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麗しの泥棒貴族  作者: えきすとら
9/10

第九章 女優、登場

  

 代々の城主がパーティを催す時にはメイン会場として、ダンスフロアとしても使われてきた壮麗な大広間。

 鏡のように磨き上げられた床。権威を見せ付ける調度の数々。天井から部屋全体を照らす豪奢な水晶のシャンデリア。それ自体が壁紙となり、天井の一部ともなって同化しているバロック絵画。金箔が施された彫刻。その全てが贅沢できらびやか。

 ホールの正面中央には、広間全体を見下ろすバルコニー。その両脇に階段があり、赤い絨毯が敷かれている。二階部分が吹き抜けになっていて、大理石の列柱が居並ぶ四方の回廊は広く、階段の広間と呼ばれ、数々の美術品で飾られている。各所にはさりげなく椅子や小卓が置かれ、客達が宴の合間に休憩したり、談笑する場としても利用される。


 その華麗で豪華な赤絨毯を敷いた階段上のバルコニーに、眠っているところを襲われ、哀れな人質となった城主ベルリンがいた。

 寝間着にガウンを羽織っただけというベルリンを背後から押さえつけ、今にも泣きそうな顔で怯える城主の首にナイフの切っ先を押し当てているのは、リオンだ。

「さあ、どうした! 早くオレの仲間を解放しやがれ!」

「お、王子様、こんな無茶なことはおやめなさい。どうせ逃げ切れるわけがありませ……」

「やかましい。黙らないと目玉ほじり出すぞ」

「はい、すみません」

 怒気のこもった本気の脅しに、ベルリンは半泣き顔で素直に口を閉じた。 

 階段の下には、城主を盾にされてそこから上に行けない警備兵達がおろおろと固まっている。

 その様子を、使用人達の通用口である、どでかい彫刻の影にある小さな扉からこっそり覗いているのはダヤンとレイジェルとトーマだ。ダヤンがトーマにこそこそと訊く。


「おい、あれがお前が助けたがってた王子様なのか」

「ああ、そうだ」

「助ける必要ないんじゃね? 自力で逃げる気満々っぽいぜ」

「これを恐れていたんだ。あいつは時々、考えもなしに無茶なことを平気でやる……」

 トーマは眉間にシワをよせ、青筋の浮いたこめかみを指先で押さえた。

「俺、あいつの顔どっかで見たような気がすんだけど。どこだったかなぁ」

 一階から見上げながら、レイジェルはしきりに首をひねっている。

「ところでラキは?」

「ラキさんは指輪を探しに行った。俺はラキさんを手伝いに行く。お前ら二人は王子さま担当で頑張ってくれ」

 ぽん、とレイジェルはトーマとダヤンの肩を叩いた。

「えっ、おれも手伝うの?」

 ダヤンは既に逃げ腰だ。警備兵だらけで、めっちゃ戦況的に不利じゃん。と全身全霊で訴える。

「別にここに隠れていて構わんぞ。俺は一人で大丈夫だ」

 トーマはそっと刀の鯉口を切った。こいつときたら、この状況でも王子様を助けに行く気満々だ。どうかしている、とダヤンは呆れた。


「はあー、これがいわゆる忠犬ポチ公ってやつなのか。じゃあおれは目いっぱい援護だけはするから、後のことはお前に任せた」

「それはどうも」

「ただし、おれ様が危なくなったらすぐさま助けに来るように」

「そんな約束は出来んな……」

 トーマはたまらず、声を出さずに苦笑した。どいつもこいつも身勝手だが、何故だか憎めない連中だと思う。

 階段広間のバルコニー上では、待ちくたびれたリオンが怒鳴る。

「どうした! もうずいぶん時間が立ったぞ。何をモタモタしている!」


「王子様」


 吹き抜けの二階部分の、四方を取り囲む回廊。

 この危急時にも関わらず、普段通りの優雅な歩調でリオンの前へ歩いてくるのは、美術館のギャラリーで客の目を楽しませる彫像にも似た、優美な男。銀色の髪が月の光のように輝く。


「止まれ。それ以上近づくな」

 リオンの厳しい制止の声に、イカロスは微笑んだまま足を止めた。

「おそれながら王子様には、あの護衛などよりも先に取り戻さねばならぬものがおありではございませんか? 例えばこれなど……」

 手品師にも似た思わせぶりな手つきで顔の横に上げた手。その人差し指と中指の間に、例のルビーとダイヤの指輪が挟まっていた。

 リオンはふん、と鼻で笑う。

「そんな指輪いらない。トーマを返せ」

「これはこれは、あの傷だらけの男が聞いたら感涙にむせびそうなお言葉ですな。しかし、本当によろしいのですか? ご承知の通り、ローデラントの王妃には王位継承権を要求する権利がある。すなわち、この指輪を持つ者は国王と同権の者とみなされます。アイネンザッハがローデラントを制圧するのに、正当な根拠として利用されますぞ」

「たかが指輪にそんな力があるもんか。だったらそんなもん、俺がぶっ壊してやる」

 イカロスは軽く首を横に振った。

「やれやれ、殿下は何もご存知でいらっしゃらない。この指輪には、他にもっと重要な『秘密』が隠されているというのに。それを自ら壊してもかまわないとは……」


「壊すぐらいならその指輪、あたしに頂戴」


 天井近くから、決して大きくはない女の声が(りん)と響いて、広間の隅々にまで通った。

 見れば、天井からぶらさがる巨大なシャンデリアの上に乗り、片手で照明を吊るす鎖を握り、もう片方の手を細い腰にあてて立っているのは、コートの裾を(ひるがえ)したラキシスだ。


「はっ!」

 気合を入れる一声をかけ、しなる鞭を振るってシャンデリアの金枠に絡める。そして勢いをつけて飛び降りた。鞭をロープ代わりに使い、イカロスの立つ回廊まで軽々とひとっ飛びに跳ぶ。

「!」

 すり抜けざまに手から指輪を奪われ、イカロスは一瞬虚を突かれた顔になる。

 リオンとは反対側に、回廊でイカロスを挟む位置に立ったラキシスは、片手で鞭を器用にまとめ、腰に戻すとその手で今度は短剣を抜いて構えた。反対側の手にはしっかりと、目的の指輪を握り締めて。

