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麗しの泥棒貴族  作者: えきすとら
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第二章 泥棒貴族、行動開始


 当初『王妃の指輪』はサルバローデの物ではなく、ローデラントの八代目国王アベル・クロード二世の正妃シュザンナ・バルトロワがその正式なる所有者だった。シュザンナ妃はアイネンザッハ帝国から輿入れして来た、由緒正しき皇女殿下である。

「現王太后サルバローデ様は当時、第二妃の地位におられた……ってことは、みんな勿論、知ってるわよね」


 ノイエンディアに向かう列車の中。特別車両の広々としたコンパートメント席に座って語るのはラキシスだ。今日のラキシスは髪を結い上げず大半を背中に垂らし、邪魔にならないよう一部をまとめてリボンで結び、旅行者用の動きやすい、しかしデザインは可愛いドレスを着ている。

「いいなあ、うちの王家はキリスト教徒じゃないから、一夫多妻でもオッケーなんだよねえ。うらやましいなあ」

 向かいの席でしみじみと目を細めて言うのはレイジェル。俺にも金があったらなあ何人でも養うのに、と言いつつ、心底羨ましそうな顔をしている。


 その隣にはもう一人、彼と同年代の男が座っていた。赤茶色のクセの強い髪を少し伸ばして、後ろでひとつに結んでいる。目の色は焦げ茶色。白目がちの大きな目に、ちょっと低めの丸い鼻と、笑ってなくても口角が上を向いた厚めの唇。美男ではないが、見苦しくもない。どことなく木彫りのアヒルの人形みたいな、愛嬌のある顔立ちをしている。


「いや、おれはリチカ一人でもう手いっぱいだから。別に羨ましくもなんともないけど?」

「あっ、てめー、自分はかわゆい婚約者がいると思ってえらそーに余裕こいて。いい気になってんじゃねえぞコラ」

「だっておれはリチカ一筋だもん。誰かさんみたいな尻軽男じゃないし。やっぱアレだよね? 誠実さって、男の魅力の一つと違うか、ラキ?」

 ラキシスは黙って頷く。レイジェルは隣の男を刺しそうな勢いで睨む。

「うっわマジむかつくー。ラキさん、こんな男の言うこと信じちゃダメですよ。こいつだってねえ、こんな顔してるくせにやることはやってるし、さんざん遊んでるんだから」

 ああうるさい。ラキシスは人差し指でこめかみを軽く押さえた。

「ねーちょっと、マジメに人の話を聞いてくれないかなー? でないとそこの窓から二人まとめて突き落とすよ」

「ハイ。ごめんなさい」

 揃って良いお返事が返って来る。ラキシスはふう、とため息をついた。


 赤茶色の髪の青年は名をダヤン・リジェット・オランジュといい、やはりラキシスの遠縁にあたる。オランジュ一族は諸事情あって、親戚が多い。が、本家の本業を知っている者は身内の中でもごくわずかだ。

「だからね、えっと、どこまで話したんだっけ……つまり、サルバローデさまが過去には第二妃だったって話よね、前の王様の」

「でも元々はあの方が正式な王妃になるはずだったんでしょ? サルバローデ様は何度も王妃を輩出してきたリグドレン公家の姫だもの。あ、煙草(たばこ)吸ってもいいかな?」

「もう咥えてるじゃない」

 ラキシスに半眼で言われ、レイジェルはえへへ、と笑いながら煙草の先に火をつけた。

「ちょっとダヤン、窓少し開けて。ありがと。そうよ、レイジ君の言うとおり。サルバローデ様はもともと先王陛下の婚約者で、正妃になられるはずだった。アイネンザッハ帝国が横槍を入れてくるまではね」

 ローデラントは周囲を大国に囲まれ、過去に何度も併合(へいごう)の危機に合いながら巧みに独立を守ってきた歴史がある。それというのも、ローデラントは国土こそ『世界一の小国』と呼ばれるほど小さいものの、地下資源が豊富な上、土壌も肥沃(ひよく)で耕作に適していた。豊かな農地と資源目当てに、他国から軍事介入されることが後を絶たなかったのだ。


 地下資源とは宝石と鋼鉄と貴金属、それに石炭だ。海には面していないが幸いにも塩山を有していた。そのため有事に国交を断絶されても自国の資源で民を充分食べさせることが出来るという、外交的な強みがあった。それでどうにか戦時で交易不可能な時にも、鎖国状態で耐え抜いてこられたわけだ。

