126 おっきなかぶらのあったかお味噌汁
「そんなわけで、今日はカブを作ってください」
「…唐突だな」
そして、放課後。
冷たい風が吹き荒ぶ中、今日も今日とて死んだ魚のような濁った瞳で虚空を見つめる色黒の大男──楠を相手に、華苗はそんな啖呵(?)を切って見せた。
「いいじゃないですか。カブだって冬の作物だし、食べられるから先輩だって拒否する理由はないでしょ?」
「…まぁ、それもそうか」
楠は基本的に、園芸だったらなんでも喜んでするタイプだ。ただ、どちらかと言えば見て楽しむものよりも実利を取る──即ち、食べられるものを好む傾向がある。そのため、特に指定や依頼が無い限りは自分のその欲望の赴くまま、野菜や果物を栽培することが多い。
今回、華苗が育てようとお願い(?)したカブはまさしく冬の野菜だ。楠にとっても嬉しい話だし、むしろ感謝してもらってもいいのでは──と、華苗にはそんな風にすら思えてしまう。
「…しかし、教室で味噌汁か。俺が言うのも何だが、お前らもだいぶ傾いてきたな」
「カブだけに?」
「…………」
「…………なんか言ってくださいよ。可愛い後輩が可哀そうじゃないですか」
「…すごく寒い、な」
「うーん、フォローにも何にもなってない」
日中であってもすごくすごく寒いこの畑。「日当たりが良くて、風通しの良い」という園芸の手引きには必ずと言っていいほど載っている一文に見事に合致しているここは、お日様の温かさが吹き飛んでしまうほど風の通りが良い。つまり、冷たい風がモロに当たってめちゃくちゃ寒い。
しかしながら、楠は……こんな寒い中でも、いつも通りのオーバーオール姿で平然としている。首元にタオルこそ巻いているが、これはマフラー替わりでもなんでもなく、純粋に汗拭きとして利用するためだ。
「……先輩、寒さ感じてます?」
楠も最初は、農協か市場かはたまた漁港か、そんなところでお勤めしている年配のおじさまが愛用しているような、とにかく実利性を重視した──つまりは、あんまりオシャレとは言えない”いかにも”なジャケットを羽織っていたが、既に脱ぎ去ってリヤカーのところに置いてしまっている。
「…人並みには」
「じゃ、なんで上着とか着てないんですか? あのジャケット、着ればいいのに」
「…動くと暑くなるし、耐えられないほど寒いってわけでもない。……そういうお前こそ、ずいぶんと寒そうだが」
「学校に来るときに着ているアウター、汚したくないんだもん……」
ゆえに華苗は、ここ最近の部活では体育のジャージをそのまま着まわしている。ただ、いくら長袖のジャージとはいえ所詮は体育をするという前提で作られたものだ。動きやすいし最低限の防寒にはなっているものの、通学用のしっかりしたアウターとはその防寒性能は比べるべくもない。
「…着るか、俺のやつ」
「えっ……いいんですか?」
「…構わん。どうせ俺のは汚れてもいいやつだし、無駄に遊ばせるよりかはお前に着てもらった方が、ジャケットも喜ぶだろうよ」
「おおー……! なんか、いつになく先輩っぽい……!」
ともかくそんなわけで、華苗は楠の上着を拝借することとなった。華苗が着用するにはあまりにも大きすぎるサイズで、普通に着ると袖から指の先を出すことすらできないが──しかし、その防寒性能はピカイチだ。少々重い気がしないこともないが、意外と体に密着するし、裏地はなんだかもこもこしていてとても暖かい。
「わぁ……なんか、すっごくあったかい……!」
「…性能重視で選んでいるからな」
「ありがとうございます、先輩!」
「…うむ」
しっかりばっちり防寒対策をしたところで、とうとう今日の部活──カブの栽培が始まった。
「…ちょうど、育てようと思っていたところでな」
楠がどこからか取り出した小さな袋。さらさら、じゃらじゃらと小気味の良い音がすることから鑑みるに、中に入っているのはカブの種だろう……と、華苗はあたりをつける。無言で渡されたそれの中身を見てみれば、予想した通り──爪の先ほどの大きさの、小さな小さなカブの種がたくさん入っている。
「結構ちっちゃい……あと、なんか微妙に赤っぽい?」
微妙に赤味かかった黒い種。直径にして1mmあるかどうかといった、本当に小さな種だ。そして種としてよくありがちな紡錘形ではなく、球といっても差し支えない程度にはしっかりとした丸い形である。
「…カブは露地栽培でもプランターでも育てられるが、どちらであっても種から育てる」
「ま、この手の野菜で接ぎ木とかってないですもんね」
「…種を蒔くのに適した場所は」
「いつもどおり、であってます?」
「…うむ」
カブもまた多くの作物と同様に、風通しが良く、柔らかなお日様の光が当たる場所で……そして、水はけのよい土を好む。むしろそうでない作物のほうが珍しいのだから、もはやこの辺りは確認するまでもないことだ。
「…種を蒔く時は畝を立てる。やり方はいろいろあるが……ウチの場合はそんなに気にしなくてもいいだろう」
「間引きは?」
「…する」
「じゃあ、一か所に何粒か蒔かないといけないですね。この大きさの種だし、七、八粒くらい?」
「…いや、そんなに多くなくていい。三、四粒も蒔いておけば十分だ。蒔く深さは……小指の第一関節の半分くらい、か?」
「私と先輩でけっこー違うと思いますけども……言いたいことはなんとなく伝わりました」
