第八章 夜更けに役者は揃う
夕食の刻限になって、イカロスがリオンを迎えに来た。
「ベルリン閣下が、夕餐の席にはぜひこちらをお召しになりますようにと」
そう言って差し出された正装に着替え、扉の外で待っていたイカロスと城の中棟へ向かう。リオンとイカロスの周りには、臙脂色のマントを着込んだ衛兵らしき男が三人ついて歩く。
リオンは不審に思われないよう密かに周囲を観察し、道順を頭に覚えこませた。部屋にこもっている間に、あの三本のピンで扉の鍵が開けられることはすでに検証済みだ。深夜になって城の住民の多くが眠り込んだら、抜け出そうと考えていた。扉の前には常時見張りがついているが、一人ぐらいならなんとか倒せる。
案内されたのは少数の客との会食用に使う部屋で、先にテーブルについていたベルリンが立ち上がり、一歩リオンの前に歩み出て、礼をした。
「王子殿下には初めて拝謁の名誉を得ます。臣は、アイネンザッハ皇帝リヒテラーデ陛下にお仕えする者。シュレーダー・フォン・ベルリンと申します。ご記憶の端にでもお留めおき頂けますれば、光栄に存じまする」
アイネンザッハの公用語で喋るベルリンの言葉を、イカロスがローデラント語に通訳した。リオンは少し不快げに眉を寄せ、舌たらずの発音まじりだが、正しいアイネンザッハ語を話した。
「いちいち訳してくんなくても、意味は通じてる」
隣国なだけあって、ヴァネッサとアイネンザッハの言語はほとんど同じなのだ。
「失礼致しました。ベルリン閣下は多少古風な宮廷用語をお使いになられますので、念のためにと思いまして」
「これは素晴らしい! お国言葉をさように習得しておられるとは、皇帝陛下もさぞかしお喜びになりましょう。何しろ殿下は陛下の御皇孫にあたられるのですから。陛下は親王殿下とお会いできる日をそれは楽しみに、心待ちにしておられるのですよ」
は? とリオンは心の中で毒づいた。
「俺の親戚に、アイネンザッハで皇帝やってるジイサンなんていないけど?」
これを聞いたベルリンの顔が、哀れみの色に染まる。
「なんとおいたわしい。殿下は幼い頃よりずっと、偽りだけを教えられてお育ちになっているのです。このベルリンめが真実をすべてお話致します。お気の毒なお母上のことも、帝国にいらっしゃるおじい様やおばあ様のことも。しかしまずは、夕餐と致しましょう。ささやかながら、当地の名物料理などを用意させました。殿下のお口に合いますと良いのですが」
なんかこいつ、ものすごい勘違いか人違いしてるっぽいんだけど。大丈夫か?
リオンはベルリンの頭の中身が心配になった。自分は確かにローデラントの王を父には持つが、アイネンザッハの皇帝を祖父に持った覚えはない。母親からその辺の家族事情は、きちんと聞かされて育っている。生まれた時からずっと傍にいた母と、今日あったばかりでわけの分からん他人の話と、どっちを信用するかと聞かれたら、答えを出すまでもないだろう。
とりあえずは、様子を見っか。腹も減ったし。なんか旨そうな匂いもするし。
リオンは黙って席に着き、ひとまずおとなしくベルリンの話を聞くことにした。せっかくだから、出されるご飯は有り難く食べよう。
真っ白なテーブルクロスの上にはいくつもの五灯燭台が置かれ、輝く銀のカトラリーと磨き上げられたグラスが居並ぶ。まばゆいばかりの食卓だ。
給仕がすぐに、湯気立つスープの皿を運んできた。
「お母上のシュザンナ・バルトロワ様は、リヒテラーデ陛下の五番目の皇女殿下であらせられました。ご存知とは思いますが……」
スープを飲み終えた後、次の皿が運ばれてくるまでの合間にベルリンが話し始めた。
すでにそこから間違ってんな、とリオンは思った。俺の母さんの名前はそんなんじゃない。だがあえて突っ込まず、パンをちぎって食べながら静かに話を聞くフリをした。
「それは美しく聡明な皇女殿下で、十八の時にローデラント王家に輿入れなさり、二十歳の時、あなた様と現ローデラントの国王をご出産なさいました。お二人は双子であられた。それが故に、因習に従ってアリオン殿下は王室から遠ざけられることになりました。シュザンナ妃はその非道さに心を痛められ、ならばせめてアリオン殿下のご養育はアイネンザッハの宮廷でとお望みになり、一歳になったばかりの殿下を連れられて、お里へ帰られようとなさったのです」
言葉が途切れるのを見越していたように、絶妙のタイミングで前菜が運ばれてくる。
ベルリンはリオンが先に口をつけるのを待ってから、前菜を一口食べ、ワインで喉を潤すと言葉を続けた。
「しかし道中、ローデラントからの追っ手がかかり、殿下はシュザンナ様の御手の中から奪われてしまいました。シュザンナ様のお嘆きは深く、もはやローデラントに戻ることは出来ぬと決意なさり、皇室へお帰りになる途中にあの不幸な事故にあわれて、お隠れあそばされたのでございます」
この間、イカロスは一言も発言をせず、静かにワイングラスを傾けていた。
ベルリンは感極まってずず、と鼻を啜り上げ、膝にかけていたナプキンで鼻のあたりを強く拭った。
「も、申し訳ありません、あまりにもお気の毒な話で、つい涙腺が……食事時にする話ではありませんでしたかな。続きは後ほどに致しましょうか」
