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楠先輩の不思議な園芸部  作者: ひょうたんふくろう
楠先輩の不思議な園芸部
125/127

124 冬の灯火


「……?」


 夜。風呂を済ませ、後はもう寝るばかり──今時の高校生にしては随分と早い時間に床に入ろうとしていた楠は、普段はあまり動きの無い自らのケータイに何やら通知が着ていることに気が付いた。


「……」


 ──明日も部活する? 可能なら、今日できなかった分を午後から収穫したい。


 同じ二年生の部長である橘から来た、たった一行のメッセージ。あえてわざわざこんな聞き方をしてきたのは、明日が土曜日であるからに他ならない。そうでもなければ、この部活が盛んなことで有名なこの園島西高校の人間に、部活の有無を聞き出すなんてことはしないはずだ。


 おそらく……というか、間違いなく。橘も柳瀬も、今日の帰りにお土産として持ち帰った(みかん)だけでは到底満足できなかったのだろう。元々段ボール箱単位で譲ってほしいという話だったわけだし、需要に対して収穫量は全く足りていない。自分たちが個別に楽しむ分すらも十分に確保できていないとなれば、こうやって休日での収穫作業の提案をしてくるのも当然の話と言えた。


「……」


 ──了解。


 ベッドにごろりと寝転がりながら、楠はたった一言だけ返してケータイを充電器につなぐ。畑のみずやりやあやめさんとひぎりさんのお世話のために必ず学校に行かなくてはいけないので、楠にとっては休日なんてあまり関係がない。橘の提案が無かったとしても──たとえ橘がアポなしで畑に訪れたとしても、顔色一つ変えずに問題なく対応することだろう。


「……」


 本来なら、それで終わりのこと。


 男子高校生同士のやり取りなんて酷くそっけなくて、ともすれば事務的すぎると言えないことも無い。絵文字も顔文字も無く、用件だけ伝えてはい、おしまい──なんてのは珍しくも何ともない。


 だけれども……今の楠には、可愛い可愛い(?)後輩がいる。


「……」


 ──明日の午後、橘が畑に来て今日の続きをやる。


「…………こんなもんだろ」


 たった一行の、これまたやっぱり簡素なメッセージ。事実を言っているだけの、だからどうしろというそれすらも書いていない、人によっては少し怒っているようにも思われてしまうかもしれない文面。しかしながら、これで充分であることを楠は確信しているし、純然たる事実として、これで相手には過不足なく状況も意図も伝わるのだ。



▲▽▲▽▲▽▲▽



「ケータイでのメッセージまで口数少なくする必要、あります?」


「…そうか?」


 そして、翌日土曜日。予定の時間の十分前に畑へと赴いた華苗は、相も変わらずその太くて日焼けした腕を惜しげもなく晒した先輩に向かって、わざとらしく大きなため息をついた。


 今だってそうだ。付き合いの長い華苗だからこそわかるが、この「そうか?」を正しく翻訳すると、『自分ではあれでも十分に伝わると思っていたし、実際に問題なく伝わっていると思うがあれでも少なかったのか?』という意味である。


 もし入学当初の華苗だったら、楠の意図することが全く分からずに混乱していたことは疑いようがない。下手をすれば……いいや、下手をしなくとも、この妙な威圧感の前にビビり散らかして腰を抜かしていた可能性さえあるだろう。


「なんかこう……友達とケータイでやりとりしていて、支障が出たりしてません?」


「…特に何も」


 それもそうである。花も恥じらう女子高生と違い、男子高校生のやり取りなんて目的さえ通じればそれでいい……言い換えると、それさえ通じれば他に何も必要ないのだから。時間、場所、そしていくつかの注意事項が伝わればそれでいいわけで、会話が唐突に途切れることも決して珍しくはない。


 尤も、この園島西高校に限って言えば、単純に『ケータイを使ってやり取りする必要がない』というそれも挙げられる。大事なことは当然事前にみんなで話して共有しているし、そして大体いつもみんな学校にいるから、些細なことは直接本人と話せば済んでしまうのである。


「…それより、今日は」


「昨日採れなかった分を収穫する、ですよね。一応よっちゃんと史香ちゃんには声を掛けましたけども」


「……」


「橘先輩が来るってことは、柳瀬先輩も来るだろうし……きっとほかの人も来てくれるでしょうから、人手としてはたぶん大丈夫でしょ」


「……」


 昨日とは異なり、日没まで──より正確には17時まで丸々四時間もある。今日の作業は収穫だけだから、時間的にはそこそこの余裕がある。多少のつまみ食い(?)の時間を入れたとしても、必要分を確保する時間は十分にあるといえた。


「私としても、昨日は若干不完全燃焼感がありましたし……できれば、もっとたくさん持って帰りたいなって」


「…行けるのか?」


「そりゃあ、20とか30kgはさすがに無理だと思いますけど。10kgくらいなら、自転車でも割と行けますよ。今日は休みだし、どうしても無理ならおとうさんかおかあさんに車で迎えに来てもらおうかなって」


「……」


「そうすれば、月曜日の朝は車で送ってもらえるし!」


「…したたかだな」


「賢いオンナって言ってください」


 そんな心温まるやり取りをしている間には、約束の刻限が近づいてくる。空気そのものはひんやりとして涼やかだが、ぽかぽかと降り注ぐおひさまの光はこれ以上にないほど暖かく、心地よい。実に過ごしやすい、絶好の収穫日和といえた。


「おまたせ!」


「今日もよろしくね」


「…うむ」


 三分前にやってきたのは、柳瀬と橘の二人組だ。今日もまたジャージ姿で準備ばっちりであり、そしてこの段階から顔の笑みを隠せていない。昨日、中途半端にみかんを楽しんでしまった分、余計に今日の本格的な収穫が楽しみでならなかったのだろう。思う存分狩りつくして、思う存分楽しんでやる──そんな気概に満ちているのが見て取れた。


