123 みかんのよかん
「やぁ、華苗ちゃん」
「あ、こんにちは」
放課後。部活着──つまりは麦わら帽子にオーバーオール姿に着替えて畑に向かおうとしていた華苗は、昇降口を出たあたりの所で剣道部部長である柳瀬に声を掛けられた。
普段の道着姿とは異なり、今日の柳瀬は体育のジャージ姿である。いつもはポニーテールにしている見惚れるほどの長髪も上手い感じにくるくると後ろでまとめていて、なんというかこう、体のあちこちからやる気が迸っているのが見て取れた。
「なんかちょっと新鮮ですね、柳瀬先輩のその姿って」
「そうか? ……言われてみれば、他学年のジャージ姿なんてそうそう見る機会なんてないか。私も華苗ちゃんのジャージ姿見たことない気がするし」
他愛もないおしゃべりをしながら、華苗は柳瀬と共に畑へと向かう。
話題になるのは当然──今日のメインイベント、すなわちみかんの収穫の事であった。
「ああ、本当に楽しみだなあ! 去年なんてもう、みんな暇さえあればみかんを食べていてさ。毎日のように畑に手伝いに行く人がいるのに、それでも全然足りなくて……。去年の二の舞にならないよう、今年はちゃんと収穫しとかないと」
「ほ、本当にそんなに食べてたんですか……?」
「もちろんだとも。よく考えても見てくれ、ぼーっとテレビを見ながらでもついつい食べちゃうのがみかんだぞ? クラスのみんなと一緒におしゃべりしながら食べる、めちゃくちゃ美味しいみかんだったら……歯止めなんて利くと思う?」
「……たしかに」
例えばお正月。こたつに入りながら、何も考えてなくともいつの間にか食べてしまっているのがみかんという果物の特性だ。基本的に飽きると言うことは無いし、限度というものも存在しない。一個食べてももう一個食べたくなる……というかそんな気持ちを抱く前に次の一個を手にしていて、無くなってからようやくそのことに気付くのがみかんなのである。
普通のみかんでさえそうなのだ。これが園島西高校園芸部で育てられた最高峰のみかんで、そしてクラスメイト達と一緒におしゃべりしながら食べるという環境までも整っているのであれば。
想像しただけで──否、想像するまでもなく「すごいこと」になってしまうのは、もはや絶対の真理と言っても良い。
「あと……薄々気づいているかもだけど、私も礼治も柑橘が好きでね。というか一族みんな柑橘が好きなんだ」
「ああ、レモンの時もそーゆーアレでしたもんね」
「そうそう。で、みんなみかんの味にはうるさくて。それぞれひいきにしている農家とかあるんだけど……この前の正月に集まった時に、たまたま私が持ち帰っていたみかんが」
「めちゃくちゃ評判で、どこで買ったのか教えてほしい、お金は出すから確保してほしいと頼まれた……とか?」
「……なんでわかったの?」
「似たような話、結構多いんですよ」
「……話だけ聞かされて、すごく羨ましがっているおばあちゃんに二箱くらい送りたいんだ。もう年だから、あまり田舎から動けなくて」
「二箱と言わず、十箱くらい送りましょう」
「そ、それはさすがに多すぎ……かも?」
だからこそ、柳瀬はこうも気合を入れているのだろう。あれだけ美味しいんだから、きっと喜んでくれるはず──などと顔を綻ばせている姿を見ると、華苗としてもなんだか背中がむず痒くなってくるというか、恥ずかしくて誇らしい気持ちが抑えきれなくなってくる。
「そいえば、結局収穫の手伝いの割り振りってどうなったんでしたっけ? 私、実はその辺全然聞いてなくて……」
「色々話したんだが、とりあえず初日の今日は私と礼治が最初に畑に入ることになった。そのあと適当に頃合いを見計らって、柊と佐藤、あと田所が他の部活の連中をまとめて畑に向かうってことになってる」
「あれ、現地集合じゃないんですか?」
「……ほら、迷う人がいるから」
「……不思議ですよね、本当に」
華苗自身は一度もそんな事態に遭遇したことは無いが、どういうわけか園芸部の畑は入れる人と入れない人がいる。普通に畑を目指しているはずなのになぜか畑に着けなくて、ずっと校舎の周りを彷徨う羽目になる……なんてことが、事実として起きている。
特に今回は、部長として初めて畑に向かう人もそれなりに多い。だからこそ、すでに何度か実績がある面々がアテンド役として取りまとめを行うと言うことなのだろう。
