116 プレシャス・タイム ~素敵なジャムクッキーを添えて~
──お菓子作りじゃなくて、お菓子の量産ラインだったよね。
調理室という名の戦場。後に一葉は、当時のことをそう語ったという。
目の前に見えるは、数多の種類の果物の山。本来であれば目を輝かせるような光景ではあるが、しかし今この瞬間に限って言えば、それは一葉の精神をじわじわと蝕むものに他ならない。
「ああァァ……っ!」
「おー、なかなかのペースだね」
さくらんぼをひっつかみ、ヘタを取り、中から種を抜き出して。いくら普通のそれより大ぶりとはいえ、さくらんぼが他の果物に比べて小さいことには変わりない。ナイフで実を切って種を取り出す……というその作業もなかなかに神経を使うものであり、そしてそれを大量にこなさなければならないときたら、必死の形相にもなるというものである。
何より一葉が納得できないのは。
「すごいすごい、もうボウル一つ分できたじゃん!」
「たった一つだけでしょ……! 先輩は、もう、三つ分も……ッ!!」
「そりゃあ、現役お菓子部だからね。悪いけど負けてはいられないかな!」
一葉は、それなりに家の手伝いをしてきたつもりではあった。そりゃあ、母親のように手際よく美味しい料理を作るなんてことはまだできないが、包丁の扱い程度であれば、そこらの女子の平均以上はあると自負していた。生まれてこの方家庭科の調理実習で困ったことは無いし、むしろ周りからは頼られるほうですらあった。
なのに、自分の隣にいる高校生の先輩は……たった一つしか年が違わないはずの先輩は、雑談する余裕を見せてなお、一葉の三倍以上のペースでさくらんぼの下処理をこなしている。一葉が必死こいてナイフを動かしているというのに、にこにことこっちに笑いかけながら凄まじい速さでナイフを使っているのだ。
「華苗ちゃん、砂糖!」
「いっき? ぶちこむ?」
「いえい!」
阿吽の呼吸でボウルに投入された砂糖。どうやら清水は、華苗の手元にあるグラニュー糖の重量を鑑みてその合図を送ったらしい。ただ、その割にはさくらんぼの重量を測った様子はなく、そしてもちろん、このさくらんぼの山は一葉とシェアしているわけなので、事前に分量を取り分けておく……なんてこともできるはずがない。
「シャリィちゃん、レモンもらうね!」
「がってんです!」
同時並行で作られているレモンジャム。どうやらこちらはイチゴジャムとは少し作り方が異なるようで、皮をピーラーで薄くスライスしたうえで種と薄皮と果肉を取り分ける……という、少々面倒くさい作業となっている。こちらはシャリィと華苗の二人がかりの作業となっていたが、清水はそれの監督すらしているらしい。
「さ、さくらんぼ、終わりましたぁ……!」
なんとかかんとか、自分のノルマを達成して。これでようやく一息つける──はずもなく。
「おつかれ! じゃあ次は桃とブルーベリーを任せるからね!」
「み゛ゃ」
差し出したボウルにほぼノータイムで投入された砂糖。驚く間もなく次なるミッションが公布され、そして倒すべき討伐対象の山が一葉の目の前に現れた。
「桃は皮を剥いで種を取ってサイコロ状に切ってからイチゴと同じ要領で! ブルーベリーは水洗いしたら直接に火に掛けてだいじょーぶ! そのうち水分が出てくるから、あとは砂糖とレモン汁入れて流れでお願いします!」
まさかの二つ同時進行。聞く限り、ブルーベリーのほうは随分と簡単そうな感じはするが、しかしそれにしたって部活体験のスピード感じゃないし、そもそもとしてこの桃もブルーベリーも、こんなホイホイと気軽に扱っていいような安物じゃない。
「ちょっとくらいならつまみ食いしてもいーよ! 作る人の特権だから!」
「い、いやいや……こんな高級なものでそんなこと……!」
「……いや、本当に大丈夫。だってほら、華苗ちゃんも」
「どきっ」
いつのまにやら、一葉よりも小さい──小学生と遜色ない大きさの手が、清水のボウルに山盛りになっていたさくらんぼをつまんで、そのかわいいお口に放り込んでいる。放り込んでいるというか、まさに放り込こんで幸せそうにほおを緩める瞬間を、一葉はばっちりとみてしまった。
「……えい」
「むぐ」
そして次の瞬間、自分の口いっぱいに広がるさくらんぼの甘み。瞬きした瞬間には感じていたそれ。まったく反応が出来なかったところを鑑みるに、おそらく相当手馴れているのだろう。恥ずかしそうにはにかんだ華苗は、ぽんぽんと一葉の肩を叩いた。
「……これで共犯者、ね?」
「華苗おねーちゃん、あたしも!」
「はい、あーん!」
「あーん♪」
──ああ、美味しいさくらんぼ。
──いったいどうなってんだここは。
──すごい、喋ってるのにレモンを切る手は止まってない。
様々な考えが一葉の頭の中を巡る。もはやいろんなことがありすぎて、情報が氾濫しているといってもいい。そうこうしている間にもまたもやさくらんぼからその水分がしみだしてきて、瞬き三回の内には鍋に移されて火にかけられている。
「…………」
あえて確認するまでもなく。さくらんぼだからといって、そんなすぐに水分がでてくるわけがない。
「…………えっ?」
ましてや──火にかけた瞬間に、おいしそうなジャムになるはずなんて無いのだ。
「よっし、さくらんぼジャムはこんな感じかな?」
「えっ……えっ?」
「どしたの、一葉ちゃん? 何かわからない所でもあった?」
山盛りを超えた山盛りであったはずのさくらんぼが、なぜか既に全部ジャムになっている。さっきまでは確かにそこに在ったはずのそれが、ガーネットのように煌めく美味しそうなジャムになっている。
