第六章 悪役登場
ここ、ローバンシュタイン城はそもそも、アイネンザッハの貴族ローバンシュタイン伯が領主として治めていた地域に立つ城だった。それが先の大戦でヴァネッサ王国との国境が書き換えられ、風光明媚な湖沼地帯はアイネンザッハ領から切り離され、ヴァネッサ王国の一部となった。領主ローバンシュタイン伯は戦火を逃れ、アイネンザッハに帰国した後、失意のまま没したという。
「……およそ六十年ほど前の話だ。ローバンシュタイン家は我が主、グリュンブルク公の縁戚に連なる一族だがすでに断絶。よってこの城の所有権はグリュングルク家に属することとなった。それをわざわざ買い戻さねばならんとは皮肉なことよ。この湖沼地帯は本来、我が帝国の領土だったというのにな」
喋っているのは、現在城の名目上の持ち主となっているシューレーダー・フォン・ベルリンという男だ。彼はアイネンザッハの一貴族という触れ込みになっているが、実際はグリュンブルク公配下の武官である。公爵から私兵『赤い十字架』の一部指揮権を委ねられ、この地で諜報活動を行っている。
「それが戦の常でございましょう。領土を取り合った結果、地図は粛々(しゅくしゅく)と書き換えられる。そこに暮らす者たちの都合など、時の為政者は考えて下さらぬようで」
「それは不敬な物言いではないかな、男爵?」
「失礼を申し上げました。出来ますれば閣下、私のことはどうぞイカロスとお呼び捨て下さいますよう」
さして反省していない声で答え、形ばかり頭を下げて見せた男は、意外というか予想通りの展開というか。あの銀色の髪の美男子だった。
柔和な顔にふてぶてしいとも取れる笑みを浮かべ、ニヒリスティックを気取っている。
「ふん。ではイカロス卿。朝も早くからどんな用事だ。なんぞ報告があって来たのではないのかな。吉報以外は聞きたくないが」
朝食の途中に呼び出され、衣装も平服というよりはもろに部屋着姿で応接間にやって来たベルリン閣下は、いたく不機嫌なご様子だ。
「ならば閣下にはお喜び頂けると存じます。獲物が網に掛かりましたので、そのご報告に参りました」
「なに、それは真か」
「はい(ヤー)」
「して、どこに」
「まもなく到着するでしょう。いま馬車でこちらへ護送させておりますゆえ」
「二人揃ってか。それとも」
「連れの護衛は討ち捨てました。首が必要ならば再度行って取って参りますが、いささか時間がかかるやもしれません」
「なぜだ」
「ウラニア渓谷まで追いつめて仕留めたところ、断崖から落ちましたので。死体を捜すのに多少手間取るかと……」
「ならばよい。死体はそこで誰にも知られず朽ち果てよう。むしろ都合が良い。で、例のものは一緒に見つかったのであろうな」
「当人が、肌身離さず持ち続けておりました。私は単騎で引き返し、先に報告に上がりました。ご希望の物は城に着き次第、御前に献上つかまつります」
「おお、おお、よくやった! ではそれまで城でゆるりと休むが良いぞ! これはまさしく吉報だ。公爵閣下も知らせを聞けば、さぞお喜びになるであろう」
「恐縮に存じます。……ところで閣下、報告はもう一つございます」
イカロスという名の銀髪の男は、心の底を覗かせぬ貼り付けたような笑み口元に浮かべた。
ベルリンはそれを見て、いやに薄気味悪い感覚を覚える。
「なんだ。今度は悪い知らせか」
「ただの通りすがりであれば良いのですが。昨夜モンロー屋敷の跡地をうろつく妙な三人組を見かけました。リタリー発行の身分証を持つ外国人でした。怪しいというほどの者ではないかもしれませぬが、用心するに越したことはないかと……」
豪奢なゴブラン織の生地を張った椅子にもたれ、ベルリンは落ち着かなげに、そわそわと足を組み直す。片やイカロスは立ったまま、来客に椅子も勧めぬベルリンの無礼さを気に留めるでもなく、微笑の仮面を被ったままだ。
