107 お芋ほり大作戦!:始まりはお風呂場で
「ただいまーっ……と」
一日の終わり。今日も元気に勉学と部活に勤しんだ清水 史香は、我が家の前で声を上げた。
最近は日が暮れるのも随分と早くなっており、辺りはすっかり暗くなっている。そんな中で、この夕飯の良い匂いと暖かな明かりに満ちた玄関の雰囲気が史香は好きだった。ああ、ようやく家に帰ってきたんだという実感が沸き上がり、同時に言葉で表現できない安心感のようなものが体を包んで、なんとも言えない幸福な気分になるのである。
「この匂い……カレーかな?」
靴を脱いで、肩に提げていたカバンを降ろして。後ろ手で扉の鍵をしっかりと閉めた史香はワクワクした気持ちのままに自室に向かう。制服のままでは窮屈だし、なにより万が一カレーが跳ねたら大変なことになってしまう。なるべく早急に部屋で着替える必要があった。
「おかえり、史香」
「ただいま、お母さん」
自室で着替えてリビングに行ってみれば、思っていた通り母が台所で夕餉の支度をしている。この様子だと、支度が完全に整うまで今しばらくの時間がかかるだろう。そう判断した史香は、ひとまず喉でも潤そうかと冷蔵庫を漁る構えにはいった。
「ねえ史香。それ、飲み終わってからでいいんだけど」
「なに?」
「悪いんだけど、ご飯の前にお風呂入ってくれない?」
「えー……」
コップにジュースを注ぐ手が、ぴたりと止まった。
「いつもご飯のあとじゃん。そういう気分じゃないんだけど」
別に、夕餉の後だろうと前だろうとそこまで何かが変わるわけじゃない。だけど、いつもはご飯の後にお風呂に入っているから、なんとなくそのルーティンを崩すのも気に食わない。特に理由がないからこそ、気分次第で決まるいつもの慣例を乱すのは、史香としてはなんとなく腑に落ちない行いであった。
「まぁまぁ。というか、もう沸かしちゃってるから」
「なにそれ。それもう最初から選択肢ないじゃん……」
「お風呂とご飯の準備が何もしなくてもされているって、贅沢なことなんだよ?」
「そうかもしれないけどさぁ……」
ご飯にする、お風呂にする、それとも──という新婚さんのよくあるアレがふっと頭に浮かんできて、史香はいずれ自分も結婚してそっち側に回ることになるのかと、なんとなくそう思った。ついでに、この言葉の本当の意味を理解したのは何歳の頃だったかと、考えてもしょうがないことばかりが無駄に頭の中に浮かんでくる。
「あれ、そう言えば陽太は? 私よりも先に陽太に入らせればいいじゃん」
陽太。あえて語るまでもなく清水 陽太──史香のたった一人の弟である。
「もう入ってるよ。だから一緒に入ってくれる?」
ガス代勿体ないし、とのほほんと告げる母を見て、それが理由かと史香は心の中で不満を述べる。
ところが意外にも、史香の心の中の不満は意外な形で否定されることになった。
「──なんかあの子、帰ってきてからすごく機嫌が悪いというか、様子がおかしいのよ」
「えっ?」
「部屋にこもって塞ぎこんじゃうし、何も話してくれないし。拗ねてるっぽいようにもみえるけど、なーんかそんな感じでもないし。お風呂も一緒に入ろうとしたのに、一人でいいって突っぱねるし」
「ふむ?」
陽太は史香の年の離れた弟──具体的には、小学校三年生の弟だ。小学生になれば必ず「おねえちゃん」になれると信じて疑わなかった史香が、望みに望んでいた可愛い弟である。
小学校の入学式のその日に「ねえ、私はいつおねえちゃんになれるの?」とキラキラした瞳で聞いたときの両親の少々引き攣った顔、そしてその数か月後に母のおなかが大きくなったこと──色々諸々知ってしまった今となってはかなり恥ずかしい思い出だが、ともかく可愛い弟であることには間違いない。
「反抗期じゃない? 最近少し生意気だし、もうそろそろそんな時期でしょ?」
「そう? 史香は六年生まで一緒に入ってくれたじゃない」
男の子と女の子を一緒に考えるのはいかがなものかと思いつつ、ひとまず史香は母の言わんとしていることを察することが出来た。
「機嫌が悪い理由を、お風呂で聞き出して来いってことね」
「そういうこと。文字通り、お姉ちゃんが一肌脱いでくれるとお母さんも安心だわ」
「りょーかい」
部屋に戻って着替えを取って。脱衣所まで行けば、なるほど確かにすでに弟が風呂にいる気配があるし、脱ぎ散らかされたそれらがそのままになっている。やはりまだまだこういう所は子供だと実感しながら、史香は一枚、また一枚と自らの服を脱ぎ去っていった。
「陽太、入るよ」