大きい瓶に換算して、だいたい四つ分くらいだろうか。未だにぐつぐつ、ぽこぽこと泡立っているものの灰汁の処理は済んでいるようで、そしてやっぱり果肉の形は原形をとどめている──プレザーブスタイルだ。
「ど、どうなってんの……!? なんで、どうして一瞬でジャムが……!?」
「んー? ……果物の下処理して、砂糖とレモン汁入れて、火にかけただけだよ? 特別なことは何もしてなくない?」
「…………」
「まー、いつもより張り切ってはいるけどね!」
「…………ははっ」
「一葉ちゃん、気にしちゃダメ。気にしないのがいちばんしあわせ」
ぽんぽん、と華苗は一葉の背中を叩く。もうすっかり観念したのか、あるいは考えることを放棄したのか──一葉は意外にも、素直に元の作業に戻った。
「うん、そうだよ。世の中には奇跡も魔法もあるんだもん、これくらい普通。よくあること」
「やだなあ、一葉ちゃんってば! 奇跡や魔法と比べられても困るよ!」
「普通って、思わせてよぉ……!」
ラズベリーとブラックベリーとブドウ。さっきまでさくらんぼジャムを作っていたはずなのに、既に清水は新しい三種のジャムの製作に着手していて……もう、出来てしまっている。当たり前のように目の前で美味しそうな香りを放っているそれを見て、一葉の常識が音を立てて砕け散っていく。
「さぁさぁ、まだまだジャムは作らなきゃだからね! それにあくまでジャムはおまけ! メインはジャムクッキーだってことを忘れないように!」
みんなで作ったイチゴジャム。さっき作ったばかりのさくらんぼジャム。清水が一瞬で作って見せたラズベリージャム、ブラックベリージャム、ブドウジャムに……華苗とシャリィが作っている途中のレモンジャム。一葉がこれから作るピーチジャムとブルーベリージャム……と、これだけ合わせてもまだたったの八種類しかない。
みんながおなかいっぱいになるまでジャムクッキーを楽しむためには……これじゃあ、あまりにも心もとない。
「……ええい、やってやる! こうなったらもう、この先一生分のジャムをここで作ってやる!」
「お」
ヤケクソか、反逆の意志か。ともかく一葉は再び瞳に闘志の光を灯した。どういうきっかけであれ、それを成せる人間というのはそう多くはなく──きっとそれこそが、この園島西の部活動でやっていくために必要なものなのだろう。
「ここにいるみんなが! もう食べられないって言うほどに! おなかがはちきれるくらいに──クッキーを焼いてやる! やってやらあ!」
「いいね、その意気!」
「そう宣言できるって段階で、十分にこの学校でやってける資質ありなんですよねえ……」
きっと数か月後、またここで会うんだろうな──という奇妙な確信を抱いて。
赤毛の少女は、そろそろ出番が来るであろうクッキーの生地を取りに冷蔵庫へと向かった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「おまたせしました! それではみなさんおまちかねの……実食タイムです!」
わあ、と調理室全体から大きな歓声が上がる。すでに机の上はすっかり片付けられていて、目の前にはみんなが作った至高のお菓子が並んでいる。お菓子部も、部活体験に来た子たちも、誰もがキラキラした顔で自分たちが作ったその成果を見つめていた。
もちろん、ここには反対側の方でお料理をしていた調理部やその見学者たちもいる。そっちはそっちでいろんなお料理が並べられているわけだが、こっちの方が見た目の華やかさでは上ではないか──と、華苗はそんな風に思わずにいられない。
「つ、疲れた……!」
疲れた様子を見せながらも、誇らしげに笑う一葉。なんだかんだで自分の分だけでなく、おすそ分けの分のジャムまでしっかり作り上げたのだから、当然と言えば当然だろう。あれだけたくさんの種類のジャムを作っていれば、それが目立たないわけもなく……そして、ジャムというのはお菓子作りにおける汎用性もなかなか高い。純然たる事実として、作っていく傍から物々交換でジャムを引き渡して……というのが、結構あったのだ。
「でも一葉ちゃん、その疲れがお菓子を美味しく彩るエッセンスの一つだよ?」
「くう……! わかっちゃう自分が悔しい……! それに、お菓子部の先輩たちからもジャムを分けて欲しいって言われるのは嬉しかったというか……! あのイケメン先輩と、外国人のおねーさんまでもがおねだりしてくる姿に、なんかこう……こう!」
「いいね、醍醐味わかってきてるね!」
「いちおー捕捉ですけど、うちのおにいちゃんは既に売却済みってことをお忘れなく!」
「あはは、大丈夫! いくらなんでもあんなにイケメンだと、逆に付き合う気とか湧かないって!」
照れくさそうに笑う一葉を自慢げな様子でみる清水と、やんわりと釘をさすシャリィ。とはいえ二人とも違うことに気を取られているようで、表面上は雑談しつつも……どことなく視線がぎこちないというか、会話に集中できていない節がある。
それもそのはず。
だっていま、華苗の目の前にあるのは。
「それじゃあみなさん、御唱和ください!」
「「いただきます!」」
本当にもう、どう表現すればいいのかわからないってくらいに立派な──ジャムクッキーなのだから。
「おお……!」
普通のクッキーよりほんのちょっぴり厚めで、くぼませた真ん中にジャムを乗せて焼き上げたそれ。ジャムクッキーとしては最もオーソドックスなタイプで、クッキー型を工夫しているわけでも、他になにか技巧を凝らしているわけでもない。