 独立国として今後も生き残るためにはどうすればいいか。ローデラントの歴代君主と側近たちは考えて、軍事力ではとうてい敵わぬ大国と同等の発言権を得るため、商業と経済面の力を伸ばしていくことにした。

 宝石を売れば外貨が稼げるし、鉄鋼工場を作らせて欲しいという外国資本も多かった。それだけでなく、諸外国の流通経路となる地理的な有利さを利用して貿易の拠点を作り、外国資本家に対する租税を安くして優遇した。そうすることで他国の資産が多く入り、国庫は徐々に、確実に潤っていった。


 いわゆる租税回避地(タックス・ヘイブン)というシステムは、資金洗浄(マネーロンダリング)の温床となる後ろ暗い面が往々にしてあるのだが、この辺りの『裏』の仕事を考え出して初代の王に入れ知恵、もとい進言したのは、おそらくオーランドの功績だろう。

 そのおかげでというのも変だが、ローデラントはカルバロッサ大陸で最も国民に対する租税が安く、税金の安さに比べて遥かに社会保障が充実している国家となった。

 世界で最も小さな国だが、世界で最も裕福な国の一つなのだ。軍事大国を名乗り世界の覇者を目指す皇室や王家が、家計の実情を見れば火の車、という話が結構ある今の世の中、なかなか痛快なことではある。


 とはいえ、大国を馬鹿にしてもいられない。アイネンザッハなどは武力を誇示してあからさまにローデラントの庇護国を気取ろうとするし、反対側の国境を接するシャーリーン国がローデラントを併合せんと、軍を進めて侵犯して来たことは一度や二度ではない。そのたびにローデラントは時にはアイネンザッハにすり寄ってその威光を借り、またある時はヴァネッサ国や他の近隣諸国と連合軍を組んで敵の侵攻を阻んできた。

 一方に頼りすぎれば今度はそちらから(あなど)られる。ローデラントはシャーリーン国やその属国との関係も大事にし、つかず離れずの距離を保つよう巧みな外交努力を重ねた。


 そうして大国に依存しすぎぬよう、もしもローデラントが滅亡すればおのずと大陸の金融事情に支障が出るよう、経済面での影響力を少しずつ浸透させていったのだ。

 豊かで裕福なローデラントを自国の領土に組み込まんと、虎視眈々と狙う国は今も多い。だが逆に、ローデラントが大国の狭間にあって直接対決を阻んでいるので、結果的に戦火が大きくなりにくいという利点もあった。

 下手に攻めたらその後の始末が悪い。そのように各国が戦略を見直した結果、近年ではどうにかどこの国も平和的外交関係を保っている。……あくまでも表面的には、だが。


「アイネンザッハは結局のところ、武力とは別の方法でゆるやかにローデラントを吸収する策に出たわけよ」

 ラキシスはそこで息をついた。

「つまり政略結婚ってやつだなーこりゃ」

 ダヤンが足を組み直しながら答える。

「そう。身内を嫁に出してその子供に王位を継がせる。そうすれば自然と血が混ざり合って、相手国に対する発言力も増すってもんよ。確かにその策は当たったわ。実際いまの王様はシュザンナ・バルトロワ妃の生んだ息子で、現アイネンザッハ皇帝の孫よ。ただ読みが甘かったのは、シュザンナ妃が早くに亡くなってしまったことね」


 その後に王妃の地位を継いだサルバローデは、王太子アストルードをわが子のように慈しみ、王子も継母(ままはは)によく懐いた。そのせいかアストルードはアイネンザッハ皇室の血縁という意識が希薄で、アイネンザッハ皇帝と、皇帝がローデラントに送り込んだ帝国出身の貴族にしてみれば、幼い国王を傀儡(かいらい)として操ろうとする思惑が頓挫(とんざ)してしまった格好だ。


 実母のシュザンナは我侭(わがまま)放題(ほうだい)に育った人物にありがちな自己中心的な人で、我が子との接し方がよく分からなかったらしい。養育は全て人任せにし、自身の享楽のことにしか興味が無かった。王との夫婦仲も円満とは言えず、王妃としての公務を(おろそ)かにし、帝国から連れてきた気に入りの側近しか寄せ付けずに宮廷を離れ、いつしか離宮に引きこもってしまった。

