125 冬朝の教室
「さっむ……!」
冬の朝。一応は室内──昇降口だというのに、ほう、吐いた息はどこまでも真っ白で、窓から差し込んだ頼りない日差しに照らされて広がっていく。凍てつく空気は華苗の耳を引き千切らんとするばかりで、いったいどうしてこんなにも寒いんだ、せめてもう少し加減ってものを考えてほしい──なんて、華苗に思わせるには十分すぎるほどのものだ。
「鼻がちべたい……」
手袋もマフラーも付けたまま、華苗は教室へと向かう。完全に無防備な鼻はびっくりするほど冷え切っていて、もはや文句を言う気力すらわかないほどだ。
「おはよー……」
教室の扉を開けると……廊下よりかはずいぶんと温かい空気が、華苗の鼻の頭を撫でた。温かさと同時に運ばれてきたのは、特徴的な火の匂い──あるいは、灯油の匂い。もっと情緒的に表現するならば、冬の朝の温かさの匂いとでも言うべきものだ。
ただし。
「おはよ、華苗ちゃん!」
「史香ちゃん……」
よいしょ、と華苗は自分の席に荷物を置いて。
そして、寒くて寒くてたまらないと言わんばかりに、いそいそと清水の隣──つまりは、ストーブの近くへと身を寄せる。
──そこには、華苗と同じように小さく体を震わせた女子が、お互いの体を押し付け合うようにして身を寄せ合っていた。
「なんか……ストーブついているけど、あんまりあったかくなくない?」
かじかむ手のひらをストーブにかざしながら、華苗はぼんやりとつぶやく。ストーブの窓から見える炎はなんとも頼りなく、次の瞬間には消えてしまうのではないかと思えるほどにか弱い。優しい温かさだ……とフォローするのも憚られるような、見ていて情けなくなってくるほどの弱火であった。
「もうちょっと強くしてもよくない……? これじゃあ全然あったまらないよぅ……」
「……私も、っていうか、今この場にいる女子全員が同じこと思ってるんだけどね」
「──何度も言うが、これ以上強くするのは認めない」
会話に割り込んできたのは、女子たちに恨めしいまなざしで見つめられながらも表情を一切変えていない田所であった。
「……田所くん?」
「このストーブはおれが点けた。そして、おれはほかでもない女子たちからこのストーブの管理を任された。故に、おれはおれの責務を全うしなくてはならない」
「……えーっと」
「ほら、ウチのクラスで一番早く教室に来るのはミキでしょ? だから、ストーブ点けて教室を温めといてね──って、頼んだのが間違いだった」
田所はこのクラスで誰よりも早く登校する。華苗も詳しい時間までは知らないが、少なくとも朝のHRの三十分以上前には到着しているはずだ。で、朝のその余暇(?)を使って手品の練習をしたり、ジャグリングのボールを投げたり、なにやら手でコインを弄んだり──と、教室で部活の自主練するのがいつものルーティンなのである。
だから、一番早く教室に着く田所にストーブを点けておいてほしいと女子が頼むのに何ら不思議はない。ストーブのスイッチを入れるくらい大した手間じゃないし、教室があったかくて文句を言う人間はどこにもいない。むしろ、寒い部屋を暖めておいてくれてありがとう……と、田所はみんなから感謝されてもいいはずだ。
なのに、実際は。
「ミキってば、本っ当に最低限の弱火にしかしてくれないんだよ……!」
「お前らの言う通りの火力にしてたら、二日とかからず灯油が無くなるぞ。実際、ガンガン焚いてた他所のクラスはあっという間に灯油が切れただろ?」
「う……」
「最初だけ強火にする、ならわからなくもないが。おれが様子を見る限り……女子はみんな、強火にしたまま戻そうともしない。日中になってもそのままだ」
「……」
「たった二日間だけ温まって、残りの三日間を外と同じ寒さで過ごすより……『ちょっと物足りないかも』くらいの温かさで五日間過ごす方が何倍もマシだろ。だからこそ、他所のクラスからもストーブにあたりに来るやつがいる」
「……ミキの正論マン」