しかし、シンプル故にその素晴らしさというのがダイレクトに伝わってくる。真っ赤なそのジャムは宝石のような艶やかな煌めきを放っているし、美味しそうな焼き色のついたクッキーは視覚からそのサクサク感を訴えてくる。ひょいとつまんでお口に入れたらそれだけで幸せいっぱいになれるであろうことは疑いようが無く、そしてそれは考えるまでもなく事実であるということに、華苗は──いや、この場にいるみんなが確信にも似た予感を抱いている。
見た目だけでなく、香りもまた最高だ。焼きたてのクッキーだけが持つ、この優しい甘い香り。嗅いでいるだけで胸がドキドキするような、それでいて懐かしくて落ち着くような──そんな、お菓子の魅力がたっぷりの幸せの香り。それに加えてジャムの甘酸っぱい香りまでするというのだから、もはや反則と言っても過言じゃない。
「た……食べて良いんだよね?」
「もちろん!」
こんなものを食べてしまったら、果たしていったいどうなってしまうのか。あまりに美味しすぎて、もう普通のクッキーじゃ満足できなくなってしまうのではないか。だったらむしろ、ここは我慢して食べないほうがトータルで見たら幸せなのではないだろうか。
そんな考えが一瞬頭をよぎり、そしてそのすべてを華苗は忘却の彼方へと消し去る。
「うひひ……!」
そう、これはクッキーだ。
合理的な判断とか理性的な考えなんて相応しくない。その本能のまま、幸せいっぱいにそれを頬張ることこそが、クッキーの正しい作法なのだから。
「いただきます……!」
小さな小さなお口を、大きく大きく開いて。
まだ熱が残っているそのジャムクッキーに、華苗は嚙り付いた。
「……っ!」
「わあ……っ! すっごく、すっごく美味しい……!」
「……」
「うーん! クッキーのサクサク感もさることながら、ジャムとの相性がばっちりですね! 前におにいちゃんが作ってくれたクッキーよりも美味しいかもしれません……!」
「……」
「そうでしょそうでしょ! ジャムクッキーだけは他に比べてちょーっと自信があるんだから!」
「……」
「……ちょい」
「むきゅ」
にっこりと笑った清水は、満面の笑みで華苗のほっぺをむにっと掴んだ。
「一心不乱に食べてくれるのは嬉しいんだけどさ。なんかこう……コメントというか、感想は言ってくれないの?」
「だってぇ……!」
ひょいひょいひょい、ぱくぱくぱく。
清水にお説教(?)されながらも、どうしても華苗は手を止めることができなかった。
「じゃむくっきぃ……すっごくおいしぃ……!」
クッキーの甘い香りと、ジャムの──イチゴジャムの甘酸っぱい香り。お口の中に入れた瞬間にそんな香りが爆発して、それだけでもう頭がくらくらしそうになる。
次に感じるのが、クッキーの柔らかな甘味。いわゆる”お菓子の甘さ”というべきものが口いっぱいに広がっていって、なんかもうこの段階で最高に幸せなのだが、そんな中でサクサクという心地よい感覚までついてくるのだから手に負えない。
そして何より──この、イチゴジャムの極上の甘さ。イチゴの甘さが煮詰められることでぎゅっと濃縮されて、うんと、うんと濃くなっている。ただ甘いだけでなく、その奥にちらちらと顔をのぞかせる酸味がよりその甘さを引きたてていて、味全体に深みというか、砂糖だけでは決して到達できない立体感を作っているのだ。
その上で、ごろっとした果肉の感じが堪らない。トロトロしていて舌触りが面白く、ジャムとなっているそれよりもよりイチゴとしての味が強く感じられる。食べ応えもばっちりで、確かにこれはジャムのはずなのに、同時にまた、「イチゴを食べたぞ!」って感じが凄まじいのだ。
「じゃむくっきぃ……!」
「わーぉ……華苗ちゃんがこわれちゃった」
しかも、しかもだ。
ここまではあくまで──各要素の単体での評価でしかない。
そう、単品だけでここまですごいのだが……ジャムクッキーとは、それらを一度に楽しむものなのである。すなわち、それらが掛け算された理想のその先が、華苗の口の中にあるのだ。
「じゃむくっきぃ……!」
とろりとしたジャムの中に潜む、ごろっとした果肉。サクサクに砕けたクッキーとのハーモニー。その幸せをかみしめるように口を動かせば、だんだんとその感触も変わっていって、食べるという行為そのものが楽しくて楽しくて堪らない。口の中で次々に違う表情を覗かせるから、いつまで経っても飽きることなんて絶対にありえないのだ。
ジャムの強く鮮明な、そしてフルーティな甘さ。それがどれだけ素晴らしいのかはもはや語るまでも無いが、そんな甘さをクッキーの柔らかい甘さが受け止め、包み込み、より素晴らしいどこかへと連れて行ってくれる。強い甘さと柔らかい甘さが交互に襲ってきて、常に互いを引き立て合って、口の中で止まることの無い美味しさのインフレーションが起きているのだ。
「八島先輩、ほんっとに幸せそうに食べてますね……? なんかちょっと、見ていて不安になってくるくらいに……」
「うーん……華苗ちゃんが美味しそうにお菓子を食べるのはいつものことだけど。確かにこれは初めて見るかなあ……」
「もしかすると、華苗おねーちゃんの中で一番の好物になったのかもしれませんね。あたし、こういう顔でお菓子を食べる人を知ってますもん。他のお菓子も美味しそうに食べるんですけど、それを食べる時だけはもう格別に幸せそうな顔をしているというか」
三人がおしゃべりしている間も、華苗の手は止まらない。一口、また一口と齧る度に幸せがどんどん上書きされて行って、自分でも手を止められない……止めようとすら思えないのだ。
「じゃむくっきぃ……!」
「華苗ちゃん? その、他の人の分も残しておいてね?」
「やだ」
「えっ」
「作ったの、私」
「いやいや、みんなで作ったでしょ?」
「……材料育てたの、私」
「バターと砂糖はお菓子部だよね?」
「……じゃむくっきぃ!」