「姉ちゃん!?」
返事を聞かずに史香は風呂場に突入する。元より、姉と弟では姉の方が絶対的に偉いのだから。
「入ってこないでよ……。三年生にもなって姉ちゃんと一緒に風呂入ってるやつなんていないよ……」
「ああ、それみんな嘘言ってるだけだね。どこの家庭もお風呂のガス代が勿体ないから、あんたの年頃ならまだお母さんやお姉ちゃんと入ってるよ」
「……でも」
「あんただって、外じゃ一人で入ってるって言ってるんでしょ? だいたいお母さんか私と一緒なのに」
「……」
「それよりも。やっぱり耳の後ろが全然洗えてない。洗い直すからそこ座って」
これだから、まだ一人じゃ入らせられないんだと史香は笑う。意外にも素直に言うことを聞く弟が堪らなく愛おしくなって、いつもよりついつい多めにシャンプーをプッシュしてしまった。
「……おれ、もう子供じゃないもん。やっぱり、姉ちゃんと風呂に入る男子はいないって。それに姉ちゃん、高校生じゃん」
「十歳にもなってない子供がほざきおる。……お姉ちゃんのクラスメイトにも年の離れたお姉ちゃんがいる男の子がいるけどね、小学生の頃は普通にお姉ちゃんとお風呂に入ってたって言ってたよ。なんだっけな、たしか……四つか五つ離れていたはず」
「……ほんとぉ?」
「うん、ホントホント」
ごめん、柊──と、清水は心の中で謝った。大学生の姉がいるってことはほぼ間違いなくそうだろうと決めつけて、姉という生き物が持つ特有の傲慢さの元に弟のための贄とした。
「あと、二年生の男の先輩は十歳の妹とお風呂入ってるから。十七歳と十歳の兄妹でお風呂入るんだから、十六歳と九歳だったらまだ全然普通。どの家もそんなもんだよ」
「え……それ、いろいろヤバくない?」
「いやいや。その先輩、めっちゃイケメンだからね……ほら、湯船入るよ」
ごめん、佐藤先輩──と清水は心の中で謝った。ただ、こればかりはマジに覆しようのない事実なので反論も弁明もできないのが困るところであった。
「で、なんでそんな不貞腐れてるの?」
体を洗い、泡を流し落として。体をきれいに清めた史香は、弟を押しのけつつ湯船に入り、気取った様子もなくストレートに問いかけた。
母だったらきっと、遠回しにそれとなく聞き出そうとしたことだろう。だが、史香は姉だ。そんな迂遠な手段ではなく、剛速球ストレートを放っていい生き物なのである。
「お母さんから聞いたよ。あんた、帰ってからずっと様子がおかしかったって」
「……」
「……学校で、何かあったの?」
「……姉ちゃんには、関係ない」
「あっそ。じゃあ、あんたの友達に未だに私とお風呂入ってるってバラすから」
「はぁ!?」
「バラされたくなければ、素直に話せ」
もう何を言っても意味はないと悟ったのだろう。観念したように──というか、半ば呆れたようにも見える様子で陽太は静かに語った。
「今日、学校で芋ほりがあったんだけど──おれたちみんな、一個も採れなかったんだ」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……ってことがあったんだよね」
「ほへー……」
お昼休み。誰もが恋焦がれる憩いの時間。華苗たち三人は今日もいつも通り机を突き合わせて、話に花を咲かせていた。
「史香ちゃん、弟とお風呂入ってるんだ。なんかちょっと意外」
「そーぉ? それこそ赤ちゃんの頃から面倒見てきたわけだし、別に何とも思わないけどね」
華苗は一人っ子だから、弟や妹がいるとどんな感じなのかがまるでわからない。なかなか楽しそうではあるのだが、しかしその具体的なイメージが湧いてこないのだ。
「あたしは兄貴と一緒に入るのは早々に嫌になったっけな……。兄貴毛深いから、なんかもう生理的に無理になったんだよね。それこそ十歳頃にはもう母さんとしか入らなかったような」
「よっちゃんのお兄ちゃんは、お母さんと何歳ごろまでお風呂入ってたの? ちょっとウチの参考にしたい」
「あー……どうだろ、全然記憶にない。あたしと兄貴、いっつも一緒にお風呂に入れられていた気がする……」
「よっちゃん、史香ちゃん。興味深いけど脱線しまくってる」
自分の手には負えない範囲に話が広がりそうになったので、華苗は慌ててそれを止めにかかった。聞いておきたい気持ちがある反面、なんだか仲間外れにされたような気もしてどうにも気持ちがモヤモヤしてしまいそうだったのだ。
「ごめんごめん、ええっと……そう、芋ほりの話ね」
こほん、とわざとらしく咳払いをしてから清水は語りだした。
「ほら、小学生の時って畑で芋ほりしたでしょ?」