だいたいこんなもんだよね──と自分で自分を納得させながら、華苗はえっちらおっちらとカブの種を蒔いていく。ずぶ、と畝に指を突っ込んで小さな穴を開け、そこに種を振りまいていくだけなのだから、作業としては簡単だ。少々背中や腰に負担がかかってしまうが、華苗はまだまだ若いので全然問題はない。
種を蒔き終えたら、そこに土を被せてぺしんぺしんと固めていく。ある程度しっかり固まっているのを見計らい、いつものぞうさんじょうろで──種が流れてしまわないように優しく水をかけてあげれば、種まきとしては完了だ。
「…ずいぶん手際が良くなったな」
「そりゃあ、似たようなことは何度もやってますもん。種まきだったらどんな作物でも大体同じですし」
「…実はカブは、ちょっと違ったりする」
「……はて?」
「…カブは大カブ、中カブ、小カブと三種類あってな。文字通り、収穫するときのサイズが異なるわけなんだが……サイズが違うってことは、種の蒔き方も変わってくる」
「なるほど……大きいカブなら、より間隔を空けて蒔かないといけないってことですね」
「……」
「これ、大カブですよね? もっと間隔空けたほうが良かったですか?」
「…いや、それでいい。だが、どうして大カブだとわかった?」
「だって……先輩なら、どうせ育てるなら大きいほうにするでしょ」
「…………まぁ、そうだな」
カブは収穫時のサイズによって、大カブ、中カブ、小カブの三種類に分けられる。
大カブは大人の手のひらからあふれるほどの大きさ……より具体的には、概ね直径20cmくらいのカブを指す。中カブはそのさらに半分……つまり直径10cmくらいの大きさのカブで、そして小カブは中カブのさらに半分……すなわち、直径およそ5cmくらいの大きさだ。当然、大きさが違えばその食感や味わいも変わってくるので、どんな風にカブを楽しみたいかで育てるカブを選ぶ必要があるだろう。
「あれ……サイズが違うってことは、種まきの時期も違ったりします?」
「…どのカブであっても種を蒔くのは春か秋だ。変わってくるのは収穫時期のほうになる。……とはいえ、そこまで顕著に変わるわけでもない」
「具体的には?」
「…そうだな。種を蒔いてから収穫できるまで……小カブが概ね一か月半程度、中カブが一か月半から二か月、大カブは二か月から三か月ってところだ」
「んー……それくらいなら、収穫時期から逆算して種蒔きの日取りを決めてもいいのかなあ」
「…そのあたりは気候や環境、カブの品種なんかと相談することになるだろうな。そのうえで……カブは暑さに弱くて寒さに強い作物だから、秋に蒔いて冬に収穫するほうが成功しやすい」
カブは春と秋、すなわち一年に二回種蒔きのチャンスがある。暑すぎず、寒すぎない絶妙な気温──具体的には、20℃くらいが理想の気温だろう。ただし、カブは寒さには強くても暑さには弱く、気温が25°Cを超える……即ち、夏日になると途端に発芽率が悪くなるという特徴がある。年々暑さが酷くなっていく昨今の夏の状況を考慮するならば、秋に種まきをする方が間違いはない。
「…さすがに霜が降りたりしたらダメだが、冷蔵庫と同じくらいの気温でも発芽するって話があるくらいには寒さには強い。一方で、暑さにはとことん弱い」
「あらら……でもまあ、カブって夏よりも冬のイメージあるし、むしろ春でも種蒔きできるってのがびっくりですよ」
「…あと」
「はい?」
「…夏は、カブ以外にも育てられる奴がたくさんあるからな。いや、夏しか育てられない作物と言ったほうが良いか。冬でも育てられるカブを、リスクを負ってまで育てる理由はないわけだ。それに、冬だったら害虫の被害も出にくい」
「そりゃご尤も」
さらに言うなら、夏は大雨や台風による被害も考慮しなくてはならない。そのため、可能であれば敷き藁の類で保護したり、あるいは寒冷紗による保護を検討したほうが良いだろう。虫、風、雨の対策を考えなくてはいけない夏よりも、冬に収穫する方がずっとやりやすいのは間違いないというわけだ。
「種を蒔いてから、芽が出るまではどれくらい?」
「…順調に育っているならば、一週間もかからない。……ほら」
「お」
そうこう話している間に、ぴょこぴょこと可愛らしい緑が芽吹いてくる。ちょっと引っ張ったら千切れてしまいそうなほどか弱いものだが、不思議とそれには萌える生命力が満ちているようで、じっと見ているだけでその元気を分けてもらえるかのようであった。
「元気に育ってますねえ……」
「…まごころを込めているからな」
「間引きは……」
「…普通なら三回ほどに分けて行う。状況にもよるが、最初は本葉が二枚になったとき、二回目は本葉が四枚になったとき、そして最後は本葉が六枚になったときだ」
カブは生長の段階ごとに三回に分けて間引きを行う必要がある。目安としては、それぞれ本葉が二枚、四枚、六枚になったときだ。その時の気候や環境にもよるが、本葉が二枚になるのは種を蒔いてから概ね十日ほど、四枚となるのは種まきから二、三週間後、そして六枚となるのは種まきから四週間後くらいとなる。
間引きをしない場合……あるいは間引きのタイミングが遅れてしまった場合、成長不良を引き起こす可能性がある。カブ同士が栄養を奪い合うのはもちろん、間引き前提で種を蒔いているために単純にスペースが足りず、カブが大きくなれないのだ。故に、少し早めに間引きをするという判断も重要になってくることだろう。