 そして。


「お、おまたせ……」


 どこか遠慮がちにかけられた、なんとなく申し訳なさそうな声。はて、身内に対してこんな風に声をかける人なんていたかしらん──と、華苗が振り返ってみれば。


「今日はみかんの収穫するの!?」


「任せて! いっぱい頑張るから!」


「何なら他のも手伝っちゃうよ!」


 なんともまあ、元気いっぱいの小学生たちがおよそ二十人ほど、にこにこと笑いながら意気込みを語っている。低学年から高学年までほどほどにバランスがよく、そしてどこかで見たことがあるような顔も決して少なくない。というか、この辺の近所の小学生であれば、華苗はまず間違いなくどこかしらで顔を見ているはずである。


「…………あの、その」


 紺色の作務衣姿のおじいちゃん──ではなく。文化研究部部長としてその装いをしている、誰もが認める超イケメンである佐藤は、困ったように笑いながら告げた。


「ミカン狩りの参加枠って……空いてたり、する?」


「………………」


 答えなんて、言うまでもない。


 もし空いていなかったとしても、こどもたちのこのキラキラした笑顔を見れば、そのお願いを断れるはずがなかった。




▲▽▲▽▲▽▲▽




「なるほど……文化研究部の散歩をしていたら、話を聞きつけた小学生たちが参加を希望した、と」


「というかそれ、まず間違いなくこの前の陽太の件があったせいじゃん……!」


 想像していたのとは別のベクトルで騒がしい畑。ここにいる高校生は楠、佐藤、柳瀬、橘の二年生が四人に、華苗、清水、よっちゃんの三人……つまりは七人のはずなのに、小学生がその三倍もいるともなれば、そう思えてしまうのも無理はない。


「いや、それを言うなら僕がうっかり口を滑らせたせいだから……! それに、断り切れなかったのは間違いなく僕のせいだし……!」


「でも、前例作っちゃったの私ですよ……!? あの中には間違いなくサツマイモの時の子もいるし、絶対人伝に話は広がってるもん……!」


「…………何人かは、シャリィちゃん目当ての子もいるんじゃない?」


「え゛」


 ともあれ、集まってしまったものはしょうがない。もともとキャパシティだけは十分すぎるほどあるのだ。もしあと百人参加希望者が現れたとしても、この不思議な園芸部の畑に実るミカンを狩り尽くすなんて絶対に不可能だろう。


 加えて言えば。


「…別に全く問題ないが」


「ありがとね……いや、そう言ってくれるだろうとは思っていたけど、なんだかホッとしたよ」


 この畑の主である楠が、このことを全く問題としていない……いや、問題と認識してすらいない。彼にとっては文字通り近所の子供が遊びに来ただけに等しく、そして収穫する人手がちょっと増えたな……くらいの認識でしかないのだ。


「おおお……! すっげえ……!」


「ミカンってこんなにいっぱいできるできるの……!?」


「こ、これ全部狩り放題(かりほ)? 狩り放題(かりほ)ってことなんだよね……!?」


「た、食べ放題(たべほ)でもあるんだよね……!?」


 目の前に広がる、オレンジ色……否、みかん色の海。冬の午後の柔らかな日差しを受けてそれは眩しく輝いており、ともすれば木々の間に明かりが灯っているようにも見える。生命力に満ち満ちた萌える葉の緑よりも橙色の割合は多く、なんだかもう、見ているだけでわくわくするのは疑いようがない。


 ここまでくればもう、かける言葉なんて一つしかなかった。


「…うむ、好きなだけやれ」


「ケガだけには気を付けてね!」


 楠と華苗の言葉に、子供たちは歓声を上げて畑へと入り込んでいく。


「あーっと……とりあえず、子供たちの面倒は僕が見るよ。なんだかんだで高学年が下の子を見てくれてるし、これくらいならまぁ、いつもと同じくらいだし」


「あ、私も傍にいるようにします……鋏も使うし、低学年の子の近くにはいようかなって」


「ありがとね、ふみちゃん」


「じゃ、あたしは華苗と普通に収穫しようかな……実質五人だけど、気合い入れれば何とかなる?」


「…どうせそのうち、ほかの部活の連中も集まってくるさ」


 そうして始まる、収穫作業。今日も今日とてたわわに実ったミカンはそこら中にある。ぱちん、ぱちんと鋏を入れれば、たったそれだけで華苗の手の上に見事な橙色の宝物が鎮座するというのだから面白い。


 やっぱりちょっぴりひんやりしていて、そして華苗の手のひらにはちょっと収まらないくらいの大きさ。目で見てわかるほどにそれは瑞々しさにあふれ、見た目から受ける印象以上にずっしりと重い。もはや考えるまでもなく、立派に育ったミカンであった。


「おっきめだし、結構重いね……! なかなか食べ応えありそう……!」


「最初のいっこくらい、今すぐ食べちゃってもいいんじゃない?」


 すでに華苗は、その小さな爪をミカンに突き立てている。ほどよく硬く、ほどよく柔らかく、そして厚みもそこそこ……と、実に剥きやすくて理想的なミカン。十秒もしないうちにはあとはもう噛り付くだけの丸裸となっており、さぁはやく食べてください──と、その身をよじらせて誘惑しているかのような状態だ。


「あっまぁい……!」


「でしょ!」


 ミカンを口いっぱいにほおばったよっちゃんが、とてもとても幸せそうな笑顔でつぶやく。花も恥じらううら若き乙女にしては少々はしたない感じがしないこともないが、この場ではそれが正しいマナーなのだからしょうがない。たった三口でミカン一個を平らげるという冷静に考えればとんでもないことをしているが、華苗だって四口で平らげているのだから、この程度は普通といったところだろう。


