14 お菓子部の双葉先輩とさくらんぼ
ちょいとおしらせ。
もうすでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、ちょっと前から新しいのはじめました。この作品とも繋がっています。
意外な場所で意外なあの人の意外な一面、そして大量の果物類の行方が分かるかもしれない、スウィートでドリームなお話です。
「あれぇ?」
華苗がそう漏らすのも無理はない。
麦わら帽子、オーバーオール、軍手、汗ふきタオル。これらが園芸部員の作業着であることはもう周知の事実だ。この四点があれば、立派な園芸部員といえるだろう。青梅という例外を除けばそれは間違っていないはずだった。少なくとも、華苗の中では。
しかし、今問題なのはまさにそこだ。
たった二人の園芸部、青梅を入れてもオーバーオールを持っているのは三人のはずなのに、遠目からでもわかる大柄な楠の横に、華苗でも青梅でもない、別のだれかがたっている。それも、麦わら帽子、オーバーオール、軍手、汗ふきタオルという園芸部の標準装備をして。
最初こそ青梅かと思っていた華苗だが、近づくにつれてそれはないと確信する。なんというか、青梅とは雰囲気が違うのだ。背格好も似ているし、茶色のふわふわな髪もそうなのだが、何かが決定的に違う。
「うそん」
「…おお、来たか」
「やっ! はじめまして!」
そこにいたのは、青梅とは違ったタイプのお姉さんだった。
「…紹介しよう。こちらはお菓子部部長、三年の双葉先輩だ」
「どうも、双葉 詩織です! よろしくぅ!」
そこはかとない既視感と共に紹介されたのは青梅と同じようなふわふわの茶髪をもつお菓子部部長だった。華苗の感じた通り、青梅とは違ったタイプのお姉さんで運動部のように元気がいい。華苗が新入生歓迎会での部活紹介でちゃっぴぃな人と認識したのはこの影響によるものだろう。
「…今日は双葉先輩が手伝ってくれる。といっても、今日はいつもの収穫はしない」
「ちょっとあたしが楠にワガママ言っちゃってね。いやぁ、渚が梅を植えてもらったっていうから悔しくなっちゃって」
にっと笑いながら嬉しそうに語る双葉。青梅が梅を植えてもらったのはたしか去年の出来事のはずである。ということは、双葉のほうもそれなりには長い付き合いのはずだ。園芸部員のオーバーオールを着ているところから見ても、それは疑いようがない。
「ワガママといいますと?」
「へへっ、それは見てからのお楽しみってヤツだよ」
「…ともかく早くいこう。時間が惜しい」
それだけ言うと楠は黙ってすたすたといってしまう。もはや慣れてしまった華苗は黙って楠についていく。双葉もうきうきとした足取りでそれに続いた。
「それにしても……なんか不思議ですね」
「ん? どしたん?」
楠の背中を追いながら双葉と華苗は並んで歩く。華苗が小さいせいでお姉ちゃんと妹に見えなくもない。仲よく並んで歩けば誰だってそう見えてしまうかもしれないが、先輩後輩といった上下関係を感じさせないフランクな双葉が相手なため、余計にそう見えてしまうのだろう。
「いや、なんて言うか……青梅先輩といい双葉先輩といい、楠先輩との接点がまるでなさそうな感じの方なのに、こうしてこの畑にいることですよ」
「あは、確かにそうかもね。……まぁ、ぶっちゃけると惚れた弱み的な?」
「……はい? 今なんて?」
「惚れた弱み的な?」
「……まじですか」
「まじまじ、おおまじ」
にっと双葉は笑う。その笑顔はどこか輝いて見えた。たぶん、今の華苗にはこういう風に笑うことはできないだろう。そういうことをはっきりと口に出すことさえ難しいはずなのに、双葉の言葉にはなんのためらいもなかった。
「あたしもさ、渚と一緒でちょぉ──っと落ち込んでた時があったんだよね。今から考えるとそんなに大したことでもなかったんだけど、そのときはもうひどくって。んで、渚みたいにふらっと畑に入って泣いてたら楠とあったんだ」
「どこかで聞いたような、じゃなくてまるっきり青梅先輩と一緒なんですか!?」
「んふ。あたしも渚からそれ聞いたときビックリしたよ。その後の流れも渚とほとんど一緒だね。いつの間にやら好きになっちった」
「珍しいこともあるんですね」