「別にいいから、今しなよ。とりあえず鼻かんだら?」
「は、では、失礼をば致しまして……」
リオンは前菜の皿をきれいに空にしてフォークを置いた。この場合、夕餐の席次で最も上位扱いをされているのはリオンなので、彼がフォークを置いた料理はもう済んだものと見なされる。ベルリンの前菜の皿はまだ半分以上残っていたが、給仕はさっさとその皿も下げていった。
次に魚介のメイン料理を運んできた給仕に向かって、イカロスが言った。
「ベルリン閣下に新しいナプキンを差し上げるように」
ベルリンはワインを飲んで気を落ち着かせると、話を続けた。
「シュザンナ様の事故をお知りになった皇帝陛下は、それはお悲しみになり、また激しくお怒りなさいました。しかし双子を忌む習慣は我が帝国にもございます。ローデラント王家が成した処遇は、皇室が何ら責める筋の無い致し方ないこと。王家の意に逆らったシュザンナ様にも非はおありになると、陛下はご判断なさいました。それでこの事件に関して陛下は不問になさり、その代わりに、次代のローデラント王の正妃にも皇室の血筋からなる姫が立つことを、あなた様のお父上、当時の王アベル・クロード二世陛下に約定させたのでございます。皇帝陛下は、できればあなた様のお身柄も要求なさりたかったのですが、これは叶わず。事件以降にはあなた様の行方もようとして知れなくなりました。帝国側が手をつくし、ようやくお探し申し上げたのです。十四年の間、住居を転々と移っておられたようですが、まさかこれほど帝国に近い場所で暮らしておられようとは予想もしませんでした。燈台もと暗しとは、まさにこのことですかな」
リオンは魚料理を食べ終えた。
フォークが置かれるのを見た給仕が、すみやかに皿を片付けに来る。ベルリンの魚料理はまだ手付かずだったが、意に介さずに下げられた。
一瞬ベルリンが「あ、」という顔をするが、イカロスは節度を守って見なかったフリをした。失笑がもれそうになる口を、ワイングラスでさりげなく隠しながら。
口直しのレモン味のシャーベットが運ばれてくる。リオンは食べるのが異様に早いが、その所作は決して見苦しくはない。見ていて気持ちの良い健啖ぶりだ。それなりの教養と作法は躾けられて育っているようだ。
ベルリンはリオンの食べっぷりをみているとなんだか無性に空腹を感じ、シャーベットを続けて二口、スプーンに掬って食べた。
「え、えーとそれで……そうそう、ようやく殿下を見つけられたという話でしたな。それはもう、我らもほんとうに苦労致しました。ローデラント側は我らが殿下の身柄を奪って悪用するなどと疑っておるようですが、これはとんでもない誤解でございます。殿下が正しい教育をお受けになり、正統な地位を回復なさることが我らの切なる願い。現にごらんなさい、今のローデラント国王は半分はアイネンザッハ人、偉大なるシュワルツバルト皇室の血縁でありながら、その自覚がまるでない。まるで生粋のローデラント人のようです。帝国との意思疎通を、進んで図ろうとはなさらない。それもこれも、シュザンナ妃亡き後に王妃となったサルバローデ太后の意向が強すぎるからです。今のローデラント王は太后の影響を受けすぎておられます。これではいけません。おそらくは幼少の頃から、帝国に対する根拠の無い悪評を吹き込まれてお育ちになったのでしょうが、それも全て原因は、サルバローデ太后が反帝国派の首魁であるせいです。今の国王は太后とその側近らよって、もはや傀儡にされております。帝国が再三送り込んでいる忠臣の苦言も、王のお耳には届きません」
リオンがシャーベットを食べ終えそうになったのを見て、ベルリンは急いで自分の残りのシャーベットをスプーンで掻き寄せた。そしてリオンがスプーンを置く前に一口で飲み込む。なんとか今回は食べきれて、ベルリンは安堵の吐息をついた。
口直しが済むと、最後の肉料理がテーブルに並べられる。
ベルリンは豚の骨付き肉を豪快に切って口に運ぶリオンの手の速度を見ながら、急いで自分の手元の肉を切り分けつつ、続きを話すという忙しさだ。
「このままでは帝国とローデラントの友好関係が崩れてしまいます。帝国の血気にはやる若い忠臣達の中には、シュザンナ様の事故もローデラントによって仕組まれた謀略ではなかったかと疑う者さえございます。いや無論、臣めはそのような事実は無かろうと考えておりますが、中にはそれほどまでしてローデラントの現状を憂い、王の置かれた立場の改善を求める者たちが多いということなのです。今の王では改善が叶わぬのなら、もはや新しい王をお立てするしか道はございません。幸いなことに、ここにもう御一方、アイネンザッハ帝国の血統を受け継ぐ王子様がおられます。しかも正統な地位を奪われ、不遇な身の上におかれた親王殿下。我らの望みは、あなた様を影ながらお助けすること。そして現ローデラント国王に退位を勧告し、サルバローデ王太后に隠居を求めることでございます。無論退位の後も、お二方の身分と安全は保障致します。帝国家臣が責任を持って、ローデラントの貴族、官僚のいずれにも反抗などさせません。殿下が次期国王として即位されるまで、我らがしっかりと補佐いたします。そして帝国の由緒正しき姫君を正妃に娶られ、殿下ご自身が親政をお執りになる。いかがでございますか。殿下におかれましては、これほどまでに望ましい話は他にないかと存じますが」