「そして帝国へお里帰りしていた時に馬車の事故で亡くなった、と。一時(いっとき)は暗殺も噂されたらしいですね」

 ぷかりと窓の外に向かって煙を吐き出し、呟いたのはレイジェルだ。紫煙は外に吸いだされ、瞬く間に消えていく。


「亡くなったのはアイゼンナッハの領内だもの。ローデラントの策謀みたいに言われるのはお門違いってものよ」

「肖像画を見たことあるけど、なかなか綺麗な人でしたよ。心冷たき影ある美女、そんな感じで」

「あんたは女なら誰でもいいのか」

 ラキシスは呆れた

「俺ってほら、博愛主義者じゃないですか」

 レイジェルは照れた。そこは照れるところじゃないだろうとラキシスは思う。ていうか、博愛の使い方からして意味間違ってるし。

「そんなんだから、お前はいつも女と寝ても長続き出来ないんだろーよ」

 ダヤンがさらっと本当のことを言った。

「えらそーに言われたくねえ! 大体がアレだ、お前なんかになぁ」

 レイジェルがいきり立ったところで、ラキシスは窓の外を見ながらぼそっと言った。

「うるさいな。静かにしないと突き落とすわよ」

列車はちょうどリンドゥ山間にかかるアルジャン・レッテ橋を渡るところだ。風光明媚、秋から冬に向けて(いろどり)を変えていく樹木の葉。大地を削りゆく滝と清流のまばゆい光。渓谷の深さはおよそ百五十メートル。

「やです、ごめんなさい」

 こんなところから落ちたらマジ即死だ。


「でさあ、例の指輪ってもともとシュザンナ妃が持ってたんじゃねーの。生きてる間は」

ダヤンが荷物の中から紙袋を取り出しながら言う。袋をがさがさ言わせて引っ張り出しのは、チョコレート・ビスケットの箱だ。

「えっ、もうおやつにしちゃうの」

 ラキシスが目を丸くして聞くが、ダヤンはさっさとビスケットの包みを開けてしまう。

「だって小腹がすいたんだもーん」

「もーちょっと我慢してさ、駅弁食べよーよ、駅弁」

 するとレイジェルも賛同する。

「あっそれいい。ダルティン駅の(かも)の赤ワイン煮の弁当がすげー美味いんですって。にんにくと香味野菜を一緒に煮込んで、黒コショウがピリッと効いてるんだって。俺それ食べたい」

「どうせならローデラントの名物じゃなくて、違うとこの食べようよ。せっかくリタリーも通るんだし」

「それじゃ晩御飯になっちゃいますよ。夜は夜で別の美味いもんなんか食いましょ。地元の名物を」

「あそっか、時間的に無理があるかー」

「ラキさん時々ボケるよね、そういうところが可愛いですよ。天然で」

「天然って言うな」

「でさぁ、話の続きしねーのかな、みんな」

 ダヤンがぽりぽりビスケットを食べながら話題の修正をはかる。

「そうね、仕事の話しなきゃね。あたしにもビスケット一枚ちょうだい」

「ほらよ」

「ありがと。いいよねー列車の旅って。やっぱりおやつは必需品だしねぇ」

「お茶いれますよ。おいダヤン、ポット取りやがれ」

「お前らまじめに仕事する気あるんですかっての、本当に」

 チョコビスケットを口いっぱいに頬張りながらそう言っても、ちっとも発言に重みがないダヤンなのだった。



 今朝出かける前にレイジェルが沸かして、保温器にいれておいたお茶だが、まだ温かく、香りも良かった。

「ダヤンが言うように指輪はもともとシュザンナ妃が所有していたはずなのよ。で、それをサルバローデ様が立后時に引き継いだと」

 話を聞きつつ音を立てずにお茶を飲んで、ふっ、とレイジェルは息をつく。

「それがいつ無くなったんでしょう」

「知らない。だって教えてくれないし。()られたのかどうかも微妙。誰が持ち出したとかはこの際どうでもいいんだって。いま指輪を所有してる人物は分かってるから、交渉して譲り受けるか買い取るか、それでダメなら最終手段を使ってもいいって」