 眉間を寄せていた顔から緊張を解き、イカロスは舞台俳優の身振りで軽やかに一礼した。


「またお会いできましたねプロジー嬢。いや、六代目伯爵夫人、フロイライン・オランジュ。お国の言葉では、マドモアゼルと呼ぶのでしたか」

「あんた、誰」

 すでにいつもの微笑みの仮面を被ったイカロスに、ラキシスは油断無く短剣を構えながら眉根を寄せる。

「そっちはあたしの名前を知ってるのに、あたしがあんたの名前を知らないのは不愉快だわ。名乗りなさい」

「名乗る必要も無いほどの脇役でございますよ。どうしてもとお望みならば、男爵(バロン)とでもお呼びいただければ幸いにございます」

「どこの男爵だ。ふざけんな。あたしは名前を聞いてんのよ」

 本能的に、リオンに人質にされているベルリンの方こそ小物で、実際に裏で主導権を握っていたのはこの男だとラキシスは確信した。

 ここに長居しすぎるのは危険だ。何よりも、自分の目的はもう達した。

「いいわ、自己紹介はまた今度にしましょう。次回があれば、だけれどね」

 ラキシスは回廊の手すりに、ひらりと飛び乗った。

「みんな! 逃げるわよ!」

 そうしてそこから、くるりと空中回転しながら一階ホールまで飛び降りた。

 呆気に取られていた警備兵達が、我に帰ってラキシスを捕らえようと取り囲む。

 一発の銃声が響いて、会場を照らす一番大きなシャンデリアの鎖を断った。

 豪奢なシャンデリアはクリスタルガラスが鳴りあう軽やかな音を立て――そしておよそ五百キロ近い巨体を床に激突させ、四散した。

 真下にいた警備兵達は落下物に潰されるのを避けて逃げ惑う。破片が周囲に飛び散り、跳ね返るガラスが銃弾のように兵士を襲った。

 紫煙にも似た煙をくゆらす銃を構えたレイジェルが、さりげなくラキシスをサポートする位置に立つ。


「な、なにをしておる、早く賊どもを捕らえぬか!」

 自分がリオンに人質にされている立場なことも忘れて、ベルリンが怒鳴る。

 呆気にとられていたリオンもハッとなって、イカロスを睨み、言う。

「おい、オレの要求はどーなってんだよ!」

「リオン」

 階下から聞き慣れた声に名を呼ばれ、リオンは耳を疑った。


「俺はここだ、リオン」

 異様に静まり返ったホールにコツ、コツ、とその男のブーツが鳴らす足音だけが小さく響いた。

 警備兵達も、あまりに堂々と中央を歩いてくる男の様子と、一点の隙も無く目には見えない闘気に包まれたその威圧感に、我知らず道を開ける。

 進行を妨げれば、腰に帯びた異国の刀剣で即座に斬り捨てられそうな気がする。そんな本能的な畏れに阻まれ、誰も容易には手出しが出来ない。

それとは対照的に、リオンの表情に徐々に浮かび上がるのは、心から安堵した笑顔だ。

 バルコニーの下に立ったトーマがリオンを見上げ、何か言うのと、リオンがトーマに声をかけるのが同時だった。

「無事か?」

 二人は同時に、相手に同じことを聞いた。

 くぅっ、とトーマは苦笑し、リオンは顔をほころばせて笑った。

「迎えに来たぞ。一緒に帰ろう」

「違うだろ。オレが、お前を助けようとしてたんじゃねーか」


 でも、もういい。そんなことはどっちでも。

 互いが相手を思いやり、その無事を願って出来る限りの行動をした。何も聞かなくてもちゃんと伝わるから、それだけでもう充分だ。

 リオンはベルリンの重そうな身体を、イカロスの方へ乱暴に突き飛ばした。


「うぉわ!」

 たたらを踏んで倒れそうになるベルリンが、慌ててイカロスにしがみつく。イカロスは()けようとしたが、ベルリンは無様に両手を振り回して退路を断ち、イカロスの腹に抱きついた。

「じゃあな、おっさん達。オレ帰るから」

 リオンは身軽に階段の手すりに跨り、滑り台の要領で一気に下まで滑走していった。

「逃がすな、捕らえろ!」

ちっ、と舌打ちしながらベルリンを抱え、イカロスは階下の警備兵達を一喝した。呆けていた兵士達はいま目が覚めた、という顔をして、手すりから飛び降りたリオンを捕まえようとする。