「おうともよ! 恋なんていつ始まるかわからないからね! 華苗ちゃんもわかるよ! わたしが楠に頼んだのは、初めて楠にあった時に貰った果物なんだ!」
そうこうして喋っている間に前方を歩いていた楠の足が止まる。畑のはずれの果樹を植える場所。梅からちょっと離れた場所。今まで大して気にも留めなかった場所に、それはあった。
「…今日はこいつだ」
「やっぱ壮観だね!」
「……またいつの間にこんなもんを」
そこには、小さな赤い双子──さくらんぼが鈴なりに実っていた。
「いやはや、本当にいっぱいなってますね」
華苗の言うとおり、そこらじゅうに赤くて小さな可愛らしい双子の果実が実っている。どれも指でつまめるくらいの大きさだ。つやつやとしていて、まるで宝石のように輝いている。やや丸みを帯びた濃い緑の葉っぱと、小さな赤い実のコントラストがとっても印象的だった。
小さい実ではあるものの、さくらんぼとしては大ぶりなほうに入るだろうか。どれもこれも、よく成長した立派なものだった。
「さくらんぼの樹って初めて見たけど、こんなに実がなるもんなんだね!」
「あれ、去年も栽培したんじゃないんですか?」
「…去年のはプランターで育てた小さいやつだ。園芸品種としてはそっちのほうが一般的だな」
さくらんぼはプランターで育てることも庭や畑に植えて育てることもできる。前者は趣味の園芸として扱われることが多く、後者、畑に植えて育てるのは農業などの、かなり本腰をいれて育てる場合が多い。
当然そのための手間暇も大幅に変わってくるわけで、当時、ちょっとさくらんぼに興味をもっただけの楠はプランターでの小規模なものを選んだのである。
「…さっそく収穫、いや、まずは食べてみようか。さくらんぼは採ったらそのまま普通に食える。収穫はその後でも遅くはない。…取るときは、軸の根元から引っ張るように」
楠に言われて華苗と双葉は適当に近くのさくらんぼの樹に当たりをつける。たわわに実っているから身長の低い華苗でも簡単に収穫できた。
言われた通りに軸の根元を引っ張ると、軽い手ごたえと共にぷつんと気持ちよく採れた。赤い宝石にゆっくりと唇を近づけると、すこしひんやりしているのが分かる。華苗はその小さな口で双子の一人を口に含み、赤い宝石を切り離した。
「……!」
「んまいっ!」
かみつぶした瞬間に広がるさくらんぼ特有の甘味。くねらせるようにして舌の上を転がすと、その甘味が口全体を染め上げる。
鼻に抜ける香りがとても心地よい。ちょっと柔らかい実は水分を多めに含んでいて、甘い汁が口の隅々までいきわたる。文句なしに、最高の出来だった。
「うっは、やっぱりこの甘さはサイコーだね! イチゴとかもいいけど、やっぱりあたしはさくらんぼが一番好きだよ!」
「…うん、なかなかうまくいったな」
「なかなかなんてものじゃないですよ! こんなにおいしいさくらんぼなんて私、初めてです!」
「…そうか。ならそっちのも食ってみろ」
楠に顎で示されたのは別のさくらんぼの樹。よく見てみれば、今華苗が食べたさくらんぼの樹と樹形が違うし葉も違う。さらによく見ると、さくらんぼの実も形がごくごくわずかに縦に丸みを帯びていて、色も赤みが強めだった。
「お、どれどれ……」
華苗よりも先に双葉がその樹へと飛びつく。あっという間に一つを採ると、そのまま口の中へと放り込んだ。実にうれしそうである。華苗も慌ててそれに習う。
「お、こっちのはちょっと酸味があるね。ジャムなんかにするといいかも」
双葉の言葉に華苗も心の中で同意する。このさくらんぼは先ほどのさくらんぼに比べて酸味が強めだ。実も先ほどのものより硬めで水分も少なめなように感じる。
ジャムにすれば甘さと酸味がいい感じに染み出ていいものが出来るだろう。味も濃いので、先ほどのものと今のものでどちらがおいしいかときかれたら、これはもう完全に好みの問題になる。
ふとみれば、もう一種別のさくらんぼがあることに華苗は気づく。見た目はあんまり変わらないけど、赤みが微妙に今までのと違う。
あれも食べたいと思った華苗だったが……。
「あの、楠先輩」
「…どうした?」
「……タネはどうしましょう?」
さくらんぼの種が口の中に残っていた。
「…そこらへんに捨てておけ。本場のさくらんぼ狩りでも、種と軸はそこらへんに吐き出している。いずれ土に還るからな」