「礼治は授業が終わってすぐ、楠と直で畑に向かったはずだから迷うことはないだろう。私は華苗ちゃんと一緒だし」
「万が一にも迷うことなんてありえない……と」
畑に入れる人。畑に入れない人。あるいは、入れたり入れなかったりの波が激しい人。華苗の体感としては、柳瀬も橘も【入れたり入れなかったりする人】で、運動部の中では比較的入れる確率が高い人たちだ。
そしてそんな人たちであろうと、園芸部が一緒であれば何の問題も無く畑に入ることが出来る。それはもう、理屈とか抜きに純然たる事実として知れ渡っていることだ。
「それもあるけど、重要なのはもう一つの方だな」
「はて?」
「──単純に、待ちきれなかったんだよ。だから、みんなより一足先に出向くことにしたんだ」
華苗がついつい見惚れてしまうほど──柳瀬の笑顔は、輝いていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……なんかまた少し、広くなった?」
「……かもしれませんねえ」
畑。とても一高校の校舎裏に存在しているとは思えないほどの広さ──物理的にどう考えてもあり得ないくらいに広く、まるで世界から切り離されているかのような感覚に陥ってしまうそこでは、今日も季節感をガン無視した様々な恵みが日の光を浴びてキラキラと輝いている。
イチゴにレモン、ブドウにブルーベリー。梅もビワもあるし、スイカにメロンにさくらんぼ……そのどれもがたわわに実っている。もちろん、野菜畑の方にも同じくらいの作物があるし、花畑の方にはそれはもう色鮮やかな花々がこれでもかというほどに咲き乱れていた。
そんな見慣れた風景に、少しだけ違和感。昨日は確かになかったはず……文字通り、物理的に存在しなかったはずのスペースが当たり前のように存在していて、そのはずなのになぜだか違和感がまるでない。まるで最初からそういうものだったと言わんばかりに、ごくごく自然な感じで畑の敷地そのものが広がっているように見える。
そこに立っているのは。
「…早かったな」
死んだ魚のような濁った瞳。無表情で何を考えているかわからない色黒の大男。園芸部部長その人である楠は、今日もトレードマークであるオーバーオールに身を包み、奇妙な威圧感を周囲に振りまいている。
「今日はよろしくね、華苗ちゃん」
穏やかで柔和な笑みを浮かべた、人の良さそうな好青年。柳瀬と同じく、体育のジャージ姿である彼は弓道部部長である橘だ。いつもの道着姿でないからやっぱりなんだか新鮮な感じがするし、ついでに言えば楠とは雰囲気が対照的すぎて、楠がいつも以上に極悪人面であるように思えてしまうこともない事も無い。
そんな二人に足元(?)には……なんだかどこかで見たことがあるような、華苗の膝上くらいの高さの苗木があった。
「…日暮れまでには収穫できるようにしないとならん。時間が惜しいから巻きでいくぞ」
「そもそも巻きでどうにかなる作業じゃないと思うんだけど……」
「よせ、礼治。それを言うのは野暮ってやつだろ」
「…………」
珍しく、何かを言いたそうにしてそのまま口をつぐんだ楠は、くい、と顎で足元にあるその苗木を示した。
「…これがミカンの苗木だ」
少々細めの枝と、わさわさとついている濃い緑の葉っぱ。苗木のお手本のような苗木というか、たくさんの果物を育ててきた華苗からしてみれば、これといって大きな特徴があるようには思えない。入部した当初なら、またちょっと違う印象を受けたのかな……なんて思いつつ、華苗は楠の次の言葉を待つ。
「…日当たりが良く、水はけのよい場所に植えるのが望ましい。どちらかと言えば暖かい気候を好むが、極端に寒さに弱い……というわけでもない。少なくとも、霜が降りたら即アウトってことはない」
冬頃にシーズンを迎えるイメージがあるミカンだが、植物としては温かい気候を好む種であったりする。苗木から育てる場合は、多くの例に漏れず日当たりが良く水はけのよい場所に植えると良いだろう。
種類により多少の違いはあれど、なんだかんだで寒さには比較的強く、気温が少し氷点下を下回った程度であるならば樹がダメになることもない。もちろん、気温が低くて良いことはないので、可能な限り暖かい場所に植えるべきではある。
「…あとはそうだな、あまり風が強くない場所が良い」
「風ですか? 風通しが良いところの方が良さそうな気がしますけども」