「正論は、正しいからこその正論だからな」
つまるところ、田所は女子たちに託された使命を全うすべく灯油の管理をしているだけだ。女子たちにとって想定外だったのは、田所がその使命を思った以上に全力で──一切の妥協と甘えを許さずに果たそうとしているところだろう。
尤も、目の前の誘惑や快楽に溺れさせない強い実行力と言えば聞こえは良いが、今この瞬間、女子たちにとって最も大事なのは「寒いもんは寒い」というその事実であった。
「文句を言うなら、これっぽっちしか灯油を供給しない学校に言うんだな。……だいたい、こうして人が集まったら部屋もだいぶ暖かくなってくるだろ?」
「そうだけどさ……それでも、こうやって身を寄せ合って温め合うくらいには寒いんだよ? こう……震える私たちを見て、なんか思ったり感じたりしないの?」
「テントウムシっぽいなって思った」
ぐぇ、と田所の口からカエルを踏み潰したかのような声が漏れる。
清水の肘が、田所の脇腹に見事にキマっていた。
「今のは田所くんが悪い……のかなあ?」
「言うに事欠いて、女の子をテントウムシ扱いするのはどう考えたって悪いでしょ?」
ぎゅ、と華苗の体が清水に抱きしめられる。ちょうどいい抱き枕かつゆたんぽとして活用しているのだろう。よっちゃんという極上の温かさと柔らかさをすでに知っている華苗にとって、清水のそれは少々物足りない感じがしたが、しかし寒いことに違いはないのでただ黙ってそれを受け入れた。
「……一応、弁明をさせてもらおうかな?」
「あ、克哉くん……おはよ!」
みかんを二つほど手に持った──教室の後ろの段ボールから持ってきたのだろう──柊が、小さく体を震わせながら華苗たちの会話の輪に加わった。
「女子からストーブの管理を託されるまで……自分一人だけの時は、あいつは一度もストーブを点けなかった。かじかんで真っ赤になった手のまま、一人でボールを投げてたんだよね」
「え……そんな、どうして?」
「自分一人しかいないのに、貴重な灯油を使うわけにはいかないから……って言ってた」
みかんの皮をむきながら、柊は語る。なんでも数日ほど前に、朝練の関係で朝早くに教室に赴いたところ、寒さに身を震わせながらボールを投げる田所を見かけたらしい。教室の中なのに息が真っ白だったから、印象に残ってたんだよね──と、柊はみかんを口に放り込みながらしみじみとつぶやいた。
「まぁ、清水さんたちの言うこともわからなくはないんだけどね。女子はスカートだから僕らよりも寒いだろうし」
「そう! そうなの! もっと言ってやって、柊!」
「…………でも、ストーブを占拠するのはいつだって女子なんだ」
「「あ」」
純然たる事実。
先ほどから華苗たち女子はストーブにあたっている……身を寄せ合ってその火の温かさを享受しているが、一方でほかの男子はそこから外れた場所でぷるぷると震えている。それもそうだろう、女子がこんなにも大挙してストーブの周りを占拠しているのなら、男子にまでその温かさが届くはずもない。
それでなお、文句の一つも言わないのは……男子には男子なりの気遣いや優しさがあるあからにほかならなかった。
少しばかり寂しそうに最後の一口のみかんを食べた柊は、ふっと柔らかく微笑んだ。
「でも、いいんだ。確かに僕らも寒いけど、女の子はもっと寒い。それに、女の子は体を冷やしちゃいけない……って、よく言うだろう?」
「そしておれたち男子は、寒くはあるけど耐えられないほどじゃない。なら、おれたちもこの寒さを受け入れる必要があるのは当然だ」
「「……」」
寒いのは女子だけじゃない。そんなごくごく当たり前の事実を突きつけられて、華苗も清水も──というか、この場にいた女子全員が口を噤む。まったくもってその通りなので反論のしようがないし、そしてなにより、女子たちは男子を差し置いてストーブを独占している。この時点でもう、何の言い訳も弁明もできないのだ。
「柊、みかん」
