第五章 赤い十字架
「とりあえず分かったことがあるわ。この放火事件の裏にはアイネンザッハが絡んでる。それも帝国の重鎮が」
「えっ、どうしてですか」
ラキシスは帰り道、ダヤンにあることを頼んで別れ、二人は先に宿の部屋へ引き返した。
レイジェルはラキシスのために紅茶を淹れ、ラキシス好みの適量のクリームを落としてカップを渡す。
「あの臙脂色のマントの男、金地に赤の十字紋を胸につけてた。赤い十字架はグリュンブルク家の裏紋章よ。一般的には知られてないけど」
「赤の十字架っていえば、アイネンザッハの暗殺部隊が密かな旗印にしてるとか……」
「そうよ。そしてグリュンブルク家はアイネンザッハの現皇室、シュワルツバルト王朝の親族。裏紋章とはいえ、知ってる者が見ればバレバレの身元明かして。ノイエンディアの警察とつるんでるなんてただ事じゃないわ。単なる放火犯が相手じゃない。放火強盗事件なら、州警だけで捜査するはず。いくら逃亡を食い止めるためだとしても、王立警察まで動きやしないわよ。裏に大物がついてないと」
「アイネンザッハが絡んでくる目的はなんでしょう。それにあのキザったらしい銀髪男は」
「あは、けっこーイイ男だったよね。タイプじゃないけど」
「ラキさん、ああいう男はいけません。不誠実さが丸見えですよ。男はマジメで一途な奴が一番なんです。あれは遊び人に決まってます」
「あんたがそれ言うと笑えるわー」
「ああっ、俺は真剣なのにっ」
「とにかく何かがおかしいわ。どうしてそこまでして犯人を執拗に追うの。それに指輪よ。火災でぶっ壊れたとは思いたくないし、もし賊の二人が持ってるとしたら、警察に捕まる前にあたしたちが見つけないと」
「情報が足らないですよ。サルバローデさまは、他に何もおっしゃってなかったんですか」
必要ならば王都ミネルヴァに連絡を入れて、太后の指示を仰いでは。レイジェルは言葉の端に、暗にそのニュアンスを込めた。
「なんにも。役に立ちそうなことは全然。だからって引き返すわけにいかないわ。これからどうしたらいいでしょう、なんて太后様(あの方)に聞くのもまっぴら。とにかく、鍵は放火犯とアイネンザッハが握ってるのよ」
火災が起こったのは三日前の夜だという。
それはラキシスが王太后から指令を受けた日のまさに前夜だ。ローデラントがこの地域に放っている密偵が事件の報告をしたとしても、太后の耳に入るまでに二日はかかってしまうだろう。サルバローデも今頃事態の変化を聞いて、驚いているかもしれない。
レイジェルは薪ストーブの様子を見、火掻き棒で薪をつついてから、ストーブの上にかけたやかんに水を足す。ストーブの中では、燃える炎が極寒の夜を彩るオーロラのように、ゆったりと踊っていた。
「指輪の元の持ち主はアイネンザッハの元皇女。シュザンナ妃は、どうして亡くなったんでしょうね。本当に事故だったのか。その後指輪は、スムーズにサルバローデさまの手に渡ったんでしょうか」
だとしたら今なぜ、彼女の手元を離れているのか。指輪が無くなったのはそもそもいつの話なのか。
「こうなるとその辺の話も怪しく思えてくるわ。もう、あのオバハン、ヒント出しなすぎよ。わけがわかんないじゃない」
「オバハンだなんて言っちゃいけませんてば。それにラキさん、ヒントを出されすぎてもどうせ文句言うんじゃないですか? それじゃつまんない、面白くなーい、とか言って」
ラキシスはクス、と笑った。
「それはそうかも。スリルとサスペンスには、いい女と謎がつきものだもんね」
「それに美女とイケ面のラブロマンスがあれば、最高でしょ」
「それは余計。むしろ蛇足ってやつ?」
「ああ、ラキさんってば本当にストイック」
「あんたはもう少し真面目になんなさいよ」
呆れて半眼になるラキシスにレイジェルは、俺はこの上なく真面目な紳士ですけど何か? と真顔で堂々と言ってのけた。
その夜は結局眠らず、ラキシスとレイジェルは明かりをつけたまま服も着替えずに、暖かいストーブの傍で今後どうするかについての策を練った。
変化があったのは夜明け前。
コツン、と窓を叩く音がした。
レイジェルがよろい戸を開け、角部屋の脇の窓を開く。