「…カブの大きさにもよるが、それなりのスペースを空けて等間隔となるように活きの良いものを残して間引く。間引いた葉っぱもおひたしとかにして食える」
「うちの場合は……間引く必要、ありませんよね」
「…うむ」
「……あれ? じゃあ、もしかしてあとはもう収穫するだけですか? カブに人工授粉とか無いですよね?」
「…人工授粉は無いが、やることがないわけでもない」
すくすくと華苗たちの目の前で順調に育っているカブ。楠はそんなカブの元に跪き、そしてカブの緑の根本……すなわち、その白い肌を晒しているカブ本体を指した。
「…見ろ」
「きれーな真っ白ですねえ……」
「…カブってのは、葉っぱの根本……ちょうど、地面との境界あたりが太っていく。つまり、放っておくとこの白い部分がどんどん地表に出てくるわけだ」
「あ、じゃあ土寄せ?」
「…うむ。間引きと同じタイミングで問題ない。土寄せすることでカブを固定して倒れにくくし、そして日焼けを防ぐ。日焼けすると真っ白で綺麗なカブにはならない」
「そのあたりはジャガイモとかと同じですね……どれくらい被せればいいです?」
「…白い部分が、小指の第一関節の半分くらい見える程度?」
「なんかそれ、さっきも聞いた気がする……」
大地からぴょこんと顔を出しているその白に、華苗はそっと優しく土を被せていく。どうか大きくなっておくれ、白くてつるつるな別嬪さんに育っておくれ──と気持ちを込めるのも忘れない。
「……なーんか、そこはかとない反発力を受けているような」
「…容赦はするな。情け無用で始末しろ」
土を被せている間にも、その白は負けじとみるみる大きくなっていく。被せた傍からはらはらと土が崩れ、ぺしんぺしんと土を固めてなお、その勢いは止まらない。ぎゅっと抑え込むとぐぐぐ、と押し返されるわけで──なんだかちょっとした力比べをしているかのようであった。
「…これで一応、あとは収穫を残すのみだな」
「あらま、意外とらくちん」
「…一応、注意点としては」
「ふむ?」
「…生育不良により、カブは実割れ……この場合、裂根を起こす。外観は問題なくとも、すが入ることもある。いずれも栄養過多や水分過多が原因だ」
間引きをこまめにやらずに一気にやると、栄養の吸収量が急激に増えて過剰生長し、身が割れたりすが入りやすくなる。水やりを怠ったりなどして土を乾燥させ、その後水を与えるとやっぱり水分を過剰吸収し、これまた実割れなどを起こしやすくなる。
どちらの場合も、つまるところは生育の不均一に起因するものだ。当然ながら、栄養不足や水分不足の場合も生育不良となる……つまり、うまく成長できずにすが入ったり、貧弱で弱弱しいカブになったりすることがあるので、栄養も水分も多すぎず少なすぎず、適切な量を供給することが求められるのだ。
「…あとは、収穫時期のタイミングを見誤らないことだな。収穫が遅れるのもまた、裂根の原因の一つだ」
「タイミングの見分け方は……」
「…まずは種まきからの日数を目安とする。そしてカブが地面から顔を出し、ちゃんと太くなっていれば……規定通りの大きさとなっていれば良い」
「……もう既に、なってますね」
「…まごころ、込めたからな」
華苗の目の前は大きなカブの葉っぱの緑と、そしてその陰に隠れるようにして光り輝く純白で満ちている。どうやら自分でも気づかない間にまごころを溢れさせていたらしい。目を離していたのなんてほんの一瞬のはずなのに、そこには数秒前とは全く違う光景が広がっている。
「こんなに種蒔いたっけ……」
「…俺も調理室で味噌汁を作ろうかと。ついでにじいさんのところにおすそ分けして、味噌をもらおうと思ってる」
「えっ……おじいちゃん、お味噌も作ってるんでしたっけ?」
「…作ってるんじゃないか? もし作ってなかったとしても、材料があるんだから作るだろ」
「確かに」
よいせ、と華苗はその大きなカブの前で跪く。改めてよくよく見てみると、いまだ土の中にいるというのに存在感がすさまじいというか、その重量感が物理的な圧力となって伸し掛かってくるほどご立派だ。その純白には大地の力が満ち満ちている──というか、大地の力そのものが純白という形を成していると言ってもいいくらいである。
「…そのまま普通に引っこ抜け」
「うぇい」
葉っぱの根元をぎゅっと握って。
そして、腕ではなく下半身全体を使うように──立ち上がるようにして、体の重心を後ろに倒せば。
「おおお……!」
ずぼっと、気持ち良い音。土をぱらぱらと振りまきながら、それはもう見事な真っ白で大きなカブが、華苗の手の中で産声を上げる。
「おっきい……!」
デカい。
なんか、思った以上にデカい。
華苗の手のひらにはとてもじゃないが収まりきらない大きさ。いいや、たとえ楠の手であったとしても、この大きさでは持て余すことだろう。腕にずっしりと伝わってくるこの重い感じはこのカブが立派に育っている紛れもない証拠で、それが緻密で詰まっているという事実を突きつけてくる。
「…上出来だ」
そんな立派なカブを、楠は無表情で引っこ抜きまくっている。この重さだと土から引き抜くだけでかなり力が要るというのに、まったくもって堪えた様子は無い。さすがは男子高校生というべきか。