「つまり、パチって来いやと?」

 ダヤンがにやにやと目を細めて笑う。

「ま、そーゆーことよ。あたし的には交渉なんてまどろっこしいから、最初から最終手段を行使したいとこなんだけど」

「これがラキさんの『公式な』デビュー戦ですもんね。いよっ、六代目! (うるわ)しの処女泥棒貴族」

「その言い方はよしてちょうだい」

「別に深い意味じゃなくて、処女航海とか処女戦とかって、ふつーに使う慣用句でしょ」

「あんたが言うと何かがすごくいやらしいの」 

 ダヤンがさっと手を上げた。


「はーい、質問です」

「何かしらダヤン君」

「早い話が、現在の指輪の所有者がその指輪をパチった張本人ではないかと推察しますが、いかがでしょう」

「それがそうでもないんですって。あたしもそう思ったから聞いてみたんだけどね。いま指輪を保管している人物はむしろ、指輪の価値や由来も知らずに偶然手に入れただけみたいなの。だからまぁ、話し合いかお金で解決できれば一番いいみたい、太后陛下(おばさま)的には」

「でもそれじゃ、ラキさんが楽しくないですよねえ」

 今度はレイジェルがにやにやと笑いながら言う。

ラキシスはつんと顎を上げてそれに答える。

「まあね。わが一族の誇りであり、技術極めたる(つと)めですからねぇ、盗みっていうのは。でもま、無理なことやって話こじらせてもなんだし……。とりあえず様子見てから決めるわ。どういう手で行くかは」

「だけど、なんで今になってそんなに指輪を取り戻したがるんだ? やるならもっと早く、それこそダミーの指輪を作る前に取り返せなかったのかな?」

 ダヤンはそう言いながら、空になったビスケットの箱を潰してゴミ箱に突っ込んだ。

「知らないわ。そのへん全然教えてくれないんだもんあのオバハン。まあ、裏ではずっと指輪の行方を追いながら、最近になるまで所有者を特定できなかっただけかもしれないし。本物の指輪が必要なのはね、国王陛下のご成婚が決まったんですって。正式な発表は来月だけど、来年の夏にはお妃さまを(めと)られるそうよ」

「へえっ、そりゃおめでたい」

 レイジェルは軽く口笛を吹いた。

「そのときに(ダミー)の指輪をあげるのは可哀相っていうのが理由。お相手はアイネンザッハ皇室に(つら)なる家柄の大公女さまですってよ」

「げっ、またそっちからもらうのかい」と、ダヤンは溜息をつく。

「ちなみにお年は八歳だとか」

「……幼な妻もいいとこですね……」

 とレイジェル。にやけ笑いと苦笑の中間という顔だ。


「うちの王様もたいがい若いし。六つ違いだけどまあそうおかしくもないんじゃないの? とはいえ、実質的には婚礼を挙げるだけで、本当の意味でご夫婦になられるのはもっと後なんじゃないかしらね? 十年後とか」