「あらら……考えるのを止めて言葉を失っちゃいましたね。華苗おねーちゃん、よっぽどクリティカルだったみたいです」
「今更ながら、なんかヤバいものでも入ってるんじゃないかって不安になって来たな……というか、さらっと流しているけどバターと砂糖以外全部園芸部で採ってたの……?」
ぺし、と清水が華苗のおててを叩き落とす。まだまだたくさん──文字通り山盛りのクッキーがあるとはいえ、それすら全て食らい尽くしてしまうほどに、華苗の勢いが尋常じゃなかったからだ。もはやそれはクッキー中毒者と言って良い程で、手を叩くだなんて暴力的手段を取らざるを得なかったのも、そうでもしないと止められないと見て取れてしまったからに他ならない。
「じゃむくっきぃ……」
「あーもう、そんな泣きそうな顔しないの! ほら、イチゴジャム以外ならいいから!」
「……史香ちゃん」
「ん?」
「だいすき」
「……それは私が? それともジャムクッキーが?」
「…………両方?」
「ねえ何今の間は?」
「ちゅーしたげよっか?」
「うわァ……思った以上にポンコツになってるな華苗ちゃん……というかそんなクッキー塗れの口でちゅーされたくない……」
イチゴジャムの次は、ブルーベリージャムのクッキーだ。こちらはうんと色の濃いアメジストのような紫が美しく、なんならそのままブローチにして胸元に飾ってもいいくらいである。
当然のごとく、その味も。
「じゃむくっきぃ……!」
「……なんか、八島先輩のイメージちょっと変わったかも」
「安心して、一葉ちゃん。どっちかって言うとこっちの方が素に近い」
ブルーベリーの鮮烈な甘さ。同じベリーのはずなのに、イチゴのそれとは印象がまるで違う。イチゴのそれを正統派の可愛いおねーさんが醸し出す甘さと例えるならば、ブルーベリーのそれは、クールでカッコいいおねーさんがふとした拍子に見せるお茶目な甘さとでもいうべきものだ。
甘酸っぱい。甘酸っぱいのだが、華苗の語彙ではそれ以上の表現ができない。イチゴとブルーベリーの甘さがどう違うかだなんて、文章じゃとても表すことはできない。食べた本人にしか、その本当のすばらしさはわからないのだ。
「ブルーベリーのも美味しい! スーパーで買ったのとは全然違う! 甘みがうんと深くて、しっかりしていて……! ちゃんと果肉を食べてるって感じがしっかり残ってる……!」
「そりゃあね! まず素材の出来が違うし……あとは、自分で作ったからってのもあるのかな?」
「あはは、そうかも……! なんかジャム作りにハマっちゃいそう……!」
「あたし、これなら何枚でも食べられちゃいますよぉ……! というか、普通にジャムを乗っけただけのジャムクッキーでこんなに美味しいんですよ!? ちゃんと型を取ったり、もっとアレンジを利かせれば……!」
「もっと美味しくなるだろうね。……ま、今日は量を優先させたからデザイン面はちょっとおざなりだったけど。やっぱ星形とかハート型くらいにするくらいはやっておいたほうが良かったかなあ」
「んー……クッキー型は子供たちが全部使っちゃってましたから、しょうがないですよ」
で、だ。
なんとも喜ばしいことに、ここにはまだまだ別の種類のジャムクッキーがたくさんある。
あの黄色いのは、レモンジャムクッキーだろう。ほのかに黄色み掛かったあの白いのは、ピーチジャムクッキーに違いない。オレンジに近い濃い黄色のそれはマンゴージャムクッキーで、あの薄黄緑色のそれからは確かにメロンの香りがする。
そう、華苗のジャムクッキーはまだまだ始まったばかり。イチゴジャムを取り上げられてしまったことは本当に悲しいが、その悲しみを慰めてくれる仲間たちがここにはたくさんいる。そして華苗は、それらすべてを堪能するまでここから離れるつもりは毛頭ない。なんなら、お代わり用、お土産用として追加で作ってもらおうとすら思っている。
だって華苗は材料の提供者で、そしてこのジャムクッキーが大好きなのだから。
「ね、お姉ちゃん!」
「あら」
そんなことを考えていたら。さっきジャムを分けて上げた女の子が、満面の笑みで一葉の制服の袖をくいくいと引っ張っていた。
「こっちもクッキー焼いたの……だから、交換!」
「はーい……いいですよね、清水先輩」
「もちろ……華苗ちゃん、そんな顔しないの。まだまだたくさんあるし……また作ってあげるから」
抑えてる間に分けてあげて、と清水は一葉にアイコンタクトを送る。一葉の方も勝手がわかってきたのか、なるべく華苗の視線を遮るようにして、女の子が持ってきたお皿と交換で各種クッキーが山盛りになったお皿を引き渡した。
「ありがと! ……ジャムもね、とってもおいしかったよ!」
にっこり笑って、その女の子は戻っていく。自分の机にいた仲間たちとハイタッチをして……そして、待ってましたとばかりに四方八方からそのお皿へ手が伸びていく。
次の瞬間、大歓声があがったことは、もはや語るまでもないだろう。
「……ふふ、いいですね。ああやって喜んでくれるって言うのは」
「これもお菓子作りの醍醐味だよね……と、こっちのクッキーもなかなかすごいね」
女の子から貰ったお皿。そこにはやっぱり、良い感じに焼き色のついたクッキーがこれでもかと盛られている。
ただし、こちらは華苗たちのそれとは違って、見た目を重視して作ったらしい。モザイク模様に渦巻き模様、星型のそれもあれば花型のそれもある。少々形が歪なものもあるが、それはご愛嬌という奴だろう。
小麦色のそれらの中でとりわけ目立っているのは──うっすらとピンク色をしたクッキーだ。どうやら彼女らは、貰ったジャムをクッキー生地に練り込んで使ったらしい。中にはピンクの花型で、真ん中の所だけ小麦色……普通のクッキーであるという、クッキーデザイン技術の粋を集めたものまであった。
