104 悶え狂う青
「……んぉ?」
それは、暑さが和らいできたある日の朝の出来事だった。
学校へと向かういつもの道。清々しい風を浴びながら自転車を走らせていた華苗の視界の端っこで、キラリと光るものが映った。
もちろん、本当に光っているわけではない。あくまでただの比喩表現だ。ただし、そういう比喩を使っても何ら遜色ないほど──それは、何の面白みも無い道の傍らで鮮やかに映えていたのである。
「わ」
小さな小さな花だ。華苗の小さな手のひらと比較してもなお小さな花だ。そんな小さな花は、アスファルトの灰色や土の茶色、そして名も知らぬ雑草の緑に混じって輝かんばかりの彩のある青を纏っている。
空色、とはちょっと違うな……と華苗は思う。青空の雄大な力強さを感じる青と言うよりかは、もう少し淡くて優しい感じだ。もちろん、海を彷彿とさせる青でも、ペンキのような強烈過ぎる青でもない。
そう、この花の青は他の言葉で表現できない色味なのだ。強いて言うなら「お花の青」であり、それ以上でもそれ以下でもない。それでなお、あえて無理矢理その青を何かに例えるならば。
「色鉛筆の青か、クレヨンの青か……」
そこまで自分で口に出して、はっと華苗は気づく。
さっきから妙に感じるこの小さな青い花に対する懐かしさ。どことなく、小さな子供だった時のことを……幼稚園に通っていた時のことを思い出すような、なんともノスタルジックなこの気持ち。
それもそのはず。
だって、この花は──。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「へぇ……それで、持ってきちゃったんだ」
「うん。他にもたくさん咲いていたし、一株だけならいいかなって」
放課後。華苗が朝に持ってきたその小さな花の株を見て、よっちゃんと清水は互いに顔を見合わせる。今までなんだかんだで華苗がこうして自発的(?)に花を持ってきたことは一度もなく、そのうえ通学途中に突発的に行ったのだというから、それもある意味では当然だろう。
「華苗、そこまでアグレッシブだったっけ? ……まさかとは思うけど、よその花壇とかから持ってきたわけじゃ」
「違うもんっ! ちゃんと、道端の適当なところで咲いていた奴だもんっ!」
「華苗ちゃん、日本には誰のものでもない適当な土地ってないんだよ?」
友人同士のなんてことの無いやり取り。たった一輪の花だけできゃあきゃあ、わいわいとおしゃべりが進むのは、さすがは女子高生と言ったところか。いや、イマドキの子供たちの現状を鑑みれば、この内容で盛り上がれるこの三人はどちらかと言うと珍しいほうに入るのかもしれない。
「この花、結構好きだったんだよね。幼稚園のお散歩のときよく見かけたんだ」
「ああ……そう言えば、いろんなところに咲いていたっけ。小さい頃は毎日のように見ていた気がするけど、最近は全然見なくなったような」
「単純に、お散歩とかしなくなったからね~! あとはほら、子供の目線は低いから気づきやすいけど、身長が伸びたら気づきにくくなるじゃん?」
「ああ、だから華苗ちゃんは……」
「おうコラ」
清水もよっちゃんも、この小さな青い花には見覚えがあるらしい。やっぱり華苗と同じように、小さい頃のお散歩にてしばしば目にしていたようだ。
「……改めて思ったけど、青い花って珍しいよね。私、この花以外に青いのって知らないんだけど」
「あー……アジサイとか? でも、どっちかって言うと青紫って感じかも。華苗は何か知ってる?」
「私もそれくらいかな? だから、せっかくだし育てて増やしてみようかなって」
いいんじゃない、と清水は笑う。ガーデニングっぽいじゃん、とよっちゃんも笑う。なんだかんだでこの二人もこの青い花に華苗と同じような懐かしさを覚えているらしく、咲き誇ったら教えてくれ……とまで言ってきた。この園島西高校の不思議な園芸部では一瞬で花が咲くため、それ意味するのは「今から遊びに行ってもいい?」である。
「でもさでもさ、華苗ちゃん。確かコレって……春に咲く花じゃない? なんか、ぽかぽかの野原や原っぱでよく見かけたような気が」