「…冷たく強い風にあたると、葉が落ちやすくなるんだ。対策したところでどうにもならんと言われたらそれまでだが、できる限りは気を付けるべきだろうな」
「なるほど」
「…ミカンの樹の寿命は長い。上手く育てれば人間と同じ……いいや、それ以上生きることもある。一生を同じ場所でしか過ごせないんだから、少しでもいい場所に植えてやるべきだろう?」
「そんなに生きるのかい?」
「…30年で収穫量の全盛期を迎え、40年からゆっくりと収穫量が落ちて……50年で植え替えすると言われているが。植え替えせずにそのまま育てれば、100年も生きるのだとか」
「うぉ……そりゃ、本当に人間みたいだね」
植える場所が決まったのなら、後は植え付ける時期に気を付けるべきだろう。苗木から育てる場合、植え付けは寒さも過ぎた春の頭頃に行われることが多い。接ぎ木で育てる場合は冬の終わりから春の頭頃だろうか。どちらにせよ、春の最初の方と覚えておけば間違うことはないだろう。
「普通に掘って、普通に植えればいいのかな?」
「ですです。その辺はもう、大体どれも大して変わらないですよ」
ざっくざっくと華苗が畑を掘り起こし、柳瀬がそこにミカンの苗木をそっと植えていく。植え終わったら土をぺしんぺしんとスコップで軽く均し、そしていつものぞうさんじょうろでさーっと水をかけて上げれば植え付けは完了だ。
隣では同じように、楠と橘がミカンの植え付けを行っている。さすがは楠というべきか、穴を掘る速度は華苗とは段違いで、華苗たちが一つ植える間にも、楠たちは二つ植えることが出来ていた。
「この後は……」
「…必要であればマルチを敷く」
「雑草? あっためるほう?」
「…両方。加えて言えば、過剰水分の抑制。特に収穫前は乾燥気味の方が甘味は強くなる」
ミカンの栽培に当たっては雑草対策、そして土中の温度を高めに保つためにマルチを敷くことが推奨されている。また、マルチを敷くことで水分が過剰に土の中に流れ込むことを防げるため、より甘く美味しいミカンができやすいともされている。やって損があるようなものでもないので、手間暇をかける余裕があるならば、やっておいたほうがいいだろう。
「…植えてさえしまえば、あとはもうそこまで気にすることはない。夏で乾燥が続けば水やりは必要だが、常日頃から気にかけなければならないというわけではない。……無論、剪定なんかは考えなくてはならないが」
「そこはまごころでカバーするってことですね!」
いつもの麦わらをマルチとして敷き詰めている間にも、植えたばかりであるはずの苗木がまごころの力によってすくすくと育っていく。まるでビデオの早回しを見ているかのような光景だが、幸か不幸か、この不思議な園芸部では割とよくある光景だ。
「……なんでだろうなあ。すごく不思議な光景のはずなのに、この程度だとそんなに衝撃を受け無くなってきている気がする」
「最近はもう、植物の成長に時間がかかるってことのほうに違和感を覚えるようになってきつつある……あ」
柳瀬と橘がそんなことを呟くうちには、緑の葉っぱから顔をだすようにして白い花が咲き乱れていく。大きめのビー玉か、あるいは五百円玉と同じくらいのサイズの比較的小さな可憐な五弁花だ。ひらりとした細長い花びらの真ん中には太いめしべがあり、それを囲うようにして細いおしべがゆらゆらと揺れている。
さらに。
「……なんかすごく良い匂いがする?」
「本当だ……すごく甘い匂い。何だろコレ、どこかで嗅いだことがあるような……」
柳瀬がうっとりとした様子で、その白い花の香りを楽しんでいる。辺りに満ちる甘い香りは間違いなくミカンの花が放つもので、ともすればむせ返ると言っても良いくらいに強く、濃厚な香りだ。
偶然かそれとも運命か、華苗にはこの香りとよく似た香りを持つものに心当たりがあった。
「ジャスミンの匂いに似ている……!」
「…柑橘の爽やかなイメージとは全く異なるが、この濃い甘い匂いも悪くない。……こうして見返してみると、花もジャスミンに似ているな」
植物としての分類は異なるが、ミカンとジャスミンは似たような花を咲かせ、そして香りもよく似ているとされている。少なくとも、「ジャスミンのよう」と例えられる程度には濃厚で甘い香りを発しており、果実が持つ爽やかでさっぱりとした香りとは全く異なる香りであるのは間違いない。
「…順当に育てれば、開花は夏の初め頃になる。ミカンの花なんてあんまり知られていないだろうが、悪くないだろう?」