その無数の手を阻むように、鉛色の疾風が舞った。


「ぐぁ!」

「げっ!」

 警備兵たちはいつどうやって斬られたのか最後まで気がつかぬまま、手首の腱を断たれ、肩口や背中に傷を負ってどうと倒れこんだ。

 すでにトーマは、音も無く刀を鞘に収めている。 


「行くぞ」

「うん」

 トーマを信頼しきった顔で、リオンは頷く。

トーマがラキシス達の方を見ると、ラキシスはダヤンとくだらない押し問答をしていた。

「だからよう、どっからどうやって登ったんだよあのシャンデリア。しかもいつの間に! いかようにして!」

「いやだわお馬鹿さんね。そんなの聞くだけ野暮じゃない。ヒロインとは常に! 舞台でもっとも目立つ登場の仕方をするものなのよおっほほほ!」

「待たせたな。ていうかお前ら余裕だな……」 

 そもそもこんな風にツッコミを入れる(キャラ)ではないのだが。思わず口をついてしまったトーマの問いには誰も答えず、レイジェルはリオンを見て目を見開く。


「お、お前―! お前の顔には確かに見覚えがあんぞコラ! この前会った時はスカートはいてただろ、そうだろう!」

 途端にリオンは目をそらす。

「ななな何のことだよ、知らねえなあ!」

「ごまかすなー! 俺は一回会った女の子の顔は絶対忘れねェんだ。てめえ、騙したな!」

「レイジ君、それはあとにして」


 状況を思い出したラキシスが、レイジェルの背中を叩いて止める。

「また会ったわね。でも、挨拶は後。まずはここから離れましょ」

 ラキシスが笑いかけると、リオンも照れくさそうに笑い、頷いた。

「これで全員が揃ったわね。じゃあみんな、今度こそ撤収します!」

「おう! 撤収―!」

 ダヤンが一番嬉しそうに、まっさきにホールの正面出入り口へと駆け出した。

 その豪壮な装飾を施した両開きの扉が開いて、向こうからさらに多くの警備兵がなだれ込んでくる。

「皆さんコニチワ! そしてサヨナラ!」

 ダヤンは全力で走りながら上着の内ポケットに手を突っ込むと、取り出した何かに火をつけて周囲に放った。

 パパパパンッ! と景気のいい音が響いて火花が飛び散る。ねずみ花火と爆竹だ。

「投げるな危険! 火気厳禁!」

 ダヤンはそう叫びながら、どんどん爆竹を投げる。警備兵たちは足元を駆け回るねずみ花火に逃げ惑い、うわ、とかぎゃあ、とか叫んで飛び回る。花火をよけるステップが、まるでテンポの速いダンスのようだ。

 その隙にラキシス、レイジェル、リオン、トーマの順で扉から抜け出していく。成り行きでしんがりになったダヤンは、ラキシスがいつか使ったのと同じ黒い球を二個も取り出し、栓を口で咥えて引っ張る。

「それでは皆様、ご機嫌よろしこ!」

 高らかに言って、ぽーいと危険な置き土産をホールに放った。


 豪快な音を立てて黒球が弾け、もうもうと立ち上る煙が消えた頃には、もうそこにラキシスたちの後を追いかける元気がある兵士は、一人もいなかった。


「参りましたね。全くあなたもだらしがないですよ。もう少し使える方だと思っていたのに」

 イカロスは乱れた銀髪を手ですきながら、ため息をつく。

「め、面目ない……しかしだな、あの連中はいったい何者……」

「今回のあなたの失態は逐一グリュンブルク公に報告させて頂きますよ。結果的に陛下のお耳にも入るかもしれませんがね」

「うう、それは困る。とても困るぞイカロス」

「ならばせめて汚名を返上できるよう、もうひと頑張りなさい。私は連中を追いますから、あなたも部隊を率いて後からおいでなさい。〝赤い十字架(ロート・クロイツ)〟の本隊をお借りしますよ」

「構わん、使え。どんな手を使っても構わないから、王子と指輪を取り戻すのだ!」

 せめてもの意地で居丈高に命ずるベルリンを冷たい目で見下ろし、イカロスは銀色の髪をなびかせながら階下へ降りる。

 ベルリンはよろよろと立ち上がり、身支度を整えるために私室へ向かいながら怒鳴った。

「何をしているのだ! すぐに兵士を集めて追跡部隊を編成しろ。それから誰か、私の着替えを手伝え! 指揮官にふさわしい仕度を整えねばならぬからな!」

 ホールにいた兵士達は疲れた顔を見合わせ、負傷者に手を貸してやりながら、こんな上司の下にいたんじゃこの先出世は望めないな、と全員がなんとなく思った。



 暗い山間(やまあい)の道を全速力で駆け下りる騎馬の集団は、全部で五人だ。先頭を走るのはラキシス。

 馬は城から脱出する時に盗んだ。ホールの騒動を聞きつけて、城外にいた警備兵までが広間を守りに入って来たので、その連中を振り切ってしまえば、外の警備はぐんと甘くなっていた。ラキシス達は悠々と正面玄関を通って馬を奪い、門から山道へと逃げ出せた。

 侵入作戦決行の前に、逃走ルートに関しては事前にしっかり話し合って決めた。リオンはトーマを信用して、彼の横にぴったりと馬を並べてついて来る。

長い山道を下りきると、付近の森の中に隠しておいた馬車や荷物、それからここへ来るまでにラキシスとレイジェルが乗ってきた馬達が待っていた。馬はすぐ乗り換えられるようそれぞれに鞍を載せ、逃亡するのに必要な荷物も鞍袋に詰め替えてある。

 トーマはリオンに、自分も一度救われた、あの栗毛の馬に乗り換えるように言った。そうしながらトーマは自分が着ていたフード付きの外套を脱いで、リオンに着せる。

「賢い馬だ。きっとお前を守るだろう」

「これからどうするんだ?」

 リオンが素直に栗毛の馬に乗り換えると、同じように馬を乗り換えたラキシスが答えた。


「一晩突っ走って、リタリーとの国境を目指すわ。ヴァネッサの首都にあるローデラント大使館に行くより、そっちの方が近いし安全」

「うまく国境を越えられたらいいんですがね。当然ですけど検問とか張ってあるだろうからなあ。おいダヤン、トーマも手伝え。この馬車使って道を塞ぐぞ」

 追っ手を食い止めるための、せめてもの妨害策だ。馬車には火薬と油の(かめ)をたんまりと積んである。残りの馬は放してやり、人力で馬車を道の真ん中まで移動させる。

 火薬に火が回るのに少し時間がかかるよう、(わら)を編んで作った長めの紐を結びつけ、先っぽに火をつける。じりじりと燃えて、時間差で景気よくどかん! と爆発する寸法だ。こういう細かい細工がダヤンは得意で、大好きだった。

山道の上方から、複数のひづめの音が聞こえてきた。木々の隙間からは、たくさんの松明(たいまつ)の光も漏れている。

「よっし、完了。ずらかろうぜ!」


 ダヤンは跳び箱でも飛ぶようにタン、と尻から自分の馬の鞍に跨り、手綱を取った。

 ラキシス達が遠い国境を目指して駆け出したすぐ後に、緋色のマントを身にまとい、武装した騎士の集団が山道を駆け下りてきた。イカロスが乗った馬が、武装騎士団の一番後ろについている。