リオンはそんな話には全く興味の無さそうな顔で、黙々と肉料理のつけ合わせを食べている。見れば皿はもう空になりそうだ。
ベルリンは慌てて切り分けておいた肉を口に入れた。このままでは、ほとんど料理を食べないままディナーが終わってしまう。
やがてリオンがフォークを置いた時、ベルリンの皿はまだ半分以上の料理が残っていたが、小癪なほど手際の良い給仕がさっさと皿を下げてしまう。ベルリンは一瞬恨めしそうに給仕を睨むが、仕事人な給仕は表情一つ変えず、それを無視した。
「はーっ、ンまかった! ご馳走様でした」
腹を叩いて満足そうにため息をつくリオンに、イカロスが言った。
「王子様、まだ食後のデザートがございますよ」
「おお、楽しみ楽しみ」
「殿下……わしの話は聞いて貰えてましたかな」
ベルリンは後で夜食を作らせようと心に決めた。アイスバインのポトフ。マッシュルームのソースを絡めたじゃがいもの団子。どれも好物だったのに。
「あ? うん聞いてた聞いてた。でもごめん、オレ全然やる気ないやー、そういうの」
あはは、と屈託のない顔で笑うリオンにベルリンは一瞬気をそがれるが、いかんいかん、と思い直す。
「やる気があるとかないとかの問題ではございません。これはローデラント王国とアイネンザッハ帝国の、今後の政治的関係に関わってくる大事なお話なのですぞ。今のままでは両国関係は不毛になります。それはひいては、殿下の母国であるローデラントの民が不幸になるということなのですぞ」
「誰が不幸にすんの」
「現国王とサルバローデ王太后が、です」
リオンは小首を傾げた。
「えー、それなんか違うと思うー。全力で内政干渉する気満々なくせに、思いっきし人に責任転嫁してんじゃん。あんたらが何も手出ししなけりゃ、あの国はそれなりにこれから先も平和だよ」
気の抜けた声でリオンは言うが、言ってることは正論だった。
「し、しかし、このままでは帝国からの不満が募りますぞ。殿下はもしや、戦をお望みなのですか?」
友好関係などと言いながら、今度は侵攻を示唆する脅しか。それを人は恫喝、もしくは脅迫と呼ぶのだが。
「知らないよ。ぶっちゃけオレには関係ないもんそんな話。なんかさー、さっきから話聞いてたけど、あんたらが言う王子様とオレってやっぱ別の人っぽい。もしかして他にもう一人、どっかにほんとの王子がいるんじゃね? そっちをあたんなよ。オレめんどくさいことすんの、ヤダ」
「それはありえません。殿下こそ、我らが捜し求めていたアリオン・ド・カルヴィラ王子。お母上の境遇に関して心当たりがないとすれば、それはこそ殿下が偽りの教育を受けていた証でございましょう。我らもある程度は予測しておりましたし、把握もしておりました。おそらく殿下も、帝国に対する悪感情を植え付けられてお育ちになっているであろうと。しかしそれは全て、サルバローデ王太后の差し金なのです。殿下にはまだ全てをご理解頂けないでしょうが、あの女性こそが諸悪の根源。帝国とローデラントの融和を阻む、獅子身中の虫なのでございます。殿下には正しい知識を得られまして、世の情勢をその目でしかとご覧なさいますよう、心よりお願い申し上げます。そのためにはやはり、一時帝国へ身をお寄せになられますのが、最も有効な手段かと」
だめだこいつ。何言っても聞きやしねえ。
リオンはベルリンとはまともに話をしても意味がないと判断した。何を言っても、このおっさんの結論は変わらない。そしてリオンの結論も変わらない。
帝国の思惑なんざクソくらえ、だ。
決裂の意を目に込めて口を閉ざすリオンを見、ベルリンはイカロスに命じた。
「食後の甘味の前に、殿下にはあれをご覧にいれよう、イカロス」
「はい、すぐにお持ちいたします」
イカロスは隣室へ移動し、紺色の厚いベルベット生地を張った仰々しい台座を両手に捧げ持って帰ってきた。台の上にはあの豪華なルビーとダイヤの指輪が置かれ、輝いている。
「殿下がずっと首にかけてお持ちでいらした小袋の中身が、この指輪でございます。王妃の指輪と呼ばれるローデラント国家の宝です。いわばお母上の形見でございますよ。どうぞ、お近くでご覧下さい」
ベルリンがイカロスを手招きし、イカロスはそっと台座をリオンの前に置いた。
母の形見と言われても、リオンにはあまりピンと来ない。でっかい宝石だなー、いくらぐらいするんだろう。そんな程度の感慨しかない。
記憶の中にある、リオンが自分の母親として認識している女性が薬指に嵌めていたのは、そういえば簡素な真珠の指輪だった。あの指輪はどこに行ったのだろう。母が死んだ時、指に嵌めたまま遺体を柩に入れたのだったか。そしてそのまま墓の中へ? 今は思い出せない。
覚えているのは、日当たりの良い窓辺に置いた椅子に腰掛け、窓枠に片肘をついて外を眺める女性の横顔。小声で、よく歌を歌っていた。リオンが小さな手で椅子を運んできて手前に座ると、彼女はリオンを抱き寄せて膝に頭を乗せてくれた。リオンの髪を撫でる手からは、いつも良い匂いがした。その手の指を、慎ましやかな真珠の指輪が飾っていた。