「瑞々しさも十分だし、すっごく甘酸っぱいし……! あとなんというか、味がすっごく濃い!」


「もっと褒めて!」


 剥くのに十秒、食べるのに十秒。味わって食べているはずなのにあっという間にそれは無くなっていて、そして気づけば次のものを剥き始めている。ここまでほとんど無意識の行動で、華苗たち自身がそうしている自覚は全くなく、ミカンのほうに行動をさせられている(・・・・・・・)というのだから恐ろしい話であった。


「…食べるのは構わんが、手は動かせよ」


「えー……あともう三つくらいいいですよね? 先輩だって食べてるし」


「…いいんだよ、俺は。ちゃんと手は動かしてる」


 実際、楠は華苗たちとは比較にならないほどのスピードでミカンを狩りまくっている。ぱちん、ぱちんと一切の迷いもなく鋏を入れて、ろくに手元すら見ずにその大ぶりのミカンをいつもの籠に敷き詰めている。おそらくもう五分もしないうちにはそれもいっぱいになって、畑の外の大きな番重に移し替えることになるのは疑いようがない。


 何よりすごいのは、そんな風に収穫作業を続けながらも、十個に一つくらいの割合でつまみ食いをしていることだろうか。あっという間にするりと皮をむいて、そのまま直に丸齧りするというなんともワイルドでストロングなスタイルなものだから、実質的に二口で貪っているのに等しい状態であった。


「……ねえ華苗。なんで楠先輩、あの速さで収穫しながら食べられるんだろ? 鋏で切るのもさ、こう……ちょっと力が要るというか、あんなに軽くぱちぱちやれないよね?」


「そりゃ、楠先輩だもん。あと多分、栄養補給しながらやってるから早いんじゃないかな?」


「そういうもんなの?」


「たぶん」


 さて、そんな話をしている間には楠の籠がミカンでいっぱいになる。量としては、100個に届くかどうかといったところだろうか。眩いミカンが文字通りみっしり詰まったまさにお宝のようなそれだが、これだけの量ともなると10kgくらいはあるとみていいだろう。


 これでようやく、段ボール一箱分。園島西高校で言えば流通(?)させるための最小単位で、これが最低でも一クラスに五つは必要になる。


「…とりあえず、番重か何かに乗せてリヤカーに積み込む形で。各々必要な分は適当に確保しろ」


「はぁい」


 畑の外へと出ていく楠の背中に返事をして、華苗は口元をタオルでごしごしとぬぐう。いい加減栄養補給も水分補給もできたのだから、そろそろ園芸部員としての勇姿を見せる頃合いだ。


「やりますかあ!」


 目についたものを片っ端から収穫する。たったそれだけの作業とはいえ、反復作業ともなればなかなかどうして骨が折れる。左手をミカンに添えて、右手で鋏を入れて、採ったそれを籠に入れて……と、言葉にすればそれだけの話なのだが、いかんせん量が量だ。


「華苗、高いところはあたしがやろっか?」


「んー……そっちは私が登って取るからだいじょぶ。よっちゃんは普通に採りやすいやつからやってくれる?」


「華苗が言うならいいけどさ……本当に大丈夫なの?」


「樹の上だったら、むしろ私のほうがよっちゃんより強いよ?」


「ああ……それもそうか」


 華苗は木登りはそこそこ得意だ。体が小さく軽いから、樹の上で動くことにも難儀しない。よっちゃんは背が高いから華苗でも届かないミカンを収穫することはできるが、しかし単純に手を伸ばしただけでは採れないくらいに高い場所ともなると、完全にお手上げ状態となってしまう。


 そう考えると、高いところは華苗が木登りして採ったほうが効率がいいのだ。なお、楠も木登り自体は普通にできるが、ミカンの樹はそこまで太くない──少なくとも、楠ほどの大柄な人間が登るには少々の不安があるため、今回は普通に手で届く範囲の収穫にとどめている。


「いやでも本当に、目の前全部がミカンってすごい光景だよね……! 一本の樹から全部収穫するだけでも相当な量になるんじゃない?」


「もともとミカンはたくさん実をつける果物だからね……あとたぶん、量が必要になるからって先輩がちょっと調整していると思う」


「確かに、普通に食べるだけでも無限に食べられちゃうもんね。ウチの兄貴とか何も言わないとテレビ見ながら十個は食べるもん。この前のお正月とかあたしの分まで食べてたし!」


「あはは、なんかちょっと想像できちゃうかも……今日は、お兄ちゃんの分まで収穫するの?」


「いや、あたしと母さんの分だけだけど? 兄貴の分まで収穫なんてしてられないもん。兄貴の分までってなったら、それこそ段ボール三つか四つは必要になるし」


「え」


「言ってなかったっけ? ウチの兄貴、バリバリの体育会系でさ。まぁとにかくよく食べるんだよね……」


「……」


 それはもしかすると、体育会系だからではなくそういう家系だからなのでは……という言葉を、華苗はぐっと飲みこんだ。よっちゃんだって調理部という文化部のわりに運動部並みの身体スペックを持っているし、そして何より華苗たちの中では一番よく食べる。さすがに運動部男子ほどではないが、普通の男子とは遜色ないレベルで食べているし、そして非常に腹立たしいことに、食べた分が良い意味できっちり体に反映されているのだ。 


「これだけのミカンだもん、段ボール一箱分も買ったら一万円は絶対超えるよね……!」


「……だね」


 ちょうどこの瞬間を以て、華苗の籠がいっぱいになる。けっこう腰にずっしりと来るほどのこの重さは、果たしておいくら万円になるのだろうか。普通のミカンで一万円を超えるというのであれば、この園芸部産の最高においしいミカンであればもっと価値があるかもしれない。