「よくできてるなあ……! 一生懸命作ったんだね……!」
「ちゃんと綺麗に作られているのもいいけどさ、こういう……なんて言うの? 努力の跡が見られるクッキーってのも味わいがあるよね……!」
「これがまごころってやつでしょうか……! 今ならあたし、その言葉も信じられる気がしますよ……!」
清水も一葉もシャリィも、三人共がほっこりと顔をほころばせて子供たちの努力の結晶を楽しんでいる。
一方で、華苗はと言えば。
「じゃむくっきぃ……!」
「……ブレないね、華苗ちゃん」
「う、うーん……? 華苗おねーちゃん、いくらなんでも夢中になり過ぎじゃありませんか?」
「おっかしいなあ……確かに私、ジャムクッキーには自信あったんだけど。それでもこんなふうになるだなんて……」
それでも華苗は、ジャムクッキーだけを食べていた。今食べているのは、甘みの強いマンゴーのそれだ。南国の果実特有の甘酸っぱさと、焼きたてクッキーの香ばしい香りが見事にマッチしていて──何より、マンゴージャムのクッキーという他所では絶対食べられないようなそれを目の前に、恥も外聞も考えていられなかったのである。
もちろん、味は文句なしに最高であった。
「……ちょっと史香、華苗ってばどしたの? なんかホントに小学生に見えちゃったんだけど」
「あ、よっちゃん」
自分の所が落ち着いたのだろうか。美味しそうな焼きたてパンをこれでもかと詰め込んでバスケットを持ったよっちゃんがやってきた。明らかに尋常じゃない様子の華苗を見て目をぱちくりとさせており、そしてその傍らにはよっちゃんが面倒を見ていたのであろう、中学生と近所の子供たちがいる。
「ウチの所ではパンを焼いたからさ。良かったらお裾分けを兼ねて交換しようかなーって思ってたんだけど……」
「あっ……ホントだ、すごく香ばしい焼きたてパンのいい香り……!」
「うん。ちょっと変則的だけど、半分に切ってジャムを塗って食べるときっと美味しい……んだけど」
ちょっとこれは他所様には見せられないシーンだね、とよっちゃんは小さく呟く。近くにあった手ごろなお皿に、がさっと華苗たちが作ったジャムクッキーを取り分けて、そして「あっちのおねーさんの所に先に戻っていてね」……と、傍らにいた子供たちにそのお皿を託した。
「まさかとは思うけど……華苗ってばクッキーにハマったの?」
「クッキーというよりかは、ジャムクッキーにハマったみたい?」
「あらま……まさかここまで我を忘れるとは……」
「じゃむくっきぃ!」
ひょい、とよっちゃんがつまんで華苗の目の前にぶら下げたさくらんぼジャムのクッキー。華苗はそれに何のためらいもなく、本当に幸せそうな表情で食いついた。
「……指まで舐められた。舐められたというか、一歩遅れたらそのまま齧られていた」
「夢中を通り越して、幼児退行してません……? 八島先輩、私からも同じように食べてるんですけど……」
ひな鳥か、あるいは赤ん坊か。一葉が差し出したジャムクッキーに、華苗は何の疑いも抱かずに食いついている。
「じゃむくっきぃ……!」
「……」
美味しそうにもぐもぐと口を動かして、にっこりと極上の笑みを浮かべる華苗を見て。なんだかすごく母性が疼いて、開けちゃいけない扉が開きそうなんだけど──と、一葉は心の中で思った。
「ま、いいや。とにかくウチのパンをおすそわけね。あっちで先輩がコロッケたくさん揚げてたから、それを貰ってコロッケパンにするのもオススメだよ」
「ありがと、よっちゃん……あと、このジャムクッキーの感想もお願いできない?」
「ん、おっけー。元よりあたしもおすそ分けされる気満々だったからね!」
そしてよっちゃんは、華苗の口にクッキーを放り込みつつ自らもそのイチゴジャムクッキーを口にした。
「おおー……! 焼き加減もばっちりで、ジャムの甘さが凄く際立ってる……! あと、果肉がごろっと入っているのが凄く良い! 食べ応えがよくてちゃんとイチゴを食べているって気がする! 普通のジャムじゃ、こうはいかないね!」
「でしょ! ……ほら一葉ちゃん、ここは自慢げになるところだよ!」
「あ、あはは……」
「よっちゃんおねーちゃん、他には何かありますか? こう、改善すべきところとか……」
「んー……。このイチゴジャムクッキーはほぼもう完璧だと思うけど……しいて言うなら、クッキーの食感かなあ。これ、生地は普通のクッキーの流用でしょ? ちょっと固めのサクサク感がメインだから、ジャムクッキー用にホロホロ感があるしっとりタイプにしてみるのもいいかも。ジャムを主張したいなら、クッキーの甘さももうちょっと控えめにする……とか?」
ちろりとくちびるをなめて、よっちゃんは思案する。もちろん、個人の好みの問題もあるけどね──と一言添えて、そして次なる標的としてレモンジャムのクッキーに嚙り付いた。
「なるほど……確かに、ジャムクッキー用に生地を調整するというのは言われてみれば当然のことですね……」
「もっと言えば、ただジャム用にするだけじゃなくて、どんな果物を使ったかでも微妙に調整が必要になるね。レモンみたいな酸っぱいやつと、イチゴみたいな甘いやつじゃ全然違うわけだし」
「そ、そこまで考えるんですか……!? すでに十分美味しいですよ……!?」
「ん。それはあたしもそう思ってるよ? でもね、もっと美味しくできるなら……追及してみたくならない? 料理もお菓子も、手間暇をかけたほうが美味しくなるんだもん」
そして、よっちゃんはにこりと笑った。