リオンに取って、母と呼べるのはあの女性だけだ。育ての母と言うならリア。それからもう一人、年に数度の割合でリアを訪ねてきたアルという女。世界中の奇抜奇天烈な話を面白おかしく聞かせてくれて、普通の学校では習えないことをたくさん教えてもらった。
なんだかオレの回りには、母親っぽい女が大勢いたな。こうして見ると。
そう思うと少し可笑しかった。その時ふいに思い出す。母を訪ねて、何度か母の親類だという女も尋ねて来たことがあった。母とその女性は、横顔が良く似ていた。あれは誰だったのだっけ? 名前を思い出せない。母が死んでからは会ってもいない。だから余計に印象が薄いのだろう。
指輪を見つめたまま黙り込んでしまったリオンの手前に、赤い液体の入ったグラスが置かれた。
「デザート前の口直しに。葡萄のジュースでございます。我々はポートワインを頂きますが、殿下にはまだ御酒は早うございますから」
そう言って、イカロスは深いルビー色に輝くポートワインのグラスを掲げた。ベルリンの手にも同じグラスが持たれている。
リオンは葡萄のジュースだというグラスを覗き込み、一口だけ含んでみた。甘い。
「おいしい」
気に入って、一気に半分ほど飲み干す。
「色が赤ワインに似ておりますので、少しは気分が出るでしょう」
そう言って、イカロスは自分のポートワインをくっと飲み干す。
グラスを揺らして芳香を楽しみながら、ベルリンが言う。
「この王妃の指輪はいずれ、殿下の正妃様の手に渡るもの。我らがそれまで大切にお預かりいたします。……ご存知ですかな、ローデラントの典範によりますと、かの国は王妃にも王位継承権を認めているのです。時の国王に不測の事態があった時や、次代の王位継承者がまだ幼い場合に、先代の妃が摂政に立つのはまま例がありますが。そこをさらに一歩踏み込んで、妃が女王に即位するというのは、やや珍しいことです。それはつまり、国王に子が一人もおらずとも、正妃さえ立っていれば王統を継いでいけるということなのですが……この意味がお分かりになりますかな」
ベルリンの声の語尾がぼやけ、妙なエコーがかかった音に聞こえた。あれ? とリオンはいぶかしむ。
くらり、と目の前が回る。しまったと思った時には、もう膝から力が抜けていた。
「ご安心を、毒ではありません。ただしばらくの間、眠って頂くだけですので……」
イカロスがリオンの傍に近づいてくる。その姿も、今は不安定に歪んで見えた。
くそ、まだデザート食ってないのに。
最後に心でそう毒づいて、リオンの意識が遠くなる。
倒れかけたリオンの身体をイカロスが片手で支えた。ぐったりと目を閉じている。
「よく食べる子供だ。まったくもって子供だな。王位継承権に興味がないとはよく言った。その子は本当にローデラントの王子に間違いないのだろうな? まさか後になってから人違いなどということがあっては、困るぞ」
ベルリンの疑いの眼差しを、イカロスはそれこそ子供を諭すような笑顔で制した。
「では、確たる証拠をご覧にいれましょう。あちらのお部屋へどうぞ」
イカロスは軽々とリオンを両手で抱き上げると、ベルリンを隣室へ促した。
そこは食後の談話室とでも呼ぶべき部屋で、ベッド代わりに使えそうな大きな寝椅子が置かれていた。暖炉には火がくべられ、室内は暖かい。
イカロスはリオンを長椅子に寝かせ、手足を楽なように伸ばしてやった。
「ローデラントが古代ローマ神道を信奉しているのは、閣下もご存知でしょう」
「忌まわしき多神教よな。天地の創造主は常に一人だ。神とは唯一絶対のもの。万物に神や精霊が宿るなどと、そんな教えは、わしには到底理解しがたい」
ベルリンは片手で十字を切った。
イカロスは軽く首をすくめる。
「あいにく私は無信教主義者でして。神話や宗教の類は研究対象としか見ておりません」
「地獄に落ちるぞ」
「ではその時には、地獄とやらを研究してみるとしましょう。それはそれとして、ローデラントが継承したのはローマの神話だけではございません。古代ローマ時代に花開いた、幾多の密教や秘儀の伝統もその中に含まれておりました。閣下もいくつかの名称は、お聞きになったことがあるでしょう。たとえばエレウシス秘儀。オルフェウスの密儀。イシスとオシリスの神秘主義。ミトラ密教。……そして錬金術の母胎となった、ヘルメス主義」
「あまり知らんな、異教のことには、とんと興味がないので」
「こういった団体に属する秘密主義者や、信者らによる儀式が、古代ローマ時代には密かに行われていたのです。その秘儀や伝統のいくつかは、現代のローデラントに受け継がれました。一説によると、ローデラントの初代王妃は、エレウシス派の系統に連なる巫女の末裔であったとか」
「それで?」
「現代の我々が目にする機会を失った古代の秘儀が、今でもローデラント王家には受け継がれているという話でございます。例えば、閣下は水彫りというのをご存知ですか?」
「みずぼり?」
「化粧彫りとも言うそうですが。東洋の入墨はご存知でしょう。皮膚に墨や染料を刺し、一種芸術的な文様を作り出す技法。赤や青などの鮮やかな色合いが特徴ですが、水彫りというのは目に見えない入墨のことでございます。それが湯に浸かって肌の温度が上がった時や、酒を飲むなど特殊な環境下でのみ、図柄や色が鮮明に浮かび上がってくるという、不思議なものです」