「あ、確かに。夏のイメージって全然ないや」
「んー……たぶん、狂い咲きってやつかな。最近暑さも和らいできたし、春と間違えて咲いちゃったのかも」
「「おおー……!」」
親友二人に称賛の眼差しを送られ、華苗の鼻は天井に着きそうなほどに高くなる。
華苗だって伊達に園芸部をしているわけじゃない。楠から言われたことは文字通り体に刻み込まれているし、それとは別に知識としてノートに記録していたりもする。もちろん、それだけにとどまらず園芸やガーデニングに関する知識をこっそりひっそり勉強していたりもするのだ。それ以上に知識を身に着けている人間が身近にいるために披露する機会がないだけで、そこらの女子高生に比べればかなりの園芸知識を持ち合わせているのである。
「んじゃ、今日もお勤めいきますか!」
「「おー!」」
久方ぶりに園芸部としての格を見せつけることが出来て満足した華苗は、二人と共に荷物を持って調理室へと向かう。いつも通りそこに荷物を置かせてもらい、更衣室へ行って園芸部スタイルに変身し……そして、いつも通りの畑へ行った。
畑の真ん中では、今日も楠が鍬を片手に仁王立ちしている。どうやら今日は特別用事があるわけでもないらしく、ゲストもいなければ見覚えのない果樹の類があるわけでもない。
「こんにちわーっと」
「おじゃましまーす!」
「おじゃましまっす!」
「…おう」
元気に挨拶。花も恥じらうピチピチ女子高生三人がやってきたというのに、楠は表情一つ動かさない。どうせ女慣れなんてしていないくせに、この状況で照れる素振りの一つも見せないのははたしてどうなんだ……と、華苗としては思わなくも無かった。
「…どうした、それ」
「ああ、実はですね」
そのくせ、華苗の手にあった小さな株だけはしっかり確認している。楠が園芸以外に興味を持つことがあるのかと、華苗は本気で気になった。
「今朝、通学路で見つけまして。せっかくだし、育てて増やしてみようかなって」
「……」
「私、小さい頃お散歩でよくこれ見てたんですよ。それで、懐かしさも相まって……」
「……」
「たしか春の花だと思うんですけど、ウチなら普通に育てられますよね?」
「なんだろう、華苗が一方的に話しかけているだけなのに」
「どうしてこれで普通に会話が成立しているんだろうね……?」
もちろん、そんなの華苗が楠の扱いを熟知しているからに他ならない。無表情で不愛想でおっかなく見えるこの先輩は、実は無口で口下手なだけのどこにでもいる男子高校生なのである。下手に臆さず、言いたいことを全部言ってしまえば然るべき答えを貰えるわけで、そうだと知っている以上華苗が遠慮する理由は無い。
だいたい、楠は三度の飯よりも園芸が好きなのだ……と、華苗は認識している。つまり、恰好のエサを持ってきた自分は逆に感謝されるべきで、そして次の瞬間にも「はい」か「イエス」のどちらかの答えを貰えるものだと、華苗は確信に近いそれを抱いていた。
「で、いけますよね? 育て方、教えてもらえます?」
ところが。
楠が発した言葉は……華苗どころかよっちゃんや清水にも想像できないものであった。
「…知らんぞ、そんなの」
「「はぁ!?」」
園芸部部長から発せられたとは思えないその言葉に、華苗も清水もよっちゃんも、思わず声を上げた。
あの楠が。こと園芸については誰よりも詳しい楠が。普通の園芸の範疇に入る花や野菜や果物はもちろん、もはや農家や専門職の人でしか知らないマイナー知識までしっかり持ち合わせている楠が、何処にでも咲いている花の育て方を「知らない」と言ったのだ。
それはつまり、数学の先生が足し算をわからないと言ったり、英語の先生が【This is a pen】という初歩の文章の翻訳すらできないと言っているに等しい。本来ならば、絶対にありえてはいけないことだ。
「ええ……!? 先輩、あなたどうしたんです!? 何か悪いものを食べたとか、具合が悪かったりするんです!?」
「…お前は俺を何だと思ってるんだ?」
ふう、と小さなため息をついてから、楠は言い切った。