すると、近くの木に登って枝の上から小石を投げたダヤンが手を振り、窓辺の狭いバルコニーを跨いでよいしょ、と中に入ってきた。
「なんでドアから入ってこないの」
ラキシスはちょっと呆れた。
「だって玄関閉まってたし。泥棒らしく気分出そうかと思ってさ」
「アホか。まあいいわ。お疲れ、寒かったでしょ。コーヒーでも飲む?」
ラキシスは勢いよく頷くダヤンの後ろで窓を閉める。夜明けが近い時間とはいえ、まだ外は真っ暗で、出歩く人は誰もいない。
「なんか収穫あった?」
さむさむ、と手をこすりながらストーブに寄っていくダヤンに、ラキシスが訊く。
レイジェルがストーブにかけておいたポットからコーヒーを淹れて差し出すと、ダヤンは椅子に座って嬉しそうに一口啜った。
「あちち、おいこれ煮詰まってるよー、まあいいけど。んっとな、とりあえず州警察の本部行って調べてみた。モンロー屋敷の事件、どうもアイネンザッハが絡んでるくさいぜ」
「ほらね、やっぱり」と頷くラキシス。
「やっぱりって何よ。まあいいや。捜査本部の偉い手の中に、アイネンザッハの息がかかってる奴が何人かいてな、放火犯の情報は、そいつら経由で流れてきた、つーか、でっち上げられたもんらしい。この事件に目撃者なんか最初からいねえ。モンロー屋敷を襲ったのはおれの予想通り、殺しのプロだな。リア・デ・モンローは、何かやばいことに首を突っ込むかなんかして、帝国の諜報機関にマークされてたんだろう。屋敷跡で見つかった遺体の数は、モンロー家が届けを出してた家人よりも人数が少ないそうだ。おそらく何者かが襲って来た時、家人も戦うか抵抗するかしたんだろうな。ひょっとすると、逃げきれた奴がいたのかもしれない。襲った連中は証拠隠滅のために屋敷を爆破して、トンズラこいた。おそらくいま警察に追われてるのは、放火犯じゃなくてモンロー屋敷の生き残りなんじゃないだろうか。そいつらから真相がバレると困るんだろう、だから執拗に追跡してる」
「警察とモンロー屋敷を襲ったほんとの実行犯は、グルってこと? 目的は何?」
ラキシスの問いに、ダヤンは肩をすくめる。
「さてな、どこまで繋がっているのやら。もちろん下っ端の警吏なんかは何も知らされてねーだろうし。上層部の捜査実権を握ってる奴らが、実行犯かそれに近い連中とつるんで、裏でこせこせ動いてるっぽい」
「家人の数は、何人だったの」
ダヤンは手帳やメモなど一切見ずに、頭の中に書きつけてきた情報をよどみなく喋る。
「主のリアは独身だった。身の回りを世話する女が三人いて、料理人が一人、雑用係の小者が一人、護衛が二人。みんな住み込み奉公だった。ちなみに現場で発見された遺体の数は六人分。男か女かは未だに判別つかねーとさ」
「八引く六は二。逃げたのは二人の男……」
「計算はあいますね」
レイジェルが煙草を吸いたそうにしているのを見て、ラキシスは少し窓を開けてやった。
「どうぞ、お吸いになって。一晩がまんして限界なんでしょ」
「いやもうほんと、すみません」
レイジェルは嬉しそうにポケットから紙巻の箱を取り出し、ラキシスには煙が届かないよう、窓辺に立って火をつけた。
「でもダヤンすごい。さすがね、これだけの情報一晩で集めて来るなんて」
州警本部に行ってきた、というのはつまり忍び込んで来たということだ。一般人が閲覧しようにも出来ない書類を盗み見て情報をさぐり、もしかすると警察署の署長や幹部の家にも忍び込んで来たかもしれない。口の軽そうな警吏なんかを酒場で引っ掛け、酒をおごって世間話にまぜ、さりげなく詳しい話を聞きだしたりもしたのだろう。ダヤンの髪には、居酒屋のきつい醸造酒と煙草のにおいが少し残っているようだった。
ラキシスはいつも密かに、今代オランジュ一門の中でオーランドの形質と才覚を一番色濃く受け継いでいるのは、ダヤンではないかと考えていた。ほんとなら、私よりもずっと当主にふさわしいのかも。そんなこと、絶対誰にも言えないけれど。
ダヤンはそんなラキシスの思いを知らず、褒められて舞い上がった。
「まあね、まあね。おれってばなにせ天才だし? それにまだ話の続きはあるんだぜ諸君。まあとくと聞けよ」
