第七章 鳥籠の中にいるのは
イカロスが訪れたその部屋には鍵がかけられているのだが、扉の前に立つ見張り役の男に声をかけたら、あっさりと鍵は開かれた。
城の塔にある一室だ。
虜をもてなすための、上等な部屋。
部屋の中は意外と明るい。今は薄手のレースのカーテンのみが覆う窓から、午後を過ぎた日の光がそそいでいる。高原地帯の穏やかな日差しだ。窓から覗けば山のふもとに広がる湖を一望できるが、全ての窓には鉄の格子が入っている。つる草や葡萄の房や花々を模した意匠の。しかしどんなに調度や壁紙が美しくとも、ここは所詮牢獄だ。自由を欲する小鳥を閉じ込める、無粋な檻。
部屋の右脇には天蓋つきのベッドが置かれ、寝台の大きさにそぐわない細身のリオンが横たわっていた。黒い巻き毛が枕に散る。寝息は穏やかで、呼吸にあわせて薄い胸がかすかに上下している。
イカロスは枕辺に立って、眠る虜の顔を眺める。薬が効きすぎたか、まだ目覚めない。もう効果は切れる頃だと思うのだが。
「ん……」
予想通りに、寝息に少し、声がまじった。
「そろそろお目覚めになりませんか」
「んー、まだ眠ぃ。トーマぁ、朝メシ、今日はゆで卵食いたい。ポルに言っといて……」
寝ぼけているのか、むにゃむにゃと呟きながら寝返りを打つ。
片膝を曲げた拍子に、長いスカートの裾からふくらはぎの辺りまでが覗く。おやおや、はしたないなと思いながらイカロスは苦笑した。
「朝食にはもう遅すぎる時刻かと。むしろ、おやつの時間の方が近いでしょうな」
「んえ? ……は?」
がばり、と音が立ちそうな勢いで上半身を起こす。目覚めはすっきりな性質のようだ。
「誰だお前。どこだ、ここ」
当然予想されたリオンの質問に、イカロスは何も包み隠さず、すらすらと答えた。
「私めはグリュンブルク公爵閣下にお使えする小者。ここはローバンシュタイン城内でございます」
リオンは不審そうにイカロスを睨みながら、ベッドの上でじりじりと後ずさる。
「トーマは……どこ」
「お連れの護衛は別室で待機しておられます。あなたがおとなしく我らに従って下されば、いずれ会うこともできるでしょう」
「嘘だ。あいつ怪我してた。ちがう、そうだ、思い出した。お前が撃ったんじゃねェか!」
夜の渓谷の中でもなお、この目立つ銀髪は輝いて見えた。トーマはこの男に銃で撃たれ、それから崖の下へ、落ちて――
「そう興奮なさらないで。大丈夫。私が崖下から救いました。今は怪我の治療中で出歩くことが出来ませんが、元気にしておりますよ」
もちろん嘘だった。たぶん奴は死んだろう、確認はしていないが。しかし真っ赤な嘘でも、親しい者の身柄をこちらが押えていると言っておけば、それは立派な人質だろう。
リオンはイカロスの言葉を信用できないと思っていた。それでも、トーマは無事に救われたという言葉だけは信じたかった。どんなに傷ついていようとも、どうか生きていてくれと願う。
「ひとまず着替えられませんか。私には寝ている方の服を脱がす趣味はありませんので、お召し物はそのままにしておきました。まさか女装しておいでとはね。道理で手配書には引っかからないはずです。なかなかお似合いですが、それはあの堅物そうな護衛殿の発案ですかな。だとすると、奴も大概いい趣味をしている」
リオンは屹と目に力を込めてイカロスを睨みつけた。イカロスは少しも怯まず、口上を続ける。
「私ひとりで喋っているとなんだか馬鹿らしいですな。まあよろしい、あなたに相応しい着替えをいくつか用意させて頂きましたので、どうぞお召し替えをなさいませ。手伝いが必要ならばメイドを寄越しましょう。着替えがすまれて、落ち着かれた頃にまた参ります。美味しいおやつでも持ってね」
「バカにすんな!」
リオンが投げつけた枕を、イカロスは顔色も変えずにひょいと首をそらして避けた。
「お前らが欲しいのはこれだろ? だったらくれてやらぁ、とっとと持ってけ! だから今すぐトーマを離せ! ……って、あれ?」
ずっと首にかけていたものが、無い。
さすがにざっと青ざめて黙り込むリオンの様子に、イカロスは声を立てずに笑う。
「ええ、そちらの品はもう拝借いたしました。ご安心を、いずれはあなたの奥方様の左手に収まる物ですから。今は無くても差し支えはないでしょう。あれがどういう由来の物かはご存知で?」
ぶんぶん、とリオンは首を横に降る。だって、中身を見たこともなかったのに。
「そうですか、ではかいつまんでご説明など致しましょうか?」
妙にズレている男だ。誰が今そんな説明を聞きたい気分になれるのか。
「いらね。つーかそんなら、オレにはもう用事ないんじゃん。帰らしてよ」
「またまたご冗談を」
イカロスは今度は少し、クッ、と鼻を鳴らして笑った。
「あれはあれとして必要な品物ですが。あなたの身柄は、また別の理由でここに留まって頂かねばなりません。そう剣呑な目でご覧にならずとも、私はあなたの敵ではございません。ローデラントの正統なる王位継承者――エルネスト・アリオン・ド・カルヴィラ殿下」
リオンの表情は変わらない。むしろ静かに、さっきよりも落ち着いた顔でイカロスを睨む。
「おや、少しも動揺なさらないところを見ると、ご自分の出自についてはとうにご承知か。ならば話は早い。これは全て殿下の正当なる王位継承権を主張するため、有志が決起したゆえの事情でございます。殿下が玉座にお登りあそばした暁には、きっと我らに感謝され、いたくお喜び頂けることと存じますよ」
誰が喜ぶか。ていうか、誰がそんなめんどくせーことお前らに頼んだんだよ。
頼みもしない企みに、恩着せがましく巻き込まれるぐらい腹の立つことがあるものか。
リオンは奥歯を噛み締めて、この派手な銀髪野郎、どうにかしてぎゃふんって言わす、と物騒なことを考え始めた。
それより時刻は、少し前に戻る。
ラキシスが買い取った馬車は幌つきの一頭立てで、馬は元気で、乗り心地もまあ悪くはない。幌馬車といっても棒で支えた布製の屋根があるだけで、左右と後方に壁も窓もなく座席は丸見えだったけれど。風がすーすー通って寒いが、視界は広く見晴らしはいい。
じゃんけんに負けたダヤンが馭者席に座り、後ろの座席でラキシスとレイジェルは、紙袋の中身を広げてお弁当を食べていた。
「あっ、これおいしーねー。このトマトのソースとマスタードの風味が絶妙。ウインナーぶりっぶりだし」
「なっ、美味いだろ、最高だろ? おれにも一個くれよ」
「あんた店で食べてたじゃん、さんざ」
「いやあ、こういう庶民の味は、宮廷にいる人にはわかんないんだろうなー。しかしなかなか美味ですね。今度家でも作ってみますか」
「おれにも茶ぁくれってばよー」
そんな感じで馬車は田舎道をガタゴト進む。
途中で小さな川にかかる橋を渡り、この地域にはよくある沼や大きな池の横を何度か通り抜けるうちに、だんだん人家は少なくなり、辺りは景観豊かな森と山ばかりになっていく。
レイジェルは新しく手に入れた地図を広げ、ラキシスに示して見せた。
「コンスターニュ湖の周辺は、結構有名な夏のリゾート地なんですね。季節はずれだから今はそんなに客がいないと思いますが、ラキさん好みのプチホテルとか、山小屋ホテルとかありそうですよ。ローバンシュタイン城は、湖のほとりにある山の上に立ってます。もう少し走ったら、城の様子が遠目に見えてくるかもしれない」
「敵地に近いってことは、宿屋にも息のかかった連中がいるかもしれないしなぁ。さて、どこに泊まろうかしらね」
「俺はラキさんがいいんでしたら野宿でも、今は使ってないキャンプ場の小屋とかでも別に構いませんが」
「あっ、こいつなんかヤらしーこと考えてる。無人の山小屋で一夜とか、なんかそんなHなこと考えてる」とダヤンが突っ込む。
「そんな俗っぽいこと考えてねーよ! 夢には見るけど!」
「どんな夢よそれ」
ラキシスは嫌そうに、レイジェルから少し身体を離して座り直した。
「もとい、とにかくですね。宿場街に行く前に城の近くまで行ってみますか、湖を眺めに来た観光客のフリでもして」
「そうね」
「じゃあ馭者よ、この道まっすぐ行って左手に沼が見えたら道が分かれるから、そこ左折」
「へい旦那。ってなんかムカつくー! なにこのコキ使われ方」
ダヤンはぶちぶち文句を言いつつ、手綱を振って少し足を速めるよう、馬を操った。
観光地というだけあって、湖畔の美しさは際立っていた。青々とした豊かな水面に、山の緑が影を落とす。湖の向こう岸には宿場街の建物が見えて、その整然とした景色を両手の指で四角を作って覗き込めば、一幅の絵のように納まる。反対岸のほとりにある山の上には、白壁と青い尖塔の城が、堂々とそびえ立っている。
「きれいなお城ね……」
胸の内にある企みを今は忘れて、ラキシスはふつうの小娘みたいな感想を漏らす。
薄く緑がかった空の色を背景に、天を突き刺す槍のように尖った屋根は、天空の色とはまた趣きの違う鮮やかな青だった。誰かの瞳の色を思い出させるような青。
「住んでる奴らの心根は、そんなにきれいじゃないかもしれないですけどね」
一歩後ろに控えたレイジェルが苦笑すると、その横でダヤンも頷く。
「悪役なんだぞ、性格も顔も悪いに決まってら」
「でもさ、その城にあわよくば忍び込もうとしてるあたし達も、実は結構な悪役なんじゃなくて?」
ラキシスが悪ぶって笑うと、レイジェルは首を横に振った。
「女盗賊は粋でいなせな美人だと昔から決まってるんです。彼女は義賊で、弱い者の味方。民衆に慕われる皆のアイドルなんですよ」
「義賊なんていまどき流行んないわよ。あたしもそんなもんになる気、さらさらないし」
湖から吹いて来る風は少し冷たい。
岸辺には貸しボート屋の小屋も見えるが、今日はたまたま休みなのか、扉は閉まっていて誰もいない。今は三人の他に人気の無い湖の上を、鴨が群れなして悠々と泳いでいる。時どき鳶が舞い降りて来て魚を咥え、飛沫を散らしてまた飛び去る。流木や枯れた木が倒れて重なっている岸の辺りでは、大きな亀が二匹くっついて甲羅干しをしていた。