「六年後でもいーんじゃないですか別に」

「あんたに聞いてないし、あんたがお嫁さんもらうわけでもないから、いいも悪いも関係ないでしょ」

「あ、そっかー」

「お前的には八歳でも別にオッケーなんじゃねーの」

「そこまで俺は変態じゃないぞ。でもかわいーんだろーなー。八歳のオヨメサンかー。何もしないけど、うんと大事にするだろーなぁ俺なら」

「うわ、マジで変態だこいつ」

「でも俺はサルバローデ様ぐらい年上の女性も好きだ。ラキさんダメですよー、オバハンなんて言っちゃいけませんぜ。お若いですよあの方。俺より十歳近く年上だけど」

「うわぁ、こいつほんとーにヤバイぜ……目が真剣すぎるぜ」

「どこか憂いのある若き未亡人って感じじゃん。好きだなあ、あのちょっと細めの目とか。きりっとしてて」

「ラキ、こいつ真性のアホだわ。死んでも直らないぜこの女好き」

 小声だが聞こえよがしに言うダヤンを見て、ラキシスは逆に呆れた。

「あらいやだ、あんた今ごろ気づいたの?」

 ダヤンはへっと気の抜けた声で笑い、言われてみりゃそっかー、と言って頭を掻いた。


 およそ二日かけての列車の旅。途中下車して宿に泊まり、また早朝から列車に乗って、ようやくノイエンディア駅に辿り着いた時は、夕方に近い時刻だった。

 ローデラントより北寄りの州だ。高地でもあり、気候はすでに冬に近い。涼しいというより肌寒かった。

「うわあ、あの子の着てるケープかっわいー。(ふち)とか襟のとこにファーがついてる。ミネルヴァには、あんな感じの服ってないよね」


 ミネルヴァというのはローデラントの首都の名だ。王宮があり、ラキシスの屋敷がある。

 ラキシスは駅前の街を行く人や周囲の建物を珍しそうに眺めた。服装のデザインや、建物の屋根や柱の造りが、どことなく母国とは違うものが多くて、おもしろい。

「ラキさん、俺ちょっと両替して来ますから。ルブラン小切手も使えるだろうけど、手数料がうざいし。やっぱ現地の金もってると便利だからね」

「んー、わかった」

 ラキシスの返事は上の空だ。街路を挟んでずらりと並ぶ店のウィンドウに見入っている。そうしていると国家の特命を負った人物には見えず、その辺の普通のかわいい娘っぽくて、レイジェルはくすっ、と笑った。

「なんなら服屋でも適当に覗いてて下さい。そんで気に入った上着とかあれば買えばいいし。おうダヤン、てめえがしっかりとお傍について護衛すんだぞ。わかってんだろうな」

「へいへい、りょーかい」

「んじゃ、ちょっくら行って来るぜ」

 言うとレイジェルは駅のすぐ横にある外貨両替所へ入っていった。

 ダヤンは上着のポケットから手袋を取り出し、はめる。風が冷たくて(かじか)みそうだ。

「どっか店入るか、ここ寒ィし」

「んー、でもいいや。その辺ぶらぶら歩いてみたいしなー」

「時間かかんぞ。両替屋、結構な行列だもん」

「まあいいじゃん。あ、そだ、泊まる所とかも決めないとね。街の案内所とかないのかな。駅の中かしら」

「あそこの緑の看板の店が、それっぽくね?」

 ダヤンが指差し、ラキシスはそうかも、と頷いて、緑色の看板を吊るした建物の方へ歩いていった。


 とりあえず当座に必要な分だけ旅行小切手(チェック・ド・ボヤージュ)を換金すると、レイジェルは小銭のせいで少し重たくなった黒革の財布を上着の胸ポケットに入れた。

 外に出ると、だいぶ日が沈んでいた。高地は日が暮れるのも早い。それでも人通りはまだ多かった。大きな街だし、夜はそれなりに賑わうのだろう。食堂からは何かを煮たり焼いたりする煙が香ばしく立ち上り、居酒屋の呼び込みの声も大きくなってきた。

 早いとこ宿を決めて、今夜はなんか、体の芯があったまるものを食べたいな。

 そう思いつつ歩道に向かって歩き出したところで、軽く誰かとぶつかった。


「あ、ごめんなさい」

 フード付のケープコートを着込んだ女の子だった。黒い巻き毛がふわりとフードの隙間から覗く。謝る声が怯えたようにか細くて、レイジェルは自然と頬をゆるめた。可愛いな。

「いえいえ、こちらこそ失敬、お嬢さん。どうぞ足元にお気をつけて」

「ありがとう、失礼しました」

 申し訳なさそうに何度も頭を下げる姿がまた可愛い。レイジェルは一歩脇に寄り、彼女のために道を開けてやる。

 少女が横道に入って行くのを見送ってから、レイジェルは歩き出した。

 いきなり目の前に眉を吊り上げたダヤンが立っていたので驚く。

「うわっ、びっくりした」

 本気で焦るレイジェルの肩を叩いてダヤンが言う。哀れみのこもった目と、声で。

「お前、かわいそうなぐらいアホだな……」

「なんだとコノヤロ、どつかれたいのか」

 まだ自分のアホさに気づいてないところが、ほんとうにアホだった。



 大通りから横道へ抜け、古い煉瓦(れんが)作りの建物の間を通って、裏通りに出る。早足で歩くケープコートの長い裾が、冷たい風に翻る。

 ぐっと人気(ひとけ)が少なくなり、川沿いに木立が続く寂しい道になる。かなり先に小さく見える橋を目指して急ぎ足で歩いていると、脇道から出てきた若い女と肩がぶつかった。

「あら、ごめんなさい」

「こちらこそ」

 金髪とも赤毛とも違う、明るいオレンジ色の髪が珍しかった。天気がいい日の夕暮れの雲に似ている。身なりのきれいな、いいとこのお嬢さん風な女。金持ってそうなカモだな、とつい考えてしまう。