「うん……! 正直、こんなに良い匂いだなんて知らなかったよ……!」
「あ……でも先輩、花が咲いたってことは、つまりこれから……」
果実。開花。そこから導き出される答えなんて、一つしかない。
しかしながら、楠の口から紡がれたのは華苗をもってしても予想外な一言であった。
「…ミカンの場合は受粉の必要はない。人工授粉はもちろん、風媒でも虫媒でもない」
「むむ……? 何か他に受粉方法があるんですか?」
例えば風。例えば虫。植物は何らかの手段を用いておしべの花粉をめしべに運び、受粉することで果実を作る。何らかの理由によりそれができないものについては、人間がおしべの花粉を集めてめしべに届ける──言うなれば人媒、すなわち人工授粉をしてあげる必要がある。
しかしミカンは、人も風も虫も使わない。では、どうやって果実を作るのか。
その真実は、実にシンプルなものであった。
「…単為結果性と言ってな。受粉をしなくとも実ができるんだ」
「え」
「一応自家和合性ではあるが、花粉自体があまり無い。……受粉をしないから、ミカンには種がない。種があるのは受粉したミカンだな」
「い、言われてみればたしかに……!」
「いやでも、そんなことってあり得るのか……?」
「…単為生殖する生物がいるくらいだし、そこまで不思議はないだろ。……ちなみに人工授粉を試みても、花粉の能力が低いからあまり受粉はしないらしい」
なんとも都合のいいことに、ミカンは受粉をしなくてもその恵みをもたらしてくれる。風も虫も必要ないのだから、環境に左右されにくいと言っても良い。さくらんぼを始めとした人工授粉が必要だったり、別種の苗を用意する必要があるものと比べたら、驚くほど手軽と言って良いだろう。
「あれ……? でも先輩、そうするともしかして……もう、やることってあんまりなかったりします?」
「…まぁ、そうだな。無論、病気や害虫には気を付けなくてはならないが、それでも他の果物に比べれば十分に強い。植えてからの作業は剪定や摘果くらいだし、育てやすい果物と言って良いだろう」
なお、育てやすくて初心者向けのミカンではあるが、苗木から育てた場合実ができるようになるまで五年ほどかかる。接ぎ木の場合は概ね三年ほどで実ができるようになるが、まだまだ未成熟であまりおいしいミカンとは言えない。なんだかんだで美味しいミカンを収穫できるようになるのはやっぱり五年ほど必要であるため、初心者向けなのは間違いないが、それ相応の忍耐力は必要になることだろう。
「なあ華苗ちゃん、摘果っていうのは余計な実を取り除くことで無駄な栄養を使わせないようにする……ってやつであってるっけ? たしか、レモンの時は蕾を摘むって言ってた気がするけど」
「ですです。たぶんですけど、レモンと同じ柑橘だしミカンも結構な量の実をつける……ってことですよね、先輩?」
「…さっき話した全盛期で……一本の樹に600から700個ほど」
「そんなに採れるんです!? 確かレモンは300個だったから……!」
「レモンの倍以上、か……! そりゃあ、間引きも必要になるわけだ……!」
「…………600から700個ほどに抑えるように摘果する」
「「えっ」」
摘果して実を間引いた状態で600個以上。重量に換算すればだいたい60kgほど。大きいダンボール六箱と言えばだいたいの量感が伝わるだろうが、いずれにせよとんでもない量であることには違いない。
摘果してそうなのだから、摘果しなければ果たしてどれだけ採れるのか。小ぶりで小さなものばかりになるのは想像に難くないが、単純な個数だけで言えば凄まじいことになるだろう。
「…隔年結果と言ってな。ミカンは元々、収穫量の多い表の年と収穫量の少ない裏の年を繰り返すという性質がある。摘果は、適度に樹勢を弱めることでこの隔年結果の影響を抑え込むためにも行われる……ミカンの場合は、むしろそっちの方が主目的だ」
「なるほど……確かにどれだけ豊作でも、翌年に全然採れなかったら問題だしな……」
「ん……? 待て、だったら表年のミカンと裏年のミカンの両方を揃えればいいんじゃないか? 摘果の目的があくまで隔年結果の影響を抑え込むためだと言うなら、毎年採れるように樹を準備すれば摘果の必要もなくなるだろう?」
「…全国的に、ミカンの表年と裏年は共通しているんだよ」
「「えっ」」
