雄大あたりを呼んでくれんかね?」
「中林君なら、さっき白樺さんに畑に送り込まれていたよ?」
「……呼びもどすかね。おう、耕輔、ちょっと畑へ行って忠彦と力がありそうなの見つくろってきてくれんかね?」
「りょーかい。じゃ、ちょっくらいってくるわ!」
秋山が畑に向かう。そんな様子をみて何人かが集まってきてくれた。青梅も双葉もいるし、これだけいれば問題ないだろう。華苗が動かずとも、何とかなってしまった。
人が集まったところで早速麦惹きの工程に入る。おじいちゃんたちが持ち出してきたのはいくらかの石臼。やはり、こちらも昔話でよく見かけるようなやつだ。
「私、本物の石臼って初めて見た……!」
「あたしも……見たことある人のほうが珍しいと思うけどね~!」
よっちゃんだったら比較的簡単に抱えられるが、華苗が抱えるにはちょっと大きい、そんな大きさをしている。平べったい灰色の円盤が二つ重ねられたような形をしていて、上の円盤には穴が一つと取っ手が一つついていた。この穴に麦を入れて取っ手をぐるぐると回すことで中で麦が挽かれるのだそうだ。
「ま、見たほうが早いねェ」
おじいちゃんは唐箕に掛けた麦を石臼の穴の中へと入れる。そしてゆっくりとぐるぐる石臼を回し始めた。
最初こそ何事もなかったが、やがて少しずつ石と石の間から何かが出てくる。もちろん、それは純白の小麦粉──ではなく。
「なんか茶色っぽくありません?」
「華苗ちゃん、これ、全粒粉っていうんだよ」
「あは、知らなくても無理はないって! あんまり使わない奴だしさ!」
麦粒は表皮、胚芽、胚乳の大きく三つの部位に分けることができる。このうち表皮、胚芽というのはふすまとも呼ばれ、家庭で使われる小麦粉にはこれが含まれていることはない。
というのも、ふすまが含まれていると独特の味の癖があったり、食感が気持ち悪くなったりするのだ。うどんなどではこれが致命的な問題となる。
しかし、良薬口に苦しとでも言うべきか、このふすまの部分にはかなりの栄養が含まれているため、できるだけ食べるといいともされている。
「でもってこの全粒粉はビスケットを作るときに使ったりするんだよね!」
「一部のパンを焼く時にも使うんだよ。これを使うと、麦の独特な風味で素朴な味のパンになるんだよね」
「まぁ、一般的にはそう使われないってのは事実だけどねェ。こいつを粉ふるいに掛けると砕かれた表皮だのが取り除かれて真っ白の小麦粉になるってわけさ」
さっそく薄力粉、中力粉、強力粉に分かれて麦を挽いていく。
まずはざらざらと麦を入れ、次にハンドルを持ってぐるぐると回していく。確かに重いハンドルではあるが、想像していたよりかは幾分マシだ。
そのままずるずると回していくと、臼の間から茶色っぽい粉がすり出てきた。とりあえずは、成功だ。成功はいいのだが……
「なんという地道な作業。どんだけかかるんだよ」
「わかってても言うものじゃないわよ。アンタ、空気を読みなさい」
そう、労力の割にはちょっとしか粉が取れない。今はまだ大丈夫だが、華苗の細腕ではそう長く続けることも無理だろう。ぐるぐる、すりすりと、単純ではあるが気の遠くなるような作業だ。
「なぁ華苗、先生にもやらせてくれないか?」
「どうぞどうぞ」
うずうずした顔のゆきちゃんが石臼の前に来る。そのままぐるぐると回すと、当然というべきか挽かれた麦が出てきた。
一心不乱に、ゆきちゃんは臼で挽き続ける。
「ゆきちゃん、楽しいですか?」
「楽しいというか……これが出来たら、パンにケーキにうどんにお好み焼きだろ? 麦飯も麦茶もあるし、水飴だって食べてみたい。というか、先生と呼びなさい、先生と」
「ゆきちゃん食い意地はっているもんね~!」