 さして広くはない道を塞ぐように置かれている馬無しの馬車を見て、一団の隊長格らしい顎鬚の男が言った。

「誰かあの馬車をどけろ、邪魔だ!」

イカロスは目ざとく荷台で燃える紐を見つけ、近づくな、と声をかけたが、遅かった。

 馬車はたちまち爆発し、近くに寄っていた騎士達を勢いよく吹き飛ばした。轟音と爆風に怯えた馬が騎手を振り落とし、辺りは一時騒然となる。

 イカロスは、炎を怖がって暴れる馬をどうにか鞍上で(なだ)め、燃え盛る炎に照らされた街道の向こうをじっと睨み付けた。

「……味な真似をしてくれる」

 その顔は怒るというより、むしろこの状況を楽しんでいる色合いの方が強かった。



 聞きたいことは、お互いにたくさんある。

 リオンは、どうしてトーマがあのオレンジ髪の女と行動を共にしているか、そもそも彼女が誰なのかさえ、何も知らなかった。

 ラキシスは、リオンが本当にローデラントの王子なのか知りたかった。あの銀髪のキザな男が口にした『指輪の秘密』という意味も。

 各人がそんな思いを胸に秘めて、しかし今は逃げ切ることが先決と、黙って馬を疾走させる。トーマに全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せるリオンは、ラキシスを敵とは疑わなかった。目的が何かは知らないが、今は一緒に逃げる仲間だ。それでいい。

 後方に追っ手の気配は迫って来ない。振り切れたのだろうか? それとも?

 夜空に浮かぶ月は細く欠け、雲がかかって星の輝きも少ない今夜は、ほぼ闇夜だ。

峠を三つ越えた頃、ラキシス達は馬を止まらせて一旦休憩を取る。全力疾走は馬も疲れるだろうが、乗っている方だって大変なのだ。

「追いかけて来ないわね。とは言え、油断は禁物だけど」

 そういうラキシスの声は途切れがちだ。頬を汗が伝い、息は弾んでいる。

「腰が痛ェ……うおー、背骨に振動が響くぅ」

 ダヤンが若さを感じさせない口調でうめき、姿勢が辛そうに鞍の上で突っ伏した。

「トーマ、怪我は?」

 ここへ来てようやくリオンがトーマを気遣う。気遣える余裕さえ無かったが、離ればなれになる前に、撃たれるところを見たのだ。無傷だとは思っていない。

「別に平気だ」

 トーマはしっかりとした声で答えた。

 レイジェルが地図を見ながら言う。


「こっから国境まではあと少し。ただし、街道をまっすぐ突っ切ったら、そのまま検問にブチ当たるでしょう。どういうルートで行きますか?」

 手っ取り早いのは、検問所を力ずくで突破する第一のコース。

 次に考えられるのは、途中で馬を捨て、歩きで国境沿いの山を越えて行く第二のコース。

 残る一つは、国境の間を流れる川を渡って行く第三のコースだ。

「検問突破は避けたいな。山を越えるか、川で行くか。小船があれば、川を静かに流れ下りてそのままリタリーに入っちゃうってのが、一番安全かもしれないわね」

 ありがたいことに、月の光が弱い今夜は敵の目をくらませやすい。

「とりあえず、状況見ながら臨機応変に決めますか」

「うん。じゃあ行きましょう」

「ええーもう休憩終わり?」

 ダヤンのくたびれた声をラキシスは見向きもしない。

「泣き言言わないの。お前もしんどいだろうけど、もう少し頑張ってね」

 声をかけながら乗っている馬の首を撫でてやると、馬は軽く鼻を鳴らして、耳をぱたぱたと揺らした。


 水の流れる音が聞こえてくる。川が近い。この辺りの川はヴァネッサとリタリーの国境を分けるイルミ河へと流れていく。イルミ河はリタリー国内を流れ、やがてはローデラントにも流れ着く大河だった。

川辺にそって馬を並足で進めながら、周囲の様子を窺う。まだそう深くない川の向こうには、リタリーとの国境を分ける山と森林が広がっていた。

 空気はシンと冷たく、肌を刺すような心地だったが、今は不思議と清涼で、疲れて乾いた喉の奥にはこの冷たさが心地よい。

見張りはいないようだ。しかしあまりに静か過ぎると、それはそれで不安になる。

 なんだかスムーズに行き過ぎて、イヤな感じ。

 ラキシスが胸騒ぎを感じたのと、ひゅるる、と耳障りな音が川向こうから空中に向かって飛び上がったのが、ほぼ同時だった。

次にぽん、と弾ける音がして夜空がにわかに明るくなる。照明弾だ。

 照明弾は続けて二発打たれ、辺りをさらに照らし出す。

 そうして見れば、川の向こうの茂みに潜んでいた武装兵が、銃身の長いドライゼ銃、いわゆる元込め式の歩兵銃(ライフル)を構えて浅い川を渡ってくるのが分かった。森の中にも兵士達は潜んでいて、中には立ち姿からして戦闘力の格が違う、緋色の装束をまとった連中もいる。