「……果物って思ったよりも高いんだなあ」


「ほんとそれね。あたし、高校生になるまで食材の値段とかあんまり気にしなかったけど、ようやく特売に血眼になる母さんたちの気持ちがわかるようになったよ……」


 ぐ、と華苗は籠を抱えなおす。入学当初ならこうやって抱えるだけでも難しかっただろうが、園芸部として鍛え上げられた今の華苗であれば朝飯前だ。見た目からは想像できない安定した下半身とその体幹により危なげなくそれを持ち上げて、足取りも軽やかに畑の外へと赴いていく。


「お」


 すでにそこには、それなりの量のミカンの山が築かれていた。段ボールに換算しておよそ十箱分くらいだろうか。目標量にはまだまだ全然足りないが、この時間でこれほど採れているともなれば、なかなか悪くないペースといえるだろう。


「調子はどうかな、華苗ちゃん?」


「ぼちぼちってところですね」


 にこにことした笑みを浮かべた柳瀬が、よいしょ、とその大きな籠を持ってくる。近くに来た時にふわっとミカンの甘酸っぱい香りがしたことを鑑みるに、やはり柳瀬も途中でつまみ食いを楽しんでいたらしい。


「私と礼治でこれで三箱分かな? ……いやあ、収穫もなかなか楽しいというか、達成感があっていいな!」


「なんか昨日よりペース早めじゃありません?」


「そりゃそうさ、今日は本気で収穫しているんだもの。昨日下手に楽しんじゃった分、余計に恋焦がれる気持ちになっているというか……! あと、うちの母さんたちもそうだし、礼治のところのおばさんたちも『もっとよろしく!』、『なんなら手伝いに行くぞ!』って言うくらいで」


「は、はは……」


「……さすがにそれはちょっと恥ずかしいから、その分私が頑張らないとね」


 うーん、と柳瀬は大きく伸びをする。いくら運動部とはいえ、やはりあれだけの量のミカンの収穫ともなるとそれなりに体に堪えるのだろう。最初は軽いその籠であっても、収穫を進めるほどにどんどん重くなり、最終的には10kgほどになる。いったんこうして籠の中身を空にすれば一応はその重さから解放されるが、それでもやっぱり一時しのぎにしかならない……再び収穫をするうちにはまた重さが襲い掛かってくるし、疲労は抜けないのだから。


「よいしょ、よいしょ」


「……お」


 そうこうしている間に、小学生たちのほうも収穫の一区切りがついたらしい。ミカンでいっぱいになった籠を女の子が二人がかりで持ち運び、リヤカーの前……つまりは、華苗たちがいるところまで持ってこようとしている。


「……ふう!」


「お、重かったあ……!」


「大丈夫? これ、子供が持つにはだいぶ重いと思うが……」


 バトンタッチした柳瀬が、籠の中身を番重へと移し替える。お米一袋分といえばそれまでだが、しかし十歳くらいの子供からしてみれば、持ち上げるので精いっぱいの重さである。


「だいじょぶ! これくらいへっちゃら!」


「こんなに美味しいんだもん、これくらいなんてことないよ!」


 ミカンの輝きに負けないくらいの眩しい笑顔。子供がやるにしてはずいぶんな重労働のはずだが、しかしこれっぽっちもそうだとは思っていないらしい。本当に、心の底からこの収穫作業を楽しんでいるのだということがはっきりと見て取れた。


「こっちは私たちが自分で採ったやつなの。だから、お土産用で取っといてもらってもいーい? ……ちゃんとほかの人の分も採るから!」


「それは別にいいけど……こんなにたくさん、持って帰れる? おうちに帰るまでどれだけかかるかわからないけど、おててが痛くなっちゃうよ?」


「だいじょぶ! パパ呼ぶから!」


「そ、そう……」


 それだけ言って、二人の女の子は再びミカン畑へと戻っていく。どうやら最初から、自分たちだけでこの大量の収穫を持ち帰るつもりはないらしい。もとより今日は休日なのだから、パパさんたちも時間がある、ということなのだろう。


「パパを呼ぶって……すごいな、今どきの子は小学生でもケータイを持ってるのか。私、ケータイを買ってもらったのって高校生になってからなんだけど」


「私は一応、中学三年生の時ですけど……でも、なんだかんだであんまり使ってない気がする……」


「確かに。友達とは学校で話せるし、最悪礼治がいれば家には連絡できるしな……」


 さて、そうこうしている間にもほかの子供たちがミカンの籠を抱えてやってくる。やはりというか、一人で持ち上げるのは厳しいため二人がかりでえっちらおっちらと運んでくるものがほとんどだ。


「これおれたちのお土産のやつね!」


「あとでちゃんとみんなのも採るから……!」


「うんうん、わかった……あと、もうミカンは食べた? おいしかった?」


「うんっ! すっげーうまかった! おれこれなら百個は食べられるもん!」


「妹たちにも食べさせてあげたい!」


「じゃあ、もっと収穫頑張ろう!」


 次々に運ばれてくるミカン。誰に言われるまでもなく自分の役割を察した華苗は、運ばれてきたそれを別の番重やら入れ物やらに移し替える作業に集中する。籠を空けないと次の収穫に赴くことはできず、そしてせっかく一つ一つ丁寧に収穫したミカンを粗末に扱うわけにもいかない。誰か一人はこうやって丁寧に詰め替える(?)人員が必要なのだ。


「ここは私が受け持つので、柳瀬先輩は行っても大丈夫ですよ」


「じゃ、お言葉に甘えて……」


 傍らにそびえる橙色の宝の山。これだけの量があれば、泡風呂ならぬ文字通りのミカン風呂を楽しむことだってできるだろう。何も考えずにこの山の中に飛び込めば、そこから浮き上がることなんて出来ないのではないか……と思えてしまうほどの量だ。