長閑で静かな。人間の悪巧みなどには縁の無さそうな、穏やかな自然の風景。
「さて、侵入するとしたらどこからが楽かしら。宿を取ったら、見取り図と城の実際の造りを比べて検討しましょう」
結局こういう裏稼業の話になるのだ。ラキシスはしばし仮初めの観光客気分を満喫すると、道端に止めた馬車の方へ、優雅な足取りで戻っていった。
湖の反対側にある宿場街へ向かう道は、大きな森を迂回するルートになっていた。森を突っ切れば早いのかもしれないが、どうせ馬車は通れない。
いい加減運転手代われ、とダヤンが言うので今回はレイジェルが馭者台に登り、手綱を取る。森に光を遮られた日陰の道を半分ほど行ったところで、ラキシスが異変に気づいた。
「レイジ君、ちょっと止めて」
「はいどう。……どしたの、ラキさん」
道の脇に馬車を寄せて止まると、ラキシスは森の木立の一点を指差す。
木陰からひょっこりと、栗毛の馬が顔を出して所在無げにしている。迷い馬なのか、繋がれていない。
馬車から降りてラキシスが傍へ寄っても、馬は逃げ出さず、おとなしくしていた。
「この子、鞍もつけてないわ。手綱はついてるけど繋がれてないし。お前、こんなとこで何をしてるの? ご主人はどこ?」
ラキシスが聞くと、馬はぶるる、と鼻を鳴らした。くい、と首を振り、森の中に向かって歩き出す。少し行ったところで立ち止まり、ラキシスを振り返る。ついて来て、とでも言いたそうに。
「ラキさん、危ないですよ」
レイジェルが声をかけるが、
「うん、でも……」
何か気になる。
直感に従ってラキシスが後を追うと、馬はゆっくりとした足取りで森の奥へと進んでいった。
レイジェルはダヤンと顔を見合わせ、ダヤンに荷物と馬車の番を任せると、ラキシスの後について行くことにした。
昼なお暗い森の中。湖に至る源流の一つであるのか、あるいはどこか別の川から流れ込んで来るものか、木々の狭間を水溜りほどの浅い小川がちょろちょろと流れている。
ラキシスはドレスの裾をつまんで小川を渡り、盛り上がった土と岩の段差を軽やかに飛び越えた。
「ラキさん、手を」
「平気。それよりあの子、見失わないで」
馬はラキシスたちがついて来るのに安心したのか、もう振り返らないでどんどん先を行く。枯葉をかさかさ踏みしめて、長いしっぽを時折振りながら。
やがて立ち止まり、馬は長い首を伸ばして見下ろすように、潅木の茂みの向こうを覗き込んだ。やや急な斜面になっているそこは、土や岩に苔がむしていて滑りやすそうだ。
ラキシスは茂みの向こう側に回りこむため、坂を飛び降りようとした。それをレイジェルが止め、先に飛び降りてラキシスに手を伸ばす。レイジェルに抱きとめられる格好で下に降りると、ラキシスはハッと息を飲んだ。
斜面の影には、生命を全うして自然に倒れた大きな木の幹があった。
倒木と残った株にはびっしりと苔がこびりつき、まるで贅沢な緑色の絨毯を敷いているようだ。
その苔まみれの倒木と株の隙間に、黒い布に包まった何かがうずくまっていた。
死体か、と一瞬思った。近寄って確認しようとするラキシスの手首を握り、レイジェルが止める。
「死んでますよ、……たぶん」
「だけど、もし生きてたら」
あの馬の持ち主なのかしら。主人の危機を知らせようとするなんて、賢い馬だわ。
この人がもう死んでたら貰って行こう。置き去りにするのは可哀想だし。
この場合の『可哀想』は当然、馬にかけられた言葉だ。ラキシスにとって見ず知らずの行き倒れなんか、正直な話どうでもいい。
ラキシスは息をつめてそれに近寄る。腐ってたらやだな、と思いながら。
それは男だった。まだ若い。顔つきはわりと端正だ。片腕で何か、布に包んだ細長い物を抱きかかえるようにして倒れている。黒い袖無しの外套のフードが顔にかかって、口元が良く見えない。額には泥と、血のこびりついた痕。頬にはいくつもの擦り傷。
「死んだのはつい最近ね、死体だとしたら」
そう言いながら細い布包みに伸ばしたラキシスの手を、当の死体が腕を伸ばして強く掴んだ。
「勝手に殺すな」
「あら、生きてたの」
悲鳴も上げず平然と答えたラキシスを見て、男は少し目を細める。鉛色の髪を短く刈った、濃い藍色の目の男。いつ死んでもおかしくなさそうに見える、全身ズタボロに傷ついた男だった。
レイジェルがいったん馬車に戻り、傷薬などの入った鞄を取って戻ってくる。
「ひどい有様ね。まるで崖から落ちたみたい。……それだけじゃないか。この傷は刃物でぶっさりやられた痕だし、こっちのはもっと酷い。ちょっとあんた、手をどけなさい。何これ血だらけじゃないの。銃で撃たれたの?」
「まるで狩場を逃れた猪みたいな有様だな」
怪しい奴だと、不審そうな目を隠しもせず自分を見るレイジェルに、トーマはゆるく首を振った。
「弾は抜けてる」
喋るのもおっくうそうに、掠れた声を出して息をつく。倒木に背中をもたれさせ、トーマはラキシスの手を払って言った。
「薬をわけてもらえるのはありがたい。だが、これ以上の助力は結構。後は自分でどうにか出来る。どうか関わらないで去ってくれ」
「アホか。あんた片手で包帯巻けるほど器用なの? 左腕、肩からざっくり斬られてるわね。こんなの放っといたら傷口から腐って、終いには腕をここからばさっと切断するハメになるわよ。それでもいい?」
初対面の相手に真っ向からアホ呼ばわりされ、トーマはぐっ、と喉の奥でむせた。
「レイジ君、針と糸取って。これ縫った方がいい傷だわ。撃たれた傷も」
「わああ、ラキさん俺がやりますよ! こんなどこの馬の骨だかわからん野郎の汚い傷口なんか淑女は触っちゃいけません。そこで俺の器用な縫合捌きを見てて、きゃあレイジ君素敵ぃ、とか声援を送って下さい。そしたら俺がんばれますから。……おいてめえ、麻酔はねーから我慢しろ。言っとくが、俺は男には手加減しねえ主義だ」
「わ、わかった」
レイジェルの据わった目つきに本気を感じ取り、トーマは素直に頷いた。
外套と上着を脱がせ、シャツの肩口を裂いてまずは腕の傷から見る。消毒薬代わりのブランデーで血を洗い流し、レイジェルは傷の様子を覗き見ると、ポケットからマッチ箱を取り出した。五、六本まとめて持って頭薬を傷に押し当て、上から箱で擦って火をつける。
「ッ!」
トーマは歯を食い縛って痛みに耐えた。されていることの意味をちゃんと分かっているようだ。火薬とマッチ箱の側面に塗られているリンには殺菌作用がある。炙ることでさらに効果が上がり、市販の消毒薬などよりよほど傷には効く。かなり痛いし荒っぽいが。
マッチで焼いた後、これも火で焼いた針に糸をつけてざくざくと縫う。塞いだ傷の上に軟膏を塗り、ガーゼをあてて包帯を巻く。左のわき腹の銃創も、同じ要領で手当てした。
「こっから当たって、こう抜けたのか。お前運が良かったぞ、弾は掠っただけだ。だいぶ肉はえぐれてるけどな。腹ん中の太い血管でもぶち切れてたら、今頃お前死んでるぞ」
打ち身やら擦り傷やらは数え切れないほどあるのだが、骨に以上は無さそうだ。包帯を巻き終えたレイジェルは、トーマに服を着な、と促した。
「レイジ君、ちょっとカッコ良かったわよ」
汚れた手をブランデーで洗うレイジェルに、ラキシスはまんざらでもなく素直な感想を述べる。レイジェルは途端に照れた。
「えっ、そうですかあ。あははー、俺の評価もちょっとは上がりましたかね?」
「まあね、今までが低すぎたから、やっと標準並ってとこだけど」
「あのさ、一回聞きたかったんだけど、ラキさんにとって、俺って一体どういう男なの?」
「とりあえず、役には立つ下僕」
「……有能な片腕目指してがんばりまーす」
レイジェルはどこまでも前向きな男だった。
「君らは、何者なんだ……?」
外套を着終えたトーマが尋ねる。
この治療法は医者というより、戦場で軍人が行う荒療治だ。しかしこの二人には、軍人らしいところが少しもない。
ラキシスは皮肉っぽく眉をそびやかした。
「正式な免許は持ってませんけど? 医者がいないところで自分の傷の手当をできる程度には勉強したし、訓練を受けてるわ」
「まずはそっちから名乗れ無礼者が。助けてもらっといてなんだてめえ、その態度は」
レイジェルはポケットから革手袋を取り出し、手にはめながら言った。宿できちんと石鹸を使って洗うまで、ラキシスに自分の汚れた手を触れさせまいという気遣いだった。
「すまんが俺は……名乗るわけにはいかん」
はっ、とラキシスは鼻で笑った。
「この際偽名でも構わないんだけど? 名前がないと、あんたを呼ぶのに不便なだけよ」
「こんな奴、もう猪でいいですよラキさん。それかトーヘンボクでも上等」
「……トーマだ」
偽名だと思われたならそれでいい。トーマは何故か、この二人に嘘をついてもすぐ見透かされるような気がしていた。
「そう。トーマ。あたしはラキシス。こっちはレイジェル。よろしくね」
「ラキシス……?」
どこかで聞いたような名だ、と思う。
トーマはこの時、負傷による出血や崖から落ちた時のダメージで、一時的に記憶が混乱していた。
「さて、トーマ。一体どこでどうしてこんな怪我を? 見たところ、どこか別の場所で傷を負ったみたいだわ。命からがら逃げて来て、ここで力尽きた、って感じよね」
トーマは黙り込む。
リオンを連れてリタリー寄りの国境を目指したものの、追っ手に見つかりウラニア渓谷まで追いつめられた。そこで銀色の髪の男に撃たれて滑落し、気づいた時には崖の下にいた。おそらく連中は自分が死んだものと思ったのだろう。渓谷の出口に待ち伏せは誰もいなかった。
トーマは谷の近くにあった民家から、馬車用に使っている馬を一頭入手し、代価としてリオンから預かっていた金を置いて来た。鞍は手に入らなかったが仕方がない。馬車用の手綱を頼りに馬に乗り、ローバンシュタイン城を目指してここまで来た。