ちなみに、とあるさくらんぼの産地では『さくらんぼの種飛ばし大会』なるものがある。15m以上の記録が出たこともあるそうだ。
「…さて、もう食べるのもいいだろう。そろそろ収穫だ」
「りょーかいっ!」
しばらくの間さくらんぼ食べ放題を楽しんだ華苗と双葉だったが、本来の目的はさくらんぼの収穫だ。
楠の号令と共に籠を抱えて華苗と双葉はさくらんぼの樹に近寄る。今回あるさくらんぼの樹は三種類。それぞれ分担して収穫することになった。
華苗の担当は最初に食べた甘味の強いやつだ。なお、高いところのやつは楠に取ってもらうことになっている。ちなみに双葉も高いところのは取らせてもらえなかった。
「これ、採るのすっごく楽しいよね! さくらんぼ狩りでもこうはできないよ!」
「文字通りの採り放題ですしね……!」
一つ二つとどんどん採っていく。イチゴと同様、ちょっとひっぱればすぐにぷつんと採れるのですごく簡単だ。採るたびに葉っぱがガサガサと揺れ、振り子のようにゆらゆらとゆれるさくらんぼが可愛らしい。
一つの枝にかなりの量のさくらんぼが生っているから相当な量が収穫できるだろう。
「あれ、この樹ってあたしの担当のやつ?」
「食べてみればわかるんじゃないですか?」
「あ、なるほど、華苗ちゃんあったまいー!」
双葉とじゃれあいながら収穫を進めていく。さくらんぼが痛まないよう、ある程度収穫したらすぐにかごは変えた。あんまりいっぱい入れすぎるのは基本的にはよくないのだ。
「これだけいっぱいあれば、いろんなことに使えますね」
「ん、そうだね。チェリーパイにしてもいいし、タルトにも使える。ケーキのトッピングにもいいし、クラフティーにするってのもいいかもね。なんちゃってグリヨットとかも、できるかも!」
「…ついでにじいさんとこにも持っていくか」
「あ、それもいいね!」
「おじいちゃんのところにですか? なんかさくらんぼでできるものありましたっけ?」
「じいちゃならこれでさくらんぼ酒作ってくれるよ。なんちゃってキルシュだね! これもお菓子作りでは割と使うんけど、すっごく風味とかが良くなるんだよ」
「……お、お酒!? いいんですか!? ここ、学校ですよ!?」
「…いいんだ。ちゃんと公認で顧問の許可もとってあるそうだ。こないだのびわや梅だって酒にしたとか言ってたぞ?」
どうやらこの園島西高校は許可さえあれば何をしてもいいらしい。
もちろん、高校側もむやみやらたとこうした許可を与えているわけではない。今までの実績と人柄を考えて信用して許可を与えているので、華苗が危惧しているようなことは起こらない。園島西高校の生徒は変わり者が多いが、みんな根はマジメなのだ。
それからしばらく。
「しっかし、本当にいっぱい採れましたね」
華苗たちの前に広がる収穫されたさくらんぼ。三人がかりとはいえずいぶんなな量を採ったものである。
まだだいぶ樹に残っているが採りすぎる必要もない。それに、どうせ明日にもまた生えてくるだろうから全くもって問題ない。
「ほんっとすごいよね。あたしも詳しくは知らないけどさ、たしかさくらんぼって1kgで四千円とかするんだよ?」
「よ、よんせんえん? じゃ、ここにあるのってお金に直すと……」
「……ものっそい金額になるよね。しかも、明日も明後日も採れるんだもん。お菓子部であまり使えないのも高いからだし、楠がいなきゃさくらんぼのお菓子の練習なんてとてもじゃないけどできないよ」
ごくりと華苗は唾を飲み込む。ここにあるさくらんぼは確実に10kgは超えているはずだ。出来もそんじょそこらのさくらんぼよりいいし、相当なお値段になることは間違いないだろう。
もし、毎日これだけの量が採れるのだとしたら単純計算で月給は……
「…30日×10kg×4000円で120万円だな」
「ひゃっ!?」
とんでもない大金だ。年収だって一千万を軽く超える。
「先輩、起業しません? 天下を取れますよ!」
「…断る。いったい何の天下をとるんだ? …それにさくらんぼはとにかく手間暇がかかる。高いのだってそれが理由だ」
さくらんぼを育てるのにはどうすればよいのか。
まずは土選びだ。これは水はけがよく空気の通りのよい土が推奨される。さくらんぼの根は浅いうえ、根っこで空気を多分に吸うので粘土質のものでは味が悪くなったり実をつけなかったりするのだ。ふかふかの土が理想的であり、土は最重要といってもいい。