「顧問の時もつまみ食いばっかりだし。ゆきちゃん美人なんだから、タッパで持って帰るとかケチくさいことしないで、料理の練習すればいいのに」
「う、うるさいなぁ。おまえらも私の年になったらわかるさ。疲れて誰にもいない家に帰った時の悲しさが。そんときにはもうメシを作る気力なんてないんだぞ?」
「うわー……。おれ、あなたがそんな人だとは思わなかった」
「おい幹久、なんか言いたいことがあるのなら聞こうか?」
「べっつにー」
華苗は初めて知ったが、ゆきちゃんはお菓子部と調理部の顧問らしい。そういえばと思いだすが、ゆきちゃんは部活動会議のときに黄色いエプロンを着て参加していたはずだ。てっきり科学部の顧問かと思っていたら、べつにそういうわけでもないらしい。
……調理とお菓子の顧問になったのは、おこぼれをもらえるからというのがみんなの共通認識になっているようだった。
ぐるぐる、すりすり
力は使う癖になんだか単調な作業。じりじりと増える茶色い粉。麦を打つ音も、みんなのがやがやした音も、全然気にならなくなってくる。
「あー。そういや調理部で思い出したんだけどさぁ……」
「なになに、呼んだ?」
青梅が手をさすりながら華苗たちの輪に入ってきた。どうやら少し休憩らしい。青梅の担当していた石臼には別の生徒がついている。
田所はまさか青梅がくるとは思わなかったのだろう。若干驚いた顔をしている。
「いえ、そうたいしたことじゃないんすけど……部活動会議ででた梅干し、あれは調理部がやったんですよね?」
「うん、そうだよ。梅を採ったのは園芸部だけどね」
「それっていつごろです?」
「一ヶ月は経ってないけど手……それが?」
やっぱりおかしいよなぁ、と田所は呟いた。
華苗たちはその意味がわからない。青梅もゆきちゃんも田所の言葉の意味がわかっていないようだった。
「おれのばあちゃん、梅をつけるのが趣味なんですけど、梅って収穫してから最低でも半年は漬けなきゃ美味くならないって教わったんですよ。どう考えても、一ヶ月もたたずにあれだけの梅干しを作るのはムリだなって」
「……」
「……」
青梅と華苗は顔を見合わせた。
栽培したのは園芸部。調理したのは調理部。だが、収穫した梅を漬けたのは……
ぐるぐる、すりすり
「てっきり調理部だからなんとかしたものかと思ったんすけどね」
「田所、調理部にできるのは気持ちを込めることだけだよ。あたしはまだ無理だけど、その気になれば超スピード料理も作れるけどね」
「どっちも普通ムリじゃね? まぁ、そんだけです」
「ねぇ、華苗ちゃん……」
「ですよね……。これって……」
ぐるぐる、すりすり
「おいどうなってんだ!?」
「どうした!?」
「はざがけした瞬間、麦が乾いたぞ!?」
「やべえぞ、こっちなんか触れた瞬間乾いちまった!」
「大変、こっちも!」
「おい、なんか鶏がいきなり力みだしたぞ!?」
「やべぇ、お産じゃねーか!?」
「おちつけ、ラマーズ法だ。ひっひっふーだ。」
「ひっひっふー!」
「おまえがやってどうする」
「おい、なんかすげえ勢いで卵いっぱい生み出したぞ! ラマーズ法すげぇ!」
「……んなバカな」
「すげぇ、いち、にぃ……あ、めんどくせ。三十はかたいな!」
「ありゃ、こっちの鶏もめっちゃ産んでるよ。なんかそこらに卵いっぱい転がってる。合わせたら五十は行くんじゃない?」
なんか向こうも大変なことになってるなぁ、と田所が石臼を使いながらのんきに呟いた。もう適応してしまったらしい。ゆきちゃんも無言で石臼で挽き続けている。
よっちゃんはどこか遠くを見ながら卵料理が捗るね、なんて言っている。清水は二人の挽いた全粒粉を黙って粉ふるいにかけていた。