きっとリオンはあの城に連れて行かれたに違いない。近くの森に潜んで救出の機会をうかがうつもりで、疲労に負け、意識を失ってしまったのだった。
「あーあ、まただんまりだ。こいつぜったい喋る気ないですよ、ラキさん」
「嘘でもいいから適当ないいわけしちゃえばいいのにねえ。バカ正直って、こういう人のこと言うの?」
ひどい言われようだが二人の口ぶりが軽快なので、不快に思うより先に笑ってしまう。トーマはくっ、と喉の奥を鳴らした。
「何はともあれ、ここは寒いわ。馬車に戻りましょうレイジ君。ほら、あんたも立って」
「いや、俺は……」
「がたがた言うな。おら、不本意だが肩貸してやっから立て。おらよっと!」
横から強引に傷を負っていない方の腕を引っ張り、レイジェルはトーマの背中に自分の腕を回して支えた。
「荷物はこれだけ? うわっ、重っ」
倒木に立てかけられていた細長い袋包みを取ろうとして、ラキシスは目を丸くした。片手で軽く持てるかと思ったのに、見た目に反して予想外な重量感だ。
「いやいい、それは俺が持つ」
トーマは慌ててラキシスの手から長包みを取り返す。紐がついていて、トーマはそれを肩から引っ掛けて持った。
「あっそ。じゃ、行きましょうか」
「行くって、どこへ」
この強引な展開に流されそうで、トーマは及び腰になる。
「だってあんたをここに放置して死なれたら、あたしらの労力が無駄じゃない。そのうち日が暮れるし、夜の森は寒いわよー? 乗りかかった船だもの。もう少し面倒見るわよ。これから街に行くから、宿でゆっくり休みなさい」
「しかし、そういうわけには」
断ろうとするトーマの言葉を制して、ラキシスが言う。
「レイジ君、そいつから手ぇ離して」
「はい、ラキさん」
途端にレイジェルはトーマの身体を支えるのをやめ、トーマは突き放される勢いで地面に片膝をついた。脚が思うように動かない。自分でも意外で、困惑する。予想以上に体力が落ちている。
「ほら見なさい。貧血と疲労で足腰ふらふらしてるくせに何言ってんだか。あんたどっかへ行く途中なんでしょ? どこへ行くにしても少し休養して、ご飯も食べて。体力戻さないと無理でしょうが。別に取って食いやしないから安心しなさいよ。むしろ助けてやった恩をきっちり返してもらいたいぐらいだわ」
「かたじけない。恩に着る。この借りはいつか返したいと思う。だが俺は、街に入るわけにはいかないんだ」
「手配書が回ってるから?」
ぎくり、と身を竦ませるトーマの手から、ラキシスは今度はしっかりと両手で、長包みを奪い取った。
袋の口を閉じている紐を解き、中身を少し外に出す。鮫皮の上に、緑がかった青色の硬い組糸を『つまみ巻き』にした刀の柄が現れた。この刀装は、ラキシスやレイジェルの目になじむ西洋の『剣』ではない。東の最果てにある国の刀匠が打った『刀』だ。
「髪は鉛色、軍人風の身ごなしで異国の剣を使う男。見事に三拍子揃ったわね」
「おっと逃げるなよ、こっちだって何も手荒な真似はしたくねぇんだ」
レイジェルがさりげなくトーマの背後に回り込み、上着の中から拳銃を出して構えた。
ラキシスは刀袋を丁寧に閉じ、黙ってトーマに返してやる。銃を突きつけられているとはいえ、あっさりと武器を返されたトーマはどう対応すべきか思案顔だ。
ラキシスはトーマの前にしゃがみこみ、目線を合わせた。
「あんた達を探してたのよ。黒髪の片割れはいないようだけど、どこ行っちゃったの?
お先にベルリンの仲間に捕まったのかしら。それであんたは健気にも、仲間を助けるためにここまで追っかけて来た、ってところ?」
「いったい何者だ、お前たち」
「指輪を頂きに来たのよ。知ってるでしょ? でっかいルビーとダイヤの指輪。あんたが今持ってるのなら出しなさい。でもなァ、見た感じ持ってなさそうなのよねぇ。ってことは、黒髪の誰かさんと一緒に指輪もベルリンの手に渡ったのか……くそっ」
「ラキさん、それは淑女の使う言葉じゃありませんよー」
レイジェルが小声で言い直しを求める。
「レイジ君うるさい。ちょっとあんた、仲間を助けたいんならあたしに協力しなさいな。あんたが持ってる情報を教えて。そうしたら、仲間を助ける手伝いを少しはしてやってもいいわ」
トーマは深く眉根を寄せる。
「お前たちと取引をするいわれはない」
「取引じゃないわ、これは命令よ。あんたまさか、あたしらとフェアな取引できるなんて思ってる? ふざけてもらっちゃ困るわね」
ラキシスの目が剣呑に細まる。トーマはその不穏さに少し圧倒された。
ラキシスは相手の動揺に畳み掛ける勢いで、言葉を続けた。
「とにかく、お互い行き先は同じなわけよ。あんたは仲間を助けたい。あたしは指輪を頂戴したい。モノはどちらも、あの湖のほとりに立つ綺麗なお城の中にある。そうでしょ? 侵入する時あんたが騒ぎを起こしてくれたら、こっちの仕事が楽にはかどりそうだわ」
「俺に囮になれとでも?」
「さあどうしようかな。それでも一人で行くよりは、ずいぶんと有利なはずよ。違う?」
にやっ、とお嬢さんらしくない不敵な笑みをラキシスは見せた。
トーマはふう、とため息をつく。確かに今の自分には、他に選択肢がないように思えた。
「何度も聞くが、いったいお前は何者なんだ」
「泥棒よ」
にっこりとラキシスは笑う。
その笑顔の鮮やかさには、トーマの心の中にある疑念や不安を溶かしてしまう勢いが、確かにあった。
森の中から見知らぬ男を連れて戻ってきた二人を見て、ダヤンは小首を傾げた。
「行く時は二人で、帰りは三人。……子供でも作って産んで来たのか?」
そのとっぴな意見にトーマは思わずゲホッとむせる。ラキシスは握りこぶしでダヤンの頭を一発どついた。
「こんなでっかい子供を一瞬で作って産んでたまるもんですか」
「でもラキさん、不肖ながらこのレイジェル・バトー、子作りでしたらいつでも謹んで協力致しますけど」
「いまちょっと、あんたを本気で撃ち殺したくなったわ……」
心底嫌そうな顔で睨まれても、レイジェルはめげない。むしろどんと来てくれな感じ。
「やだなーもー、ラキさんったら照・れ・屋・さん」
笑ってそう言い、ラキシスの肩を軽くぽんぽん、と叩いたりとか。ラキシスは眉を寄せ、口をあんぐりと開けて言葉を無くした。
「だめだこりゃ」
あきれ果てて何も言えなくなるラキシスの後ろで、ダヤンがぼそっと突っ込んだ。
「さてと? おれはダヤン。もう聞いてるかもしれないけど、このメンバーの中では一番まともで仕事も出来て有能なのが実はおれだ。そういうわけで、お前だれ?」
矢継ぎ早にぺらぺら喋る男にトーマはまた、何も言えない。その横で、トーマの栗毛の馬の首を撫でながら手綱を引くラキシスが言った。
「手配書の男よ。森で拾ったの」
「マジかいな! でも一人足らなくね?」
「黒髪の方は捕まったらしいわ。ねえダヤン、この子、馬車に一緒に繋げないかしら?」
「あん? スプリンターバーと二頭引き用のポールを取り付けりゃ大丈夫だ。確か交換用の部品がついてたろ。ちょっくら待ってな」
ダヤンは座席の天板を開き、中に入っていた工具と部品を取り出すと、車の前に回って手際よく作業を始めた。
ラキシスは、おとなしく馬車に繋がれる時を待つ栗毛の馬のたてがみを撫で、トーマを振り返る。
「この子が森の外にいて、倒れてるあんたのとこまであたしたちを連れて行ったの。あんた、後で時間が出来たらきちんと手入れしてあげなさいよ。……賢い子」
馬は人懐っこく、褒められたのが嬉しそうに、ラキシスの頬に鼻面をすり寄せた。
「そうか……かたじけない。命の恩人だな」
トーマは馬車に寄りかかって立ちながら、栗毛の馬の背中を叩いた。
「おいラキ、レイジでもいいけど、そっちの馬にハーネスつけてやってくれ。よいしょ、馬車の方はこれでオッケー、と」
レイジェルが新しい馬に二頭立て用のハーネスと腹帯をつけ、馬車と繋ぐ。元からいた馬は隣にお仲間が増えて嬉しいのか、少し鼻を鳴らして首を栗毛の馬にすり寄せた。馬同士お互いに挨拶を済ませると、二頭はすぐにおとなしくなった。
「それじゃ、街へ行きますか」
レイジェルが馭者台に上がると、その横にラキシスがすとん、と座った。
「あたしも前に座る。あんたはダヤンと一緒に後ろに乗ればいいわ」
トーマはまだ迷い顔だ。ラキシスの強引さに圧されてここまで来たものの、本当について行っていいのだろうか。
「しかし俺は、街に入れるかどうかもわからんぞ。ひょっとすると検問があるかもしれん」
「手配中の男連れて、易々(やすやす)と街に入れるなんて、あたしも思っちゃいないわよ。ダヤン?」
ラキシスが目配せすると、ダヤンがニヤリと笑って請け負う。
「あいよ、俺に任せとけ。とりあえずお前さ、その泥だらけのマントは脱ごうや」
そう言って汚れてぼろぼろの外套を脱がせ、代わりにレイジェルの予備のコートを着せてやる。それから黒い鍔広の帽子をかぶせて、髪と目元が見えないようにした。
仕上げにダヤンはウォッカの瓶を取り出し、何をするのかと思ったら、おもむろに蓋を開けて瓶を傾け、コートの上から酒を豪快に振りかけた。
「おい」
「あー、ちっと冷たいだろうけど我慢しろ。そんでな、街に近づいたらこの紙袋を口元に、こんな風にあてて。いかにも気分悪そうな素振りで顔を伏せてるんだ。わかった?」
ダヤンは昼の弁当がつまっていた、今は空っぽの紙袋をトーマに手渡し、言い聞かせる。
コートの襟元から酒の香りがぷんぷんと立ち上る。強い臭気にやや顔をしかめながら、トーマは素直に頷いた。
「意図はだいたい読めるが……こんな詭計で本当に大丈夫だと思うか」
「後はお前さんの演技力次第だろ。ま、おれも横でサポートすっから心配すんな」
そこでレイジェルがコホン、と咳払いした。
「それ俺のコートなんだけどダヤン君。後でてめえが弁償しろよ」
「えっ、おれに言ってんの?」
レイジェルに睨まれ、ダヤンが目を丸くする。なぜおれが?