「そうやって、どうすればもっと美味しくできるのかを考えるのがこの調理部とお菓子部なの。もちろん、楽しく作るってのが一番だけど……どうせなら、もっと笑顔になってもらいたいじゃん? だからこうして、みんなで感想を言い合って……アイディアができたらどんどん試していく。ここはそういう部活で、そのための環境は整っている」
実際、よっちゃんの言うことに嘘はない。周りをよく見て耳を澄ませてみれば、同じようにおすそ分けをして、感想を述べあい、改善のためのアイディアを出し合う声が確かに聞こえてくる。それはお菓子部・調理部としてはごくごく自然な日常風景であり、だからこそお互いに忌憚のない意見を言い合うことができるのだ。
「なんか……ホントに、なんかすごい……! これが高校生の部活なんだ……! 中学生じゃたぶん、作って楽しかったーって言って終わりですよ……!」
「あはは、偉そうなこと言ったけど、あたしたちもそういうことの方が多かったりするかもよ?」
「多かったりというか、実際多いもんね……と、実はよっちゃんにはこっちも試してもらいたいの」
「むむむ?」
「……あ、これは試作品というか、まだお客様にはお出しできない奴なんだけど……一葉ちゃん、どうする?」
「もちろん、頂きます!」
「あたしは普通に食べちゃいますからね!」
一つだけテーブルの端っこの方に寄せてあったクッキーのお皿。乗っているクッキーは二種類で、当然のようにジャムクッキーだ。一つはラズベリージャムに近い赤をしていて、もう一つは薄い赤紫をした、ジャムにしては妙に淡い色合いをしたものである。
ぱくりと、ほぼ同時にそれを口にしたよっちゃんたちは。
「む……むむむ?」
「これは……うん?」
「甘い……けど、これは……いや、味はあまりしない、のかも?」
なんとも言えない微妙な表情。美味しいというか、そもそもそういう評価をして良いものかと考えあぐねている。
「良い香り……なんだけど、ちょっとちぐはぐ……?」
「噛み合ってないって感じがしますねえ……。いえ、普通のジャムクッキーと遜色ないレベルではあるのですけれども」
「──良い匂いで誤魔化されそうになるけど、味としては砂糖のそれがほとんどだね。たぶん、鼻詰まんで食べたらあんまり美味しくないと思う。というか、これって」
調理部としてのよっちゃんの味覚と嗅覚は、とても鋭敏で的確なものであった。
「果物じゃないね……お花?」
「お花ぁ!? これ、花のジャムなんですか!?」
「正解。正確には……赤いほうがバラのジャム。紫っぽいのがラベンダーのジャムだね」
清水がこっそり一人で作っていたもの。それは、果物ではなく花を使ったジャムである。作り方としては果物のそれとほぼ変わらない。ただ、果物に比べて水分が少ないのと、そもそもの可食部である果肉が無いことが大きな違いとして挙げられる。
「あー……やっぱ、香りは良いんだけどクッキーのとぶつかってる感じがするなあ。ラベンダージャムはちょっと水っぽくて味が薄い感じもするような」
「火ィ通したことでちょっと質が変わったのかもね。香りは強くていいんだけど、味の方は香り依存だから違和感あるのかな? これなら他のジャムと混ぜて使ったほうが良いかも」
「だよねえ……いや、薄々そうじゃないかとは思ってたんだけどさ」
「バラのジャムは……なんっか、微妙に奥の方に苦みがあるような? バラの香りは素敵なんですけど、少々強すぎる気もします。これなら紅茶と合わせたほうが強みを活かせるといいますか、わざわざクッキーに使うって感じじゃないかもですねえ……」
「うっ……やっぱそうかあ。作ってる段階で、香りがケンカしちゃうだろうなとは思ってたんだよね。花としての味はあんまりないし、使うとしても他のジャムと混ぜてってところかな」
「もしかして、そこの瓶が元のやつ? ……やっぱ香りがめちゃくちゃ強いっていうか、焼いたことでだいぶ飛んでるね」
総じて。ジャム単品としての出来栄えは悪くない。けどジャム単体として使うようなものではなく、組み合わせるにしてもクッキーではあまりよろしい使い方とは言えない。あくまでもその強い香りが武器なのだから、もともとしっかりとした甘さがありかつ香りの無いものに合わせるか、あるいは紅茶など香りをメインに楽しむものに使うべき。
──そんなお菓子部、調理部としての貴重な意見は、ジャムクッキーを夢中になって貪り続けている華苗の耳には一切届いていなかった。
「焼かずに香りだけ……生クリームとかヨーグルトに使うのがベストかな?」
「いいね、それ美味しそう! 生クリームなら元々甘味は強いし、バラの香りのケーキってのも乙なものじゃん!」
「どっちにせよ調整は必要だけど……それがわかっただけ収穫か。あとで先輩たちにも聞いてみようっと」
「……一応華苗にも食べさせておく?」
「うーん……なんかもう、華苗ちゃんはこのままでもいいかなって」
ジャムクッキー。ただひたすらにジャムクッキー。華苗の頭の中にはそれだけしかないし、それだけでいい。他のどうでもいいことなんて考える必要すらなくて、今華苗がやらなくっちゃあいけないことは、如何にしてこの目の前にあるジャムクッキーを楽しむかと考えることである。
「さて、一葉ちゃん」
花のジャムの品評も終わり、一息ついたところで。清水はぱんとわざとらしく手を叩き、一葉に問いかけた。
「お菓子部の活動としてはこんな感じかな? ……自分で作ったお菓子、どうだった?」
「はい! 本当にもう……自分が作ったって信じられないくらい、美味しかったです!」
それはきっと、一葉の心からの言葉。嘘も偽りもそこにはなく、遠慮や謙遜と言ったものも存在しない。一葉のそのキラキラした瞳を見れば、誰が見てもその言葉を信じることができただろう。