「…理由は知らん。そういうものだと思うしかない」
どういうわけか、ミカンの表年と裏年は共通している。こっちのミカンは表年だから今年は豊作、こっちのミカンは裏年だから全然採れない……なんてことはなく、全国一律で表年か裏年か決まっているのだ。
故に、ミカンを安定的に収穫するためにはそれ相応の一工夫が必要となる。その工夫の一つが摘果による収穫量のコントロールなわけで、無駄な栄養を使わせない分ミカン一つ辺りの味が良くなる……つまりは高品質化と、翌年の生産量の確保……つまりは生産性の安定化を行っているのだ。
「…育てやすい、実りやすいという意味では初心者向けだが。農業としてやっていくためにはやはり生半可な覚悟じゃできないことだ」
話は終わりだと言わんばかりに、楠はくい、と顎で華苗に指示を送る。今の華苗ならわかるが、アレは「次のステップに行くからまごころを込めろ」の合図だ。もはや以心伝心に近しい状態である華苗はそれに対して返事をすることもなく、ぞうさんじょうろを構えてミカンの若樹の前に立つ。
「…橘」
「なんだい?」
「…お前のばあちゃんの好みは?」
「晩生だね。食べ応えのあるほうが好きなんだ」
「…じゃあ、晩生を多めにしておくか」
きっと、華苗たちが畑に到着する前に楠と橘の間で何か話があったのだろう。何やら勝手に納得している二人……いいや、柳瀬も含めると三人だが、特に何も指示が無いので、華苗は気にしないことにしてまごころを使う構えに入った。
「…やるぞ」
「うぃっす」
ぱぁん、と楠がスコップで地面を叩く。
しゃーっと、華苗がぞうさんじょうろで水を撒く。
それとほぼ同時に──何やら暖かく、緑の匂いのする風のようなものが穏やかに畑に吹き抜けていく。その「何か」は若樹を優しく撫で、包み込み、そして光の鱗粉となって畑にキラキラと降り注いでいく。
「うぉ……!?」
「は、はは……!」
先ほどとは比較にならないほどの勢いでミカンの樹が成長し……そして、橙色の恵みをその身に宿していく。一個、二個、三個……と数えるのが間に合わないほどの速さで煌めく橙が萌える緑を押し分けていき、十分すぎるほど太い枝が、その恵みの重さに耐えきれずに立派な弓のようにたわんでしまっている。
そればかりか、苗木を植えていないはずの場所からも新しくミカンの樹が生えていく。華苗たちが発したまごころが伝播するのに呼応して……あるいは、華苗たちがいる場所を中心として、波紋が広がるように。
瞬きを二回、三回とする頃には目の前の光景は煌めく橙の海となる。一歩でも足を踏み出せばもう、そこは紛れもないミカンの果樹林に他ならなかった。
「前言撤回。やっぱいつ見てもすごいよコレは……!」
「壮観というかなんというか。正直信じられない気持ちがいっぱいだし……華苗ちゃんもすっかり様になっているし」
「まぁ、副部長ですしこれくらいは……ところで楠先輩、なんか思った以上に量が多くないです? それになんかちょっとムラがあるというか、色味にばらつきがあるというか。……もしかして、まごころ込めるの失敗しました?」
楠の背よりもさらに高いミカンの樹。柳瀬達ならジャンプすればてっぺんまでギリギリ手が届きそうだから、高さとしては3mあるかどうかといったところだろうか。華苗からしてみればもはやミカンだけで出来た樹海と言って良いくらいの状況だが、目の前のミカンしか見えないにもかかわらず、はっきりと……そう、実の色合いにムラがあるというか、成熟度、ないしは生育具合が異なるものがチラホラみられるのである。
で、多く着きすぎている果実に、成長具合がバラバラであるとなれば……それすなわち、育て方が悪いということに他ならない。この場合であれば、まごころの込め方が良くなかったために、必要以上に実をつけすぎてしまったり、成長が不均一になったと言うことだろう。
「…摘果してないから、その分多いだろうな。普通は必要だが、ウチはまごころがあるからそのあたりはカバーできる。単純に量が必要だし……あと、色味のばらつきについては」
「ついては?」
「…ミカンは収穫時期によっていくつかの種類に分けられる」
「でた、またなんかちょっと微妙に話がかみ合わない感じ……」
「あーっと……同じみかんでも、収穫時期によって味が結構変わるんだ。ばあちゃんがその中でも晩生と呼ばれるみかんが好きだから、それを多めにしてもらったんだよ」