「…俺だけじゃなく、他の誰もが知らないと思うぞ」
「え……この花の育て方を、ですか?」
「…ああ」
「そんなバカな……これ、別に珍しい花じゃないですよね? 日本のどこにでも咲いてますよね?」
「…だな」
「なのに、誰も知らないなんてことあります?」
「…だからだよ」
相も変わらず、楠の口数は少なく要領を得ない。せめて主語くらいはつけてくれ……と言う言葉をぐっと飲みこみ、華苗は視線で次の言葉を促した。
「…お前の言う通り、それはどこにでも咲いている花だ。珍しいわけではなく、ありふれている……いいや、ありふれ過ぎていると言ったほうがいいか」
楠の言葉は正しい。世界のどこを探しても、この花の育て方を知っている人はいないだろう。
ただしそれは、育て方が難しくてわからないだとか、珍しすぎるがゆえに誰も育て方を知らないというわけではない。
むしろその逆。そこら辺にありすぎるがゆえに……特に何も意識せずとも育つがゆえに、誰も育て方なんて気にしていないというだけだ。
「…そいつは雑草だ。何もしなくとも勝手に育ち、勝手に増える」
「なんですとっ!?」
そう。華苗が大事に大事に持ってきたこの花は、いわゆる雑草と呼ばれるものである。雑草であるから当然、育てようと思う人はいないし、特別育て方が決められているわけでもない。何もしなくてもいつの間にか生えていて、勝手にどんどん増えていく……それだけの存在だ。
「…別に雑草を育てるなとは言わんが。あえてわざわざ、畑で育てるようなものでもないな」
観賞用の花だったら他にいくらでも種類がある。見た目がもっと華やかで美しいもの、さらには育てるのに少しばかりのコツがあり、上手く咲かせたときの達成感がすばらしいものなど、それこそ千差万別だ。
一方で適当に植えているだけで勝手に咲く花は、ガーデニングとしても面白みに欠けると言わざるを得ないだろう。本当に何もしなくても勝手に咲くのに、そこに愛着や思い入れが生まれるはずもない。
「…水やりをする必要すらないが、広がり過ぎないように注意はしてくれ。放っておくとどんどん増えるから、間引きはしっかりな。作物のところまではみ出したらすぐに引っこ抜くぞ」
「うう……そんな、まるで雑草みたいな扱い……!」
「華苗華苗、雑草みたいな、じゃなくて雑草って話なんだよ……」
「言われてみれば、管理せずともそこらに生えてるってそのまんま雑草だよね……」
小さく可憐で、儚げな青い花。こんなにもきれいな色合いをしているというのに、巷では雑草扱いされているという。花の美しさに雑草も何もないというのに、他より元気で生命力にあふれているというだけでそんなぞんざいな扱いをされてしまうことに、華苗は悲しみを隠せなかった。
「…本来は春に咲く花だからな。これを見て春の訪れを感じるということもあるだろう。…どんなものであれ、綺麗なものを素直に綺麗だと感じられるのはいいことだと思うぞ」
「どうしよう……楠先輩に気を使われるだなんて……!」
「…………」
植えるならそこにしろ、と楠は無言であごをしゃくる。示されたそこは、言わずもがな畑の隅の隅……というか、畑の外のなんでもない所である。口ではなんだかんだ言いながらも、楠がそれを栽培するものとして見ていないことは誰の目にも明らかだった。
「で、でもさ! いくら雑草って言ったって、ちゃんと名前くらいはあるんでしょ!? ほら、雑草って名前の草は無いってよく言うじゃん!」
「そ、そうだよ! 雑草って言ってるのはあくまで人間の価値観だから……! まごころ込めて育てれば、園芸品種と変わらないくらい綺麗に咲いてくれるはずだよ!」
親友二人が、気落ちする華苗を慰めようとそんな声をかける。そのことが堪らなく嬉しくなって、華苗は本能の赴くままに二人をぎゅうっと抱きしめた。
「よっちゃん……! 史香ちゃん……!」
「いいんだよ、華苗ちゃん……今だけは、いっぱい甘えて……!」
「おお、よしよし……! おねえちゃんが、ぎゅって抱きしめてあげるからね……!」
「…まさかとは思うが」
空気を読まない楠は、感動の一場面をブチ壊す一言を放った。