「あったりまえだろ! 酒ぶちまけたのお前じゃねえか。きっちり責任取りやがれ」
「ラキさぁん、これって必要経費とかで落ちませんかね?」
レイジェルの口調を真似て懇願するダヤンに、ラキシスの返答は冷たい。
「そんな予算ありません」
「ちょ、横暴! ってゆーかお前、おれに責任丸投げか!」
「あたし酒ぶっかけろなんて、一言も言ってないもーん」
「うわ、ちょっとソレ、ひどぉい!」
「す、すまん。俺が弁償したいが、今は手持ちの金がなくて……」
おろおろと場を取り成そうとするトーマに対して、
「誰もあんたに」
「お前に」
「期待してませんから」
そう辛辣に答える三人の声が、見事な具合に重なって。トーマは一人申し訳無さそうに、首を竦めるしかできなかった。
宿場街に入る手前の街道では、予想通りに街の警吏官らが出張り、簡易のバリケードを築いて検問を行っていた。
が、いかんせん長閑な田舎町のことなので、人数はそう多くない。運動神経の鈍そうな、血色よくころころと太った初老の男と、その部下らしい対照的に顔色の悪い、痩せすぎの男が一人だけだ。
「そこで馬車を停めろ! お前たち街へ行くのだな。目的はなんだ」
小太りの警吏官が警棒を振り回しながら偉そうに聞く。都市部よりも田舎の方が、こういう手合いは人に対して尊大な態度でふるまう。
レイジェルが愛想よく丁寧に答えた。
「観光です。この街にはいい温泉があると聞きまして、楽しみにして来たんです」
「湖のお城も素敵ですわね、叙情があって」
ラキシスは横で笑顔を振りまき、レイジェルも合わせてうんうん、と頷く。
「ふん、まあな。ここらは国自慢の景観地だから、好んで来る客も多い。四人組か。後ろの男、ちょっと帽子取って顔を見せろ」
座席でだるそうに俯き、紙袋を口元にあてていたトーマが、うう、と呻いた。
するとダヤンはすかさずトーマの肩を支え、背中をさすり、必死の形相で怒鳴った。
「おい、しっかりしろ、顔も上げらんねぇのかよ! すいません駐在さん、こいつここへ来る途中の村で酒の大飲み対決なんかやらかしちゃってこのザマで。ええ、村にはここらで一番だっていう酒豪がいましてねえ、こいつも後に引けなくなって、最後には樽ごと抱えてぐびぐびと。そんでひっくり返っちゃってもー、死んだかと思いましたよあっはっは。ほらほら、御用の筋なんだから、しっかり顔上げろって。……なに、吐きそうだァ!? 待てコラ、表には吐くな、吐くなら紙袋! お願いだから袋の中に吐いてぇぇっ!」
悲痛な声で叫ぶダヤンを見て、痩せすぎの方の警吏官が何故か真っ青な顔になった。
「巡査長どの、すいませんボク、酒の匂いを嗅ぐだけでもダメで……うぉえっぷ」
下戸らしい。本気で気分悪そうに胸を押さえてぜいぜい言っている。なにしろトーマの周囲からきっついアルコール臭がぷんぷんしているのだ。これには太った巡査長の方も、嫌そうに顔をしかめた。
「確かに臭いな。一体どれだけ飲んだんだ。えい、もういい、行け! だが街の中で酒乱騒ぎなんぞ起こしたら即引っ立てるからな。しっかり監視しておけよ!」
「わかりました。どうもすみません駐在さん。お役目ご苦労様ですぅ」
ダヤンはへこへこと頭を下げながら、まだ親身にトーマの背中をさすっている。
レイジェルは巡査長に一礼し、馬車を並足で進め始めた。
すれ違いざまに、ラキシスは蒼白になったひ弱そうな警吏官に声をかけた。
「そこのあなた。酔い止めには、しょうがのお茶がよく効きますわ。実を食べるだけでもよろしいわ。ではお大事に、ごきげんよう」
「は、ども。ありがとう……」
警吏官は弱々しく頷き、その頭を上司の男が情けない奴め! と言って軽くはたいた。
検問を行き過ぎて。ようやく街に入れたところで、レイジェルはふう、と息をついた。
「予想以上に手抜きな警備でしたね。この街ほんとに大丈夫なんでしょうか、あんなんで」
むしろ心配してしまう。この街の治安は、あんな頼りない連中の手で守られているのだろうかと思うと。他人事ながら住民が気の毒だ。
「おそらく俺は、死んだと思われているのだろう。検問はあくまでも念のためで、警戒が甘いのはそのせいだ。ここらは普段は、平和そのものの街だから」
帽子で顔を隠したまま、トーマが低い声で囁く。ダヤンはなるほど、と頷く。
「そんなら、それほど気ぃ使わなくてもいいかもしんないが、ま、念を入れるに越したこたァねえ。宿屋の帳場では、まだ酔っ払ったフリしててくれ」
「心得た。しかし君、迫真の演技だったな」
「はっはァ、やっとおれさまの機転と有能さが分かってきたかね? まあファンになるのは構わんが、惚れちゃあいけねえぜ」
「誰もそこまでは褒めてないが……」
「あっ、そーお?」
ダヤンは別に気を悪くした風ではない。
「ラキさん、今夜のお宿はどこにしましょう」
後ろの二人の会話には一切参加せず、レイジェルが横のラキシスに聞く。
「馬車を停められる程度には大きくて、そこそこ小奇麗なところがいいな。あそこなんかどう?」
ラキシスが指差した先に、『青い宝石亭』という名の食堂つきの宿があった。
「いらっしゃいませ。お泊りですか、それともお食事でしょうか?」
帳場に立つのは、口髭をはやした恰幅のいい男だった。客に媚びすぎない、適度な礼節を心得た雰囲気で、声に張りがある。
ラキシスが応対に立ち、泊まりに来た旨を伝える。
「四人で泊まれるお部屋を借りたいんですけれど。今夜の空きはありますかしら?」
「皆様で一部屋がよろしゅうございますか、それとも何部屋かにお分け致しましょうか」
「できれば四人一部屋で、寝室が別になっている部屋があるといいんですが」
帳場の男はにこやかに頷いた。
「ご要望にお応えできる大部屋がございます。居間と別に寝室が二つついておりますので、殿方は相部屋で、お嬢様がもう一つの個室をご利用になればよろしいかと。もちろん鍵もついてございますよ。後で殿方の寝室の方にベッドを追加致しましょう。多少手狭にはなりますが、そこはご辛抱を願います。ただそうしますと、通常のお部屋よりもいくらか割高になるのですが……」
「結構ですわ。ひとまず今夜の御代を支払って、延泊になる時には後で清算してもよろしいかしら?」
「それはもう、どうぞごゆるりと、何日でも当宿でお過ごし下さいませ。ちょうど森の紅葉などが美しい頃合ですし、すぐ近くには天然温泉の湯屋がありますので、ゆっくりと湯治なされるのはいかがでしょう。……ところでお連れのお客様は、どこか具合でもお悪いのでしょうか?」
ラキシスの背後では、レイジェルとダヤンが両側から抱える格好でトーマを間に挟んでいた。トーマは帽子を被ったままうなだれ、歩くときもダヤンとレイジェルが半ば引きずるようにするので、あちこち怪我をしている足取りには見えない。
ラキシスは男が差し出した宿帳に偽名のサインをしながら、淀みない口調ですらすらと嘘をついた。
「ちょっとお酒に酔ってしまって。でも心配なさらないで、暴れたりはしません。酔いがさめたらおとなしい男ですし、今も半分眠っているだけですから」
「さようでございますか。ではすぐにも横になられたいでしょう」
男は卓上のベルを取ってリンリン、と二度鳴らした。すぐに脇の部屋から制服を着た従業員が出てくる。
「四名様を『暁の間』へご案内して。寝室の片方で男性方が三名休まれるので、急いで寝台の追加をするように」
「かしこまりました。ではお客様方、お部屋へご案内致します。どうぞこちらへ」
ベルボーイが他に数人ついて、ラキシス達の荷物を運び、上の客間へと先導していく。
「どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
帳場の管理人格の男がその後を見送る。
髭を丁寧に整えた口元に笑みを浮かべていた管理人は、ラキシス達の姿が階段の上に消えると、笑みを浮かべたまま手早く何かを書面にしたため、封筒に入れて糊で閉じた。表に短く宛名を書く。
また卓上のベルを取って、今度はリリリ、リン、とさっきとは違う調子で鳴らす。
すぐに脇の部屋から他のベルボーイと同じ制服を着た男が出てくるが、その男は他の従業員と比べて少し様子が違う。やや肉付きが良く、見た目も凡庸そうな、よくいえば人の良さそうな男だが、管理人と視線を合わせた一瞬の目つきが鋭かった。すぐに笑顔の仮面を被って表情を消すが、どことなく得体の知れない雰囲気の男だった。
管理人は部下に白い封筒を渡した。
「これを、急いで城へ届けてきてくれ」
「かしこまりました」
一礼し、小太りな割には意外と機敏で身軽な足取りで踵を返す男の手には、『I卿へ』とのみ宛名を記された薄い書簡があった。
城の虜囚となったリオンは、とりあえず女装のままでは居心地が悪いので、イカロスが用意したという男物の服に着替えた。それほど華美ではない、しかし仕立ては丁寧で生地もずいぶんと高価そうなシャツと、明るい灰色のトラウザー。そして細かい刺繍を施した胴着。スカーフもあったがリオンは結ばず、靴はそのまま自前のブーツを履いた。