「……あれ、それって柳瀬先輩が言ってた奴です?」
「礼治が言ってるのは礼治の父方のおばあちゃんだな。あっちのおばあちゃんも年だから、長距離移動は難しくて……」
「ちなみに円のおばあちゃんが好きなのは早生だね。……円から聞いたかもしれないけど、一族みんな、みかんの味にはうるさくて」
「「……」」
そんな言い方をするから……というか、そんなこと知っているのならもはや同じ一族扱いでいいんじゃないかと華苗も楠も心の中でツッコミを入れる。橘と柳瀬は家族ぐるみのつきあいがある幼馴染であるということは華苗も知っていたのだが、まさか一族ぐるみで付き合いがあるとは誰が想像したことだろう。
「円のところのおじさんとおばさんは極早生が好きで……」
「礼治のところのおじさんは晩生、おばさんは中生が好きだな」
「……ちなみに柳瀬先輩は」
「中生寄りの晩生」
「…橘、お前は?」
「晩生寄りの中生」
「…………楠先輩?」
「…ミカンは、収穫時期によって極早生、早生、中生、晩生の四種類に分けられてだな」
極早生とは概ね夏の終わりごろに収穫する、まだ緑色混じりの若いミカンを指す。甘さは控えめで酸味が強く、柑橘らしいさっぱりとした爽やかな味わいが特徴とされる。皮は薄くて少しばかり実が硬めであり、いわゆる【夏のミカン】のイメージで概ね間違いはない。
早生とは秋の終わりごろに収穫する、程よく色づいてきたミカンを指す。極早生に比べて甘味は強く、酸味は弱くなってミカンらしい甘さが味わえるものだ。瓤嚢膜……つまりはミカンの袋が最も薄い時期であるとされ、非常に食べやすく、一般的な【こたつにみかん】のイメージに近いミカンと言って良いだろう。
中生とは冬頃に収穫するミカンを指す。ここまでくると色は完全に橙色になっており、皮も早生に比べるとやや厚めになっていることが多い。早生に比べると甘味は強めであり、瓤嚢膜もやや厚くなっているため食べ応えもある。
晩生とは冬の終わりごろに収穫するミカンを指す。甘味はさらに強く濃厚になるほか、中生と比べるとやや酸味も強くなる傾向があり、収穫してからおよそ一か月ほど風通しの良い場所で貯蔵することで余分な水分を除き、甘味を引き出すのが最大の特徴だ。皮も瓤嚢膜もさらに厚くなり、食べ応えが良くも悪くも増すほか、そのおかげで腐りにくく貯蔵性が良いという特徴もあったりする。
「…細かいところは他にもあるが、総じて早いものほど酸味は強くて袋は薄い。遅いものほど日照時間を確保して熟成できるために甘味が強く、袋は厚い……と思えば大体合ってる」
「それだけ聞くと、うんと甘い晩生が一番美味しいように聞こえますけど……」
「甘味と酸味のバランスや、みかんの袋の厚さは結構人によって好みは違うからね。僕の父さんとばあちゃんはみかんの袋は厚いほうが食べ応えがあって美味しいって言ってるけど、僕は程よく薄い方が食べやすくて好きだし」
「ただ甘いミカンよりも、きちんと酸味を感じられるミカンのほうが爽やかで美味しいってウチの父さんと母さんは言ってるな」
ともあれ、ここには収穫時期をガン無視したミカンが四つ存在している。本来は同じ時期では楽しめないものを同時に楽しめるというのだから、都合の悪いことなんて一つも無い。
というか、柳瀬も橘も実物を目の前にして我慢が効かなくなってきたのだろう。そわそわと体を揺らしつつ、ちらちらと「次の合図」を送ってくれとばかりに楠にアイコンタクトを送っている。
「…収穫するぞ」
「よしきた」
「まかせろ」
一歩踏み出せば、そこにはミカンの海が広がっている。右を見ても左を見ても、上を見てもミカンの橙色しか見ることが出来ない。冬の穏やかな木漏れ日に煌めくその姿は生命の力強さを強く感じるものであり、同時にまた、どこか幻想的にすら思える光景でもあった。
「…完熟するとミカンは横に広がる……潰れた小判型というか、よくあるミカンっぽい形になっていて、色がしっかりついていれば収穫可能だ」
「そのまま手で採れる感じです?」
「…傷つけないよう、引っ張らずに採れればいい。まぁ、鋏の方が無難だな」
目の前にたわわに実っているそれを、華苗はパチンと鋏で切り離す。冬の寒さに包まれていたためか、ミカンは程よく冷たく、ひんやりとしている。華苗の手のひらからはちょっとはみ出るくらい……つまりはよくあるミカンより一回りほど大きく、そして見た目以上にずっしりと重い。