「…八島。お前、これだけ執着を見せていて、こいつの名前を知らなかったりするのか?」
ぴしり、と華苗は二人の腕の中で固まった。
「え……園芸部ともあろうかなちゃんが、まさかそんなわけ……」
「好きな花って言ってたし、まさかそんな……」
「ぴゅ、ぴゅ~!」
「「……」」
「…吹けてないぞ」
小さな青い、可愛らしい花。他でもない華苗は、この花の名前を知らなかった。
だってそうだろう。チューリップや桜、ヒマワリやアジサイなどのメジャーどころならまだしも、そこらに適当に生えているだけの雑草である。テレビで取り上げられることも無ければ、花屋で売られることも無い……さらに言えば、お花の図鑑にわざわざ載るようなものでもない。そんな花の名前を、いったいどうして知っているというのか。
「…呆れたな」
「うう……! 別に、良いじゃないですか! 名前なんて関係ないですよ! きれいなものはきれい! それでいいじゃないですか!」
「……」
「……なんですか、その眼は」
「…………いや、なに」
珍しく、楠が少しばかり口ごもった。
「…お前の言う通りだと思ってな。別に、名前なんて気にする必要はないか」
「…………先輩がそんなこと言うと、逆に気になってきたんですけど」
「…………」
楠は明後日の方向を向いた。そんなことをされたらもう、華苗としては黙っていられない。
「教えてくださいよ、先輩。この花の名前」
「……」
「いいじゃないですか、減るものじゃないし。これからこの花を育てる者として、せめて名前くらいは知っておきたい……私、何か間違ったこと言ってます?」
「あ、あたしもちょっと気になってきた……」
「教えてくれると嬉しいです……」
華苗だけでなく、よっちゃんと清水も。三人ともが、期待に満ちた瞳で楠をじっと見つめている。残念ながらキラキラと輝く瞳ではなかったが、しかしそれでも女子高生三人分の眼差しだ。その破壊力はそこそこ高かったと言えよう。
さすがにこれは諦めるほかないと悟ったのか、楠は重々しく口を開いた。
「…こいつは、オオイヌノフグリという」
「おおいぬ?」
「の?」
「ふぐり?」
「…………ああ」
オオイヌノフグリ。それが、この小さな青い花の名前だという。楠が言うのだから、おそらくそれは間違いでも何でもないのだろう。
ただ一つ、気になることがあるとすれば。
「おおいぬって、大きい犬?」
「どの辺に犬要素があるのコレ……?」
「なんかこう、もっと青にちなんだ名前だと思っていたけど……」
この前のチョコレートコスモスは、チョコレート色でチョコレートの香りがするコスモスだった。見た目も名前も関連があるというか、まさにその特徴からつけられた名前なのだろう。品種もお菓子みたいな名前ばかりで、それだけでどんなものなのかの想像ができるくらいだ。
一方で、このオオイヌノフグリにはそう言った要素が一切ない。名前には青い要素がどこにもないし、名前にあるイヌてきななにかも花には見受けられない……と、少なくとも華苗にはそのように思えてしまう。
「…異名として星の瞳と呼ばれることもある。が、こっちはあくまで異名であり、正式名称はやっぱりオオイヌノフグリだ」
「あ、星の瞳はわかるかも。つぶらでちいさくて……花の形も、なんとなく星形っぽく見えるし」
「うん……でも、やっぱり犬要素は無いよね。というか、そもそも……」
三人娘は、顔を合わせた。
「ふぐりってなに? よっちゃん、しってる?」
「んーん、しらない。史香は?」
「私も。ふぐりって名前の花じゃないの?」
「…………」
オオイヌノフグリ。まっとうに考えるなら、大犬のふぐり。オオイヌは大きい犬のことなのか、単純に大きいという冠詞が使われているイヌノフグリのことなのか。いずれにせよ、格助詞である「の」がある以上、そこに続く「ふぐり」と言う言葉には明確な意味があるはずだ。
それも、犬の何かを示すものである。
「せんぱい、せんぱい」
「…………なんだ?」
わからなければ、知っていそうな人に聞けばいい。いつも通り、華苗はこの学校で一番園芸について詳しい人間に、その純粋たる疑問をぶつけた。