「逃走ルートは限られていますからね、ある程度予想がつきます」

 そう言って、森の影から悠々と馬に乗って現れたのはイカロスだ。

 川の上流を遠目に見れば、水位の高いところに船が何艘か留っている。

「船を使って先回りか。やってくれるじゃない」

 ラキシスが睨むと、イカロスは特に自慢するでもなく首を振った。

「願わくば、あなたがたには(いさぎよ)くここで諦めて頂けると助かるのですが。なに、虜囚といえどもご身分にふさわしい扱いはさせてもらいますよ、オランジュ六世」

 トーマが手綱を操って、ラキシスの前に馬を進めた。

「ここは俺が食い止める。お前らはリオンをつれて、なんとか国境を越えてくれ。頼む」

「いやだ! 戦うんならオレも一緒だ」

 リオンはトーマと一歩も離れないつもりだ。

 イカロスはふん、と吐息で笑った。

「臣下冥利につきるお言葉ですな王子殿下。それにしても(けい)は全くしぶとい男だ、レン・トーマ。とっくに死んだと思っていたのに」

「悪運だけは強くてな……」

 ラキシスは、近づいてくる歩兵との距離を横目に測りながら言った。

「ねえちょっと、お話中悪いんですけど」

「なんでしょうマドモアゼル? 降伏して下さる決心がおつきですか?」 

 微笑むイカロスに、ラキシスはきっぱりと首を横に振った。

「往生際が悪いのが代々うちの家風なの。みんな! こうなったら全力で検問を突破するわよ。死ぬ気で走れ!」

 待ち受ける兵士から挟み撃ちにあうのは、承知。一か八かだ。

「ハイヤ!」

馬首を廻らせ、街道をまっすぐ進んで国境を目指す。ダヤンが煙玉と爆竹を投げて敵をかく乱し、剣を抜いたトーマと拳銃を持ったレイジェルが、追っ手を倒しながら後に続く。

「王子と令嬢は傷つけるな。他の連中は撃ち殺してもべつに構わん」

 イカロスが命じると、緋色マントの男達が馬に飛び乗り、銃を撃ちながら後を追った。

「どうせ逃げ場はない。諸君、確実に追いつめて獲物を仕留めたまえ」

 まるで狩場へ赴く熟練のハンターのように、イカロスは笑った。


 イカロスが自信をもって話した通り、そしてラキシスも予想していた通りに、街道の検問所にはさらに多くの人員が配置されていた。おそらく一個小隊はいる。すなわち五十人ほど。

 しかしここさえ突破できれば。すぐ向こう側はリタリー国との国境間にある中立地帯だ。

 五十人がなによ、一人で十人倒せばいいってことじゃないの。

 それが無茶すぎる計算だとは、ラキシスも分かっている。そんなのは戦術でも戦略でもない。ただの無謀と言うのだ。

 冷静に考えれば、今は一時的にでも恭順の意を示して好機を窺うべきだったかもしれない。油断させ、策略で敵の隙をつく機会を狙う。頭領として仲間の安全を一番に考えるなら、そうするべきだったかもしれない。

 頭では分かっている。でも、それでも。

 あのいけすかない銀色の髪の男に膝を屈するのは、どうしても嫌だった。

 所詮その程度なんだろう、あたしの器量は。

 名だたるレッド・オーランドなら。もっと上手く采配を振るったんだろう、たぶん。


(お前は、自分の才能を過信しすぎるきらいがあるわね)

 昔言われた。死んだ母親に。

(自信は確かに大事だけれど、根拠のない()ぎた自負心は、おのれの足元をすくうだけよ)

 言われた時はただ腹が立つだけだったが。確かにその通りなのだろう。だからと言って、この性分を今さら直そうとも思わない。

 戦う前から全部を諦めてしまうなんて、そんなのあたしは、まっぴらごめんだ。

「おい、姉ちゃん!」

いつの間にか、馬首を並べて横を走っていたリオンが笑う。

「度胸あんのな! オレあんたの考え方結構好きだぜ! 何にもしねーで最初(ハナ)から諦めるなんて嫌だからさ、戦うって言ってくれてよかったよ!」

 慰める意図でなく、全力で血路を開くことを信じて疑わない、豪勢な笑顔。

 挑戦してくれてありがとう、と。

 ラキシスは苦笑を返した。

「ガキがいきがってんじゃないわよ」


 検問所のかがり火が見える。バリケードの向こう側には、二列に構える射撃兵の姿。

「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」

 ラキシスは手綱を短く持ち、跳躍に備えて身体をかがめた。障害飛(しょうがいひ)(えつ)の構え。要領は、バーを跳び越える総合馬術競技と同じだ。 

ラキシスは「飛べ」と心で馬に命じた。

 人馬一体となり、強固なバリケードと兵士達の頭の上を、猛スピードで飛び越える。

 列を組んでいた射撃兵は、自分めがけて飛び降りてくる馬の威圧感に恐怖し、身をかわすのに必死だ。引き金を引く余裕などない。

 (ひづめ)が豪快に障壁を蹴倒し、遠慮なく兵士を押しつぶす。後に続いてどんどん突っ込んでくる複数の騎馬を、押しとどめる(すべ)はない。

 ラキシスが故意に狙った、乱戦状態だ。

 この至近距離では、下手に一斉射撃すれば味方にも被害が出る。射撃兵の多くが発砲するのを躊躇した。仕方なく警備兵は剣を抜き、馬上にいる逃亡者を手で引き摺り下ろそうとするのだが、興奮した馬が邪魔をする。馬に乗っている人間も決しておとなしくはない。全員が徹底抗戦の構えでいる。


 リオンは片手で手綱を持ち、自分の身体を片腕だけで支えながら姿勢を斜めに倒し、すり抜けざまに警備兵の腰から長剣を奪った。

 その脇にはトーマが寄り添い、リオンを狙い来る兵士を次々と切り捨てていく。

 ダヤンは得意の火薬を惜しげもなく使い、レイジェルは両足でしっかり馬の腹を挟むと、手綱を離し、右手に剣、左手に拳銃を持って応戦していた。

 ラキシスは鞭を逆さまに持ち、グリップを敵にぶつけるようにして振り回す。持ち手の中に鉄が仕込んであるので、かなり重いのだ。これに速度を加え、的確に相手の顎や鼻面、首などをめがけて叩きつけると、その衝撃は予想以上に大きい。一撃で昏倒する兵士もいた。ラキシスは、まるでそれ自体が意思ある生き物のように、自由自在に鞭を振るった。

「全員倒す必要はないわ、振り切って逃げるのよ!」


 ラキシスの言葉に、返事はないが一味全員が即反応する。トーマやリオンも従う。自然とそういう状態ができている。

 検問所は突破した。戦いの間に移動した、人が森を切り開いて作ったこの石畳の道は、すでに中立地帯に入っているはずだ。

 厳密な地図がない時代、国の境というものにははっきりとした目印が必要だった。例えば山。あるいは川。

 標識や城壁、道路などの人工物で国境を定め、山脈や湖水といった自然な境目が必要なくなった時代にも、昔の名残はそのまま残った。故に国境近くには、山や川があるところが多い。

 しかし山と一口にいってもその境界は曖昧だ。とある山脈を半分に割って、双方の国で均等に分けるというのは難しい。そのため、陸続きの隣国同士の多くは、協定を結んで国境間に中立地帯というものを作った。