「小さい方が身が締まっていて味も良いとはよく言うけれど……!」
「絶対これ、サイズに関係なく美味しい奴だぁ……!」
もはやそれが当然のことであるとばかりに、気付けば華苗はミカンに爪を突き立て、皮をむく作業に入っていた。厚すぎず薄すぎず……爪が立たずに剥きにくいということも無ければ、皮がボロボロと千切れることも無い。剥くという行為そのものが何だか心地よく、いつまででもそれを続けたいくらいと思えるほどだ。
「わぁ……!」
鼻に届いた、甘酸っぱい香り。花のそれとは確かに異なる、柑橘特有の爽やかな香り。白と淡い橙に身を包んだ果実がもう目の前にあるというのに、ついうっかり手を止めてしまうほど、その香りは素晴らしいものであった。
「……いい、ですよね?」
答えを聞く前に。
華苗は、その一房の宝物を口の中へと放り込んだ。
「……あっま~い!」
口に入れた途端に弾ける果汁。甘酸っぱいミカンの味が口いっぱいに広がり、爽やかな香りが口の奥から鼻へと突き抜けていく。
そう、このミカンはそこらのミカンとは比較にならないほど甘い。その瑞々しさに負けないほど濃厚で、それなのに爽やかであるという……まさしくミカンの甘さを体現したかのような甘さだ。イチゴや桃とは異なるこの爽やかな甘さは、きっとミカン以外では絶対に味わえないものなのだろうと華苗は確信にも似た思いを抱く。
何より素晴らしいのが、甘さの中に確かに存在しているこの絶妙な酸味だろう。これがあるから濃厚な甘さがきりっと引き締まって、味わいがより一層素晴らしくなっているのだ。さらに言えば、この酸味があるからこそより甘味が強調され、そして甘味があるからこそ酸味の素晴らしさが更に高まって……と、止めることのできない好循環を生み出している。
これぞまさしく、甘酸っぱいミカン。【オレンジ】ではとても生み出すことのできない、柑橘の甘み。濃厚でありながらも柔らかく、どこか懐かしさも感じるこの爽やかさは、華苗の心をがっちりと捉えるのには十分すぎるほどのものであった。
「最っ高だよ本当に……! 一年ぶりってのもあるけど、やっぱりここのミカンが一番美味しい……!」
「瑞々しさも理想的……! なのに味もしっかり濃いし、何より甘味と酸味のバランスが絶妙すぎる……!」
水分が少なくてパサパサしているのは論外であるとして。
このミカンは──たった一房を口に入れただけで口の中が果汁で溢れかえってしまうほど瑞々しいのに、なのに味はしっかり濃い。大きなミカンや水分が多いミカンは味が薄くなるのが普通だというのに、理想的すぎる瑞々しさでありながらも、その甘酸っぱさを保ち続けている。
「…うん、良い出来だ」
最初の一房をごくんと飲み込み、そして華苗は二房目に取り掛かる。
こうして改めて意識してみると……普通のミカンのそれに比べて、小さな粒の一つ一つの存在感がかなりはっきりしている。ぷち、ぷちと舌や歯で潰れる感覚が確かに伝わってくるし、ぷちっと潰れた瞬間に驚くほどの果汁が溢れるものだから、もはや無視することなんてできるはずもない。粒の密度が高いというか、これがあるからこそこれほどの食べ応え……いいや、満足感を得ることが出来るのだろう。
味も良いし香りも良いし、そして舌触りや食べ応えも良い。これ以上何を求めるんだと逆に聞きたくなるほど、そのミカンは完璧な存在だった。
「止まらないですね、これ! 甘酸っぱくて瑞々しくて……! 何個でも食べられちゃいますよ!」
「ちょっとはしたないかもしれないが、口いっぱいに頬張るのが本当にもう……!」
「…どうせここには身内しかいないんだ、好きに食べればいいさ」
お口のちっちゃい華苗は一房ずつしか食べられないが、柳瀬も橘も、二房、三房をまるごと一気に食べている。それはもう嬉しそうな表情で、ついでに言えば白い筋すら取っていない。彼らが幸せそうに口を動かす度にぷち、ぷちという小気味の良い音と果汁が爆発する音が聞こえてくる気がするというから不思議なものである。
ちなみに、華苗も柳瀬も橘も、あくまで皮をむいて房を切り離して……と真っ当な意味でミカンを食べているが、楠に至っては皮をむいたものにそのまま嚙り付いている。たいそうワイルドなストロングスタイルであるのは語るまでもなく、そしてきっと、いちいち房ごとに切り分けるのが億劫になるくらい、そのミカンが美味しいという証拠なのだろう。