同時に植える場所も考えなくてはならない。さくらんぼは種類によって寒さに強かったり弱かったりする。人によって意見が分かりたりするものもあり、一概に耐寒性があるとかないとかはいいきれない。
というのも、落葉高木という植物の種として見ると耐寒性はないが、さくらんぼという果物として見ると耐寒性はあるほうだからだ。
加えて、あまり寒すぎると実がうまく着かなかったり凍害にあったりするくせに、寒さによって花が咲くスイッチが入るため、温度の管理はとんでもなくむずかしい。
「…ここは水はけもいいし栄養もあるからな。温度については少し厳しいが、まごころをこめているからなんとかなる」
「まごころはもういいですから。それだけじゃ急成長することの説明にもめちゃくちゃおいしいことの説明にもなりませんよ」
「…本当なんだがな」
「楠ってちょっと変わったとこあるよね」
「ええ、まったく」
さて、土作りだけなら他の作物でもこの程度は当たり前。次は乾燥対策だ。土で水はけのよい物を使うのはいいのだが、乾燥してしまうのもダメなのである。
若いさくらんぼ、具体的には緑の実が成るころまでは十分に水をやらなくてはならない。こまめに水をやれない場合は苗木に藁を敷くことで乾燥をある程度防ぐことが出来る。
「…この時期に水が不足してしまうと双子果というものになってしまう」
「ふたご? さくらんぼって普通ふたごじゃない?」
「…そっちは軸で別れての双子です。双子果というのは一つの軸に、くっついた二つの実が成っている奇形のことです」
ひょうきんな形をした双子果だが、これには商品的な価値はない。さくらんぼの種によっては三割以上の発生率があるので、これに頭を悩ます農家もきっと多いことだろう。
「…まぁ、味やその他の面に異常があるわけではないんだがな。一粒で二粒分味わえるし、お得とすら言える。しかし、商品となれば見た目を気にする人がたくさんいるのも事実だ」
土作りも水やりもうまくやり、ある程度成長してきたら今度は根切りというものを行う。
「…この根切りも大事だな。野菜には根切りはないし、なかなかてこずった」
「……そういえば、これ全部一人で先輩がやったんですよね」
「…だいたいはな。一部、秋山先輩やじいさんにも手伝ってもらっている」
「それで、根切りってなんなの?」
根切りというのはある程度の根を切って樹勢を押さえるものである。
樹勢というのは文字通り樹が成長する勢いのことで、これがあまり強すぎると樹全体としての形が悪くなったり枝が伸びるほうに栄養が使われてしまい実がうまく実らなかったりする。
「勢いを抑えるって……剪定じゃダメなんですか?」
「…剪定もするぞ。ただ……」
さくらんぼは太い枝を剪定すると枯れこみやすくなる。加えて、ただむやみやたらと剪定すればいい物でもない。状況次第ではメインとして伸ばしていく枝、主枝を切り替えなくてはならないし、実をつけていきたい枝もある程度切ったりする。
このとき、一番上になる芽が主枝からみて外側になるようにしなくてはならないなど、細かいルールも多い。それに、当然のことだがあまりに剪定しすぎると発育不良になる。
「…剪定した後も菌がはいらないよう薬をぬらないといけない。農家のほうでは主枝の角度や長さなんかも細かく決めてやっているらしい。このへんはじいさんに手伝ってもらったな」
「うへぇ、なんか聞いているだけで頭が痛くなってくるよ」
「…それだけじゃない。枝にはまだ誘引という作業が残っている」
「誘引? 初めて聞くものですね」
「…まぁ、聞くのは初めてかもしれんが、やったことはあるはずだぞ」
誘引というのは茎や枝を固定したりして伸ばす方向を調整する操作のことだ。
さくらんぼの場合、枝を水平方向に誘引することで花芽がつきやすくなる。樹勢を抑える効果もあるため、やっておいて損はない。もちろん、状態をみて判断しなくてはならないが。
「…他にも摘心や新梢処理、樹勢の整え方など細かい物はあるが、とりあえず、おおざっぱにはこんなところだな」
「なるほど、これでようやくさくらんぼがたべられるってわけね!」
「…いえ、このままではまだ実はつきません。さくらんぼは受粉してやらないと実がつかないんですよ。それも、違う種でないといけない」