 例えば山へ山菜を取りに行って、つい境界を越えてしまったり、うっかり川を向こう岸まで泳ぎきった途端、不法入国者と呼ばれて撃ち殺されたりしないように。

 中立地帯の幅は国によってまちまちだが、ヴァネッサとリタリー間の中立地帯は、両国の最端にある検問所から測っておよそ一キロ。

 この区間内は両国共に自治権が認められず、双方に非武装が義務付けられる。

 国際法を遵守するなら、ここではいかなる軍事活動も許されないのだ。

 追っ手がそれに従うような甘い連中だとは、無論ラキシスも思っていないが。


 タタタン! と甲高い音が聞こえたと同時に、ラキシスの身体はバランスを崩した。

 馬を撃たれた。瞬時にそう悟り、無意識に受身を取ろうとするが、間に合わない。

 地面に落ちる、と身を硬くしたラキシスの身体を、誰かが横から受け止めた。

 レイジェルが馬から横っ飛びに飛んだのだ。ラキシスを胸に抱きかかえたまま、自分の背中を下にして落下する。

 一瞬目が回る思いをして、ラキシスが改めて周囲を見ると、銃を構えた警備兵達に取り囲まれていた。

「武器を捨てなさい。残りの君達も馬から降りるといい。美しく勇敢なご令嬢を傷つけられたくなければね」

そう言ったのはイカロスで、言われたのは警備兵らの包囲の外にいるダヤンとリオン、そしてトーマだ。

 まず真っ先にリオンが馬から飛び降りると、トーマもそれに従った。最後にダヤンがとほほ、という顔をしてゆっくりと鞍から降りる。

「ラキさん、怪我は」

 腕にラキシスを抱いたまま、レイジェルが静かに訊く。

「ないわ。ありがと、レイジ君」

ラキシスはレイジェルに預けた身体を離し、片膝をついた姿勢でイカロスを睨んだ。

「ここは、中立地帯でしょう。あなた達こそ武装を解除するべきではなくて?」

「鬼ごっこの安全地帯というわけですか? そんな道理が建て前にすぎないのは、あなたもよくご存知のはずでは?」

 なんとか言い負かしてやりたいが、上手い言葉を思いつけずにラキシスは唇を噛む。 

 イカロスは次にリオンを見ると、薄ら寒いほど優しい笑顔を向けて言った。

「こんどこそ大人しく従って頂けましょうな? 私は決して手荒な真似が好きではない。けれど、時と場合というものがございまして」

 イカロスは拳銃を取り出すと、銃口をまっすぐリオンに向けて、ためらいもなく引き金を引いた。

「ッ!」

 リオンは棒立ちになり、ラキシスは目を見開いて声も出せない。

 銃弾は、リオンに当たる直前に、その前に飛び出したトーマの右肩にめり込んだ。

 利き手の自由を奪われ、握り締めていた刀剣が音を立てて地面に落ちる。

「トーマッ!」

 出血する傷口を押さえ、膝をついたトーマに蒼白になったリオンが駆け寄る。

「気づいているかな、レン・トーマ。君は王子を守るためなら、捨て身になる傾向がある。滑稽(こっけい)なほどに、自身の守りが手薄になるね」

 煙がたゆたう銃口を向けたまま、イカロスは冷ややかに言う。トーマがリオンを(かば)うことを計算に入れて、撃ったのだ。平然と。

「二度は言いませんからよく聞いて。今度はその男の頭を撃ちます。あなたが我らの言うことを聞かないと言うつもりなら」

「リオン、聞くな」

 視線はきつくイカロスを見据えたままで、トーマが囁く。

 リオンは勢いよく首を横に振った。

「だめだ。死んじゃう」

「リオン」

「だめだってば」

 首を横に振り続けるリオンを見て、ラキシスは何も手出しできない自分の不甲斐なさに、はらわたが煮えくり返りそうだった。

 口惜しい。こんな奴に負けるなんて、口惜しすぎる。


 そこへ、遅れて後からやってきたベルリン率いる追跡部隊が到着した。

 ベルリンは過剰なほど派手な軍服を身にまとい、金色の房飾りが各所についたマントをひらめかせながらイカロスの横に立った。

「よくやった! よくやったぞイカロス卿! これでグリュンブルク公へ、そして陛下にも吉報がお届け出来る。結果よければ全てよし、だからな! うむ、そなたらにも褒美を取らすぞ!」

 ベルリンは喜色満面で、今にもスキップしそうな勢いだった。うきうきと、足元が弾んでいる。

「それにしてもこやつらめ、手こずらせおってからに。いったい何者だ?」

詮議(せんぎ)は後でも構わないでしょう。ひとまず城へ戻りましょう」

「うむ」

 イカロスが首を振って合図すると、ロープを持った兵士達がラキシスに近づいてきた。


 ――ここまでなのか。

 あたしの運は、こんなものか。


 ぎり、と痛いほど歯を食いしばるラキシスの頭上の空で、複数の(まばゆ)い照明弾が弾けたのは、その時だ。

「な、なにごとっ」

 ベルリンが目に見えて動揺し、イカロスが眉根を寄せる。

 夜空を照らす大降りの花火とまではいかないが、赤、黄色、緑と色彩豊かな炎の光が、街道の周囲を照らし出した。

 近づいてくる多数の人間の足音が聞こえる。ヴァネッサとは反対側、リタリー国境側から、その足音は規則的に近づいてくる。

中立地帯に入って来たのは、リタリー国境警備軍の制服を着込んだ兵士達だ。

 イカロスが前に進み出、警備小隊を率いる指揮官を目ざとくみつけて、声をかける。

「これはロブッセ中尉。お勤めご苦労様です。こんな夜更けまで警戒されるとは熱心な方だ。我らはすぐにヴァネッサ領へ引き返しますので、どうぞご心配なきように」

「これはいったい、何の騒ぎなのですか?」

「凶悪な手配犯を捕らえるために、国境近辺の警備を厚くすることは貴国にも事前に通達しておいたはずですが。あなたにも、この周囲で捕り物があることはお知らせしておいたでしょう? 多少騒がしくなるかもしれないが、手出しはご無用に願いたい、と」

 ラキシスはイカロスを睨む目線をきつくする。つまり、あらかじめ賄賂を渡しておいて、リタリー側の警備兵には話をつけておいたのだろう。中立地帯に武装兵を送り込まれても見て見ぬふりをするように。どこまでも手回しのいい男だ。