「な、なんか引っこ抜くのがすっごく快感……!」
どれもこれも、見渡す限りの立派なカブ。収穫できる恵みがこんなにも立派となれば、本来は重労働であるはずのその作業も楽しくなってくるというものだ。
つやつやで、ぴかぴかで、真珠のように透明感のある純白のカブ。暗い地面の下で息をひそめていたそれは、今や冬の優しい日差しを受けてきらきらと輝いている。その鮮やかな緑の冠は生命力に満ちて青々としており、その純白によく映えていた。
「立派な……! なんて立派なカブなんだろう……!」
「…水で洗って土を落とせば、もっときれいになるぞ」
許されるのであれば、今すぐこの場で噛り付きたい──というのが華苗の本音だ。しかし悲しいかな、カブは根菜で、基本的にはある程度調理してからでないと食べられない。いや、スライスしたり千切りにしたりしてサラダにすれば生でも食べられるのだが、収穫直後に丸かじりを楽しめるようなものではない。
「…小カブだったら、皮も薄いからそのまま食えたんだがな。大カブだと厚めだから、基本的には剥いた方が食感が良く美味いとされている」
それが今の華苗にとっては、あまりにも残念で──そして、調理した後はどれだけ美味しいのだろうという想像を掻き立てて止まなかった。
「…今更ながら、味噌汁に使うには大きすぎたか?」
「いえ! 切ればいいだけですし……おっきいほうが、テンションあがるし!」
「…カブのアク抜きは必須じゃないが、やっておいたほうが余計な苦みやえぐみはとれるから覚えておけ。尤も、アク抜き前の生のカブの風味もそれはそれで美味いから、結局は好みになると思うが」
「んー……その辺はよっちゃんに任せようかなって思います」
「…そうするといい。さっき皮の話をしたが……カブの皮は少し残しておいた方が、煮崩れを起こしにくい。そのあたりは俺よりも皆川のほうがよっぽど詳しいだろう」
真っ白な宝物はまだまだ畑に埋まっている。そして華苗は、この素敵な宝物を明日の朝に教室にもっていかなくてはならない。ついでに言えば、自宅に持ち帰るためのものやおじいちゃんにおすそ分けするもの……そして、調理室へもっていく分も収穫する必要がある。
「…どれだけ使うかはわからないが」
大きな大きなカブを、両腕いっぱいにたくさん抱えた楠は。
いつも通りの──どこか満足げな表情で、言い切った。
「…好きなだけ、収穫しろ」
「りょーかいです!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
そして、翌朝。
今日も今日とて冷たい風に体を震わせた華苗は、しかし昨日とは全く違う気分で教室の扉を開けた。
「おっはよう!」
「おはよ!」
既にその場には、清水をはじめとした何人かの女子と、これまたやっぱり明らかに普段より早めに登校している──もちろん、華苗だってそうだ──男子がいる。相も変わらず教室は外よりかはちょっぴりマシかも、と思える程度には寒いが、今この瞬間に限って言えば、それに文句を言う人間は一人もいない。
「準備は?」
「上々!」
このためだけに早起きしてきたよっちゃんが上機嫌で答える。いいや、この場にいる全員がその瞬間を心待ちにしていて、どことなく落ち着きがないというか、頬の緩みを隠そうともせずにそわそわしている。
「デカい鍋! まな板と包丁! そして……華苗が収穫した、立派な立派な大きなカブ! ……いやホントに大きすぎない!? 想像の倍はあるんですけど!?」
「マジでデカい!」
「八百屋さんのよりも立派!」
「”重い”ってのが見ただけでわかる……! こいつァすげェ……!」
「そして、じいちゃんからおすそ分けしてもらった秘伝のお味噌! なんか『好きなように使いなさい』ってメモと一緒に調理室の冷蔵庫に入ってた!」
大きな大きなカブが都合五つほど。そしてなんだかとても趣のある容器に入った秘伝のお味噌──おじいちゃんが作ったということは、これもやっぱり園芸部産の大豆から作られているのだろう。食材としてはこの二つだけだが、それで十分で、それ以上余計なものを入れる必要なんてどこにもない。
「ストーブは少し早めに点けておいた。火力はいつもと同じだが、すでに十分温まっている」
「各々食器の準備もばっちりだよ。一応、使い捨てのものも用意したから忘れちゃった人は言ってね」
田所が環境を整え、そして柊は食器の準備をしてくれた。食材も道具も環境も整っているというのであれば──あとはもう、実際に手を動かすのみである。
「んじゃ、さっそく始めるぞーっ!」
エプロンを着けたよっちゃんのそんな掛け声とともに、朝の教室での調理が始まった。
「まずは水! 手ェ空いてる人はこの鍋に水汲んできて!」
「どれくらい!?」
「とりあえず六分目くらいまで! カブの水分もあるし、足りなかったら後で足せばいいからざっくりでだいじょぶ!」
居ても立ってもいられなかったのであろう男子が、率先して鍋に水を汲みに行く。そんな男子を横目でちらっと見送りつつ、そしてよっちゃんは次の工程へ進んでいく。
「ストーブだから火力調整は出来ない。だから今日はあえて、素材の旨味に頼りまくった豪快なやり方で作っていこうと思う。あたしは華苗が作ったカブを信じる」
「……つまり?」
「皮は剥かない。葉っぱも全部使う。あたしたちがこのお味噌汁を飲み終わったとき、そこには何も残らぬ」