「まるで魔術だな」
「私も資料でしか目にしたことはございません。ローデラントが古代ローマから受け継いだ秘儀の中には、それとよく似た入墨の技術があり、王位継承者の肌に代々施されているそうです。その紋様は、イシュルデという植物の成分に反応した時、初めて浮かび上がります。……ごらんなさい」
ベルリンは我が目を疑った。
長椅子で眠るリオンの額に、青とも緑とも紫ともつかぬ不可思議な色合いの紋様が浮かび上がってきたからだ。イシュルデの精油とやらが、先ほどリオンが飲んだ葡萄ジュースの中に混ぜられていたのだろう。
「こ、これは……」
「ローデラントの紋章を中央に、古代の守護や呪いの言葉を紋様化したものが、装飾的に配置されています。いわば、この者は正統なる王の子であると、証明する文章のようなものです。決して無くさず、奪われもしない確かな身分証明書。それが全身にびっしりと。……なかなか壮観でございましょう」
「た、確かに。これは驚いた。なんというか……美しいものだな」
「背中や胸にも紋様は続いております。全てご覧になりますか」
「いや、わしは少年の裸体を見て喜ぶ趣味はないのでな」
ベルリンは途端にいやいやいや、と三回も首を横に振った。
「さようでございますか」
イカロスはさりげなく、ベルリンの照れて僅かに頬の赤らんだ顔を見ないようにした。
「これが証というのなら、なるほど、わしは納得した。この方は確かに、ローデラントの王子であられる。間違いない」
「ご納得頂けて幸いです」
「しかしだイカロス。奇妙ではないか。これほどの神秘の技法が、そこらの学者が読めるような文献に載っているとは思えない。それこそ王家の関係者以外には門外不出の知識だろう。……どうしてお前が知っているのだ」
「古代ローマの神秘主義や、錬金術の思想を受け継ぐ者は、ローデラント王家に属する者だけとは限らないということですよ」
イカロスは意味深な言葉を使い、はっきりとは答えなかった。
その妙に張りついた、底の見えない微笑が不気味で。ベルリンは居心地悪く、うすら寒い空気をぞわぞわと背中に感じた。
夜は更けり、『青い宝石亭』は寝静まる。
暁の間は、宿の二階にある大部屋。一人の女と三人の男が泊まっている。
その部屋の扉の鍵を、帳場の管理人からイカロスへの伝言文を託されたあのベルボーイが、音を立てぬようそっと開ける。足音を忍ばせ、気配を殺して。
扉のすぐ向こうは居間だ。その奥に寝室がある。右側の扉が女の寝室だった。ベルボーイはその寝室の施錠も外し、ベッドへ向かう。こんもりと盛り上がる夜具の上から、鋭いナイフを振り下ろそうとした、その時。
ヒュン、と風を切る音がして、男の首に硬い革で編んだ一本鞭がきつく巻きついた。
「やっぱり来たわね。来るだろうとは思ってたけど」
ぱっ、と部屋の中が明るくなる。
男の首をぎりぎりと絞めながら、牛追い用の長い一本鞭を構えているのはラキシスだ。
「レディの寝室に不法侵入をかまそうたァ、けしからん野郎だ。おしおきしてやるから覚悟しろ」
拳銃を持ったレイジェルがベルボーイの前に回り込む。戸口にはランプを抱えたダヤンと、刀袋から刀剣を取り出したトーマが立っていた。
「誰の差し金で来たの? 怒らないから言いなさい」
とは言え、首を絞められたままでは喋りにくかろう。ラキシスはグリップを軽く振って鞭をゆるめた。すると男は、首に紐でぶら下げていた呼子笛を咥え、大きく吹き鳴らした。
「あっ、まずっ」
ダヤンが呟く。次の瞬間、居間の窓ガラスが一斉にけたたましく割れ、外から黒ずくめの集団が飛び込んできた。マスクを被って顔を隠し、黒い手袋の甲に金で囲った赤い十字形の紋がある。
ラキシスは待ってましたとばかりに嫣然と笑う。普通の娘なら、悲鳴を上げて逃げ惑う場面なのだが。
「出たわねー、赤十字!」
「赤十字って呼ぶと、全然趣旨の違うモンになりそうですよね、もっとこう、人道的な」
レイジェルはとぼけたことを言いながら、ベルボーイの頭を銃の台尻で殴って昏倒させた。
「お前ら何をのんきなこと言ってんの? あいつらめっちゃ殺る気だぜ。こわっ、ちょー怖ッ」
ダヤンはそそくさと、トーマの背後に隠れた。さすがは逃げ足の速い男。ラキシスとレイジェルは居間に飛び出て、黒集団と相対する。
「お前ら、下がってろ」
そう言ったのはトーマだ。手に短刀や剣を構え、殺気を放ってじりじりと間合いを詰めてくる黒集団を見据えて、トーマはラキシス達の前に歩み出た。
「なに、あんた一人で引き受けてくれんの」
緊張感のない声でラキシスが言う。
「傷の手当をしてくれた借りを、とりあえず返す」
「あらそう。じゃ、お手並み拝見」
振り向きもせず答えるトーマに、ラキシスはそう言うと、一歩下がった。
黒ずくめの集団が一斉に襲いかかって来る。
トーマは腰をすっ、と下げ、目にも止まらぬ速度で抜刀した。居合い抜きだ。
勝敗は、次の瞬間には決していた。
瞬く間に手首や足の腱を絶たれ、黒の集団は全員もんどりうって倒れる。その向こうに立ったトーマは、まるでドミノ倒しのように崩れてもだえる襲撃者達に背中を向けると、刀身の汚れを払って鞘に戻した。床には少量の血液が散るのみ。その上を這いつくばって呻く負傷者の声が異様に響く。