「……足りるかな」


 楠がどこからか調達してきた段ボール。園芸部としていつも使っている番重に、正式名称はわからないが八百屋さんなどでよく見るプラスチックのコンテナ。出荷用(?)として使えるこれらの入れ物に、華苗はせっせと収穫されたミカンを詰め込んでいく。


 あまり一つの箱に詰め込みすぎると下のほうにあるミカンがつぶれてしまうので、量はそこそこに抑えないといけない。しかしながら、ミカンの量が量だからあまりに遠慮しすぎるとそもそもの箱が足りなくなってしまう。園芸部の力強いミカンであれば多少の重みには耐えられるはずだと、華苗はそう信じて作業を進めるほかない。


 どうせ、みんなにおすそ分けする分は今日のうちに完全に消費されてしまうのだ。多少見目が麗しくなかろうと、口に入ればそれで終わりなわけで、あまりこだわりすぎるのも時間がもったいない。


「収穫したやつ、こっちに置けばいい?」


「あ、佐藤先輩」


 どん、と佐藤がミカンの籠を華苗の傍らに置く。あえて確認するまでもなく、中に入っているのはどれもが立派で美味しそうなミカンだ。傷がついているものも、痛んでいるものも一つもない。


「……改めてみると、すごい量だよね。なんか感覚がマヒしてるけど、もはや農業のレベルというか」


「でも、これだけあってもあっという間に消費されちゃうんですよ……?」


「……そうなんだよね。ここだけの話、さっき一つ味見したんだけど……なんか気づいたら、五つも食べちゃってたよ」


「……」


「そのまま食べてもこんなに美味しいわけだし、お菓子にしたらもっと美味しくなると思うともう、ね……!」


「ちなみに、どんなお菓子にする予定です?」


「そうだねえ……まずはシンプルにケーキやタルトに使ってみたいかな? すでに十分に甘いから、下処理したものをそのまま添えるだけでも立派なものになると思う」


「ほほお……!」


「シロップ漬けとマーマレード……いや、みかんジャムも作りたいね。そのまま食べるのはもちろん、これがお菓子の材料になる。個人的にはミカンのシロップ漬けを使ったゼリーがおすすめかな? シロップ漬けにそのままサイダーを入れて、あとはゼラチンで固めて冷やせば……ミカンがゴロゴロ入った美味しいゼリーの出来上がり!」


「うひゃあ……! それ、絶対美味しいやつ……!」


「美味しいし、手軽に作れるんだよね。市販のミカンの缶詰でよく作ってたんだけど……ここのミカンならきっと、もっと美味しくなるはず……!」


 大きめの容器にミカンの缶詰、あるいは自作したミカンのシロップ漬けをシロップごと投入し、そこにサイダーを適量……つまりは好きなだけ加える。そこに、温めたサイダーによって溶かしたゼラチンを加えて冷蔵庫で冷やせば、それだけでもう具材たっぷりのみかんゼリーの完成だ。みかんの量は自分で好きなように決めていいし、ゼリーそのものの大きさだって自分で決めていい。心の赴くままに作られるそれが、美味しくないわけがない。


「なんだかんだで、具材は一つに絞ったほうがたくさん入れられるし、贅沢感がすごいんだよね……!」


「それ、ぜひともご相伴に……!」


「もちろん! たぶん、しばらくは調理室の冷蔵庫はみかんゼリーでいっぱいになると思うから、好きなだけ食べちゃって!」


 惜しむらくは、今が夏じゃなくて冬ってところかな……と、佐藤はにこにこと笑う。さわやかで甘酸っぱいみかんゼリーを十全に楽しむなら、やはり身が焦がれるほど暑い夏の日のほうがいいらしい。冬場でも美味しいことには間違いないのだが、それはそれ、これはこれの話である。


「あとはそのまま絞ってみかんジュースにしてもいいな……。フルーツポンチに入れてもいいし、オシャレなところとしてはオランジェットにも挑戦してみたい……」


「──それなら俺、シンプルに冷凍ミカン食ってみたい」


「あ」


 突如として割り込んできた声。話に夢中になっていてすっかり気づかなかったが、いつのまにやら華苗たちの傍らに彼はいた。


「杉下先輩?」


「よーっす、せっかくだし手伝いに来たぜ!」


 陸上部部長、二年の杉下。足の速さではあの秋山に勝るとも劣らない彼が、陸上部のユニフォーム姿のまま眩しい笑みを浮かべている。なんだかんだで杉下が部活着姿で畑にいる姿を見るのは結構珍しく、華苗としては少々意外というか、ちょっぴりびっくりしたと思わないこともない。


「なんか今更ながら、佐藤(おまえ)が作務衣を着ているのはすげえ違和感があるよなあ。どうだ、ちゃんと文化研究部の二代目部長としてやれてんのか?」


「は、はは……正直まだまだ、見た目だけだよ。文化研究部の活動というか、部長の仕事自体に慣れていないというか……」


「まー、最初は何やったらいいかわかんないし、きついところあるよな。特にそっちはほぼ一人で全部やらなきゃいけないわけだし」


「それを言うならそっちだって、一年の秋から部長だろう?」


「おう、もっと褒めろ! ……そうだな、お前はまず二代目としての貫禄を身に着けるところからやればいいんじゃね?」


 そう言って、杉下は(うずたか)く積まれたミカンの山から手ごろなものを一つ失敬し、華苗たちの目の前で美味しそうに貪りだす。さすがは男子高校生というべきか、白い筋──正式名称をアルベドという──を取り除くことすらせず、たったの三口でそれを平らげてしまった。