「何者かな。一応見張りをつけておくべきかの」
「そう仰ると思いましたので、連中が泊まっているホテルに手の者を遣わしました。怪しい行動があれば、報告が参りましょう」
「うむ。卿の働きぶりはなかなか立派である。公爵によくお伝えしておこう。昨夜からの捕り物では休む間もなかろう。朝食はまだではないかな? 客間に運ばせるからゆっくりとしていきなさい。下がってよいぞ」
「かしこまりました」
イカロスは深々と礼をした。長い豪奢な銀髪が垂れ、口元に浮かぶどこか寒々しい虚無的な笑みを隠した。
ラキシス一行は短時間ながらもしっかりと眠り、朝食も無論もりもり摂って列車に乗ると、目的地であるローバンシュタイン城に近いエルベルという駅で降りた。ここから湖沼地帯までは馬車を使っての移動となる。
「新しい地図がいるよね。あとなんか必要なものあるかなあ。あんまり田舎だと商店が無かったりするし、この辺で買い物済ませといた方がいいかも」
「そうですね。……ところでラキさん、気づいてるとは思うんですけど」
小声で問いかけるレイジェルの方を見ず、ラキシスは駅前通りの商店を覗くふりをする。
みやげ物屋の表に並ぶワゴンには、よく磨かれた銀の食器が並べられていた。その一つを手にとってさりげなく日にかざす。
すると銀の皿には、ラキシスたちの後方の風景がかなり鮮明に映し出された。通りを練り歩く人だかりのなかに、怪しい黒眼鏡をかけた男が一人。こちらの様子を伺っている。
「うん。変なのが尾けて来てるよね、朝からずっと。ダヤン、あんた昨夜は大丈夫だったんでしょうね?」
ラキシスは銀器を戻して、またのんびりと歩き出す。
「尾行か? されてたけど巻いたぜ勿論。ホテルの玄関前の路地にも張ってる奴がいたからさ、見っからないようにわざわざ裏手に回って木ぃ登って部屋に入ったわけよ。おれは自慢じゃないけど、尾行を巻く技術と逃げ足だけには一家言あるんだぜ」
「そういうことはもっと早く言いなさいよバカ! なに考えてんの」
「だってお前、ちょっとぐらいハラハラドキドキしたいって言ってたじゃん? せっかくだから、お前らにもこのスリルでサスペンスな感じを味わわせてやろうかと思ってよー。おれはあんまりヤだけどな、怖い目にあうの」
へらへら笑うダヤンの頭を、後ろからレイジェルが平手で叩く。ラキシスは自分の額に人差し指をあてて絶句する。
ダメだこいつ。天才だとは思うんだけど、こういうところがものすごくバカ。
「今度からそういうことは先に言っといて。対処の立てようがあるんだから」
「あっそ? わかった。じゃあ次からはそうするな」
ほんとに分かってんのかしらこいつ。はあ、とため息をつくラキシスに、レイジェルがさりげなく囁く。
「で、ひとまずどうしましょうか、あの黒眼鏡のオッサンの処遇は」
「とりあえず、別れてみよっか」
「了解です」
言うと三人は、あらかじめ予定していたかのような動きで、一斉に別々の方向に散った。
ラキシスは右の路地へ、ダヤンは左の横道へ、レイジェルは大胆にも来た道を引き返し、黒眼鏡の男の横を通り過ぎて駅の方へ戻る。手前に洒落た店構えのカフェがあったので、そこに入ってみた。
尾行の男はいっぺんに三人が別れたので、誰を優先して追えばいいのか迷ってしまう。三人組を見張れとは言われたが、具体的に『誰々を追え』と対象を指定されていたわけではない。こんな事態は想定外だった。
迷っているうちに全員見失ってしまいそうだ。黒眼鏡は、ならば一番分かりやすい奴をと、レイジェルが入った近くの店に目標を定めた。
しかしレイジェルはカフェの中をまっすぐ通り抜けて裏口から出ると、逆に物陰に潜んで黒眼鏡の動静を見張りはじめた。