たしかに、茶色っぽかった粉が白っぽくなっている。何度も掛けないと効果は薄そうだったが、幾分華苗の知っている小麦粉に近くなっていた。……何回やれば普通の小麦粉になるのか、ちょっと想像がつかない。
「卵はいつものことだけど……。はざってことは……お、おじいちゃんの仕業?」
「文化研究部って駄菓子を出すだけじゃないんですか?」
「うん? じゃ、梅をつけたのはあのじじさまか」
「……なんでわかったの?」
「歴史体験しているから、時間操作かなと。……ついでに空間操作もじゃね?」
田所はふと、目を華苗の奥へと向けて遠い目をする。華苗の後ろは、確か古家の裏手にある小さな納屋の入り口だったはずだ。田所の言葉も気になるが、華苗はとりあえずそちらを見てみる。
「…うまくやっているようだな」
楠、葦沢、柔道部長、空手道部達が、大きな大きな石臼を運び出していた。全部で三つ。それぞれに四人がかりで持ち運んでいる。華苗の身長くらいはある、とてもとても大きな石臼だった。
あきらかに、あの小さな納屋に入るような代物ではない。華苗たちから少し離れたところまで来ると、息を合わせてドシンと置く。地響きのようなものがこっちにまで伝わってきた。
「……」
「……」
「…どうした? こいつがあれば作業効率もよくなるぞ」
「……そういえば、あの物置小屋もおじいちゃんに手伝ってもらって作ったんだっけ」
「忘れてたね……」
いくらでも入ってなんでも保存できる園芸部の物置小屋。それも楠がおじいちゃんに手伝ってもらって建てたものだ。それを考えると、田所の考えはしっくりくるものがある。
麦の時間を早めて乾燥させ、梅の時間を早めてしっかり漬ける。野菜の時間を止めればいくらでも新鮮なままだ。
時間操作と空間操作なんてSFじみたこと、普通ならば誰も信じない。だけど、この学校に限って言えばそれが一番すんなり納得できる理由だった。似たようなことを、部長たちは当たり前のようにするのだから。
あきれる華苗たちをよそに、楠は大きな石臼にこれでもかと麦を詰め、ハンドルを持って石臼の周りを回る。ちょっとやそっと回したくらいでは粉が外まで出てこなかったが、やがて少しずつじりじりと出てきた。
なるほど、大きい分効率はよさそうだ。
どうみても規格外の大きさであることから、考えづらいことではあるがおじいちゃんの自作なのだろう。自作にしてはよくできてる。
今日も、空は青い。
「私、副部長できているのかなぁ……?」
「大丈夫だよ華苗ちゃん。私もそうだったもん。でも、気づけばみんな出来てるようになってるから。調理部はみんなみたいにすごいこと出来ないけどね」
「うちの部長たちってホントに認めないよなぁ。超技術以外みんな化け物みたいな連中ばかりじゃないか」
卵を抱えた何人かが華苗に指示を仰ぎに来た。とりあえず、籠を用意してその中に入れてもらう。もう、数えるのもめんどくさいくらいにあった。
「…まごころ満ち溢れる麦を食べていたからな。あやめさんもひぎりさんも応えてくれたんだろう」
「はいはい、そうですね。まごころは偉大ですね」
柔道部、合気道部、空手道部が総出で麦を挽いている。剣道部は昨日のリベンジとして刈りにいったらしい。華苗の知らないうちに、それぞれが適したところへと回ったようだ。
ふるいに回る人も多くなり、全体的な作業環境はかなりよくなった。恐ろしいことに、この高校の生徒だけで栽培から製粉までのサイクルが完成してしまっているのだ。
「そういえば、粉挽きの効率があんまりよくないと思うんですけど……」
「…小麦粉は1㎡から20グラムほど採れると言われている。うちのはもうちょっと多いと思うが」
「……1㎡っていうと、だいたい机四つ繋げた位ですか?」
「…そうだな」
「……20グラムっていうと大さじ一杯よりちょっと多いくらい?」