「オオイヌノフグリのふぐりって、なんですか?」
「…………」
「犬の何かではあるんでしょうけど……先輩、知ってますよね?」
「…………」
楠は、口を閉ざした。
「お・し・え・て・?」
「教えてくーだーさーいー!」
「教えてくれると……嬉しいなっ!」
女子高生三人組の、あざといお願いポーズ。
「…………」
しかしそれでも、楠は無言を貫いたままだった。
無論、別に知らないというわけじゃない。なんてことの無いはずの雑草を見てパッとその名前が浮かぶ程度には楠は園芸について詳しいし、それに纏わる雑学についても知っているつもりである。当然、オオイヌノフグリが何故オオイヌノフグリと呼ばれるかという所以も知っており、そうでなくとも男子高校生的に「ふぐり」の意味するところは知っていた。
知っていたがゆえに、華苗たちには──後輩である女子高生には、その意味を伝えられるはずがないのだ。
「むう……これだけやっても口を割らないとは」
「やっていてなんだけど、結構恥ずかしかったのに……」
「も、もしかしてあたしたち、結構なダル絡みして呆れられてる……!?」
「…別に、そういうわけじゃないんだが」
「じゃ、どういうわけなんです?」
「…………」
どうしたものか、と楠は表情の一切を動かさずに心の中だけで考える。ここまで食いついてきている以上、なあなあでお茶を濁すのはかなり難しいと言っていいだろう。つまり、本当のことを教えない限りはどうにもならないということだが、問題はまさにそこなのである。
考えて考えて──楠は、問題を丸投げすることに決めた。
「…じいさんに聞いてみろ」
この学校の中で、あらゆることに一番詳しい人物。心当たりとしては申し分ないし、その後のフォローも、華苗たちのダメージすらも最小限になるであろう理想的すぎる選択肢。下手に女子仲間内に聞きまわられるよりかは、あらゆる意味で被害を小さく抑えることが出来るはず。
楠のその考え自体は、おおむね間違っていなかった。
「あ、昨日佐藤先輩が言ってたんですけど、今日は古家には誰もいないって」
「そいえば、なんか用事があるから二人で抜けるって言ってたね?」
「…そうか」
しかしながら、いないものはしょうがない。そして不幸なことに、気になったことをそのままほったらかしにするという学生特有の悪いクセを、この園島西高校の生徒は持ち合わせていなかった。
「じゃ、お菓子部と調理部と……知ってそうなみんなに手当たり次第に聞いていくかあ」
「どーせあとでリヤカーで巡るし、ついでに運動部で聞いてみるのもいいかも」
「!?」
ヤバい、と楠は思った。まさに恐れていた事態が目の前で起きようとしている。
いくら鉄面皮で初対面だと誰からもビビられる大男でも、後輩女子たちが「やらかし」そうになっているのをそのまま見過ごすのは、あまりに心が痛むことであった。
(…すまんな)
滅多に使わないケータイ──ましてや学校内では使う理由がない──を、楠はポケットの中で操作した。
「…柊と田所が、いま昇降口にいるらしい。…せっかくだ、今すぐ行って聞いて来い」
「え? いやいや、別に後でいいですよ。これも植えなくちゃいけないし」
「…そっちはやっておく」
「そういうわけにも──」
「…いいから行け。これは部長命令だ」
「ちょっ……!?」
株を取り上げ、訝しむ華苗たちを半ば無理やり畑から追い出して。上手く災難を押し付けることに成功した楠は、心の中で改めて柊達の健闘を祈った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よ、柊」
「うん。……その様子だと、田所も理由はよくわかってないみたいだね」
昇降口。部活を少しだけ抜け出してきた田所と柊の二人は、二人そろってほんの少し前に受信したメッセージ画面を見せ合って首を傾げた。
「なんだろうね、これ。……『頼むぞ』だって」
「楠先輩から呼び出しされるのも初めてだよな」
「何かあったのかな? こんないきなり、ろくに用件も告げずに呼び出す人じゃないと思うんだけど。収穫の人出が足りない……ってことでもなさそうだし」