「僕はみかんじゃありません……っと」
ぽーん、と投げられたみかんを、田所はごく当たり前のように左手でキャッチする。そして、当然のように左手だけを使ってその皮を剥きだした。
──五本の指がそれぞれ別の生き物であるかのような、ともすれば気味が悪いとも言える動き。しかしながらその動きは明らかに普段と比べてぎこちなく、冷気にやられて真っ赤になってしまっている。
「ちょ、ちょっとだれか……カイロとかもってない!? な、なんかあまりにも男子が不憫になってきた……!」
「そんなのとっくに冷たくなってるよ! 温かかったらストーブに当たってないって!」
「あったとしても、さすがに男子全員分のなんて無いよぉ……!」
女子が慌てている間も、田所は黙々とみかんの皮をむく。時間にして三十秒もかからずに剥き終わり、そしてやっぱり一切の表情を変えずにその冬の甘みを口の中へと運んでいく。どうやら本当に気にしていない──自分もまた寒さを耐えるべきだと考えているようだが、それが却って女子たちの心の中になんとも言えない罪悪感を生み出していく。
「……か、克哉くん」
「なんでしょう?」
「……隣、来る? 寒いんだよね?」
「とてもとても魅力的な提案だけれど、さすがにその勇気はないかな……」
そして、どさくさにまぎれた華苗の勇気を振り絞ったお誘いは、あまりにも無慈悲に拒絶される。女子がおしくらまんじゅうしている中に突っ込める男子高校生なんて、いるわけがないのだ。
「……もう、何もかも寒いのが悪いってことで良くない? うん、全部冬のせいだ!」
「史香ちゃん、それあまりにも暴論が過ぎるよ……ねえ克哉くん、男子ってひざ掛けとか持ってないの?」
「うーん……少なくとも、僕の周りでは見たことないかなあ」
女子たちの冬の必須アイテムであるひざ掛け。ハーフケットとかブランケットとか呼び方はいろいろとあるが、つまるところお手軽に扱える毛布みたいなアレだ。華苗だって当然のように持っているし、こうしてストーブに当たっている女子もまた、肩にかけたり腰に巻いたり……と、各々個性を見せつつ活用している。
「温かそうだとは思うけど、膝が冷えるってことはあんまりないからかな? ……逆に、どうして女子はみんなひざ掛けなんだろう?」
「それは……スカートだから?」
「ああ、それはそうなんだけど……えっと、ほら」
「うん?」
「女子のひざ掛け、同じのを使っている人を見たことないなって。一クラスに女子は二十人くらいいるんだから、誰かしら被っても不思議はないはずなのに」
「……そういえば、なんでだろ?」
「なんかお互い、無意識に同じのは避けてるから……とか?」
「でも、ひざ掛けの柄なんてそんなに多くはないでしょう? 冬らしいチェックの柄で、色合いも冬らしい落ち着いた色……そんなに組み合わせは多くないと思うんだけどな」
確かに、今この場にいる女子たちのひざ掛けのデザインはみんなバラバラだ。そりゃあ、似たようなデザインのものが無いわけではないが、だからと言って「同じもの」と認識できるほどではない。他人のひざかけを間違って持って行ってしまう……なんて事故は絶対に起きえないと言っていい。
「中学の時さ、女子のひざかけがちょっと問題になったことがあって。華美なものはダメだって学校側は言ってたんだけど、華美の基準が曖昧で先生によってアウトの判定が違ったんだよね」
「あー……そーゆーの、柊の学校でもあったんだね」
「うん。で、怒った女子が『今どき無地のひざ掛けなんて売ってないし、ギンガムチェックでダメなら制服のスカートも、先生たちのマフラーも全部ダメじゃん』って……」
「冬物はチェック柄のが多いし、シンプルだけどオシャレなやつっていっぱいあるもんね……」
「結局、なんだかんだあってチェック柄なら何色であっても大丈夫ってことになったんだけどね。華美なものはダメだっていう先生たちの気持ちもわからなくはないけど……普通に市販されているひざかけを普通に使ってるだけで怒られていた女子には、今でも同情するよ」