鍵のかかった扉がノックされ、リオンはあのスカした銀髪野郎が戻ってきたのかと身構えるが、入ってきたのは歳若いメイドだった。リオンとさして代わらない年頃の、亜麻色の髪をきつく結った娘だ。
「失礼いたします」
メイドは茶器の載った銀の丸盆を持っていた。部屋の中央に置かれたテーブルにカップと菓子の皿を置き、お茶の仕度を整える。
「チーズケーキにカスタードをかけたものでございます。どうぞ、温かいうちにお召し上がり下さい」
見れば、あたたかいカスタードソースのかかったケーキが皿に乗せられ、その上から粉砂糖をふってある。皿の回りを飾る別のソースの上には木苺とハーブの葉が色よく飾られ、見た目もきれいで美味しそうだ。
テーブルの上を整えて深々と礼をし、すぐにも部屋から下がろうとするメイドを呼びとめ、リオンは微笑みかけた。
「ちょっと待って。よかったら君もお茶を飲んでいかないか? 美味しそうなケーキだね、君が作ってくれたの?」
「いえ、私はただ、厨房からここまでお持ちしただけで……」
少女は恐縮して顔を伏せる。ケーキを焼いたのは料理人だが、切り分けて皿の上に乗せ、ソースや果物の飾りつけなどは自分がした。食器と茶器も自分が選び、お茶は「こうやったらもっと美味しくなるよ」とおばあちゃんに教わったやり方で丁寧に淹れた。お口に合うと良いのだけれど。
頬を染めて俯く娘の顎先にそっと指をかけ、リオンは顔を上げさせた。
「ああ、そんなに緊張しないで。一人でお茶を飲むなんて寂しいよ。君、よかったら少しのあいだ僕に付き合ってくれないかな?」
「いけません。わたしのような身分の低い者が、王子様と席をご一緒するなどと……」
「え、このお城の人はみんな、僕のことを王子様だと言っているの?」
「城の者は皆、お館様からそのように申し付かっております。ご身分の高い方ゆえ、決して失礼があってはならないと」
内心ケッ、薬嗅がせて眠らせて、あげく鍵付きの部屋に閉じ込めてる時点で充分な無礼じゃねーかと思いながら、リオンは猫なで声でメイドに話を続けた。
「そうなんだ。でも僕はそんなに偉い人間じゃないし、できれば君とお友達になりたい。きれいな亜麻色の髪だね。どうしてそんなにきつくひっつめているの? 自然に下ろした方がきっと似合うのに」
言ってリオンは少女の髪を撫で、いくつも刺してあるピンを抜いて、長い髪が少し肩へ垂れるようにした。
「ほら、この方がずっと可愛い」
「いけません、王子様」
顔を真っ赤にして一歩後ずさったメイドの後ろで、扉が開かれた。
「――意外と手がお早いようで」
何の感慨も驚きもない平坦な声で、そう言ったのはイカロスだ。小脇に本を何冊か重ねて持ち、反対側の腕を扉の枠にかけてもたれながら、こちらを見ている。
リオンはトラウザーのポケットに両手を突っ込んで立ち、かったるそうに言った。
「べっつにー。世間話してただけじゃん」
イカロスは眉を少し上げるだけで何も答えず、メイドに向かって微笑みかけた。
「王子様の御前でその乱れた髪はいけないね。向こうで直して来るといい」
「も、申し訳ありません」
メイドは腰をかがめて一礼し、そそくさと扉の向こうに出て行った。戸が閉まると同時に、カチリと鍵のかかる音がする。
イカロスは肩に落ちた銀色の髪を手で背中に流し、リオンの前に立って口の端を少しつり上げる。
「お気に召したのならば、あの娘を殿下の側仕えにいたしましょうか?」
「あー、そういうのいらない。下手に話もできなくなるじゃん、全部お前らに筒抜けかと思うとさ。一人でいる方がよっぽど気楽」
「実に賢明な方だ。時間つぶしにでもなればと思い、本などお持ちしましたが」
「あっそ。じゃそのへんに置いといて」
イカロスはリオンの素っ気無い態度など意に介さず、テーブルの上に本を置いた。
「夕食はベルリン閣下が殿下とご一緒したいとの意向ですので。食事の時間になりましたらお迎えに参ります。それまでは、ここでごゆるりとお過ごし下さい」
「張り切って美味いもん食わしてくれるんだろーなぁ? 毒とか盛るのは、勘弁な」
嫌味ったらしく言うリオンに、イカロスは風を受け流す柳のような態度で平然としている。
「まさか、そのような真似は致しませんよ。大事なお身柄ですのに毒で殿下を害するなど、滅相もない。お食事は、この城には腕の立つ料理人が幾人もおりますので、きっとご期待にそえるかと」
「あっそ。じゃあもういいや、消えろ」
リオンは犬でも追い払うように片手を振る。しっし、と。
なるほど、その仕草はいかにも傲岸で、生まれつき王宮から一歩も出たことのない高貴な人間がする振舞いのようだ。生まれてすぐに市井に置かれ、一般人と同じ暮らしを十五年近く続けてきた少年の身体を流れる、紛れもない王家の血がそうさせるのか。不思議と違和感がなく、そうされて不愉快でもない。
「かしこまりました」
イカロスは恭しく片手を胸の前で折り、深く一礼して扉から出て行った。
一人きりになったリオンはだだっ広い室内を見回し、耳を澄ます。隣の部屋や天井裏で、誰かこちらの様子を窺っている者はいないか。気配をさぐる。
指で叩いて音を聞くと、壁はかなり厚そうだ。一見話し声は通りにくそうだが、それでも特殊な器具を使えば、室内の声は隣室や他の部屋まで伝わるだろう。あの壁にかかる鏡はどうだ。向こうからは覗き窓になるよう、特殊な細工がされてはいないか。
そんな仕掛けは一つも無いかもしれないが、一応リオンは用心すると、壁に埋め込まれた姿見にテーブルクロスを剥いで引っ掛けた。それも、卓上に置いた食器が一つもひっくり返らない見事なクロス引きの技を使って。
それからポケットの上にそっと触れ、中身の感触を確かめる。
あのメイドの髪から抜いた長いU字ピンが三本、ここにある。組み合わせれば、扉の鍵を開けることが出来るかもしれない。
リアやトーマ達と一緒に、屋敷を転々と引っ越しながら暮らしていた頃。時には住む国が変わっても、年に何度かの割合で彼らを訪ねて来る女がいた。赤みが強い茶色の髪の女で、リアは女を『アル』と呼んで皆に紹介した。友人だと。実際二人は、非常に仲のよい様子だった。
いつだったか、あれはスワヌー国の東部で暮らしていた頃だ。夜更けにリオンが居間の前を通りがかった時、リアがその女と話し合いながら『アルキス』と呼びかけるのを聞いた。それが彼女の本名なのだろう。
アルはリオンに「何かの時に役に立つかもしれないから」と言って、針金で鍵を開ける技を教えてくれた。財布をスるテクニックも、実はアルから習ったものだ。トーマは「それはお前が覚えなくていい技能だ」と言って、あまりいい顔をしなかったが。
トーマ。
トーマは無事だろうか。
酷い怪我をしているのは間違いない。でもせめて、元気でいてほしい。この城のどこかにいるのなら、救い出したい。どうか無事で。
みんなのことを思い出すと泣きそうになる。
母親代わりに育ててくれたリア。厳しいし、怒ると本気で怖いけど、でも真剣に人を思いやってくれる女だった。
家政婦のアマンダおばさん。メイドのロージーとマリィ・アン。みんなおしゃべりで、ウィッツ・ウィックの昔話をよく聞かせてくれた。
料理人のポルトス。いつも美味しいご飯を作ってくれて、テーブルクロス引きのコツを教えてくれたのも彼だ。
女だてらにリアの護衛を張っていたルネ。トーマと二人で、剣術や武術を教えてくれた。
みんな家族同然だった。血の繋がりは誰もないけれど、一つ屋根の下で暮らしていた。
そんな仲間との生活を奪っておいて、何が我らに感謝しろ、だ。ふざけるな。ぜったいに許さない。
自分の父親がローデラントの王様だという話なら、小さな頃から当たり前のように聞かされて育った。だからといって、別に自分が特別だとは思わなかった。
実の母親はリオンと一緒に暮らしていた。病気がちで、リオンがまだ五つの頃に亡くなったが、決して不幸な人ではなかった。屋敷を与えられ、友人のリアと護衛のルネや気のよい使用人達に囲まれて、王と離れて暮らさねばならぬ事情を恨むでもなく、心穏やかに暮らしていた。
母に会うために、時々母方の親族も尋ねてきたし、夫である王自身も年に何度かは彼女を見舞いに訪れた。
その時は、リオンも父と子として対面した。
赤毛で巻き毛の、榛色の目をした人だった。低い声で、ゆっくりと話す、穏やかな人だった。父親とは単に離れて暮らしているだけで、決して放置されていたわけではない。だからリオンは寂しくなかった。
時々会いに来る父親は、リオンと何てことのない話をした。普通の家族がするような話。今日はどんなことをしたかとか、勉強は進んでいるかとか。そんな話だ。
お前を宮殿に迎えられなくてすまないとか、許せとか、そんな湿っぽい言葉は一切ない。たまに来る父親と、リオンは庭でよく遊んだ。父は木彫りのコマを回すのが得意だった。