芋ほり。主に小学校低学年の頃によくあるイベント。学校の敷地内にある畑──あるいは、近くに借りた畑で育てたサツマイモを収穫するという、秋の一大イベントである。主に道徳や生活の授業の一環として行われるもので、その日を迎えるまでにコツコツと育てたそれが収穫という目に見える成果となって還ってくるものだから、そのイベントを楽しみにしない子供たちなんていないはずだ。
華苗自身、ぼんやりとだが確かに芋ほりの記憶はある。たくさんたくさん掘ったのに、持ち帰っていいのは全部で二つだけだったのが不満でしょうがなかった……そんなことをよく覚えていた。
「弟は三年生で、クラスが三つ……学年で百人くらいいるらしいんだけど、畑に百人も一緒に入れるわけがない。で、順番的に最後になっちゃったらしくてさ」
「あー……待って史香。なんかこの段階でオチが読めてきたんだけど」
学年で百人。そこまで大きくない畑。この園島西高校の不思議な園芸部ならともかく、ごく普通の小学校の畑となれば、元より大した大きさでないことは明白だ。
答え合わせをするように、清水は困ったように笑いながら答えた。
「うん。ウチのに順番が回ってきたときにはもう、畑に植えてあったお芋が全部掘り尽くされちゃってたんだってさ」
もちろん、これは学校側も想定していない事態であった。元々はちゃんとクラスごとに縄張り(?)はしっかり決められていて、そこ以外は掘っちゃいけないことになっている。クラスの中で運の悪い人間が出てしまったとしても、少なくとも一つのクラスだけが全く何もできないということだけにはならないはずだったのだ。実際、例年はそれで問題なく運営出来ていたのである。
「なんか今年は全体的に不作だったみたいで。元々全然できてなかったものだから、最初のクラスが別のクラスの縄張りのも採っちゃったんだって」
「ええ……それ、最初のクラスが全部悪いんじゃ……?」
「詳しいところはわかんない。まさか畑全体で不作だったとは最初のクラスも思っていなかったかもしれないし、あるいは単純に先生が止められないほどにみんなが不満を持っていたか、もしくは悪ガキが多かったのかも」
いずれにせよ清水の弟のクラスは文字通り、誰も何の成果も得られなかったのだ。確認するまでもなく教室はお通夜状態だっただろうし、なまじ期待も大きかった分、悔しさや寂しさも生半可なものじゃなかったことだろう。
これが分別のある大人ならともかく、まだ十歳にも満たない子供ともなれば、その言葉にできない悲しい気持ちは華苗たちが想像するそれよりも……ずっと大きなものであるに違いがなかった。
「ま、それじゃあ不貞腐れるのもしょうがないかぁ。楽しみにしていたのに何もできなかったんだもん、あたしだったら兄貴に八つ当たりしているね!」
「実際、ちょっと問題になってるらしいんだよね。なんだかんだで最初のクラスもほとんど収穫できなかったからさ。不作なものはしょうがないけど、学校にクレームが入ったりウチのみたいに不貞腐れる子が続出したり……って、お母さんが言ってた」
さて。
さすがにここまでくれば、華苗はこの後の流れが……ひいては、何のためにわざわざ親友が弟の小学校の事情のことをこの場で話したのか、その理由を正確に察することが出来た。
「その、華苗ちゃん……」
「ん」
不作だったサツマイモ。期待していた芋ほりが出来ずに不貞腐れている親友の弟。そして華苗は、この不思議な園芸部の一員であり、こと作物の収穫においてはこの世の二番目か三番目くらいにプロフェッショナルであるという自負がある。
「だいじょぶ。まだサツマイモの栽培やってないし、楠先輩の性格から考えてあれだけメジャーなものをやらないはずがない」
そう、実に単純で明快な解決方法。
芋ほりが出来なくて不満を抱いているというのなら、この園芸部の大きな畑で飽きるほどにそれをしてもらえばいいというだけの話だ。
そしてそのための準備は、他でもない園芸部員である華苗なら簡単にできるのである。
「サツマイモならいっぱい使うだろうし、収穫の手は多いほうがありがたいかな? 弟くんだけでなく、お友達だって連れてきてもらって大丈夫だよ」
「よかったぁ……! ありがと、華苗ちゃん! 実はもう、お姉ちゃんに任せとけって言っちゃったんだよね……!」
「あはは、史香ってばダメだったらどうするつもりだったのさ」
「そりゃー、八百屋で買ったやつを畑に埋めるしかなかったかな!」
華苗たちの、今日の放課後の予定が決まった瞬間であった。