「お、おお……」
その宣言通り、よっちゃんは皮を剥かずにカブを切っていく。
まずは葉っぱとカブ本体を切り分けて。葉っぱのほうはやや小さめのざく切りで切っていき、そしてカブのほうはくし切り……ではなく、くし切り風の乱切り(?)にして。やっていること自体は特別珍しいことでも何でもないが、さすがは調理部部長というべきか、その動きには淀みがなく、見ていてほれぼれするほど流麗であった。
「さすがの包丁捌きだね……私、このざくざくって音とトントンって音、結構好きかも」
「なんかわかるな……どこか安心するというか、聞いていて落ち着く気がする」
「……あと、教室でまな板と包丁使っている姿がすごく違和感あるというか……なんかこう、微妙にすっきりしない気分かも」
「あはは、確かに」
華苗と柊がそんなことを話している間には、よっちゃんは最初の一個のカブを切り終えた。なんだかこのままサラダとして口の中に放り込みたくなってくるが、華苗は理性を総動員してその獣じみた本能を抑え込む。
「水持ってきたぜィ!」
「でかした! ストーブにセットして!」
「がってん!」
そして、ストーブの上に鍋がセットされる。
「材料はここに一気にぶち込む! どうせ細かい火力調整なんて出来ないんだから、最初からじっくり火を通す方向で進めるから! ……ただし、葉っぱは火が通りやすいから後で入れる!」
豪快に鍋に投入される真っ白なカブ。やはりというか、六分目までしか入っていなかったはずの水がこれだけで九分目くらいにまで増えてしまっている。それだけカブの量が多い──つまりは具沢山の贅沢なお味噌汁が確約されたということだ。
「鍋が大きい分、熱は均一には通らない。何より時間も無いし、今日はこのまま温めていく」
「煮立ったらお味噌と葉っぱを入れていく感じ?」
「うん。お味噌汁を煮立たせるかどうかはいろいろ意見があるんだけど……やっぱちゃんと火は通しておきたいからね」
ちなみに。
あえて語っていないが、よっちゃんは煮崩れしないよう、そしてその食感を損なわないよう、すべてを両立させ得るギリギリの大きさを見極めて切っている。また、火の通りが均一となるように具材の大きさも揃えて切っている。
ストーブでは火力の調整ができない。常にそれなりの火力で温められている状態であると仮定すると、小さく切ると煮崩れしてしまう。だからそれなり程度には大きく切る必要があり、そして大きいものは火の通りが不均一になりやすい。故に、なるべく同じ形、同じ大きさに切る必要がある。だからこそ、少々定石から外れた乱切りにせざるを得なかったのだ。
そのことに気づけたのは、おそらくこの教室の中では清水をはじめとした普段から調理を嗜む数人だけ。そして悲しいことに、華苗はその数人の中には入っていなかった。
「まだかな、まだかな」
「ダメダメ、もうちょい待たないと」
「……ストーブの火、もっと強めようぜ!」
「それをやったら、本末転倒になっちゃうね」
寒さに体を震わせながら、しかし心はわくわくとさせて。
クラスのみんなは、まだかまだかとその瞬間を待ちわびる。
やがて、鍋から白い湯気が出始めて──ぽこぽことカブを押しのけるようにして泡が出始めてから、よっちゃんはとうとう動き出した。
「ここで味噌! あと葉っぱ! 全部入れちゃう!」
まずはカブの葉っぱが鍋に入れられて。そしてワンテンポ遅れて、味噌も投入されて。当然のごとく、味噌はお玉で少しずつ溶かしながらではあるが……その瞬間に、どこか懐かしさを覚えるような良い香りが教室に広がっていく。
「うわあ……!」
「めっちゃいい匂い……!」
「やべェよ……! これ絶対美味しいやつだよ……!」
ことこと、ことこと。
火の勢いはそのままに、さらに一煮立ち。カブにも、葉っぱにも十分に火が通ったことを確認してから。
とうとうそれは、完成した。
「できた! カブのお味噌汁!」
誰もが競うようにお椀を差し出し、そしてよっちゃんは慣れた手つきでお味噌汁をお椀に入れていく。お玉で一杯分掬うだけ……ではあるが、不思議とどのお椀も具材の量は均一だ。
「手があったかい……!」
「お、美味しそう……!」
ほわんほわんと絶え間なく立ち上る湯気。お味噌汁の良い香りと熱気。まだ一口たりとも飲んでいないのに、この段階でなんとなく温かくなっているような気さえする──この朝の寒い教室に満ちているのは、冬の冷気ではない素敵な何かである。
「ほら、華苗も!」
「ありがと!」
手のひらからじんわりと伝わってくる温かさ。人肌の温かさとも、お日様の温かさとも、そしてもちろんストーブの温かさとも違うその温かさ。ずっと触っていると火傷しそうになるのに、それでもその温かさを感じ続けていたいと思ってしまうのは、果たしてこの寒さのせいだけなのか。
「じゃあ……頂きます!」
自分でも頬がゆるゆるになっているのを確かに感じながら。
華苗はそっと、お椀の淵へ口をつけた。
「……美味しい!」
「あったけえ!」
「うんまい!」
「最っ高ぉ……!」
「染みるわァ……!」
クラスメイトの口から零れる称賛の言葉なんて、もはや気にもならない。華苗の頭から思考という概念を吹き飛ばすほど、このカブの味噌汁は美味しい。