 意識してこっちからぶつかったわけじゃないので、咄嗟に手が出せなかった。まあいいか、今日はもうけっこう稼いだし。

 そう考えて、ただお互いに頭を下げるだけですれ違う。

 後ろから不意に声がかかった。

「すごいわねー、これ全部あなたのお財布?」

 ぎくりとして、コートの内側を手探る。さっきまで確かにあった分厚いのが、無い。


「あぁ、でもこの黒いのはうちの(モン)の財布――ってか、元はと言えばあたしのお金だから返してもらうわね。他のは別にどうでもいいから、あなたに返すわ。取りに来れば?」

 しまったヤバイ逃げるべきだと頭では思うのだが、何故だか足は止まってしまった。

 今は他に誰もいない日暮れの川沿いの道。石畳をコツコツと、ヒールの高い女の靴音だけが響く。

 立ち尽くすケープコートの掏摸(スリ)の前に回り込んで、ラキシスは残りの財布を差し出した。色もとりどり、合計四つ。どれも結構中身が充実していそうだ。

「荒稼ぎしたわね。でもさっさと現ナマ抜いておかないと、危ないわよ」

フードの陰で掏摸の顔がカッと赤らむ。無言で、ひったくる勢いでラキシスの手から財布を奪い、上着の内側にしまう。

「お金のありそうな旅行者ばっか狙ってるみたいだからいいけどね。できれば財布はどっかの巡査か駐在さんが拾ってくれそうなとこに捨てておきなさいな。身分証とか、荷物の引取り証とか、家族の写真とか入ってるかもしれないし。そりゃ頼めば再発行はしてくれるけどさ、身分証やなんかは」

「なに、を」

 えらそうに。そう怒鳴りつけてやりたいが、声が出ない。

「いやーあたしも我ながらおせっかいだな、身内でもないのにお説教するいわれないわね、ばかみたいよね。そんじゃ、さよなら。せいぜい捕まらないように頑張んなさい」

 自分で言ってることにちょっと何様? と恥ずかしくなってきて、ラキシスはさっさと掏摸に背を向けた。

 でもあの子の腕があんまり大したものじゃなかったから。通りで見ていてすぐ意図に気づいてしまうぐらい、分かりやすい挙動不審だったから。それでこんな仕事を続けていたら、そのうち捕まって酷い目にあうんじゃないかしら。そう思ったら無意識に先回りして、柄にもなく声をかけてしまった。


「ちょっと……待てよ」

 少し掠れた小さい声で呼ばれて、ラキシスは振り向く。

「なに」

「なにって、お前……捕まえないの」

「誰を。あんたを?」

 聞いたらコクンと頷いた。その足元に黒く長い影が落ちている。細い身体だ。

「なんでよあたし警察じゃないし。捕まえる理由ないじゃない」

「じゃあ、通報するとか」

「されたいの?」

 ぶんぶん、と今度は首を横に振る。

「そんならいいじゃない。あたしはあたしのお金さえ取り戻せたら、他はいいもの」

 フードの陰で、大きく目を(みは)られた。青い目だった。夕闇に紛れて顔はもうあまり見えない。それでもラキシスはきれいな目だな、と良い印象を持った。どこかで見たことのある、深い湖みたいな色だと。



 財布を取り返して駅前通りに戻ったら、今にも首を吊りそうな情けない顔をしたレイジェルと、ニヤけた顔のダヤンが駆け寄ってきた。

「ラキさん、ごめん。まさかあの子がスリだなんてちっとも思わなくて」

 ラキシスはとん、とレイジェルの胸元を指先で叩く。

「あんたにお財布持たせてたらこのさき災難にあいそうね。だからお金はあたしとダヤンで管理します。はいこれダヤン、あんたの持ち分だから」

「ガッテン承知」

「ああっ、もうこんなドジ踏みません。でもあの子ちょっと可愛かったから、つい隙が」

 ラキシスはまるで懲りてないレイジェルをぎっと睨む。

「へええーそーお。可愛かったからなのぉ。両替所前で旅行者狙いのスリに合うなんてさ。あんた典型的な(カモ)じゃない? ばか!」

「すみませぇん……」

 返す言葉もなくしょげるレイジェルを見て、ダヤンはハッ、と鼻で笑った。

「こんなアホがオランジュ一門にいるなんて、ぶっちゃけ俺らの名折れだよなー」

「お前がえらそうに言うんじゃねえッ!」

 すかさずレイジェルに頬肉を(つま)まれておまけに力いっぱい引っ張られ、さんざん振り回されてダヤンはンガがぁッ、と蛙が潰れたみたいな声を出した。


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