たとえば父親が漁師だったら。あるいは、どこかよその国へ出稼ぎに出ている人なら。父と子が一緒に暮らせない事情は世間にいくらでもあるだろう。リオンにとっては、それと同じことだった。
街での暮らしは楽しかったから、父親の住むという都や王宮へ行きたいと思ったことは一度もなかった。まして王様になりたいなんて。少しも思ったことはないし、むしろそんなものになりたくない。だって面倒くさそうじゃないか。
王都で父と暮らしているという、一度も会ったことのない兄弟の方こそ、作法の厳しい窮屈な暮らしは大変なんじゃないかと思った。いずれは彼が次の王様になるのだから、自分は兄弟がやりたくてもできない何かをしよう。
そう、たとえばウィッツ・ウィックの昔話に出てくる泥棒貴族。あんな大泥棒になるのも悪くないかもしれない。リオンはそう思って育った。
そんな夢を、なんで見知らぬ他人の都合で阻まれなくてはならないのか。
ましてや王位の簒奪なんて。冗談じゃない。頼まれてもいやだ。
人から押しつけられたレールの上を歩く人生なんてまっぴらだ。なんとしても出し抜いてやる。
リオンはとりあえず席につき、差し入れられたおやつを食べることにした。食べ物を粗末にしてはいけない。これはリアと母親と、トーマや他のみんなから教えられてきた鉄則だ。
お茶はとうに冷めていたが、ケーキは結構、美味しかった。
夕刻になった。
『青い宝石亭』の大部屋で、トーマは湯を運んで貰って顔や首周りを拭い、酒臭い服を脱いで着替える時に、ダヤンとレイジェルにもう一度全身の傷具合を診てもらった。
自称ダヤン大先生が言うには、「とりあえず死ぬこたァねえな」ということだった。
「ねえ、あんたのその刀、ちょっとゆっくり見せてくれない?」
旅装を改めてごく簡素な部屋着に着替えたラキシスが、興味津々という顔でトーマの刀袋を見る。よく見れば素材は絹、しかも布と同じ色の糸で菱と唐草の紋様が細々(こまごま)と刺繍され、一見地味だが手の込んだ細工がされている。異国の職人の、一級の技だ。
トーマが無言で頷いたので、ラキシスは袋の口を閉じる房紐をほどいた。この結び方も独特で一種芸術的だ。袋の入れ口をずらし、刀剣を鞘から抜かずに取り出して両手で持つ。
「柄巻は納戸色、常組糸のつまみ巻きか……」
「一風変わった柄の形の剣ですね。なんど色って、何色のことですか」
レイジェルが尋ねる。ラキシスは刀剣から目も離さずに答えた。
「海の青って言ったら想像できる?」
「ああ分かります、なんとなく」
「細かいこと言うと、これは刀っていうの。日本刀ってやつ」
ダヤンがぱちん、と両手を打ち鳴らして合掌した。
「おー、サムライ・ソード! フジヤマ!」
「オ、ゲイシャガール! オイラーン!」
レイジェルもやけに興奮した調子で言い、ダヤンと二人で、なぜか固い握手を交わす。
「なんでそういう単語だけは知ってんの……」
ラキシスは生温い目で二人を見る。だいたい何だ、そのエセ外人みたいな喋り方は、と言いたかったが、もう突っ込むのもだるくて黙った。それより問題はカタナよ、この刀。
ラキシスが見たとおり、刀の柄にはマリンブルーに近い濃い青の組糸が巻かれている。
常組糸は日本の奈良時代から発達した糸の組み方で、能装束の縁取りなどにも使用される。柄巻は芸術的な装飾であると同時に、握りを良くし、手の滑りを防ぐといった実戦的な意味もあった。
刀身を柄に固定し強化する役割の目貫は、銀製。雷雲に巻きつく竜を模した意匠だ。
鞘は黒漆呂色塗り。これは下地に黒漆を塗り、塗り面を炭で焼く技法で、なめらかで深い光沢を生み出す。
ラキシスは鞘から少しだけ刀を抜いてみた。
刃紋は互の目乱刃。鉛色に鈍く光る刃の、ねっとりとした肌の上を、まるで天空を裂く稲妻のような勢いで波線が駆け下りていく。
ラキシスは陶然とした表情で、刃に浮かび上がる玄妙な紋様を長いこと見つめていた。
鋼を硬く鍛えるために、焼きを入れる過程で出現するこの紋様。刀匠がある程度は意図して作り出せるものの、やはり偶然的な要素は否定できない。似たものはあっても、一つとして同じ波紋は存在しえないのだ。この美しさはもう、武器を超えて芸術の粋に達していると言ってもいい。
本来人を殺傷するためだけに生み出されてきた刀剣が、その存在理由の範囲を超えて全く別の価値を見出されるとは、ある意味皮肉なことだろう。
ほう、と深く息を吐き、ラキシスは刀を静かに鞘に収めた。
「鎌倉後期から発達した打刀の中の一振り。刀匠、土佐元親の手による名刀・雷電。……違ったかしら?」
「茎も見ずに、よく分かるものだな」
トーマは驚き、そして内心で感嘆をもらす。
日本刀の作成者は、刀の茎に銘を切る慣わしがある。この少女はそれすら見ず、見事に銘を当ててみせた。トーマ自身、この刀が誰の手で打たれたか、どんな由来があるかまでは知らない。ただこの刀を師匠から受け継いだ時、銘は雷電とだけ、聞かされていた。
「ライデンって、何か意味があるんですかね」
レイジェルが横からしげしげと刀を覗き込んで聞く。
「雷の神さま、っていう意味かな」
「ああ、そうすっとうちの国で言う主神ジュピターみたいな感じですか」
ローデラント王家は古代ローマ神道を受け継いで祭祀を行っている。王都ミネルヴァは戦女神のミネルヴァから取った名で、王家が守護神の一柱として奉る神だ。
祭祀といっても国民から見れば決して堅苦しいものではなく、夏祭りや秋祭りの延長のような感覚だ。ジュピターは雷の力を司る神であり、オリュンポスの主神であるが、男女の性別を問わぬ好色なところがあり、そのくせ正妻のジュノーンには頭が上がらない。女好きというところに共感があるのか、レイジェルは結構ジュピター神に対し好意的だ。
「でもこっちの雷電は女好きじゃないし、厳しい学問の神さまでもあるのよ」
元は人間だった菅原道真が、死したのち天神になったとも伝えられる。
「はあ、なんともおっかない神さまっすね」
「そうよ。レイジ君みたいなちゃらんぽらんな男が持ったら、罰があたっちゃうかもね」
「うひい、もうその刀には近づきませぇん」
ふざけておたつくレイジェルをちらりと睨んでから、ラキシスは視線を刀に戻した。
「西洋の剣はだいたい突き刺すか、そうでなきゃ相手をぶっ叩くっていう戦法を取るでしょう? 日本刀は全然違うの。『斬る』ことを一番の目的として鍛えてあるの。何度も何度も焼きを入れて叩いて、鋼がねばるぐらい伸ばして。そうすることで、たとえ曲がっても折れない強度を生み出す。ただ硬いんじゃなくて、しなりがあるの。そこらの鈍らな西洋剣なら、数本まとめて折っちゃうぐらいの強度があるわよ、この刀。日本刀は、世界最強の刃物と言われてるんだから」
それを聞いたダヤンがひゅう、と口笛を吹いた。
単に力強い刀剣というだけではない、いまラキシスの手にあるのは、古美術としての価値も同時に兼ね備えた名刀だった。
「刃、鍔、小柄、笄……日本刀は刀と装具をばらばらにしても、それぞれに芸術品としての価値があるの。特に鍔や小柄なんかを収集する人が多いわ。それらが全て揃った一本の刀剣で、名のある刀匠が手がけた物となれば、相当な価値があるわね」
「たとえば、この刀なんかはお幾らぐらいになるんです?」
レイジェルの質問に、ダヤンも興味深そうに雷電という名の刀を見つめた。
「ざっと計算しても、二千八百万ルブランは下らないでしょうね(※日本円で一千万円)」
「おー、ゴージャス!」
ダヤンは天井を仰いで叫び、
「パワフル! ミラクル! トレッビアーン!」
レイジェルは演技過剰な舞台俳優みたいな身振り手振りで、驚きを表現した。
「あんた達いいかげんにやめなさい」
ラキシスはまじめに説明しなきゃ良かった、と半分後悔した。
「あー……、で、そろそろ返してくれないか」
トーマが遠慮がちに言う。が、ラキシスはまだ雷電を手離そうとしない。頬ずりする勢いで刀を抱き締めている。
「いいなー、欲しいなーこんなの。一本あったら家宝だわよ。ねえあんた、あんたが死んで次に譲る人がいなかったら、あたしに頂戴?」
「そんな約束は出来ない」
というか、若い娘が頬を染めてまで欲しがるものだろうか、日本刀とは。
「ちぇー。でももしこれから城に突入してあんたがあえなく討ち死にしちゃったら、形見にもらってもいい?」
「………」
トーマの額に脂汗がじわりと滲んだ。背中には冷や汗が伝っていく。この女、冗談抜きで本気で自分の死体の横から刀をかっぱらって行きそうだ。侮れない。
「じゃ、とりあえず今は返すわね。大事にしなさいよ、下手に傷とかつけたら価値が下がっちゃうんだから」
「………………っ」
トーマはもはや返す言葉もない。どこか悲壮な手つきで刀剣を刀袋に納め、急いで房紐を巻き直して閉じた。
それから、ラキシスの目から刀を遠ざけるように自分が座る椅子の横に立てかけると、改めて聞いた。