ごろごろと入っている大きなカブ。良い具合に火が通っていて、とろとろと口の中でほぐれるかのよう。カブの優しくも強い甘さが心地よく、そして味噌のしょっぱさがカブの美味しさをこれでもかと引き立てている。
そう、カブに味噌の味が染みているのだ。とろとろのカブをぎゅっと噛みしめると、閉じ込められていたその美味さが口いっぱいに広がって、その風味が鼻にふわっと抜けていくのだ。
そして、口から喉へ、喉からおなかへ、そしておなかから全身へ──その幸せと温かさがじんわりと伝わって、心も体もぽかぽかになるのだ。
「カブの食べ応えが最高だね……! とろとろなのに、ちゃんとしっかり噛み応えもあって!」
「でしょ! 皮を残しておいて正解だったね!」
「葉っぱもしゃきしゃきしていて美味いな。おれ、こういうのけっこう好きだ」
「もっと褒めろ!」
カブの葉っぱ。なるほど確かに、しゃきしゃきとした歯ごたえがしっかりと残っていて、食べていて小気味よい。ほんのりと感じられる苦みがちょうどいいアクセントになっているというか、カブの甘さと味噌のしょっぱさに奥行きを与えてくれるような気がする。味に飽きをこさせない──そもそも飽きることなんてありえないと思うが、ともかくこのカブの葉っぱは、このお味噌汁を美味しくするために必要不可欠なものであると華苗にはそう思えてならなかった。
「あったかぁ……! 本当にあったかいよぉ……!」
「この良い意味で豪快な感じがいいねえ……!」
「冬の朝に飲む味噌汁が世界で一番美味い……!」
「本当それ……! めっちゃ寒い外で、震えながら飲むのが最高に美味しいやつ……!」
華苗たちは、寒さに震える体を温めるためにこのお味噌汁を作った。お味噌汁を楽しみたいという気持ちに偽りはないが、あくまで目的は体を温めることであって、お味噌汁を楽しむというのはちょっとした副産物に他ならなかった。
けれども今は。
もっと寒い中でこのお味噌汁を飲みたい──そうすれば、きっともっとこのお味噌汁が美味しく頂けるのではないかと、そんなことを考えてしまっている。
「いやでもめっちゃ美味くね……!? カブだけなのになんでこんなに美味いんだよ……!? 俺こんなにカブが甘いなんて初めて知ったよ……!!」
「おまけにカブの筋は全然気にならないし、なのに食べ応えもあるし……! そして何より、とろとろの食感が絶妙!」
「良いカブと良い味噌使ってるから……かなあ。でも、ストーブの適当火加減でここまで上手には普通はできないけど……」
「そこはほら、あたしの腕前ってことで!」
美味しい。
本当に、美味しい。
カブ本来の素材の良さを存分に活かしたお味噌汁。シンプルだからこそカブの旨味をより楽しめるし、そしてこの寒さが極上の調味料となっている。もし真夏にこのお味噌汁を飲んだとしても、きっとここまで美味しくは感じられなかったことだろう。
「うわわ……めっちゃいい匂いがするんですけど!」
「おいおいおいおい……! 思った以上に盛り上がってるじゃん……!」
「昇降口のほうまで良い匂いしてめっちゃ楽しみだったの!」
新たに登校してきたクラスメイトが、寒さに体を震わせながらストーブの近くへとやってくる。やはりというか、このお味噌汁のいい匂いは教室の外まで……それこそ、昇降口のほうにまで漂っていたらしい。「なんか朝からすっごくテンションあがった!」だとか、「夕方にカレーの匂いがするのと同じくらいわくわくした!」だとか、そんなことを口走っている。
「あったけえ……!」
「美味しい……! すっごく、すっごく美味しい……!」
「何杯でもいけるわ……! というか、できるなら白いお米も欲しい……!」
「「わかる」」
大きな大きなお鍋のはずなのに。あれだけたくさんあったはずなのに。気づけばその中身はどんどん減っていて、あともう少しで完全に空になってしまう。当然のことながら、こんなにも美味しいお味噌汁をたった一杯だけ……たったそれっぽっちで満足できるはずもなく、華苗たちの視線は自然とよっちゃんのほうへと向けられていた。
「おっけー、追加いってみようか!」
「「うぉぉぉ!」」
獣染みた雄たけび。甲子園で逆転サヨナラホームランを決めたときか、はたまたサッカーで名門校相手に弱小チームがハットトリックを決めたかのような、そんな熱狂に勝るとも劣らない高揚。少なくとも、何も知らない人がこの歓声を聞いて……これがお味噌汁の追加に喜ぶ高校生の声だとは、とても想像できないことだろう。
「カブは丸々太った活きの良いのがまだまだあってぇ……! お味噌も十分に残っていてぇ……!」
とんとんとん、ざくざくざく。
上機嫌に鼻歌なんて歌いながら、よっちゃんはカブを切っていく。その傍らにはいつの間にか誰かが持ち込んだペットボトルの天然水が数本置かれており、そしておじいちゃんの作った秘蔵のお味噌にも余裕がある。
「はい、どーん!」
「「えっ」」
ぽいぽいぽい、とカブを入れて。
とくとくとく、と水を注いで
そしてちょいちょいちょい……と味噌を投入したと思ったら。
「うわぁ……美味しそうなお味噌汁が一瞬でできてるぅ……」
「いやいや……そりゃ、うすうすそうじゃあないかと思ってはいたけどさァ……!」
「実際に目の前でやられると、やっぱ信じられないよね……」
「……あれ? みんないらない感じ? いらないならあたしが鍋ごと飲んじゃうけど?」
「「いただきます」」