華美なひざ掛けとそうでないひざ掛けの区別は僕には最後までわからなかったよ──なんて、柊は笑う。もちろん、高校生にはひざ掛けのデザインに規制なんてあるわけがない。そりゃああまりにも派手で常識から外れているものは注意を受けるかもしれないが、普通のものだったら普通に使って何ら問題が無いのだ。
「ひざ掛けのデザインのことはよくわかんねえけど、おれ、ちょっと気になってることがある」
「ん? どしたの、ミキ?」
「……女子って本当に寒いと思ってるのか? ただ単に、可愛いひざ掛けを見せびらかしたいから大げさに寒がっているだけ……じゃ、ないのか?」
「え……いやいや、さすがにそれは無いよ。私らがこんなにも寒そうにしているのが、ミキには演技に見えるの?」
「……夏の暑い日に」
「うん?」
「暑い暑いと口では文句を言いながらも、女子の半数以上は袖の無いセーターを着ていた。アレはつまり、そっちの方が可愛いから……ってことだろ。つまり、体温調節のために服を着ているんじゃあなくて、見てくれ最優先で服を着ているってことだ」
「ああ……セーターっていうか、ベストのことね」
「確かに、ニットのベストとかあったかいもんね……」
田所の言う通り、女子の半数以上は夏場にベストやその類のものを着用している。男子も冬場はベストを着る者がいるし、その温かさは体感しているわけだから、疑問を持つのもある意味では当然のことなのだろう。
だけれども。
「……」
「……」
「……その、ねえ?」
だからこそ、そのまま正直に理由を答えるというのはちょっと憚られる。ついでに言えば、可愛いから着ている……というのも理由の一つであるからこそ、答えにくい。
「あー……ほら、アレだよ」
ちょっぴり意外なことに、田所に声をかけたのは柊だった。
「さっき言ったろう? 女の子は体を冷やしちゃいけないって」
「それはそうだけど、さすがに夏だぞ? あの地獄のような炎天下だぞ?」
「だからこそ、だよ。電車やバスだと冷房が利きすぎていることがあるじゃないか。それほど強くない冷房でも、エアコンの真下だったり風が直接当たる場所だったりするとかなり冷えるから」
「…………なるほど」
確かにそれは、ベストを着る理由の一つではある。場所によっては信じられないくらいにエアコンが利いていて、夏だというのに震えてしまうほど寒いことだってあるのだ。そういう時にベストは何よりも頼りになるし、重ね着して暑くなるとは言っても半袖だから、上着を羽織るよりかは全然良い。
「そ、そうそう。ちょうどいいのってなかなか無いんだよねー」
「結構通気性もいいし、意外と快適なんだよ?」
「冷気からは守ってくれて、でもそんなに暑くない……ベストを着ない理由がないでしょ?」
どこかよそよそしく、女子たちは口々にそんなことを語る。
そういうことにしてくれないと、いろいろもろもろ気恥しいことになりかねないのだから、しょうがない話であった。
「……ね、克哉くん」
華苗の心の中に芽生えた、ちょっぴり悪戯な心。
ちょいちょい、と華苗は柊の脇腹をつつき、こっそりと彼の耳に手のひらを添えて──内緒話の体勢に入った。
「……ベストを着る本当の理由、知ってるでしょ?」
からかうようにささやくと──ぴく、と柊の体があからさまに強張るのがわかった。ついでに言うと、見ていて面白いほど目が泳いでいる。
「だから、わざわざ助け舟を出して話題を逸らそうとしたんだよね?」
「な、なんのことかな?」
「うん、女子はみんな気づいているよ。男子だったら気にしないことなのに……どこでそんなこと知ったのかなあ?」
「……な、なに言っているか全然わかんないや」
「……じゃあ、自分がそうだから気づいたってこと?」
「……さ、さあ?」
「…………えっち」
「嘘ですごめんなさい、実は姉さんがいろいろ教えてくれたんです……っ!」