「君らは一体、何者なんだ? どうしてあのルビーの指輪を欲しがる。確かに高価な品ではあるんだろうが……」
ラキシスは軽く肩をすくめた。
「実際のとこ、人から頼まれたんだけど。そもそもどうしてあの指輪をあんた達が持ってたの。リア・デ・モンローを殺して奪ったわけじゃないんでしょ?」
「あたりまえだ。誰がそんなことするか」
「でしょうね。おおかた屋敷を襲ったのは、ベルリン一派なんでしょう」
「……君らは一体、どこまでこちらの事情を知ってるんだ」
「ほとんど何も。ただ、リア・デ・モンローがルビーの指輪を所有していたことと、リアの屋敷が襲撃を受けて家人がほぼ全滅したこと、そしてそこから逃げたらしい二人組の男がベルリン一派に追われているということ。分かっているのはそれぐらい。でもね、はっきり言うとあんた達の事情とかはどうでもいいの。あの指輪さえ持って帰れば、あたしの仕事は終わるのよ」
「あの指輪は、ローデラントの王太后に返さねばならん物だ。悪いが君たちに渡すわけにはいかない」
「は?」
ラキシスが思わず聞き返す。
「ちょっと待って。あたしはローデラントの王太后陛下から依頼されて、ここまで指輪を取りに来たのよ」
「なに?」
今度はトーマが眉根を寄せて聞き返す番だった。トーマはハッと息を飲み、改めてラキシスの顔を見直す。
「お前、確かラキシスと名乗ったな。まさかと思うが、ラキシス・オランジュ……?」
今まで失念していたとは迂闊だ。トーマは臍を噛む。
「おいコラてめえ! ラキさんをお前呼ばわりするたァ太え野郎だな。口を慎みやがれ!」
「レイジ君ちょっと静かにしてて。ええそうよ。あたしはラキシス・オランジュ。なんであんたが、あたしの名前を知ってんの」
「リアに言われていた。ローデラントから、王太后の特命を受けた使者が尋ねて来ると。リアはその使者をテストする役で、合格したら指輪を渡すと言っていた」
「テストぉ?」
ラキシスの顔が嫌そうに歪む。
「細かい事情は俺も知らん。何でも使者はまだ若く、こうした密命を受けるのは初めてなんだと。リアと王太后は旧知の仲で、王太后から使者の力量や交渉術を試すよう頼まれたらしい。言わば試験だと言っていた」
「はあぁ? 何よそれ、人を馬鹿にして!」
ラキシスは顔を紅潮させて怒鳴った。
「あのオバハン、最初からそういうつもりであたしをここへ寄越したわけ? 何が試験よ、ムッカつくー!」
「いくらなんでも、マダム・リアの屋敷が襲われるとか、指輪が別の奴らに奪われるとか、サルバローデ様もこんな複雑な事態は想定外だったんじゃないでしょーか」
レイジェルがまあまあ、と言って取り成すが、ラキシスの怒りはおさまらない。
「それにしたって、人の能力を試そうなんて失礼な。ええい腹が立つ。こうなったら絶対指輪を取り返して、あのしたり顔の前に突きつけてやるわ。だいたいなんでベルリンとかいうクソジジイはあの指輪を欲しがるのよ。あんた、何か知ってるんなら全部話しなさい」
「その前に、君が本当に特使のラキシス・オランジュ当人だという証拠はどこにある。騙りではないという証を示してもらいたい」
「証ですって?」
トーマがラキシスの素性を疑うのはもっともなところだが、これにはレイジェルの方がカチーンとなった。
いきなり自分の上着の内ポケットから何か小さなものを取り出すと、横からラキシスの左手を取り、薬指にそれを嵌める。紋章指輪だ。
そしてラキシスの手を取ったまま、指輪をトーマの眼前に見せつけると大見得を切った。
「ええいこの無礼者! こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも六代目伯爵家当主、ラキシス・ヴィアンカ・ド・ラ・オランジュ嬢にあらせられるぞ!」
指輪は白金。印章部分が青地に銀で、翼を持ち、二匹の蛇が絡みつく『ケリュケイオンの杖』が浮き彫りにされている。
これはローマ神話のメルクリウス、ギリシア神話ではヘルメスと呼ばれる伝令の神が持つという伝説の杖の意匠であり、オランジュ家の紋章だ。メルクリウスは泥棒の守護神でもある。
指輪の周囲には 『ヘルメス・トリスメギストスHermes Trismegistos』という文字が彫られているが、これは〝三人の偉大なる賢者ヘルメス〟という意味であり、伝説の錬金術師の名でもある。
ちなみにこれは分家であるバトー家が代々受け継ぐ指輪だ。本家のラキシスが持つ紋章指輪は台座と輪が金、赤地に同じケリュケイオンの紋章を金で象る。
リジェット家当主、ダヤンの指輪は緑に銅で、同様の紋章がデザインされている。
思いがけない大上段な紹介をされて、一瞬ぽかーんとするラキシスの肩を抱き、その左手をどさくさまぎれに握り締めながら、レイジェルは胸を張った。何故だかものすごく鼻高々な様子である。
その後ろではダヤンがピィピィと、調子に乗って指笛を鳴らす。
トーマはラキシスが嵌めた指輪を見、次にどうだ、えっへん! と言わんばかりのレイジェルの顔を見て、ため息をつきながら言った。
「すまんがそう言われてもな……。だいたい俺は、オランジュ家の紋章なんか見たこともないし」
そう切り返され、勢いがそれてがくりと気が抜けたレイジェルの肩を、顔を真っ赤にしたラキシスがぽかぽか叩く。その後ろでは、ダヤンが腹を抱えて大笑いしている。
「なにを恥ずかしいこと言ってんのよ! あんたのせいであたしまですっごい恥ずかしい人みたくなったじゃない!」
「こ、こんなつもりでは……すいませんラキさん。っていうかお前、ローデラントの貴族名鑑ぐらい見とけボケェ!」
「す、すまん。勉強不足で」
何も責められる謂れはないのに、ついついトーマは頭を下げる。
ラキシスは、自分の指にはサイズの大きいレイジェルの指輪を突っ返すと、こめかみを指先で押さえた。
「うう、こうなると身元の証明って結構難しいじゃないの。パスポートは偽名の奴だし、あぁめんどくさいっ! だいたいそうよ、あたしの身元調査なんか別にどーでもいいのよこの際は! どうせ嘘でもほんとでもやることは一緒なんだから。そうよ、あんたがどうこう言おうと、あの指輪はあたしがぜったい取り戻してみせますからね!」
何でこんなにムキにならないといけないんだろう。自分でもわけが分からないが、ラキシスはふんっ、と鼻息荒く宣告した。
トーマはそれを見て、くっ、と小さく笑う。
「ならば、話は早い。俺も正直指輪の行き先なんかどうでもいい。リオンさえ無事に連れ戻せれば。それでいい」
「リオン。それがあんたの相棒の名前?」
「相棒というか……本来俺が護衛するべき少年だ。力不足で守りきれなかったがな」
「ふうん。ならお互い、利害が一致するという点には同意するのね?」
「お前は指輪が欲しい。俺はリオンを救い出す。行き先は共に、あの湖の城というわけだ」
「協力する?」
「一時的にならば」
にっ、とラキシスは笑い、トーマも不敵に笑みを返す。
「いいわ。それじゃあ互いに情報交換といきましょう。ところであんた、人の国の王太后さまを敬称なしで呼ばないでよ。陛下か、様ぐらいつけなさい」
「俺はローデラント生まれの人間じゃないし、リオンに個人的に雇われてるだけの傭兵だ。どこの君主にも敬称をつけるいわれはないが、今後は気をつけよう」
しかしさっきはこの女こそ、当の太后様とやらを自分でオバハン呼ばわりしてなかったか? 散々罵倒していた気もするが、それでいいのか……。トーマは無言で頭を捻る。
それはともかく、当座の一致協力を約束し、ようやく話を先に進められる態勢が整った。これでやっと本題に入れる。
ラキシスたち四人は居間のテーブルを囲み、コーヒーを飲みながら作戦会議を始めた。
「まず気になってるのは、ヴァネッサの警察とベルリン一派の癒着関係なの。連中、どういう繋がりで動いているのか分かる?」
トーマにとって、それは特に難しくはない質問だった。
「この湖沼地帯からノイエンディア州の大半にかけて、アイネンザッハ帝国とヴァネッサ国が領土争いをしていたのを知っているか。およそ六十年前のことだが」
「あ、歴史で習ったような気がする。両国がお互いの主張を譲らず、かなり険悪な状態になってたって」
陸続きの国の間では、領土の境を巡る諍いが頻繁に起こる。迷惑するのはいつも、そこで静かに暮らしているだけの一般市民だ。
「そうだ。結局当時の情勢で、湖沼地帯はヴァネッサ側の領土に組み込まれた。アイネンザッハ軍はしぶしぶ引いたが、ノイエンディアやエルベルで暮らしていた帝国側の一部市民は脱出できず、その大半は取り残された。ほとんどの民はヴァネッサ人と同化して溶けこんだが、中には未だに帝国と結びつき、自分たちの復権を願って活動している連中がいる。彼らは自らを『復国党』と名乗り、政治的な活動を影で続けているんだ」
「いまだに、帝国の利益のために?」