「それがそのう……こちらも少し、当初と事情が変わりましてな」

 リタリーの茶色い将校服を着込んだロブッセ中尉は、そう口ごもり、申し訳無さそうに一歩下がると、道を開けた。

「明かりを捧げよ! お足元を照らすのだ」

 その声に呼応して、石を埋めて舗装した広い街道の両側に立つ兵士達が松明を掲げた。 

 明るく照らされた道を、一人悠然とした足取りでこちらへ歩いてくるのは、腰に長剣を帯び、ローデラントの華麗な元帥服を身にまとったサルバローデだ。


「お……」

 王太后さま、そう呼びかけそうになった口を、ラキシスは両手でふさいだ。

 サルバローデの背後を見れば、リタリー国境周辺にずらりと並ぶ騎兵団の姿があった。旗印は立てていないが、あの甲冑はラキシスの目に馴染んだものだ。ローデラントの近衛竜騎兵連隊。ざっと見て二百騎はいる。

 騎兵隊が構えているのは、シャスポー銃と呼ばれるボルトアクション式のライフル銃だ。

 ドライゼ銃に比べて倍の射程距離を有し、1870年に起こったフランス対プロシアの戦争において、その圧倒的な優位性を証明した。


 サルバローデは()めた目で周辺を窺うと、まっすぐにロブッセの前へ歩み寄り、腰に下げた剣を柄ごと取って片手で差し出す。

「ここは中立地帯のはず。わたくしは、剣をあなたに預けたほうがよさそうですね」

「いいえ、その儀には及びません。どうぞ、お気遣いなさいませんよう」

 ロブッセは腰が直角になるほど深々と頭を下げた。

 サルバローデは次にベルリンに視線を定めた。見据えられたベルリンの肩が硬直する。

「ごきげんよう、ベルリン卿。貴公とは確かシャフハイゼンで開催された国際会議でお会いしましたわね。あの時いっしょにいらしたグリュンブルク公爵は、お元気かしら?」

「王太后陛下……これはいったい、どういう仕儀なのでございましょう」

 ベルリンは脂汗を額にだらだらと垂らしながら、掠れた声で奏上した。

「忍びで遊びに参りましたのよ。お互いここにいるべきではない人間が揃っているのですから、深い事情は尋ねないほうが良いのではないかしら。あなたこそ、理由(わけ)を聞かれてはお困りでしょう?」

「わ、我らは手配犯を追ってここへ来ておるのです。彼奴(きゃつ)らはヴァネッサ警察が追う凶悪な放火犯であり、それに結託する窃盗団で」

「ヴァネッサ国の犯罪者をなぜアイネンザッハの方が追いかけているの? それにあなたはどうやら人違いをされているようだわ。そこにいる者達は全員、わたくしの大切な友人です。身元なら、わたくしが保証しますわ」

「し、しかし、現にこやつらは我輩(わがはい)の目の前で指輪を盗んだのですぞ! ゆ、ゆび……」

 しまった、とベルリンは思うが、遅かった。


 サルバローデは底冷えのする目で微笑む。

「その指輪とは、本来誰の物だったのかしら。そこを履き違えて頂いては困りますわ。わたくしは何もあなたを責めに来たわけではありません。ただ、友人を迎えに来ただけ。むしろすべては無かったことにして、双方がこの場を引くべきではないかしら。お国のことを考えるなら、そうなさるべきだとわたくしは思いますよ」

サルバローデは外套のポケットから、例の手配書を取り出した。

「この程度の特徴を有する人間は、ヴァネッサ国に数千人はいるでしょう。人違いというのはよくあるものですわ。わたくしの(ことば)が信用できぬというなら、あの夜に襲撃を受けた当事者に証言をさせましょうか」


 ぽかん、と口を開けて立ち尽くすベルリンに笑いかけると、サルバローデは片足を引いて振り返り、後方にいた誰かに前に出るよう、促した。

 闇夜の暗がりから、明るいかがり火の近くへ。

 無言で歩み出てきた人物の顔を見て、リオンが大きな声を出す。

「リア!」

 ベルリンは顔をこれ以上ないほど歪め、今にも窒息して死にそうなどす黒い顔色になりながら、押し殺した声で女を睨む。

「リア・デ・モンロー……おぬし、生きて……」

 額には包帯を巻き、頬にもガーゼや絆創膏を貼って、手には火傷の痕が痛々しく残る。

 それでも自分の足でしっかりと立つリアの姿を見て、イカロスはふっ、と苦笑を浮かべた。決定的な敗北を認めた顔。

 サルバローデがリアに問う。

「あなたの屋敷を襲い、火を放ったという不逞の(やから)はこの者たちですか」

「いいえ違います、王太后陛下。私を襲った集団とは、まるで別人でございます」

「だそうですよ。これで納得できますかしら? 彼らは無実なのだから、即刻兵をお引きなさい。むしろ本物の賊を探して捕らえるべきですわねえ。見つかればよいのですが」

 サルバローデはさりげなくイカロスの方を見た。イカロスは礼儀正しく顔を伏せて、目礼の姿勢を保つ。

「では、わたくしの友人達はこちらに返してもらいますわ。ごきげんようベルリン卿。次にお会いするのはもっと平和的な会合の場か、そうでなければ、和やかな宴の席がよろしいわね」

 サルバローデはそう言って背を向けた。

 リアがロブッセに軽く頷くと、ロブッセがさらに自分の部下に命じる。

「お客人方に手を貸せ。傷を負った方には、すぐに手当てをして差し上げろ」

 リタリー国境に向かうサルバローデの横へ、警備兵ではないもっと上等の服を着込んだ初老の男が、もみ手しながら近づいて行った。

 彼はリタリーの貴族で、政治家でもある。この国境近辺の領地を治めている男で、ロブッセを直接監督する上司だ。

「それでですね、王太后陛下。先年より議題になっているリタリー国への資金援助の件と、自由貿易協定と関税問題について、じっくりお話がしたいのですが」

「そのお話は後日、議会を通じて返答させますわ」

「ははぁ、どうぞよしなにお願い致します」 

 リタリーの貴族はへこへこと頭を下げた。

 ベルリン一派から流れてくる賄賂の額と、リタリーの国益、すなわち彼自身の利益とを天秤にかけて、サルバローデが申し出た条件の方がより有益と計算したのだろう。そうでなければこの貴族も、こんな風に手のひらを返して協力などしなかったはずだ。