よっちゃんもまた、この園島西高校の生徒──すなわち不思議な部活の部長なのだ。園芸部の華苗という見た目的にも実利的にもインパクトの大きい部活があるせいで陰に埋もれがちだが、文字通りの一瞬で料理をすることくらい、やろうと思えば簡単にできてしまうのである。
ついでに言えば──よっちゃんがやってみせた明らかに自然の摂理を捻じ曲げたその行為に驚いている彼らも、自分の部活の範疇であれば似たようなことをできたりする。お互いがお互いとも、【自分のところの部活以外はブッ飛んでいる】と思っているというのは、もはやこの園島西高校の風物詩(?)と言って良い。
「母さんには悪いけど、ウチで飲むカブの味噌汁より美味しいな……!」
二杯目のお味噌汁を飲みながら、満足そうにつぶやく柊。ほわほわと漂う湯気の向こうにあるその笑顔があまりにも眩しくて、華苗の心臓も早鐘を打ち始める。きっとこれは体が温まってきたせいだ──なんて、自分でもわかり切っている言い訳をするも、華苗はどうしてもその笑顔から目が離せない。
「ね、克哉くん」
「どうしたの、華苗ちゃん」
「……カブ、お土産に持ってく? たくさんあるし、今日の帰りにでも畑に寄ってくれればいくらでも渡せるから」
「……お言葉に甘えてもいいかな?」
「もちろん! あと、その代わりと言ったらなんだけど……」
「うん?」
あたたかなお味噌汁を一口飲んで。
華苗は、にっこりと笑って言った。
「──お母さんからカブの感想と、お味噌汁のレシピを聞いておいてもらえると嬉しいな!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「いやぁ~……! 食べた食べたぁ……!」
「おなかいっぱいだし、体がめっちゃぽっかぽか……!」
よっちゃんが満足そうに体をぐうっと伸ばし、そして清水が心地よさそうにおなかをさする。朝の冷気に体を震わせていたのなんて夢か幻であったかのように、そこには確かな満足感が満ちていた。
「温かい……というか、むしろちょっと暑くなってきたかも……」
「……うん、本当にね。暑いというか熱かったよね」
「ウチの子ってば……人の家のお味噌汁のレシピを聞き出すほどしたたかになるなんて……」
「き、気になっただけだもんっ! 別に変な意味なんてないんだからねっ!」
朝のホームルームが始まる五分前。既にクラスメイトは全員教室にそろっていて──もちろん、全員がお味噌汁を三杯は飲んだ──そして、後片付けもばっちりだ。まだまだ教室にはお味噌汁の良い匂いの余韻が残っているものの、食器はあらかた片付け終わっているし、いまなおストーブの上にある鍋に入っているのはお味噌汁ではなくただの水……つまりは、空焚きしないように加湿器代わりに水を入れているだけである。
「これから毎日お味噌汁でもいいねえ……」
「……よっちゃん、早起きできるの? いつも結構ギリギリじゃん」
「や、そこは史香に作ってもらう感じでいこうかと。むしろ史香以外にいなくない?」
「できなくはないけどさぁ……よっちゃんより美味しいのは無理だよ……」
「いーのいーの、そんなの気にしない! 料理は愛情って言うじゃん!」
一度この幸せを知ってしまったのなら、もう前の生活には戻れない。温かくて美味しいお味噌汁の味を知ってしまったのなら、寒さに震えながら頼りないストーブの温かさを求める生活なんて耐えられるはずがない。
今回の朝のお味噌汁は華苗たちに素晴らしい体験と発見をもたらしてくれたが、それと同時に、あまりにも大きなデメリットすらももたらしている。こればっかりはもう、誰が悪いわけでもない仕方のないことであった。
「おはよう……今日もみんな揃っているな?」
「おはよ!」
「よっ、ゆきちゃん! 今日もかっわいー!」
「……全く、元気が良すぎるってのも考え物だな」
そして、我らがゆきちゃんがやってくる。今日も今日とてクールでカッコいい……けれど実はおちゃめでちょっとずぼらな華苗たちの担任は、ホームルームを始めるべくいつもの通り教壇に立つ──のではなく。
「うーん! やっぱお味噌汁の匂いってのは良いもんだなあ! 先生、職員室にいるときからもう気になって気になってしょうがなかったんだよ!」
つかつかつか──と、ちょっとばかり速足で、教壇をスルーしてストーブの前……より具体的に言うならば、ストーブの上にある鍋の傍らへと歩を進めた。
「全く、こんなに楽しそうなことをするなら教えてくれても良かったじゃないか。さすがにお椀なんて常備してないから、職員室で使ってる自前のマグカップ持ってきたんだよ」
「「……あっ」」
ゆきちゃんの左手にあるマグカップ。
ゆきちゃんのどこか嬉しそうな顔。
そして、ゆきちゃんの右手が鍋の蓋に伸びたとなれば──クラスにいる全員が、この後起きてしまう運命的なまでの悲劇を直感した。
「……えっ」
固まるゆきちゃん。
固まる華苗たち。
「え……あれ?」
ぎぎぎ、と錆びついた機械のような動きで華苗たちのほうへ振り向くゆきちゃん。
さささ、と互いに視線を逸らす華苗たち。
温かいはずの教室に満ちる、冷たく重い空気。
誰も悪くない、避けることができない事故だったからこそ……華苗たちの心に満ちる罪悪感は、それはもう凄まじいものであった。
「ね、ねえ……」
じんわりと目に涙を溜めたゆきちゃんは。