「うん、それはよかった……そうしたら、次は別のお菓子を食べて見たくないかな?」
「……食べてみたい、です!」
「……もう、言わなくてもわかるよね?」
すぐ隣では、ベリーをふんだんに使ったタルトが。その少し向こうでは、サツマイモを贅沢に使ったスウィートポテトが。さらに向こうではちょっぴり手の込んだマロングラッセが。佐藤がいるテーブルではこれまた立派で美味しそうな焼きたてのマフィンがある。
もっと向こうを見れば──調理部が作った栗の甘露煮にあらゆる種類の焼きたてパン、夏野菜を使ったコロッケに、珍しいところで言えばカボチャのトルテッリなんてものもある。
そう──一葉が作ったのはジャムクッキーだが、この調理室では他にももっとたくさんのものが作られているのだ。ジャムクッキーだけでおなかをいっぱいにしてしまうのは、あまりにももったいない。
「カロリーとかそういうの、今は忘れよう。だいじょうぶ、私達若いし成長期だから。食べた栄養全部身長と胸に行くから」
「……そうですね!」
「若干一名、例外はいるけどね~!」
「じゃむくっきぃ」
「……部活帰りの連中がやってきたらまた戦場になるからね~! まず間違いなく追加で作ることになるだろうし、楽しむのなら今の内だよ!」
それじゃ、と清水とよっちゃんが立ち上がる。差し出された手をしっかり握って、一葉もまた立ち上がった。あたしはここで華苗おねーちゃんを見てますから──とシャリィだけはにこやかにその場に止まることを選び、そして華苗は未だにジャムクッキーに夢中である。もう、よっちゃんも清水も今の華苗をどうにかすることをすっかり諦めてしまっていた。
「いざゆかん、秋の味覚へ!」
「食べ放題じゃあああああ!」
「おおーっ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「うえっぷ……ちょ、ちょっと食べ過ぎた……」
そして、夕方遅く。本当の本当に、最終下校時刻ギリギリ。なんとかかんとかおなかを空かせた運動部たちを捌ききった彼女らは、もうすっかり夕暮れの時間を通り越した校門で向かい合っていた。
陽が落ちているとはいえ、あたりには同じように授業参観の余韻に浸っている人たちでいっぱいだから、寂れた感じだとか、薄気味悪い感じは全然しない。ついでとばかりにワイワイガヤガヤと部活帰りでだべっている在校生もいるから、なんだかまだ部活体験の途中のような気さえすることだろう。
もし、この独特な雰囲気を何かに例えるなら。おそらくきっと──閉演間際の遊園地の入口の雰囲気と言えるかもしれない。
「それにしても、運動部の方たちの食べっぷりはすごかったですね……! コロッケパンをぺろりと食べて、焼き芋もあっという間に平らげて、デザートのパウンドケーキも一瞬で……!」
「あはは、あっちもお客さん相手に結構張り切っちゃったみたいだね! いつもはもう少し……」
「もう少し?」
「……いや、普段からあんな感じだわ。むしろちょっと遠慮してた節さえある」
「だね。最後の方はお客さんに料理もお菓子も譲って、野菜も果物も生で丸かじりしてたもん。というか地味に、おこぼれにあずかろうとしてやってきた三年生が追い返されてたし」
「運動やってる男子って、そんなに食べるのか……ウチの兄貴たちはアレでも少ない方だったんだな……」
さて、そんな風に呟く一葉の両手には、これでもかと言わんばかりのお土産兼戦利品がある。あの時作ったジャム全種類──花のジャムを除いた全十六種類のジャムに、よっちゃんと清水が必死になって華苗を引きはがすことで確保したジャムクッキー。その他持ち帰りができるいろんなお菓子に、こんな機会滅多にないから……と無理やり持たせた野菜や果物各種。右手も左手も、何なら背中のリュックもパンパンであった。
「……持たせておいてアレだけど、学校見学の帰りには見えない格好だよね」
「うん……どっちかっていうと、スーパーの特売の帰りというか。それも結構派手なやつ」
「あ、あはは……」
好評だったメロンと桃。前回は無かったブドウがたくさんに、柿とサツマイモもたっぷりと。空いたところにこれでもかと栗を詰め込んで……残念ながら、ここで袋の限界が来てしまっている。
というか、既に一葉の指の所がだいぶ大変なことになっている。思いっきり食い込んで、この暗さでも心配になってくるほどにうっ血していた。
「一葉ちゃん、電車だっけ?」
「そうですね、来るときは電車でした……けど、帰りは兄が車を出してくれるので」
「ありゃま。じゃあもっと追加で持たせられたかな」
「い、いえいえ! すでに十分すぎるほど貰ってますからっ!」
「華苗?」
「お望みならばリヤカーいっぱいの果物でもお野菜でも。だいじょぶ、楠先輩使えばあっという間。……でもその代わり」
ジャムクッキーよこせ。親友二人は、満面の笑みの華苗の顔に、確かにその言葉が書いてあるのが見えてしまった。
「……ごほん。まぁまじめな話、最近は秋もすっかり深まって暗くなるのも早いし、結構冷えるからね。受験はこれからが本番だろうから、風邪ひかないで頑張ってね!」
「ありがとうございます、清水先輩! 皆川先輩も八島先輩も……本当に、本当にありがとうございました!」
ふわりと笑った一葉は、そして宣言した。
「でも私……今日、たった一つだけ後悔というか、不満なことがあったんです」
「ほぉ。おねーさんに言ってみなさい?」
「授業参観は、そういうことを現役生に相談する場でもあるからね!」
「──まさに、そこです」