「えっ、もう終わり?」
長椅子の影に隠れながら顔を出し、ダヤンは信じられない、という顔でまばたきした。
「殺す必要はなかろう。戦闘能力は奪った」
「いやー、お見事、お見事。これはすごい」
嫌味ではなく、純粋に賞賛する気持ちで、レイジェルは手を叩いた。
「あんたそんなに強いくせに、なんで森では死にかけてたの? 負け犬みたいに、ぼろっぼろにやられてさ」
ラキシスが痛いところをついた。
負け犬呼ばわりに傷ついて、トーマはつい、柄にも無く言い返す。
「だ、誰にでも不利な状況というのはあるのだ」
「やだー、そんなにムキにならなくたって」
ラキシスの横でレイジェルがうんうん、と頷く。
トーマはぐっ、と歯を食い縛り、黙った。
「のんびり喋ってる暇はなさそうだぜ、何だか宿中が騒がしいぞ?」
ダヤンがこそっと指摘する。
階段を上がってくる足音、廊下を駆けてくる複数の人間の気配。まだ他にもわんさと敵がいそうだ。
「ダヤンとレイジ君は荷物。トーマは馬車を」
ラキシスの指図に、三人が動く。夜襲をかけられるかもしれないと予想はしていたので、いつでもすぐ逃げだせるよう荷物はまとめてある。日が暮れて人が外を出歩かなくなってから、そっと厩に行って馬を馬車に繋いでおいた。逃走経路は無論、確認済みだ。
破られた窓からロープを下ろし、ダヤンとトーマが先に下りた。レイジェルが荷物を外に投げ下ろし、ラキシスを振り向く。
「ラキさん、行こう」
扉を見張るラキシスに声をかけた瞬間、廊下側から乱暴に扉が開いた。いかにも強面でいかつい体格をした男が五人、手に凶器を持って入ってくる。
ラキシスは白いパニエと足のすねが見えるほど勢いよくドレスの裾をめくり、中から小さな黒っぽい球体を取り出した。紙縒り状の栓がついているのを、引っ張って抜く。
「あなた方、ノックも無しに失礼ですわよ」
笑顔で言って、球体を強く床に叩きつけた。
ドン! と耳をつんざく音と共に、黒球が激しく炎を噴きながら破裂する。
男達は、まずその爆音に耳をやられた。次に濃い煙幕で視界を奪われる。爆発のショックで床にへたりこんだ者もいる。その隙に、レイジェルとラキシスは窓からロープを使って飛び降りた。
窓の下には、黒集団の男達が乗ってきたらしい馬が繋がれていた。どれも若くて、よく訓練され、健脚そうだ。
一瞬顔を見合わせ、ラキシスとレイジェルは適当な馬を一頭ずつ選び、鞍に跨る。馬車に四人も乗っていては、さらに追っ手がかかった時に速度を上げられない。
「逃げるわよ!」
馬上のラキシスが声をかけると、ダヤンと荷物を乗せた馬車をトーマが操り、すぐ横を駆け抜けていった。後で落ち合う場所も当然、周知済みだ。
「ラキさんのスカートって、内側に色んなものが入ってるんですね」
手綱を繰って、レイジェルがラキシスの馬の横につく。
「そうよ、女性のスカートの中は神秘の世界なんだから。不用意に手を入れたりしないようにね、レイジ君」
「いい勉強になりました」
二人は同時に馬の腹を軽く蹴り、人通りのなくなった夜の街道へ駆け出していく。
しばらく後に、宿から煙にまかれた追っ手が何人か出てきたが、その時にはすでにラキシス達の姿は見えず、追跡は諦めざるを得なかった。
宿場街を対岸に臨む湖畔の岸辺は、小さなボート小屋が一つあるのを除けば、他に建物は何も無い。道路を挟んで向かいには深い森。湖の左手には険しい岸壁があり、岬へ登る勾配はほぼ垂直で、ここを登るのはかなりきつかろう。その上に、青い尖り帽子を被ったような鋭い尖塔を持つ城が、厳かに建っている。
「あの岸壁のどっかに、城内へ続く隠し通路があるっていうのはマジか?」
レイジェルは新しい煙草に火をつけようと、マッチを擦る。風のせいか、それと湿気っているのか、なかなか火がつかない。ようやく穂先に火をつけて一口吸い、その苦く香ばしい煙の風味を味わうように、しばらく吐き出さず留めておく。ふう、と大きく吐き出した瞬間に浮かぶ、至福の表情。身体に悪いし、やめなきゃいかんとは分かってるんだけど、やめらんないんだよなァ、これが。
「お前も吸う?」
横に立つトーマに声をかける。剣士は軽く首を横に振った。
「あっそ」
レイジェルは煙草とマッチの箱をポケットの中に戻した。
「で、さっきの話の続きなんだけど」
「ああ。隠し通路の話は本当だ。リアと俺も、有事に備えてあの城の間取りや何かのことは調べていた。通路は封鎖され、今は使われていない。昔の城主が緊急時の脱出経路として使うために作ったらしい」
「ま、古いお城にはありがちなこった。秘密の通路に、隠し部屋。高い塔の上に閉じ込められた、薄幸のお姫様……」
「今回は王子だがな」
「こういう場合、さらわれるのはお姫様に相場が決まってんだぞ? で、助けに行くのは若くて強くて勇気あふれる美青年。最後には二人が恋に落ちるのがデフォだ。ああ、それなのに。俺が今回イマイチやる気になれないのは、そこが難点なんだよなー。男なんか助けたってイイこと全然ないもんなー。お前、ほんっと律儀だねー。俺がお前ならわざわざ助けにいかないよ、うん」