「みかんマジうめえ! 去年のよりも味が濃くなってないか!?」


「それ、前払いって認識でいいんですよね?」


「おうとも、十倍にして返す……って、マジな話、十倍じゃ足りねえんだよな。まぁ、仕事の前の栄養補給ってことで」


 実際、十倍どころか百倍でも足りないというから困ったもの(?)である。子供たちの手前、誰も口にはしてはいないが、今の戦力的に考えると一人で段ボール十箱分くらいはノルマとして収穫したい、というのが実情だ。一箱に百個ミカンが入るとしても、単純計算で千個は収穫しないといけないことになる。


「……マジで無限に食えるな、これ。味は濃いのにさっぱりしていて爽やかで、ジュースを齧ってるみたい……だけど、しっかり食べ応えもある。止めらんねえ」


「陸上部はもう練習終わったんですか?」


「ああ。ほかの連中は今片付けしているところ。向こうが片付いたらこっちの手伝いに来れる算段だよ」


 二個目もあっという間に平らげて、そして杉下はぽつりとつぶやいた。


「……練習の後の、火照った体で食べる冷凍ミカンがめっちゃ美味いんだよな。俺、小学校の給食で一番好きだったの、冷凍ミカンなんだよ」


「確かに、冷凍ミカンはどの地域でも人気があったような。給食で余ったやつがあると、みんなでじゃんけんで勝負していたっけ……」


「……佐藤、今すぐこの場で冷凍ミカン作れたりする? 陸上部には氷系の必殺技持ってるやついないから、自前じゃ作れないんだよ……」


「さすがに僕レベルじゃ無理……っていうか、どうなってんだよ陸上部……」


「風系の必殺技持ちばっかなんだよなあ……」


「そもそも今、冬なんですけどそこらへんは」


 もはや華苗も佐藤も、杉下の発言には深く突っ込まない。この園島西高校の部活はみんなどこか奇妙でおかしいのだ。陸上部である杉下が「必殺技がある」と言っている以上、きっとそれは実在しているのだろうし、そして彼らはそのことを不思議とも何とも思っていない。それはもう、覆しようのない事実である。


「認めたくはないけど、ここは剣道部(やなせ)に頼んでみるか……? 剣道部だったら氷系の技とかありそうだろ……!」


「陸上部に必殺技があるのは不思議に思わないのに、剣道部に必殺技があるのは不思議に思うのって、いったいどういう感性しているんですかね……?」


「うーん……まごころを使う園芸部の華苗ちゃんも、僕から見れば”そっち側”だからね?」


 ちょっぴり残念そうに三個目のミカンを食べ終えた杉下は、「行ってくるわ」の一言だけを残して颯爽と畑へと入っていく。さすがは二年生というべきか、特に何も言われずとも己の役割を理解しているらしい。いつのまにやらその片手には鋏があって、見様見真似(?)で臆することなく収穫作業を進めている。


「さて……僕もそろそろ収穫に戻ろうかな」


「あれ、そういえばシャリィちゃんとおじいちゃんは?」


「二人はきっ……じゃない、古屋のほうにいるはずだよ。用事が終わったらきてくれることになってるけど……間に合うかどうかは微妙なところかなあ」


「シャリィちゃん目当てで来てる子、かわいそー」


「い、いや……そ、そんなことないっていうか、まだまだ子供の真似事みたいなもの、だよね?」


「……」


「おねがい、その怖い沈黙はやめて……っ!」


 華苗はただ、黙ってにっこりと笑う。なんだかこうしてオロオロしている佐藤を見るのはちょっぴり楽しいというか、イケナイ悪戯心が疼いてしまうというか。自分の言葉の一つでこうも人間が取り乱すさまを見るというのは、どことなく背徳的な面白さがあるから怖いものである。


「と、採ってきたよぉ……!」


「お、重いぃ……っ!」


「…まだまだ修行が足りんな」


「あ」


 そんなこんなで話しているうちには、小さい子供と一緒にミカンの籠を持ってきた清水、そして顔色一つ変えずに特大サイズの籠……もちろんミカンでいっぱいのそれを背負った楠がやってきた。


「ね、ねえ華苗ちゃん……っ! な、なんか今回いつもよりまごころ強くない……っ!? 鋏で切った瞬間に、次のミカンが生えてくるんだけど……っ!」


「史香ちゃん、それいつも通りのことだよ?」


「ちくしょう、そうだった……っ!」


 息も絶え絶えになった清水は、その場で力尽きたように腰を落とす。よっちゃんとは違い、生粋の文化部で運動が殊更得意というわけでもない清水にとっては、こんなにも重いミカンの籠を運ぶのは想像以上の重労働だったのだろう。


 何気にさりげなく、楠が清水の体を支えようとしたのを華苗は見逃さない。これでもう少し表情を顔に出したのならそれなりにまともに見えるのにな……と、華苗は先輩に向けるにしてはあまりにもあんまりな気持ちを抱いた。


「ねーちゃん、なんでこれくらいでへばってんだよぉ! まだまだミカンいっぱいあるよ!?」


「うん……そうだね、いっぱいあるね……お姉ちゃんはもう疲れたから、こっちのイケメンのおにーさんを連れていきな……」


「しょーがねえなあ! 行こう、にーちゃん!」


「うん、わかった……ふみちゃんも、ちゃんと休憩はとっておくんだよ」


 元気いっぱいの小学生に手を引っ張られ、佐藤は連行されていく。親友がそんな目に合っているというのに、楠は無言で淡々と、ミカンの移し替え作業を行っていた。


「いやー……もう、小学生の体力をなめてたね。うちの陽太はアレでもおとなしいほうだったんだなって……」


「史香ちゃんの体力が少なすぎる気もするけど……」


「いやいや……あんな荷物を抱えながら収穫作業するのって大変だよ? それと、重さ以上に……」


「以上に?」


「……手が死にそう。正直もう、指が動かない。絶対変なタコができてる」


 ほら、と清水は華苗の目の前でわざとらしく手を開く。言われてみれば、なるほど確かに中指と人差し指のところ──鋏があたるところが妙に赤黒く腫れていて、ちょっとした痣のようになっているのが見て取れた。