「…厳密には違うが、まぁそうだな」
「青梅先輩、小麦粉って……」
「お好み焼き二人で100グラム、おうどん一人で200グラム、食パン一斤で250グラム前後かな」
つまり、うどん一杯を食べるためには机二十個分繋げた位の広さの量の麦を処理しなくてはならない。それを、一年分ともなると……
「……きゅぅ」
「華苗、しっかり!」
想像したくはないが、とにかく想像できない量の麦を処理しなくてはならない。こんなペースでやっていて、間に合うわけがない。そもそも、高校生が十分な麦を収穫するなんてだけでも難しい話なのだ。
「…しっかりしろ、おまえが思うほど事態は深刻ではない。みろ、運動部の活躍を」
「……きゅぅ」
「華苗ちゃん、気をたしかに!」
楠が顎で示した先には、もうすでに埋もれんばかりの小麦粉が出来あがっていた。何人もの女子生徒が必死になって粉ふるいにかけているが、そうしている間も、どんどん粉は挽かれ続けていた。
「すっげぇスピード。さすが運動部」
「田所、アンタ、本気でそう思っているの?」
巨大な石臼とはいえ、作業効率が異常なことになっている。運動部が、ものすごい速さで休みなく臼を回し続けていた。さすが、というべきなのかもしれないが、華苗は言葉を発することができなかった。
「…機械でやるのが普通なのだろうが、そうすると熱が発生して麦の風味を著しく損なってしまう。やはり手できちんと挽いたものの方がうまい」
あんなスピードでやっていたらそんなもの関係ないのではなかろうか。というか、運動部とはいえどうしてあそこまで早く動けるのだろう。どんどんどんどん、粉は溢れるようにして臼から出てきている。
「おじいさま、ふるい終わった粉はどちらに……?」
「あそこに袋を用意してあるから、種類ごとに分けて入れといてくれんかね」
「こちら剣道部! 刈ったはいいが多すぎて運べない! 至急応援を求む!」
「しゃぁねぇな。ちょっくらいってみるとするか!」
「きゃあ、荒根先生かっこいー!」
「まずいよ、はざがもう限界だ。さっさと処理しないと……!」
「乾いてんのは片っぱしから取っ払っちまえ!」
ふるいの処理能力が上がったのはよかったのだが、みんながそれぞれの作業に慣れてきたせいか持ち運ばれる麦も増えてきた。あっちこっちでみんながあわただしく動いている。
それでも恐慌状態にならずに動けているのは各部長たちがリーダーシップを発揮して作業の指揮をしているからだろう。もう華苗や楠、おじいちゃんが何も言わずとも一度担当したところならば融通を聞かせてどんどん処理をしている。
「部長、はざから降ろしてもスペースがありません!」
「おい、そっちのこっちもってこい! 最悪脱穀さえ済ませれば嵩は減る! おめえら! 腕が千切れるまで叩き続けろや!」
「ふるい、こっち終わったよ! 薄力の麦持ってきて!」
「なぁもう全て捨て去ってこの麦藁にダイブしないか?」
「お、いいね。いっちゃう? 実はこういうのちょっと憧れてたんだよな」
「そこのアホンダラ共ぉ! そっちのは後で被服部が麦わら帽作るためのだよ! あ、コラそっちもダメだ! そっちはじっちゃといろいろ作る用の奴だ!」
「あ、隣のはサバイバルが麦藁船作るようのやつだかんね!」
「その奥のは美術部で麦わら細工作るようのやつだよー」
「…その外れのは園芸で使うやつだな。あっちのならいいぞ」
「よっしゃ言質とったぜ! おまえらせーので行くぞ!」
「…大麦だからめちゃくちゃ刺さるがな」
「ぎゃぁぁぁ!」
「楠てめぇそれ早く言えよ!」
「はん、自業自得だね。それよりアンタらもきりきり働きな! 遊んでる暇なんてないよ!」
「すっげぇあっち超楽しそう。青春じゃん」
「…アンタも行けば?」
「大麦は勘弁」