それはある意味当たり前のことで。だからこそ、どうしても最後の最後で一葉が気になってしまったことだ。
「私はずっと、先輩たちに──お客様扱いされていました。いえ、実際お客様なんですけど、同じようにお菓子を作って、同じように運動部のみなさんにお菓子を振舞っていたのに……やっぱりどこか、遠慮の壁みたいなものがあった」
「……」
「もちろん、あのシャリィちゃんもそういう意味では違ったんですけど……でも、あの娘には私に向けられていた遠慮は無かった。今までもずっと一緒にやってきたんだなってわかるくらいに」
「……」
「私、すっごくすっごく楽しかった。もう、既にここの生徒になった気分ですらあった。でもそれなのに、やっぱり私はお客様で……あんなに楽しかったのに、まだ溶け込み切れないって言うか、だからその、上手く言えないんですけど……!」
もどかしそうに口をごにょごにょする一葉を、清水も、よっちゃんも、華苗も──おそらく、それに気づいた在校生のみんなが、微笑ましそうに見つめていた。
「そう! 悔しいんです! 私は──お客様じゃなくて、ここの生徒として部活をしたかった! 今度こそ本当に、本当の意味で一緒に……皆さんと部活をしたい!」
「……大丈夫。その気持ちがあれば、きっと大丈夫だよ」
ぽん、と優しく清水が一葉の肩を叩く。
「義務教育中の身で抜かしおる……本当の部活を体験したら、きっと楽しすぎて腰を抜かすぞぉ?」
にっと笑ったよっちゃんが、反対の肩を叩く。
「園芸部募集中。裏で学校を牛耳れるからとってもオススメ。……今のうちにカラダ、鍛えといてね?」
「……んもう、八島先輩ったら!」
なぜだか華苗は、逆に一葉にぎゅっと抱きしめられた。
夜の帳が降りつつある逢魔時。だんだんと人の顔もわかりづらくなってくる、そんな時間。
辺りには同じように在校生と話し込む見学生がいて……そして華苗は、自身の体がぎゅっと力強く抱きしめられたことに気付いた。
「……決めた」
「……一葉ちゃん?」
力強いその言葉に、一葉の腕の中で華苗が顔を見上げれば。
とても見覚えのある希望の煌めきを宿した瞳と、ばっちりと目が合った。
「──私はァ!!」
ひゃ、と思わず華苗は身を竦ませる。この敷地内に確かに響き渡ったその大声は、紛れもなく一葉が発したものだったからだ。
「絶対! 絶ッ対にこの高校に入学します! 今度はお客様じゃなくて、園島西の一員として先輩たちと再会することを誓います! だから──さよならはいいません!」
大きな大きな声。その場にいた全員が一瞬ざわめき、静まり返って……そして、華苗を抱きしめている一葉に注目する。
もう、どう頑張っても誤魔化すことはできない。この場にいる全員が、一葉のことを「帰り際に叫び出した妙な女の子」だと認識したことだろう。
「あ、あはは……大見栄を張っちゃいました。これでもう、逃げも隠れも誤魔化すこともできません。これでもし入学できなかったら……あはは、本当に笑いものですね。……なにやってんだろ、私」
頭の上から降ってくる、そんな呟きに。
華苗は、にこりと笑って答えた。
「入学すればいいだけだよ──それに、すっごく園島西らしかったよ」
そしてもちろん、在校生の答えは。
「いよ──っ! よく言ったァ!」
「その意気やよし! 四月に会えるのを楽しみに待ってるぞ!」
「最ッ高だよお嬢ちゃん! 今年の受験生は粒ぞろいだなァ!」
「おうおめェら! 負けんじゃねえぞ! 一人残らず試験なんてブッ倒して来い!」
「みんな頑張ってねーっ! 首を洗って待ってるぞーっ!」
「洗うんじゃない、長くしてろ……んん、高校選びは後悔の無いように! ここだったら後悔なんてさせないけどね!」
これからまた何かが始まるんじゃないかってくらいの熱狂。そう、喧騒じゃなくて熱狂。楽しくて楽しくて堪らないという気持ちがあふれて出てしまっただけの……この学校の気風がそのまま体現されたかのような、熱いエネルギーが迸っているこの雰囲気。
それはもはや、言葉で表現できるものじゃない。あの独特の雰囲気は、実際に学校に行かないと分からない。それでなお、あえてそれを表すのであれば。
──きっとこれこそを、校風というのだろう。
「ああ……! やっぱり私、本気でこの高校が好きだ……!」
「私も……私たちも、みんな大好きだよ。だから四月に会えるのを、本当に楽しみにしている。その時は……今度こそ、園芸部の畑に案内してあげるね?」
「……はい!」
ふと気づけば。
一葉に触発された他の学生が、同じように誓いを立てている。大声で宣言する者もいれば、部活体験でお世話になった先輩だけに恥ずかしそうに宣言する者まで。人によって大なり小なり違うところがあるとはいえ……その気持ちだけは、みんな同じだった。
「さ、一葉ちゃん。そろそろ……」
「……はい!」
華苗からぱっと体を離し、そして一葉は三人娘の顔をしっかりと見据えて、はっきりと通る声で言った。
「八島先輩、清水先輩、皆川先輩。今日は本当に……本当にありがとうございました。さっき宣誓した通り、私は絶対、ぜーったいにここに入学して、先輩たちに会いに行きます。だから、その、今日だけは……今日だけは、この言葉を使わせてください」
「ん、わかった。”さよなら”は言わないんだもんね」
「あはは、全然だいじょーぶ! 私ら一年で現在進行形で下っ端だから! ……ほら華苗、最後くらいはきちんとしなよ?」
「わかってるって……じゃあ一葉ちゃん。せーので、言おうか!」
くすくすと笑いあって。四人は同時に、同じ言葉を紡いだ。
──またね!
夜の闇に溶けていく再会の約束。その約束が守られるかどうかは──神様だけが、知っている。
じゃむくっきぃ!