「最初からそう言えばいいのに!」
大学生の姉が、一般常識ということで無理矢理教えてきたのだ──と、柊は必至に弁明する。実際その通りなのだろうし、そして女子が夏場でもベストを着る理由なんて田所以外の男子はだいたい知っていそうなものだが、しかしそれでも、柊のこんな表情を見られるというのが華苗にとっては面白くって仕方がない。
いつのまにやらすっかり「内緒話」ではなくなっているが、二人は気づいていない。ついでに言うと、朝から楽しそうにイチャつく(?)二人を見守る周りからの温かい視線にも、気づいていなかった。
「この際だから、ほかにもいろいろ吐いちゃいなよ?」
「い、いや……正直そんなには知らないよ……?」
「……ほんとぉ?」
「えっと……華苗ちゃんだから言うけどさ……。ベストを着るのは、薄着になったせいで目立ちがちな体のセンを隠したかったり、あとは折ったウェストの折り目をバレないように隠すためでもあるとか……」
「お、おお……なんか、思っていた以上にがっつり知ってるんだね……?」
「いざってときのために覚えておけって言われたんだよ……その時はまるで意味が分からなかったけれど、さっきの田所を見てようやくその意味が分かったよ……」
「…………なんか、スカートに十円入れるのも知ってそう」
「えっ……十円じゃなくて五円じゃないの……? 穴が何かと便利だし、十円よりも軽くて枚数で調整が利くから動きが不自然にならないって……」
「「え」」
「え」
思っていた以上にガチだった回答。まさか女子視点でここまでしっかりした答えが返ってくるだなんて、いったい誰が予想したことだろう。スカートに硬貨を入れる理由を知っているばかりか、その後の動きの違和感にまで言及するだなんて、果たして女子であっても何人いることか。
「うわあ……うわあ……」
「柊、あんた……」
「ちょ、ちょっと私……柊のこと、見誤ってたかも……。スカートの十円なんて今どきの女子で実践している人なんていないし、古典みたいなものなのに……」
「五円玉の穴って……実際にやったことないとわからないことだよね……?」
「誤解です、本当に誤解なんです……ッ!! 全部、全部姉さんが……ッ!!」
「……仲がいいんだね、お姉さんと」
「いや、あの人はただ単に性格が悪いだけだよ。困惑するだろうってのがわかっていて無理矢理教えてくるんだから」
なんだかちょっぴりそんな気分になった華苗は、一切の遠慮なく清水の体を抱きしめ返す。自分でも理由なんてよくわからなかったが、とにかくそうしたい気分になってしまったのだからしょうがない。
「……スカートに金を入れる? 緊急時に公衆電話を使うため、か? だったら、五円よりも十円のほうがいいんじゃないか?」
「田所、それは別に蒸し返さなくていいんだ……けど、そういう考えもあるのか」
「……それ以外に衣服に金を忍ばせる理由があるのか?」
「うん、その通りだ。だからこの話はおしまい!」
「了解」
そうして話は振出しに戻る。いや、別に議論や討論をしていたわけではないのだが、何か一つの区切りがついたのだけは間違いなかった。
「僕たち、何の話していたんだっけ……」
「教室がすっごく寒くて、ミキがストーブの火を強めてくれないって話」
「ああ、そうだったね……ストーブで温まれないのなら、何か温かい飲み物でもあればいいんだけど……さすがに毎日自販機で温かいものを買うのはなあ……」
「克哉くん、電気ケトルって教室に常備するのはアリ?」
「…………微妙なラインだね。ダメとは言われていないけど、学業に関係ないし、良いと言える根拠もない」
電気ケトルがあれば、さっとお湯を沸かすことができる。お湯さえあれば、インスタントのコーヒーやココアを楽しむことができる。スティックを破ってお湯に混ぜるだけだから手間でもないし、自販機で温かい飲み物を買うよりもずっと安く済む。