「わかんね。でも、すぐにここに来いって先輩が言ってるんだから、すぐにわかることだろ」
件名も何もない、【昇降口にすぐ来い。あとは頼むぞ】というたったそれだけの半ば暗号染みたメッセージ。元々無口な人間であったとしても、文面でも無口になるのは相当に珍しいケースと言っていい。それも、いままでまともに連絡を貰ったことの無い相手から来たものともなれば、二人が訝しむのも当然の話である。
「あっ! かっちゃんと田所!」
「やあ」
幾何も経たない間に、柊と田所の前に華苗たちがやってきた。当然のように園芸部スタイルである華苗はともかく、ジャージ姿の清水とよっちゃんみて、今日はこの二人が手伝いに出ていたんだな……と柊はあたりを付けた。
「もしかして、三人も楠先輩に?」
そうでなければ、この時間に園芸部が手ぶらでこんなところにいるはずがない。きっとこの三人も楠の呼び出しにより集ったのだ……という柊の予想は、あっけなく裏切られた。
「んーん。そうじゃなくってぇ……かっちゃんたちに、聞きたいことがあって」
「今日、華苗ちゃんが小さな青い花を見つけてきてさ。その名前が……」
「オオイヌノフグリって言うの。でも、ふぐりって何のことかわからなくて……克哉くん、知ってる?」
柊の表情が、ぴしりと固まった。
「先輩に聞いたら、克哉くんなら知ってるだろうから教えてもらって来いって」
「は、はは……」
何のことか、わかるかなあ──そんな風に目の前で恥ずかしそうに笑う彼女を見て、柊は酷く居た堪れない気持ちになった。
(そうか……そういうことか……)
そしてまた、楠からの【頼むぞ】のメッセージに込められた意味と、この後自分に訪れるであろう言葉にできない役割を理解する。避けようのない未来に、しかし柊は瞬時に覚悟を決めた。
「だ、だからその……教えてくれると、嬉しいなって」
「あん? そりゃ、ふぐりって言ったら──」
「待ってくれ、田所」
「お?」
「……僕に言わせてくれ。その方がたぶん、お前に言われるよりかはダメージが少ない」
場の空気を読まず、マイペースを貫いて何もかもをブチ壊しそうになった親友を柊は制止する。この判断ができた自分に、柊は心の中で拍手喝采を送った。
「え、なになに? かっちゃん、その思わせぶりな態度はいったい……?」
「ミキが言うのはダメなの……? ダメージってなんのこと?」
「ははは……」
柊は、虚ろな目をして華苗と視線を合わせた。
「まず、華苗ちゃん。……これ、他の誰にも聞きに行ってないよね?」
「う、うん……」
よかった、と柊は心の中でホッと息をつく。
そして、こんなことを自分に押し付けてきた楠に、心の中で呪詛の言葉を吐いた。
「教えてくれる……んだよね?」
「うん、もちろん」
真剣に見つめられているのが恥ずかしかったのだろうか。頬を赤らめながらも聞いてくる華苗に対して、柊はどこまでも穏やかな表情で、優しく笑かけた。
「あのね、華苗ちゃん。ふぐりって言うのは、その……」
「「──!?」」
真っ赤になった三人娘の声にならない大絶叫が、園島西の校舎に響き渡った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
──オオイヌノフグリ。それは、イヌノフグリという花とそっくりで、イヌノフグリよりちょっぴり大きな花を咲かせることからつけられた名前である。
そしてイヌノフグリは、その果実が犬のとある部分にそっくりであることから名づけられた名前だ。
肝心のオオイヌノフグリの果実はイヌノフグリとのそれと違ってハート形をしているのだが、おそらくきっと、そんなことは華苗たちにとって何の慰めにもならないだろう。
「うあぁう……! ううっ、うあああ……!」
「いや……! いやいやいやぁ……!」
「うそでしょ……! うそって言ってよぉ……! そんな、私達、あんなことを平然と口にして……!」
その日の帰り道。秋の夕陽に照らされた華苗たちの顔は、他の誰よりも真っ赤であった。