「あれ、もしかして三種あったのって、味の違いを楽しむためじゃなくて、そうしないと実がつかないからだったんですか!?」
さくらんぼは自家不結実性とか自家不和合性とか呼ばれるものが強い。簡単な話、自分のおしべとめしべだけでは実がつかないのだ。
そのため、異なる品種のさくらんぼの樹を二つ以上、安定性を求めるなら三つは用意しないといけない。
「…ついでにいえば違う品種ならなんでもいいわけでもなくてな。相性の良いもの悪いものがある。相性が悪いと実はつかないんだ」
「三種あったのにそんな意味があったんだ。……でも、これで後は実がつくだけだよね?」
「…ええ、人工授粉をすれば、ですが」
さくらんぼには白い可愛い花が咲く。このうち開花前後の膨らんだものから葯を取り出し、諸々の過程を経て花粉だけに精製し、それを人工受粉のための花粉とするのだ。
「…この花粉を作るのもまた面倒くさくてな。農家では専用の機械があるらしいが、うちにそんなものはない。ひとつひとつ葯をとって、ふるいにかけて、陰において開葯して、できるだけいいものをつかったんだ。…本当はさらに機械で精選するらしいんだが、さすがにそこまではできなかった」
「は、は……」
「そ、そんなにあるの……?」
「…これがその花粉です」
楠が取り出したのは小さな瓶に入った濃い黄色の粉だ。なんだか見るだけで鼻がむずむずしてくるのは花粉だからだろうか。いかにも花粉です、と全体で主張している。
「…こいつを筆とか、刷毛とか、耳かきの後ろのあれでもいい。なにか柔らかいものにつけて花に塗るんだ」
「それくらいだったら、なんとかなります……かね?」
「…さくらんぼは受粉率がかなり低いからな。ちょっとやそっと撫でるだけじゃダメだな。しっかりつけて、これでもか、とやりすぎなくらいに塗らねばならん。それも、全ての花を、毎日」
「ま、毎日ぃ!? 全部の花を!?」
これは花が咲いてから三日以内が望ましい。一応花が咲いている間はいつでも受粉できるが、三日を過ぎるとめしべの受精能力が徐々に下がり、結実率が下がってしまうのだ。
確率を少しでも上げたいのなら、花が咲いている間はずっと受粉してやるのがいい。受粉する際の気候も重要で、あまり暖かすぎると結実不良を起こしてしまう。
「…こちらは秋山先輩に手伝ってもらった。最初こそ嫌がっていたが、最後のほうなんて楽しそうに笑ってやってくださったぞ」
「……それ、ぜったいなにか大事なものが壊れちゃってますよ」
「……うん、今度、秋山に何か作ってあげよう。さすがに申し訳ない」
「…自家受粉、つまり単体で受粉できる種類もあるし、花粉は売ってたりもする。農家は機械で一気にやったりハチを使ったりするらしいが、一番確実なのは手作業で製粉しての受粉だろうな」
さて、受粉して実がついたとしても油断はできない。生理落下といって何もしていないのに実が落ちてしまうことがあるのだ。
当然、それでいいはずがない。これをいかに防ぐかが問題となってくる。
「…この生理落下はうまく受粉できていなかったり、剪定や根切りがうまくいかずに樹勢が強すぎて枝に栄養分の取られた場合に起こる。正直なところ、起こってしまうとどうしようもない気がするな。できるだけ落ちないよう、祈るしかないだろう」
「……受粉は難しい、受粉しても実が落ちるって、どんだけですか」
「あたし、さくらんぼなめてた」
生理落下もしなかった実ですらまだまだ安心できない。
「…さっきも少し話したが、水を多めにあげるのはこのころまでだ。ここらへんから収穫までは水を少なめにしてやや乾燥させないとならん。そうしないと実割れを起こす」
「実割れっていうと?」
「…読んで字のごとく、実が割れる」
双子果同様、奇形の一種である実割れは、その名の通り見た目に大きな悪影響を及ぼす。味そのものは問題ないとはいえ、売り物にはならなくなってしまうのだ。それで食っていく農家の人にとっては重大な問題だと言えるだろう。
さらに悪いことに、この実割れはなにも水のやりすぎだけが理由で起こるものではなかったりする。どんなにこちらが気をつけて管理をしていても、降雨により実の表面から水分を吸収してしまうことがあるのだ。
そのため育てる際には、実が雨に触れないようにする工夫をしなくてはならない。土を乾燥気味にさせるのは、その分水分の安全マージンを取るという消極的な雨対策のためでもあるのだ。