「ああ。奴らは主に警察機構や議会に人員を送り込んで、アイネンザッハに便宜を図るのが仕事だ。近年になって帝国とヴァネッサ国の国交が回復してからは、復国党と帝国はあからさまに連携を深めている。ヴァネッサ議会もそれを知らないわけじゃないだろうが、手を出せずに静観している状態だ」
「おいおい、大丈夫かよ、そんなんで」
ダヤンは人の国の事情ながら心配になった。隙あらば国を売ろうという連中が警察や政治の上層部に食い込んで、裏でこそこそと活動しているのだ。どこの国家でも諜報活動はお盛んとはいえ、なんとも薄ら寒い心地である。
「正直なとこ、帝国とヴァネッサの政治問題とかは、あたしの今回の仕事に直接関係ないわ。ただ、どこに潜んでるのかも分からない復国党とやらの動きだけは、気になるわね」
「この宿の中にもいたりしてー」
ダヤンは冗談のつもりで言ったが、ラキシスは真顔で答えた。
「あながちないとは言い切れないわよ。食堂で出される食べ物には気をつけた方がいいんじゃない?」
ダヤンはごっくん、と音を立てて唾を飲み込んだ。そして手元のコーヒーカップを覗き込み、これ飲んでもほんとに大丈夫かなぁ、とレイジェルに訊いた。レイジェルは、俺が知るかよそんなもん、と首をすくめた。
「リアはローデラントの密偵で、数年前から復国党の動向を王宮に伝えていたんだ」
トーマとラキシスの話は続く。
「じゃあ、狙われたのはそのせいもあって?」
トーマは答えず、目を伏せる。
ラキシスは目ざとくその『無表情』の中の表情を読んだ。
「……それだけじゃない、という顔ね。何よ、こっちには言えない話?」
「言っても信用してもらえないような話だ。そちらこそ、王太后……陛下から、何も聞いていないのか?」
「具体的にどんなことを?」
「お前たち、本当に指輪だけを受け取りにここまで来たのか?」
「そうよ。来年うちの王様が結婚することになったんで、花嫁に贈る指輪が必要になったって。……だけどおかしな話よね。代々の王妃様が持つべき結婚指輪が、どうして王家を離れてこんな辺鄙な、それこそ敵陣真っ只中みたいなところにあるのか。だいたい、リアって何者なの?」
「言ったろう。ローデラントの密偵だと」
「それだけ? 他にも何か秘密の使命があったんじゃない?」
トーマは深く眉間を寄せた。
「……本当に何も知らないんだな」
「だから、何をって聞いてんじゃない」
話してもいいのだろうか。この娘は、それだけの信頼に足る人物か?
トーマはラキシスの目を見る。濃く入れた紅茶にも似た赤銅色の瞳。何にも揺るがない意志のこもる目。その意志の力は強い。
焦れて眉を寄せるラキシスを見て、トーマは少しの間悩み、やがて意を決して言った。
「リオンはローデラント国の王子だ。先王アベル・クロード二世の実の息子。現国王アストルード陛下の兄弟だ」
「は!?」
ラキシスはそのあと絶句し、ダヤンは飲みかけたコーヒーを「だー」と吐き、レイジェルはコーヒーのお代わりを注ぐつもりが目測を誤まって自分の手にかけ「うぉあちい!」と叫んだ。
トーマはその惨憺とした状態に目線を細め、おもむろに言葉を続けた。
「信用してくれなくても結構。ただこれは、王太后陛下もご承知のことだ。リアはリオンの……いや、アリオン王子殿下の守護と教育係を命じられ、ずっと一緒に過ごしてきた」
「な、なんで王子様なのに、王宮から離れてこんなとこにいんだよ……っ」
ダヤンは汚れた顎をハンカチで拭きつつ訊く。
トーマはテーブルに肘を突き、指を組んだ。
「考えても見ろ。国家に王が二人立てるか? 王子が二人いれば王位継承権を巡って派閥ができ、利権を競って周囲の側近が対立する。そうなれば、どちらが王になっても禍根が残り、治世は乱れる。ましてやリオンは、アストルード陛下とは双子の兄弟だ。顔立ちはまるで似ていないそうだが……それでも双子だ。どちらが兄で弟なのか厳密には分からん。いわば同格の王位継承者が二人いるのは、国が乱れる元だろうが」
「だから、片方の息子を、捨てたと?」
ラキシスの声に非難が混じる。
確かにどこの王家でも、いや、貴族や一般家庭においても、双子は忌み嫌われる風習があった。畜生腹と呼ばれたり、父親が二人いるのではないかと不貞を疑われたり。迷信が色濃く残る古い時代では、双子と共にその母親まで処刑する因習さえあったという。
「捨てたと言われては、先王も切ないだろう。確かに離れて暮らすのを余儀なくされたのは事実だが、二人の息子が政争に巻き込まれぬよう、守ったと言えなくもない」
「だけどいま現に陰謀に巻き込まれてるんじゃ、全く意味がないじゃない」
「確かにそうだ」
痛烈なラキシスの非難に、トーマは苦笑するしかない。現にリオンを守りきれず、敵の手に渡してしまったのは護衛として、痛恨の極みだ。
「双子って。じゃあリオンのお母さまもシュザンナ・バルトロワ妃ってことなの?」
手元におけない我が子を哀れみ、ならばせめて身分の証にと、自分の指輪を託したのだろうか。高慢だったと伝え聞くシュザンナ妃の人柄や行状からは、その母性に満ちた行動はあまり想像が出来ないのだが。帝国の皇女という身分を鼻にかけ、夫を省みず、自分の子にさえ興味を寄せず。離宮にこもって寵臣のみを呼び寄せ、派手な遊興三昧を続けたという悪妻に、そんな親心だけはあったというのか?
「それは……」
トーマは口を噤む。否定も肯定もせずに、黙り込む。
ラキシスの眉尻が一気につり上がる。
「まだなんか裏の話がありそうね。いいじゃない、この際だから、全部あらいざらい吐いちゃいなさいよ」
むしろ今の反応では、シュザンナ妃が二人の王子の実の母親ではないと言っているのも、同然ではないか。
「俺にも知らないことはある。それに王太后がこの話をお前たちにしなかったのは、お前たちに知らせる必要が無いと判断したからではないのか?」
「む」
そう言われると、確かにそうかもしれない。だけどここまで知ったからには……。色々気になる。気になるったら、気になる。知りたい。
「細かい事情を聞きたいと思うなら、王太后様とやらに直接話を聞くのが筋だろう。お前たちが真に王太后の使者であると仮定して、リオンを救い出した後でな」
トーマが先手を打った。
そう来るか。ラキシスは反論できない。
「あんたも結構策士じゃない。美味しいとこだけつまみ食いさせて、メインは後のお楽しみってわけ?」
トーマは声を立てずに笑う。
「とんでもない。これでもかなり必死なんだ。俺にも助力が必要だからな。やはり一人では、心許ない」
単身乗り込んでいってリオンを救い出せるほど、あの城の警備は手薄ではないだろう。トーマもそこまで事態を甘くは見ていない。
「お互いに、話も素性も信じきっちゃいない仲だが、行く先にいる敵は共通だ。敵の敵は、味方とも言う。……多少の謎には、しばらく目をつぶってくれ」
「確かにね。王子様が本物かそれとも偽者か。その鑑定はさすがのあたしにも無理だわ。要は指輪を取り戻すついでに、もう一人黒髪の誰かさんを城外へ連れ出せばいいんでしょ」
「ラキさん、こいつの話を全面的に信用するのは危険ですよ」
レイジェルがそっと注意を促すが、ラキシスの腹はもう決まっていた。
「そりゃ見捨てることも出来るけど。もしその子が本物の王子さまだったら、あたし一生『愚か者』のレッテルを貼られるわ。そんなのやだもん」
「やだもんって、そんな簡単な問題ですか」
「いいじゃない、盗むものが一つ増えただけ。ご先祖様なら、きっとこう言ったところでしょうね。どうせ盗むなら、可愛いお姫様の方が良かったのにって」
もはや伝説の中の住人となったレッド・オーランド。幾多の女を愛し、愛されたという小粋な男。会ったこともない、偉大なる泥棒貴族の手練にはとうてい及ばないだろうが、その血を受け継ぐ者として、先祖の生き方に恥じない子孫でありたいと願う。たとえそれが正道から外れた泥棒という生き方であっても。泥棒にだって、誇るべき泥棒の道と美学があるのだから。
「そういうわけでレイジ君とダヤンにも協力してもらうから、よろしくね」
「ウィ・マドモアゼル」
ご命令とあらば何なりとも。恭しく服従の意を示すレイジェルの後ろで、ダヤンが弱々しく片手を上げた。
「あのー、時間外手当とか、労災……?」
「つきません」
きっぱりと断られ、あーやっぱりねー期待はしてなかったけどねー、とダヤンは遠い目になって、うなだれた。
「それじゃ、どうやって城に侵入するか。具体的な方法を検討しましょうか。レイジ君、見取り図出して」
「はーいラキさん」
レイジェルがいそいそと荷物から取り出した図面を広げる。
それを覗き込んだトーマは一瞬目を剥き、複雑な心境になり、訊いた。
「なんでこんなもんがここにあるんだ」
「細かいことは気にしないでちょうだい」
泥棒がやることったら一つだろうがと、横から囁くダヤンを見て、トーマは改めて納得した。
「お前ら、ほんとうに泥棒なんだな」
そう呟いたら、今頃納得してんのかよ! と三人三様の声でつっこまれた。