「…軍手をしたほうがよかったかもな。一回一回は大したことないとはいえ、回数を重ねればばかにならん。女子(おまえ)にとっては結構力も必要だろう?」


「です……。正直、指の痛みよりも筋肉痛というか、腱鞘炎一歩手前みたいな感じで……」


 十回や二十回ならともかく、何百回と鋏を使うのだ。楠や華苗のような熟練のプロならまだしも、完全に初心者である清水の手が限界を迎えてしまうのも無理はない。いいや、華苗たちであってもそれなりの準備をしないと同じ羽目になるのは疑いようがないだろう。


「…俺なんかはもう、指にタコがついているから気にもならんが」


「ああ……先輩の手が妙にゴツいのって、そういう……」


「…お前はどうなんだ? この手の農具もかなり使い込んでいると思うが」


「私はまだ全然ですよ? ……女の子だからかも?」


「…それもそうだな」


 手を動かせない清水に代わり、華苗はミカンの皮をむく。半分を自分の口へ、もう半分を清水の口へと放り込めば、たったそれだけで至福の時間の完成だ。


「染みるぅ……! 華苗ちゃん、もう一個だけ……!」


「おっけー」


「…思いのほか、収穫ペースは悪くないな。意外と子供たちが頑張っているらしい」


 楠はただ黙々と、収穫されたミカンを出荷できる形に整えていく。その傍らでは華苗たちがイチャイチャ(?)しながらミカンを食べており、そして畑には楽しそうにミカンを収穫する柳瀬や橘と、だんだんと強制労働じみた過酷さを味わいつつある子供たちがいた。


「うひぃ……!」


「きっつ……!」


「疲れたら適当に休憩とってねー!」


 どんどんと運び込まれてくるミカン。なんだか泣きそうな顔になりながらも、ミカンを食べてぱあっと顔を輝かせる子供たち。どんなに疲れた顔をしていても、ミカンを二つも食べれば元気いっぱいになって再び畑に戻っていくというのだから、子供というのは不思議なものであった。


「こんなに子供がたくさんいると、やっぱりサツマイモの時を思い出すねえ……」


「……なんか私、子供たちの間で【サツマイモの人】って呼ばれてる疑惑があるんだけど」


「え」


「さっき、完全に初見の子からそう呼ばれてさ……やっぱ、小学生ネットワークで広がっているっぽい」


「……【ゾンビのにーちゃん】とか、【テロのにーちゃん】よりはいいんじゃない?」


 ゾンビ対策部である樫野や、学校テロ対策部である竹井は子供たちにそう呼ばれていた。サバイバル部の敦美さんはそのまんま【敦美さん】だが、これはもう名前そのものがあだ名みたいなものだからしょうがないだろう。


 まっとうに考えるなら、お菓子部である清水は【お菓子のねーちゃん】となるのだろうが、子供たちの間ではサツマイモの印象のほうが強かったらしい。


「……サツマイモといえば」


「ふむ?」


 何の脈絡もなく、いきなり会話に入ってきた楠。こんなのいつものことなので、華苗はそのまま視線だけで続きを促した。


「…今回育てているのはミカン、つまりオレンジではなく品種としてはウンシュウミカンとなるわけだが」


「ふむふむ」


「…こいつは英語でSatsuma(サツマ)という」


「「えっ」」


 日本のみかんと、果物としてのオレンジが異なるというのは華苗でもわかる。みかん味とオレンジ味は明確に違うし、例えばホテルのバイキングとかで見かけるようなオレンジは、冬で炬燵で食べるみかんとは香りも食べ応えも、皮の剥きやすさも何もかも違うのだから。


 そう、ミカンとオレンジが植物的に違うというのはわかっている。


 けれど、ミカンの英語はオレンジのはずだ。植物とかそういうのを抜きにして、それは絶対の事実であるはずなのである。


「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩……! 百歩譲ってサツマイモがサツマって呼ばれるのならわかりますけど、これ、ミカンですよ……!? いったいどこに薩摩要素があるんです……!?」


「そもそもウンシュウミカンって……漢字で書くと温かい州のみかんって書いて、温州蜜柑うんしゅうみかんですよね……? 温州うんしゅうってところが原産なんじゃないんですか?」


「…温州ってのは、中国にある柑橘類の名産地だが」


「……」


「…ウンシュウミカンは普通に日本原産だ。単純に、名産地にあやかって名付けられたらしい、ぞ?」


「そんな……名前がついてるのに全然関係ないって……」


「あ、じゃあ薩摩……鹿児島が原産だからサツマって呼ばれてるってことですか……?」


「…諸説あるが、鹿児島のほうが原産地であるのは間違いないらしい」


「やっぱり!」


「…ただ、サツマと呼ばれるようになったのは、明治時代にアメリカに送られたミカンの苗木が、薩摩で買われたものであるから……らしい」


「……」


「…九州のほうだから……場合によっては、HyugaとかHigoになっていた可能性もあったんだろうな」


「もうほとんど薩摩関係ないじゃん……」


 ちなみに、Satsumaではなく普通にMikanと呼ばれていたりもする。あるいはもっと長く、サツママンダリンと呼ばれることもあるらしい。いずれにせよ、ナイフで皮をむかないといけない外国のオレンジと、手で皮をむける日本のみかんは明確に区別されているということだ。


「ちなみに、ほかに何かこう……みかんに関するうんちくとかあったりします?」


「…さっきから、相当な量のミカンを清水に食わせているようだが」


「食べさせてます」


「食べさせられてます」


「…これだけ甘くて美味いのに、ミカンは低カロリーだ。ビタミンも豊富で食物繊維も多く、健康にいい」


 ミカンひとつ……より具体的には、ミカン一つの可食部におけるカロリーはおよそ40kcalほどといわれている。ショートケーキはたったのひと切れでだいたい350kcalくらいだから、ミカン九個でようやくショートケーキ一切れ分と言っていい。ケーキなんてものは元から高カロリーだというのは周知の事実だが、そうだとしてもミカンが低カロリーであることは疑いようがない。