「…ついでに、さくらんぼは過湿もダメだが乾燥しすぎもダメでな。この時期にあまりに乾燥させすぎると、葉や芽が枯れる。この時期の水の匙加減はめちゃくちゃ重要だろうな」
「植物ってこう、タフなイメージあったんですけど……」
「今までの話を聞く限りでは、深窓の……いや、病弱なワガママ令嬢ってかんじ?」
「…あながち間違いでもない。さて、次だ」
「まだあるんですかぁ!?」
「…安心しろ、次で最後だ」
受粉を乗り越え、生理落下も乗り越え、双子果、実割れを乗り越え赤くなっても最後まで油断はできない。
「…さくらんぼは実がなっている期間が短い。一気に取ってしまわないと無駄になってしまう。それに、だいたいの果物で言えることだが、鳥害がある。さくらんぼは実も小さくて柔らかいから、鳥にとっては最高のカモだろうな」
さくらんぼが樹になっている期間、すなわち収穫期間は長くても一ヶ月ほどだ。
鳥は完全に赤くなる前から実を食べ始めるので、防鳥ネットなどで対策をせねばせっかくのさくらんぼが台無しになってしまう。守り切ったさくらんぼも、ぐずぐずしていたら自然にダメになってしまうのでとにかくスピードが要求される。
「…ここまでして、ようやく収穫だ。本当はもっと細かいし、病害虫対策なんかもしないといけない。しかも、一から植えて採れるようになるまで四年くらいはかかる。本格的な収穫を期待するなら六年くらいはかかるだろうな」
「双葉先輩、植えてもらったのって……?」
「……うん、去年。でも、あたしはもう深く考えないことにしたんだ」
「…俺の場合はまごころをふんだんに込めたおかげかかなり頑丈に、育てやすく成長してくれるからな。この時期にもう一度まごころを込めるだけで簡単に収穫できる」
「……まごころも、案外ホントなのかもね」
「びわのときはほとんどほっとくだけだったのに……」
そう、同じ果実でもびわとさくらんぼでは手間がかなり違う。
もともとびわは生命力も強く育てやすいが、さくらんぼは園芸品種も、園芸の中では最高クラスの育てにくさをもつものなのだ。ちゃんとした果実を食べようとするならばさらに難しくなるのも当然だろう。
「…実際に農家を始めるならば、何百万円もの初期投資もいるしな。…さて、初期投資ができてもここまで難しく安定性に欠ける果実できちんとした収入が素人に入るとは考えにくい。それでもおまえはさくらんぼを育てるのか?」
「ぐっ」
「…これだけの手間暇をかけているんだ。高いのもしょうがない。気候条件が合うところだって少ないしな。…俺はたまたままごころでさくらんぼが応えてくれるからいいものの、本当だったらとんでもなく大変なことなんだぞ?」
長期間による繊細な水管理、剪定、温度管理。
一つ一つ手作業の人工授粉。
それをあざ笑うかのような生理落下。
突然の降雨による実割れ。
最後の最後での鳥害。
さくらんぼを育てるというのは、とにかく難しいことなのだ。
「…だからこそ、収穫したものはきちんと食わなくてはいけない。作った人と、喰われるものに感謝を込める。いただきますというのはその感謝の念があったからこそできた言葉なんだろうな」
長々と楠はいつになく饒舌に語る。言っていることは確かに理解できる華苗だったが、なんか悔しくも感じていた。ふと横を見ると、双葉がさくらんぼを食べながら楠の話を聞いている。
双葉は双葉で興味をもって聞いていたらしい。ただ──
「先輩、ずるいです! それ、卸す用のやつじゃないですか!」
「あは、ばれちった。いや、あんまりに真剣に聞いていたもんだから勧めるタイミング逃しちゃってさ」
さくらんぼを食べながらリラックスして話を聞いていた双葉と、話を真剣に聞いていながらも一瞬で思考がずれた華苗。
女の子として、いや、女の子じゃなくても小難しい話は誰しも苦手なものである。
仲の良い姉妹のようにきゃいきゃい騒ぐ二人をみて、楠は自分の説明があまり意味を成していなかったのではないかとひとり首をかしげた。
20140315 誤字修正
20150125 誤字修正
20150502 文法、形式を含めた改稿。
あれ、さくらんぼのアレって軸であってるよね?
ヘタっていう人と軸っていう人がいるっぽい。