「リオン! トーマ! あんた達、よくまあどうにか生きててくれたねえ!」

 長い髪を振り乱したリアが二人に抱きつく。トーマが傷の痛みに(うめ)くが、リアは気にせず、力いっぱい二人を抱き締めた。

「リアもだよ! まさか、無事でいるなんて」

 抱きつき返すリオンの髪を両手でくしゃくしゃにしながら、リアが何度も頷く。

「ルネも元気だよ。今は寝床から起き上がれないぐらい怪我してるんだけど、でも元気だ。あんた達をものすごく心配してる。落ち着いたら、見舞ってやっておくれ」

「よかった、ルネも無事で……」

 リアは涙を流して喜び、リオンも赤く染まった鼻を小さく(すす)る。

 縄を解かれて自由になったダヤンは、せいせいした顔でリタリーの若い警備兵と肩を組み、後で飲みにいかねえ? おれ(おご)るから、とか言いつつちゃっかり意気投合している。

 憮然(ぶぜん)となったベルリンが何も言わないので、イカロスが配下の兵士に指示を出し、撤収を始めていた。せめて引き際は、鮮やかにしたい。

「ちょっとあんた、待ちなさいよ」

 決然とした顔でラキシスがイカロスの前に立つと、イカロスは平素の顔で聞き返した。

「何か言いたいことでも? マドモアゼル」

「言いたいってか、確認しときたいんだけど。……あんたは、いったい、何者なの」

 只者ではなかった。サルバローデの救いの手がなければ、どうなっていたか分からない。勝負で言うなら、ラキシスは今回確かにこの男に負けたのだ。口惜しいが、それが事実だ。

 銀髪の男はふっと笑い、直後にまるで質の違う表情を浮かべた。がらりと人が変わったような。

「私はイカロス。平安に()いた者。そしてこの世に動乱を望む者です。オランジュ六世」

 ラキシスは絶句して、まじまじとイカロスの顔を見つめた。

「あなたにお目にかかれて良かった。いずれまたどこかでお会いする機会もあるでしょう。それまではどうかお元気で。さようなら(オールボワール)」


 イカロスは恭しくラキシスの右手を取ると、その甲にそっと口づけた。

 呆然と立ち尽くすラキシスに背を向けて、イカロスは悠々と立ち去る。

「馬を引け! ヴァネッサへ戻るぞ」

 皆に指示を出すイカロスの横に並び、ベルリンが何か呪詛(じゅそ)のようにぶつぶつと呟く。

「おのれサルバローデめ。その権勢がいつまでも続くものだと思うなよ……」

「人の権勢よりもご自身の権勢を心配なさった方がよろしいのでは。今回の失態は、相当あなたの株を下げたと思いますよ。私は単に見たままを報告するだけですがね」

「わ、わしが失脚するとでもいうのか」

 イカロスは横目にベルリンを見て、フンと鼻で笑った。

「それを決めるのは、何も私の役目ではありませんので」

 そうしてすたすた先を歩くイカロスの背中を見て、ベルリンは世にも情けない顔になり、途方に暮れた。



「ラキさん、行きましょう。向こうでサルバローデ様が待ってます」

 レイジェルが呼びかけるが、敗者と思えぬ足取りで去っていくイカロスの背を睨み付けたまま、ラキシスは微動だにしなかった。

「ムカつくわ……」

 爪が皮膚に食い込むほどこぶしを握って、沸々(ふつふつ)と湧き上がる怒りに耐える。

 あの男、最後までいけ好かないったら。

 いずれまた、どこかでお会いしましょう、なんて。

 ――別れの言葉が、宣戦布告にしか聞こえなかった。


 疲れた顔をしたラキシスがサルバローデの乗った馬の近くへ向かうと、サルバローデは鞍から身軽に飛び降りてラキシスを(ねぎら)った。

「ご苦労様でした。今回は、よくやってくれましたね」

「王太后陛下のご助力に……感謝致します」

 ラキシスの声には元気がない。親や教師に叱られるのを怖がる子供のようだ。なにしろ自分は、任務に失敗した。そして危ういところを、よりによって任務を命じた当の女性の才覚で救われたのだ。格好悪い。返す言葉が何もない。

「なぜそんな顔をしているの? あなたは本当によくやってくれたのですよ。ここまで、よく持ちこたえてくれたわ。わたくしは、もしかしたら間に合わないのではないかと恐れていた……」

 サルバローデはラキシスを強く抱き締めた。

 思いがけず、暖かな腕に背中を抱かれ引き寄せられて、ラキシスは息を飲んだ。

「あなたがここまで無理を承知で検問を強行突破して来なかったら。わたくしはおそらく手を出せなかったことでしょう。交渉であなた方を取り戻そうとしても、かなり長い時間がかかったでしょうね。わたくしは、あなたの無鉄砲さに賭けたのですよ」

 ラキシスは呆然として、サルバローデの声を聞いている。

「無事で良かったわ。あなたを送り出したときには、まさかこんなややこしい事態になるなんて思わなかったの」

 サルバローデの吐息が耳元や首筋にあたってくすぐったい。ほのかに良い匂いがして、ラキシスは詰めていた息をゆっくりと吐いた。気づいたら、膝が震えていた。ほっとしたら、頑是無(がんぜな)い子供のように泣きたくなった。それをぐっと我慢したら、鼻の奥の方が痛くなった。

「太后さまが……ここまでいらして下さるなんて、思わなくて……」

 鼻を(すす)りながら呟くと、くすっ、と小さくサルバローデが笑う気配がした。

「我国に、太后が友を助けに行ってはならぬという法はありませんよ。あったとしても、それでもわたくしは来たでしょう」

 ラキシスは噴出して笑った。


 その背中を、サルバローデは母が娘にするように何度も手のひらでぽんぽん、と叩いた。



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