ひきつったような笑みを浮かべ、絞り出すように言葉を紡いだ。
「せ、先生のは……?」
空の鍋。
るんるん気分で蓋を空けたゆきちゃん。
あまりにもあんまりで、どうしようもなく居た堪れなくて……だから、誰も言葉を発することができなかった。
「せ、先生もこのクラスの一員……だよな?」
「……」
「朝、ここに来るまで、お味噌汁のすっごくいい匂いがして……ウチのクラスのほうからだってわかって、慌てて職員室にマグカップを取りに戻って……」
「……」
「わ、私も、学生時代は似たようなことをやってたし、懐かしい気分にもなって……」
「……」
「それ以上に……朝にお味噌汁を飲むの、ほ、本当に久しぶりで……」
ゆきちゃんは独身アラサーのがけっぷちなおねえさまだ。一人暮らしゆえに朝は割と適当に済ませることも多いし、かつて子供だった時のように、起きたら朝食の支度ができている……なんてことがあるはずもない。何でもない平日の日の朝にお味噌汁の良い匂いを嗅いだというのも、本当に久しぶりの事だった。
そんなゆきちゃんが、自分のクラスから漂ってくるお味噌汁の良い匂いにある種の郷愁と大いなる期待を抱いてしまうのも無理はない。むしろ、それは日本人として当然のことなのだから、ゆきちゃんに限らず誰でもそうしてしまうことだろう。
そして──そんなゆきちゃんの心を埋め尽くした絶望を、まだ高校生でしかない華苗たちは想像できるはずもないのだ。
「は、はは……いや、そうだよな。学生のお楽しみに、先生が邪魔するってのは野暮だもんな」
「い、いえ……! あの、その、決してゆきちゃんをないがしろにしていたわけではなく……」
あまりにも不憫で居た堪れないと思ったのだろう。『お前なんとかしろよ!』……というクラスメイトからの無言の圧に押された柊が、慎重に言葉を選んで対話を試みる。
「そ、それに! 授業が始まる前に関係がないものを片付けるのは普通ですよ!」
「ああ、うん。そうだよ、その通りだ……お前たちは何も間違っていない。むしろ今どきの学生としては珍しいくらいに模範的だ。さすがは私の自慢の教え子だよ」
「……」
「単純に、先生が勝手に一人で浮かれて、勝手に一人でダメージ受けてるだけさ……はは、こんな不甲斐なくて情けない先生でごめんな……でも、大人ってのはいろいろあるんだよ……」
「……あ、あの」
「………………ぐすん」
怒られるよりも。
不機嫌になられるよりも。
悲しそうに、無理やり笑顔を作られる方が──あるいは、そんな状態でぽろりと一粒の涙を流される方がよっぽど心にクることを、華苗たちは知ってしまった。
「……皆川さん」
クラスを代表して、柊が声を上げる。
もちろん、華苗たちの気持ちはおんなじだった。
「うん。いくらなんでもゆきちゃんが不憫すぎる……なんだろ、めっちゃ心がちくちくする。なるべく早急に、なんとかしないと」
「お昼休みにお願いできるかな? 材料は……三限が体育だから、終わった後に僕と華苗ちゃんで畑に寄れる、はず」
「じゃ、私が調理室でお味噌を拝借してくるね」
「そして四限は化学、つまりはゆきちゃんの授業だ。今日は実験じゃないし……授業が終わる少し前に、鍋を火にかけることもできる」
あくまで鍋を火にかけるだけ。授業中に調理をするわけではなく、部屋の乾燥を防ぐため、そしてストーブの熱を無駄にしないための措置なのだから問題ない──と、柊は言い切った。
「すみません、先生。どうも僕は昔から喉が弱いみたいで。特にこの冬場の乾燥はとてもじゃないですが耐えられないんです。だから──授業中にストーブでお湯を沸かすことを、許してもらえると嬉しいです」
「……ずるいぞ、柊」
「何のことかはわかりませんが……先生ならこう言われたら断れないですもんね。ええ、つまるところ僕のワガママなので、先生が心配することなんて何一つないんですよ」
教師としての立場で言うなら、授業中に調理のためのお湯を沸かすことなんて認められるはずがない。そしてゆきちゃん個人としての立場で言うなら、お昼の時間にあったかいお味噌汁を楽しみたい。そんな相反する主張に対する最適解を、柊は学生という身分、そしてあくまで自分のワガママであるという名目を以て作り出そうとしているのだ。
「……今日だけは、甘えていい?」
「今日だけと言わず、いつだって。だって──先生も、クラスの一員でしょう?」
──その日のお昼休み。華苗たちのクラスから漂うお味噌汁の良い香りは、楽しそうな笑い声と共に学校全体に広がっていた。
結局は家でよく飲む「いつものお味噌汁」が世界で一番美味しい。
あと、親戚の家で出てきた竹のお味噌汁も美味しかったっけ……。たけのこじゃあなくて、細い竹が入っているお味噌汁なんですよ。郷土料理ってわけじゃあないですが、裏山(?)から採ってきた若い竹って言っていたような……。
冬のストーブをどう有効活用するのかってのは、もう今どきの学生さんたちは体験できないことなんですかねえ……。私の時はポップコーンを作ってる人がいましたが、【映画館の匂い】が教室どころかフロア全体に広がってちょっとした騒ぎ(?)になりまして、「こんなつもりじゃなかったんだ、俺はただポップコーンを食べたかっただけなんだ」って言っていたのを覚えています。しかも微妙に火力が足りずに二割くらいが弾けなかったような……?