 加えて、食物繊維も豊富であり、そしてビタミンCやβ-カロテン……すなわち、ビタミンAの素も多く含まれている。特にビタミンCは、ミカンを三個食べるだけで一日に必要な摂取量を賄えるというのだから驚きだ。


 あえて語るまでもなく、ビタミンCには免疫力を高める働きがある……つまり、風邪を引きにくくする効果があるわけで、そして熱で分解してしまうという弱点も、生食でそのまま取り込めるミカンであれば問題にならないのである。


「なんか思ってたより普通……」


「…健康にいいとは言ったが、限度はあってな。あまり食べすぎると病気になる」


「え」


「…柑皮症かんぴしょうと言ってな。ミカンに含まれているカロテンの過剰摂取によっておきる病気で……」


「……」


「…手が黄色くなる」


「アッそれなんかよく聞くやつ」


「昔の人がよく言うよね……」


「…酷い場合だと足や顔も黄色くなるらしい。そして、何より恐ろしいのは……」


「恐ろしいのは?」


「…今日において、柑皮症に対する根本的な治療法は存在しない」


「それって……不治の病ってことですか……!?」


「一度黄色くなったら、もう二度と戻らないってこと……!?」


「…黄色くなるだけで健康には問題ないし、放っておけば自然に治る」


「治療法がないって……単純に治療するまでもないってだけ……!?」


「もはや病気とは言わないんじゃ……?」


 甘くておいしくて、ついつい食べ過ぎてしまうミカンだが、あまりに食べ過ぎると柑皮症になってしまう可能性がある。とはいえ、手が黄色くなる以外には実害らしい実害はなく、もし罹ってしまったとしても、ミカンを食べるのを控えれば……原因であるカロテンの摂取を控えるようにすれば何もせずとも治るものなので、特別気にするようなものでもない。


「も、もう無理ぃ……!」


「と、採っても採っても全然終わらないのぉ……!」


「ど、どうなってんの……!? 頑張って全部採ったと思ったのに、次の瞬間には元に戻ってるんだよ……!?」


 ミカンの籠を抱えた子供たちが、べそをかく一歩手前の表情で倒れ伏している。どうやら華苗たちがしゃべって……いいや、移し替え作業をしている間にも、彼らは精力的に働いていたらしい。ただ、最初は有り余っているかのように見えたそのスタミナも決して無限というわけではなく、とうとう限界を迎えてしまったらしかった。


「どうしたどうした、情けないな! おねーさんなんてこんなにもいっぱい採っちゃったし、まだまだ余裕だぞ!」


「大人げないよ、円。子供がこれだけ頑張ったなら上出来だろう?」


「すげーよな、何も知らずに見たら過酷な強制労働にしか見えないぜこれ……」


 子供たちの倍の量のミカンを持っている柳瀬と橘。そんな二人と同じくらいの量のミカンを持っている杉下。華苗の目算ではこれでようやくミカン800個くらい……つまり段ボール八箱分くらいなわけで、せいぜいが各々のお土産分を確保したくらいといったところだろう。


「子供たちはいったん休憩かな? 史香ちゃん、ここお願いしてもいい? 私、畑に戻るね」


「了解。そこら辺の番重とかに籠の中身を移し替えればいいんだよね。……楠先輩も、そっちは私がやっておきますよ」


「…助かる」


 す、と楠がどこか遠くを見つめる。


 そして、やっぱり何の脈絡もなくつぶやいた。


「…援軍、来たぞ」



 ──食べ放題じゃああああああ!


 ──狩り放題じゃああああああ!


 ──ノルマは一人五箱分な!


 ──自前の鋏を忘れるなよッ!!



 どこか遠くから聞こえてくる、そんな雄たけび。どうやら陸上部……だけでなく、練習を終えたいろんな部活がこの畑に集中しつつあるらしい。この喧騒を鑑みるに、十人じゃ二十人の規模ではないことだけは確かで、この目の前いっぱいに広がるミカンに立ち向かう戦力として十分に期待できるのは間違いない。


「…もう一仕事、頑張るか」


「ですね」


「……割と本気で、籠ごと貸してもらって持って帰ろうかな」


 麦わら帽子を被りなおして。


 決意を新たに、華苗は再びミカン畑へと飛び込んでいった。




▲▽▲▽▲▽▲▽




 どことなく切ない、黄金色の夕焼け。長く長く伸びる真っ黒の影のその先には、太陽と見紛うばかりの橙色がたくさん輝いている。


「お、重……っ!」


「そ、そんなに貰ってきたのか……!?」


「う、うん……っ! パパやママにも食べてもらいたかったから……っ!!」


 ──ミカンを抱きしめるように抱えた彼らの顔は、この場にある何よりも輝いていた。

 小さい頃、よくみかん狩りに連れて行ってもらったっけ……。すっごく美味しいのに、頑張っても十個くらいしか食べられなかったような。あと、大きいやつより小さめのほうが味が濃くって美味しいんですよね。


 あとそのみかん狩りの農家さん、なぜか断崖絶壁(?)のところに木製のブランコみたいな椅子があって、ちょっとした度胸試しにみたいな状態になっていた気がする……。あと、金魚すくいならぬ鯉すくいも一緒にやっていたような……。

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実家が(元)ミカン農家のワイ。1か所だけ違和感を感じた。 勿論、地域・家庭によって違うとは思うが、収穫時の個人が使う籠(というか収納具)は低い所をメインに採るなら5kg以上入る籠を使う事もあるが、常…
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