間抜けな奴め、いつまでもそこで待ちぼうけを食ってないで、行動を起こしやがれ。
レイジエルは火をつけずに煙草を咥えて、にやりと笑った。
知らない街を訪れるとき、ラキシスたちは必ず近辺の地図を事前に精査し、あらかじめ集合場所を決めておく。何かあって離れ離れになった時にも、お互い見つけやすいように。
今回もまた、エルベルの街のことは前もって地図で調べておいた。そうして集合場所は街の南通りにある『マルクルの酒屋』というパブにしようと決めていた。
一番遅れて酒屋に到着したのはレイジェルだった。日傘をいくつも張ったテラス席には、昼間っからいい具合に酔っ払っている赤ら顔のオジサン達がたむろしている。店の前ではぶっといウインナーを炭火で焼きながら売っていて、香ばしい煙が立ち上る。
二階建ての狭い店に入って行くと、一階のカウンター席にオレンジ色の髪を見つけた。すっきりと伸ばした背中に、ゆるく波打つ魅惑的な髪。レイジェルが憧れてやまない色。
「遅くなりました」
横に座ると、ラキシスはつんと顎を上げて言った。
「あたしコーヒーしか飲んでないからね」
「ばっかだなー、レイジェルが来ないうちに一杯ぐらい飲んどけばよかったのに」
ラキシスの向こうの席では、ダヤンがすでに何杯目か空にしたビールのジョッキを振っていた。手前に置かれた皿には、長めのロールパンにキャベツとウインナーを挟んだものが乗っている。店のおすすめだか知らないが、ちゃっかりお先に昼飯という風情だった。
レイジェルはダヤンなど目にも入れずに、ラキシスの方だけを見て微笑んだ。
「ありがとうございます。俺のいいつけを、ちゃんと守っててくれたんですね」
「べつに。そういう気分にならなかっただけ。で、あいつどうなった?」
「女性を待たせるのは気が咎めますが、あんなむさいオッサン相手なら話は別です。俺が成り行きで入ったカフェの前で待ち伏せしてましたよ。本人あれで隠れてるつもりらしいけど、実にバレバレな潜み方で。嫌ですねえ、あんな分かりやすいストーカー」
「何者かしら。とっ捕まえて正体吐かせた方が良かったかな」
「うん、俺もそのへんのこと考えて、逆に奴をしばらく見張ってみたんです。いつまでも俺が出てこないんで、奴さん焦れたらしくて。店ん中に入ってって俺がもういないことに気づくと、慌てて駅に引き返して行きました。そこで何か書信を書いて、郵便配達の一番早いのを頼んでましたよ、配達人が馬で直接、即行届けるって奴」
「どこに宛てた書簡?」
「調べましたよ、勿論ね。配達先はローバンシュタイン城気付、I卿宛」
「どんぴしゃじゃねーか」
ダヤンがドン、と空のジョッキをテーブルに置く。するとパブのマスターがお代わりか? と聞いてくるので、ダヤンは「うん」と素直に新しいのを頼んだ。
「謎のミスターIって野郎が、何者かまでは分かりませんが、繋がりは見えてきましたよ。裏で糸を引く首謀者はローバンシュタイン城にいる。この線はこれで決まりでしょ」
「そうなるわね。面白くなってきたじゃない。ひょっとするとあたし達にも追っ手が掛かるかもしれないけど、その時はその時だわ」
「じゃ、そろそろ行きますか」
「うん。あのね、レイジ君待ってる間に馬車買ったから。屋根が幌だけの安いやつ。辻馬車とか乗り合い馬車って融通きかないじゃない。いらなくなったら帰りにまた売っちゃえばいいと思って。今は店に預けてる。すぐそこよ」
「そうですか。じゃあダヤン、じゃんけんしようぜ」
「へっ、なんで?」
「負けた奴が馭者」
「ええっ、おれじゃんけん弱いのにっ」
そして結局、ダヤンが負けた。
三人は、ダヤンが食べて美味かったと言う『フランクフルター』というウインナー入りのパンを買って紙袋に詰めてもらい、店を後にした。