ただ、自前のマグカップを用意しなくてはならない──明らかに学業に関係のないものが必須となるのがネックだ。高校生なのだからあまりうるさい小言は言われないはずだが、いくらなんでも学校の教室として所帯じみすぎていると言えないこともない。
「さ、寒い~!」
「あ」
どたばたと元気な足音が聞こえてきたと思ったら。
鼻の頭の先まで真っ赤になったよっちゃんが、がちがちと震えながら華苗たちのほうへとやってきた。
「す、ストーブ! ストーブ当たらせて!」
「隣おいで、よっちゃ……ぎゅむ」
「うひぃ……かなちゃんってば、あったかあ……!」
一切の遠慮なく抱きしめられた華苗は、お返しだとばかりによっちゃんの体を抱きしめ返す。なんだか体温を思いっきり奪われている気がしないこともないが、優しい華苗はあえてよっちゃんのされるがままにされていた。
「……なんか、ストーブの火ィ弱くない? みんな寒くないの?」
「うん、さっきまでその話してたんだけどね……これ以上強くしたら、灯油が二日で切れて三日間凍えて過ごす羽目になるぞってミキが言うの」
「ありゃりゃ……そりゃしょうがないか。……ね、史香は後ろから抱きしめてよ。あたし、背中ちょっと寒い」
「しょうがないなあ……」
そうして誕生する、小、大、中のサンドイッチ。女の子同士だからこそ許されるその温かさに、よっちゃんはふわりと顔をほころばせた。
「やっぱ人肌の温かさってのはいいもんだねえ……あとはこれにあったかい飲み物でもあれば最高なんだけど」
「それもちょうど話していたところだね。でも、電気ケトルがギリギリアウトっぽいなって……」
「……やかんで沸かせばよくない? ストーブあるし、熱エネルギーがもったいないじゃん」
ストーブがあるんだから、それを使ってやかんでお湯を沸かせばよいのではないか。やかんであれば家電ではなくただの容器──つまり校則でとやかく言われるようなものではないし、それこそ調理室に行けば調達できるものである。
ついでに言えば、蒸気が出るため普通にストーブを使うよりもちょっぴり部屋が暖かくなる。ストーブの熱エネルギーを効率的に使う方法としては最上位と言っていい……のかもしれない。
「や、やかん? そんなのあるの?」
「あたしの中学、そうやってストーブ使ってたよ? 教室が乾燥しがちだったから、地味に加湿器代わりにもなってたんだよね」
「じゃあ、皆川さんのところの中学ではそのお湯でココアとか作ってたのかな?」
「ううん、ココアとかコーンスープとか、そーゆーのは全部ダメって言われた。まぁ、お菓子がダメなのにそれが許されるわけないもんね」
「ああ……それはそうか」
「……で、甘いのがダメでもしょっぱいのならいいんじゃねって思ったやつがいて」
「うわあ……なんか、オチが読めてきた……」
「学校にカップ麺とかインスタントスープを持ってきたやつがいて、全校集会になるレベルでめっちゃ怒られてた。最終的に白湯なら飲んでいいってことになったけど……ただの白湯を飲む中学生なんていないよね」
カップ麺とかどう考えても処理に困るのにね──と、よっちゃんは感慨深そうにつぶやく。お昼のお弁当として持ってきたというのなら話は別だったのかもしれないが、しかしそれはそれでなんとも悲しい話であるし、お弁当とカップ麺の二択でわざわざカップ麺を選ぶ人はいないことだろう。
「でも、高校ならオッケーでしょ? 中学と違ってお菓子とか持ってきても良いんだし!」
「そうかもしれないけど……でも、学業に関係ないものを持ち出すってのは」
「あたし、調理部!」
そうなのである。
ほかでもないよっちゃんは、この園島西高校の調理部部長だ。調理器具の一つであるやかんを持ち出すことに制限なんて受けるわけがない──むしろ、誰かにその許可を与える側の人間だし、【部活動】という、学業の一環としてこれ以上ないほどの大義名分を持ち合わせているのである。