レイジェルは一人で喋り、一人で納得する。
「通路は封鎖されていると言ったろう。使えないかもしれないぞ」
「鍵だの封印だの、そういうのを開けるのが得意な人がいるからな。まあ大丈夫だろ」
「お待たせっ、準備できたよー」
ボート小屋の扉が開いて、中で着替えていたラキシスが出てくる。男物の乗馬服をより動きやすく作り変えた服だ。伸縮性のある生地で作った、足にぴったりフィットするブリーチに、膝丈の黒いロングブーツ。見た目は薄手で機能的だが、中にはしっかりと綿が入って温かい上着。その上からフード付きの軽いコートを着ている。
長い髪はすっきり一つに編み込んで結び、腰の片側には短剣を、反対側には鞭を丸めて止め具で吊っている。背中には必要最低限の道具や携帯品を詰めた袋を背負い、準備は万端だ。
「よくお似合いです、ラキさん」
レイジェルは煙草を携帯灰皿に突っ込んで消し、ラキシスに微笑みかけた。
ボートの仕度をしていたダヤンが、無言で手を振って『乗り込め』と合図する。
「あたし達への襲撃が失敗したことはもう連絡が行ってるかもしれない。となると、城内もそれなりに警戒してる可能性があるわ。みんな、覚悟は出来てる?」
「とりあえず、いま吸った煙草が生涯最後の一服にならないよう祈ります」
レイジェルは静々と合掌し、
「おれはー、まだリチカと結婚してねぇから、ここで死ぬわけにはいかねー」
ダヤンは悲壮な決心でそう言うとオールを繰り、ボートを漕ぎ始める。
トーマは黙って、ダヤンの向かいで同じようにオールを漕ぐ手に力を込めた。頭の中ではリオンを無事に助け出すことだけを考えている。
「あたしは指輪優先で行動させてもらうから。悪いけど王子様の方は、あんたが出来るだけ頑張りなさいね」
「言われるまでもない」
湖面は暗く、波打つ音さえほとんど聞こえない。ボートは静かに、岸壁の一点を目指す。
遠目には分からないほど狭く細い、けれど小型のボート一艘ぐらいなら通り抜けられるほどの洞窟が、岸壁にはあった。
小型のカンテラに火を入れ、岸壁に近づくまでは上から布をかけて光がもれないようにしておいたのを外して、洞窟の入り口を確認する。波が荒れていたら、侵入するのも無理そうな小さな穴だった。入り口は狭く、頭を下げて入らなければくぐれない程だ。
しかし中に入ってみると、天井は案外高く、幅も広くなっていてラキシスはほっとする。
「明かりを前に。もう少し奥に行けば、船を停められるところがあるはずだ」
トーマに言われた通り、カンテラで照らしつつ先に進むと、洞窟の奥には岩が盛り上がったところがあり、そこを越えると人為的に作られた石の道が続いていた。
ボートから降りて少し進むと、洞窟の天井まで続く太い鉄格子が見えてきた。その中央にある小さな扉に比べ、不似合いな大きさの錠前が取っ手にぶらさがっていて、しかも鎖で何重にもぐるぐる巻きにされている。
「開けられるか」
「まーっかせなさい」
ラキシスは嬉々として背にしょった荷物を下ろし、中から細長い金属の棒を何本か取り出した。
「なによこれ。古くさい鍵だなあ。ダメよー鍵だけは、常に最新のモノをつけてないと」
ラキシスは手早く二本の針金を鍵穴に差し込み、内部で器用に組み合わせていく。
「お前がそれ言うな、って感じだよな」
明かりで手元を照らすダヤンがしみじみと呟く。すぐにカチャリ、と澄んだ音がして、錠前が外れた。
「開いたわ」
「早ッ!」
「おさすがです、ラキさん。いつもながら、ほんとうに見事なお手並み」
レイジェルが静かに手を叩く。
トーマはあまりの開錠の速さと手際の良さに、何も言えないで目を瞬かせた。
「行きましょ。ん? なにあんた、ぼけっと突っ立ってんの」
荷物を背負い直し、ラキシスは鉄格子の先へ行こうとみんなを促す。それまで黙って、訝しそうにラキシスを見ていたトーマが、ぽつりと言った。
「お前を見ていたら、ある女を思い出した。そんな風に、針金を使って器用に鍵を開けたり出来る女だった。リオンにも、余計な技術やいらない知識を教えてくれた。名前はアルキスといったかな」
「え?」
それは、ラキシスの死んだ母と同じ名だ。
「ラキさん、突き当たりに階段がありましたよ。特に見張りもいなくて上までいけそう」
先に行って様子を見てきたレイジェルが戻ってくる。
ラキシスは気を取り直し、トーマを横目に見て言った。
「後でいいから、その話詳しく聞かせて」
でも今は、集中するべきことが別にある。
ラキシスは素早く意識を切り替えると、城の内部に続く階段を上っていった。
リオンは唐突に目を覚ました。
気づいた場所は食堂ではなく、自分にあてがわれた部屋でベッドに寝ていた。サイドデスクに火を小さく灯したランプが置かれ、ほのかな明かりが枕元の周囲を照らしている。
精油の効力はすでに失せ、その肌にはすでに何の紋様も浮かんでいない。
「くっそー……やられた」
服は上着だけ脱がされ、シャツの一番上のボタンを緩められていた。寝苦しくないようにとの心遣いだろうが、意識を失った状態であちこち触られたかと思うと不愉快だ。
どんな薬を使ったのか知らないが、目覚めはいいし、身体も頭も痛くない。今は意識もすっきりしている。では一体、何のために自分は眠らされたのだろう?