「にこめ!」
「…好きなだけ食え」
気づけばあっという間に一個目のミカンが手から消え、おなかの中に移動している。たった一個では満足できるはずもない……それどころか余計に食欲が刺激されてしまった華苗は、次なる獲物を見定めた。
「どうしよう、冗談抜きに十個程度じゃ満足できないかも」
「…別にいくらでも食べて構わんが。さっさと収穫しないと日が暮れるぞ」
「そうなんだよなあ。最近は本当に日が暮れるのが早くなったし……先に量の確保だけしちゃおうか。円も、先に手を動かしていくよ」
「すまん、あと一個だけ……!」
「私も!」
「「……」」
切実な問題。冬が近づくにつれどんどん日没が早まり、物理的に部活が出来る時間が減少している。割としっかりとした照明設備があるグランドはまだしも、園芸部の畑にはそんな立派なものはない。となると、日が暮れれば当然辺りは真っ暗となり、収穫作業なんてままならないのだ。
一応、園島西高校では最終下校時刻は19:00ということになっている。なんだかんだで帰りのHRが終わるのが15:30だから、三時間半は部活が出来るという計算にはなるが、冬場は17:00には日が暮れるため、実質的には一時間半程度しか部活はできない。
それが無くとも、冬の場合は自主的に帰りの時間を早めている部活は結構多い。それは園芸部も例外ではなく、華苗に対する楠のおせっかい(?)も相まって、どんなに遅くとも17:00には作業を切り上げるというのがここ数日の常となっていた。
「なあ、楠」
「…………」
「さっき、ミカンの樹一本で600個くらい採れるって言ってただろう? 実際はもっとあるだろうけど、これってどれくらいの量になるんだい?」
「…ざっくりだが、60kgほどだな。大きな段ボールで六箱だ」
「つまり、一本の樹にあるミカンを取り尽くしてようやくだいたい一クラス分。三秒に一個ミカンを採れると仮定して……」
「…単純計算で1800秒、つまりは三十分。実際は箱詰めやリヤカーでの運び出しが必要になるわけだから、もっとかかるだろうな」
「日暮れまでもう一時間も無いよね、これ」
「…………ちょっと見込みが甘かったな」
既に日はかなり傾き、空は茜色に染まっている。足元から伸びる影はいつの間にか長くなっており、辺りには冬の黄昏特有の、どことなくもの悲しい雰囲気が漂っていた。
そして楠と橘の前には、ミカンにすっかり夢中になっている華苗と柳瀬がいる。この二人があと数個のミカンで満足してくれるとは、楠にも橘にも到底思えなかった。
「…予定変更。今日はあくまで下準備で、本格的な収穫は明日からということにしよう」
「僕らはともかく、あんまり女の子たちを遅くまで残したくはないしねぇ……」
少なくとも、今日の作業のおかげであとはもう収穫するだけだ。別段急ぎの作業というわけでもないし、遅くまで残ってしなきゃいけない理由も無い。
「連絡はこっちから入れておくよ。この時間じゃ収穫しかできないし、収穫だけして味見はお預け……ってなったら、それこそ暴動が起きかねない」
「…頼む。それにどうせ、それでなお食べたい奴は連絡しなくても来るだろ」
「来たくても来れない時があるから問題なんだけど……」
「…せっかくだから収穫できる範囲で収穫して、昇降口の前にでも持っていくか。これなら不満も無かろう」
「二人でやれば1000個は行ける……か? これなら一人一個は食べられそうだけど、一個だけじゃ逆にもっと食べたくなっちゃうだろうなあ」
「…その方がむしろ、手伝いの人間が増えそうで良いな」
楠も橘も、まだまだミカンは食べ足りない。しかしながら、収穫をおろそかにするわけにはいかないし、何より目の前で嬉しそうにミカンを頬張る女子学生を止めるのは、男子学生の心情として憚られることであった。
「…やるか」
「そうだね」
──この時の二人は、想像できていなかった。
このミカンを待ち望んでいた人は想定よりもはるかに多く……そして、中途半端に欲望に火をつけるのは、時としてとんでもない事態を招いてしまうと言うことに。
・晩生よりの中生が好き
・白い筋は取らないで食べる
・三房くらい一気に食べるのが好き
一回試しに買った和歌山のみかんが美味しくて、それ以来基本的に和歌山産のみかんをまとめて買ってます。あなたにはみかんの【推し】はありますか?