「うーん! なんか、俄然やる気が出てきたなあ! どうせならもっとこう……みんなで本格的にあったまれる奴にしたいかも!」
ストーブという加熱器具を使って、みんなで温まれる何かを作る。よっちゃんの脳ミソは既にそのためだけに働いている。あえてわざわざ教室でそんなことをする必要があるのか……という些細な問題なんて、もはや考えようとすらしていない。
「本格的に温まれる奴って……具体的には?」
「──お味噌汁飲みたい!」
味噌汁。なるほど確かに、体を温めるのにはぴったりだ。この日本における朝の定番と言ってもよいものだし、一度にそれなりの量を仕込むことができる。
作る場所が教室で、ガスコンロではなくストーブで温めるという点に目をつむれば、よっちゃんが導き出した答えはこれ以上ないほどのベストと言っていいだろう。
「こ、紅茶やココアって話じゃなかったっけ……?」
「そもそもやかんで湯を沸かすって話だったと思うが」
「細かいことは気にしなーい! なに? かっちゃんたちはお味噌汁飲みたくないの?」
「……飲みたいです」
「でしょ?」
「よっちゃん……それ、よっちゃんが飲みたいだけじゃ」
「そうだけど?」
究極的には、味噌汁なんて水に具材と味噌を入れて温めれば完成するのだ。クオリティを追及さえしなければ、インスタントとそこまで手順は変わらないのだ。そして、インスタントのコーヒーや紅茶よりもおなかにしっかりたまって、そして体がぽかぽかになると言うのだから……よっちゃんがそれを拒む理由はどこにもなかった。
「よし! 決まり! 鍋はあたしが調理室から持ってくる! 水は……火ィ通すし、水道のでもいいでしょ。気になるって人がいるなら、適当に天然水でも買ってくるってことで! あと、容器は各々で準備すること! 調理室からの貸し出しは出来ないからそのつもりで!」
あれよあれよという間に段取りが組まれていく。水はこっちで買うから使い捨ての容器はよろしくね……なんて言葉が女子や男子の間で取り交わされ、必要な備品の量と金額の計算をする者さえ出てくるほどだ。
「……なんか、すごいとんとん拍子で進んでいくね?」
「確かに。……自分で言うのもおかしな話だけど、僕、このクラスに……この学校に入れてよかったって、今すごく実感している」
「……わかる」
「なんかしみじみしているところ悪いんだけど、かっちゃんと華苗には大仕事があるからね?」
「「えっ」」
よっちゃんからの突然の指名。あとはもう美味しいお味噌汁を飲むだけのつもりでいた華苗と柊は、二人そろって驚きの声を上げた。
「大仕事って……正直、もうやることなんてほとんどないと思うんだけど」
「いやいや、大事なことが残ってるじゃん」
「大事なこと?」
「──お味噌汁の具、どうする? どーせ意見なんて割れるんだから、ここは委員長がバシッと決めちゃって!」
「僕、別に委員長ってわけじゃないんだけどな」
とはいえ、柊がこの一年A組の委員長的存在であるのは紛れもない事実だ。そしてこれだけの人数がいれば、お味噌汁の好みが分かれるのなんて目に見えている。つまり、誰もが認めるリーダー的な存在にバシッとその方向性を定めてもらうのが一番手っ取り早いし、変な不満も残らない。
「うーん……教室だから、さすがに豆腐やシジミなんかは難しいとして。……完全に僕の好みというか、ウチの定番のお味噌汁になっちゃうんだけど」
「全然おっけー! ……むしろ、そーゆーのが聞きたかった感じだし!」
そして。
柊に求められるのがお味噌汁の具材の意思決定だというのであれば。
当然、華苗に求められる「大仕事」なんて、一つしかない。
──ついでに言えば、それはさりげなく収集しておきたかった情報の一つでもある。よっちゃんに意味ありげに抱きしめられた華苗は、感謝の意を込めてぎゅっと抱きしめ返した。
「──カブ、かなあ。うん、カブのお味噌汁が飲みたいや」
──華苗の今日の部活内容が、決まった瞬間であった。
今の学校って、灯油のストーブあるのかな?