何も事情を知らないリオンは考え込む。理由が分からないのが一番気持ち悪い。まさかヘンなことはされてないと思うが……。
「あの野郎、今度会ったらぶん殴る」
リオンは勢いをつけてベッドから降りると、サイドデスクに置いてある時計を見た。深夜の十二時五分。シンデレラはもう、退場しなければならない時間だ。
リオンはワードローブを開き、そこに何着も用意された衣類の中から正装よりもはるかに動きやすい服に着替えると、隠しておいた三本のピンを取り、扉に向かった。
今のリオンは、外に見張りが二人いても叩きのめせる自信があった。それぐらい本気で怒っていた。これ以上、他人の都合で好き勝手にされてたまるもんか。
洞窟の階段から城の地下道に侵入し、そこからさらに上の部屋を目指す。
「見取り図によると、地下道から城に繋がる階段は、この辺りの部屋に通じてるはずだ」
トーマが図面で示したのは、城の主な居館となる中棟の一階、西側の隅にある小部屋だ。
今は人気のないその小部屋の、床板の一枚がぽっかりと上に開いた。はね上げ式の戸。地下道から続く階段を隠す、秘密の扉だ。
床板の穴から最初にひょっこり顔を出したのはレイジェルで、息を潜めて周囲を窺い、問題ないと見ると全身を出し、下にいる三人にも上がって来いと身振りで示した。
「物置っぽい部屋ですね。古い鎧とか壷とか絵とか、いっぱい置いてます」
「わ、これボイシュレーの風景画よ。蓮の花シリーズ。あたし好きなんだ」
「ダメですよ、今回はそんな大きいの持って帰る余裕ありません」
ラキシスは切なそうに人差し指を口元に当てた。レイジェルはきっぱりと首を横に振る。
「そんな可愛い顔したってダメです」
「うう……そうよね、仮にもお城だもんね。このぐらいのお宝は所蔵されてると想像してしかるべきだったわ……」
ラキシスはまだ諦めきれなさそうだ。
「城には入れたぞ。これからどうする?」
トーマがそのへんに無造作に置かれた箱の一つに腰掛けて訊く。
ラキシスは立ったまま、腕を組んで答えた。
「とりあえず、ベルリンをとっ捕まえよう」
「え、そうなんですか」
レイジェルはちょっと意外だった。
「盗み方にも美学がある。それがうちの家訓よね。あたしもそれは分かってる。本当ならもっと時間かけて準備して、城の内部のことも細かく調べておきたかった。事前に使用人のふりして潜り込むとか、あらゆる手を使ってね。その上で狙いのお宝がどこにあるか、保管されてる場所の状態まできっちりと突き止めてから、誰にも知られず誰も傷つけず、お宝だけを頂戴して去るのが基本で、ベスト。……でも今回はそんな余裕無かったし、資料も情報も少ないし、何よりお宝をゆっくり探してる時間がない。なら仕方がないでしょ。分かんないことは城主に聞くのが一番手っ取り早いわ。指輪と王子様の隠し場所を聞いたら、後は縛って猿轡でもして転がしとけばいいし。ここで一番偉い人間を人質にすれば、逃げ道の確保も楽に出来るでしょ」
「それは、一般的に強盗と言うのでは」
ダヤンがしょっぱい顔になる。異論はないが、華麗なる怪盗の手練には、程遠い策だ。
「しょーがないでしょ。城主の寝室なら見取り図にもばっちり記載されてるんだから。それともあんた、このでかい城の中にある部屋をひとつひとつ探して回る?」
「そんなの無理っすー」
「即答してくれてありがとう。で、他の人は? もっといい案が何かある?」
「いや、妥当な策だと思う」
トーマは賛同の意を込めて挙手し、
「俺はいつでも、ラキさんのご指示に従います」
レイジェルは恭しく右の掌を自分の胸に当てた。
ラキシスの目が途端に輝く。
「だったら、あの一番小さいフレシノの女神像だけでも貰って帰らない?」
「それはダメです」
即座に却下され、ラキシスはちょっと落ち込んだ。やっぱりダメか。ちぇー。
「これで城主が、今夜は別宅の愛人のとこにお泊りでぇす、なんてことがあったら、目もあてらんねェな」
ダヤンが冗談で言うが、そんな馬鹿馬鹿しい展開にはならなかった。
ベルリンはちゃんと城にいた。そしてすでに別の人間の手によって、人質にされていた。
眠っていた城が、騒然となって目覚める。
「護衛兵! 城主様の部屋に侵入者あり! すぐさま武装して救出に向かえ!」
怒声に被さる、緊急事態を全館に示す笛の音。打ち鳴らされる鐘。慌しく駆け出す足音。いくつもの扉が開き、そして閉まる音。
「えっ、うそ。もうバレた?」
警笛の音を聞くなり怖気づき、一目散に秘密の地下階段へ逃げ込もうとしたダヤンの首根っこを取り押さえながら、ラキシスが小声で聞く。
「いや、俺たちじゃないでしょう。どうやら今夜は、他にもお客さんが来てるようだ」
てめえ何まっさきに逃げようとしてんだよ、とレイジェルはダヤンの頭を一発叩く。
「まさか……」
トーマの表情が変わったのに、ラキシスが気づく。
「なによ。心当たりでも?」
「いや、心当たりというか、嫌な予感というか、予想と言うか……」
「はっきり言いなさい」
「とにかく様子を見てみよう。中央広間の方が騒がしくなってるんじゃないのか」
トーマは口を濁す。出来ればこの予想だけは当たって欲しくない、と切に願っている。
「廊下から人の気配が消えたわね。ちょっと行ってみましょう」
「今のうちに逃げといた方がいいんじゃね? また次回に仕切り直しってことにしてさ」
すっかりビビって逃げ腰になったダヤンの背中を、レイジェルが無理やり押し出す。
「ここまで来てなに言ってやがる。ある意味絶好の機会じゃねえか。警備兵の大半が広間に集中してる今、他の部屋の守りはかなり薄くなってるはずだぜ」
「でもさあ、なんか嫌な予感が」
「行くわよ」
ダヤンの慎重な意見は却下し、ラキシスは物置部屋の扉を薄く開け、表の様子を確認する。薄暗い廊下には誰もいない。
ラキシス達は、騒動の中心となった広間の方へと、他の人間には見つからないよう注意しながら近づいていった。