「なんだお前、大事な話は早く言え、核心から話せ」
レイジェルが煙草を吹かしながら睨む。
「そうせかすなって。あのな、こっからちょっと離れた州の外れに湖沼地帯があって、そこにはローバンシュタイン城って古城がある。昔の空城なんだが、二年ぐらい前にアイネンザッハのとある貴族が買って別荘にしたんだと。そのとある貴族ってのは、シューレーダー・フォン・ベルリンっていう奴なんだが、調べてみたら城はグリュンブルク公爵家が金を出して買ったものらしい。そんでその城を州警の偉い手連中が、ここ最近こっそり何度も訪問してるって話だ。怪しいだろ? 調べるついでにその城を二年前改装した建築会社に行って、工事に使った見取り図の写しを取ってきた。おれってやっぱりすごくねえ?」
ダヤンはにやりと口端を上げて笑う。
「そうね、あんたは天才だわ」
ラキシスはお世辞ではなく心の底からそう言って、ダヤンの肩を思いっきり叩いた。
「ラキさん、まさかそのお城とやらに潜り込むつもりですか」
レイジェルが今朝一本目の煙草をぷかぷか、忙しなく吸いながら聞く。
「どうしよっかなー。潜り込むまでいかなくても、近辺で動向を探る価値はあるかもしれない。そのベルリンとやらが逃げた二人組に追っ手をかけてる張本人なら、おのずと二人組が今どこにいるか、情報が手に入るかも。闇雲に探すよりもその方が確実じゃなくて? そいつらが二人組を捕まえる前に、こっちが横から掻っ攫う機会があるかもしれないし」
「問題は、その二人組がどの程度の重要人物かにかかりますね。追っ手の目的が口封じなら、見つけた途端に二人を殺す可能性もある」
ラキシスもその点は懸念していたが、今ある情報を元に考え出した結果、彼らが殺される可能性は低いと判断することにした。
「大丈夫よ。それにしては追跡の仕方が尋常じゃないから。殺す気ならもっと小規模で追い込みかけて、人に知られないようにやると思う」
なるほど、とレイジェルは納得する。
「奴らはたぶん二人とも、あるいは片方だけかもしれないけど、とにかく生け捕りにしたいのよ。最初から皆殺しにするつもりなら、もっと確実な方法を取ったでしょう。あれだけの爆破技術を持つ連中なのよ。そうできなかったのは、少なくとも誰か生け捕りにしたい人間があの屋敷内にいたからよ」
「確かにな。皆殺しにするならわざわざ姿を見せず、家人に気づかれないうちにドカーンと一発、爆破すれば終わりだろうし」
ダヤンはそう言い、残りのコーヒーを一気に飲み干してカップを置く。
「でしょ。これはあくまで推測なんだけど、モンロー屋敷が狙われたのは『王妃の指輪』が絡んでると考えるのが自然だと思う。狙いは指輪と、誰かは分からないけど重要人物の捕獲。こうなると、指輪は逃げてる二人組が持ってると考えるのが、やはり妥当ね」
レイジェルとダヤンは黙って頷く。
「となると、さっきの話の繰り返しになるけれど、私たちのやるべきことはベルリン一派の動向を近辺で探ることだわ。むしろ連中が二人組を見つけて捕まえてくれた方が早道かも。正直なトコ、あたしの仕事は指輪さえ取り返したらそれで済む話だもん」
「じゃあ、さっそく出かけますか」
「チェックアウトまでまだ時間があるよね。三時間ぐらい寝て、それから朝ご飯食べて出かけよう。目指すはローバンシュタイン城。どのくらいでいける場所なの?」
「列車で二時間、あとは馬車で一時間ってところだな」
ダヤンは少し眠れると聞いて嬉しそうだ。さすがに徹夜でそのまま移動と言われると、ぐったりしてしまう。列車で寝てもいいが、余計に疲れそうだし。
「だったら今日のお昼過ぎには近くまで行けるじゃない。湖沼地帯かあ。ちょっと小さい、可愛い感じの田舎宿とか、プチホテルとかないかしら」
「いいですね、新婚旅行にぴったりなムードですねえ」
「バカね、観光に行くんじゃないのよ」
「ラキさんが先に言ったんですよ、可愛い宿に泊まりたいって」
文句をいいつつ、やっぱりうきうきと観光気分のラキシスに苦笑するレイジェルの横で、ダヤンは半分目をつぶって、ふああぁ、と大きなあくびをした。