「ね、華苗も史香もついでに田所も、全部終わったらあたしたちも麦ダイブやろうよ! もちろんゆきちゃんも一緒にね~!」
「私は……ええい、やればいいんだろやれば!」
「も、問題は終わった後気力が残ってるかどうかだよ……」
実は、麦藁そのものにもいろいろ利用価値はある。さくらんぼの育成初期段階のように藁を敷いて乾燥を防ぐ、飼料や肥料として使う等の園芸としての利用はもちろん、編み込んでわらじや蓑といった防寒具にすることもあれば籠や帽子を作ることだってできる。藁人形も忘れてはならない。
今ではあまり使われないが藁で紙を作ることだってできるのだ。また、飢饉のときには藁を粉状にしたものを餅にして食べたこともあるらしい。撥水性も悪くはないので屋根に葺いたり、船を作ったりもできる。麦わら細工などの民芸品や芸術品、昔の子供の玩具にもなったのだ。
「…みんな楽しそうでなによりだ」
「……先輩、本当にそう思っています?」
「…もちろん。本当なら麦の収穫はもっと大変なんだぞ?」
麦は湿気に弱い。つまりは水分に弱い。多湿で梅雨のある日本では本来ならばあまり育てるのに向いているわけではない。
ところが、実際は米の裏作という形で梅雨前に収穫することでそれを補っている。
裏作というのは一つの畑で二つ以上の作物を育てることだ。例えばこの時期からこの時期はあれ、それからこの時期まではこれ……など、一つの収穫から次の収穫まで別のものを育てることだ。
「…しかし、米は水田、麦は畑だ。工夫が必要となる」
米は水分を好み、麦は水分を嫌う。同じ環境で育てられるわけがない。
「…排水方法として暗渠というものがあってだな……」
暗渠、弾丸暗渠とも呼ばれるそれは排水を調節するためのものだ。畑に穴を掘り、そこに排水管となる長い管を入れるというものである。
米の時はこの排水管を塞ぎ水を流さないようにし、逆に麦の時は開いて排水させるという、考え方そのものは単純なものだ。
「…うちではまごころがあるからやってないが、これを準備するだけでも相当大変なことだろう。米の裏だから土壌も湿潤になってるし、やらないわけにはいかないしな。…というかぶっちゃけると、気候云々よりも土地が湿潤であることの方がはるかに大きな問題らしい」
このためにかつては国産の小麦粉は質がそこまでよくなかった。水分は小麦の質そのものに直結する問題だからだ。
「そういえば、小麦粉っていったら外国のイメージがありますよね麦飯だとかは日本ってイメージですけど」
「…そうかもしれんな。だが農家のみなさんが必死に努力して、工夫して、よりよい小麦を作ってくださっているんだ。今では全て国産の小麦粉でできたうまいパンがある。…外国で採れたものもいいが、俺はやはり自分の畑で採れたものを喰いたい」
うどんも忘れるな、と楠は付け加えた。楠は変なところで律儀なところがある。
石臼で麦を挽きながら黙々と語るその姿はどこかシュールだったが、妙な迫力と真剣さを伴っていた。
「…それに比べれば、まごころでここまで何とかなっているこの現状、はるかに楽だと思わないか? みんなが手伝ってくれるしな」
刈って、束ねて、はざがけて、脱穀して、ふるって、選別して、挽いて、またふるって、そしてまとめる。
麦の処理だけでもこんなに多く、一から育てるところから始めるとなるとこれ以上に大変だ。たしかに、まごころで安全に急速に成長させ、みんなで処理をしている現状は十分楽な範囲に入るのだろう。
「なんとなくはわかりましたけど……。さすがに一年分はきついんじゃないですか?」
「…まぁ、小学校などの体験教室でも、製粉は工場に任せる場合が多いらしいな。ふすまを取り除くのなんて、粉ふるいじゃたかが知れてるし」
「……オイ」
「…なんだ?」
「工場任せって……」
「…ああ、任せると言っても全部じゃないぞ? それにうちのはまごころがあるから元々の質もいいし、何度もふるいに掛ければそこらの小麦粉よりもはるかに出来のいいものが出来るはずだ」
はぁ、と華苗は諦めのため息をつく。楠は元からこういうやつだ。
畑では今頃剣道部等が麦を刈っていることだろう。回収に回っているのは陸上部だろうか。
束ねているのは手先の器用な文化部や被服部あたりで、こっちまで麦を運んでいるのは登山部や運動部のなかの持久力に優れたのだろう。
はざがけは文化部、脱穀は男子、選別、ふるいは女子だ。柔道、空手道、合気道といった腕力に自信のある部が大石臼で麦を挽いている。
お菓子、調理部がデザートやジュース、つまめるものをもってそこらじゅうを駆け回っている。シャリィや佐藤もそこに混じっていた。
教頭が早々にばてて古家の縁側で休憩しているのに対し、いつの間にか戻ってきた荒根は未だに元気よく麦打ち台で麦を打つ。深空先生はのんびりと唐箕で選別し、ゆきちゃんは茶色い粉をみて嬉しそうに笑っている。
おじいちゃんが質問に答え、楠がうまくいってないところのフォローをしてる一方、先程の一幕を見て抑えきれなくなった秋山がふざけて麦わらにダイブして椿原に怒られていた。幸いなことに、彼が飛び込んだのは小麦だったようだが。
その傍らには、自分もやりたそうにうずうずしている柳瀬とそれをみてなんともいえない表情をしている橘がいる。意外と子供っぽいところもあるらしい。
あやめさんとひぎりさんは気にいった藁を見つけたのか、藁山の一部を器用に引っ張りだして自分たちのスペースを作っていた。なんでも、鶏に藁の上を歩かせると藁は柔らかくなるらしい。
芹口はカメラをもってあちこちを撮影しているが、これはいったいどんな映像になるのだろう。
学校テロ対策部を除いて、対策三部はカメラを気にせず、いろんな場所をちょこまかと回りつつ自由気ままに作業をしていた。
華苗もお昼を食べることも忘れて作業に集中していく。
製粉の終わった小麦粉、脱穀の終わった大麦が大量に端のほうにまとめられ、手の空いているものがそれを古家の裏手の納屋へと納めていく。
どれくらい納めたのかはわからないが、確実にあの納屋に入る量以上の麦をすでに処理している。もしかしたら、本当に今日一日だけで一年分の麦を処理できるのかもしれない。
──できるのかも、じゃなくてやらなきゃな。
タオルで汗をぐいと拭いて華苗をあたりを見渡した。なんだかんで、みんな楽しそうに笑いながら作業をしていた。自分も、もっと気合いを入れていかなければ。
ギラギラと輝く太陽。藁の匂いが立ち込める初夏の昼下がり。
きらきらと輝く汗が華苗の、そして誰かの頬をつぅっと伝い、地面に小さなシミを作った。
いろいろなハプニングこそあったものの、麦の処理はその日の夕方遅くまで続けられ、そして終了した。本当に一年分採れたかどうかは、誰にもわからない。
最後にみんなで麦藁の山にダイブしたのは、おそらく華苗の一生の思い出になったことだろう。
その時の華苗たちは働きすぎてテンションがおかしくなっていたが、ただただ爽快で気分がすっきりしたことだけは強く印象に残ったそうだ。
無論、このような『一生の思い出』はこの後何度も作られることになる。華苗自身はまだあまり気づいてはいないが、今のこの生活は華苗が入学当初望んでいた“マンガのような高校生活”に限りなく近いものであった。もちろん、そのマンガはいささか突拍子もない物ではあるが。
20150503 文法、形式を含めた改稿。
やっと麦終わった。ゲーム序盤の厄介なボスを倒した気分。
もう一度言う。生徒名簿載せました。一番最初に。




